一話 酒場での出会い
第1話 酒場での出会い
薄暗い酒場だった。暗いというより、明るくする必要がない場所だ。
ランプの光はテーブルの端で途切れ、残りは煙と湿気に吸い込まれていく。皿は脂っぽく、床は海から持ち込まれた砂で少しだけざらついていた。
外は雨。戸口が開くたびに冷えた空気が差し込み、煙草の煙がすっと割れて、また元に戻る。割れ目から入ってくる匂いがいちばん正直だ。濡れた外套の革、港の塩、安い石鹸。洗っても落ちない種類の匂いが混ざっている。
奥の席に座った。入口が見えて、窓も視界に入る位置。逃げ道の確認、というほど大げさじゃない。けれど、何も考えずに座れるほど人生は親切じゃなかった。
ラジオが鳴っている。音楽というより、遠い部屋の生活音がこっちへにじむ感じだ。歌声の上に誰かの口論が重なり、グラスが木に当たる音が割り込む。笑い声は短い。長く笑うと、その笑いを買った奴が誰なのかが分かってしまう。
俺は水を頼んだ。酒はまだ早い。酒のせいにしたいことが増えるのが嫌だった。
咳が出そうになって、喉の奥に押し込む。
押し込むと胸の奥が熱くなる。熱くなると、また咳が出そうになる。いつもの循環だ。薬の吸い口がポケットにあるのは分かっているが、ここで出す気はなかった。弱みを見せるのが怖いのではなく、弱みを見せたあとに自分が楽になるのが怖い。
「ここ、いいか?」
声がした。低いが、わざとらしく低くはない。
振り向くと、男が立っていた。背は高い方だ。濡れた前髪が額に貼りついていて、外套の肩から水が落ちている。目だけが妙に落ち着いている。落ち着いているというより、落ち着かないものを一度どこかに置いてきた目だった。
俺は返事をする前に、その男の手を見る。
紙を扱う指だ。それと、銃も扱える指。どちらの癖も同じ指先に出る。そういうのは見れば分かる。見えるから、見ないふりをする。
「どうぞ。」
と言ってしまってから、少しだけ後悔した。
どうぞ、は関係を始める言葉だ。
男は座ると、椅子が軋んだ。彼はそれを気にしない。気にしないふりでもない。本当に気にしていない。余計に厄介だ。
「水を――」
男が店に言うより先に、店主が水差しを持ってきた。水差しは、俺と男の間に置かれる。距離の真ん中に置く。店主の癖だ。争いになったとき、先に倒れるのは水差しだから。
男は水を注がず、まず俺の顔を見た。
見方が、軽くない。値踏みでもない。覚えるための見方だ。
「名前は?」
俺が問うと、男はほんの少しだけ視線を外した。
外し方が慣れている。名前を言うことが面倒な人間の外し方。
「エルネスト・ゲバラ」
一拍置いて、彼は付け足した。
「……みんなは、チェって呼ぶ。」
“みんなは”の言い方が、まるで自分の話じゃないみたいだった。呼び名だけが一人歩きして、本人が後ろに残っている。
「じゃあ、チェ。」
俺はそう言った。早く受け入れると軽くなる気がして、わざと少しだけ遅らせた。
チェは、ほんの少し肩の力を抜いた。安堵というより、「面白がられない」確認が取れた、という顔だった。
「君は?」
「フィデル・カストロだ。」
男——カストロは、名乗ったあとに余計な説明をしない。肩書きも、出自も、武勇伝も、置かない。置かないから、名前が重いままテーブルに転がる。
「……カストロ」
チェが俺の名を口にする。呼び捨てではないが、敬称でもない。
ただの名前。だからこそ、妙に刺さる。
沈黙が一度落ちた。ラジオが曲を変え、皿が鳴り、誰かが椅子を引きずる。騒音が埋めてくれる沈黙と、埋めてくれない沈黙がある。いまのは後者だった。
チェが喉を押さえ、咳を小さく畳んだ。
俺は言葉を足さずに、水差しを彼の側へ少しだけ滑らせる。押しつけない速度、押しつけない距離。けれど引きすぎない。
彼は礼を言わない。
言わないところが、なぜか気に入った。礼の言葉が出ると、場がきれいになってしまう。きれいになった場は、たいてい嘘を呼ぶ。
「ここにいる理由を聞いても?」
俺が聞くと、チェはグラスの縁を指でなぞった。冷たいものに触れていないと、息が乱れるのかもしれない。
「旅をしてた。」
簡単に言って、彼は自分の言葉を噛み直すように続けた。
「最初は、気まぐれだった。……途中から、戻れなくなった。」
戻れなくなった。
その言い方が、酒場の湿気より冷たい。
「何を見た?」
チェは少し考えてから、短く置いた。並べたくない単語を並べるときの間だ。
「炭坑」
「隔離病棟」
「焼き印」
焼き印、と言ったとき、俺の喉の奥が勝手に動く。飲み込んだのは、唾か怒りか分からない。
チェはそれを見て、見なかったことにしてくれた。見なかったことにできる人間は、案外少ない。
「話してもいいか?」
「聞く。ただ... 」
チェは付け足す。
「聞いたら眠れなくなる。」
「眠れないのは構わない。」
俺がそう言うと、チェは吸い口を指で撫でた。薬の匂いが一瞬だけ漂う。煙草の中で、薬の匂いは真っ直ぐだ。嘘がない匂い。
「……子供のころ、喘息だった――」
それは前置きみたいで、前置きではなかった。
扉の鍵穴を見せられた、そんな感じがした。
メイン作ゲームチェンジャーの息抜きに大好物の男の子同士の友情、愛を描いてます。ゆるーくコメント下さい。




