181,アイゼンハワーの置き土産
若い大統領ケネディ。
彼が就任して初めのピンチが訪れます。
それはアイゼンハワー政権の危険な置き土産でした。
一九六〇年十二月、ワシントン
「国防長官ですか。」
ロバート・マクナマラは、聞き間違いを確かめるように問い返した。
細い金属縁の眼鏡の奥で、視線だけがケネディから同席者へ移った。冗談を告げられたと思った様子はなかったが、引き受ける意思を示したようにも見えなかった。
大統領就任を控えたケネディは、政権移行のために借りた事務所で新内閣の人選を進めていた。まだホワイトハウスへ入っていないというのに、机の上には各省庁から届いた報告書が積まれ、秘書たちは十分刻みで面会者を入れ替えている。
その日の面会者であるマクナマラは、前月、フォード・モーター社の社長に就任したばかりだった。
第二次世界大戦中には陸軍航空軍で爆撃作戦の統計分析に携わり、戦後は同僚たちとともに経営難に陥っていたフォードへ入った。生産量、原価、販売実績、事故率を数字によって捉え、創業家出身者以外では初めて社長に選ばれた人物である。
自動車会社の経営者としては、申し分のない経歴だった。
軍隊を指揮した経験はなかった。
「国防総省を任せたいと思っています。」
ケネディが言い直すと、マクナマラは膝の上で組んでいた指をほどいた。
「率直に申し上げますが、私は国防政策の専門家ではありません。陸軍航空軍には在籍しましたが、扱ったのは作戦そのものより、爆撃機の効率や損耗率です。国防長官に必要な経験を持っているとは思えません。」
「私にも、大統領を務めた経験はありません。」
ケネディが答えると、部屋の隅にいた弟のロバートがわずかに目を伏せた。笑うべきか迷ったらしい。
マクナマラは笑わなかった。
「大統領は選挙によって選ばれます。私は、国防総省を管理する能力によって選ばれるのでしょう。」
「国防総省を管理した経験を持つ人間を探したら、現職の国防長官しか残りません。新しい政権を作る意味がなくなる。」
「軍には、自動車会社とは異なる論理があります。」
「だから来てもらいたいのです。軍人の論理だけで軍を運営するなら、長官は制服を着た人間の中から選べばいい。しかし国防には、予算も産業も外交もあります。何より、国民の税金をどこへ使うのかという問題がある。」
マクナマラは返事をせず、机の上の資料へ目を落とした。
ケネディは、面接を受けているのが自分のほうではないかと思い始めていた。
選挙中は、会った相手が何を求めているかを察し、それに応じて話を運べばよかった。ところが政権の人事では、相手が断れば本当に来ない。候補者の笑顔も、テレビ映りも役には立たなかった。
「フォードの社長になって、まだ五週間ほどでしょう。」
ケネディが言った。
「そのとおりです。」
「五週間なら、引き継ぎも簡単なのではありませんか。」
「会社へ損害を与える時間がなかった、とおっしゃりたいのですか。」
マクナマラの声は丁寧なままだったが、ケネディは初めて、その男にも冗談を理解する場所があると知った。
「そう言おうとしたのですが、先に言われました。」
ロバートが今度は笑った。
マクナマラは眼鏡を押し上げた。
「仮にお引き受けするとしても、いくつか条件があります。省内の人事と組織の見直しについて、実質的な権限が必要です。各軍が提出する数字を、そのまま受け取るだけの長官になるつもりはありません。必要な場合には、大統領へ直接意見を申し上げます。」
「直接言ってください。人を何人も通ると、最後には私が最初から賛成していたことになっています。」
マクナマラは、そこで初めて微笑した。
面会が終わり、秘書が彼を次の部屋へ案内すると、ロバートは閉じた扉を見たまま言った。
「国防を知らないと言う男を、国防長官にするのか。」
「知らないと言える人間を探した。ワシントンでは、かなり珍しい。」
「兄さんも、大統領について何も知らないと認めるべきだな。」
「さっき認めただろう。」
ケネディは次の面会予定を見た。知らない名前が三つ並び、その横には、すでに決まっている話を相談したいという意味の文章が添えられていた。
選挙に勝てば、自分で人を選び、自分の政権を作れると思っていた。
だが新しい政権を作る仕事は、知らない人間の中から、何を知らないかを正直に話す者を探すことから始まっていた。
※※※※※※※※※※
一九六一年二月、ホワイトハウス
「大統領になれば、何でも決められると思っていた。」
ケネディは、大統領執務室の机に積まれた書類を眺めながら言った。
就任から一か月も経っていない。まだ椅子の位置にも、秘書を呼ぶボタンにも慣れていなかった。給仕係を呼ぶつもりでボタンを押し、三人の補佐官を同時に入室させたこともある。
食事の時刻を三十分遅らせれば、厨房だけでなく警護官と記者団の日程まで変わった。外へ歩きに出ようとすれば、先に警護官が道を調べ、散歩から戻る頃には新聞記者が、そこに外交的な意味があったのかと尋ねてくる。
「実際には、決めなければならないことが多すぎて、何一つ自分で決めた気がしない。」
窓際の椅子に座ったロバートが、司法省から持ってきた書類を閉じた。
大統領の弟は、政権発足と同時に司法長官となっていた。身内を要職へ置いたという批判は出たが、ケネディにとって、父の意向でも世論調査の数字でもなく、自分の不満をそのまま話せる相手は、政権の中に弟しかいなかった。
「何を言われたんだ。」
「みんな最後に同じことを言う。大統領のご判断です、と。その前の一時間で、選べる答えを一つにしてからだ。」
「判断を尊重されている。」
「彼らが尊重しているのは、私の署名だ。」
机の端には、各省庁の高官を交代させるか、留任させるかを整理した一覧が置かれていた。
国務省、国防総省、財務省、各国大使館、統合参謀本部、情報機関。選挙運動の最中、政権交代とは、アイゼンハワーとニクソンの名前を自分たちの名前へ替えることのように思えていた。
実際の国家は、名前を替えただけでは動かなかった。
大統領が交代した朝にも、大使館は電報を送り、軍艦は航行し、税関は港を開き、情報機関は他国の通信を読んでいる。すべての人間を入れ替えれば、新政権を作る前に国家のほうが止まってしまう。
ケネディは一覧の一行を指で叩いた。
「アレン・ダレス。留任。」
アレン・ダレスは、アイゼンハワー政権で八年近く中央情報局を率いてきた。外交官と国際法律家を経て、第二次世界大戦中には欧州で情報活動に携わり、戦後はCIAの秘密工作を、アメリカ外交の表から見えない腕へ育てた人物である。
「彼は、私が選んだのか。」
ロバートが一覧をのぞき込んだ。
「辞めさせなかった。」
「それは選んだことになるのか。」
「大統領になれば、なるらしい。」
ケネディは紙を裏返したが、裏面にも別の留任者が並んでいた。
「マクナマラは自分で連れてきた。ダレスは、前の住人が置いていった家具みたいなものだな。」
「家具なら、気に入らなければ動かせます。」
声をかけたのは、マクジョージ・バンディだった。
四十一歳のバンディは、ハーバード大学文理学部長から、国家安全保障担当の大統領特別補佐官へ転じたばかりである。学者らしい整った言葉と、複雑な議論を短い紙へ収める能力を買われ、外交と安全保障に関する情報を大統領の机へ運ぶ役目を与えられていた。
バンディは薄い書類を机へ置いた。
「人間の場合、動かすと議会や同盟国が理由を尋ねます。ダレス長官の留任は、経験の少ない政権でも情報活動の継続性を保つという意味で受け取られています。」
「また継続か。」
ケネディは表紙を見た。
そこには、キューバに関する機密説明と記されている。
「新政権になってから、継続している話しか聞いていない。」
「新しく始めるかどうかを決めるのが、大統領ではないのか。」
ロバートが言った。
ケネディは弟を見た。
「それを、もう少し早く教えてくれ。」
バンディは冗談に反応せず、次の予定を確認した。
「ダレス長官から、前政権で承認された対キューバ計画について説明があります。すでに人員の訓練と資材の準備が進んでいます。」
「説明を受けるのか。承認を求められるのか。」
「おそらく、両方です。」
「順番はどちらだ。」
バンディは少し考えた。
「そこを確認するのも、大統領のご判断かと思います。」
ロバートが笑い、ケネディは椅子の背へ身体を預けた。
大統領のご判断。
便利な言葉だった。
ケネディは表紙を開かなかった。
「ダレスは、いつ来る。」
「三十分後です。」
「それまでに、この計画がどこから来たのかだけ教えてくれ。」
バンディは机の上へ置いた書類を開いた。
「直接の承認は、アイゼンハワー政権下で行われました。キューバ人亡命者を組織し、訓練し、カストロ政権への抵抗運動を支援する計画です。」
「アイゼンハワーが決めた。」
「最初の枠組みは。」
「では、私が中止すれば、前大統領の政策を捨てたことになる。」
「そう受け取る者もいるでしょう。」
「続ければ、私の政策になる。」
「そうなります。」
ケネディは書類を見下ろした。
前任者の決定は、続けてもやめても、新しい大統領の決定になる。
政権交代とは、白紙の机を受け取ることではなかった。
すでに書き込まれた紙の余白へ、自分の名前を書くことだった。
※※※※※※※※※※
同日、中央情報局
中央情報局長アレン・ダレスの前には、西半球を描いた大きな地図が広げられていた。
北にはカナダとアメリカ、南にはメキシコから中央アメリカ、カリブ海、南米大陸が続く。国境線は色分けされ、港、飛行場、鉄道、鉱山、油田、砂糖の生産地、アメリカ軍が利用できる基地が細かな記号で示されていた。
地図の上では、すべての国が同じ種類の線で囲まれている。
各国には国旗があり、大統領がいて、議会と憲法があった。
しかし、その線の内側で作られたものがどこへ売られ、軍がどこの武器を使い、政権がどこの銀行から金を借りるかまで見れば、国境線とは別の地図が浮かび上がる。
ダレスの隣では、リチャード・ビッセルが会議用の資料を順番に揃えていた。
ビッセルはCIAの計画担当副長官として秘密工作を担い、反カストロ亡命者の訓練、航空部隊、輸送船、宣伝放送、上陸後の政治構想を実務面から組み立ててきた人物である。
「大統領には、どこから説明しますか。」
ビッセルが尋ねた。
「キューバから始める。」
「西半球全体ではなく。」
「西半球から話し始めれば、歴史の講義になる。」
ダレスは地図の中央にある小さな島へ指を置いた。
「キューバがなぜ一つの島では済まないかを説明する。そのために必要な分だけ、過去へ戻る。」
ビッセルは資料を一枚抜き出した。
「ケネディは選挙中、バティスタ政権を支えたアメリカにも責任があると話しています。」
「知っている。」
「カストロが力を得たのは、われわれが独裁者を支え、民主的な改革を促さなかったからだと。」
「それも知っている。」
ダレスの声には、反論を急ぐ様子がなかった。
「否定しますか。」
「否定する必要はない。」
ビッセルは顔を上げた。
「認めるのですか。」
「バティスタが腐敗していたことか。キューバ社会の不満を理解せず、選挙より警察を信じたことか。われわれが、その政権へ武器と承認を与え続けたことか。」
ダレスは指先を地図から離した。
「どれも、いまさら隠す話ではない。」
「なら、大統領は、革命の責任がアメリカにあると考えるでしょう。」
「革命が生まれた理由と、革命が現在どちらへ向かっているかは別の問題だ。」
ダレスは椅子へ腰を下ろした。
「過去の政策に誤りがあったと認めたところで、ソ連の拠点をフロリダ沖に残す義務は生じない。」
ビッセルは、選挙演説を抜粋した紙を見た。
ケネディは、バティスタに与えたアメリカの援助が、キューバ人の目に民主主義と独裁を同じものとして映したと語っていた。自由を説く国が、自由選挙を拒む政権へ武器を渡した。その矛盾が、カストロに反米を革命の言葉として与えたのだと。
「問題は、大統領がカストロへ同情しているかどうかではありません。」
ビッセルが言った。
「自分が、古い支配を戻す作戦へ署名したと思うかどうかです。」
「だから、古い支配を戻すのではないと説明する。」
「実際には。」
ダレスはビッセルを見た。
「実際にも違う。バティスタを復帰させる計画ではない。亡命者が暫定政府を作り、キューバ人が自国の政権を選び直す条件を整える。」
「こちらが選んだ亡命者へ、こちらが武器と船を与える。」
「支援を受けない反対派など存在しない。」
ダレスは机の隅に置かれた別の地図を引き寄せた。
そこには、第一次世界大戦後のヨーロッパと、中東、アジアの国境が描かれていた。
「ベルサイユで何が変わったと思う。」
ビッセルは、突然の問いに少し間を置いた。
「帝国が解体され、民族自決が原則になりました。」
「帝国の一部が解体された。支配そのものがなくなったわけではない。」
ダレスは、旧オーストリア=ハンガリー帝国と旧オスマン帝国の領域を指した。
「戦争の前まで、大国は領土を取れば自国の色で塗った。戦争のあと、それを正当化する言葉が変わった。国旗を与え、政府を置き、条約を結ぶ。国家としての外形を残したまま、軍事と外交の方向を決める。」
「委任統治ですか。」
「それだけではない。」
ダレスの指はヨーロッパから満洲へ移った。
「日本は満洲国を作った。ドイツも占領地へ協力政権を置いた。国旗も政府も用意した。」
「成功しませんでした。」
「背後の軍隊が見えすぎたからだ。」
ダレスは即座に答えた。
「彼らは、現地政府を置けば征服が合法に見えると思った。だが、国境を越えてきた兵士が町を占領し、命令する者まで外国人なら、旗を替えたところで意味はない。」
「それだけが敗因ではありません。」
「もちろんだ。彼らは戦争そのものに負けた。」
ダレスは認めた。
「だが、戦争に勝ち続けなければ維持できない秩序は、統治としては失敗している。占領軍が背を向けた瞬間に崩れるからだ。」
ビッセルは、西半球の地図へ目を戻した。
「われわれは違うと。」
「違わなければならない。」
ダレスはアメリカ南部からカリブ海へ指を滑らせた。
「われわれも、かつては海兵隊を送った。税関を管理し、憲法へ介入権を書かせ、政権が気に入らなければ軍艦を港へ入れた。」
地図上のキューバ、ドミニカ共和国、ハイチ、ニカラグアには、過去の介入を示す印がつけられていた。
「西米戦争でスペインをカリブ海から追い出した。キューバを占領し、独立させる条件として介入権を残した。あの頃のモンロー主義は分かりやすかった。欧州を入れず、その代わりにわれわれが直接入った。」
「第一次大戦後に変わった。」
ビッセルが言った。
「欧州が弱った。」
「それだけではない。われわれが強くなった。」
第一次世界大戦後、欧州諸国は戦債と復興に追われ、アメリカは債務国から債権国へ変わった。西半球へ軍艦を送り続ける余力を失った欧州に代わり、アメリカの銀行と企業が鉄道、鉱山、農園、電力、通信へ資金を入れた。
軍隊を常駐させなくても、融資が止まれば政府予算が立たなくなる。
アメリカ市場が閉じれば、砂糖も銅もコーヒーも売れなくなる。
現地の政府は独立していた。
ただし、選べる政策の幅は、金と市場を握る側によって狭められていた。
「第二次大戦が終わった時には、欧州から西半球へ影響力を戻せる国はほとんど残っていなかった。」
ダレスは続けた。
「その代わり、ソ連が現れた。」
「そこで、米州共同防衛体制ですか。」
「共同防衛だけではない。貿易、軍事援助、将校教育、外交承認。各国が自分の政府を持ちながら、西側へ残る理由を作った。」
「理由を作った。」
ビッセルは、その表現を繰り返した。
「命令したのではなく。」
「命令だけで国は動かない。」
ダレスは穏やかに言った。
「長く続く秩序は、その国の軍人、実業家、地主、官僚が、自分たちの利益として守らなければならない。外国の兵士が銃を向けなくても、越えてはならない線が理解されている状態を作る。」
「アメリカ企業を接収しない。ソ連に基地を与えない。共産党を政権へ入れない。」
「米州の安全保障から離れない。」
「越えれば。」
「融資が止まり、承認を失い、軍や反対派の中に別の選択肢が現れる。」
ダレスは、それを脅しとしてではなく、国家間の力学として語った。
各国の大統領は、ホワイトハウスから届く命令書だけで動いているわけではない。国内の支持基盤を持ち、アメリカに反発し、自国の利益を求めることもある。
それでも政権を維持するには、軍が必要だった。
武器が必要だった。
輸出市場と外貨と融資が必要だった。
アメリカは、それらすべてを同時に握ることで、大統領本人を人形にしなくても、政権が進める方向を制約できた。
「ドイツと日本は、国旗を利用して支配を隠そうとした。」
ビッセルが言った。
「われわれは、現地政府が自分で選んだと思える環境を作った。」
「西側へ残ることが、現地政府自身の利益になる環境だ。」
ダレスは言い換えた。
「それを支配と呼ぶ者もいるでしょう。」
「勝った側の秩序は、負けた側から見ればいつでも支配だ。」
ダレスは気にした様子を見せなかった。
「問題は、誰が何と呼ぶかではない。機能するかどうかだ。」
「そして、概ね機能してきた。」
「キューバまではな。」
部屋の空気が少し変わった。
ダレスは再び、西半球の地図の中央にある島へ指を置いた。
「キューバは、辺境の一国ではない。われわれがこの仕組みを最初に試した場所の一つだ。」
西米戦争によってスペインから切り離され、アメリカ軍の占領を経て独立した。憲法にはアメリカの介入権が書き込まれ、砂糖経済は北の市場へ結びつき、ホテル、電話、電力、鉱山、農園にはアメリカ資本が入った。
介入権を明記した条項が廃止された後も、関係そのものは残った。
キューバにはキューバ人の大統領がいた。
議会があり、軍があり、国旗があった。
しかし、アメリカの市場と企業と外交的承認を失った政権が長く存続するとは、誰も考えていなかった。
「カストロは、その前提を破った。」
ダレスが言った。
「企業を接収し、われわれの市場から離れ、ソ連の石油と武器を受け入れた。」
「それでも政権を維持している。」
「そこが問題だ。」
ダレスは、キューバから南米各国へ指を動かした。
「一つの小さな島を失ったのではない。この半球で、われわれの外へ出た政府も生き残れるという前例を作られた。」
「カストロが生き残れば、ほかの国でも同じことが起きる。」
「若者は山へ入ればよいと考える。軍の一部が離反し、外国資産を接収し、アメリカに逆らっても、ソ連と結べば政権を維持できると。」
「実際には、それほど簡単ではありません。」
「模範は、現実より単純な方が広がる。」
ダレスは答えた。
「キューバ革命が輸出するのは兵士だけではない。物語だ。」
ビッセルは、ケネディの選挙演説を記した紙を地図の横へ置いた。
「大統領も、そこは理解するでしょう。」
「理解する。」
「それでも、バティスタを支えたわれわれが、またキューバ人の政府を決めるのかと尋ねる。」
「だから、われわれが政府を決めるのではない形にする。」
ダレスは、反カストロ亡命者の政治組織についての資料を開いた。
「キューバ人が上陸する。キューバ人がカストロへ抵抗し、キューバ人が暫定政府を作る。われわれは支援するが、作戦の主体にはならない。」
「その説明で納得するでしょうか。」
「納得させる必要があるのは、作戦のすべてではない。」
ダレスはビッセルを見た。
「彼が拒否する理由を取り除けばよい。」
その言葉で、会話は歴史から実務へ戻った。
すでに亡命者部隊は訓練を受けている。
グアテマラの基地では歩兵、通信、工兵、戦車、航空要員が編成され、輸送船と武器が準備されていた。反カストロ放送はキューバへ電波を送り、亡命者の政治組織は政権崩壊後に名乗り出る準備を進めている。
計画は、紙の上にあるだけではなかった。
人間も金も時間も、すでに動いている。
「大統領が問題にするのは、アメリカ軍による侵攻に見えることです。」
ビッセルが言った。
「それから、バティスタ時代へ戻すための作戦に見えること。」
「どちらも否定できる。」
「成功の保証も求めるでしょう。」
「軍事作戦に保証はない。成功する条件が整っていると説明する。」
「国内蜂起については。」
「不満を持つ者はいる。勝てると分かれば動く。」
「勝てると分からなければ。」
「最初の勝利を見せる。」
ダレスの答えには迷いがなかった。
それが、グアテマラで得た成功の教訓だった。
小規模な亡命者部隊。
実際以上の兵力が迫っていると思わせる放送。
限定的な航空攻撃。
アメリカが政権を見限ったという印象。
軍幹部が、このまま大統領を支えれば、より大きな攻撃を招くと考えた時、政権は内部から崩れた。
キューバは島であり、革命軍はバティスタの旧軍とは違う。
それでもダレスは、外から圧力を加え、勝敗が決まったように見せれば、表面下の亀裂が動くという原理まで違うとは考えていなかった。
「当初のトリニダー案は、人口のある都市へ上陸します。」
ビッセルは別の地図を広げた。
キューバ南岸の都市トリニダー。
付近には港と飛行場があり、反政府地下組織との連携も期待できる。失敗した場合には、反カストロ・ゲリラの活動するエスカンブライ山地へ退き、戦闘を継続できる可能性もあった。
「軍事的には、こちらの方が安全です。」
ビッセルは山地へ続く経路を指した。
「住民が多く、作戦が外から見えやすい。」
「その点を大統領が嫌う。」
「アメリカの関与を隠せないと考えるでしょう。」
「だから変える。」
ダレスは、トリニダーから西へ指を滑らせた。
ピックス湾。
サパタ湿地に囲まれた、人家の少ない入り江だった。
飛行場を確保すれば、航空支援がキューバ国内から行われているように見せることができる。大都市への上陸より目立たず、作戦をキューバ人同士の反乱として説明しやすい。
ただし、周囲は沼地だった。
内陸へ通じる道路は限られ、住民や地下組織の支援も期待しにくい。海岸で封じ込められれば、トリニダー案にあった山地への退路も失われる。
「偽装を強くするために、軍事上の余裕を削ることになります。」
ビッセルが言った。
「承認されない作戦に、軍事上の余裕があっても意味はない。」
「上陸地点を変更すれば、作戦の一部ではなく、前提が変わります。」
「目的は変わらない。」
「地形は変わります。」
「大統領が署名できる形にする。」
ダレスは短く答えた。
「それが最初の条件だ。」
ビッセルは、二枚の地図を見比べた。
退路がある場所では、アメリカの関与が目立つ。
目立たない場所では、退路がない。
政治的に承認される可能性を高めるほど、現地部隊が失敗した時に選べる道は減っていく。
「海軍についても、条件をつけるでしょう。」
ビッセルが言った。
「周辺海域への待機は認めるはずだ。」
「実際の投入は、その時点で大統領が判断すると。」
「まず、近くへ置く。」
「使う必要が生じた時に拒否されたら。」
ダレスは腕時計を見た。
会議までの時間は、予定より少なくなっていた。
「自分たちが訓練し、武器を与え、上陸させた部隊が海岸で全滅しようとしている時、大統領が艦隊を動かさずにいられると思うか。」
「ケネディは、勝ち方を気にする人間です。」
「負け方を選べる間だけだ。」
ダレスの返答は静かだった。
「戦況が悪化すれば、政治的な条件より、目の前の人間を救う責任が大きくなる。」
「それを前提にしていると知られれば、承認しないでしょう。」
「前提ではない。備えだ。」
言葉を替えれば意味が変わる。
少なくとも、会議の中では変わったように聞こえる。
「B-26には、キューバ空軍と同じ標識をつけます。」
ビッセルは航空作戦の図面を取り出した。
「亡命キューバ人が操縦し、カストロ軍から離反した航空兵が国内の飛行場を攻撃した形にします。」
「大統領が国民への見え方を気にするなら、それを説明する。」
「本当にキューバ国内の反乱に見えるでしょうか。」
「アメリカ軍による公然たる空爆には見えない。」
「同じ意味ではありません。」
ダレスは、そこでビッセルを見た。
「同じ意味でなくても、同じ結論へ進める。」
ビッセルは黙った。
ダレスはケネディを軽く見てはいなかった。
選挙で現職副大統領を破り、宗教への疑念を越え、テレビという新しい政治の舞台を理解した。人が事実だけでなく、何を見て、どう受け取るかによって判断することも知っている。
だからこそ、作戦の中身より、画面の中に星条旗が映るかどうかを問題にする可能性がある。
ダレスには、それが政治家の本能であり、同時に軍事作戦へ余計な条件を持ち込む弱点に見えた。
「大統領が、作戦そのものを一から再検討すると言ったら。」
ビッセルが尋ねた。
「再検討のための時間は、前政権で使った。」
「政権は替わりました。」
「地理は替わっていない。カストロも替わっていない。」
ダレスは資料を鞄へ収めた。
「変わったのは、最後に署名する人間だ。」
「その署名を得るために、上陸地点を変え、偽装を強め、海軍の投入を後の判断へ回す。」
「新しい大統領には、新しい政権が決めた部分が必要だ。」
「微修正した作戦を、自分の選択だと思わせる。」
ダレスの手が止まった。
「思わせるのではない。実際に選ばせる。」
「何をです。」
「作戦を続ける形をだ。」
ビッセルは問いを重ねなかった。
作戦を実行するかどうかではない。
どの海岸へ上陸するか。
どこまでアメリカ軍を見せないか。
艦隊をいつまで待機と呼ぶか。
すでに動き始めた計画の中で、新しい大統領へ渡される選択肢は、その範囲に限られていた。
ダレスは西半球の地図を折らず、両手で持ち上げた。
ベルサイユ体制の後、ドイツと日本は国旗の後ろに占領軍を隠しきれずに敗れた。
アメリカは西半球で、国旗を残し、現地政府を残し、その政府が自国の利益としてアメリカの秩序へとどまる仕組みを作ってきた。
西米戦争から六十年以上をかけて形を変え、第一次世界大戦後の経済力と、第二次世界大戦後の軍事力と制度によって完成した秩序だった。
その原型を作った島が、最初にそこから抜け出した。
ダレスには、それを一つの国の選択として放置することはできなかった。
キューバが例外として生き残れば、例外ではなくなる。
だから戻す。
可能なら、アメリカ軍が政府を倒したようには見えない方法で。
※※※※※※※※※※
ホワイトハウスへ向かう車の中で、ダレスは地図を膝の上へ置いていた。
車窓の外を、冬の終わりのワシントンが流れていく。
議会議事堂。
官庁街。
戦争と平和の名で建てられた記念碑。
その間を、秘密作戦の地図が運ばれていた。
ビッセルは隣で、会議用資料の順番をもう一度確認した。
西半球の安全保障。
カストロ政権のソ連接近。
キューバ国内の反対勢力。
亡命者部隊。
暫定政府。
トリニダーからピックス湾への変更。
航空攻撃。
海軍艦艇の待機。
それぞれの項目には説明があり、質問に対する答えも用意されている。
「最初に、バティスタの話を出しますか。」
ビッセルが尋ねた。
「大統領が出せば答える。」
「こちらからは。」
「カストロが生まれた理由ではなく、カストロが現在何をしているかを説明する。」
「過去の責任から、現在の危険へ移す。」
「責任を認めることと、危険を放置することは違う。」
ダレスは、膝の上の地図を押さえた。
「彼は、自分が前政権の失敗を引き継ぐのではなく、修正していると思いたい。」
「実際に、上陸地点と支援条件を変えます。」
「なら、嘘ではない。」
「それでも作戦の目的は変わらない。」
「目的まで政権交代のたびに変えていたら、国家は何も継続できない。」
車がホワイトハウスの西棟へ着いた。
ビッセルが先に降り、地図を受け取ろうとしたが、ダレスは渡さなかった。
自分で持った。
廊下では職員たちが書類を抱え、足早に行き交っている。壁には歴代大統領や将軍の肖像が並び、政権が替わっても動かない国家の顔をしていた。
案内役の職員が、会議室の前で足を止めた。
「大統領がお待ちです。」
ダレスは腕時計を見た。
予定時刻より二分早い。
地図は前政権から引き継いだものだった。
亡命者の訓練も、船も、爆撃機も、すでに動き始めている。
若い大統領は、これから一つの作戦を選ぶつもりでいるだろう。
ダレスが渡すのは白紙ではない。
西半球の歴史と、前任者の署名と、すでに費やされた金と時間によって、ほとんどの線が引かれた地図だった。
新しい大統領に残されているのは、その線を少し動かし、最後に自分の名前を書くことだった。
扉が開いた。
ダレスは前任者の地図を抱えたまま、ケネディの待つ部屋へ入った。
次回老練なダレスと、ケネディのすれ違いだらけのやり取りが始まります。
更新は、水・金・日の夜です。
次回は金曜日の夜更新予定です。
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