193,父を越えること、兄を越えること
ケネディ政権時代は、国内外のレジュームチェンジの時期と重なりました。
たしかにテレビの登場により、ニクソンとの討論で注目が選挙には影響を与えたのは偶然の運のよさかもしれません。
しかしその後時代の転換期に翻弄された彼のとは別に、偉大な父を越え、優秀だけど戦死した兄を越える物語をトレースすると、よりこの時代が輝きます。
ケネディ編最終話です。
一九六三年七月二十五日。
モスクワから届いた電報は、何人もの手を渡ってきたせいか、薄い紙の両端がわずかに反っていた。ケネディはそれを机へ置かずに二度読み返し、窓の向こうで夏の日差しに白く照り返す芝生を一度見てから、ようやく紙を伏せた。
大気圏内、宇宙空間、水中での核実験を禁止する。
地下核実験は残る。
全面禁止を目指してきた交渉として見れば、不完全な結論だった。地下実験まで止めるにはソ連領内での査察が必要になるが、モスクワはそれを軍事施設への諜報活動と疑い、ワシントンは査察なしでは実験と地震を完全には区別できないと主張している。何年も交渉を止めてきた溝は、この夏になっても埋まらなかった。
それでも、止められるものから止めるという一点で、アメリカ、ソ連、イギリスはようやく同じ文書の上に立った。
マクナマラは膝の上で資料の角を揃えると、いつもの落ち着いた声で説明した。
「地下実験が残る以上、統合参謀本部からの反対は続くでしょう。ソ連が地下で技術開発を進める可能性も否定できません。ただし、大気圏内の実験を止めれば放射性降下物は減らせますし、宇宙空間と水中については外部から確認できます。完全な禁止ではありませんが、実効性のある禁止にはできます。」
ケネディは紙の端を指で押さえながら聞いていた。
「最近、われわれはその言葉ばかり使っている気がするな。完全ではない。だが、何もしないよりはいい。」
マクナマラはわずかに口元を緩めた。
「大統領、現実にはその二つしか選べない場合もあります。」
以前のケネディなら、その言い方を敗北の理屈だと思ったかもしれない。
勝つか、退くか。相手に飲ませるか、こちらが飲むか。
二つの選択肢の間にあるものを、決断できない人間が逃げ込む曖昧さだと考えていた時期がある。その感覚のどこまでが政治家として身についたものなのか、どこからが父の影響なのか、本人にも分からなかった。
父なら、もっと早く決めただろう。
ジョーなら、もっと大胆に進んだのではないか。
そんな問いは、意識しない時ほど自分の中に残った。
幼い頃、熱を出して病院のベッドへ寝かされると、最後に記憶へ残ったのは医師の顔でも注射の痛みでもなく、目を開けばいつもそこにある白い天井だった。
自分の身体なのに、自分で決められることはほとんどない。今日は帰れるのか、また検査があるのか、父が来るのか、医師が何と言うのか。少年のジャックは横になったまま、誰かが答えを決めてくれるのを待っていた。
大人になってからも、疲れて目を閉じると、ごく稀にその白さだけが記憶の底から浮かぶことがあった。
ピックス湾の夜にも、ウィーンから戻った夜にも、キューバ危機の長い会議の途中にも。
けれど、あの十三日間を終わらせたのは、誰かから与えられた完全な答えではなかった。
国連の査察団はキューバ国内へ入れず、カストロは米ソが頭越しに作った合意へ署名していない。ソ連のミサイル撤去とアメリカの不侵攻保証の裏には、公表できないトルコのジュピター撤去まで残った。
それでもミサイルは島を出て、戦争は起きなかった。
形式が完全でなくても、目的を達成することはできる。
その経験が、ケネディの政治の中に少しずつ根を張り始めていた。
彼は壁に掛かった世界地図へ目を移した。
「二つの核大国だけでも、われわれはあそこまで行った。フランスはもう持っているし、中国も遠くない。その先にインドがいて、さらにその先もある。核兵器を持つ国が増えるということは、爆弾の数が増えるだけじゃない。決断する指導者も、命令を受ける軍人も、誤った警報を信じる人間も増えるということだ。」
ラスクが静かに頷いた。
「全員が常に理性的であることを前提にした秩序は、長くは持たないでしょう。」
「だから、全部を止められる日まで待つのはやめよう。」
ケネディは窓の外を見た。夏の空は高く、キューバ危機の十三日間と同じように青かった。
「止められるものから止める。それでいい。」
※※※※※※※※※※
八月五日。
モスクワでは、三人の外相が横一列に並んで机へ向かっていた。
ディーン・ラスク、アンドレイ・グロムイコ、アレック・ダグラス=ヒューム。
ホワイトハウスのテレビは白黒で、遠くから送られてくる映像特有のちらつきが三人の輪郭を細かく震わせていた。書類が差し出され、万年筆のキャップが外れ、それぞれが名前を書く。
たったそれだけの場面だった。
艦隊が針路を変えるわけでもなければ、ミサイルが解体されるわけでもない。大統領が国民へ緊急演説をする必要もなく、誰かが勝利宣言をするわけでもない。
それでも、三本のペンが紙の上を走った瞬間から、昨日まで空で爆発させることのできた核兵器の一部が、少なくとも三か国の間では禁止される。
ケネディは椅子へ深く腰を沈めたまま、その映像を眺めていた。机の灰皿には昼前に消した煙草の灰が、細い棒の形を崩さずに残っている。
「こういうものなのかもしれないな。」
ソレンセンが原稿から顔を上げた。
「何がです。」
「残るっていうことだよ。キューバ危機では、世界を失わずに済んだ。あれがなければ今日もない。だが、危機を避けることと、何かを残すことは違う。」
テレビの中では、署名を終えた三人が立ち上がり、互いに握手を交わしていた。
「これは残る。私がここを出た後も。」
「地下実験は残っています。」
「だからこそ、次にやることも残る。」
ケネディは笑い、机の鉛筆を一本取った。
「全部片づけてしまったら、次の大統領が退屈する。」
ソレンセンも笑った。
「もう次の大統領の心配ですか。」
「まだ譲る気はないよ。」
そう言って、ケネディは鉛筆の先を原稿の余白へ落とした。
※※※※※※※※※※
八月二十八日。
ワシントンは、朝から湿った熱気に包まれていた。
汗で背中へ張りついた白いシャツ、麦わら帽子、教会の婦人たちが持ってきた水筒、労働組合の旗、学生たちが手書きしたプラカード。その間を白人の若者や修道女、子どもを連れた夫婦が歩き、ワシントン記念塔からリンカーン記念堂までの空間が、少しずつ人の色へ変わっていった。
ホワイトハウスには、朝から警備報告が入り続けていた。
二十五万人近い人間が集まる以上、政権が恐れていたのは、ほんの一つの失敗だった。一台でも車が燃え、一枚でも割られた窓の写真が出れば、公民権法案へ反対する議員は、それを何年でも利用するだろう。
だが、午後になっても炎は上がらなかった。
リンカーンの白い石像の前で、マーティン・ルーサー・キングが話し始めると、巨大な群衆のざわめきが波のように引き、その声だけがテレビの小さなスピーカーを通して大統領執務室へ届いた。
ケネディは腕を組んで画面を見ていた。
六月には、ヴィヴィアン・マローンとジェームズ・フッドをアラバマ大学へ入れるために、州兵を連邦軍指揮下へ置かなければならなかった。しかし今日は、誰かが彼らを集めたわけではない。大統領が命じたわけでも、政府が交通費を払ったわけでもない。
それでも、これだけの人間が自分の足でワシントンまで来ていた。
「私の法案のために集まったわけじゃないな。」
バーク・マーシャルは、冷めかけたコーヒーを見ながら答えた。
「ええ。むしろ逆でしょう。法案が彼らに追いつこうとしているんです。」
ケネディは画面から目を離さず、小さく頷いた。
六月十一日の夜、自分は公民権を道徳の問題だと国民へ語った。
けれど、その道徳を見つけたのは大統領ではない。
バスの後ろへ座らされた者が先に知っていた。大学へ入れなかった者が知っていた。投票所から追い返された者も、食堂の席を断られた者も、ずっと以前から知っている。
大統領がようやく追いついただけだった。
行進の後、キングたちがホワイトハウスへ入ってくると、廊下には外の夏がそのまま入り込んだような、汗と埃と、長い時間踏まれた芝の匂いが残った。
ケネディは一人ずつ握手を交わし、最初は冗談で空気を和らげたが、話が議会へ移るにつれて声の調子を変えた。
「今日は成功でした。それは誰にも否定できないでしょう。ただ、二十五万人をワシントンへ集めることと、上院で必要な票を集めることは別です。委員会もある。南部民主党もいる。議事妨害もある。ここから先は、皆さんの運動とこちらの政治が、同じ方向へ進まなければならない。」
キングは何も急がせるような返事をせず、しばらく大統領の顔を見てから頷いた。
窓の外では、行進を終えた人々が少しずつ帰り始めていた。
ケネディは、その流れを自分が作ったとは思わなかった。
問題は、自分たちの政治が、その速度に間に合うかどうかだった。
※※※※※※※※※※
九月七日。
ハイアニスポートの午後には、海から来る風が刈った芝の匂いを運んでいた。
庭では孫たちが走り回り、家族写真を撮るたびに誰かが脱いだカーディガンや帽子が椅子の背へ掛けられ、食事を終えたテーブルには甘い菓子とコーヒーの香りがまだ残っている。
ジョセフ・P・ケネディの七十五歳の誕生日だった。
昔なら、その中心にいるのは父だった。
誰をどこへ座らせるかを決め、息子の選挙区の数字を本人より先に把握し、勝った翌朝には次の勝負の話を始めるような男だった。
いまは車椅子に座っている。
一九六一年の脳卒中以来、言葉のほとんどを失ったが、人の話は理解している。新聞も読む。孫が転べば目を動かし、気に入らない話には顔をしかめ、誰かの冗談には頬を緩める。
声だけが、以前のようには戻らなかった。
夕食の後、家族が庭や家の中へ散っていき、潮の匂いが少し強くなった頃、ケネディは父の隣へ椅子を運んだ。
ジョセフの膝には新聞が載っていた。
核実験禁止条約。
ワシントン大行進。
公民権法案。
どの記事にも、息子の名前がある。
ケネディは父の隣へ腰を下ろしたものの、しばらく何も言わず、沖で砕ける白い波を眺めていた。その向こうには、雲の少ない青空が広がっている。
その空を見ているうちに、まったく別の白さが記憶の底から浮かんだ。
病院の天井だった。
熱に浮かされた少年が、何日も見上げていた白い面。
目を閉じても、開けばまたそこにある。自分の身体なのに、次に何をされるのかさえ自分では決められず、父や母や医師が話し合う声を聞きながら、ただ待つしかなかった。
父の視線にも、どこか似たところがあった。
子どもの頃から、その目の前では、何をしても採点されているような感覚が消えなかった。
病気が多く、背中も悪く、兄弟の中で丈夫な少年とは言えなかったからこそ、平気な顔をする癖がついた。
痛くても笑う。
負けても笑う。
戦争へ行き、戻ってきて、政治へ入った。
そして、その道を本来先に歩くはずだった男がいた。
ジョー。
健康で、背が高く、自信に満ち、父が最初に未来を預けた長男。
大統領になるのはジョーだ。
家族の中では半ば冗談のように語られながら、誰もがどこかでそう信じていた。
その兄が戦争で死んだ後、空いた場所へジャックが進んだ。
下院。
上院。
大統領。
誰かから兄の代わりになれと命じられたことはないし、父もそんな言い方はしなかった。
それでも、自分の中には長い間、説明しにくい後ろめたさが残った。
兄が死ななければ、自分はここにいなかった。
だから、自分が勝つたび、その勝利の中には兄の不在が混じっているのではないか。
ジョーなら、もっと勇敢にやったのではないか。
父なら、自分の判断を弱いと見るのではないか。
ピックス湾で失敗した時も、ウィーンでフルシチョフに押し込まれた時も、キューバの空にソ連のミサイルが現れた時も、意識のどこかで二人を振り返った。
父なら。
ジョーなら。
その問いは、誰にも話したことがなかった。
ケネディは父の手へ自分の手を重ねた。皮膚は以前より薄く、指には昔ほどの力がない。
「大統領にはなったし、危機も越えた。条約も一つ作った。」
ジョセフは息子を見た。
新聞の端が風で持ち上がると、父の動く方の手がそれを押さえようとしたので、ケネディが代わりに紙を押さえた。
「でも、まだ足りないんだ。公民権法案は通っていない。核実験だって全部を止めたわけじゃない。ベトナムも、何を守っているのか分からなくなってきたし、キューバも終わっていない。」
父は何も言わなかった。
海の向こうでカモメが一度鳴き、少し遅れて波の音が聞こえた。
ケネディは父の手を握ったまま、もう一度言葉を探した。
「もう一度、勝りたいと思っていた。でも、違うな。勝ちたいんじゃない。やりたいことを、やり終えたいんだ。」
その時、父の手にわずかに力が入った。
昔のジョセフなら、握手だけで相手の腕を引き寄せたほどの力には到底及ばない。それでも、ジャックには、指が確かに握り返していることが分かった。
顔を上げると、父もまっすぐこちらを見ていた。
言葉はない。
次はもっと勝てという命令も、ジョーならどうしたという比較もない。
ただ、その手だけが離れなかった。
そこで初めて、ケネディは、自分がいまだに父から答えをもらおうとしていたことに気づいた。
ジョーならどうしたのか。
自分は十分だったのか。
父が最初に夢見た息子の場所へ、ようやく追いついたのか。
長い間、その答えを父が持っているような気がしていた。
けれど、いま父は何も言えない。
それなのに、不思議と答えを聞きたいとは思わなかった。
父より偉大になったと思ったわけでも、兄を超えたと誇りたかったわけでもない。
ただ、自分はいま、二人が見ていた場所より少し先を見ているのかもしれないと思った。
大統領になることでも、勝つことでもない。
何のために大統領でいるのかを、自分で決める場所だった。
ケネディは目を閉じた。
いつもなら、記憶のどこかから白い天井が浮かんだ。
熱に浮かされた少年が、父を待ち、医師を待ち、誰かの答えを待ちながら見上げていた白。
けれど、その日は何も出てこなかった。
目を開けると、父の肩の向こうにハイアニスポートの空が広がっていた。
雲の切れ間ではない。
端から端まで青かった。
ケネディは、その空を見たまま少し笑った。
「次は、親父のためじゃない。」
父の眉がわずかに動いた。
「怒ったか。」
ジョセフの口がゆっくり開いた。
「ノー。」
ケネディは声を上げて笑い、父の頬も少し緩んだ。
握った手には、まだわずかな力が残っていた。
海から来た風が新聞をめくり、核実験禁止条約の記事の上に、公民権法案の記事が重なった。
ケネディは、それを直さなかった。
※※※※※※※※※※
九月二十四日。
上院から届いた数字は、八十対十九だった。
ケネディは、赤と黒の数字が打たれた紙をしばらく手に持ったまま眺めていた。
民主党だけではない。
共和党議員も賛成している。
ソ連へ弱腰だ、地下実験を残す欠陥条約だ、軍事技術で後れを取る。
批准をめぐる数週間、反対派はそう主張し続けた。
それでも八十票が集まった。
「圧倒的ですね。」
ソレンセンの言葉に、ケネディは顔を上げた。
「圧倒的、か。」
窓から入る九月の薄い光の中で、彼は一九六〇年の選挙を思い出した。
あの勝利は薄かった。
イリノイ。
テキサス。
都市票。
カトリック。
ジョンソン。
テレビ討論。
いくつもの条件をつなぎ合わせ、最後にほんの少しだけニクソンを上回った。
それでも大統領にはなれた。
当時の自分には、それで十分だった。
勝つこと自体が、父への答えでも、兄のいなくなった場所へ自分が立ったことへの答えでもあったからだ。
だが、八十対十九という数字は違った。
政策を隠さずに示し、その政策ごと支持を得る。
ケネディは万年筆の先で八十という数字を軽く叩きながら、独り言のように言った。
「平和を言っても、大きく勝てるんだな。」
ソレンセンは何かを聞き返そうとしたが、ケネディは笑って首を振った。
同じ議会では、公民権法案がほとんど動いていなかった。
※※※※※※※※※※
「モスクワとは条約を結べましたが、この上院にはフルシチョフより動かしにくい男が何人もいます。」
ジョンソンは票読みの紙を机いっぱいに広げ、太い人差し指で名前を追いながらそう言った。
南部民主党。
北部民主党。
共和党穏健派。
委員長。
表では反対しながら、条件次第では動く男。
六月十一日の夜には一つの道徳として語れた問題が、議会へ入ると何十通りもの事情に分かれていく。
ケネディは票の並びを眺めながら言った。
「私は道徳の問題だと国民へ話した。それは今も変わらない。ただ、道徳だけでは票が足りないらしい。」
「議員は道徳だけでは選挙区へ帰れません。だから、一人ずつ動かすしかないんです。南部議員をひとまとめに南部議員として扱ってはいけない。委員長には委員長の事情があるし、共和党には共和党の理由がある。誰に何を渡せば票を変えられるのか、それを考えるのが政治です。」
「キングは二十五万人を動かした。」
「キング牧師は上院議員ではありません。」
ケネディは笑った。
「簡単にはいかないな。」
ジョンソンは鉛筆を机へ戻した。
「簡単なら、大統領はいりません。」
その言葉を聞いた時、ケネディは一瞬だけ父の手の感触を思い出した。
正しいことを言うだけでは足りない。
法律へ変えるには票がいる。
票を取るには人間を動かさなければならず、人間は正しさだけでは動かない。
「二期目だな。」
ジョンソンが目を上げた。
「何です。」
ケネディは票読みを閉じた。
「いや。まだいい。」
※※※※※※※※※※
十月。
秋になってから、執務室の夕方は急に短くなった。
ヒュミドールの蓋を開けると、杉と熟した葉煙草の甘い匂いが、ごく薄く立ち上がった。
中には一本しか残っていない。
キューバ産だった。
禁輸へ署名する直前には、千二百本あった。
葉巻の数を記録していたわけではないが、箱の底が見えるまで減れば、その間に流れた時間だけは分かる。
ピックス湾。
マングース作戦。
経済封鎖。
ミサイル危機。
トルコの密約。
葉巻だけは政治について何も知らないまま、その間に一本ずつ消えていった。
ケネディは最後の一本を指に挟み、鼻先へ近づけた。
まだ乾いていない。
火をつければ、禁輸前と同じ香りがするだろう。
ちょうどそこへロバートが入ってきて、兄の手元を見た。
「最後か。」
「そうらしい。」
「吸えばいいじゃないか。」
ケネディは葉巻を指の間で転がしながら少し考えた。
「まだいい。」
「何を待ってる。」
「分からない。」
それは本当だった。
元の場所へ戻して蓋を閉じると、杉と葉煙草の匂いだけが少しの間、執務室へ残った。
キューバは、もう単純な憎悪の対象ではなかった。
だからといって、カストロ政権の抑圧や政治犯を忘れたわけではない。しかし、アメリカが圧力を強めるほど島がモスクワへ近づいたことも、いまでは否定できない。
敵。
味方。
自由。
独裁。
以前なら、その言葉を並べれば世界を整理できると思っていた。
いまは、それだけでは足りなかった。
最後の一本は、終わったキューバの記念品ではなく、まだ答えを決めていない問題そのもののように見えた。
そして数日後、ベトナムが同じ問いを別の形で持ってきた。
※※※※※※※※※※
一九六三年十一月二日。
南ベトナムから届く電報は、朝から内容を変え続けた。
前日、サイゴンで軍部が蜂起し、大統領宮殿が包囲された。ゴ・ディン・ジエムと弟ヌーは脱出した後に降伏し、拘束された。
そして、死んだ。
会議の途中で入ってきた職員が薄い紙をラスクへ渡し、それがケネディまで回ってきた。
彼は同じ行を二度読んだ。
「死んだのか。」
ラスクは慎重に答えた。
「そう報告されています。殺害された可能性が高いと思われますが、詳細はまだ確認中です。」
ケネディは椅子を離れ、窓際まで歩いてから足を止めた。
六月には、僧侶がサイゴンの路上で焼身した。
八月には寺院が襲撃され、家族支配と秘密警察、仏教徒への弾圧をめぐって、アメリカが自由世界の味方として支援する政府の正統性そのものが疑われるようになっていた。
ディエム以外の政権が必要なのではないか。
そう考えたことはある。
将軍たちが動く可能性も知っていた。
アメリカはディエムを最後まで守るとは約束しなかった。
だが、殺せとは言っていない。
「われわれは、どこまで関わった。」
答えは簡単ではなかった。
クーデターを命じてはいない。
しかし、止めもしなかった。
援助のあり方を変え、ワシントンが最後までディエムを守るわけではないことを、将軍たちは理解した。
その先を、アメリカは制御できなかった。
ピックス湾の時もそうだった。
最初の条件を作り、現地の人間が動き出すと、現実はワシントンが描いた図面の外へ転がっていく。
ケネディは机へ戻り、電報を裏返した。
「不潔な味方を外せば、清潔な味方が現れる。そんなに簡単なら、外交はいらないな。」
誰も返事をしなかった。
ディエムは味方だった。
カストロは敵だった。
だが、味方という言葉はディエム政権を清潔にはしなかったし、敵という言葉だけでカストロ政権のすべてを説明できるわけでもない。
ケネディは椅子へ腰を下ろすと、会議の出席者を見回した。
「次からは、誰を倒すかだけじゃなく、その後に何を作るのかまで持ってきてくれ。始めることより、終わらせることの方が難しい。われわれは、それをもう一度忘れたらしい。」
会議はそのまま続いた。
新政府。
援助。
軍事顧問。
ゲリラ戦。
サイゴンの地名と兵力の数字が、再び机を埋めていった。
答えがないからといって、仕事を止めることはできなかった。
※※※※※※※※※※
十一月初旬。
大統領執務室へ、大きな選挙地図が運び込まれた。
丸めてあった紙を広げると両端が浮き上がったため、職員が灰皿と分厚い電話帳を重しに置いた。
一九六四年の大統領選挙まで、まだ一年ある。
共和党候補も決まっていない。
それでも政治は、候補者が決まるまで待ってはくれない。
一九六〇年の結果と最近の世論調査が重ねられた地図には、北東部、中西部、西海岸、南部それぞれの数字が細かく書き込まれていた。
現職大統領としての支持は高い。
キューバ危機を越えた評価があり、核実験禁止条約もある。景気も大きく崩れてはいない。
選挙担当者は、いくつかの州を鉛筆で指しながら説明した。
「現状なら、十分に再選を狙えます。北東部を固めて、中西部と西海岸を取る。公民権問題がありますから南部で前回と同じ形を期待するのは難しいですが、数州を失っても勝つ組み合わせはあります。」
ケネディは、その説明を最後まで聞いてから尋ねた。
「つまり、南部を失っても勝てる。」
「はい。」
一九六〇年なら、それで十分だった。
あの頃の目的は明快で、大統領になるために一票でも相手より多く取ればよかった。
勝つことそのものが父への答えでもあり、兄のいなくなった場所へ自分が進んだことへの答えでもあった。
だが、ハイアニスポートで父の手を握ってから、その答えを必要としなくなっていた。
ケネディは一度だけ目を閉じた。
白い天井は現れなかった。
代わりに、父の肩越しに見えた青い空が浮かんだ。
目を開ける。
「ありがとう。地図は置いていってくれ。」
担当者たちが資料を集め、部屋を出ていく。
ジョンソンも席を立ちかけたところで、ケネディが呼び止めた。
「リンドン、少し残ってくれ。」
扉が閉じ、廊下の音が遠くなる。
ジョンソンは再び腰を下ろした。
ケネディは地図の前へ立ち、しばらく南部の州境を眺めた後、机の上の赤鉛筆を一本取った。
「さっきの話なら、今の数字で再選はできるらしい。君もそう思うか。」
「大きな失敗をしなければ、でしょう。ただ、一年あれば大統領は何度でも失敗できます。」
「励ますのが上手だな。」
「それで呼ばれたわけではないでしょう。」
ケネディは笑った。
それから赤鉛筆の先を、南部の州境に沿ってゆっくり滑らせた。
「勝つだけでは足りないと思っている。一九六〇年みたいな勝ち方は、もうしたくない。公民権を隠さない。核実験禁止も隠さない。ソ連と話すことを弱さだとも言わせない。その上で勝ちたい。」
ジョンソンは、途中で口を挟まずに最後まで聞いていた。
「北だけで勝って、その後で南部へ公民権法を飲ませれば、北部の大統領が南部へ押しつけた法律だと言われる。十年でも二十年でもそう言われるだろう。それでは、この法律は国のものにならない。」
そこで初めて、ジョンソンの眉が上がった。
「公民権を掲げたまま、南部も取りたいと。」
「そうだ。」
「欲張りですね。」
「最近、自分でもそう思う。」
ジョンソンは少し笑ったが、ケネディはそのまま続けた。
「誰にも言い訳させないくらい勝ちたいんだ。共和党にも、議会にも、南部にも。公民権法を通す。核軍縮も先へ進める。ベトナムでは次に同じ失敗をしない。キューバだって、永遠に今のままでいいとは思っていない。そのために二期目が欲しい。」
ジョンソンの表情から、冗談めいた色が消えた。
目の前の男が欲しがっているのは、ホワイトハウスにもう四年間住む権利ではない。
自分が何をする大統領なのかを、政策ごと国民に選ばせようとしている。
ジョンソンは椅子から立ち上がった。
政治の話になると、この男は座ったままではいられない。
ケネディの横まで回り込むと、赤鉛筆を勝手に取り、テキサスの州境を太い指で囲った。
「それなら、南部を一つの塊だと思わないことです。農家もいるし、石油屋もいる。労働者も、黒人も、メキシコ系も、都市の商売人もいる。全員が同じ理由であなたを嫌っているわけではないし、全員が公民権だけで投票するわけでもない。ここだって、見た目ほど一枚岩じゃありません。」
「君とコナリーとヤーボローを同じ部屋へ入れれば、それは分かる。」
ジョンソンは大きな声で笑った。
「だからまとめられるんです。ワシントンから電話をして、南部のことを理解していますと言ったところで誰も信じない。自分で来てください。」
「テキサスへ。」
「六月にコナリーと決めた訪問があります。サンアントニオ、ヒューストン、フォートワース、オースティン。あれを党内調整と資金集めだけで終わらせるのはもったいない。」
「まだ選挙運動には早い。」
「正式には、です。」
ジョンソンの指が地図の上を北へ動き、ダラスで止まった。
「ここにも来てほしい。」
ケネディは笑った。
「一番面倒な街じゃないか。」
「だからです。歓迎する人間だけの前へ出ても、南部を取ったことにはなりません。」
ジョンソンは赤鉛筆で、空港から市街へ一本の線を引いた。
「演説をして会場へ入るだけではなく、街を通りましょう。沿道に人を出す。支持者だけじゃない。共和党員にも、保守派にも、公民権であなたに腹を立てている人にも、大統領が自分たちの街へ来たと見せるんです。」
「車列か。」
「パレードです。」
その言葉を聞いた時、ケネディの表情が少し若くなった。
「悪くない。」
「テキサスをまとめます。そこから南部です。」
ケネディは、地図から一度だけ顔を上げた。
棚の方から、閉じたヒュミドールに残る杉と葉煙草の甘い匂いが、ごくわずかに漂ってきた。
最後の一本。
禁輸前に集めさせた千二百本の最後だった。
ピックス湾より前のキューバ。
ミサイル危機より前のキューバ。
まだ、島との関係がこれほど遠くなるとは思っていなかった頃の葉だった。
しかし、その一本は過去の記念品というより、まだ結論を出していない未来の方に近かった。
ケネディはヒュミドールから地図へ視線を戻した。
「いいな。」
ジョンソンが尋ねる。
「何がです。」
「全部だ。」
机には、核実験禁止条約の資料がある。
公民権法案の票読みがある。
ベトナムから届いた電報がある。
棚には、最後のキューバ産葉巻が一本だけ残っている。
どれも完成していない。
だからこそ、次の四年間には意味があった。
核実験禁止を、核兵器を増やさない仕組みへ進める。
公民権を、演説ではなく法律にする。
ベトナムでは、誰を倒すかではなく、その国に何を残せるかを考える。
キューバにも、いつか別の答えを探す。
一九六〇年には見えていなかった仕事が、いまは地図の向こうにいくつも見えていた。
父へ追いつこうとしていた頃には、勝利の先に何があるかまで考えなかった。
兄の空いた場所を埋めようとしていた頃には、大きな勝利そのものに価値があると思っていた。
いま欲しい勝利は違う。
何をする大統領なのかを隠さず、それでも選ばれること。
平和を弱さと呼ばせず、自由を北部だけの正義にせず、その上で南部まで同じ国の中へ引き込むことだった。
「リンドン。南部まで取れたら、どのくらい勝てる。」
ジョンソンは地図へ両手をつき、本気で計算するように州を見渡した。
「北東部を守る。中西部を割らない。西海岸を取る。その上で、テキサスを中心に南部を残せれば――」
赤鉛筆を指先で転がす。
「地滑りです。圧倒的な勝利になる。」
ケネディは、その言葉を口の中で確かめるように繰り返した。
「圧倒的な勝利。」
一九六〇年、彼は大統領になるために勝った。
次は違う。
父に認めてもらうためでも、兄が立つはずだった場所へ自分がふさわしいと証明するためでもない。
病院の白い天井の下で、誰かが自分の未来を決めてくれるのを待っていた少年でもない。
初めて、自分が選んだ未来のために勝つ。
「やろう。」
ジョンソンがすぐに頷いた。
「テキサスからです。」
「ダラスも。」
「もちろん。」
「街を通ろう。できるだけ大勢に見てもらう。」
「任せてください。」
ジョンソンが赤鉛筆をダラスからオースティンへ走らせた。
二人はもう一度、地図へ身を寄せた。
サンアントニオからヒューストンへ。
フォートワースからダラスへ。
そこからオースティンへ。
さらに南部へ。
その先は国全体へ続いていた。
ケネディは、ふと顔を上げた。
窓の外には、秋の夕方の空が残っていた。
幼い頃、目を開けば白い天井があった。
いま、目を上げれば空がある。
四年あれば、もっとできる。
条約を増やせる。
法律を通せる。
間違った政策を直せる。
まだ話していない相手とも、話せるかもしれない。
国を変えられる。
ケネディは地図の上のダラスを指で軽く叩いた。
「まず、ここへ行こう。」
ジョンソンが笑った。
「歓迎しますよ、大統領。」
「君が言うと信用できないな。」
「では、確かめに来てください。」
二人の笑い声が、夕方の執務室に残った。
棚の中では、最後のキューバ産葉巻がまだ火をつけられないまま残り、窓の向こうには、病院の白い天井とは違う空がどこまでも広がっていた。
地図は、まだ畳まれなかった。
次回から新編。
また主役をキューバに戻します。本当は対立を避けたいカストロとケネディ。歴史に埋もれた事実から、かなり大きな可能性を語ります。
そして現実は残酷にも不可逆です。
更新は、水・金・日の夜です。
次回は水曜日の夜更新予定です。
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