↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ゲバラとカストロ ~革命は二人で始まり、一人で終わる~  作者: 相馬ゆう
二人の英雄の友情と別れ(前編)
PR
173/214

271,急転直下

ソ連の和平の条件は初めはハードルが低いものが提示されます。

しかし、現地の情勢は急激に変化していきます。

認識と外交コミュニケーションのボタンの掛け違いが危機をより深刻にしていきます。

モスクワ時間 一九六二年十月二十七日午後六時すぎ

(ハバナ時間 同日午前十時すぎ/ワシントン時間 同日午前十一時すぎ)


キューバ東部の空は、低く明るかった。


薄い雲の下を、湿気を含んだ風が流れている。草地に並ぶ対空ミサイルは動かず、その周囲で働く兵士たちだけが、何日も眠っていない顔をしていた。


彼らが見上げていたのは、穏やかな空ではない。


自分たちを見下ろしている空だった。


アメリカの偵察機は、何日も島の上を飛んでいた。飛行場、港、道路、ミサイル発射地点、燃料施設、対空陣地。上空から撮られた写真は海を越え、ワシントンで分析され、やがて国連の照明の下へ運び込まれた。


キューバで暮らす人間の声より、空から撮られた写真の方が世界では強かった。


ソ連駐留軍の防空指揮所で、レーダー手が画面へ顔を近づけた。


緑色の光の中に、一つの点が現れている。


「機影を捕捉。」


報告を受けたステパン・グレチコ中将は、卓上の航跡図へ視線を落とした。キューバ駐留ソ連軍の防空を担当する副司令官である。


隣には、駐留軍副司令官レオニード・ガルブズ少将が立っていた。総司令官イッサ・プリエフへ判断を仰ごうとしたが、通信はすぐにつながらなかった。


「高度。」


数字が読み上げられる。


「進路。」


機影は島の東部へ入り、ソ連軍の施設が集まる地域へ向かっていた。


グレチコは電話機を見た。


モスクワの許可はない。


偵察機を撃墜すれば、アメリカは報復するかもしれない。ケネディが軍を抑えられなくなれば、次に飛んでくるのは写真機を積んだ一機ではなく、爆弾を積んだ編隊になる。


だが、撃たなければ何が起きるのかも分からなかった。


アメリカは海上検疫を始めた。グアンタナモ基地では兵が増え、フロリダには航空機と上陸部隊が集められている。低空偵察機にはキューバ側の対空砲火が浴びせられ、上空のU-2は、ソ連軍がまだ隠しておきたい配置を撮り続けていた。


現地司令部には、アメリカの攻撃が始まる可能性が高いという判断が広がっている。


この飛行は、いつもの偵察なのか。


それとも、爆撃隊へ渡す最後の写真を撮りに来たのか。


レーダー画面では、点が一定の速度で進んでいた。


それを見ている者には、ワシントンの会議も、モスクワの意図も分からない。見えるのは、自分たちの頭上へ近づく一機と、数時間後には破壊されているかもしれない陣地だけだった。


「このままでは、東部の配置をすべて撮られる。」


ガルブズが低く言った。


グレチコはもう一度、つながらない電話機へ目をやった。


命令を待てば、機体は撮影を終えて去る。


自分たちで決めれば、世界戦争の最初の死者を出すかもしれない。


どちらを選んでも、あとで正しかったと証明することはできなかった。


グレチコはレーダー画面から目を離さなかった。


「目標を撃墜する。」


命令は通信線を走り、東部の地対空ミサイル部隊へ届いた。


発射台の周囲で兵士が動く。


照準が合わせられ、最終確認が読み上げられる。指揮所から届いた命令に、世界戦争という言葉は含まれていなかった。


あるのは目標番号と、高度と、発射許可だけだった。


地面が震えた。


二発の地対空ミサイルが白煙を噴き、青い空へ伸びていく。兵士たちは歓声を上げなかった。目標は敵機だったが、その機体が落ちたあとに何が飛んでくるのかを、誰も知らなかった。


しばらくして報告が入った。


アメリカ空軍のU-2偵察機を撃墜。


操縦士は死亡した可能性が高い。


キューバ危機で、初めてアメリカ人が死んだ。


その死はまだ、ワシントンにもモスクワにも届いていなかった。


カリブ海の空で開いた穴だけが、通信より先に世界を変えていた。


※※※※※※※※※※


時間は、17時間ほど前へ遡る。


モスクワ時間 一九六二年十月二十七日午前九時

(ハバナ時間 同日午前一時/ワシントン時間 同日午前二時)


クレムリンの会議室では、窓の外がようやく白み始めていた。


暖房の効いた室内に煙草の煙が漂い、机の上にはキューバの地図、カリブ海の航路、アメリカの検疫線、ソ連船の進路、国連で公開された航空写真の報告が重なっている。


その一番上に、ケネディへ送ったばかりの長い手紙の写しがあった。


フルシチョフは、その手紙を出口にできると考えていた。


ソ連はキューバから攻撃兵器を撤去する。


アメリカは海上検疫を解き、キューバへ侵攻しないと約束する。


完全な勝利ではない。だが、戦争を避けるためには、どちらも自国へ持ち帰れるものがある。


それは降伏ではない。


少なくとも、そう説明できるはずだった。


「不侵攻保証は絶対に必要です。」


アンドレイ・グロムイコ外相が言った。


感情の薄い声だった。彼は言葉を投げず、机の上へ置くように話す。一度置いた言葉は、相手が無視しようとしても重さを失わなかった。


「われわれが攻撃兵器を撤去する一方で、アメリカが再び侵攻を準備できるのでは、キューバを裸にして残すことになります。少なくとも島の安全を保証させなければ、撤去は説明できません。」


国防相ロディオン・マリノフスキー元帥は、椅子の背から身体を起こした。


「それでも安すぎます。」


戦場を知る軍人の声だった。彼にとって地図は外交の紙ではない。兵が配置され、補給が途切れ、都市が燃える場所を示すものだった。


「アメリカは海を止め、偵察機を飛ばし、国連でわれわれを嘘つきにした。その圧力を受けてミサイルを引き、代わりにキューバを攻めませんという約束だけを受け取る。これでは、押されて退いたと見られます。」


グロムイコは目だけを動かした。


「見られ方のために世界を焼くわけにはいきません。」


「威信を虚栄と同じにするな。ベルリンでもトルコでも、アメリカは次の結果を見ている。ここで圧力が通じたと思わせれば、次はもっと早く、もっと強く押してくる。」


「だから第一の手紙にも条件を付けています。」


「その条件では、向こうだけが勝利を宣言できる。」


フルシチョフは口を挟まず、二人の言葉を聞いていた。


マリノフスキーの言うことは分かる。


ソ連の威信は、指導者の自尊心だけではない。弱く見えれば同盟国は不安になり、軍は次の危機で早く武器へ手を伸ばし、敵は譲歩を引き出すために圧力を繰り返す。


だが、グロムイコの言うことも正しい。


ミサイルはアメリカに均衡を意識させ、キューバを侵攻から守るために置いた。世界戦争を起こすためではない。


この賭けは、勝つために始めた。


死ぬためではなかった。


扉が開き、通信担当者が入ってきた。


いつもの事務的な顔ではない。


「キューバ領事館にカストロの緊急の電信があり。一部解読。」


フルシチョフが手を伸ばした。


「読め。」


通信担当者は解読済みの紙を広げた。


「現地の軍事情勢を総合した結果、アメリカ軍の攻撃は切迫しており、空爆が開始され、その後、侵攻へ移る可能性が高いとの判断です。」


部屋にいた者たちが、一斉に顔を上げた。


政治家の耳には、島に残された寿命のように響いた。


報告には、フロリダの航空戦力、上陸用艦艇の動き、グアンタナモ基地の増強、偵察飛行の継続が記されていた。空爆が始まれば、第一目標はミサイル基地、防空陣地、飛行場、通信施設になる。


現地のソ連兵は、数日以内にアメリカの爆弾を受けると考えている。


「確度は。」


フルシチョフが尋ねた。


マリノフスキーが報告を受け取った。


「断定はできません。しかし、アメリカ軍の準備が進んでいることは事実です。空爆計画も侵攻計画も、実行可能な段階にあると考えるべきでしょう。」


「ケネディから返事は。」


グロムイコが通信担当者へ聞いた。


「まだありません。」


第一の手紙は、ワシントンへ届いているはずだった。


そこには、危機を閉じるための条件がある。それでもケネディから即答はなく、その間にもアメリカ軍はキューバの周囲へ集まり続けている。


返事を検討しているのか。


軍事行動の準備が整うまで時間を稼いでいるのか。


モスクワからは見分けられなかった。


フルシチョフは、現地報告を机へ置いた。


「第一の手紙は、まだ生きている。」


誰も異論を挟まなかった。


「だが、返事を待つ間に攻撃が始まれば、手紙はただの紙になる。」


マリノフスキーが頷いた。


「だからこそ、撤去の価格を明確にする必要があります。」


グロムイコは外相らしい慎重さを崩さなかった。


「価格を上げれば、返事が遅くなります。」


「安く売れば、次の危機が早く来る。」


二人の視線が交わった。


フルシチョフは、窓の外が少しずつ明るくなるのを見た。


モスクワでは朝が始まりかけている。


キューバではまだ深夜であり、四万人を超えるソ連兵と島の人々が、数日以内に空爆されるかもしれないと考えながら夜を越そうとしていた。


「続けよう。」


フルシチョフは言った。


「第一の出口で足りるのか、もう一度考える。」


※※※※※※※※※※


モスクワ時間 一九六二年十月二十七日午前から午後

(ハバナ時間 同日未明から朝/ワシントン時間 同日早朝)


会議は長引いた。


マリノフスキーは、単に強く出ろと主張していたのではない。条件を引き上げれば、戦争の危険も増すことは承知していた。


それでも、キューバからミサイルを引くなら、アメリカ側にも同じ種類の痛みを引き受けさせなければならないと考えていた。


「アメリカは、自国の近くに置かれた兵器だけを攻撃兵器と呼んでいます。」


彼は地図の端を指した。


「ソ連の国境近くには、アメリカのミサイルがある。英国にも、イタリアにも、トルコにもある。キューバから撤去しろと言うなら、少なくともトルコから同じものを引かせる論理は成り立ちます。」


グロムイコは指を組んだ。


「論理は成り立ちます。しかし、外交は論理だけでは決まりません。トルコを公然と条件に加えれば、ケネディは国内とNATOの双方に追い詰められる。第一の手紙なら、彼は受け取れるかもしれない。トルコを加えれば、受け取りたくても受け取れなくなる可能性があります。」


「それならば、彼に別の方法を考えさせればよい。」


「考える時間が残っていると、いま報告を受けたばかりですか。」


マリノフスキーは返事をしなかった。


部屋の端にいた参謀本部情報総局の大佐が、慎重に手を上げた。


閣僚でも、前線司令官でもない。写真、通信量、船の針路、航空機の飛行高度を読み、その断片から相手が知っていることと、知らないことを推測する役目の男だった。


「一つ、申し上げてもよろしいでしょうか。」


フルシチョフが目を向けた。


「言え。」


大佐は、アメリカ軍の行動をまとめた資料を机へ並べた。


「アメリカは、われわれの配置をすべて把握しているわけではないと思われます。」


マリノフスキーが眉を寄せた。


「なぜそう言える。」


「断定ではありません。」


大佐は最初に釘を刺した。


「彼らは発射地点、道路、燃料車両、ミサイル本体を写真に撮っています。しかし、核弾頭の所在と数、すでに島へ入っている戦術核、現地部隊に与えられた権限については確信していない可能性が高い。」


グロムイコが尋ねた。


「根拠は。」


「海上検疫と、偵察飛行の継続です。」


大佐はカリブ海の地図へ指を置いた。


「彼らは、これ以上の攻撃兵器を入れさせないという説明に重心を置いています。もし、島にある核戦力の全容を把握し、すぐ使用できると確信しているなら、海で船を止めるだけでは足りない。さらに、現場を刺激する危険を冒してまで偵察飛行を続けているのは、まだ確かめなければならないものがあるからでしょう。」


「臆病なだけかもしれん。」


マリノフスキーが言った。


「その可能性もあります。しかし、すべてを知っている者の行動には見えません。」


フルシチョフは資料へ目を落とした。


アメリカはミサイルを見つけた。


発射施設も見つけた。


しかし、島の土の下や倉庫の中に、どれだけの核兵器がすでに運び込まれているかまでは知らない。


知らないから、写真を撮り続ける。


知らないから、即時空爆ではなく海を止めた。


知らないから、まだ外交で撤去させられると考えている。


「それが何を意味する。」


グロムイコが大佐へ聞いた。


「アメリカの知識には空白があるということです。その空白を脅迫に使うべきだとは申しません。しかし、彼らが何を恐れ、何なら交渉できると考えているかを測る材料にはなります。」


「つまり、トルコを求めても、ただちに交渉が壊れるとは限らない。」


マリノフスキーが言った。


大佐は慎重に答えた。


「限りません。しかし、第一の手紙より受け入れにくくなることは間違いありません。」


グロムイコがフルシチョフを見る。


「われわれは二つの危険を比べています。安い撤退によって今後の圧力を招く危険と、価格を上げたために現在の戦争を招く危険です。」


フルシチョフは第一書簡の写しを手に取った。


そこには出口がある。


不侵攻保証と、キューバのミサイル撤去。


しかし、国連でソ連は嘘をついた国として晒され、アメリカ軍は島の周囲に集まり、現地からは攻撃が数日以内に迫るとの報告が来ている。


このまま引けば、ソ連はキューバを守ったと主張できる。


同時に、アメリカの圧力に屈したとも見られる。


トルコを加えれば、対等な取引になる。


同時に、ケネディが公には飲めない条件になるかもしれない。


どちらにも出口があり、どちらの出口にも戦争へ通じる扉があった。


「第一の手紙は取り消さない。」


フルシチョフが言った。


「こちらがキューバの安全を求めていることも、戦争を避けたいことも変わらない。」


グロムイコの表情がわずかに動いた。


「もう一通送るのですね。」


「アメリカが自国の安全を求めるなら、われわれにも同じ権利がある。キューバからわれわれのミサイルを撤去するなら、トルコからアメリカのミサイルを撤去する。その条件を示す。」


「公表しますか。」


フルシチョフはすぐには答えなかった。


非公開なら、ケネディは交渉できるかもしれない。


公表すれば、世界へ対称性を示せる。しかし、ケネディの逃げ道を狭くする。


国連でソ連が追い詰められたあとだけに、クレムリンには、こちらも公の論理を置き返さなければならないという圧力があった。


「公にする。」


グロムイコは、反論する前に一度息をついた。


「論理が通ることと、相手が受け入れられることは違います。」


「分かっている。」


フルシチョフは第一書簡を机へ戻した。


「だが、ただ引けば、われわれの方だけがその違いを引き受けることになる。」


※※※※※※※※※※


モスクワ時間 一九六二年十月二十七日午後五時ごろ

(ハバナ時間 同日午前九時ごろ/ワシントン時間 同日午前十時ごろ)


第二の手紙は、第一の手紙より短く、硬かった。


最初の書簡には、核戦争を恐れる一人の男の声が残っていた。互いに縄を引けば結び目が固くなり、最後には切るしかなくなるという比喩があり、何とか危機を終わらせたいという息遣いがあった。


二通目には、国家の論理が前へ出た。


あなた方は、キューバにあるソ連の兵器を危険だと言う。


だが、アメリカのミサイルは英国、イタリア、トルコにあり、ソ連を狙っている。


キューバがアメリカの海岸から近いというなら、トルコはソ連と国境を接している。


自国の安全だけを特別扱いすることはできない。


キューバからソ連のミサイルを撤去する。


トルコからアメリカのジュピターを撤去する。


それなら、互いの安全を同じ基準で扱ったことになる。


タイプライターが文章を刻み、外務省の言葉が形を整えた。その背後には、国連で失われた威信、現地から届いた攻撃切迫の報告、第一書簡への返答がないことへの焦りが重なっていた。


グロムイコは最後まで慎重だった。


「公に読まれれば、ケネディは困難な立場に置かれます。」


「困難だからこそ、われわれの立場を理解する。」


マリノフスキーが言った。


「困りすぎれば、軍事行動へ逃げるかもしれません。」


グロムイコの返答に、国防相は黙った。


フルシチョフは、完成した文面へ目を通した。


「第一の提案を捨てたわけではない。」


彼は自分へ言い聞かせるように言った。


「価格を明確にしただけだ。」


だが、交渉では、価格を明確にすることが商品を売れなくする場合もある。


第二書簡はラジオ・モスクワで放送され、世界へ向けて読み上げられた。


フルシチョフは、放送が始まったとの報告を聞いた。


第一の手紙は出口だった。


第二の手紙は、その出口に値段をつけた。


値段の高い出口は、相手が決断するまでに時間がかかる。


その時間がカリブ海に残されているのか、クレムリンの誰にも分からなかった。


※※※※※※※※※※


モスクワ時間 一九六二年十月二十七日夕方から夜

(ハバナ時間 同日午前から午後/ワシントン時間 同日昼から午後)


第二書簡が放送されたあと、キューバから電報が届いた。


差出人はカストロだった。


彼はソ連大使アレクサンドル・アレクセーエフと夜を徹して文面を練り、アメリカの攻撃が二十四時間から七十二時間以内に迫っているという判断を、自分の言葉でフルシチョフへ送ってきた。


限定的な空爆が最も可能性が高い。


全面侵攻もあり得る。


キューバは、どのような攻撃にも抵抗する。


そしてアメリカがキューバを侵攻・占領しようとするなら、それをソ連への核攻撃へ続く前段階と見なし、アメリカに先手を与えるべきではない。


通信担当者が読み上げる途中で、フルシチョフは手を伸ばした。


「貸せ。」


紙を受け取り、自分の目で最初から読み直した。


「馬鹿な。」


怒りはすぐに現れた。


「私はケネディに出口を送った。キューバを攻めないと約束させるための言葉を送った。いまもその返事を待っている。そこへフィデルは、侵攻されたらアメリカが先に核を使う前に攻撃しろと言ってくるのか。」


誰もすぐには答えなかった。


フルシチョフは立ち上がり、紙を持ったまま窓の方へ歩いた。


「自分の島だけでは足りず、われわれまで墓場へ連れていくつもりか。」


声は怒鳴り声ではなく、低く擦れていた。


カストロを臆病だと思ったのではない。


逆だった。


彼は、本気でキューバが数日以内に焼かれると信じている。島が滅びるなら、アメリカだけを無傷で残してはならないと考えている。革命の生存より、革命の死に方を選び始めている。


勇敢すぎる。


危険すぎる。


国家を殉教者にしようとしている。


フルシチョフは紙を机へ置いた。


「狂っている。」


グロムイコは、すぐには同意しなかった。


「前提は、誤っているかもしれません。」


フルシチョフが振り返る。


「かもしれない?」


「カストロは、アメリカが侵攻すればキューバは失われ、その成功によってアメリカがソ連への攻撃で優位に立つと考えています。だから先手を取らせるな、と。」


グロムイコは書簡を見た。


「これは破滅的な結論です。しかし、核戦略の言葉へ置き換えれば、まったく意味のない文章ではありません。」


マリノフスキーも口を開いた。


「相手が先制攻撃を準備していると確信した場合、攻撃を受けてから反撃するのか、それとも能力を失う前に動くのか。それは軍人なら検討する問題です。」


「フィデルは軍人ではない。われわれの核兵器を命令する立場でもない。」


フルシチョフの声が強くなった。


「その通りです。」


マリノフスキーは認めた。


「ですが、彼の論理を単なる自殺願望として捨てることもできません。キューバにいる兵士たちが同じ前提を信じれば、現地の判断は早くなる。」


グロムイコが続けた。


「狂人の言葉なら、無視できます。理屈を持った破滅は、同じ恐怖を持つ人間の中で広がります。」


その言葉が、部屋の空気を変えた。


フルシチョフは、もう一度手紙を読んだ。


二十四時間から七十二時間。


カストロから届いた書簡と今朝の報告が重なる。


モスクワでは推測に見えるアメリカの侵攻が、ハバナではすでに始まりかけている現実として受け止められている。


もし現地のソ連兵も同じ恐怖を抱いているなら。


もし通信が切れ、攻撃が始まったと誤認したなら。


もし戦術核兵器を守る部隊が、自分たちは見捨てられたと考えたなら。


モスクワの命令が届く前に、カリブ海で別の戦争が始まる可能性があった。


「現地部隊への命令を再確認しろ。」


フルシチョフが言った。


「アメリカ軍への攻撃は、中央の判断なしに拡大させるな。核兵器については、いかなる場合も許可なく使用させるな。」


マリノフスキーが頷いた。


しかし、その命令がキューバへ届き、四万人を超える兵士の末端まで浸透するには時間がかかる。


時間こそが、もう残っていないかもしれなかった。


その時、扉が再び開いた。


通信担当者の顔を見た瞬間、フルシチョフは新しい報告が良い知らせではないと悟った。


「何だ。」


「キューバ上空で、我が軍がアメリカの偵察機を撃墜。」


会議室が静まった。


カストロの手紙を読んだ直後だけに、その言葉は一つの事件ではなく、先ほどまで紙の中にあった論理が現実へ出てきたように聞こえた。


「いつだ。」


「数時間前です。機体はU-2。操縦士は死亡した可能性が高いとのことです。」


「誰が撃った。」


「ソ連軍の地対空ミサイルです。」


フルシチョフの顔から怒りが消えた。


残ったのは、理解できないものを前にした恐怖だった。


「誰が命じた。」


通信担当者は、受け取った紙へ目を落とした。


「現地の防空指揮官たちが判断した模様です。モスクワの許可を得たとの記録はありません。」


マリノフスキーの表情が硬くなった。


グロムイコは目を閉じた。


フルシチョフは椅子から立った。


「カリブでは、何が起きているのだ。」


誰も答えられなかった。


フルシチョフは第二書簡を放送したばかりだった。


第一書簡なら、ケネディは受け入れられたかもしれない。不侵攻保証とミサイル撤去。危機を閉じるための、互いに説明可能な取引だった。


そこへトルコを加えた。


価格を上げ、ケネディが公には飲みにくい条件に変えた。


その同じ日に、ソ連軍のミサイルがアメリカ人を殺した。


フルシチョフには、ワシントンの会議室が見えるようだった。


第一の手紙。


第二の手紙。


アンダーソン少佐の死。


カストロからの書簡。


四つが同じ机に置かれる。


軍人たちは報復を求めるだろう。撃墜した地対空陣地への攻撃を要求し、空爆を始めるなら今しかないと言う。ケネディは、ソ連が条件を引き上げると同時に軍事的圧力も強めたと考えるかもしれない。


こちらに、その意図はなかった。


だが、意図がなかったことを相手が知る方法はない。


「最悪の重なりです。」


グロムイコが言った。


フルシチョフは返事をしなかった。


机の上には、カストロの書簡がある。


その隣には、ケネディへ向けた第二書簡の写しがある。


そして、自軍がアメリカ機を撃墜したとの報告が置かれた。


一つ一つには別の理由がある。


第二書簡は、威信と対称性を求めた。


カストロの手紙は、侵攻への恐怖から書かれた。


U-2撃墜は、現地司令官が攻撃の前触れだと判断した結果だった。


ワシントンから見れば、その三つは一つの意志に見える。


フルシチョフが要求を引き上げ、カストロが核戦争を覚悟し、ソ連軍がアメリカ人を殺した。


「ケネディは、われわれが順番に圧力を強めていると思うでしょう。」


グロムイコが言った。


「そうではないと伝えろ。」


フルシチョフは反射的に答えた。


しかし、何を、どの経路で、どの順番に伝えるのか。


第二書簡はすでに世界へ放送されている。U-2撃墜は、やがてアメリカ軍が確認する。カストロの手紙は秘密だが、その手紙を生んだ恐怖はキューバ全土に広がっている。


言葉は命令より遅かった。


マリノフスキーが重い声で言った。


「現地は、攻撃が迫っていると判断したのでしょう。」


「判断した?」


フルシチョフは国防相を見た。


「世界戦争を始める判断を、現地がするのか。」


「彼らの目には、世界戦争は見えていません。」


マリノフスキーは慎重に答えた。


「見えるのは、近づく偵察機と、自分たちを狙っていると思われる航空部隊です。モスクワでは核戦争の入口に見える一発も、現地では陣地を守るための一発に見えます。」


それが最も恐ろしい説明だった。


戦争を望む者がいるから危険なのではない。


誰も世界戦争を始めるつもりがないまま、それぞれが目の前の責任を果たせば、結果として世界戦争になる。


カストロは島を守ろうとしている。


現地のソ連軍は陣地を守ろうとしている。


ケネディはアメリカの安全を守ろうとしている。


フルシチョフはソ連の威信とキューバの革命を守ろうとしている。


守ろうとするものが増えるほど、撃つ理由も増えていた。


フルシチョフはカストロの書簡へ目を落とした。


先ほどまで、彼はその文章を怒りで読んでいた。


いまは違った。


侵攻が始まれば、アメリカに次の一撃を選ばせるな。


その提案を受け入れるつもりはない。絶対に受け入れてはならない。


しかし、それを生んだ前提は、すでに現地軍を動かしていた。


アメリカの攻撃は迫っている。


通信が途絶える前に、自分たちで判断しなければならない。


キューバでその考えが広がれば、次に使われる兵器が地対空ミサイルだけである保証はなかった。


アルマゲドン・レターは、第二書簡の条件を引き上げるための材料にはならなかった。


むしろ、条件を引き上げたまま返事を待つことが、どれほど危険かを示すものになった。


フルシチョフは、会議室の時計を見た。


ケネディからの返事はまだ来ていない。


だが、返事が届くまで世界が同じ形で残っている保証もなかった。


「この危機を早く閉じなければならない。」


声は低かった。


マリノフスキーもグロムイコも、何も言わなかった。


「明日でも、数日後でもない。現地の誰かが、次の状況を自分で決める前にだ。」


フルシチョフは机の上の三枚の紙を見た。


キューバ駐留軍からの、二十四時間から七十二時間という報告。


カストロからの、侵攻後の核攻撃を求める手紙。


自軍がU-2を撃墜し、アメリカ人を殺したという報告。


その横には、トルコという新しい価格をつけて送った第二書簡がある。


自分が世界を動かしているのではない。


世界が、自分の手から滑り始めていた。


フルシチョフが恐れたのは、ケネディが戦争を選ぶことだけではなかった。


ケネディが選ぶ前に、カリブ海にいる誰かが、次の一発を撃つことだった。

二転三転するソ連の条件と最悪の偵察機撃墜。

和平の条件のハードルがあがった後の最悪の事態が何をもたらすのか。

危機はさらに深刻になります。


※更新は、月・木・土曜日(朝・夜)二回の週4話です。


次回は、木曜日の夜に投稿予定です。


【お知らせ】長編のエピソードになると思わず連載を開始したので、今、前半を大幅改稿しました。


改稿後はボリュームが二倍以上になり背景もわかりやすく史実に寄せてます。(初めはヒューマンドラマを描く予定でした。)


改稿したものはタイトルに改稿としています。ぜひお読み下さい。(日本編の前まで改稿です!)


ジャンルもヒューマンドラマから歴史へ。


よろしければ、ブックマーク/感想/★で応援してもらえると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。