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197,帝国のあいだ

モスクワ訪問。

カストロは大歓迎とそして屈辱を味わいます。

六月四日、ハバナの空は、雨季に入ったばかりとは思えないほど明るかった。


飛行機の扉が開き、カストロが姿を見せると、空港を埋めた歓声が一段高くなった。


四月二十七日に島を出てから、ほぼ四十日。


ムルマンスクからモスクワへ入り、赤の広場のレーニン廟に立ち、ウズベキスタンでは農場を見て、シベリアでは巨大な発電所を見上げ、レニングラードやキエフを回った。ソ連邦英雄の称号まで与えられ、どの街へ行っても群衆が待っていた。


そして今度は、自分の国の群衆が待っていた。


赤旗とキューバ国旗が混じり、人々が手を振っている。


カストロも手を上げた。


ソ連人民の歓迎は素晴らしかったと語り、工場や農場で見たものを話し、科学と技術の成果を褒め、キューバとソ連の友情を称えた。


どれも嘘ではなかった。


ソ連の労働者が自分を見て笑った顔も、寒い駅で待っていた人々の声も、トラクターを説明してくれた農民の熱心さも本物だった。キューバが必要としていた機械も石油も技術も、モスクワは出すと言った。


革命後の島にとって、それは善意という言葉だけでは足りないほど大きな意味を持っていた。


だからこそ、厄介だった。


歓迎を受けるカストロの隣で、ゲバラはいつもの軍服姿のまま群衆を眺め、少し離れたところには弟のラウルがいた。革命軍を率いる国防の責任者となったラウルにとって、ソ連から届く武器や部品は理念ではなく、実際に島を守るための数字だった。


三人とも笑った。


少なくとも、空港にいる間は。


※※※※※※※※※※


車列が空港を離れてしばらくしても、道路沿いには人が残っていた。


窓の外を赤と青と白の旗が流れていく。


後部座席にカストロとゲバラが座り、向かいにラウルがいた。警護の車は前後にあるが、この車内で話していることを聞く人間はほかにいなかった。


ゲバラが先に口を開いた。


「大した英雄になったもんだな。」


カストロは胸元を見た。


「ソ連邦英雄だぞ。」


「お前に勲章というのが似合わん。」


ラウルが言った。


「俺もそう思う。」


「返してくればよかったのに。」


「もったいないだろ。」


三人が笑った。


窓の外で少年が車を追いかけ、キューバ国旗を振っている。カストロは手を上げて応え、少年が遠ざかるまで見送った。


ゲバラは、その横顔をしばらく見ていた。


「それで。」


カストロが振り向く。


「何だ。」


「本当の土産は?」


笑みが消えた。


ラウルも姿勢を変えた。


カストロは窓の外へもう一度目をやり、人家が少なくなったのを確かめるようにしてから口を開いた。


「五月四日、ザヴィドヴォでフルシチョフに文書を読ませてもらった。」


ゲバラは黙っている。


「危機の時、モスクワとワシントンの間でやり取りされた秘密文書だ。ドブルイニン、ラスク、フルシチョフ、ケネディ。向こうはかなり残している。」


「それで?」


「トルコのジュピターが出てきた。」


ラウルの眉が動いた。


「トルコ?」


「イタリアもだ。俺たちの島からソ連のミサイルを引き揚げる話と、アメリカがトルコとイタリアからジュピターを撤去する話が、同じ秘密のやり取りの中にあった。」


ゲバラの表情から、わずかに残っていた冗談の気配が消えた。


「お前は知らなかった?」


「知らなかった。」


「危機の時も?」


「聞かされていない。」


「フルシチョフは何と言った。」


カストロは鼻で笑った。


「その部分をもう一度読んでくれと言ったら、笑ったよ。あの笑い方でな。」


ゲバラはしばらく何も言わなかった。


ラウルが低い声で訊いた。


「つまり、俺たちのミサイルを引く代わりに、アメリカはトルコのミサイルを引いた。」


「それだけが理由だったとまでは言わん。アメリカがキューバへ侵攻しないという約束も取った。戦争を避ける必要もあった。俺だって十月に世界がどこまで行ったかは分かっている。」


カストロはそこで一度言葉を切った。


「だが、俺たちはカードだった。」


車内にはエンジンの音だけが残った。


窓の外では、まだ時折、ソ連国旗を持った人間が手を振っている。


ゲバラがその旗を目で追った。


「面白いな。」


「何がだ。」


「皇帝はいなくなったのに、帝国は残った。」


ラウルがゲバラを見る。


「ソ連を帝国と呼ぶのか。」


「何か問題があるか。」


「俺たちは社会主義者だ。」


「だから?」


ゲバラの声には怒りより、考えを確かめようとする響きがあった。


「皇帝がいなければ帝国じゃないのか。王冠がなければ帝国じゃないのか。ロンドンやパリが植民地へ総督を送っていた頃と同じ形をしていなければ、帝国ではなくなるのか。」


ラウルは答えなかった。


カストロが口を挟んだ。


「昔はもっと分かりやすかった。」


二人が見る。


「王がいる。艦隊がいる。兵隊を送り、土地を取って、自分たちの旗を立てる。スペインがこの島でやったことだ。」


「アメリカも似たことをやった。」


ゲバラが言った。


「少し上手になっただけだ。」


カストロは頷いた。


「二度の戦争でヨーロッパが力を使い果たした。イギリスもフランスも帝国を維持できなくなって、植民地は次々に独立した。世界は帝国の時代が終わったと思った。」


「終わってない。」


「形が変わっただけだ。」


ラウルが窓の外から目を戻した。


「アメリカとソ連か。」


「ああ。」


カストロは背もたれへ身体を預けた。


「昔は帝国がいくつもあった。それぞれ艦隊を持ち、植民地を持って競争していた。いまは大きな盟主が二つになった。ある意味では、昔より簡単だ。」


「資本主義と社会主義。」


ラウルが言った。


カストロは首を振った。


「それが旗だ。」


ラウルが見る。


「旗?」


「人間には、その方が分かりやすい。自由世界と社会主義世界。資本主義と共産主義。ワシントンもモスクワも、自分たちが何を守っているのかをそう説明する。」


ゲバラが続けた。


「だが、その旗の下には軍隊がある。基地がある。諜報機関がある。援助がある。市場がある。政権を守ったり、倒したりする工作もある。」


「昔は大砲を港へ向ければよかった。」


カストロが言った。


「今は、向けていないように見せる方法が増えた。」


誰もすぐには口を開かなかった。


資本主義と社会主義の違いが偽物だと言っているわけではなかった。


三人とも、そんなことは思っていない。


土地を誰のものとするか。


工場を誰が所有するか。


教育や医療を誰の権利と考えるか。


社会主義を選んだことは、キューバ自身の選択だった。


だが、帝国が自らを正当化する時、その理念は別の働きもする。


アメリカは自由を守ると言って、自分たちに都合のいい政府を守ることができる。


ソ連は社会主義を守ると言って、自分たちに都合のいい国際秩序を守ることができる。


どちらも、自分では帝国だと思わなくて済む。


そして世界の人間も、目の前で起きていることを帝国同士の勢力争いではなく、二つの思想の巨大な戦争として見るようになる。


「フルシチョフは嘘をついていたのか。」


ラウルが訊いた。


カストロは考えた。


「全部が嘘だったわけじゃない。」


「なら?」


「そこが厄介なんだ。」


カストロは窓の外の旗を指した。


「ソ連は俺たちを守った。それは本当だ。武器を出した。石油を出した。アメリカが侵攻すれば戦争になると見せた。それも本当だ。」


ゲバラが言う。


「同時に、俺たちをトルコのカードにした。」


「ああ。」


「帝国だな。」


「そういうことだ。」


ラウルは腕を組んだ。


「それなら、アメリカはもっと分かりやすい。禁輸して、ピックス湾をやって、今も亡命者を使っている。」


「だからと言って、アメリカが帝国でソ連が味方、という話でもない。」


カストロは言った。


「逆も違う。キューバにとって、どちらも帝国だ。」


ラウルが少し顔をしかめた。


「敵も味方もないと言うのか。」


「帝国に敵味方を求めるなと言っている。」


カストロは静かに答えた。


「今日、こちらに武器をくれる帝国と、今日、こちらを潰そうとしている帝国がある。それは同じじゃない。だが、どちらも自分たちの都合で世界を配置する。」


ゲバラが小さく頷いた。


カストロは続けた。


「俺たちは社会主義者だ。それはモスクワに命じられたからじゃない。俺たちが選んだ。だから社会主義の旗を降ろす必要はない。」


「だが旗の持ち主までモスクワにする必要はない。」


ゲバラが言った。


カストロが笑った。


「そうだ。」


※※※※※※※※※※


車が市街地へ近づくにつれ、カストロは別の話を始めた。


「バジェホには何か来たか。」


ゲバラが首を振った。


「まだだ。」


ラウルは二人を見た。


「リサ・ハワードか。」


「正確には、その向こうだ。」


カストロが答えた。


レネ・バジェホは、革命戦争以来カストロの近くで働いてきた医師であり側近だった。外務省にも軍にも属さず、それでいて必要な話なら直接カストロへ持ってこられる。その曖昧な位置を使い、リサがアメリカへ帰る前、連絡先を渡してあった。


だが、カストロがソ連を回っている間、ワシントンから政治的な返事はまだ届いていなかった。


「お前は本当にケネディが返してくると思っているのか。」


ラウルが訊く。


「分からん。」


「リサの勘だけだぞ。」


「分かっている。」


「なら、ずいぶん細い線だ。」


カストロは笑った。


「切れているよりいい。」


ゲバラが窓の外を見たまま言った。


「さっきの話と同じだな。」


「何が。」


「帝国の中身だ。」


カストロはゲバラを見る。


「リサが言っただろう。ケネディとアメリカ全部を同じものとして見るな、と。」


「だから大学で使った。」


「俺はアメリカと仲直りしようという話だと思っていた。」


ラウルが言うと、ゲバラが首を振った。


「違う。」


「何が。」


「フィデルが探してるのは、アメリカそのものとの和解じゃない。」


ゲバラは一度カストロを見た。


「帝国の中で、その帝国を少しでも動かせる人間だ。」


カストロは否定しなかった。


アメリカという言葉一つの中に、大統領も軍もCIAも議会も企業も亡命者も黒人の学生もニューヨークの記者も入っている。


一つの思想。


一つの意思。


一人の巨人。


そう考えた方が簡単だった。


だが実際の国家は、そんなに簡単には動かない。


キューバ危機の十三日間がそれを証明していた。


ケネディが大統領だったからといって、軍人の考えを消せたわけではない。CIAのすべてを一つの手で握れたわけでもない。


そして、それはカストロ自身にも当てはまった。


「リサの言う通りなら、ケネディも帝国の中にいる。」


カストロが言った。


ラウルが笑う。


「大統領が?」


「大統領だから帝国そのものだと思う方がおかしい。」


「でも頂点だ。」


「頂点にいても、全部を好きに動かせるわけじゃない。」


ゲバラが口元を緩めた。


「似ていると言われたのを気にしてるな。」


カストロが睨んだ。


「それは認めん。」


ラウルが笑った。


カストロも少し笑い、それから真顔に戻った。


「だが、リサから聞いたケネディが本物なら、話す価値はある。」


「資本主義と?」


ラウルがわざと訊いた。


「違う。」


カストロは即座に答えた。


「アメリカという帝国の内側にいる一人の政治家とだ。」


ゲバラが頷く。


「それなら分かる。」


「モスクワとも同じだ。」


カストロは続けた。


「俺は社会主義と交渉してきたわけじゃない。フルシチョフと交渉してきた。あの男が何を守りたいのかを見て、こちらが何を取れるか考えた。」


ラウルが訊いた。


「それで結論は?」


「モスクワとは、今まで通りやる。」


「一本足のまま?」


「表ではな。」


ゲバラの目が動いた。


カストロは言った。


「石油も武器も機械も、いま切れるものはない。むしろモスクワには、キューバが社会主義陣営から離れる気はないと分からせた方がいい。」


「実際、離れる気はない。」


ラウルが言った。


「そうだ。」


カストロは頷いた。


「だから芝居じゃない。ただ、社会主義者であることと、ソ連の持ち物になることは同じじゃない。」


ゲバラが窓の外へ目を戻した。


「アメリカの線は、二本目の足にもならんな。」


「まだ糸だ。」


「返事すらない。」


「ああ。」


カストロはそれでも気にした様子を見せなかった。


「糸でいい。切るな。」


ゲバラが訊く。


「モスクワには離れないと思わせる。ワシントンには?」


カストロは少し考えた。


「話せない相手ではないと思わせる。」


「それで俺たちは?」


今度はゲバラが訊いた。


カストロは窓の向こうに広がり始めたハバナの街を見た。


「どちらにも、自分たちのものだと思わせない。」


ラウルが鼻で笑った。


「簡単に言う。」


「難しいから、お前たちに話してるんだ。」


※※※※※※※※※※


午後には、革命政府中枢の会議が開かれた。


ここでは車内とは人数も言葉も違った。


カストロとゲバラ、ラウルのほかに、オスバルド・ドルティコスがいる。革命後のキューバ共和国大統領として、首相カストロとは別に国家の公式な顔を担ってきた法律家だった。


その隣にはカルロス・ラファエル・ロドリゲスが座っていた。シエラ・マエストラから革命へ入ったゲバラたちとは違い、革命以前からキューバ共産主義運動の中にいた知識人で、いまでは経済政策と社会主義諸国との関係を現実の制度へ落とし込む役割を担っている。


秘書のセリアは、カストロの横で訪ソ中に積み上がった書類を整理していた。


机の上にはモスクワから持ち帰った成果が並んでいた。


砂糖。


石油。


農業機械。


工業設備。


技術者。


軍事援助。


カストロは一つずつ説明した。


「農業機械については、こちらの要求以上の話になった。サトウキビ収穫の機械化についても向こうは本気だ。専門家の養成も受け入れる。」


カルロス・ラファエルが資料へ目を落とした。


「砂糖も条件が改善されます。外貨を使わずに石油と機械を確保できるなら、当面の経済運営には大きい。」


ゲバラも頷いた。


「工業化には助かる。少なくとも、設備なしで工場を作れと言われずに済む。」


「軍の方も同じだ。」


ラウルが言った。


「防空、部品、訓練。アメリカが九十マイル先にある以上、切れる話じゃない。」


カストロは全員を見た。


「訪問は成功だった。」


その言葉には誰も異論を挟まなかった。


「だが、一つだけ全員で共有しておきたい。」


セリアの手が止まった。


「ここにいる人間まで?」


情報の範囲を確認する質問だった。


カストロは一度全員を見回した。


「ああ。ここまでだ。」


セリアが頷いた。


カストロは、五月四日に読んだ秘密文書について話した。


長くは説明しなかった。


危機の最中、米ソが直接交わしていた秘密通信。


キューバに置かれたソ連ミサイルの撤去。


トルコとイタリアに置かれたアメリカのジュピターミサイル。


キューバには知らされなかった交渉。


話し終えた時、最初に口を開いたのはドルティコスだった。


「つまり、我々の安全保障について、我々抜きで交渉した。」


「そうだ。」


「フルシチョフは、それをあなたに説明した?」


「自分から教えたかったわけではないと思う。」


カストロは苦笑した。


「だが文書には残っていた。」


カルロス・ラファエルはしばらく黙っていた。


「公表しますか。」


ドルティコスが訊いた。


「しない。」


カストロの答えは早かった。


「理由は?」


「公表して何を得る。」


誰も答えなかった。


「ソ連を困らせる。アメリカは喜ぶ。国内では、昨日まで守ってくれたと思っていた国に売られたのかという話になる。それで石油が増えるわけでも、島が安全になるわけでもない。」


「では、なかったことにする?」


ドルティコスが問う。


「それも違う。」


カストロは指で机を軽く叩いた。


「覚えておく。」


カルロス・ラファエルが静かに言った。


「問題は、ソ連を信用できるかどうかではないのでしょう。」


カストロが彼を見る。


「続けろ。」


「我々が現在、どれほどソ連を必要としているかです。必要である以上、信用の程度とは別に関係を維持するしかない。」


「そうだ。」


ゲバラが口を挟んだ。


「屈辱で工場は動かん。」


カストロが頷いた。


「怒りで石油も出ない。」


ラウルが言う。


「防空ミサイルもな。」


少しだけ笑いが起きた。


その程度の笑いができるようになったこと自体、危機から半年以上が過ぎたということだった。


カストロは椅子へ座り直した。


「だから現状は変えない。ソ連との経済関係を強くする。軍事協力も続ける。国民には、今回の訪問で得た成果をそのまま話す。」


ドルティコスが確認する。


「ソ連との友情も?」


「ああ。」


「嘘ではない、と。」


「嘘じゃない。」


カストロは答えた。


「俺はソ連という国家のやり方に腹を立てている。だが、ムルマンスクで俺を待っていた人間まで疑う必要はない。国家と人間を一枚の紙にするな。」


ゲバラが少し笑った。


「リサに教わったか。」


「うるさい。」


今度はドルティコスまで笑った。


だが、カストロはすぐに真顔へ戻った。


「もう一つある。」


部屋が静かになる。


「国家は、自分が掲げている理念だけで動くわけじゃない。」


カルロス・ラファエルが目を上げた。


「ソ連も、という意味ですか。」


「アメリカもだ。」


カストロは答えた。


「資本主義国が資本だけで動くわけじゃない。社会主義国が平等だけで動くわけでもない。国家には軍があり、安全保障があり、恐怖があり、威信がある。大きな国なら、もっとある。」


ゲバラは机の上の鉛筆を指で転がしていた。


「昔の帝国と同じだな。」


ドルティコスが彼を見る。


カストロは止めなかった。


ゲバラは続けた。


「昔は王冠や植民地という名前があった。今は自由世界とか社会主義陣営とか、別の名前がある。」


カルロス・ラファエルが少し慎重な顔をした。


「アメリカとソ連を同じものとして扱うのは、正確ではないでしょう。」


「同じ思想だとは言っていない。」


ゲバラは答えた。


「構造の話だ。」


カストロが引き取った。


「二度の戦争でヨーロッパの帝国が疲れ果てた。植民地は独立し始めた。それで帝国主義が終わったように見えた。だが、世界を自分たちの安全や利益のために配置する力そのものは消えていない。」


ドルティコスが黙って聞いている。


「昔より盟主が減っただけだ。」


カストロは続けた。


「ワシントンとモスクワ。人間はそれを資本主義と社会主義の戦いとして見る。もちろん、その対立は本物だ。だが、その言葉の下で基地を置き、武器を渡し、政府を支え、政府を倒し、国を自分の側へ縛ることもできる。」


カルロス・ラファエルはすぐには反論しなかった。


「なら、我々はどちら側なのです。」


その問いに、カストロは迷わなかった。


「社会主義だ。」


部屋の空気が少し緩んだ。


「そこは曖昧にする必要はない。土地も学校も工場も、この国をどう作るかについて俺たちは選んだ。」


そして一拍置いた。


「だが、社会主義を選ぶことと、ソ連帝国の一部になることは同じではない。」


今度は誰も笑わなかった。


ゲバラが鉛筆を止めた。


ラウルも黙っている。


カストロは続けた。


「アメリカも同じだ。今日のアメリカ政府は我々の敵だ。禁輸している。工作も続いている。だからソ連と同じ扱いをしろと言っているんじゃない。」


カルロス・ラファエルが頷いた。


「しかし帝国として見れば、どちらもキューバを自分の配置の中へ入れようとする。」


「そうだ。」


「敵味方ではなく?」


カストロは少し考えた。


「帝国に、本当の意味での敵味方はない。」


全員が彼を見る。


「今日は利益が一致する。明日はずれる。ソ連は今日、我々を守る。アメリカは今日、我々を潰そうとしている。だから今日の政策は違う。」


カストロは机上のソ連との協定書に手を置いた。


「だが、どちらにもキューバの生存を決める権利は渡さない。」


ゲバラが小さく言った。


「なら問題は、どちらの陣営にいるかだけじゃないな。」


カストロが見る。


「何だ。」


「小さい国が、いつまで大きい国の都合で生き方を決められるかだ。」


部屋が静かになった。


ゲバラ自身、その言葉の先に何があるのか、まだ完全には分かっていなかった。


アジア。


アフリカ。


ラテンアメリカ。


植民地から独立しても、軍事力と市場と援助の網の中で、新しい中心へ結び直される国々。


旗が独立しても、選択まで独立したとは限らない。


カストロは少し考えてから答えた。


「だから、まずこの島を生かす。」


ゲバラが彼を見る。


「まず?」


「ああ。まずだ。」


二人はそれ以上、その言葉について話さなかった。


この時には、まだ同じ結論だった。


石油を確保する。


砂糖を売る。


軍を整える。


工場を動かす。


革命を守る。


そのためにソ連との関係は維持する。


少なくとも、当面は。


「では、その方針で進めましょう。」


ドルティコスが言った。


会議は、驚くほど穏当な結論へ戻った。



※※※※※※※※※※



会議が終わり、人が一人ずつ部屋を出ていった。


ドルティコス。


カルロス・ラファエル。


ラウル。


最後に残ったゲバラが、机の端に置かれていたソ連の資料を持ち上げた。


「見事な一本足だ。」


石油。


砂糖。


工場。


機械。


武器。


どの紙を開いてもモスクワにつながる。


カストロは苦笑した。


「太いだろ。」


「太い。」


ゲバラは資料を戻した。


「だから折れた時はひどい。」


「折らせない。」


「二本目は?」


カストロは机の電話を見た。


何も鳴らない。


「まだ糸だ。」


ゲバラも電話を見る。


「リサからも?」


「バジェホには何もない。」


「ケネディは?」


「知らん。」


カストロは椅子の背へ身体を預けた。


海の向こうでリサが何を話したのか。


ケネディが聞いたのか。


聞いたとして、どう受け取ったのか。


何も見えなかった。


ソ連との線なら、港へ行けば見ることができた。


タンカーが来る。


貨物船が来る。


木箱に入った部品が降ろされる。


数字にもできる。


アメリカとの線には、まだ何一つ運ばれてこない。


ゲバラが扉へ向かいかけ、振り返った。


「切るなよ。」


「何を。」


「糸だ。」


カストロは笑った。


「お前が残せと言ったんだろう。」


「俺は線を残せと言った。帝国と仲良くしろとは言ってない。」


「俺もする気はない。」


ゲバラは頷いた。


カストロが呼び止めた。


「チェ。」


「何だ。」


「帝国の時代は、いつ終わると思う。」


ゲバラはしばらく考えた。


「弱い国が、どちらの帝国に入るかじゃなく、入らないと言えるようになった時じゃないか。」


「簡単に言う。」


「難しいから、お前が島をやれ。」


ゲバラは扉を開いた。


「俺はその先を考える。」


カストロは返事をしなかった。


まだ、その言葉を別れの予告として聞く理由はなかった。


机の上には、モスクワから持ち帰った分厚い協定書が積まれていた。


その横には電話が一台ある。


片方は、社会主義という旗を掲げた帝国へつながっている。


もう片方の先には、資本主義という旗を掲げた帝国があり、その巨大な機構のどこかに、リサが少し似ていると言った若い大統領がいる。


キューバは社会主義を選んだ。


だが、帝国を選んだつもりはなかった。


電話は鳴らなかった。


カストロは受話器を見るのをやめ、モスクワから持ち帰った書類を一枚開いた。

冷戦、イデオロギーに憧れそして世界を資本主義と社会主義の二項対立で多くの人は感じてました。

しかし世界の対立は結局近代の帝国主義とさほど変わらないことをカストロたちは知ることになります。


更新は、水・金・日の夜です。

次回は金曜日の夜更新予定です。


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