196,アドリブが歴史を変えることもある
オフレコの会話に関しては、非公開文章が公開された今事実であることがアメリカ側の資料からわかります。
インタビューのあとカストロとリサはどんな会話をしたのか。
一週間後のカストロのモスクワ訪問はまだ一部の人間にしか知られていないタイミング。
「フルシチョフは、どんな男だった?」
「怪物ではないわ。」
リサは、少し考えてからそう答えた。
カメラの電源は落ち、照明も半分ほど消されていた。先ほどまで撮影のために白く浮かび上がっていた部屋には夜の影が戻り、開けられた窓からは、海に近いハバナ特有の湿った風が入り込んでいる。
カストロは、予想していなかった答えを聞いたように眉を上げた。
「アメリカでは、ずいぶん違う顔に描かれているようだが。」
「西側は、壁の向こうに怪物がいた方が分かりやすいのよ。共産主義が怖いのなら、その頂点にいる男も、人間より怪物に近い方が話を作りやすいでしょう。」
リサは閉じたメモ帳の上へ片手を置いたまま、言葉を選んでいた。
「実際のフルシチョフは、もっと普通の政治家に見えた。老練で、抜け目がなくて、相手が何を欲しがっているかを見るのがうまい。よく笑うし、相手を安心させることもできるけれど、その笑顔まで含めて政治に使える人よ。」
「普通の政治家。」
カストロが言葉を繰り返した。
「ええ。恐ろしく普通の政治家。」
「それは褒めているのか。」
「褒めても貶してもいないわ。自分の国に必要ならあなたを抱きしめるでしょうし、必要がなくなれば離す。それを悪だと言うなら、大国の政治家のほとんどを悪人にしなければならない。」
カストロの笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。
「友情は?」
リサは一瞬、質問の意味を測るように彼を見た。
「国家に?」
それだけで答えになっていた。
数日後、自分がその男の国へ向かい、まさに英雄として抱擁される予定であることを、カストロは言わなかった。
リサには話していない。
ここまで数時間をともにし、彼女が最初に来た時よりは明らかに多くのことを話していたが、信用するということは、持っているカードをすべて机へ出すことではなかった。
カストロは葉巻を取り上げ、灰を落とした。
「では、ケネディは?」
リサは、今度は少し長く考えた。
「お坊ちゃま。」
カストロが声を上げて笑った。
「それだけか。」
「だった、と言った方がいいかもしれない。」
笑いが止まる。
「ウィーンで見た時には、まだ若かった。もちろん大統領になるだけの頭も野心もあったんでしょうけど、自分が合衆国大統領であること自体に、相手を動かす重さがあると思っていたところがあった。フルシチョフは、そういう弱さを見逃すような男じゃない。」
「負けたのか。」
「二人だけを比べれば、あの時はね。」
リサは椅子へ少し深く腰を下ろした。
「でも、ケネディは学ぶ人だと思う。ピックス湾で失敗した。ベルリンでも追い込まれた。去年の十月には、自分の軍人や官僚が出してくる一番強い案を選べば、それで強い大統領になれるわけではないことも知った。自分が何をしたいのか、そのためにはどこまで現実を受け入れ、どこで現実に逆らうのかを考えるようになっている。」
カストロは、先ほどまでより静かに聞いていた。
「ずいぶん高く買っているな。」
「あなたほどではないわ。」
「俺が?」
「少し似ているもの。」
カストロは明らかに不満そうな顔をした。
「どこがだ。」
「思想じゃないわ。育った家も、守っている国家も、あなたたちが正しいと思っている社会も全然違う。」
リサはそこで微笑んだ。
「でも二人とも、若い頃には、自分には何が正しいか分かっていると思っていたんじゃない?」
「俺はいまでも分かっている。」
「そう言うと思った。」
カストロも笑ったが、リサはそのまま続けた。
「ただ、正しいと思うことと、それを実現できることが同じではないと知り始めている。ケネディは大統領になってからそれを覚えた。あなたは革命に勝ってから覚えている。立場はまるで違うけれど、理想を捨てるためじゃなく、理想を残すために現実主義を身につけようとしているところは似ていると思う。」
カストロはすぐには答えなかった。
窓の外から車の音が一度聞こえ、遠ざかっていった。
「それなら、俺の方が先輩だな。」
やがてそう言った。
「山にいたから?」
「勝ったからだ。」
「その自信も少し似てる。」
「ケネディと一緒にするな。」
「本人にもそう言われるかもしれないわね。」
その返しが可笑しかったのか、カストロはまた笑った。
※※※※※※※※※※
カメラが止まった後の会話には、決まった順序がなかった。
フルシチョフからケネディへ行き、そこからアメリカの新聞へ逸れたかと思えば、いつの間にかフランスの作家の話になった。
リサがカミュの名前を出した時、カストロが予想以上にすぐ反応した。
「読むの?」
「共産主義者は読んではいけないのか。」
「むしろ嫌うものだと思っていた。」
「だから読むんだ。」
カストロは葉巻を指で回しながら、少し楽しそうに答えた。
「自分と同じことしか書いていない本なら、読んでも確認にしかならない。」
「カミュは革命の名の下で人間を犠牲にすることを嫌った。」
「知っている。」
「サルトルとは違う。」
「それも知っている。」
カストロは少し笑った。
「サルトルはここまで革命を見に来た。カミュなら、革命に踏まれた人間を探しに来たかもしれないな。」
「どちらが正しいと思う?」
「両方を見られれば簡単なんだがな。」
その答えには、冗談のような軽さと、本当にそれが難しいと知っている男の重さが同時にあった。
リサは少し黙ってから、国有化と土地改革の話へ移った。
「でも、その難しさをあなたたちはいつも認めるわけじゃないでしょう。革命によって土地を失った人間から見れば、あなたたちは財産を奪った。」
カストロが少し首を傾けた。
「奪った、という言葉は面白いな。」
「面白くないわ。所有していた人には権利があった。」
「誰が決めた権利だ。」
「法律よ。」
カストロは葉巻を灰皿へ置いた。
「土地を何十年も耕してきた農民がいる。その男がサトウキビを植え、雨を待ち、刈り取る。それで生まれた富を、土地へ来たこともない人間が証書一枚で持っていく。それを法律が認めていたから正しい、と君は言うのか。」
「そうは言っていない。でも政府が、自分たちの考える正義を理由に所有権を無視できるなら、今度は政府が何でも奪えることになる。」
「そして所有者だけが正義を決めれば、耕している人間は永遠に何も持てない。」
リサは反論しようとしたが、カストロが先に続けた。
「俺には、そこは難しくない。耕した土地から得られたものは、耕した者の所有物だ。」
「私には、そんなに簡単じゃない。」
「分かっている。」
勝ち誇った響きはなかった。
カストロは、相手を論破したとは思っていないようだった。
二人とも人間の自由を話している。
ただ、リサにとって自由を守る最後の線は、国家が個人の権利を勝手に踏み越えないことにあった。カストロにとっては、既存の財産権と法律そのものが、力を持つ者と持たない者の差を固定する道具になり得た。
同じ言葉を使っていても、その言葉を育てた土が違っていた。
リサの自由は、国家権力を疑うアメリカの政治思想と、個人の権利を守ろうとして積み重ねられてきた法の中で育っている。
カストロの自由は、大土地所有、外国資本、農村の貧困、そして銃を持って山へ入らなければ政治そのものを変えられなかったキューバの土から生えていた。
どちらかが嘘をついているのではない。
だからこそ、完全には重ならない。
「面白いな。」
カストロが言った。
「何が?」
「作家は文学で道徳や思想を語る。政治家は演説で語る。俺たちは、もっと直接やった。」
「あなたも政治家でしょう。」
「いまはな。」
カストロは少し笑った。
「山にいた時には、夜に話したことを翌朝に試せた。土地をどうする、学校をどうする、捕虜をどう扱う、農民から食料をもらうならどう払う。誰かが本を持っていれば読んだし、読んだら話した。だが朝になれば、話したことが本当に人間の役に立つのか、やってみるしかなかった。」
「作家だって、若い時には実践しようとした人はいるでしょう。」
「そうだろうな。」
カストロは窓の外を見た。
「老人は文学で、道徳や思想を語る。俺たちはまだ実践で語れると思っている。でも、彼らもきっと若い頃には、自分が世界へ手を入れる側だと思っていたのかもしれない。」
少し間を置いてから、肩をすくめた。
「俺たちも、いつかそうなるかもしれんな。やったことを本に書いて、若い連中に何が正しかったか説明する。」
「あなたの場合、一冊じゃ終わらないでしょうね。」
「ゲバラに短くさせる。」
「できるの?」
「無理だろうな。」
二人は笑った。
それは、文学が政治の外にある時代の笑いではなかった。
本で読んだ理念が、翌朝の農地改革や学校や戦争の話につながり、哲学者が革命を見に島へ来て、革命家がカミュを読み、テレビ記者が国家指導者と民主主義について夜中まで議論する。
少なくとも彼らには、言葉と現実の間に、まだ取り返しのつかないほど深い溝はなかった。
※※※※※※※※※※
「それでも、あなたの革命を怖がっている人はいる。」
リサの声が少し変わった。
「土地を持っていた人だけじゃない。政府を批判したことで、自分も反革命と呼ばれるんじゃないかと怯える人もいる。革命が人間を自由にするものなら、その革命を怖がっている人間についてはどう考えるの?」
カストロはすぐには返さなかった。
「怖がっているから、革命が間違っているということにはならない。」
「でも、あなたたちが正しいと思っているから、怖がる人間の恐怖は間違いになるの?」
「そうも言っていない。」
「なら、どこに線を引くの。」
カストロは葉巻へ火をつけ直し、煙を少し吐いてから答えた。
「その線を探すのが国家をやるということなのかもしれんな。」
リサの目が少し動いた。
「革命家らしくない答え。」
「革命に勝つと、革命家にも役所ができる。」
その言い方にリサは笑ったが、カストロは続けた。
「ピックス湾のあと、捕虜の中に黒人の男がいた。俺はあの男に聞いたことがある。革命前には、肌の色だけで入れない場所もあった。それを変えようとしている革命を倒すために、どうしてお前が銃を持って戻ってきたんだ、と。」
「彼は何と?」
「俺が期待した答えはしなかった。」
カストロは苦笑した。
「その時は腹が立った。たぶん俺は、革命が差別をなくそうとしたのだから、黒人なら革命を支持して当然だとどこかで考えていた。でも、人間は政府が自分のために何かをしたという理由だけで、その政府と同じ政治を選ぶわけじゃない。」
「それを認めるの?」
「事実だからな。」
「あなたがさっき言った、不道徳な事実とは違う?」
カストロは一瞬黙ったあと、笑った。
「うまいことを言う。」
「記者だから。」
「事実には二種類あるのかもしれんな。変えるべき事実と、理解しなければならない事実だ。」
「誰が決めるの?」
「だから面倒なんだ。」
今度は二人とも笑わなかった。
それでも、話は途切れなかった。
※※※※※※※※※※
夜が深くなるにつれ、話題はまたアメリカへ戻った。
カストロがケネディについて質問し、リサが答えているうちに、彼女の方がふと黙った。
それから、少し挑発するような笑みを浮かべた。
「ねえ。」
「何だ。」
「あなたたち、本当は若い者同士、少しくらい仲直りしたいんじゃないの?」
カストロの表情が変わった。
「誰と誰が。」
「あなたとケネディ。」
数秒の沈黙のあと、カストロが笑った。
「ずいぶん飛躍したな。」
「そうかしら。」
「ケネディから聞いたのか。」
リサは迷わなかった。
「いいえ。」
その即答で、カストロの目にあった警戒が少しだけ別のものに変わった。
「なら、何を根拠に言っている。」
「ジェームズ・ドノバン。」
その名前には、カストロもすぐ反応した。
ジェームズ・ドノバンはニューヨークの弁護士で、ピックス湾で捕虜になった亡命キューバ人たちの釈放交渉を担い、何度もハバナへ来てカストロ本人とも話していた。正式な外交官ではなく、政府を代表して条約を結ぶ権限もない。だからこそ、ワシントンとハバナの双方にとって、会っても「外交交渉を始めた」と認めずに済む、奇妙に便利な男でもあった。
「ドノバンは捕虜のために来た。」
カストロが言った。
「最初はね。」
「最後までだ。」
「本当に?」
リサは少しだけ身を乗り出した。
「何度も会っている。あなたは彼を嫌っていない。向こうも、彼がここへ来ることを止めていない。捕虜の話だけなら、その仕事はもう終わろうとしているでしょう。」
カストロは返事をしなかった。
リサはケネディから何かを託されていたわけではない。
ホワイトハウスで何が話されているかを知っているわけでもない。
だが、記者は事実がすべて揃うまで待っていたら、誰より遅くなる。
目の前にある小さな事実を並べ、その間にまだ見えていない線があると仮定して、相手の表情を見る。
それも仕事だった。
「記者の勘か。」
カストロが訊いた。
「そう。」
「便利な言葉だな。」
「あなたもシエラ・マエストラへ入る時、全部の証拠が揃っていたわけじゃないでしょう。」
カストロは少し笑った。
それ以上、リサがケネディから何かを預かっているのかとは聞かなかった。
少なくとも、彼女は嘘をつかなかった。
それだけで十分だった。
※※※※※※※※※※
ドノバンとの接触以来、カストロにも考えていることがあった。
アメリカと話すとして、誰と話せばいいのか。
大使館はない。
正式な外交官を動かせば、それだけで政治的な事件になる。政府高官と会えば、会ったという事実だけで交渉開始と受け取られかねない。
ドノバンには捕虜という理由があった。
だが、その捕虜はもう帰る。
用件がなくなれば、線も細くなる。
おそらく、海の向こうでも事情はそう違わなかったのかもしれない。
もしケネディがキューバについて、軍事以外の可能性を少しでも知りたいと思ったとしても、誰を動かせば「交渉」ではなく「会話」と呼べるのか。
話すかどうかより前に、どうすれば話したと認めずに話せるのか。
その入口がなかった。
リサ・ハワードは、その問題を解決するために送り込まれたわけではない。
それでも彼女は、偶然その条件をかなり満たしていた。
政府の人間ではない。
フルシチョフを知っている。
ケネディを間近で見ている。
アメリカ政治を読む。
全国放送に顔を持ち、それでいて何度キューバへ来ても「取材」で説明できる。
そして何より、カストロの言うことをそのまま信じない。
カストロにとって、それは欠点ではなくなり始めていた。
「もし本当に少しでも話す余地を残したいなら。」
リサが言った。
「ケネディを追い詰めない方がいい。」
カストロが眉を寄せる。
「俺が追い詰めているのか。」
「演説を聞けば、そう思う人はいるでしょうね。」
「ピックス湾をやったのは俺じゃない。」
「分かってる。でも、ケネディとアメリカ全部を同じものとして攻撃すれば、あなたが一番助けるのはケネディじゃない。」
カストロは黙った。
「軍もいる。議会にも強硬派がいる。亡命キューバ人の政治力もある。ケネディを弱腰だと攻撃して、もっと強くキューバを叩けと言う人たちもいる。あなたが大統領を帝国主義の首領として攻撃するたびに、その言葉を使って彼を右へ押したい人間が喜ぶかもしれない。」
「なら、ケネディを助けろと言うのか。」
「違う。」
リサは首を振った。
「あなた自身を助けろと言っているの。話せる可能性がある相手を、自分で話せない場所まで追い込まない方がいい。」
カストロはしばらく何も言わなかった。
それから葉巻を灰皿へ置き、少し身を乗り出した。
「では、アメリカは俺に何を望んでいる。」
リサは、その質問が出た瞬間だけ、表情を変えた。
「私はアメリカ政府じゃない。」
「知っている。だが君はアメリカ人だ。」
「アメリカ国民全員の代表にはなれないわ。」
「そこまで期待していない。」
カストロが笑った。
「君なら、何を変えれば向こうが変化だと見る。」
リサは慎重に答えた。
「まず、向こうが何をするかも見なければ公平じゃないでしょう。亡命者の襲撃を抑えようとするなら、それを無視しないこと。」
カストロの表情が少し変わる。
「それは見ている。」
「なら?」
「正しい方向だと思っている。」
それは大げさな声明ではなかった。
しかし、数時間前までテレビ取材だったものが、そこで明らかに別の場所へ入った。
誰も外交と呼んではいない。
それでも外交になる会話というものがあった。
※※※※※※※※※※
リサがいったん部屋を出たあと、カストロは廊下へ出た。
ゲバラはまだいた。
長椅子に腰を下ろし、膝の上で経済報告書を読んでいたが、カストロを見ると紙を閉じた。
「長かったな。」
「まだ終わってない。」
「それで?」
カストロは壁にもたれた。
ゲバラは少し待ってから訊いた。
「ドノバンのあと、あの女を線として使えると思ったのか。」
カストロは首を振った。
「逆だ。」
「逆?」
「ドノバンと話したあと、しっくりくる線が見つからなかった。あいつとは話せるし、信用もしている。ただ、ドノバンには捕虜という仕事がある。その仕事が終わったあと、何を理由にここへ来る。」
ゲバラは頷いた。
「政府の人間なら早すぎる。」
「会っただけで意味を持つ。」
「記者なら、会う理由が最初からある。」
カストロは少し笑った。
「しかも帰って喋るのが仕事だ。」
「ずいぶん都合がいい女が来たな。」
「だから疑っていた。」
「いまは?」
カストロはすぐ答えなかった。
「まだ疑っている。」
「それでいい。」
ゲバラは再び報告書を膝に置いた。
「アメリカが変わったとは思うなよ。」
「思っていない。」
「ケネディが信用できるとも?」
「思っていない。」
「なら何をする。」
カストロは少し考えた。
「信用できるかどうかを確かめる。」
ゲバラは、その答えなら納得できるというように頷いた。
「向こうも似たようなものかもしれんな。」
「ケネディが?」
「もし話したいと思っていたとしても、誰を寄越せばいいのか分からない。外交官では早い。政府高官なら重すぎる。ドノバンは捕虜が終われば理由を失う。」
カストロは廊下の先を見た。
「同じ入口を探しているかもしれない、か。」
「かもしれない、だ。」
ゲバラは念を押した。
「そこを間違えるな。」
カストロが笑った。
「慎重になったな。」
「国家を持つと人は変わるらしい。」
「お前まで言うのか。」
二人は小さく笑った。
その夜、カストロには別の予定があった。
※※※※※※※※※※
ハバナ大学は、革命よりずっと前から政治の場所だった。
スペイン植民地時代から続く名門大学であると同時に、バティスタ政権下では学生運動と反政府活動の中心の一つでもあり、革命後の若者たちにとっても、ただ授業を受けるためだけの場所ではなかった。
その夜の集会自体は、リサとの会話が始まる前から予定されていた。
学生たちが集まり、演台の前には人が重なり、カストロが姿を見せると大きな声が上がった。
数日後にはソ連へ向かう。
それを知っているキューバ政府の人間たちにとって、カストロがここでアメリカ帝国主義を強く批判しても、何一つ不自然ではなかった。
実際、演説の前半はそうだった。
禁輸。
亡命者による襲撃。
キューバの主権。
この島の政府を決める権利はワシントンにはない。
学生たちは何度も拍手した。
ゲバラは演壇から少し離れた位置で、それを聞いていた。
やがてカストロが、ケネディの名前を出した。
空気が少し変わった。
「我々はアメリカ政府の政策を批判してきたし、これからも必要なら批判する。しかし、アメリカという国の中にも、すべて同じ考えしかないわけではない。」
いつもの演説より慎重な言い回しだった。
「ケネディ大統領を、もっと危険な場所へ押し込もうとしている者たちもいる。彼がキューバに対して一歩でも戦争から遠ざかる行動を取れば、それを弱さとして攻撃し、さらに強い行動を求める者もいる。」
学生の拍手は、さきほどより少なかった。
それでもカストロは続けた。
「もし亡命者による襲撃を抑え、戦争へ向かう動きを止めようとするなら、我々はそれを見ていないふりをする必要はない。敵対している相手の行動であっても、それが平和へ向かう一歩なら、一歩として認めることはできる。」
ゲバラは、そこで視線を上げた。
午後までのカストロなら、同じことを別の言葉で考えていた可能性はある。
ドノバンとも話していた。
危機を経て、ケネディ本人とアメリカの軍や強硬派が完全に同じではないことも、頭では分かっていただろう。
だが、その日の午後まで、学生たちの前でこういう言葉を使ったことはなかった。
リサが持ち込んだものが、そのまま引用されたわけではない。
カストロの言葉へ変わっている。
だからこそ、ゲバラには分かった。
※※※※※※※※※※
演説が終わり、まだ学生たちの声が背後に残る廊下を歩きながら、ゲバラは隣のカストロに訊いた。
「さっきのケネディのくだり、アドリブか。」
カストロは歩きながら少し考えた。
「分からん。」
ゲバラが横を見る。
「分からない?」
「前から考えていたことでもある。ドノバンとも話した。今日、あの女が言葉にした。どこまでが俺の考えで、どこからがあいつの言葉か、もうよく分からん。」
「便利だな。」
「いいじゃないか。」
カストロは笑った。
「アドリブが歴史を変えることだってある。」
「大げさだな。」
ゲバラがそう言うと、カストロは少しだけ歩調を緩めた。
「そうか? 考えてみれば、歴史なんてシナリオ通りに進まないことの方が多いかもしれんぞ。」
ゲバラは何も言わなかった。
グランマ号の上陸も、シエラで生き残った人数も、バティスタの逃亡も、ピックス湾も、十月の十三日間も、初めから誰かが書いた筋書き通りだったわけではない。
偶然と判断と失敗が重なり、後から人間がそれを歴史という一本の線にしているだけなのかもしれなかった。
カストロが立ち止まった。
「後はお前に任せる。」
「何をだ。」
「線を残す方法だ。」
ゲバラはすぐには答えなかった。
アメリカと話せることと、アメリカがキューバ革命を認めることは同じではない。
ケネディが話す可能性を持っていることと、アメリカという国家がキューバを受け入れることも同じではない。
ゲバラはそこを混同していなかった。
「俺は、アメリカが変わったとは思っていないぞ。」
「俺もだ。」
「なら、外務省は使うな。」
カストロが頷く。
「軍も通さない方がいい。」
「誰だ。」
ゲバラは少し考えてから答えた。
「バジェホ。」
レネ・バジェホは医師であり、革命戦争以来カストロのごく近くで働いてきた側近の一人だった。外務省の正式な外交官でも、軍の指揮系統を代表する人間でもないが、必要な話なら直接カストロまで持っていける。
公的な制度から少し外にいるからこそ、秘密の連絡には向いていた。
「バジェホなら、外務省にも軍にも広げずに、お前まで持ってこられる。」
カストロは短く答えた。
「ああ。」
それで決まった。
和平交渉を始めたわけではない。
アメリカを信用したわけでもない。
ただ、もし向こうから声が返ってきた時に、その声が途中で消えないよう、細い線を一本だけ残すことにした。
※※※※※※※※※※
翌朝、リサはホテルで前夜の演説の内容を知った。
どこから最初に耳へ入ったのかは、あとになれば曖昧だった。
ABCのスタッフが持ってきた演説要旨だったかもしれないし、ハバナの新聞だったかもしれない。誰かがホテルで、昨夜のカストロは少し変わったことを言っていた、と教えたのが先だったかもしれない。
ただ、内容を読み進めた途中で、リサの手が止まった。
ケネディ。
強硬派。
彼をより危険な方へ追い込む人間たち。
亡命者による襲撃を抑える動きは、平和へ向けた一歩として認める。
前日、自分がカストロへ話したことだった。
同じ言葉ではない。
そのまま盗んだわけでもない。
キューバの学生と国民へ向けた、カストロ自身の政治の言葉へ翻訳されている。
リサは紙を机へ置いた。
昨日の夜、カストロは自分の話に賛成だとは言わなかった。
約束もしなかった。
それでも、数時間後には国民の前で使った。
あれが返事だったのかもしれない。
少なくとも、彼は聞き流してはいなかった。
リサは、そう考えた。
※※※※※※※※※※
帰る前、レネ・バジェホがリサの前へ現れた。
それまでにも何度か近くにいた男だったが、この時は白衣ではなく普通の服を着て、小さく折った紙を持っていた。
「これを。」
リサは受け取り、開いた。
数字が書かれている。
「何?」
「連絡先です。」
「誰の?」
「私につながります。」
リサは紙から顔を上げた。
「あなたに連絡したら?」
「必要な話なら、必要な人間へ届きます。」
それ以上は言わなかった。
少し離れたところにカストロがいた。
リサは彼の方を見る。
「あなたの考え?」
カストロは肩をすくめた。
「必要になったら使え。」
「何のために?」
「君は記者だろう。必要になった時に決めればいい。」
リサは紙をもう一度見た。
そこには和平提案も、政治条件も書かれていない。
ケネディへの手紙でもない。
ただの番号だった。
十一月一日、リサからキューバへ送った取材依頼は、ミサイルと爆撃機とソ連兵の書類の下に埋もれた。
半年後、今度はキューバからリサへ、一枚の小さな紙が渡された。
その紙が何になるのか、この時点では誰にも分からなかった。
※※※※※※※※※※
リサが去ったあと、セリアは執務室に残されたものを片づけた。
冷めたコーヒー。
灰皿。
書き込みのある紙。
途中で使われなくなったメモ。
数日前まで、この部屋ではアメリカ人の記者を入れること自体が一つの冒険だったのに、いまはその女がフルシチョフとケネディとカミュの話をして去り、バジェホの電話番号まで持っている。
セリアは最後の書類を重ね、その横に置かれていた別の封筒へ目をやった。
ソ連訪問。
カストロが手を伸ばした。
リサには最後まで教えなかった予定だった。
四月二十七日。
数日前、彼女はフルシチョフについて言った。
必要なら抱きしめる。
必要がなくなれば離す。
カストロは、その言葉を聞いた上でモスクワへ行く。
行かないという選択肢はなかった。
大国への依存を嫌うことと、大国を必要としないことは別だった。
アメリカへの細い線を一本残したからといって、ソ連との同盟を捨てるわけでもない。
むしろ小さな国には、一つの大国だけを信じるほどの贅沢がなかった。
カストロは封筒から日程表を取り出した。
数日後、彼はモスクワへ向かう。
その頃、海の向こうでは、まだ誰も知らない一本の電話線が、使われる日を待ち始めていた。
リサのインタビューの翌日のカストロの演説は聴衆の期待に反してアメリカにハト的なものでした。(モスクワ訪問の発表を控えた時期に)
前日のリサのとのインタビュー後の会話が長いものになったこと、リサに窓口の電話番号を渡している史実が記録には残っています。
アメリカとキューバの電撃的な和解があったとしたらこのインタビューが契機になったのかもしれません。
更新は、水・金・日の夜です。
次回は水曜日の夜更新予定です。
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