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ゲバラとカストロ ~革命は二人で始まり、一人で終わる~  作者: 相馬ゆう
二人の英雄の友情と別れ(前編)
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174/214

174,目隠しの駆け引き

ソ連とアメリカはお互い暗闇の中での駆け引きをしています。

ボタンの掛け違いが奇跡を起こしていきます。


ワシントンは、ソ連とキューバのやりとりを知らない。


カストロの書簡には侵攻は二十四時間から七十二時間以内に始まるとある。


もしアメリカがキューバを占領しようとするなら、その成功によって次の核攻撃を選ばせてはならない。


その文章を、ケネディも、ラスクも、マクナマラも知らなかった。


だが、彼らはすでに、その手紙に書かれた時間の中へ入っていた。


時計は予言を信じない。


ただ、止まらずに進む。


※※※※※※※※※※


モスクワ時間 一九六二年十月二十七日未明

(ハバナ時間 一九六二年十月二十六日夜/ワシントン時間 同日夜)


ホワイトハウスには、モスクワから届いた長い手紙があった。


フルシチョフからケネディへ宛てられた私信だった。モスクワのアメリカ大使館へ渡され、翻訳され、分割された電文として国務省へ届いた文章は、国家指導者の公式書簡としては奇妙なほど長かった。


怒りがあり、弁明があり、恐怖があった。


互いに縄を引き続ければ、結び目は固くなり、最後にはどちらかが縄を切るしかなくなる。その時、結び目を結んだ者たちだけでなく、世界中の人間が巻き込まれる。


整った外交文書ではなかった。


だからこそ、ケネディは、その奥にフルシチョフ本人の声があると感じた。


そして、その乱れた文章の中に、まだ輪郭の曖昧な出口を見つけた。


ソ連は、キューバから攻撃兵器を撤去する意思を示している。


アメリカは、キューバへ侵攻しないと約束する。


海上隔離を解除し、これ以上の攻撃兵器を島へ運ばない。


確認方法や具体的な手順は、これから詰めなければならない。それでも、ミサイルと侵攻保証を交換する道筋は見えていた。


完全な勝利ではない。


だが、完全な敗北にもならない。


ソ連は、アメリカ本土の近くへ核ミサイルを持ち込み、ケネディ政権に恐怖を与えた。


アメリカはその秘密を発見し、国連で写真を示し、ソ連の説明を世界の前で崩した。


そしてキューバは、自国の頭越しに未来を決められる屈辱を受ける代わりに、アメリカから不侵攻保証を得る可能性がある。


その出口は、誰にとっても美しくはなかった。


だが、世界を焼かずに済ませるには、十分に使える形をしていた。


ケネディは、同じ手紙を何度も読んだ。


机の上には葉巻の箱があり、灰皿には火の消えた一本が残っていた。彼は新しい葉巻を手に取ったが、火をつけず、指の間でゆっくり回した。


「これなら、終われる。」


誰に聞かせるでもなく言った。


勝利宣言ではなかった。


勝利という言葉を、ひとまず机の隅へ押しやる声だった。


部屋にいたルウェリン・トンプソンは、すぐには同意しなかった。駐ソ大使を務め、フルシチョフの感情の揺れも、突然の強硬さも見てきた男である。


「終われる可能性はあります。」


ケネディが顔を上げた。


「まだ何かあるのか。」


「モスクワが撤去を決めても、それだけで島が静かになるとは限りません。」


トンプソンは、机の上のキューバ地図を見た。


「われわれはフルシチョフと話しています。しかし、ミサイルが置かれているのはカストロの国です。彼はピックス湾を経験し、その後も侵攻と暗殺を警戒してきた。ソ連が撤去を決めたからといって、国連の査察を受け入れるとは限りません。」


「だが、不侵攻保証は彼のためでもある。」


「われわれにはそう見えます。」


トンプソンは言葉を選んだ。


「カストロには、二つの大国が自分の国の兵器と安全を交換しているように見えるかもしれません。」


ケネディは地図へ視線を落とした。


キューバは、九十マイル先の島だった。


しかし、その島にいる人間が考えていることは、モスクワより遠かった。


「フルシチョフは、彼を抑えられるのか。」


「完全には無理でしょう。」


トンプソンは答えた。


「ですが、出口を作らなければ、抑える理由すらなくなります。」


ケネディは葉巻を箱へ戻した。


第一の手紙は、フルシチョフとの出口だった。


カストロが同じ出口を出口として見るかどうかは、まだ誰にも分からなかった。


※※※※※※※※※※


モスクワ時間 一九六二年十月二十七日午後五時

(ハバナ時間 同日午前九時/ワシントン時間 同日午前十時)


ExCommは、ホワイトハウスの閣議室に集まっていた。


部屋には、眠れていない者たちの顔が並んでいる。


ディーン・ラスク。


ロバート・マクナマラ。


マクジョージ・バンディ。


ロバート・ケネディ。


テッド・ソレンセン。


トンプソン。


軍と情報機関の代表たち。


机の上には第一書簡、航空写真、標的リスト、海軍の配置図、冷めたコーヒーが置かれていた。


議題は、前夜の手紙をどう実務的な合意へ変えるかだった。


ラスクが確認方法を説明する。


「大統領、不侵攻保証は検討できます。しかし、撤去の確認なしに海上隔離を解除することはできません。ソ連が本当に攻撃兵器を撤去するのか。国連が確認できるのか。カストロが査察を認めるのか。そこを曖昧にすれば、国内にも同盟国にも説明できません。」


バンディは、政治的な出口を見ていた。


「撤去を公に確認できれば、政府は危険を取り除いたと説明できます。強硬派は不満を言うでしょうが、ソ連のミサイルを排除した事実は残る。ここで押しすぎて、フルシチョフの退路を潰す方が危険です。」


マクナマラは標的リストの端を揃えた。


「空爆は選択肢として残しています。しかし、すべてのミサイルと核兵器を確実に破壊できる保証はありません。こちらが最初の攻撃を選ぶことはできても、その後の攻撃がどこで起きるかは選べません。キューバかもしれません。ベルリンかもしれません。トルコかもしれない。海上で始まる可能性もあります。」


ケネディは第一書簡へ手を置いた。


「ソ連がミサイルを引く。われわれはキューバへ侵攻しない。海上隔離を解除し、国連が確認する。どちらも完全には勝たないから、どちらも終われる。」


誰かが小さく頷いた。


トンプソンは、まだ地図を見ていた。


「ただし、時間はモスクワとワシントンだけで進んでいるのではありません。」


ケネディが彼を見る。


「カストロか。」


「はい。彼は、われわれが侵攻準備をしていると考えているでしょう。実際、軍は準備しています。フロリダには航空機も上陸部隊も集まっている。グアンタナモも増強された。彼の立場から見れば、海上隔離は交渉のための圧力ではなく、侵攻の前段階に見えてもおかしくありません。」


マクナマラが丁寧に補った。


「キューバ側がそう判断すれば、対空砲火や現地部隊の対応は強くなります。われわれには攻撃と見える行動が、彼らには侵攻前の防御に見える可能性があります。」


「だから早く合意する。」


ケネディが言った。


「モスクワを動かし、モスクワから島を止めさせる。」


トンプソンは答えなかった。


カストロがモスクワの命令に従うという保証はなかった。


だが、その朝のワシントンには、まだ交渉の机が世界の中心にあるという感覚が残っていた。


それを破ったのは、封書ではなかった。


ラジオだった。


扉が開き、受信されたばかりの紙片が運び込まれる。


ラジオ・モスクワの放送だった。


翻訳は途中で、文脈を切られた言葉だけが、大統領の前へ置かれた。


ケネディは紙を読み、目を止めた。


「トルコ。」


次の行へ視線を移す。


「ジュピター・ミサイル。」


前夜の手紙にはなかった条件だった。


キューバからソ連のミサイルを撤去する。


その代わりに、アメリカはトルコからジュピターを撤去する。


国連の監視下で、双方が実行する。


部屋の空気が変わった。


第一書簡で見えかけた出口に、突然、値段がつけられた。


ラスクはすぐに同盟への影響を口にした。


「これを公には受け入れられません。キューバとトルコを交換したと見られれば、NATOが揺れます。トルコ政府は、自国の安全を米ソが勝手に取引したと考えるでしょう。」


バンディも続けた。


「秘密の協議なら処理の余地はあります。しかし、ラジオで世界へ出された以上、こちらがそのまま応じれば、アメリカがソ連の圧力に屈して同盟国を売ったという絵になります。」


マクナマラは二通の内容を分けて考えた。


「第一の書簡は、危機をキューバの中に閉じていました。ソ連の攻撃兵器が撤去され、われわれが侵攻しない。それなら危険はありますが、論点はカリブ海です。」


彼は紙片に書かれたトルコという語を指した。


「第二の条件は、その輪を広げています。トルコが入り、NATOが入り、欧州全体の安全保障が入る。これに正面から答えれば、キューバ危機ではなく、同盟秩序そのものを取引することになります。」


ロバートが、ソ連側の理屈を口にした。


「だが、言っていること自体は分かる。アメリカはキューバのミサイルを危険だと言う。それなら、ソ連国境近くのジュピターは何だ、と。」


ラスクが頷いた。


「理屈は通ります。しかし、理屈が通ることと、同盟国を公然と動かせることは別です。」


ケネディは黙っていた。


トルコのジュピターが旧式化していることは知っていた。ポラリス潜水艦など、より生存性の高い戦力への置き換えも進んでいる。


軍事的な価値だけを考えれば、やがて撤去される兵器だった。


問題は、撤去するかどうかではない。


誰に命じられて、どのように撤去したと見えるかだった。


「あのミサイルはいずれ外す。」


ケネディが言った。


会議室の視線が集まる。


「古くなっている。軍事的な価値も落ちている。トルコのジュピターを守るためにキューバへ空爆するなど、理屈が逆だ。」


ラスクは黙って続きを待った。


「だが、ソ連の海上圧力を受けて同盟国の兵器を差し出したとは言えない。問題は、外すかどうかではない。交換だと見せるかどうかだ。」


トンプソンは二通の手紙を並べた。


「昨夜の手紙に答えるべきです。」


ケネディが見る。


「今日の要求は。」


「聞かなかったことにするのではありません。」


トンプソンは、第一書簡へ指を置いた。


「フルシチョフ自身が最初に示した出口を、まだ閉じていないと扱うのです。第二の手紙が党や軍の圧力を反映したものでも、本人の交渉術でも、昨夜の言葉を彼自身の本心として選ばせる。」


「トルコはどうする。」


「別の線で扱うしかありません。」


その時点では、まだ方針にすぎなかった。


しかし、会議の中心は決まり始めた。


第一の手紙へ公に答える。


第二の条件は公の交換にはしない。


ただし、完全に無視すればフルシチョフは引けなくなる。


その間にも、カリブ海の時計は進み続けていた。


※※※※※※※※※※


モスクワ時間 一九六二年十月二十七日午後六時十九分

(ハバナ時間 同日午前十時十九分/ワシントン時間 同日午前十一時十九分)


キューバ東部上空で、アメリカ空軍のU-2が撃墜された。


操縦士はルドルフ・アンダーソン少佐。


機体は高高度で破壊され、彼は死亡した。


ワシントンへ情報が届いた時、会議ではまだ、第二書簡をどう扱うかが議論されていた。


死者は、それまで紙の上にしかなかった戦争へ名前を与えた。


ルドルフ・アンダーソン。


階級がある。


家族がいる。


国民に説明しなければならない死だった。


会議室の空気が硬くなった。


軍の側から、撃墜した地対空ミサイル陣地への報復を求める声が出る。


アメリカ機が撃ち落とされ、パイロットが殺された。何もしなければ、軍も議会も国民も納得しない。


しかも、その直前にモスクワは要求を引き上げていた。


第一書簡から第二書簡へ。


キューバからトルコへ。


私信から公開条件へ。


その同じ日に、ソ連製ミサイルがアメリカ人を殺した。


ワシントンから見れば、一つの意志が段階的に圧力を強めているように見えた。


ソ連は条件をつり上げ、その直後にアメリカ機を撃ち落とした。


「大統領、これは攻撃です。」


軍側の一人が言った。


ケネディは報告書から顔を上げた。


「分かっている。」


「撃墜に応じなければなりません。少なくとも当該SAMサイトは破壊するべきです。」


「誰が撃墜を命じた。」


問いに、即答できる者はいなかった。


「モスクワの命令か。」


「確認できていません。」


「カストロの命令か。」


「それも分かりません。」


「現地のソ連軍か。」


「可能性はあります。」


ケネディは椅子の背へ身体を預けた。


分からない。


その言葉が、危機の中で最も危険だった。


もしフルシチョフが命じたのなら、ソ連は軍事的な段階を一つ上げたことになる。


もし彼が命じていないのなら、モスクワは島の自軍を制御できていない。


もしキューバ側が関与したのなら、カストロは米ソの交渉とは別の時間で動き始めている。


トンプソンが静かに言った。


「大統領、もし撃墜がフルシチョフの命令ではないなら、ここで報復することは、交渉相手ではなく、交渉相手が制御できていない現場に対して戦争を始めることになります。」


軍人が反論した。


「命令系統がどうであれ、アメリカ人は死んでいます。」


「その通りだ。」


ケネディが言った。


「だからこそ、誰に向けて撃ち返すのかを知らなければならない。」


マクナマラは標的図を見ながら、丁寧に言った。


「報復攻撃は実行できます。しかし、攻撃後の連鎖は管理できません。こちらは最初に破壊するSAMサイトを選べます。その後、ソ連軍がどの基地から応じるか、キューバ軍がどう動くか、ベルリンやトルコで何が起きるかは選べません。」


ケネディは窓の外を見た。


ワシントンは普通の昼だった。


車が走り、人が歩き、食堂では昼食が運ばれている。


その日常の外側で、一人のアメリカ人が死んだ。


カストロの手紙を、ケネディは知らなかった。


しかし、島が侵攻を予期していることは分かり始めていた。


海上隔離。


グアンタナモの増強。


フロリダへ集められた爆撃機と上陸部隊。


低空偵察機。


国連で公開された写真。


ワシントンには、戦争を避けながら圧力をかけるための一手一手だった。


ハバナから見れば、侵攻の準備が順番に整えられているように見えたかもしれない。


「彼らは、われわれが攻撃すると考えている。」


ケネディが言った。


ラスクが答えた。


「実際、攻撃計画はあります。」


「計画があることと、命じることは違う。」


「われわれには違います。」


トンプソンが言った。


「島から見れば、違いはまだ紙の上にしかありません。」


ケネディは、アンダーソン少佐の名が書かれた報告へ目を戻した。


カストロが侵攻を確信すれば、防御を待つとは限らない。


ソ連軍の現地司令官が攻撃を確信すれば、モスクワの許可を待つとも限らない。


今日、その一つがすでに起きた。


「アンダーソン少佐の死には答えなければならない。」


ケネディは言った。


「だが、彼の死を、世界を終わらせる合図にはしない。」


即時報復は見送られた。


軍の選択肢は消されなかった。


ただ、その日の昼には実行しないと決められた。


時計の針は、もう一時間進んだ。


※※※※※※※※※※


モスクワ時間 一九六二年十月二十八日未明

(ハバナ時間 一九六二年十月二十七日午後/ワシントン時間 同日午後遅く)


広い会議では、もう決められなかった。


小さな部屋に残ったのは、ロバート、ラスク、マクナマラ、バンディ、ソレンセン、トンプソンだった。


机には、二通のソ連書簡とU-2撃墜の報告が並んでいる。


ケネディは第一書簡を手元へ引いた。


「返事は一つにする。」


ラスクが確認した。


「昨夜の書簡への返信ですね。」


「そうだ。ソ連がキューバから攻撃兵器を撤去し、国連の確認を受け、追加搬入を止める。われわれは海上隔離を解除し、キューバへ侵攻しない。」


バンディが第二書簡を見た。


「トルコについては。」


「公には答えない。」


「完全に無視すれば、フルシチョフが引けなくなる可能性があります。」


トンプソンが言った。


ケネディはトルコの地図を広げた。


「ジュピターは外す。もともと、いつまでも置く兵器ではない。」


ラスクは表情を変えなかった。


「それをキューバとの交換にはできません。」


「分かっている。書面にもできない。」


「トルコ政府にも、先に説明が必要です。」


「正式な撤去は同盟の手続きで行う。ソ連の要求で動かしたとは絶対に見せない。」


マクナマラが言った。


「軍事的には代替できます。問題は同盟上の信用です。公の交換にすれば、ミサイルそのものより大きなものを失います。」


ケネディは頷いた。


「だから二本に分ける。」


表の返事では、第一書簡を受け入れる。


そこにトルコは書かない。


裏の会話では、ジュピターが四、五か月以内を目途に撤去されると伝える。


交換条件ではない。


公表しない。


書面にも残さない。


それでも、フルシチョフが第二書簡を捨てても、何も得られなかったとは言わずに済むだけの材料を渡す。


「ロバート。」


ケネディは弟を見た。


「ドブルイニンに会ってくれ。」


ロバートは頷いた。


「伝える内容は。」


「第一書簡に答える。キューバから攻撃兵器を引くなら、われわれは侵攻しない。海上隔離も解除する。」


ケネディは少し間を置いた。


「トルコは公の取引にはできない。書面も出せない。ただし、ジュピターは四、五か月以内を目途に撤去する。大統領の了解があると伝えろ。」


「期限を求められる。」


「それ以上は言えない。」


ロバートは、U-2撃墜の報告書へ目をやった。


「時間がないことも伝える。」


「そうだ。」


ケネディの声が低くなる。


「今日、アメリカ人が死んだ。軍は報復を求めている。私は抑えているが、同じことがもう一度起きれば抑えられる保証はない。」


トンプソンが加えた。


「モスクワには、ハバナも待っていないと理解させる必要があります。」


ケネディは彼を見た。


「カストロか。」


「彼は侵攻を恐れているだけではないでしょう。」


トンプソンは、島の地図を指した。


「侵攻が避けられないと判断すれば、米ソが合意するまで何もしないとは限りません。ソ連軍も、キューバ軍も、次の偵察機を侵攻準備の一部と見る可能性がある。フルシチョフが手紙を考えている間に、現地が次の段階を決めてしまう。」


ケネディは、しばらく地図を見ていた。


「ドブルイニンに言え。」


彼はロバートへ向き直った。


「これは、ケネディとフルシチョフだけの時間ではない。島にはカストロがいる。兵士がいる。撃てる兵器がある。今日、そのうちの誰かがもう撃った。」


ロバートは立ち上がった。


「分かった。」


兄弟の間に、それ以上の言葉は必要なかった。


表の返事は、世界へ向けて送る。


裏の返事は、モスクワだけへ届ける。


そして、その二本が到着する前に、カリブ海で次の一発が撃たれないことを願う。


アメリカの決断は、外交というより、時間との競争になっていた。


※※※※※※※※※※


モスクワ時間 一九六二年十月二十八日午前二時十五分

(ハバナ時間 一九六二年十月二十七日午後六時十五分/ワシントン時間 同日午後七時十五分)


ロバート・ケネディは、ドブルイニンへ電話をかけた。


三十分後、ソ連大使は司法省に到着した。


ホワイトハウスではない。


国務省でもない。


条約を結ぶ場所ではなく、条約にできない言葉を渡すための部屋だった。


ロバートは長い前置きをしなかった。


「大統領は、フルシチョフ議長の最初の手紙に返事をします。ソ連がキューバから攻撃兵器を撤去し、確認を受け入れるなら、アメリカはキューバへ侵攻しない。海上隔離も解除します。」


ドブルイニンは黙って聞いた。


「第二の提案については。」


「公には扱えません。」


「トルコのことですね。」


「そうです。キューバとの交換として公表すれば、NATOが壊れる。大統領は、同盟国をソ連との取引材料にしたとは言えません。」


「では、モスクワは何を得るのですか。」


ロバートは声を低くした。


「トルコのジュピターは撤去されます。四、五か月以内を目途に進める。」


ドブルイニンの目が動いた。


「書面にできますか。」


「できません。」


「公式な約束でもない。」


「公式の取引にはしない。」


「それで、どうやって信じろと言うのです。」


ロバートは、大使の目を見た。


「私が、大統領の了解なしにこの話をしていると思いますか。」


沈黙があった。


「そして、もう一つ伝えてください。」


ロバートはU-2撃墜の報告書へ手を置いた。


「今日、われわれの偵察機が撃ち落とされました。操縦士が死んだ。軍は報復を求めています。大統領が止めている。ですが、いつまでも止められるとは限らない。」


「脅しですか。」


「警告です。」


ロバートは即座に答えた。


「モスクワが撃墜を命じたのか、現地軍が決めたのか、われわれには分からない。分からないまま、アメリカ人は死んだ。」


彼は少し身を乗り出した。


「あなた方のミサイルは、地図の上に置かれているのではありません。カストロの島にある。彼には彼の軍があり、彼の恐怖があり、アメリカを信じないだけの理由がある。今日、現地の誰かがすでに撃った。明日、別の誰かが撃てば、大統領もフルシチョフ議長も、あとから意味を説明することしかできなくなる。」


ドブルイニンの表情が硬くなった。


「キューバ政府が何を考えているか、あなた方には分からないでしょう。」


「分かりません。」


ロバートは認めた。


「だから危険なのです。」


部屋の時計が進んでいた。


「明日までに解決しなければ、状況は両国政府の手から離れるかもしれない。カストロが何をするか、現地のソ連軍が何をするか、次のアメリカ人操縦士が攻撃を受けた時にどう反応するか。誰にも分からない。」


ドブルイニンは返事をしなかった。


条約も署名もない会談だった。


だが、彼が大使館へ戻り、暗号電文でモスクワへ送る言葉は、世界の運命を動かすことになる。


トルコのジュピターはいずれ撤去される。


ただし、キューバとの交換とは呼ばない。


そして、待てる時間はほとんど残っていない。


※※※※※※※※※※


モスクワ時間 一九六二年十月二十八日午前三時五分

(ハバナ時間 一九六二年十月二十七日午後七時五分/ワシントン時間 同日午後八時五分)


国務省から、モスクワのアメリカ大使館へ緊急電報が送られた。


ケネディからフルシチョフへの公式返信だった。


ソ連がキューバから攻撃兵器を撤去する。


国連の適切な監視を受け入れる。


追加搬入を停止する。


その代わり、アメリカは海上隔離を解除し、キューバへ侵攻しない。


そこにトルコは書かれていない。


ジュピターという語もない。


公式の返事は、第一書簡だけを相手にしていた。


同じ頃、ワシントンのソ連大使館では、ドブルイニンの報告が暗号化されていた。


その中には、公式返信には存在しない言葉があった。


四、五か月。


非公開。


交換とは呼ばない。


書面にはしない。


同じ都市から、二本の返事がモスクワへ向かった。


一方は、世界が読める言葉。


もう一方は、存在したことすら認められない言葉だった。


※※※※※※※※※※


モスクワ時間 一九六二年十月二十八日未明

(ハバナ時間 一九六二年十月二十七日夜/ワシントン時間 同日夜)


クレムリンの机には、四つの紙が置かれていた。


キューバ駐留軍から届いた、攻撃は二十四時間から七十二時間以内に始まるという報告。


カストロから届いた、侵攻が始まればアメリカに次の核攻撃を選ばせるなという手紙。


ソ連軍がアメリカのU-2を撃墜し、操縦士を死亡させたという報告。


そして、ワシントンから届き始めた二本の返事。


フルシチョフは、ケネディの公式返信を読んだ。


そこには、第一書簡の出口が残されていた。


ミサイルを撤去する。


アメリカはキューバへ侵攻しない。


海上隔離を解除する。


国連の確認を受ける。


第二書簡のトルコ要求には触れていない。


だが、その後に届いたドブルイニンの報告には、別の答えがあった。


公には取引にしない。


書面にもできない。


それでも、ジュピターは四、五か月以内を目途に撤去される。


グロムイコは、口頭保証の危うさを指摘した。


「書面はありません。ケネディが約束を守る保証もない。」


マリノフスキーも慎重だった。


「第一書簡を受け入れれば、世界にはわれわれが圧力に屈したように見えます。トルコの撤去は秘密のままです。」


フルシチョフは、二人の言葉を聞きながら、カストロの書簡を手に取った。


何度読んでも、受け入れられない結論だった。


アメリカの侵攻が始まれば、その後に予想される核攻撃を待つな。


先手を取らせるな。


それは、キューバを救う提案ではない。


キューバが滅びるなら、世界も無傷では残さないという覚悟だった。


フルシチョフは、その覚悟を肯定しなかった。


だが、もう単なる狂気として捨てることもできなかった。


「フィデルの結論は受け入れられない。」


紙を持ったまま言った。


「しかし、彼が見ている順序は間違っていないかもしれない。」


グロムイコが顔を上げた。


「順序ですか。」


「アメリカは軍を集める。偵察を続ける。島は、それを侵攻準備と見る。現地の兵士は、自分たちが先に破壊されると考える。モスクワの命令を待つより先に撃つ。」


フルシチョフはU-2撃墜の報告へ目を移した。


「もう、そこまで進んだ。」


カストロの予測では、侵攻まで二十四時間から七十二時間だった。


その幅が正確かどうかは分からない。


だが、U-2は撃墜された。


アメリカ人が死んだ。


ケネディは報復を見送ったが、次も同じように止められるとは限らない。


次の偵察機。


次の対空射撃。


次の誤認。


次の通信途絶。


どれか一つで、カストロの手紙に書かれた順序が、そのまま現実になる。


マリノフスキーが言った。


「現地軍には、核兵器を許可なく使用しないよう再度命じています。」


「命令が届く前に、攻撃が始まったと思われたらどうする。」


フルシチョフの問いに、国防相はすぐ答えなかった。


「通信が切れたら。」


沈黙が続いた。


キューバには、アメリカが存在すら十分に把握していない核兵器がある。


戦略ミサイルだけではない。


侵攻部隊を迎え撃つための戦術核もある。


それを管理しているのは、世界戦争を始めたい男たちではない。


自分の部隊を守ろうとする軍人たちだった。


そこが最も危険だった。


誰も世界戦争を望まず、それぞれが目の前の責任を果たした結果、世界戦争が始まる。


カストロは、自分の革命を守ろうとしている。


ケネディは、自国の安全と同盟を守ろうとしている。


現地のソ連軍は、アメリカの爆撃から陣地と兵士を守ろうとしている。


フルシチョフは、ソ連の威信とキューバの生存を守ろうとしている。


守ろうとするものが増えるほど、先に撃つ理由も増えていた。


「ケネディの約束を信じますか。」


グロムイコが尋ねた。


フルシチョフは首を振った。


「信じるかどうかではない。」


彼は、カストロの手紙を机へ置いた。


「ケネディの約束を信じるより、カリブ海がもう一日静かでいると信じる方が難しい。」


誰も反論しなかった。


第一書簡を受け入れれば、ソ連は公には譲歩したように見える。


第二書簡に固執すれば、ケネディは同盟と軍に追い詰められる。


その間にも、カストロが示した時計は進む。


二十四時間から七十二時間。


その数字は、もはや誇張とは言い切れなかった。


最初の一人が死んだ。


次は一人では済まない。


フルシチョフは椅子から立った。


「撤去を受け入れる。」


マリノフスキーが顔を上げた。


「トルコは。」


「秘密の約束を記録しておけ。守らなければ、その時に責任を問う。」


「公には。」


「公には、キューバへの不侵攻保証と引き換えに撤去する。」


グロムイコが確認した。


「書簡を送りますか。」


フルシチョフは窓の外を見た。


モスクワの朝はまだ来ていない。


ワシントンでは、ケネディが返事を待っている。


ハバナでは、カストロが侵攻に備え、革命を死なせる覚悟まで固めている。


外交文書を通常の経路で送れば、翻訳と伝達に時間がかかる。


「ラジオで流せ。」


フルシチョフが言った。


「ケネディが起きているうちに届かせろ。軍が次の命令を求める前に。カリブ海の誰かが次の一発を撃つ前にだ。」


原稿を作る者たちが動き始めた。


カストロの手紙は、第二書簡の値段を引き上げたのではなかった。


その値段に固執する時間が、もう残っていないことをフルシチョフに教えた。


U-2撃墜は、その警告が想像ではなくなったことを証明した。


時計の針は、カストロの手紙に書かれた方向へ進んでいた。


それを止めるために、フルシチョフは勝利より先に返事を選んだ。


※※※※※※※※※※


モスクワ時間 一九六二年十月二十八日未明

(ハバナ時間 一九六二年十月二十七日夜/ワシントン時間 同日夜)


ホワイトハウスの灯りは消えなかった。


ケネディの机には、公式返信の写しが置かれている。


表の返事は送った。


裏の返事も、ドブルイニンを通じてモスクワへ向かった。


アンダーソン少佐の死に対する報復は、まだ命じていない。


ケネディは葉巻の箱を開けた。


残りは少なかった。


一本取り出しかけたが、灰皿の端に、まだ火の残った葉巻が置かれていることに気づいた。


彼は新しい一本を箱へ戻した。


灰皿に残った吸い殻の数だけ、命じられなかった空爆と、押し戻された報復があった。


だが、ここまでしても、世界はまだ救われていない。


モスクワが第一書簡を選ぶとは限らない。


トルコでは足りないと言うかもしれない。


キューバが撤去を拒むかもしれない。


カストロが、頭越しの合意を受け入れないかもしれない。


あるいは、返事が届く前に、また現場が撃つかもしれない。


ケネディは壁時計を見た。


針は進んでいた。


彼は知らなかった。


その同じ時、クレムリンでは、カストロの手紙を机に置いたフルシチョフが、第三の書簡を急がせていた。


世界でもっとも強い二つの国の間で、まだ届いていない返事だけが、次の一発より速く走ろうとしていた。

次回はソ連とアメリカの駆け引きの向こうにあるキューバに場面がもどります。


※更新は、月・木・土曜日(朝・夜)二回の週4話です。


次回は、土曜日の朝、投稿予定です。


【お知らせ】長編のエピソードになると思わず連載を開始したので、今、前半を大幅改稿しました。


改稿後はボリュームが二倍以上になり背景もわかりやすく史実に寄せてます。(初めはヒューマンドラマを描く予定でした。)


改稿したものはタイトルに改稿としています。ぜひお読み下さい。(日本編の前まで改稿です!)


ジャンルもヒューマンドラマから歴史へ。


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