176,島に残るもの
危機の後世界は滅亡の危機から脱します。
しかし、島の中にはまだ世界に伏せられた核弾頭が残されていました。
一九六二年十月三十日、ハバナ。
長い車列が、朝の道路をゆっくりと進んでいた。
荷台には防水布が掛けられ、その下から細長い輪郭が浮き出ている。数日前まで夜陰に紛れて内陸へ運ばれていたものが、今度は反対の方角へ向かおうとしていた。ソ連兵の乗った車両が前後を固め、キューバの交通警察が脇道を閉じている。
学校へ向かう子どもたちは、道端に立って車列を見送った。
何が運ばれているのか、正確に知っている者はいなかった。それでも、大人たちが声を潜めるようになった十月の夜と関係していることは分かっていた。
少年の一人が、母親の袖を引いた。
「ミサイル?」
母親は荷台へ目を向けず、少年の手を引いた。
「学校へ行きなさい。」
「もう戦争は終わったんでしょう。」
「ラジオでは、そう言っているわ。」
少年が歩き出すと、右足の靴底が地面から離れた。踵の革が大きく剝がれ、歩くたびに乾いた音を立てた。
母親は道端にしゃがみ込み、買い物袋から麻紐を取り出した。剝がれた靴底を押さえ、紐を足の甲へ何度も巻きつける。
その前を、巨大な車両が通り過ぎていった。
世界を焼くために作られた兵器には、専用の輸送車があった。少年の足を学校まで運ぶ靴には、一本の麻紐しかなかった。
車列の後方には、ソ連兵を乗せたトラックが続いていた。
窓から外を見ていた若い兵士が、靴を縛る母親と目を合わせた。兵士は何か言いかけたが、声にはしなかった。
車列が去ったあと、道路には排気ガスの臭いが残った。
母親は結び目を確かめ、少年を立たせた。
「走らないで。帰りまでもたなくなるから。」
少年は頷いた。
学校の方角へ歩きながら、一度だけ振り返った。
荷台を覆った布の端が、朝の風に揺れていた。
※※※※※※※※※※
診療所には、戦争の負傷者ではなく、いつもの患者たちが戻り始めていた。
十月の数日間、壁際には簡易寝台が並べられ、包帯と消毒液が集められた。職員の一部は救護班へ回り、冷蔵庫には献血で集めた血液が詰め込まれた。
誰もが大量の負傷者を待っていた。
だが爆撃機は来なかった。
代わりに来たのは、熱を出した老人、薬を切らした心臓病の男、出産を控えた女、そして靴底から飛び出した釘で足を傷つけた少年だった。
ラサロは少年を椅子に座らせ、泥で汚れた足を洗った。
「痛むか。」
「歩くと痛い。」
「学校まで歩いたのか。」
少年は頷いた。
ラサロが傷口を消毒すると、少年は唇を噛んだ。泣きはしなかった。
診療所の見習いだったラサロは、革命軍の山中診療所にいた頃より背が伸びていた。だが、子どもの傷を前にした時の手つきは、あの頃と同じだった。痛む場所へ触れる前に声をかけ、驚かせないようゆっくりと手を動かす。
「道路でミサイルを見た。」
少年が言った。
ラサロは包帯を巻きながら顔を上げた。
「そうか。」
「港へ行くんだって。いなくなるんでしょう。」
「たぶんな。」
少年は、足元に置かれた靴を見た。麻紐は切られ、剝がれた靴底が大きく口を開けている。
「あれがなくなったら、新しい靴が来る?」
ラサロの手が止まった。
戦争が始まらなかったことと、靴が届くことは同じではない。港を塞いでいた軍艦が退いても、禁輸は残る。船が入っても、積まれているのが薬や革とは限らない。工場が動き始めても、明日すぐに子どもの靴を作れるわけではなかった。
「まず、これを直そう。」
ラサロは答えた。
少年は不満そうに靴を見たが、それ以上は訊かなかった。
診療所の奥では、看護師が配給帳を確認していた。危機の間に軍へ回されたガーゼが戻らず、抗生物質の在庫も減っている。献血の瓶は使われずに済んだが、使わずに済んだものが、そのまま生活に役立つわけではなかった。
ラサロは靴を持ち上げた。
釘を抜き、革を縫えば、しばらくは使えるだろう。だが診療所には、靴を直す道具まではなかった。
彼は紙に少年の名前と学校を書き留めた。
「工場の人に訊いてみる。靴底に使えるものがないか。」
「本当?」
「あるとは言っていない。訊いてみると言ったんだ。」
少年は少し考え、それから頷いた。
ラサロは、その表情を見て苦笑した。
大人の約束と、できるかもしれないという話を、子どもはよく聞き分けていた。
※※※※※※※※※※
国連事務総長代行のウ・タントは、ビルマ出身の外交官だった。
彼はアメリカの軍人でも、ソ連の党幹部でもない。だが二つの大国が作った危機の出口を、危機の舞台にされた小さな国へ持ち込む役目を背負って、ハバナへ来た。
会談の席で、ウ・タントは静かな声で話した。
「撤去が確実に行われたと確認できなければ、アメリカは偵察を続けるでしょう。海上の措置も、完全には解かれない可能性があります。国際社会には、合意が履行されたと確認できる方法が必要です。」
カストロは椅子の背に身体を預けず、机の上へ両腕を置いていた。
「誰が、何を確認する。」
「国連の管理下にある査察団をキューバ国内へ入れ、撤去対象となった兵器がなくなったことを確認する案があります。」
カストロは返事を急がなかった。
窓の外から、車の音が聞こえた。街は動き始めている。店は戸を開け、学校は授業を再開し、民兵へ出ていた者たちは仕事へ戻ろうとしていた。
その生活の上を、外国の偵察機が飛び続けている。
そして今度は、外国の査察団が地上を歩くという。
「アメリカは、われわれの領空へ許可なく入った。」
カストロは言った。
「写真を撮り、それを国連へ持ち込み、この島に何があるかを世界へ説明した。ソ連は、われわれへ相談せずに撤去を決めた。今度は国連が入り、撤去されたかを確認する。では、キューバはどこにいる。」
ウ・タントは表情を変えなかった。
「キューバの主権を無視するつもりはありません。だからこそ、同意を求めるために来ました。」
「同意とは、断ることもできる言葉だ。」
「もちろんです。ただし、断れば外交上の結果が残ります。」
カストロは、わずかに頷いた。
脅しではなかった。
ウ・タントは、拒絶によって生じる現実を伝えている。確認がなければアメリカは疑い続ける。偵察飛行をやめず、危機は形を変えて残る。
それでも、カストロは答えを変えなかった。
「外国の査察団を、この国へ自由に入れることは認めない。」
「限定された場所だけでも難しいでしょうか。」
「限定する場所を誰が決める。アメリカか。ソ連か。国連か。」
カストロは身を乗り出した。
「この島には、われわれにも十分な説明をしないままソ連軍が管理してきた区域がある。そこへ、キューバ政府より先に外国の査察官を入れろと言うのか。自国の政府が知らないものを、外国人が先に発見するような国を、主権国家とは呼ばない。」
ウ・タントは、机の上に置いた手を組み直した。
カストロが核ミサイルの配備を知らなかったわけではない。ソ連からの提案を受け、受け入れる決断をしたのはキューバ指導部自身だった。
だが、島へ運び込まれた兵器の正確な数、保管場所、部隊の構成、発射権限、そのすべてをキューバ政府が把握しているわけではなかった。
ソ連は同盟国だった。
しかし、同盟国であることと、自国領内に外国の秘密を認めることは同じではない。
「確認を拒めば、アメリカはキューバが何かを隠していると主張します。」
ウ・タントが言った。
「アメリカが、われわれを疑わなかった日があるのか。」
カストロは問い返した。
「査察を受け入れれば、次は何を要求する。兵舎か。港か。革命軍の配置か。われわれの国は、危険な兵器を置かれた管理区域ではない。」
彼は机上の紙を一枚取り上げた。
「危機を終わらせたいなら、確認すべきものはほかにもある。経済封鎖をやめさせる。破壊工作をやめさせる。亡命者による襲撃を止める。領空と領海への侵犯を止める。そしてグアンタナモからアメリカ軍を引き揚げさせる。」
ウ・タントは最後の項目で、わずかに目を伏せた。
「それらすべてを、この撤去確認と結びつけるのですか。」
「結びついている。」
カストロの声は静かだった。
「キューバにとって、危機は十月十四日に始まったのではない。ピックス湾より前から続いている。アメリカが自分たちの基地をこの島に残し、亡命者を使い、飛行機を飛ばしながら、われわれにだけ扉を開けろと言う。その条件で成立する平和は、平和ではない。」
グアンタナモを、ケネディがすぐに返すとは考えていなかった。
アメリカは租借条約を持ち出すだろう。両国の合意がなければ撤退できないと言う。国内政治も、軍も、議会も、それを認めない。
それでも最初に要求から外せば、二度と交渉の机へ戻らない。
返還が難しいから求めないのではなく、難しいものまで含めて、キューバにとっての危機が何であるかを示さなければならなかった。
ウ・タントは、長い沈黙のあとに言った。
「あなたの主張は報告します。しかし、すべてを同時に解決することは難しいでしょう。」
「難しいことと、必要でないことは違う。」
カストロは答えた。
会談が終わると、ウ・タントは席を立った。
二人は握手をした。
敵同士の握手ではなかった。
だが、同じ平和を見ている者同士の握手でもなかった。
※※※※※※※※※※
島の内陸部では、ソ連軍の兵士たちが厚い扉の前に立っていた。
外気は湿っていたが、保管区域の内部では温度が管理されている。計器を確認する兵士の額には汗が浮かび、除湿装置の低い音が途切れることなく続いていた。
奥には、アメリカの偵察機が見つけられなかったものがあった。
戦略ミサイルの機体は空から撮影された。発射台も、燃料車も、部隊の動きも写真に残った。
だが、核弾頭そのものは写っていない。
さらに、短距離で使用するための戦術核兵器について、アメリカは存在さえ把握していなかった。
若い兵士が、保管記録へ署名しながら訊いた。
「撤去するのですか。」
将校は書類から目を上げなかった。
「命令を待て。」
「ラジオでは、危機は終わったと言っています。」
「ラジオは、この部屋を知らない。」
若い兵士は、厚い壁の向こうへ目を向けた。
「キューバ側は知っているのですか。」
将校は、今度は顔を上げた。
「余計なことを訊くな。」
それだけで答えになっていた。
キューバ指導部は、核ミサイルが持ち込まれたことを知っていた。
しかし、ソ連軍が島へ運び込んだすべての核兵器の種類と数、その保管場所まで共有されているわけではない。
若い兵士は記録帳を閉じた。
「アメリカは。」
「知らない。」
将校は言った。
「だから、知られないままにしておく。」
厚い扉が閉じた。
外では、世界が知っているミサイルの解体が始まっていた。
世界が知らない核は、まだ島にあった。
※※※※※※※※※※
ゲバラは、工業省の机へ戻った。
危機の間に溜まった書類が、いくつもの山になっている。生産停止、原料不足、輸送の遅れ、燃料の軍事転用、民兵へ出た労働者の欠勤。
数字だけを見れば、どの工場も計画を達成できない理由を持っていた。
ゲバラは書類を閉じ、工場へ向かった。
機械油と金属の臭いがする建物の中で、止まった旋盤が並んでいた。一部の労働者は戻っていたが、空いた作業台も多い。軍へ出したトラックはまだ戻らず、港に着いているはずの交換部品も届いていなかった。
工場長が生産表を広げた。
「学校用の机は、来月へずれます。診療所向けの金属器具も、材料が足りません。靴底用のゴムは軍用車両の補修へ回されました。」
「軍用車両の補修は終わったのか。」
「すべてではありません。」
「必要量を出せ。余りではなく、今後一か月に使う量だ。数字が分からなければ、いつまでも軍が全部抱える。」
工場長が頷いた。
その時、事務員が小さな包みを持ってきた。
「診療所からです。修理に使える材料がないかと。」
包みの中には、少年の靴が入っていた。
麻紐は切られ、靴底には釘が刺さっている。
ゲバラは靴を手に取った。
軽かった。
この島へ運び込まれた核弾頭の一つよりも、はるかに軽い。だが、その靴を必要とする少年の暮らしを守るために、彼らは核ミサイルを受け入れた。
記憶が、十月より前の夜へ戻った。
正式な会議で議題になる前、カストロが一人で訪ねてきた。
ソ連から核ミサイル配備の提案があった、と告げた。
カストロは答えを求めたのではない。
少なくとも、軍事的な答えだけを求めたのではなかった。
医者として広島を知り、核兵器が都市と人間に何をするかを知っているゲバラへ、革命がそれを受け入れてよいのかと訊いた。
ゲバラは、その夜には答えられなかった。
核を拒むことは容易だった。
正しい兵器ではない。人間が持つべき兵器でもない。
だが、ピックス湾の侵攻を受け、次の攻撃を待つ国で、道徳だけを理由に盾を拒むことが正しいのかは分からなかった。
彼は街へ出た。
配給を待つ女を見た。靴のない子どもを見た。診療所で薬を待つ農民を見た。アメリカの禁輸と破壊工作の間で、ようやく作り始めた学校や病院が、次の侵攻で失われる可能性を考えた。
そして、カストロのもとへ戻った。
答えを出した、と言った。
核兵器を正しいとは言わない。
だが、この国を守るほかの手段がないなら、受け入れるしかない。
カストロは、その言葉を聞いて正式な協議へ進んだ。
いま、ゲバラの手には、あの時とよく似た靴があった。
国民を守るために核を受け入れた。
だが同じ国民は、いま学校へ戻り、工場が動き、薬と食料が届くことを必要としている。
核を残すために危機を再燃させれば、守ろうとした生活を再び防空壕へ押し戻すことになる。
ゲバラは靴を作業台へ置いた。
「軍用車両の廃タイヤは、どこへ行く。」
工場長が答えた。
「倉庫です。損傷の少ない部分は補修用に取っています。」
「使えない部分を切り出せ。全部を靴底にできるとは思わないが、子ども用なら試せる。革職人と相談しろ。」
「正式な生産計画に入れますか。」
「まず修理工房を作る。新しい靴を作る前に、いまある靴を歩けるようにしろ。学校区を回れるようにするんだ。」
工場長は、少年の靴を見た。
「数が増えます。」
「分かっている。」
ゲバラは答えた。
「だから始める。」
止まっていた旋盤の一台が、試運転を始めた。
金属音が工場の中へ広がった。
ミサイルが去っても、機械は自分では動き出さない。
国家は、戦争が避けられた翌日から、避けられた戦争の後始末をしなければならなかった。
※※※※※※※※※※
その夜、ゲバラは革命宮殿の執務室を訪ねた。
カストロの机には、ウ・タントとの会談記録と、ソ連軍部隊に関する不完全な一覧が広げられていた。
ゲバラは、工場で見た靴の話をした。
カストロは、しばらく黙って聞いていた。
「以前にも、同じような靴を見たな。」
「そうだ。」
ゲバラは椅子へ深く座った。
「あの時、俺は国民を守るために核を受け入れるしかないと答えた。いまも考えることは変わらない。守るべきなのは核じゃない。国民だ。」
カストロは煙草に火をつけた。
「撤去を止めろとは言わない。」
「だが、見送るだけでもない。」
「当然だ。」
カストロは煙を吐いた。
「われわれは、何が来るかを知ったうえで受け入れた。島が標的になることも、核戦争になれば何が起きるかも知っていた。それなのに、持ち帰る時だけモスクワの所有物だと言われて終わるつもりはない。」
ゲバラは、机上の一覧を引き寄せた。
「これは全部か。」
「ソ連側は、戦略ミサイルとそれに直接関係する部隊についてしか明確に答えない。そのほかは、モスクワから説明が来ると言っている。」
「説明ではなく、決定を持ってくるんだろう。」
「おそらくな。」
カストロは、一覧の空白部分を指で叩いた。
「核ミサイルを引き上げたあと、この島に何が残る。兵器の種類も、部隊も、指揮権も、すべて明らかにさせる。自分の国に何が置かれているのかを、その政府だけが知らないなどということがあっていいはずがない。」
ゲバラは頷いた。
「核を持ち帰るなら、代わりに何を残すかも聞くべきだ。」
カストロは首を振った。
「聞くのではない。残させる。」
ゲバラは、カストロの顔を見た。
そこにあったのは、危機の最中に見せた怒りではなかった。怒りを一度飲み込み、使える形へ変えようとする表情だった。
「最初から通常兵器を要求するのか。」
「それでは、最初からモスクワが払える値段で話が始まる。」
カストロは立ち上がり、壁の地図へ近づいた。
「まず核を残せと言う。キューバへ譲渡できないなら、ソ連軍の管理下に置けと言う。それも拒むなら、核を持ち帰った後に島をどう守るのか、向こうに答えさせる。」
「本当に核を残せるなら、残すのか。」
ゲバラが訊いた。
カストロはすぐには答えなかった。
「核が欲しいわけではない。」
地図上のキューバへ指を置いた。
「だが、アメリカがもう一度来ないと保証できる盾は必要だ。核でなくていい。防空設備でも、航空機でも、戦車でも、訓練された軍でもいい。大事なのは、次の侵攻を止められることだ。」
「五項目も出すのか。」
「すべて出す。」
カストロは言った。
「禁輸、破壊工作、亡命者の襲撃、領空と領海の侵犯、グアンタナモ。モスクワが解決できないことは分かっている。だが、解決できないから要求から外せば、アメリカはキューバの問題が終わったことにする。」
「グアンタナモを、いま返すとは思えない。」
「俺も思っていない。条約を盾にするだろう。軍も議会も反対する。」
カストロは地図から手を離した。
「だから要求する。最初に高い場所を示さなければ、譲歩した時にどこまで下りたか誰にも分からない。」
ゲバラは、かすかに笑った。
「法律家らしくなってきたな。」
「山にいた頃から法律家だ。」
「山では、法律より銃を使っていた。」
「銃で勝ったから、法律を使える。」
二人は短く笑った。
だが、笑いは長く続かなかった。
ゲバラは窓の外を見た。
「危機をもう一度始めるつもりはない。」
「俺もない。」
カストロは答えた。
「学校へ戻った子どもを、また壕へ送る気はない。だが、それと、何も要求せずに従うことは違う。」
机の上には、ソ連が撤去すると決めた兵器の一覧があった。
その一覧にないものが、まだ島のどこかに残っている。
二人は、その場所を知らなかった。
※※※※※※※※※※
モスクワでは、フルシチョフが一通の電報を机の上へ置いた。
向かいには、アナスタス・ミコヤンが座っていた。
長い政治経験を持ち、相手を怒らせずに拒絶することのできる男だった。微笑み、相手の話を聞き、必要な時だけ言葉を差し込む。その柔らかさの下に、モスクワの決定を曲げない芯がある。
フルシチョフは、電報の一節を指で叩いた。
「二十四時間から七十二時間。」
ミコヤンは紙へ目を落とした。
カストロが、アメリカによる侵攻が迫っていると分析し、モスクワへ送った書簡だった。
「彼は興奮して数字を書いたのではない。」
フルシチョフは言った。
「われわれがワシントンの返事を待っている間に、彼は自分の情報で侵攻までの時間を計算していた。完全に正しかったかどうかが問題ではない。彼は、われわれの判断を待たずに自分で結論を出す。」
ミコヤンは電報から顔を上げた。
「制御できない、と。」
「同盟国は部下ではない。」
フルシチョフは苛立ったように言い、それから声を落とした。
「だが、彼は自国が焼かれることまで考えたうえで、その後の戦争について書いている。若い革命家だと思って侮るな。感情だけの男でもない。」
フルシチョフは椅子を離れ、窓辺へ歩いた。
「彼には、われわれの核を撃つ権限はない。だが危機をもう一度始める力はある。キューバ軍を動かし、偵察機を撃たせ、戦術核の存在を公表し、ラテンアメリカへ訴えることができる。」
ミコヤンは黙って聞いていた。
「戦略ミサイルは持ち帰る。爆撃機の問題も片づける。核弾頭も残さない。」
フルシチョフは振り返った。
「だが、キューバとの同盟は残せ。」
「難しい任務です。」
「難しいから君を行かせる。」
フルシチョフは机へ戻り、電報を畳んだ。
「カストロに敗者だと思わせるな。頭越しに扱われたという怒りを、アメリカではなくわれわれへ向けさせるな。そして何より、彼を敵にするな。」
ミコヤンは、ゆっくりと頷いた。
「核は持ち帰る。カストロは残す。」
「そうだ。」
フルシチョフは答えた。
「両方だ。」
※※※※※※※※※※
十一月二日、ハバナ空港。
飛行機が滑走路へ降りると、ミコヤンは窓から島を見た。
平らな空港の向こうに椰子の木があり、さらに遠くに低い建物が並んでいる。核戦争の中心になった島は、上空から見れば驚くほど小さかった。
だが、その島にいる男は、二つの大国が決めた収束を拒むことができる。
ミコヤンは席を立つ前に、上着の襟を直した。
彼が持ってきたのは、友情の言葉と、モスクワの決定だった。
世界に見せて持ち帰る兵器。
世界に見せずに持ち帰る兵器。
キューバへ残してよい兵器。
その三つを分け、カストロに受け入れさせなければならない。
タラップの下には、カストロとゲバラが待っていた。
ミコヤンは階段を降りながら、笑顔を作った。
その笑顔が、ハバナでの最も重要な武器になることを知っていた。
カストロも、遠ざかる飛行機の音を聞きながらミコヤンを見ていた。
ソ連の老練な交渉者が、説明だけを持ってきたとは思っていなかった。
決められた結論を、友情の言葉で包んで持ってきたのだろう。
二人は握手をした。
「同志カストロ。すべてを率直に話しましょう。」
ミコヤンが言った。
カストロは、その笑顔を見た。
「そのために来たのでしょう。」
空港の外では、世界が知っている核ミサイルが港へ向かう準備を進めていた。
島のどこかには、世界が知らない核が残っていた。
カストロは、その場所を知らなかった。
だが、知らないままにしておくつもりもなかった。
カストロの納得の上秘密裏に核弾頭を持ち帰る。
ミコヤンが託されたミッションが始まります。
※更新は、月・木・土曜日(朝・夜)二回の週4話です。
次回は、木曜日の夜に投稿予定です。
【お知らせ】長編のエピソードになると思わず連載を開始したので、今、前半を大幅改稿しました。
改稿後はボリュームが二倍以上になり背景もわかりやすく史実に寄せてます。(初めはヒューマンドラマを描く予定でした。)
改稿したものはタイトルに改稿としています。ぜひお読み下さい。(日本編の前まで改稿です!)
ジャンルもヒューマンドラマから歴史へ。
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