177,ミコヤンの嘘
キューバの中には世界に気づかれない形持ち込まれた核弾頭がありました。
危機解消後、ソ連はその核弾頭を秘密裏にキューバの納得の下持ち出さなければなりませんでした。
その交渉に駆り出されたミコヤン。彼はロシア革命を生き抜き、レーニンの粛清をかいくぐった老練な政治家。
ミコヤンとカストロの駆け引きが始まります。
一九六二年十一月二十二日、ハバナ。
カストロの言葉を受けて、アナスタス・ミコヤンは笑みを深くした。
人なつこい笑顔だった。
目尻に皺を寄せ、相手の言葉を急かさず、反論する前に一度頷く。初めて会った者にも、昔からの知人を迎えるように手を差し出す。食卓では料理を褒め、会議の前には相手の体調を気遣い、厳しい要求を拒む時ほど声を柔らかくした。
その笑顔を、カストロは好意だけでできているとは思っていない。
ミコヤンも、そう思わせるつもりはなかった。
交渉の席では、怒っている人間を途中で止めてはならない。怒りは最後まで吐かせれば、何を失ったと感じているのかを自分から教えてくれる。
最初に出された要求を、本当の着地点だと信じてもいけない。
相手を手ぶらで帰せば、交渉には勝っても次の危機を買うことになる。拒絶するなら、個人の意思ではなく、制度や法律や、誰にも動かせない事情の外套を着せる。相手が自国へ戻った時に、敗北ではなく成果を語れる出口も残しておく。
ミコヤンは、長い年月をかけてそれを覚えた。
笑顔は、その年月が彼の顔に残した道具だった。
「率直に話すために来たのでしょう。」
カストロはそう言ったあと、椅子の背にはもたれなかった。
長い脚を机の下へ収め、両肘を天板の近くに置いている。灰皿には火のついていない葉巻が一本あり、その横にキューバ側の要求書が重ねられていた。
怒っている男の座り方ではない。
これから何を取れるか、考えている男の姿だった。
ミコヤンは、フルシチョフの執務室で見た電報を思い出した。
十月二十六日、カストロがモスクワへ送った長い手紙。
アメリカによる侵攻は、二十四時間から七十二時間以内に始まる可能性がある。
フルシチョフは、核攻撃をめぐる危険な一節だけを見ていたのではなかった。太い指で、時間を示す数字を何度も叩いた。
「彼を、感情だけで動く若い革命家だと思うな。」
机の上で電報が揺れた。
「二十四時間から七十二時間だ。われわれがワシントンの返事を待っている間に、彼は自分の情報で侵攻までの時間を数えていた。」
ミコヤンは黙っていた。
「核を撃つ権限は彼にはない。だが、危機をもう一度始める力はある。軍を動かし、偵察機を撃たせ、われわれとの決裂を世界へ告げることもできる。」
フルシチョフは、電報から目を上げた。
「核はすべて持ち帰れ。アメリカとの出口を守れ。だが、キューバとの同盟も残せ。」
それから、一語ずつ確かめるように続けた。
「カストロを、絶対に敵にするな。」
簡単な命令ではなかった。
核を持ち帰れば、カストロは再び頭越しに扱われたと感じる。
キューバへ渡せば、ソ連の核管理から外れる。
何も説明せずに運び出せば、同盟そのものが壊れるかもしれない。
本音を告げれば、モスクワがキューバを核保有国として信用していないことを認めることになる。
四つの道があり、どの道にも崖があった。
ミコヤンは、その崖を笑顔で歩くためにハバナへ来た。
※※※※※※※※※※
ミコヤンが最初に国家の崩壊を見た時、まだロシア帝国は地図の上にあった。
アルメニアの山村に生まれ、神学校へ通っていた青年は、第一次世界大戦の中でボリシェヴィキになった。皇帝の軍隊は兵士を食わせられず、命令は前線へ届く前に古くなり、帝国の辺境では民族と宗教と貧困が混ざり合っていた。
一九一七年、ロシア帝国は倒れた。
ロシア革命は、教科書のページをめくるようには進まなかった。
街ごとに旗が違い、同じ革命を名乗る者同士が銃を向けた。バクーでは石油があり、石油があるから外国軍も、民族主義者も、革命家も集まった。
ともに活動した二十六人の仲間が処刑された。
ミコヤンは生き残った。
なぜ自分が残り、別の者が死んだのか。その答えを、彼は最後まで持たなかった。
革命を生き延びた人間が、最も勇敢だったとは限らない。最も正しかったとも限らない。ただ、死ぬ順番から外れただけの者もいる。
その後に来たのは、内戦だった。
飢えた都市へ食料を運び、壊れた鉄道を動かし、兵士へ靴を送り、昨日まで味方だった相手と今日の取引をした。革命は旗から始まっても、国家になれば貨車の数を数えなければならない。
ミコヤンは、その仕事に向いていた。
純粋な言葉より、届く小麦を選ぶ。
美しい拒絶より、半分でも成立する取引を選ぶ。
相手が敵でも、明日の食料を運ぶなら握手する。
そうして彼は、革命の青年から国家の実務家になった。
スターリンの時代には、人の名前が会議室から消えた。
昨日まで隣に座っていた男が逮捕され、翌週には写真からも消える。誰も理由を尋ねず、空いた椅子には別の者が座った。
ミコヤンも、その国家の中枢にいた。
署名したことがある。
黙ったこともある。
仲間が連行された夜に、自分の家の扉が鳴らなかったことへ安堵したこともあった。
彼は粛清を外から見ていたのではない。生き残りながら、体制を動かしていた。
法律が人間を殺したのではなかった。
国家が殺すと決めたあと、罪名と法律が追いついてきた。
そのことを、ミコヤンは知っている。
第二次世界大戦が始まると、国家は再び列車になった。
ドイツ軍が国境を破り、工場が東へ移され、兵士と食料と燃料が同じ線路を奪い合った。前線の地図は、赤と青の矢印で動いたが、その矢印を支えたのは貨車だった。
パンが届かなければ兵士は戦えない。
弾薬が届かなければ都市は守れない。
工場を一日早く移せば、数か月後の戦車が一両増える。
ミコヤンは補給と食料を扱い、国家の胃袋を動かした。
その戦争で、息子の一人を失った。
スターリングラードの空へ上がった若者は、家へ戻らなかった。
国を守る数字の中に、自分の家族の死も入っていた。
だからミコヤンは、国家の都合という言葉を軽く使わなかった。
だが、使わずに済むとも思っていなかった。
スターリンの晩年には、彼自身も疑われた。
長く生き残ったことが、今度は罪のように見られ始めた。スターリンがあと数年生きていれば、ミコヤンの名も会議室から消えていたかもしれない。
先に死んだのは、スターリンだった。
そしてフルシチョフが来た。
スターリンの犯罪を告発し、恐怖の一部を言葉にし、閉じられていた扉を少しずつ開いた。
それでも、過去が消えたわけではない。
一九五六年、ミコヤンはハンガリーへ行った。
ブダペストで言葉を使い、交渉で収めようとした。だが、最後には戦車が入った。街は燃え、社会主義を名乗る国家が、社会主義国の民衆へ砲口を向けた。
革命を守るため。
社会主義陣営を守るため。
国家秩序を守るため。
理由はいくつもあった。
死んだ者にとっては、どれも同じだった。
ミコヤンは、そのすべてを背負って一九六二年のハバナにいた。
※※※※※※※※※※
一九六二年の社会主義陣営は、地図の色ほど一つではなかった。
クレムリンの壁に掛けられた地図では、ソ連と東欧、中国、北ベトナム、北朝鮮は、同じ側の色に塗られている。
だが、同じ色の内側には亀裂があった。
北京は、フルシチョフの平和共存を弱腰だと批判している。帝国主義と妥協し、革命を取引へ変えていると毛沢東は言う。
アルバニアは北京側へ傾き、モスクワとの対立を隠そうともしなくなった。
北ベトナムは、アメリカとの戦いを見据えながら、ソ連と中国のどちらからも援助を得ようとしている。どちらにも従属せず、自分たちの戦争を自分たちで進めるためだった。
東欧には、ハンガリーの記憶が残る。
東ドイツにはベルリンがある。
ポーランドも、チェコスロバキアも、ルーマニアも、モスクワが同盟国をどう扱うかを見ていた。
キューバ一国の問題ではなかった。
アメリカと話がつけば、ソ連は小国の革命を頭越しに処理する。
その印象が残れば、北京は利用する。ハノイも見る。東欧も見る。ラテンアメリカで革命を夢見る者たちも、モスクワの言葉を信じなくなる。
核を撤去することより、その後に何が残るかの方が長く効く。
ミコヤンには、それが分かっていた。
だから、フルシチョフの命令は四つあった。
核を持ち帰る。
米ソ間の合意を守る。
キューバとの同盟を残す。
そして、社会主義陣営の中でソ連が持つ信用を失わない。
真実だけで、四つすべてを守れるとは思えなかった。
ミコヤンの上着の内側には、妻の死を知らせる電報が入っていた。
四十年以上をともにしたアシュヘンは、彼がハバナにいる間に亡くなった。
帰国する道はあった。
家族は、彼が戻らなくても葬儀を行った。
ミコヤンは残った。
ここで交渉を壊せば、妻の最期に立ち会わず続けた仕事まで意味を失う。
その思いを、彼は顔に出さなかった。
人なつこい笑顔の下に、電報も、粛清も、戦争も、ブダペストも、赤い地図の亀裂も隠したまま、カストロの前へ座っていた。
※※※※※※※※※※
「まず、確認したい。」
カストロは、机の上の紙を閉じた。
「中距離ミサイルは、もう島を離れた。ソ連船は甲板に載せたミサイルを海上で見せ、アメリカ側は艦と偵察機から数えた。」
ミコヤンは頷いた。
十一月前半、撤去される戦略ミサイルはソ連船の甲板へ並べられた。
キューバ国内へ国連の査察団を入れることを、カストロは拒んだ。ウ・タントによる仲介は受け入れても、自国の領土を敗戦国のように歩かせるつもりはなかった。
ミサイルは運び出す。
だが、キューバの土を外国人に検査させない。
その代わり、ソ連は船の上でミサイルを見せた。アメリカは島の外から撤去を確認し、世界は写真に写る兵器が去るのを見た。
カストロは、撤去そのものを止められなかった。
それでも、自国へ誰を入れるかという権利だけは手放さなかった。
ミコヤンは、その判断を軽く見ていない。
怒りに任せてすべてを拒めば、キューバは孤立する。
すべてを受け入れれば、主権が消える。
カストロは、その間に細い道を作った。
「国連の人間は、キューバ国内へ入っていません。」
ミコヤンが言った。
「その点については、あなた方の立場が尊重された。」
「尊重ではない。」
カストロは静かに返した。
「われわれが入れなかっただけだ。」
ミコヤンは笑った。
「それを尊重と呼ぶのが、外交です。」
ゲバラの口元がわずかに動いた。
「便利な言葉だ。」
「便利でなければ、外交では使われません。」
ミコヤンは冗談の形で返した。
部屋に短い笑いが起きた。
だが、誰も本題を忘れてはいない。
カストロは葉巻を手に取った。
「戦略ミサイルとは別の核兵器が、まだ島にあるのか。」
ミコヤンは、笑顔を消さなかった。
「あります。」
ゲバラの指が止まった。
ドルティコスが、ゆっくり顔を上げた。
カストロは葉巻へ火をつけず、机に置き直した。
「どのような兵器だ。」
「短距離ロケットと巡航ミサイルに用いる戦術核弾頭です。そのほかにも、現地防衛用として運び込まれた特殊兵器があります。」
「誰が管理している。」
「パヴロフ同志の部隊です。」
パヴロフは、キューバ駐留ソ連軍司令官イッサ・プリーエフが作戦中に用いた名だった。
カストロは、すぐ次を訊いた。
「アメリカは知っているのか。」
ミコヤンは、一呼吸置いた。
「知りません。」
窓の外で車が通った。
その音が消えるまで、部屋の誰も口を開かなかった。
アメリカは、世界を核戦争の瀬戸際へ追い込んだ中距離ミサイルを発見した。
写真を国連へ持ち込み、船を止め、撤去を要求した。
だが、そのすぐ下にあった戦術核を知らなかった。
もし侵攻が始まり、現地で使用されていれば、ワシントンもモスクワも、何が起きたかを理解する前に戦争が変わっていた。
カストロは、目の前の男を見た。
「それらをキューバへ移管してほしい。」
ミコヤンは驚かなかった。
最初から、その要求が来ると読んでいた。
「できません。」
「理由を聞きたい。」
カストロの声は低いままだった。
「この兵器は、キューバを守るために持ち込まれた。戦略ミサイルを撤去し、爆撃機も持ち帰り、戦術核まで失えば、残るのはアメリカの不侵攻という言葉だけになる。」
ミコヤンは、黙って聞いた。
「しかも、その言葉を引き出すための交渉に、キューバの椅子はなかった。われわれは危険を背負わされたが、出口を決める席には呼ばれなかった。」
怒りはあった。
だが、その怒りは声の大きさではなく、言葉の順序に入っていた。
ミコヤンは、妻の電報が胸の内側にあることを感じた。
これまでにも、国家のために言わなかったことはある。
言い換えたこともある。
相手が都合よく誤解するのを、そのままにしたこともあった。
スターリンの前で黙り、フルシチョフの前で言葉を選び、ブダペストで昨日の約束が今日の命令に変わるのも見てきた。
だが、存在しない法律を一国の指導者へ語り、その法律によって核兵器を持ち去ることは、それまでとは違った。
これは、国家がつく曖昧な嘘ではない。
自分の口から、形のある嘘を出すことだった。
世界秩序を守るため。
米ソの合意を壊さないため。
ソ連の核管理を守るため。
キューバとの同盟を残すため。
北京に、ソ連は革命を売ったと言わせないため。
ハノイや東欧の国々へ、モスクワは小国を切り捨てるという記憶を渡さないため。
そして、妻の葬儀へ戻らず続けた任務を無意味にしないため。
どの理由も本物だった。
どの理由も、嘘を真実にはしなかった。
ミコヤンは、カストロの目を見た。
「わが国には、核兵器を第三国へ移譲することを禁じる法律があります。公表されていない法律ですが、戦術核兵器も例外ではありません。」
その法律は存在しなかった。
※※※※※※※※※※
カストロは、法律の名が続くのを待った。
制定年。
所管機関。
条文。
どれか一つは出ると思った。
ミコヤンは何も付け加えなかった。
通訳も、次の言葉を待っている。会談記録を取っているエミリオ・アラゴネスの鉛筆が、紙の上で止まっていた。
核兵器を持ち込んだ時、この法律は問題にならなかった。
ソ連の核兵器をキューバ領内へ置くことは、国家間の軍事と外交の判断として進められた。ところが、キューバへ渡す段階になると、突然、ソ連国内法の問題へ変わった。
話を、外交から国内法へ移している。
法律家としてのカストロには、それが見えた。
法律の名を訊くことはできる。
制定年を求め、条文を示せと言うこともできる。
持ち込みは許し、移譲だけを禁じる法理を説明させてもよい。
問いを重ねれば、ミコヤンはどこかで詰まるかもしれない。
この部屋で、彼の嘘をひっくり返すことはできる。
カストロは、灰皿の葉巻を見た。
その勝利で、何が変わる。
経済封鎖は解けない。
砂糖の売り先も、工場の部品も戻らない。
マングース作戦による破壊工作も、亡命者の襲撃も、暗殺の計画も止まらない。
低空を飛ぶ偵察機が消えるわけではない。
グアンタナモのアメリカ軍も、基地から出ていかない。
カストロは、配給所の前で待つ人々の顔を思い出した。砂糖はあっても売り先が細り、工場には部品が届かず、海岸では次の襲撃に備えて若者が銃を磨いていた。ワシントンとモスクワが危機の終わりを決めても、島の暮らしから危機が消えたわけではない。
大国は危機が終わったと言う。
だが、配給の列は短くなっていない。
港を狙う工作員も消えていない。
上空にはアメリカ機が飛び、島の東端にはアメリカ軍基地が残っている。
ならば、誰にとって危機が終わったのか。
カストロが欲しかったのは、核兵器そのものではない。
核の配備はソ連から持ちかけられた。
キューバがモスクワへ核を求めたのではなかった。
受け入れるまでには、ゲバラとの議論もあった。広島を見たゲバラは、核を人間への侮辱と呼んだ。カストロも、街を消す兵器を正義だと思ったことはない。
それでも受け入れた。
次の侵攻が来れば、キューバの若者たちが海岸へ立つ。ピックス湾より大きな軍が来れば、勇気だけでは島を守れない。
国民を盾にしないための盾が必要だった。
汚れていても、危険でも、アメリカに侵攻をためらわせる力が必要だった。
交渉の本質は、核ではない。
キューバの安全だった。
カストロは、ミコヤンを追い込むために開きかけた口を閉じた。
「法律で移譲できないことは分かりました。」
彼は言った。
ミコヤンの笑顔は変わらない。
「では、所有権も運用権もソ連に残したまま、この島へ置くことはできますね。キューバへ渡すのではない。ソ連軍の管理下で残す。」
ミコヤンの返答には、先ほどよりわずかに長い間があった。
「それも困難です。」
「今度は、何が禁じているのですか。」
カストロは声を荒らげなかった。
「法律ではありません。」
ミコヤンは答えた。
「ソ連はキューバに正式な軍事基地を持っていません。ここにいる将兵は、法的には顧問と支援要員です。その状態で核兵器だけを長期間管理し続けることはできない。」
「基地協定を結べばよい。」
「私には、その権限がありません。」
「では、モスクワへ求める。」
「その間に兵器が発見されれば、危機が再燃します。」
ミコヤンの声は穏やかだった。
「アメリカは戦術核の存在を知りません。知らないからこそ、今回の合意は成立した。撤去後に別の核が残っていると分かれば、不侵攻の約束そのものが崩れる可能性があります。」
法律。
正式基地の不在。
権限。
発見の危険。
理由は変わった。
答えだけは変わらない。
モスクワは、どのような形でも核を残さない。
法律が本当か嘘かは、もう二番目だった。
それが政治的な決定であることだけは、十分に分かった。
カストロは、ミコヤンの顔を見た。
「アメリカは、この兵器の存在を知らない。」
「はい。」
「われわれも、これまで公表していない。」
ミコヤンは返事をしなかった。
その沈黙で足りた。
「同盟国の秘密を守るには、同盟が続いている必要があります。」
カストロは言った。
脅迫ではなかった。
だが、意味は伝わった。
戦術核が島にあったことをキューバが公表すれば、ワシントンは、自分たちが知らないまま侵攻を議論していた事実を知る。
米ソ間の危機収拾も、もう一度疑われる。
モスクワは、撤去を約束しながら別の核を隠していたと非難されるだろう。
ミコヤンの笑顔が、ほんのわずかに硬くなった。
それを見て、カストロは交渉を次へ進めた。
「核は持ち帰ってください。」
部屋の空気が動いた。
ドルティコスが顔を上げ、ゲバラはカストロを見た。アラゴネスの鉛筆が紙へ戻る。
カストロは続けた。
「ただし、この島を裸にして帰ることは認めない。」
※※※※※※※※※※
カストロは、最初から着地点を示さなかった。
相手が払えると分かっているものだけを求めれば、相手はそれより少ない値段を出す。
まず核を求めた。
移譲できないなら、ソ連軍管理下で残すよう求めた。
それも拒んだのはモスクワである。
ならば、代わりの防衛を示す責任もモスクワにあった。
「パヴロフの部隊が持ち込んだ通常兵器は、キューバ軍へ移管してもらう。」
カストロは指を折らず、机の上の紙を一枚ずつ押さえた。
「戦車、装甲車、火砲、防空設備、弾薬、通信機材。核以外の装備を、撤収と一緒に持ち帰ることは認めません。」
ミコヤンは、同行者と短く言葉を交わした。
「T55戦車を含む装備については、キューバ側への引き渡しを進められます。すべてを一度にとは申し上げられませんが、原則として核兵器以外の装備は残す方向です。」
答えが早かった。
カストロは、ミコヤンがこの場所まで予想していたことを知った。
フルシチョフから、ある程度の譲歩を認められている。
核を持ち帰る代わりに、キューバを以前より弱くしてはならない。その線までは、モスクワも理解しているらしい。
ゲバラが机へ身を寄せた。
「鉄だけを置いていかれても困る。」
彼は工業相の顔をしていた。
「工場の機械と同じだ。操作する者、整備する者、故障した時に直す者がいなければ、戦車も防空設備も数か月で止まる。装備を渡すなら、訓練と整備体系も残してもらう。」
「訓練は継続します。」
ミコヤンが答えた。
「専門家と顧問についても、必要な期間は残せるでしょう。」
カストロは、その言葉を逃さなかった。
「必要な期間を、モスクワの撤収予定だけで決めないでください。キューバ兵が扱えるようになるまでです。」
「撤収は段階的に行います。」
ミコヤンは紙へ数字を書かせた。
キューバに入ったソ連軍は約三万四千人。
そのうち、島の防衛を直接支える四個連隊、約八千人については、訓練と装備移管の進行を見ながら撤収させる。
カストロは、アラゴネスが数字を書き終えるのを待った。
「防空は。」
「地対空ミサイルを含め、キューバ人要員の訓練を続けます。」
「航空機は。」
ミコヤンは少し慎重になった。
「MiG21を含む航空戦力については、ただちに全面移管を約束することはできません。ただし、島の防空能力が急に失われないよう、運用と訓練は継続します。」
「別途協議。」
カストロが言うと、アラゴネスがそのまま書き留めた。
約束ではない。
拒否でもない。
だからこそ、紙へ残す必要があった。
ドルティコスが口を開いた。
「軍事関係を、秘密の了解だけに依存させるわけにはいきません。正式な防衛協定が必要です。」
「条約については、私だけでは決定できません。」
ミコヤンは言った。
「モスクワへ持ち帰り、フルシチョフ同志と政府へ報告します。」
カストロは頷かなかった。
「報告した、で終わらせないでください。今回、われわれは自国の安全が二つの大国の口約束で決まるところを見た。次は、キューバの署名がある形にする。」
ミコヤンは返答を急がなかった。
それでも、拒まなかった。
ゲバラは、装備一覧の横にある経済報告を指で叩いた。
「部品、燃料、技術者も必要だ。兵器だけが動いても、国が止まれば防衛にはならない。禁輸で工場が止まり、輸送が止まり、医療が削られれば、アメリカは上陸しなくても目的を果たせる。」
「経済と技術支援についても継続します。」
ミコヤンの返答は、軍事分野ほど明確ではなかった。
「具体的な内容は、別の協議が必要です。」
「それも記録へ。」
カストロが言った。
アラゴネスの鉛筆が動いた。
机の上で、核は別のものへ変わっていった。
戦車。
防空設備。
訓練。
顧問。
部品。
燃料。
技術。
軍事協定。
国民の生活を守るために必要なものへ、拒否された核の重さが移されていった。
※※※※※※※※※※
カストロは、最後に五項目の書かれた紙を引き寄せた。
ミコヤンは、すでにその内容を知っている。
だが、読者には分かるように、カストロは一つずつ口にした。
「われわれの五項目要求は変わりません。」
紙の一行目を指で押さえる。
「アメリカによる経済封鎖を終わらせること。」
次の行。
「島への破壊工作を止めること。」
三つ目。
「亡命者組織を使った襲撃と侵入を許さないこと。」
四つ目。
「キューバの領空と領海への侵犯をやめること。」
最後の行で、カストロの指が止まった。
「そして、グアンタナモ海軍基地を返還すること。」
ミコヤンは、最後の要求を見つめた。
「それを決められるのは、アメリカです。」
「知っています。」
カストロは即座に返した。
アメリカが、明日グアンタナモを返すとは思っていない。
一九三四年の条約を持ち出し、両国が合意しない限り基地の地位は変わらないと言うだろう。
カストロは法律家だった。
その構造を理解している。
だからといって、最初から要求から外す理由にはならない。
相手が決して差し出したくないものを示さなければ、こちらが何を譲ったのかさえ交渉の記録から消される。
「あなたに基地を返せと言っているのではありません。」
カストロは、紙をミコヤンの前へ滑らせた。
「モスクワが、五項目をキューバの正式な要求としてワシントンへ持っていくよう求めています。」
「アメリカが受け入れる保証はできません。」
「保証しろとも言っていない。」
カストロの声に、初めて少し熱が入った。
「米ソがミサイル撤去と不侵攻の言葉だけで危機を閉じれば、キューバの危機まで終わったことにされる。だが、封鎖は残る。工作も残る。偵察機も飛ぶ。グアンタナモにはアメリカ軍がいる。」
彼は机に手を置いた。
「われわれの国民にとって、危機は終わっていない。」
ミコヤンは、反論しなかった。
「五項目を、最初からモスクワで削らないでください。」
カストロは続けた。
「すべてがすぐ実現するとは考えていない。だが、どれが現実的で、どれが不可能かを決めるのは、キューバを抜いた米ソの机ではない。」
ミコヤンは紙を手に取った。
「そのまま報告します。」
「そのまま。」
カストロは念を押した。
「はい。」
ミコヤンの笑顔が戻った。
「交渉では、最初の要求は高いものです。」
カストロも、ようやく少し笑った。
「だから最初から安くして渡す必要はない。」
ゲバラが葉巻を指で回した。
「二人とも、よく似ているな。」
「それは褒め言葉ですか。」
ミコヤンが訊いた。
「まだ決めていない。」
短い笑いが、四時間続いた会談の部屋を少しだけ緩めた。
※※※※※※※※※※
会談が終わるころ、窓の外は暗くなっていた。
コーヒーは冷え、灰皿には火の消えた葉巻が増えている。アラゴネスの帳面には、何頁にもわたって条件と数字が書き込まれていた。
ミコヤンが立ち上がった。
カストロも席を離れた。
二人は机を回り込み、握手をした。
ミコヤンは最後まで、あの人なつこい笑顔を崩さなかった。
「難しい話でした。」
彼は言った。
「難しい話をするために来たのでしょう。」
カストロは返した。
「そうでした。」
ミコヤンは一度、握った手へ力を込めた。
カストロには、その手が思っていたより冷たく感じられた。
妻を失ったことを、彼は知っている。
それでも帰らず、この島に残った。
存在しない法律を口にした男は、ただキューバを欺きに来たわけではない。自分の国を守り、米ソ間の出口を守り、同盟を残すために、嘘を引き受けた。
理解はできた。
許したわけではない。
二つは同じではなかった。
ミコヤンが部屋を出ると、廊下を歩く靴音が遠ざかっていった。
カストロは、アラゴネスの帳面を手に取った。
最初の頁に、こう書かれている。
ソ連法により、核兵器の第三国への移譲は禁止。
その下には、何もなかった。
法律名。
制定年。
条文。
アラゴネスは、空白のまま鉛筆を持っていた。
「訊かなかったな。」
ゲバラが言った。
カストロは帳面から目を上げなかった。
「訊けば追い込めた。」
「だろうな。」
「だが、追い込んだあとに残るのは、ソ連がわれわれを信用していないという本音だけだ。」
カストロは頁をめくった。
次の頁には、通常兵器の移管。
T55戦車。
防空設備。
訓練。
段階的撤収。
軍事顧問。
MiG21をめぐる継続協議。
技術支援。
五項目。
グアンタナモ。
いくつもの文字が並んでいた。
すべてが実現するわけではない。
正式な防衛協定も、グアンタナモ返還も、すぐには得られないだろう。経済封鎖も、破壊工作も、アメリカが簡単に止めるとは思えない。
それでも、核を失ったあとに何も残らない交渉にはしなかった。
「法律に勝っても、島は守れない。」
カストロは言った。
「だから値段を払わせたのか。」
ゲバラが訊いた。
カストロは、帳面を閉じなかった。
「まだ払わせ始めただけだ。」
※※※※※※※※※※
世界に見える撤去は、すでに始まっていた。
戦略ミサイルは、昼の海を渡った。
ソ連船の甲板へ長い機体が並べられ、上空をアメリカ軍機が飛び、近くを艦艇が進んだ。双眼鏡とカメラが、一本ずつ数えた。
ウ・タントの仲介は続いていたが、国連の査察官がキューバ国内へ入ることはなかった。
島の土を外国人に検査させず、撤去した事実だけを洋上で確認させる。
完全な勝利ではない。
だが、敗戦国として査察されることは拒んだ。
ミサイルは写真に撮られた。
新聞に載った。
世界中の人間が、その撤去を知った。
写真に写る兵器は、写真に写る形で去っていった。
戦術核弾頭は違った。
アメリカは、存在そのものを知らない。
世界へ見せる必要がないのではなかった。
見せることができなかった。
※※※※※※※※※※
一九六二年十一月二十五日、夜。
革命宮殿の電話が鳴った。
カストロは、自分で受話器を取った。
マリエル方面からの報告だった。
ソ連軍の車列が動き始めた。
警備は厚く、キューバ側で詳しい積み荷を知る者は限られている。道路は一部を閉じ、港では通常作業を減らしているという。
受話器の向こうから、ディーゼルエンジンの低い音が聞こえた。
金属が触れ合う音。
遠くで短く発せられるロシア語の指示。
海風が電話線を通るはずはない。
それでもカストロには、港の潮の匂いがするように感じられた。
「何台だ。」
報告した将校が数字を答えた。
「ソ連側は、積み込みが終わるまで港への接近をさらに制限したいと言っています。」
カストロは、机に置かれた会談記録を見た。
存在しない法律。
その後ろに並ぶ条件。
「認めろ。」
彼は言った。
「ただし、キューバ領内で事故が起きた場合の連絡系統だけは、こちらにも渡させろ。最後まで、自分たちだけの荷物として扱わせるな。」
「了解しました。」
電話が切れた。
部屋には、時計の音が戻った。
核は、持ち込まれた時と同じように、限られた者だけが知る夜の道を通っていた。
だが、持ち込まれた時とは一つ違う。
今度はカストロが、その出発を知っている。
止めないと自分で決めた。
無断で奪われるのではない。
秘密を守る代わりに、島へ何を残すかを交渉した。
その違いは、世界地図の上では見えないほど小さい。
主権とは、時にそういう小ささの中にしか残らない。
※※※※※※※※※※
十一月三十日。
積み込み完了の報告が届いた。
十二月一日、貨物船アルハンゲリスク号がマリエル港を離れた。
船の中には、キューバに残っていた核弾頭が積まれていた。
アメリカ軍は、その数を確認しなかった。
確認できなかった。
国連も見ていない。
新聞記者も、港の労働者も、ハバナの市民も、船が何を運んでいるのか知らなかった。
戦略ミサイルの撤去は、世界へ見せるための撤去だった。
戦術核弾頭の撤去は、世界へ見せないための撤去だった。
カストロは、革命宮殿の机で出港報告を読んだ。
時刻。
船名。
出港地。
積載完了。
短い文字しか書かれていない。
その横には、アラゴネスの帳面が開いていた。
最初の頁には、ソ連の法律という言葉がある。
法律名の欄は、まだ空白だった。
カストロはそこへ何も書き加えなかった。
嘘、とも書かなかった。
頁を一枚めくる。
通常兵器。
訓練。
防空。
段階的撤収。
五項目。
グアンタナモ。
カストロは、その頁を開いたまま、アルハンゲリスク号の出港報告だけを閉じた。
ミコヤンはないはずのソ連国内法を根拠に核弾頭をキューバから持ち出します。
その後取り繕うようにカストロはソ連に英雄として招かれます。
8月以降週三回投稿に変更予定。
初週は不規則で
8月1日の土曜日夜
8月2日の日曜日夜
に投稿予定です。
その後は水・金・日の夜に投稿していく予定です。




