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ゲバラとカストロ ~革命は二人で始まり、一人で終わる~  作者: 相馬ゆう
二人の英雄の友情と別れ(前編)
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167,風邪をひくのは?

アメリカの偵察機が撮ったミサイル基地の写真は、分析後もしばらくは伏せられます。

しかし、アメリカ軍の行動や雰囲気で次第に気づかれていきます。

一九六二年十月十四日、サン・クリストバル上空で切られたシャッターの音は、地上には届かなかった。


赤土の道も、偽装された施設も、資材を運ぶ車列も、そこに立つ兵士たちの汗も、白黒のフィルムに焼きつけられた。


空から見れば、島は静かだった。


写真は、海を渡った。


ワシントンで解析され、机の上に広げられた。影に線が引かれ、道路の向きが読まれ、専門家たちは小さな黒い点に意味を与えた。


発射台。 道路。 燃料施設。 ミサイル関連設備。 建設中の配置。


アメリカは、ついに見た。


十月十六日、ケネディは報告を受けた。


若い大統領は、すぐには叫ばなかった。国民にも告げなかった。ソ連にも突きつけなかった。キューバへ怒りの声明を送ることもしなかった。


彼は、まず黙った。


その沈黙の中で、ワシントンの部屋には選択肢が並べられた。


空爆。 侵攻。 海上での阻止。 国連。 同盟国への説明。 ソ連への警告。


一つ選べば、他の可能性が死ぬ。何も選ばなければ、時間が敵にも味方にも渡る。


だが、その部屋の扉は閉じられていた。


ハバナには、写真そのものは届かなかった。


届いたのは、答えではない。


異変だった。


※※※※※※※※※※


一九六二年十月十四日

革命宮殿の情報室には、朝から紙が増えていた。


米軍機の飛行記録。 グアンタナモ周辺の民兵報告。 マイアミからの亡命者放送。 アメリカ新聞の切り抜き。 中南米の大使館から回ってきた短い電報。 港湾労働者の聞いた噂。 漁師が見た船影。 ソ連側車列の通行予定。


決定的なものは、何一つなかった。


だからこそ、厄介だった。


決定的ではないものばかりが、同じ方向を向き始めていた。


机の中央にはキューバ全土の地図が広げられている。サン・クリストバル、サグア・ラ・グランデ、グアナハイ、レメディオス。地図の上では小さな印にすぎない場所が、実際には村であり、畑であり、学校であり、夜に重い車列が通る道だった。


ラウルは赤い鉛筆で、西部の空に印をつけた。


「偵察機の飛行が増えている。とくに西だ。いつもの威嚇と見ることもできるが、今回は作業地点に近すぎる。」


カストロは椅子に座っていなかった。地図の前に立ち、両手を机に置いている。


「いつからだ。」


「数日前から目立つ。十月十四日の飛行は、とくに嫌な位置を通っている。」


部屋の端にいた男が、控えめに口を開いた。


オスバルド・ロペスだった。


革命戦争の山から来た男ではない。旧体制崩壊後に外務と情報整理の仕事で政府に加わった制度側の人間で、銃よりも紙と日付を信じる男だった。臆病ではなかった。ただ、確証のない判断が国家を壊すことを知っていた。


「司令官、まだ断定はできません。米軍機の飛行増加は、ここ数か月の圧力の延長とも見られます。こちらが大きく動けば、その動き自体がアメリカに確証を与える可能性があります。」


ラウルはオスバルドを睨まなかった。


「だから困っている。敵に確証がないなら、こちらが動けば確証になる。だが、敵に確証があるなら、こちらが動かない時間は、敵が攻撃の地図を作る時間になる。」


その少し後ろで、ラミロ・バルデスが腕を組んでいた。


彼はオスバルドとは違う。山を知る古参であり、革命がまだ国家ではなく、夜道と銃声と密告の中にあった時代を知っている男だった。いまは内務と保安の仕事を背負い始めている。敵を外からだけでなく、島の内側からも見る役目だった。


ゲバラの敵ではない。


むしろ、同じ革命の側にいた。だが、革命を守るとは、信じることだけではないと考える男でもあった。信じるためには、疑わなければならない。守るためには、時に閉じなければならない。バルデスは、その重い方の言葉を持っていた。


彼が低く言った。


「空だけではありません。」


カストロが目を向けた。


「続けろ。」


「敵は、空からだけ見ているわけではありません。港に耳がある。亡命者の家族に耳がある。怯えた者の口も、金で買われる者の口もある。車列を隠しても、夜中に子どもが起きれば、村に噂が残ります。秘密は、写真だけで破れるものではありません。」


オスバルドが紙を見たまま頷いた。


「つまり、こちらが動けば外から見える。動かなければ内側から漏れる。」


バルデスは答えた。


「はい。沈黙は、外には強い。だが、内側には弱いことがあります。」


部屋の空気が沈んだ。


どちらも正しかった。


ソ連顧問のセルゲイ・オルロフ大佐が、短く咳払いをした。赤軍から派遣された軍事連絡役で、ソ連側の輸送計画と現地部隊の調整を担っている。彼は敵ではない。だが、彼の背後にはモスクワの時計があった。


「予定を崩すことは危険です。完成前に大きく配置を変えれば、偽装が崩れます。アメリカにまだ確証がないなら、こちらから秘密を明かすことになります。」


カストロはオルロフを見た。


「完成まで沈黙する。それがモスクワの計画だ。」


「はい。完成した事実として示すからこそ、盾になります。いま露見すれば、政治的にも軍事的にも不利です。」


バルデスが口を挟んだ。


「大佐、その沈黙を島の全員に守らせるのは、誰の仕事ですか。」


オルロフは一瞬、答えを探した。


「キューバ政府の仕事です。」


「その通りです。」


バルデスは表情を変えなかった。


「モスクワの計画は紙の上で沈黙できます。だが、島の沈黙は人間でできています。兵士、港湾労働者、運転手、家族、子ども、教師、医者。全員の口を閉じることはできません。閉じすぎれば、不満になる。説明しすぎれば、漏れる。」


ゲバラは、その言葉に目を細めた。


バルデスはゲバラを見なかった。敵意ではない。むしろ、同じものを別の角度から見ている沈黙だった。


「秘密を守るとは、ただ隠すことではありません。どこまで知らせ、どこから閉じるかを決めることです。」


ゲバラが静かに言った。


「閉じすぎれば、革命は人民から離れる。」


バルデスは頷いた。


「開きすぎれば、人民ごと敵に撃たれる。」


二人のあいだに、短い沈黙が落ちた。


対立ではなかった。


だが、同じ革命を守る者が、すでに違う道具を手にし始めていることだけは、そこにいた全員が感じていた。


カストロは煙草に火をつけた。


煙はまっすぐ上がらず、天井の扇風機に崩された。


「完成した盾なら、敵は撃つ前に考える。だが、完成前に見つかれば、盾ではなく証拠になる。」


ゲバラが言った。


「写真を持った側が、名前を決める。防衛協定ではなく秘密基地。盾ではなく挑発。こちらの言葉は、後から追いかけることになる。」


オスバルドは顔を上げた。


「だからこそ、確証がない段階では動きを抑えるべきです。」


「こちらの確証がないことと、敵に確証がないことは違う。」


ゲバラの声は低かった。


「敵が写真を持っていて、こちらがそれを知らないだけなら、沈黙は安全ではない。」


カストロは煙草を指に挟んだまま、地図を見下ろした。


「ばれていないなら、予定通り進める。ばれているなら、予定通り進めることが罠になる。どちらにしても、こちらから確認はできない。」


ラウルが地図の端を指で叩いた。


「中間選挙まで時間がない。アメリカが選挙前に知れば、ケネディだけを見ていても足りない。軍、議会、亡命者、新聞、反共の世論が動く。大統領が冷静でも、アメリカ政治が大統領を押す。」


オスバルドは、資料を一枚めくった。


「ですが、ケネディが知ったとしても、選挙前に公表するとは限りません。むしろ、隠し通して選挙を乗り切り、その後で有利な形で出す可能性もあります。あるいは、こちらの配備完了を待たず、秘密裏にソ連と接触する可能性もあります。」


「それも賭けだ。」


カストロは言った。


オスバルドは言葉を続けた。


「はい。だからこそ、いま大きく動くことは、こちらから賭け金を吊り上げることになります。」


ゲバラが低く言った。


「吊り上げなければ、相手が賭け金を決める。」


ソ連顧問のオルロフは、表情を変えなかった。


「モスクワは、アメリカ中間選挙後を見ています。その時点で配備が完成に近づけば、ワシントンは侵攻の計算を変えざるを得ません。今は、静かに進めるべきです。」


カストロは短く笑った。


笑いには熱がなかった。


「モスクワは選挙後を見る。アメリカは選挙を見る。俺たちは、この島が今夜焼かれないかを見る。」


誰もすぐには返さなかった。


同じ秘密を守っているはずだった。


だが、同じ危険を背負っているわけではなかった。


※※※※※※※※※※


秘書のセリアは、会議室の外で紙を並べ替えていた。


彼女の机には、戦争という言葉が直接書かれた書類は少ない。


代わりに、戦争が近づく時に増える紙があった。


燃料配分。 夜間通行許可。 学校行事の延期。 医薬品の移送。 港湾作業員の配置変更。 道路封鎖に伴う住民説明。 グアンタナモ周辺からの報告。 ソ連側車列の優先通行願い。 診療所からの包帯と消毒液の追加申請。


そこに、バルデスの部局から来た短い紙も混じっていた。


亡命者放送の聴取記録。 港湾労働者の噂。 車列を見た住民の証言。 不審な電話。 マイアミから届いた親族宛ての手紙。


セリアはそれを、軍の紙の下にも、住民の紙の下にも置かなかった。


真ん中に置いた。


噂は、軍事でもあり、生活でもあった。


世界の終わりが近づいても、国家は紙で動く。


セリアは、それをよく知っていた。


彼女は軍の報告と住民の訴えを別の束にしなかった。夜間の軍用車で子どもが眠れないという村の紙を、対空陣地強化の報告のすぐ下に置いた。井戸へ行く道が塞がれたという訴えを、ソ連側車列の通行予定と一緒にした。


カストロが読む時、必ず同じ重さで目に入るようにするためだった。


扉が少し開き、ラウルの副官が顔を出した。


「追加の地図を。」


セリアは用意していた地図を渡した。


「それから、グアンタナモ周辺の民兵報告も持っていってください。紙の上の線だけを見ると、住民の道を塞ぎます。」


副官は一瞬だけ戸惑ったが、すぐに頷いた。


「分かりました。」


セリアは次の紙に目を移した。


診療所からの追加申請。


包帯。 消毒液。 縫合糸。 担架。


彼女はそれを燃料割当の書類の下に置こうとして、手を止めた。


それでは遅い。


彼女は紙を抜き、上へ移した。


戦争は、砲声より先に診療所へ来る。


会議室の中では、男たちが世界地図を見ている。


セリアの机では、その世界地図が包帯の数になっていた。


※※※※※※※※※※


会議室では、三つの時計が議論されていた。


アメリカの選挙の時計。 ソ連の完成の時計。 キューバの生存の時計。


オスバルドが、手元の資料を机に置いた。


「選挙前に公表された場合、アメリカ国内で誰が主導権を握るかは読めません。ケネディ本人が抑制的でも、反共勢力や亡命者、軍の強硬派が“弱腰”と攻撃するでしょう。大統領が公表しない場合でも、どこかから漏れる可能性があります。議会、軍、新聞、情報機関。火をつける者がケネディとは限りません。」


カストロは煙草を指に挟んだまま、黙って聞いた。


オスバルドは続けた。


「だから、アメリカが知っていると仮定するなら、最悪の相手はケネディではありません。大統領の制御を離れたアメリカです。」


バルデスが言った。


「そして、それに呼応する島の中の耳です。」


ラウルが彼を見た。


「島内で動きがあると見るか。」


「まだ断定はできません。」


バルデスは、オスバルドと同じ言葉を使った。だが、響きは違っていた。


「ただ、アメリカ側が騒ぎ始めれば、亡命者放送は必ず煽ります。家族を通じて不安が入る。港で噂になる。兵士の家族が泣けば、隣家が知る。敵は上陸する前に、島の中へ声を入れてきます。」


ゲバラが言った。


「人民を疑いすぎれば、守るべきものを傷つける。」


「疑う相手は人民ではありません。」


バルデスは、初めてゲバラを正面から見た。


「恐怖です。恐怖は、人民の口を使うことがあります。」


ゲバラは黙った。


それは反革命の言葉ではなかった。


恐怖が人間を壊すことを、ゲバラも知っていた。


カストロは、二人の沈黙を切った。


「なら、やることは二つだ。敵に確証を与えない。島の中に空白を作らない。」


セリアが手元の紙を一枚、机の端に置いた。


「住民説明の文面を短く作れます。全部は言えません。でも何も言わなければ、敵の声が先に入ります。」


カストロは頷いた。


「作れ。」


オルロフが慎重に言った。


「説明を出しすぎれば、作戦の秘匿に影響します。」


セリアは、彼を見た。


「出さなさすぎれば、噂が作戦を壊します。」


オルロフは黙った。


ゲバラが、机の上の紙を見た。


「国家の言葉だな。」


セリアは表情を変えなかった。


「国家が黙れば、敵の言葉が入ります。全部を言えない時でも、空白を残しすぎてはいけません。」


カストロは、ようやく椅子に座った。


「確証がない段階で、何を動かせば、敵に確証を与えずに済む。」


オスバルドは少し考えた。


この問いは命令ではなかった。彼が必要とされている問いだった。


「大規模な配置転換は避けるべきです。とくに、露見しやすい車列や昼間の移動は危険です。ただし、通信、医療、燃料、グアンタナモ周辺の警戒は、表から見えにくい範囲で上げられます。軍事的な露出を増やさず、国家の反応速度を上げる。それなら、敵に確証を与えにくい。」


ラウルはすぐに反応した。


「対空陣地は。」


「動かせば見えます。ですが、連絡系統の確認と、現地指揮官への警戒通達なら外からは見えにくい。」


バルデスが続けた。


「保安側は、港と通信を見ます。噂を潰すのではなく、流れを見ます。どこから入って、どこへ広がるか。無理に押さえれば、かえって敵の証拠になります。」


ゲバラが訊いた。


「住民を黙らせるつもりか。」


「違います。」


バルデスは即座に答えた。


「住民を孤立させないためです。何も知らされない者は、最初に聞いた声を信じる。敵の声かもしれない。亡命者放送かもしれない。隣人の恐怖かもしれない。こちらが全部を話せないなら、少なくとも空白を敵に渡してはいけません。」


セリアが、静かに頷いた。


「紙も同じです。空白があると、誰かが勝手に書き込みます。」


カストロは、二人を見た。


保安の男と、秘書。


銃と紙。


どちらも同じことを言っていた。


空白を作るな。


オルロフは、モスクワから来た作戦予定を手で押さえるようにしていた。


「それなら、予定は壊れません。」


カストロはオルロフを見た。


「予定は壊さない。だが、予定通りに死ぬつもりもない。」


その言葉で、会議室の温度が一段下がった。


※※※※※※※※※※


十月十八日、ワシントンではケネディがソ連外相グロムイコと会っていた。


グロムイコは、キューバへの援助は防衛的なものだと説明した。アメリカを攻撃するためのものではない、と。


ケネディは聞いた。


写真を握っていることは明かさなかった。


その会談の中身は、ハバナには届かない。


届いたのは、会談があったという記事と、表向き破裂しなかったという事実だけだった。


情報室で記事を読んだオスバルドは、鉛筆で数行に線を引いた。


「妙です。」


ラウルが顔を上げた。


「何が。」


「アメリカが本当に知らないなら、これは普通の会談です。ソ連の説明を受け、表向き平穏に終わった。しかし、もし知っていて黙ったなら、これは別の意味になります。ケネディはグロムイコに写真を突きつける機会を捨てたことになる。」


ゲバラが言った。


「捨てたのではなく、温存した。」


オスバルドは頷いた。


「その可能性があります。」


ラウルは地図の上に手を置いた。


「温存する理由は何だ。」


「選挙前の混乱を避ける。軍事準備を整える。同盟国へ先に説明する。海上で止める法的な言葉を探す。あるいは、ソ連に否定させてから世界の前で写真を出す。」


会議室が静かになった。


それは、まだ起きていない未来だった。


だが、その未来には形があった。


ゲバラは机の上の新聞を見た。


「敵がこちらの名前を決める準備をしている。防衛的援助という言葉を、秘密基地という言葉に変えるために。」


カストロは、しばらく何も言わなかった。


グロムイコ会談は、平穏に終わったように見える。


だからこそ、不気味だった。


知らないから平穏なのか。 知っているから平穏なのか。


沈黙は、いつも同じ顔をしていた。


※※※※※※※※※※


十月十九日、ケネディは予定を続けていた。


演説。 握手。 写真。 新聞。 選挙のための移動。


表向き、アメリカ政治の時計はいつも通りに動いていた。


情報室の若い職員が言った。


「大統領は遊説を続けています。危機があるようには見えません。」


オスバルドは、それを記録した。


「普通であることも情報です。」


ラウルが訊いた。


「安心材料か。」


オスバルドは首を振った。


「場合によります。本当に知らないから予定通りなのか、知っていて予定通りに見せているのか。どちらにも読めます。」


ゲバラは、窓際で葉巻に火をつけずに持っていた。


「政治家が予定を変えない時、何も起きていないとは限らない。予定通りに見せることが、最初の嘘になることもある。」


カストロは、その言葉を聞きながら、地図から目を離さなかった。


予定を続ける大統領。


それは安心にも見えた。


同時に、見られている側へ油断を求める罠にも見えた。


島は、アメリカのテレビカメラに映る遊説の笑顔を見ながら、夜の車列を減らすべきか、増やすべきかを考えていた。


これほど馬鹿げたことはない。


だが、国家とは時にそういうものだった。


遠い国の候補者の握手が、島の道路を止めるかどうかを左右する。


その日の夜、セリアは電話の順番を変えた。


まず軍。 次に医療。 次に港。 次に学校。 最後に住民説明。


少し考え、学校と住民説明の順番を入れ替えた。


何かが起きた時、子どもより先に噂が走る。


彼女は鉛筆で線を引き直した。


※※※※※※※※※※


十月二十日。


報せは、夕方に入った。


ケネディがシカゴでの遊説を切り上げ、ワシントンへ戻る。


理由は、風邪。


最初にそれを読んだ職員は、英語の記事を二度見た。スペイン語に訳しながら、途中で手を止めた。


そして、紙を持って走った。


数分後、会議室に全員が集まった。


カストロは地図の前に立っていた。ラウルは軍の報告を抱え、ゲバラは壁際に立った。オスバルドは記事と通信記録を並べ、バルデスは亡命者放送の聴取記録を手にしていた。オルロフは硬い顔で腕を組んでいる。


ラウルが短く報告した。


「ケネディが遊説を中止した。シカゴからワシントンへ戻る。理由は風邪。」


誰もすぐには声を出さなかった。


風邪。


あまりにも日常的な言葉だった。


だから、逆に恐ろしかった。


オスバルドが慎重に言った。


「医学的には、あり得ます。大統領も人間です。疲労もあるでしょう。これだけで危機と断定することはできません。」


ラウルはその言葉を否定しなかった。


「そうだ。あり得る。だからこそ、これだけで動けば危険だ。」


ゲバラが低く言った。


「大統領が風邪をひくことはある。だが、選挙前の大統領にとって遊説は戦場だ。その戦場から戻るには、ただの咳以上の理由がいる。」


バルデスが紙を置いた。


「亡命者放送も、午後から調子が変わっています。まだ具体的なことは言っていない。だが、何かを待っている声です。」


「声で分かるのか。」


オルロフが言った。


バルデスは彼を見た。


「ええ。復讐を語る声と、合図を待つ声は違います。」


オルロフは、モスクワからの通信紙を握っていた。


「まだ確認が必要です。アメリカ政府から公式な危機発表はありません。ここで作戦を乱すべきではない。」


カストロはオルロフを見た。


「公式発表が出る頃には、敵の艦隊が動いているかもしれない。」


オスバルドが口を挟んだ。


「しかし、公式発表がないうちは、こちらにも余地があります。表で動かず、裏の反応速度を上げる。先ほど決めた範囲なら、まだ可能です。」


カストロは頷いた。


オスバルドの役割は、引き止めることではない。


判断を遅らせるのではなく、判断の形を整えることだった。


「軍は。」


ラウルが答えた。


「グアンタナモ周辺の警戒を上げる。対空陣地には連絡系統の確認を命じる。大きな移動はまだ避ける。ただし、夜間の準備は進める。」


「保安は。」


バルデスが答えた。


「港、通信、亡命者放送、親族経由の噂を追います。摘発を増やしすぎれば騒ぎになる。流れを見ます。」


「医療と工場は。」


ゲバラが答えた。


「工場の予備燃料を確認する。診療所には追加申請を通す。港は通常作業を続けるが、夜間要員を確保する。表からは日常に見えるようにする。」


「ソ連側は。」


オルロフは少し間を置いた。


「モスクワに照会します。ただし、現地部隊には予定通り作業継続を命じるべきです。」


カストロは、そのわずかな間を見逃さなかった。


「モスクワの返事を待つのか。」


「確認は必要です。」


「確認はしろ。だが、島の判断を止めるな。」


オルロフの顔が少し強張った。


「司令官、作戦は共同です。」


「危険も共同か。」


部屋が静まり返った。


カストロは、声を荒げなかった。


「ミサイルはソ連のものだ。鍵もソ連のものだ。だが、土はキューバだ。最初に爆撃されるのはこの島だ。だから、モスクワの時計だけで動くわけにはいかない。」


ゲバラは、カストロの横顔を見た。


そこにあったのは、反ソではなかった。


味方を疑う顔でもなかった。


国家の椅子に座る者の顔だった。


味方がいても、最後に燃える土地から逃げられない者の顔だった。


秘書のセリアが入ってきた。


「電話の優先順を変えました。軍、医療、港、住民説明、学校。夜間の住民対応は、噂が先に走らないように各地区へ短い説明を出せます。ただし、内容は限定しなければなりません。」


カストロは聞いた。


「何と言う。」


「警戒訓練の一部、と。嘘ではありません。ただ、全部ではありません。」


ゲバラが皮肉なく言った。


「国家の言葉だな。」


セリアは答えた。


「国家が黙れば、敵の言葉が入ります。全部を言えない時でも、空白を残しすぎてはいけません。」


カストロは小さく頷いた。


外では、夜が降りていた。


ハバナの灯りはいつも通りに見えた。だが、その灯りの下で電話が鳴り、紙が運ばれ、燃料が数えられ、対空陣地の無線が確認されていた。


日常の顔をした警戒。


それが、この夜キューバの選んだ賭けだった。


カストロは地図を見下ろした。


「ばれたのか。」


誰も答えられなかった。


オスバルドにも、ラウルにも、ゲバラにも、バルデスにも、ソ連顧問にも、答えはなかった。


ケネディの風邪は、確証ではない。


だが、偶然として捨てるには大きすぎた。


カストロは答えを待たなかった。


「ばれたかどうかを当てる時間はない。ばれたものとして動く。」


※※※※※※※※※※


その夜、革命宮殿の廊下をセリアが歩いていた。


片手に軍の紙。 もう片手に医療の紙。


廊下の向こうから通信係が走ってくる。電話が鳴る。別の部屋で地図が開かれる。誰かが鉛筆を落とし、誰かが拾わずに次の部屋へ向かう。


世界はまだ、キューバ危機という名前を持っていなかった。


だが、国家の内部では、もう危機は始まっていた。


セリアは一度だけ窓の外を見た。


街は眠ろうとしている。


明日のパンを心配する家があり、熱を出した子どもの額を拭く母親があり、港から戻らない父を待つ家族がある。


彼女は紙を抱え直した。


会議室では、カストロが地図を見ている。 ゲバラは、まだ名前を奪われていない言葉を探している。 ラウルは、見えている敵と見えていない敵の両方へ備えている。 オスバルドは、確証のない危機に形を与えようとしている。 バルデスは、島の中へ入り込む恐怖の通り道を探している。 ソ連顧問は、モスクワの時計を守ろうとしている。


誰も、同じ場所には立っていなかった。


だが、その夜はまだ、同じ島を守っていた。


アメリカの選挙の時計。 ソ連の完成の時計。 キューバの生存の時計。


三つの針は、もう同じ時刻を指していなかった。


沈黙は安全ではなかった。


沈黙もまた、一つの賭けだった。


大統領の風邪は、病気かもしれない。


だが、その夜のハバナでは、誰もそれをただの病として扱わなかった。


風邪という短い言葉の奥で、世界が熱を出し始めていた。


キューバ国内は現在でもアメリカの租借地がありアメリカの飛行機が飛ぶことは日常茶飯事でした。

しかし、それがゆえ少しの変化は緊急事態の前触れとして解釈されます。


※更新は、月・木・土曜日(朝・夜)二回の週4話です。


次回は、月曜日の夜、投稿予定です。


【お知らせ】長編のエピソードになると思わず連載を開始したので、今、前半を大幅改稿しました。


改稿後はボリュームが二倍以上になり背景もわかりやすく史実に寄せてます。(初めはヒューマンドラマを描く予定でした。)


改稿したものはタイトルに改稿としています。ぜひお読み下さい。(日本編の前まで改稿です!)


ジャンルもヒューマンドラマから歴史へ。


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