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192,平和と自由

キューバ危機終結後のケネディ。

世界は激しく動いていきます。

ケネディ編もあとわずか。

一九六三年四月末、ワシントン。


大統領執務室のヒュミドールには、七本の葉巻が残っていた。


ケネディは蓋を開けたまま、杉板の上に並ぶ濃褐色の葉巻を見下ろした。


禁輸へ署名する前、サリンジャーに集めさせたキューバ産だった。千二百本あったはずの箱は、いくつもの棚や保管庫へ分けられ、来客に出され、夜の会議で吸われ、少しずつ姿を消してきた。


葉巻の数を数える習慣はなかった。


それでも、底板が見えるようになると、残りが気になった。


ケネディは一本へ指を伸ばしかけ、やめた。


蓋を閉じると、机の引き出しから細い爪やすりを取り出した。


その時、マクジョージ・バンディが書類を持って入ってきた。


後ろには、CIAから説明に来た職員がいる。


「キューバから戻った記者について、報告があります。」


ケネディは左手の親指へやすりを当てた。


「どこの記者だ。」


「ABCのリサ・ハワードです。もとは女優でしたが、いまは自分のニュース番組を持っています。国連ではフルシチョフ議長を長時間取材し、ウィーンの首脳会談も追っています。」


「今度はカストロか。」


「はい。四月二十二日、撮影時間を含めると十時間ほど話しています。ゲバラやラウル・カストロにも取材しました。」


やすりが爪の端を往復した。


「私より長いな。」


バンディは笑わなかった。


「公式取材が終わった後も、カストロは彼女を残しています。話題は、キューバ危機、経済封鎖、ソ連との関係、アメリカへの不信です。」


「珍しい話ではない。」


「一つだけ、これまでと調子の違う部分があります。」


ケネディは爪の形を光へ向けた。


CIA職員が書類を開いた。


「ハワードの見立てでは、カストロはアメリカとの関係改善を完全には拒んでいません。条件が整うなら、共存の可能性を探りたいと考えているようです。」


やすりの音が止まった。


ケネディは職員を見た。


「本人が、そう言ったのか。」


「明確な提案としてではありません。彼女との非公式な会話の中で、アメリカとの敵対が永遠に続く必要はない、という趣旨を繰り返しています。」


「記者の解釈か。」


「一部はそうです。」


「カストロの言葉と、彼女の印象を分けておけ。」


「はい。」


ケネディは再び爪を整え始めた。


「それで十分だ。ファイルに残しておけ。」


バンディは書類を閉じなかった。


「これ以上、調べますか。」


「いまはいい。」


「大統領。」


「記者が一人の男と十時間話した。それはニュースにはなる。外交には、まだならない。」


バンディは報告書を抱え直した。


ケネディは関心を失ったように、次の爪へやすりを当てた。


しかし、二人が部屋を出ても、報告書は机の端に残された。


カストロを憎んでいるわけではなかった。


ピックス湾で敗れたからでも、危機の十三日間に核兵器を向けられたからでもない。


キューバという名には、失敗した作戦、制御できなかった情報機関、追い詰めた島、ソ連へ接近した革命、秘密のトルコ撤去が重なっていた。


ケネディは、アメリカがカストロを作ったとは考えていない。


革命も、土地改革も、反米感情も、島の歴史から生まれた。


だが、アメリカが逃げ道を一つずつ閉じ、カストロがモスクワへ向かう道を広げたことまで否定するつもりはなかった。


強い側にとって当然に見える要求が、弱い側には生存を奪う命令として見える。


キューバ危機で、ケネディはその違いを知った。


だからといって、キューバに核ミサイルを置くことを認められたわけではない。


相手の恐怖を理解することと、相手の要求に従うことは同じではなかった。


ケネディは爪やすりを置いた。


机の端に残った報告書の表紙には、リサ・ハワードという名があった。


彼はそれを引き出しへ入れなかった。


別の書類を上へ重ねただけだった。


※※※※※※※※※※


五月、閣議室の机には、キューバではなく世界地図が広げられていた。


赤い印は、核兵器を持つ国を示している。


アメリカ。


ソ連。


イギリス。


フランス。


その外側には、中国の核開発についての情報が置かれていた。


「フランスは、自国の抑止力を手放しません。」


ラスクが言った。


「中国も、開発を止める理由がありません。北京から見れば、アメリカもソ連も核保有国です。」


マクナマラが資料をめくった。


「核実験を全面的に禁止するには、地下実験の査察が必要です。しかしソ連は、自国内への現地査察を諜報活動と考えています。」


「査察なしで、地下実験を見分けられるのか。」


ケネディが尋ねた。


「地震との区別が難しい事例があります。遠隔観測だけで完全に検証するのは困難です。」


「なら、包括的な禁止はまとまらない。」


「現状では、その可能性が高いでしょう。」


マクナマラは丁寧に答えた。


「ただし、大気圏内、宇宙空間、水中の実験であれば、外部から確認できます。地下実験を残すことになりますが、放射性降下物を減らす効果はあります。」


軍側からは反対が出た。


ソ連が地下で実験を続ければ、アメリカの技術的優位が失われる。


全面禁止でない条約は、相手に時間を与えるだけだ。


核兵器を持たない国が、条約を口実に独自開発を進める可能性もある。


ケネディは、各人の説明を最後まで聞いた。


キューバ危機の前なら、完全な保証のない案を弱い案と見たかもしれない。


だが、危機を終わらせた合意も完全ではなかった。


国連査察団はキューバ国内へ入れなかった。


アメリカは航空写真と、ソ連船の甲板に積まれたミサイルを海上から確認した。


最初に決めた形式をすべて守れなくても、攻撃兵器を島から出すという目的は達成された。


「二つの政府でも、最後まで自分たちの軍を制御できなくなりかけた。」


ケネディが言った。


「モスクワの命令か分からないまま、われわれのU-2が撃ち落とされた。こちらも、報復を一日止めるのが精いっぱいだった。」


誰も口を挟まなかった。


「核兵器を持つ国が、五つ、十と増えれば、指導者も軍隊も増える。誤解も、事故も、勝手に撃つ者も増える。全員が賢明であることを前提にした仕組みは、いつか壊れる。」


「だからこそ、アメリカは優位を保つ必要があります。」


軍人の一人が言った。


「優位を保つことと、核を持つ国を増やさないことは矛盾しない。」


ケネディは返した。


「われわれが空で実験を続け、放射性物質を世界へ降らせながら、ほかの国には核を持つなと言っても説得力はない。」


ラスクが地図を見た。


「部分的な禁止なら、モスクワも応じる可能性があります。」


「完全でないから、何もしないのか。」


ケネディは机の資料を閉じた。


「それとも、止められるものから止めるのか。私は後者を選びたい。」


会議が終わると、ソレンセンだけが残った。


彼の手には、アメリカン大学で予定されている演説の草稿があった。


「平和について、ここまで踏み込めば、弱腰だと攻撃されます。」


「誰に。」


「共和党だけではありません。軍も、亡命者団体も、東欧系の有権者もです。ソ連を信頼できる相手として扱う文章に見えます。」


「信頼できるとは書いていない。」


ケネディは草稿を受け取った。


「なら、何を伝えたいのです。」


「ソ連人も死ぬということだ。」


ソレンセンは黙った。


ケネディは文章を目で追った。


「われわれは、平和と言いながら、相手の体制が消えることを条件にしてきた。だが、ソ連が明日なくなるわけではない。向こうも、われわれがなくなるまで待つつもりはない。」


「共存ですか。」


「生存だ。」


ケネディは紙を机へ置いた。


「相手の社会を好きになる必要はない。相手の指導者を信用する必要もない。だが、向こうの子どもも、核戦争では同じように焼ける。それを認めない平和は、次の危機までの休憩にすぎない。」


「キューバ危機を入れますか。」


「直接は入れない。」


「最大の根拠です。」


「だから入れない。」


ケネディは窓の外を見た。


「勝った大統領が寛大になったように聞こえる。そうではない。私は、勝ったから平和を言うんじゃない。勝敗そのものが意味を失うところまで行ったから言うんだ。」


※※※※※※※※※※


一九六三年六月十日。


アメリカン大学の卒業式で、ケネディは平和について語った。


アメリカの兵器によって世界へ押しつける平和ではない。


戦争の墓場にしか存在しない静けさでもない。


人間が生き、国家が成長し、子どもたちが未来を選べる平和。


ソ連の人々が、第二次世界大戦でアメリカが経験した以上の損失を受けたことにも触れた。


相手の苦しみを認めることは、相手の政治体制を認めることではない。


ただ、人類が同じ空気を吸い、同じ核兵器によって滅びる存在であることを認める。


ケネディは、モスクワでの核実験禁止交渉を再開すると発表した。


演説が終わると、拍手が続いた。


ホワイトハウスへ戻る車の中で、ソレンセンが新聞社からの第一報を読み上げた。


「融和への転換。ソ連への呼びかけ。冷戦政策の修正。」


「弱腰は。」


「これからです。」


ケネディは笑った。


「なら、まだ届いていないな。」


翌日、弱腰という言葉より先に、炎の写真が届いた。


※※※※※※※※※※


一九六三年六月十一日。


南ベトナムの首都サイゴンで、一人の僧侶が道路に座った。


ティック・クアン・ドック。


周囲の僧侶たちがガソリンをかけ、彼自身が火を受け入れた。


身体が炎に包まれても、僧侶は立ち上がらなかった。


ディエム政権による仏教徒への弾圧に抗議するためだった。


写真は通信社を通じて、ワシントンへ送られた。


ケネディは、執務室でその一枚を見た。


炎の中心に、黒い人影が座っている。


騒ぐ群衆。


道路に倒れた容器。


そのすべての中で、僧侶だけが動いていなかった。


「ディエム政府は何と言っている。」


ケネディが尋ねた。


ラスクが答えた。


「反政府勢力による宣伝工作だと主張しています。仏教徒側の要求には、すでに対応しているとも。」


「対応した結果がこれか。」


誰も答えなかった。


南ベトナムは味方だった。


共産主義の拡大を止める前線として、アメリカが資金を出し、軍事顧問を送り、政権を支えている。


だが、味方であることは、その政権を清潔にしなかった。


ディエムの家族支配。


弟ヌーと秘密警察。


カトリック優遇。


仏教徒の旗を禁じ、抗議を弾圧する政府。


アメリカが敵と呼ぶ政権にも、抑圧や独裁はある。


カストロのキューバも例外ではない。


しかし、敵が汚れていることによって、味方の汚れが消えるわけではなかった。


机の端に、別の報告が置かれていた。


アラバマ大学。


ジョージ・ウォレス知事が、黒人学生ヴィヴィアン・マローンとジェームズ・フッドの入学を阻止するため、校舎の入口に立つという。


サイゴンでは、アメリカが支援する政権に抗議して僧侶が焼けた。


アラバマでは、アメリカの州知事が、二人の学生を皮膚の色だけで大学から締め出そうとしている。


ケネディは写真を伏せた。


「アラバマは。」


ロバートが答えた。


「ウォレスは予定通り立つつもりだ。ニコラス・カッツェンバックを行かせている。裁判所命令を示し、学生を入れるよう求める。」


「従わないだろう。」


「おそらく。」


「州兵は。」


「知事の指揮下にある。」


ケネディはサイゴンの写真へ一度目を戻した。


「連邦軍指揮下に置く。」


ロバートは頷いた。


「ウォレスを逮捕するか。」


「必要はない。」


「入口を塞ぎ続ければ。」


「学生を入れる。それが目的だ。ウォレスを英雄にすることじゃない。」


ケネディは立ち上がり、アラバマ大学の配置図へ近づいた。


「州兵が連邦命令を伝える。彼が退く場所を残せ。テレビの前で引きずり出せば、南部では殉教者になる。」


「退路を与えるのか。」


「目的は退路じゃない。」


ケネディは振り返った。


「マローンとフッドを大学へ入れることだ。ウォレスが納得するまで待つつもりはない。だが、納得しない人間を必要以上に辱める理由もない。」


キューバ危機と同じではなかった。


核兵器をめぐる国家間交渉と、黒人学生の法的権利を同じ秤へ載せることはできない。


それでも、政治の方法には重なる部分があった。


力を準備する。


目的は譲らない。


相手が引ける形を残す。


違いは、何を妥協できるかだった。


キューバとの外交では、双方の安全保障を取引できる。


人種によって大学への入学を拒むことに、半分だけ認める妥協はなかった。


午後、ウォレスは州兵から大統領命令を伝えられた。


彼は短い声明を読み、入口から退いた。


ヴィヴィアン・マローンとジェームズ・フッドは大学へ入った。


銃撃はなかった。


逮捕もなかった。


だが、法律は実行された。


その夜、ケネディは予定になかったテレビ演説を行うことにした。


※※※※※※※※※※


演説原稿は、放送の直前まで書き直された。


会議室には、ロバート、ソレンセン、バーク・マーシャルらが残っていた。


ケネディは一枚目を読み、途中で紙を置いた。


「法律の説明だけでは足りない。」


ソレンセンが尋ねた。


「何を加えますか。」


「これが道徳の問題だということだ。」


「南部は反発します。」


ロバートが言った。


「すでにしている。」


「法案を出せば、もっと強くなる。州の権限ではなく道徳だと言えば、彼らの生活そのものを非難されたと受け取る。」


ケネディは頷いた。


「そう受け取るだろう。」


「それでも言うのか。」


「言わなければ、何のために連邦兵を動かしたのか分からなくなる。」


机には、アラバマ大学から届いた報告と、サイゴンの写真が並んでいた。


自由世界。


アメリカは、その言葉を国外で何度も使ってきた。


キューバへは、自由を取り戻すためだと圧力をかけた。


南ベトナムへは、自由を守るためだと援助を送った。


だが、その自由が、誰のためのものなのかを説明しなければならない。


アメリカが自由を語る時、キューバには支配の言葉として聞こえた。


南ベトナムでは、自由を守る同盟国の警察が仏教徒を殴った。


国内では、黒人の子どもが白人と同じ学校へ入るために、連邦政府の護衛を必要としていた。


「海外で自由を説きながら、国内でこれを続けることはできない。」


ケネディが言った。


「南部の反発を理解することはできる。家族も、教会も、町も、長い間この仕組みの中で生きてきた。連邦政府に生活を変えられると感じるだろう。」


バーク・マーシャルが聞いた。


「だから時間を与えますか。」


「時間は与えられてきた。」


ケネディは原稿を引き寄せた。


「百年だ。」


誰も言葉を返さなかった。


「相手の恐怖が分かるからといって、正しいことを後回しにしていいわけではない。キューバでは、こちらの圧力が相手をモスクワへ押したことを考えなければならなかった。だが、黒人市民に自由を与えれば南部が反発するからといって、自由を減らすことはできない。」


ロバートは兄を見た。


「キューバを演説に入れるなよ。」


「入れない。」


ケネディは答えた。


「私が考えているだけだ。」


放送が始まった。


ケネディは、アメリカ国民へ問いかけた。


自分の子どもが、皮膚の色だけで学校へ入れなかったらどう考えるのか。


公共の場所で食事を断られ、投票する権利を妨げられ、自由を求めることさえ許されなかったらどう感じるのか。


これは南部だけの問題ではない。


法律だけの問題でもない。


国家全体の道徳の問題だった。


カメラの向こうには、支持する者も、怒る者もいる。


ケネディは、全員を説得できるとは思っていなかった。


それでも、何を正しいと考える大統領なのかを、初めて曖昧にせず示した。


放送が終わると、室内に照明の熱が残った。


ソレンセンが原稿を集めた。


「これで、次の選挙は難しくなります。」


ケネディは椅子から立ち上がった。


「選挙のために言ったんじゃない。」


「そういう演説ほど、選挙へ響きます。」


「なら、その時に考える。」


翌朝、ミシシッピ州から電話が入った。


公民権運動家メドガー・エヴァースが、自宅前で撃たれた。


病院へ運ばれたが、助からなかった。


ケネディは報告を聞いた後、しばらく何も言わなかった。


前夜の演説は、自由を与えたわけではない。


大統領が道徳を語っても、銃を持つ者の指は止まらなかった。


言葉を法律へ変えなければならない。


法律を実行する力へ変えなければならない。


※※※※※※※※※※


一九六三年六月十九日。


ケネディは、公民権法案を議会へ送った。


公共施設での人種差別を禁じる。


学校統合を進める連邦政府の権限を強める。


雇用における差別を抑える。


法案は、演説より重かった。


言葉なら、その夜だけ喝采されることも、怒りとともに忘れられることもある。


法律は、票を必要とする。


委員会を通り、下院と上院を通り、南部議員の抵抗と議事妨害を越えなければならない。


机には、公民権法案のほかに、核実験禁止交渉の資料が置かれていた。


その下には、サイゴンで焼身した僧侶の写真がある。


さらに下に、リサ・ハワードのカストロ取材報告が半分だけ見えていた。


ケネディは書類の重なりを眺めた。


敵国との間では、相手にも恐怖があると認めなければ平和を作れない。


自国内では、反発する者の恐怖を理解しても、自由そのものを取引してはならない。


同盟国だから正しいとは限らない。


敵国だから、話す価値がないとも限らない。


その区別は、以前より曖昧になった。


だが、何を目指すべきかは、以前より明確になっていた。


ケネディはヒュミドールを開けた。


キューバ産葉巻は、三本になっていた。


一本を手に取り、包装された葉の香りを確かめる。


火はつけなかった。


しばらく指の間で転がした後、元の場所へ戻した。


蓋を閉める。


キューバは、まだ終わっていない。


南ベトナムも、公民権も、核兵器も終わっていない。


大統領として何かを残そうとするたび、キューバという古傷が、別の問題の下で小さく疼いた。


力だけでは、相手を望む場所へ動かせない。


正しさだけでも、人は動かない。


それでも、何を守り、何を譲らないかは決めなければならない。


キューバ危機は、ケネディに強い大統領という像を与えた。


だが、彼が残そうとしたのは、その像ではなかった。


外では、核兵器を持つ国を増やさないこと。


内では、皮膚の色によって自由を減らさないこと。


失敗を覆い隠すためでも、支持率を守るためでもない。


それを実際の条約と法律へ変えることが、初めて彼自身のレガシーになろうとしていた。

ケネディ家を背負い数奇な運命ののち大統領になったケネディ。

彼は何を手に入れ何をうしなったのか。


更新は、水・金・日の夜です。

次回は日曜日の夜更新予定です。


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