168,嵐の前の静けさ
ソ連・キューバの思惑としてアメリカ中間選挙の後に、ミサイル基地の事実を既成事実化する予定だったという推測をこの小説では採用しています。
しかし、アメリカは選挙準備中にミサイル基地の存在を知りそれは伏せられました。
そして知られてはいかない同士の駆け引きが始まります。
ケネディは、風邪で戻ったのではなかった。
遊説先で振りまいた笑顔は、会議室の中では消えていた。握手のために伸ばした手は、ワシントンへ戻ると、写真の上に置かれた。
十月十四日に撮られたキューバの赤土。
道路。
発射台。
建設中の施設。
そして、ソ連製ミサイルの影。
写真は十五日に解析され、十六日には大統領の机へ置かれた。そこから、アメリカ政府の中に、もう一つの政府ができた。
正式な看板を掲げない、扉の閉じた会議である。
大統領、司法長官、国務省、国防総省、CIA、統合参謀本部、財務、外交、軍事、情報。
その部屋では、まだ国民に知らされていない戦争の入口が、紙の上に並べられていた。
空爆。 侵攻。 海上で止める。 国連へ持ち込む。 同盟国へ説明する。 ソ連へ秘密裏に迫る。 何も知らないふりをして、もう少し待つ。
一つを選べば、別の選択肢が死んだ。
空爆を選べば、ミサイル基地を叩けるかもしれない。だが、ソ連兵を殺し、反撃を呼び、侵攻へ滑り落ちるかもしれない。
侵攻を選べば、キューバ政府そのものを潰せるかもしれない。だが、島のどこに何があるかを知らないまま、アメリカ兵を上陸させることになる。
国連へ行けば、時間がかかる。
待てば、ミサイルは完成へ近づく。
海で止めれば、まだ戦争ではないと言える。だが、戦争に限りなく近い場所へ、艦を進めることになる。
制服組は、いま叩かなければ遅いと考えていた。ピックス湾で政治に足を引かれたと感じている者たちにとって、今度こそためらうべきではなかった。
マクナマラは、別のものを見ていた。
基地を叩くことは、基地だけを殺すことではない。ソ連兵を殺す。通信を壊す。現地の指揮官を孤立させる。攻撃された側が、何が起きたかを理解する前に撃ち返せば、戦争はもう一つの島には留まらない。
ケネディは、強く見えなければならなかった。
同時に、世界を焼くほど強く出てはいけなかった。
だから、会議は紛糾した。
大統領は、なお遊説の日程を抱えていた。中間選挙を前に、南部も、フロリダも、公民権も、亡命キューバ人の怒りも、反共世論も、ワシントンの机の上から消えてはいなかった。
しかし、遊説の間にも、秘密の会議は進んでいた。
写真は増え、評価は重なり、選択肢は少しずつ絞られていった。アメリカの手札は、国民に伏せられたまま、内側で並べ替えられていた。
十月十八日、ケネディはソ連外相グロムイコと会った。
グロムイコは、キューバへの援助は防衛的なものだと説明した。アメリカを攻撃するためのものではない、と。
ケネディは、その説明を聞いた。
すでに写真を持っていた。
だが、突きつけなかった。
ソ連は秘密を守る方針を崩さなかった。アメリカも、発見したことをまだ明かさなかった。
米ソは、互いに手札を伏せたまま話していた。
そして、その伏せられたカードの上に、キューバがあった。
十月二十日、ケネディはシカゴでの遊説を切り上げ、ワシントンへ戻った。
理由は風邪。
そう発表された。
この事実を知っていたのは、アメリカ政府のごく一部だけだった。
アメリカ国民も知らなかった。
――そして、キューバ政府も。
※※※※※※※※※※
大統領の風邪は、一晩では治らなかった。
少なくとも、ハバナではそう見えた。
十月二十一日の朝、革命宮殿の情報室には、昨夜よりも多くの紙が積まれていた。机の上に広げられた地図は、もう地形を示すものではなくなっている。
道路。 港。 基地。 通信。 亡命者放送。 アメリカ新聞。 ラテンアメリカ各国の大使館から届いた短い報告。
どれも小さな紙片だった。
だが、小さな紙片が重なっていくと、見えないものに輪郭が生まれる。
沈黙により、キューバは見えないカードを予測しなければならなくなっていた。
その輪郭は、日ごとに更新された。
ケネディはシカゴでの遊説を切り上げ、ワシントンへ戻った。
理由は風邪。
それだけなら、政治家も人間だと言えば済む。
だが、島はもう、それだけでは済ませられなかった。
オスバルド・ロペスは、新聞の切り抜きを何枚も並べていた。革命戦争の山を知らない制度側の男で、紙と日付と文言の差を読むのが仕事だった。
彼は一つの答えへ飛びつかない。
それが、この部屋では時に苛立たしく、時に必要だった。
「理由は、複数考えられます。」
彼は、カストロの前に紙を置いた。
「本当に体調を崩した。中間選挙の日程調整。南部の公民権問題。フロリダの亡命者社会。軍部との協議。外交上の緊急対応。そして、キューバです。」
ラウルが椅子の背に手を置いた。
「多すぎる。」
「はい。多すぎます。」
オスバルドは頷いた。
「ですが、多すぎる時ほど、本当の理由は隠れます。どれも完全な嘘ではないからです。」
カストロは、煙草をくわえたまま火をつけなかった。
「嘘ではない理由が多い時、本当の理由は一番隠しやすい。」
ゲバラは、窓のそばで腕を組んでいた。外のハバナは、まだ朝の顔をしている。パンを買う者、出勤する者、道路を掃く者。誰も世界の終わりのために歩いているようには見えない。
だからこそ、奇妙だった。
世界が終わるかもしれない日も、人間は朝の靴を履く。
オスバルドは別の紙を出した。
「フロリダについてですが、亡命者の数が増えています。とくにマイアミでは、スペイン語の声が以前より大きくなっている。彼らの全員が投票できるわけではありません。むしろ、まだ投票権を持たない者も多い。しかし、票にならない声でも政治を動かすことはあります。」
ラウルが眉を寄せた。
「票にならないのにか。」
「五%の怒りで十分です。」
オスバルドは、淡々と言った。
「五%が新聞を動かし、新聞が議員を動かし、議員が大統領に“弱腰”という言葉を突きつける。選挙前なら、少数の熱は数字以上に大きく見えます。」
バルデスが低く言った。
「亡命者放送も、昨日から調子が違います。勝利を叫ぶ声ではありません。合図を待っている声です。」
ゲバラは口元だけで笑った。
「票にならない声を、票になる政治家が使う。」
オスバルドは否定しなかった。
「あり得ます。」
カストロは、机の上に置かれた紙を見ていた。
フロリダ。 亡命者。 反共。 新聞。 議会。 選挙。
紙の上では別々の言葉だった。
だが、アメリカという国の中では、それらが一つの圧力になる。
「南部はどうだ。」
カストロが訊いた。
オスバルドは、もう一枚の紙を取り上げた。
「ミシシッピの大学統合をめぐる危機の後です。連邦政府が南部へ力を使った。南部白人保守層は怒っている。一方で、黒人有権者や公民権運動側は、ケネディ政権がどこまで本気かを見ています。」
彼は一息置いた。
「公民権で南部を怒らせ、キューバで反共を怒らせた大統領は、選挙前に弱く見えることを恐れるはずです。」
カストロは、火のついていない煙草を灰皿に置いた。
「アメリカの大統領は、俺たちを見る時も、自分の国の鏡を見ている。」
ゲバラが言った。
「帝国は世界を語る時でも、自分の票を数える。」
ラウルは、二人の言葉を聞きながらも、地図から目を離さなかった。彼にとって票も新聞も重要だったが、最後に島へ来るものは兵士であり、飛行機であり、艦だった。
「政治の理由は分かった。だが、軍はどう動いている。」
その問いで、部屋の空気が少し変わった。
紙の束の中から、今度は基地の報告が出された。
グアンタナモ。 基地内車両の増加。 夜間照明。 通信量。 周辺海域の動き。 扶養家族の移動らしき兆候。 海軍の配置変更。
まだ断定はできない。
だが、政治の紙よりも重かった。
ラウルは言った。
「選挙のために、基地の家族は動かさない。南部の票読みのために、艦は動かさない。」
バルデスも頷いた。
「亡命者放送は嘘をつく。新聞も煽る。だが、基地の家族を動かす嘘は高くつきます。」
オスバルドは、それでも慎重だった。
「威嚇という可能性はあります。実際に攻撃するためではなく、こちらに圧力をかけるために見せているのかもしれません。」
カストロは、そこで初めて煙草に火をつけた。
「威嚇でも演出でも同じだ。軍は動いた。なら、こちらも動く。」
※※※※※※※※※※
午後、議論は別の方向へ転がった。
「原因は何だ。」
ラウルが言った。
「偵察機が撮ったのか。亡命者から漏れたのか。港から漏れたのか。それとも、ソ連側のどこかから漏れたのか。」
ソ連顧問のセルゲイ・オルロフ大佐が、すぐに顔を上げた。
「モスクワが漏らす理由はありません。」
バルデスは表情を変えなかった。
「理由がなくても、漏れることはあります。」
オルロフの目が細くなった。
「それは、どういう意味ですか。」
「裏切りだけが漏洩ではないという意味です。暗号の癖、通訳、運転手、港の予定表、通信の増加、同じ道を通る車列。秘密は悪意がなくても破れます。」
「我々の規律を疑うのですか。」
「規律ではありません。大きさです。」
バルデスは、地図の上に置かれたソ連側の輸送予定を見た。
「大きな身体は、隠そうとしても影を落とします。」
オルロフは、しばらく黙った。
ゲバラは、二人の間に流れる空気を見ていた。
味方を疑う言葉は醜い。
だが、味方を信じるだけで国が焼かれるなら、それはもっと醜い。
「原因を当てることが目的ではない。」
カストロが言った。
声は低かったが、部屋の端まで届いた。
「偵察でも、漏洩でも、偶然でも、結果は同じだ。敵が動くなら、こちらは生き残る手を打つ。」
オルロフは、何か言いかけてやめた。
カストロは続けた。
「ただし、覚えておけ。秘密を持ち込んだ者と、秘密の上で暮らす者は同じではない。」
その言葉は、オルロフだけに向けられたものではなかった。
部屋にいる全員が、それを分かっていた。
ソ連は手札を伏せている。 アメリカも手札を伏せている。
だが、伏せられたカードの上で眠るのは、キューバ人だった。
※※※※※※※※※※
秘書のセリアは、会議室の外で電話の順番を書き直していた。
軍。 医療。 港。 住民説明。 学校。 燃料。 通信。
その横に、赤鉛筆で小さく別の欄を作る。
噂。
バルデスの部局から上がってくる紙は、軍事報告のようであり、生活の報告でもあった。
港で、今夜大きなことが起きると誰かが言った。 マイアミからの手紙に、家を出る準備をしておけと書かれていた。 夜の車列を見た子どもが、学校で戦争が来ると言った。 グアンタナモ近くで、基地内の光がいつもより強かった。
セリアは、その一つ一つを切り捨てなかった。
噂は嘘を含む。
だが、嘘だから無意味なのではない。
嘘でも人間を動かす。嘘でも列を作る。嘘でも母親は子どもの服を鞄に詰める。
彼女は、住民説明の文面に線を引いた。
警戒訓練の一部です。 通常の生活を続けてください。 必要な連絡は各地区を通じて伝えます。 不確かな情報を広めないでください。
短すぎる。
だが、長くすれば漏れる。
セリアは鉛筆を置き、深く息をした。
世界が終わるかもしれない時でさえ、国家は文面の長さで迷う。
会議室の扉が開き、ゲバラが出てきた。
「医療の紙は。」
セリアは、すでに抜いてあった束を渡した。
「診療所からの追加申請です。包帯、消毒液、縫合糸、担架。あと、献血所を開く場合の人員表も作れます。」
ゲバラは紙を受け取り、少しだけ目を細めた。
「早いな。」
「戦争は、砲声より先に診療所へ来ます。」
ゲバラは何も言わなかった。
その沈黙は、同意に近かった。
「まだ表へ出すな。準備だけしておけ。」
「はい。」
「診療所へは、先に回せ。軍の紙と同じ束に入れる。」
「もう入れています。」
セリアはそう答えた。
ゲバラは、わずかに笑った。
「君は革命家だな。」
セリアは、表情を変えずに答えた。
「秘書です。」
※※※※※※※※※※
夜が近づくにつれて、ハバナの空気は重くなった。
ラジオはいつも通り音楽を流し、新聞売りは声を張り、街角では男たちが野球の話をしていた。だが、軍用車の音に人々の目が向く。港へ向かうトラックの荷台を、誰かがいつもより長く見る。
沈黙は、島の中で少しずつ形を変えていた。
情報室では、紙がさらに増えていた。
アメリカの通信社が、ホワイトハウス周辺の動きを伝えている。
ワシントンに記者が集まっている。
外交筋が慌ただしい。
同盟国への説明が始まったらしい。
海軍の動きが増えている。
グアンタナモの基地内に、夜間の準備らしき兆候がある。
一つ一つは、まだ確証ではない。
だが、同じ方向を向き始めていた。
オスバルドは、紙を並べ替えた。
政治。 軍事。 外交。 報道。 噂。
そして最後に、赤鉛筆で一つの線を引いた。
キューバ。
「司令官。」
彼は顔を上げた。
「ケネディが、キューバについて重大な演説を行うという情報が入っています。明日にも、という報せです。まだ全文も、内容も分かりません。」
部屋にいた者たちの動きが止まった。
明日。
その言葉は、短かった。
だが、その短さの中に、艦隊も、爆撃機も、新聞も、群衆も、国連も、すべて入っているように聞こえた。
ラウルが地図へ目を落とした。
「空爆か。」
バルデスが言った。
「亡命者放送は、さらに調子を上げるでしょう。」
オルロフは、すぐにモスクワへの通信を求めた。
ゲバラは、机に置かれた紙を見ていた。
「演説なら、言葉が来る。写真を持っているなら、言葉にしてくる。」
カストロは、しばらく黙っていた。
風邪。 遊説中止。 南部。 フロリダ。 公民権。 亡命者。 軍部。 グアンタナモ。 海軍。 ソ連側の影。 アメリカの偵察。
見えないカードの輪郭は、ここまで来ていた。
「準備を続けろ。」
カストロは言った。
「だが、先に撃つな。敵が何を語るかを聞く。」
ラウルが頷いた。
「軍は警戒を上げる。大きな移動はまだ抑える。」
「住民説明は。」
セリアが訊いた。
カストロは、机の上に置かれた住民説明の文案を見た。
「空白を作るな。だが、恐怖を広げるな。全部は言えない。けれど、何も言わなければ、敵の声が先に入る。」
バルデスが言った。
「噂は追います。止めるより先に流れを見る。」
ゲバラは、診療所の紙を手に取った。
「医療は動かす。戦争は、いつも砲声より先に診療所へ来る。」
カストロは頷いた。
そして、窓の外を見た。
ハバナの夜は、まだ壊れていない。
家々には灯りがあり、子どもを寝かしつける母親がいて、港から戻る父を待つ家族がいる。食卓では、明日のパンの心配をしている者もいるだろう。世界の終わりが近づいていても、人間は夕食の皿を洗う。
アメリカでは、まだ多くの国民が何も知らない。
キューバでも、多くの者が何も知らない。
知っている者たちだけが、何も知らない者たちの夜を守ろうとしていた。
だが、彼らもまた、すべてを知っているわけではなかった。
明日、ケネディは何を語るのか。
空爆か。
侵攻か。
封鎖か。
最後通告か。
国連か。
それとも、まだ名前のない何かか。
ハバナの夜は、その答えを知らないまま明けようとしていた。
まだ、世界はキューバにミサイル基地が建造されている事実は知りません。
アメリカも基地の存在は知っていますが、核弾頭の持ち込みの事実が判明したのは冷戦後。
全てを知っていて、気づかれないようにしているキューバとソ連。
一部の危険な事実を知り知らないふりをしているアメリカ。
危険な駆け引きが始まります。
※更新は、月・木・土曜日(朝・夜)二回の週4話です。
次回は、木曜日の夜に投稿予定です。
【お知らせ】長編のエピソードになると思わず連載を開始したので、今、前半を大幅改稿しました。
改稿後はボリュームが二倍以上になり背景もわかりやすく史実に寄せてます。(初めはヒューマンドラマを描く予定でした。)
改稿したものはタイトルに改稿としています。ぜひお読み下さい。(日本編の前まで改稿です!)
ジャンルもヒューマンドラマから歴史へ。
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