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198,変わる世界

キューバ危機後これまでの秩序が少しずつ崩れていきます。

世界だけでなくアメリカそのものも変化していきます。

九月十日の夜、ハバナには雨が降っていた。


雨季の雨は長く続かない。その代わり、思い出したように強く窓を叩き、しばらくすると何事もなかったように弱まる。開け放した窓から湿った風が入り、机の端に積まれていた新聞の一枚を浮かせるたび、セリアが無言で文鎮を置き直していた。


カストロはその様子を二度ほど見たあと、三度目には新聞そのものを押さえた。


「それだけあるなら、明日にした方がいいんじゃないか。世界は一晩くらい待つだろう。」


「六月にも同じことを言いました。その結果、世界が三か月分ここにあります。」


セリアは答えながら、両腕に抱えてきた最後の束を机へ置いた。


向かい側に座っていたゲバラが笑い、冷めかけたコーヒーへ手を伸ばした。


「世界が待ってくれなかった証拠が、これだけ積んであるんだ。諦めろ。」


そこには外国新聞の切り抜き、通信社電、外務省から回ってきた報告、各国の演説要旨、在外公館から届いた電報の写しまでが混じっていた。


カストロがモスクワから戻って三か月。


その間にも世界は動いていた。


窓の外にはハバナ港の灯が見え、暗い海面の向こうにはソ連船の影があった。石油も機械も部品も、あの海を渡ってくる。六月の会議で確認した通り、キューバは以前よりさらに深く社会主義圏の経済へ組み込まれつつあった。


それでも、机の上の世界地図にはモスクワだけがあるわけではない。


セリアは最初の紙を抜き出した。


「六月十日。ケネディ大統領、ワシントンのアメリカン大学で演説。冷戦について従来より踏み込んだ内容です。ソ連を一方的に悪として扱わず、核戦争を避けるためには双方が相手への見方を改める必要がある、と。」


カストロが手を出した。


翻訳された演説要旨に目を通している間、ゲバラは椅子の背にもたれたまま煙草を指で回していた。


「リサが言っていた男には近いな。少なくとも、演説だけを聞けば。」


「演説だけならな。」


カストロは紙から目を離さずに答えた。


「政治家は、自分がこれからやることだけを演説するわけじゃない。やりたいことも、やったことにしたいことも、相手にそう思わせたいことも話す。」


「随分ひねくれた聞き方ですね。」


セリアが言うと、カストロは紙を置いた。


「フルシチョフに四十日も付き合えば、少しは上達する。」


ゲバラが笑ったが、セリアは次の資料をすでに抜いていた。


「では、これは六月二十六日。西ベルリンです。」


写真には、ベルリンの壁を背に演説するケネディが写っていた。


ソ連との共存を語った十六日後、今度は共産主義体制を正面から批判し、西ベルリンを守るアメリカの決意を宣言している。


ゲバラは二枚の紙を並べた。


「十六日前にはソ連人も同じ人間だと言い、今度は壁の前で自由世界の旗を振る。同じ男の演説には見えんな。」


「両方なんだろう。」


カストロの答えが早かったため、ゲバラが顔を上げた。


「どちらも本物だと言うのか。」


「そう考えた方が行動と合う。あいつはソ連と戦争をしたくない。だが、ベルリンを渡す気もない。どちらかが嘘なら簡単だが、十月の危機を見れば、むしろ両方をやろうとする男だと考えた方が分かりやすい。」


セリアが別の薄い報告書を机へ滑らせた。


「そして同じ六月、キューバへの工作は続いています。亡命者組織への支援、情報収集、経済圧力。直接侵攻の兆候はありませんが、こちらを弱らせる政策をやめた様子もありません。」


ゲバラが二枚の演説の上へ、その報告書を重ねた。


「これも両方か。」


「おそらくな。」


カストロは窓辺へ立ち、雨の向こうにある港を見た。


「ケネディは平和主義者になったわけじゃない。戦争をするか、何もしないか、その二つしかないと思っていないんだろう。」


振り返る。


「ピックス湾では最後にアメリカ軍を入れなかった。十月には空爆と放置の間に海上封鎖を入れた。今度はソ連とは話しながら、俺たちには工作を続けている。アイゼンハワーの時代にも秘密工作はあったし、軍事力を使い分けてもいた。だがケネディは、その間に置ける段をもっと増やそうとしているように見える。」


ゲバラは報告書の端を指で叩いた。


「戦争を避けるためか。」


「戦争をしなくても相手を動かせるようにするためかもしれない。」


「同じことじゃないな。」


「だから厄介なんだ。」


カストロがそう言うと、セリアは少し考えてから、一枚の写真を別の束から抜いた。


「厄介なのは、アメリカの外だけではありません。」


六月十一日。


アラバマ大学への黒人学生の入学をめぐる対立を受け、ケネディはテレビで公民権を道徳上の問題として語った。その夏、南部では対立が続き、八月二十八日にはワシントンへ黒人と白人が大規模に集まった。


写真にはリンカーン記念堂の前を埋める人々が写っていた。


カストロはそれを手に取った。


「リサが言っていた通りだな。」


「ケネディについて?」


「アメリカについてだ。」


カストロは写真をゲバラへ渡した。


「俺たちはアメリカを帝国として見る。それは間違っていない。だが帝国の中にいる人間が、全員帝国として考えているわけじゃない。」


ゲバラは写真をしばらく眺めた。


「それで帝国でなくなるわけでもない。」


「もちろんだ。」


「むしろ、そこが面倒なんじゃないか。」


ゲバラは写真を机へ戻した。


「自由という言葉が全部嘘なら、誰も信じない。アメリカには本当に自由を求めている人間がいて、その人間たちが自分たちの政府に自由を要求する。だから同じ言葉を、政府も国外で使える。」


セリアが椅子に腰を下ろした。


「つまり、自由は仮面なんですか。」


ゲバラは答える前にカストロを見た。


カストロが少し首を振った。


「仮面であるだけなら、こんなに強くない。」


「では?」


「顔でもあり、仮面でもあるんだろう。」


カストロは机の上に散らばったアメリカの資料を見た。


「アメリカ人が自由を信じていないとは思わない。ソ連人が平等を信じていないとも思わない。だから二つの帝国は厄介なんだ。昔の帝国なら、王のため、祖国のため、金のために植民地を取ると言えばよかった。今はもっと強いものを使える。人間が本当に信じたい理念だ。」


雨が強くなり、窓ガラスを叩いた。


二度の世界大戦を経て、かつて世界地図を塗り分けていたヨーロッパの帝国は力を失っていった。


イギリスもフランスも、十九世紀のように好きなだけ軍隊と総督を送り、広大な植民地を直接支配し続ける力を失った。アジアでもアフリカでも独立国が増え、植民地という言葉そのものが時代遅れになり始めていた。


だが、弱い国の運命を強い国が自分の都合で決める構造まで消えたわけではない。


むしろ世界の中心が二つへ絞られたことで、外から見える構図は以前より単純になった。


ワシントンか。


モスクワか。


資本主義か。


社会主義か。


どちら側にいるのか。


国が独立した後でさえ、最初に問われるのはしばしばそれだった。


ゲバラが世界地図へ近づき、ヨーロッパから指を南へ滑らせた。


「王冠が二つの思想に替わっただけか。」


「完全に同じではない。」


カストロが言った。


「だが、帝国の地図として見るなら似ている。軍事基地を置き、武器を渡し、市場を押さえ、都合のいい政府を支え、都合が悪ければ揺さぶる。昔は砲艦を港へ入れれば分かりやすかった。今は相手の国旗を残したままでもできる。」


「しかも、自由を守るため、革命を守るためと言える。」


「そういうことだ。」


セリアが地図のラテンアメリカを指した。


「中南米も?」


二人とも、そこでは迷わなかった。


「一番分かりやすい。」


カストロが答えた。


進歩のための同盟。


経済援助。


農地改革への圧力。


教育や住宅への資金。


ケネディ政権が中南米へ出している政策には、実際に貧困や格差を減らそうとする要素があった。


だが同時に、目的の一つが「第二のキューバ」を生まないことにあるのも隠されてはいなかった。


この七月にはエクアドルで軍が大統領を追放し、反共を掲げる軍事政権が成立した。ワシントンは民主的な憲政を支持すると言いながら、結局はその軍政を承認している。


ゲバラはエクアドルの報告を読み、苦笑した。


「農地改革をやれ、貧しい者を救え、選挙を守れと言いながら、選挙で都合の悪い方向へ行きそうになれば軍人とも付き合う。自由世界というのは便利だな。」


「単純に笑うな。」


カストロは言った。


「ケネディが軍政を好きだと決めつければ、また見誤る。あいつらはこの地域で革命が起きる理由を消したいんだ。俺たちのやったことを見て、貧困をそのままにすれば次が出ると分かった。」


「だから改革する。」


「改革させる。だが、その改革がアメリカの支配から外れるほど進むのは困る。」


ゲバラは地図のキューバを指先で軽く叩いた。


「結局、許される自立の範囲を帝国が決める。」


「そうだ。」


「それが俺には気に入らん。」


「俺にも気に入らん。」


カストロはそう答えたが、そのあとに続けた言葉は違った。


「だから利用する。」


ゲバラの指が止まった。


「何を。」


「向こうが掲げている理念をだ。」


カストロは自分の椅子へ戻った。


「アメリカが民族自決と自由を掲げるなら、それをキューバにも適用しろと言えばいい。ソ連が反植民地主義と民族解放を掲げるなら、キューバの判断をモスクワで決めるなと言えばいい。帝国が理念を使って国を縛るなら、こっちはその理念を逆に使って、縛れる範囲を狭くする。」


ゲバラはしばらく黙っていた。


「それでは、帝国が決めた言葉の中で自由を取り戻しているだけじゃないか。」


「明日から帝国を消せるなら、別の方法を教えてくれ。」


「そういう話をしているんじゃない。」


ゲバラは苛立ったわけではなかった。むしろ、自分が何に引っかかっているのかを探すように、机の上の鉛筆を手に取った。


「お前が言っていることは分かる。キューバという国を生かすなら、モスクワにもワシントンにも、その帝国が自分で掲げた言葉を守らせればいい。それで一つでも選択肢が増えるなら使うべきだ。」


鉛筆の先を世界地図の中央へ置く。


「だが俺には、そこで終わると、結局は強い国が弱い国にどこまで自由を許すかという構図が残るように見える。権利は、帝国に認めてもらうものじゃない。キューバ人にあるなら、ベトナム人にも、コンゴ人にも、グアテマラの農民にもあるはずだ。」


カストロは少し笑った。


「俺だってそう思っている。」


「お前はそこからキューバへ戻る。」


「首相だからな。」


ゲバラも笑った。


「俺は戻る前に、ほかの国が気になる。」


「医者の悪い癖だ。一人診れば、隣の患者まで診たくなる。」


「お前は一人を診ながら、病院の会計を気にする。」


「国という病院は金がかかる。」


セリアが二人を見比べた。


「つまり、意見が違うんですか。」


カストロは少し考えた。


「まだ違わない。」


ゲバラも否定しなかった。


「見ている距離が違うだけだろう。」


その言葉の先に何があるのか、この夜には誰も決めなかった。



※※※※※※※※※※



セリアが次に取り出した写真には、炎が写っていた。


六月十一日、サイゴン。


一人の仏教僧が路上に座り、自らに火を放った。


南ベトナムのゴ・ディン・ジエム政権による仏教徒への扱いに抗議した焼身は世界中へ伝わり、その後も政権と仏教徒の対立は収まらなかった。八月には寺院への大規模な襲撃が行われ、逮捕者が出て、戒厳令まで敷かれている。


セリアは写真を伏せようとしたが、ゲバラが手を伸ばして止めた。


「そのままでいい。」


しばらく誰も話さなかった。


ゲバラが最初に口を開いた。


「アメリカが守っている政府だな。」


「南ベトナム政府は反共ですから。」


セリアが資料を確認した。


「アメリカは軍事顧問と資金を大量に入れています。ただ、八月の寺院襲撃以降、ワシントン内部ではジエムをこのまま支えるべきか、かなり揉めています。」


カストロが顔を上げた。


「それも面白い。」


「味方を切るかもしれないことが?」


「帝国にとっての味方とは何かが見える。」


カストロは写真には触れず、南ベトナムの位置を地図で見た。


「ジエムが反共だから、アメリカは支えてきた。だが反共であることだけでは足りなくなった。政権が不安定になり、アメリカの戦略そのものを危なくするなら、今度はその政権が問題になる。」


ゲバラが五月の車内で聞いた言葉を思い出したように言った。


「必要なら抱き、必要がなくなれば離す。」


カストロも思い出した。


「リサのフルシチョフ評か。」


「ワシントンにも使えるらしい。」


カストロは否定しなかった。


セリアは南ベトナムの北側を指した。


「では、北ベトナムはどう見ます?」


そこにはホー・チ・ミンの政府があった。


フランス植民地支配との長い戦争を経て独立を勝ち取りながら、国は南北に分断されたままになっている。北は社会主義を掲げ、モスクワと北京の両方から援助を受けていたが、どちらか一方の従属国になることを望んでいるようには見えなかった。


ゲバラの表情が変わった。


「俺たちに近い。」


カストロはすぐには同意しなかった。


「似ているところはある。」


「帝国に植民地化され、自分たちで戦って追い出した。その後、別の大国が南側へ入り込んでいる。北はモスクワと北京の両方から援助を取るが、どちらのものにもなりたくない。」


「だから似ているところはあると言った。」


カストロは地図の距離を指で測った。


「だが、キューバと同じにするな。あそこには中国が隣にいる。国そのものが二つに割れている。フランスとの戦争も長かった。南ではもう戦争が続いている。アメリカにとっても、九十マイル先の島とは違う。」


ゲバラは写真から目を離さなかった。


「それでも、次に帝国がどこまで行くかを見る場所になる。」


「かもしれない。」


「慎重だな。」


「十月を経験したからな。」


ゲバラはそこで初めてカストロを見る。


「俺は逆だ。十月を経験したから、早く見える。」


「何が。」


「一つの国が帝国の都合で戦場にされる時、そこで止まるとは思わない方がいいということだ。」


カストロは反論しなかった。


ただ、その言葉をそのまま政策にはしなかった。


それが、この頃の二人の距離だった。


ゲバラは地図の上で国境を越えて考える。


カストロは同じ地図を見ながら、まず国境の内側で生きている人間の数を考える。


どちらも、片方をまだ間違いだとは思っていなかった。


※※※※※※※※※※


「次は八月五日。」


セリアが一枚の文書を出した。


モスクワで、アメリカ、ソ連、イギリスが部分的核実験禁止条約へ署名した。


大気圏。


宇宙空間。


水中。


そこでの核実験を禁止する。


地下実験は残る。


カストロは条約要旨を最後まで読んでから、机へ戻した。


「これは評価する。」


ゲバラが少し意外そうに彼を見る。


「ずいぶん簡単だな。」


「十月に、核兵器が政治家の机の上でどういうものになるかを見た。空で爆発させる核兵器が一つでも減るなら、悪いことだとは言わん。」


「俺も悪いとは言ってない。」


ゲバラは条文を手に取った。


「ただ、地下は残る。持っている爆弾も捨てない。アメリカもソ連も、必要なら地下で開発を続けられる。」


セリアが別紙を見た。


「中国はかなり強く反発しています。すでに核を持った国が優位を固定する条約だ、と。」


ゲバラが紙を置いた。


「そこだ。」


カストロは眉を寄せた。


「中国の言い分を全部買うのか。」


「全部じゃない。だが、十分試して、十分持った三つの国が、その後で世界に実験をやめようと言えば、まだ持っていない側から見れば綺麗事に聞こえるのは当然だろう。」


「条約には、アメリカとソ連とイギリスだけが核を持っていいとは書いてない。」


「書く必要がない。先に持っている。」


セリアは二人の間に視線を動かした。


「では、平和のための条約ではないんですか。」


「平和のためだ。」


カストロが答えた。


ほとんど同時にゲバラも言った。


「平和のためでもある。」


二人とも少し黙り、それからゲバラが苦笑した。


「そこは一致するらしい。」


カストロは椅子へ腰を下ろした。


「問題は、一つの政策に目的が一つしかないと思うことだ。ケネディが核戦争を恐れているのは本当だろう。十月に、自分の国も家族も一日でなくなる場所まで行った。フルシチョフも同じだ。」


「中国に追いつかせたくないのも本当かもしれない。」


「そうだろう。」


「アメリカの核優位を残したいのも?」


「大統領なら考える。」


セリアが書類を揃えながら、少し困った顔をした。


「それでは、ケネディが純粋なのか策士なのか、ますます分かりません。」


ゲバラが笑った。


「俺は策士に一票だ。」


「ずいぶん簡単に決めるな。」


カストロが言った。


「では、お前は純粋だと思うのか。」


「どうしてどちらかでなければならない。」


カストロはアメリカン大学の演説をもう一度取った。


「核戦争を止めたいと思うことと、アメリカの力を守りたいと思うことは矛盾しない。平和を欲しがりながら、その平和の形を自分に有利に作ろうとすることもできる。」


ゲバラは少し考えた。


「正義をやりながら、帝国もやる。」


「そういうことになる。」


「便利な男だ。」


「政治家というのは、たいてい便利にできている。」


「自分も含めてか。」


カストロは答える代わりに葉巻へ火をつけた。


セリアが笑った。


しかしゲバラはまだ条約を見ていた。


「俺が嫌なのは、平和そのものじゃない。持っている者が、自分たちの持っているものを前提にして平和の規則を作ることだ。その規則に従えば、人類のために行動したことになる。だが、力の差は残る。」


カストロは煙を吐きながら頷いた。


「分かる。」


「キューバ危機も同じだった。世界を救ったのは米ソだという話になる。だが、ミサイルが置かれていた島の政府は、最後の取引に呼ばれもしなかった。」


「だから忘れない。」


「俺は、そういう平和を完成形だと思いたくない。」


カストロは少し間を置いた。


「俺も完成形だとは思わん。だが途中に使えるものを、完成形でないから捨てる気もない。」


ゲバラはカストロを見た。


そこに、六月の車内でまだ名前のつかなかった違いが、わずかに形を持ち始めていた。


カストロは、帝国の作った秩序の中でも民族が自分の選択を増やせるなら、その隙間を使おうとする。


ゲバラは、その隙間を広げるだけでは、いつまでも帝国の方が世界の規則を作ることになると考える。


一方は民族自決を守るため、帝国が掲げるイデオロギーさえ交渉材料に変えようとしていた。


もう一方は、民族自決を帝国との交渉によって認めてもらわなければならない構造そのものに、すでに耐え難い不公平を見始めていた。


それでもこの夜、二人はまだ同じ側に座っていた。


※※※※※※※※※※


時計は十一時を回っていた。


セリアがようやく最後の束へ手を伸ばし、その中から薄い雑誌を一冊取り出した。


「これで終わりです。」


ゲバラがあくびを押し殺した。


「三か月の世界がずいぶん薄くなったな。」


「捨てたわけじゃありません。行き先を決めただけです。」


セリアは雑誌をカストロの前へ置いた。


英語の表題。


『Castro's Overture』。


カストロが手を止めた。


「誰だ。」


「リサ・ハワード。」


ゲバラが身体を起こした。


「まだやっていたのか、あの女。」


春にハバナへ来たABCの記者は、四月の長い取材と密談をもとに、カストロがアメリカとの関係改善に関心を持っているという記事をアメリカで発表していた。


バジェホへつながる番号は渡した。


だが、あれから何かが返ってきたわけではない。


カストロがモスクワを回っていた間も、六月も、七月も、八月も、ハバナ側から見える線は沈黙したままだった。


カストロは記事をゆっくり読み始めた。


ゲバラが横から覗く。


「随分はっきり書いたな。お前がアメリカと話したがっているように読める。」


「間違いではない。」


「ずいぶん素直になったじゃないか。」


「話したいことと、向こうの条件を呑むことは別だ。」


セリアが書類の中から予定表を取り出した。


「国連総会が来週始まります。十七日です。ニューヨークには各国の代表団が集まり始めています。」


カストロが記事から目を上げた。


「レチューガも行くな。」


カルロス・レチューガは、国連でキューバを代表する外交官だった。政府の公式な立場をニューヨークで語る役目を持つ一方、アメリカ側の人間と同じ建物の中を歩く数少ないキューバ人でもある。


「ええ。準備は進んでいます。」


カストロは窓の外へ目をやった。


雨はもう止んでいた。


港のソ連船の灯が、濡れた窓にぼんやり映っている。


モスクワとの線なら見える。


船が来る。


石油が降りる。


機械が降りる。


数字にできる。


それに比べ、アメリカへの線は春から一本の電話番号のままだった。


ゲバラがリサの記事を指で叩いた。


「向こうへ石を投げたつもりか。」


「石じゃない。」


「では?」


カストロは少し考えた。


「水面を叩いたんだろう。誰かが波を見るかどうか試してる。」


「見ると思うか。」


「国連が始まれば、ニューヨークには外交官も記者も政府の人間も集まる。あの女は春から一人で騒いでいるんだ。今度は記事まで出した。」


カストロは予定表の日付を見た。


九月十日。


「もし向こう側に、俺たちと同じように入口を探している人間がいるなら、今週は悪くない。」


セリアが訊いた。


「電話が鳴ると思います?」


「こっちの電話とは限らん。」


ゲバラが笑った。


「また勘か。」


「リサに習った。」


「革命家が記者の勘を覚えたら終わりだな。」


「二日か三日もすれば分かる。」


「随分具体的だ。」


「国連は待ってくれん。あの女も待つのが得意には見えなかった。」


カストロは雑誌を閉じ、他のアメリカ関係の資料へ重ねようとして、途中でやめた。


「これはここに置いておけ。」


セリアがカストロの机の端へ置き直した。


外の海には、社会主義を掲げる帝国から来た船の灯があった。


机の上には、資本主義を掲げるもう一つの帝国へ投げられた、一人の記者の記事がある。


その二つの間で、キューバはまだ自分の立つ場所を探していた。



※※※※※※※※※※



二日後。


九月十二日、ニューヨーク。


リサ・ハワードの机にも、同じ雑誌が置かれていた。


四月にハバナから帰って以来、彼女は何度もカストロとの会話を説明し、ワシントンへその意味を伝えようとしてきた。大統領へ直接届くほどの線にはならず、それでも諦めず、ついには自分の記事として公に出した。


電話が鳴った。


リサは書きかけの紙から顔を上げ、受話器を取った。


「ハワードです。」


男は、自分の名前を名乗った。


ウィリアム・アットウッド。


かつて雑誌『Look』の編集者・記者として世界各地を取材し、ケネディ政権ではアフリカのギニア駐在大使を務めたあと、八月末に国連アメリカ代表部へ加わったばかりの外交官だった。ジャーナリストだった一九五九年には、革命直後のカストロ本人とも長く話したことがある。


そして、九月の第一週にリサの記事を読んでいた。


受話器の向こうで、アットウッドが言った。


「リサ。君のカストロの記事を読んだんだが、少し話せないか。」

世界はうねるようにかわっていきます。

運命の日まであとわずか。


更新は、水・金・日の夜です。

次回は日曜日の夜更新予定です。


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