↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ゲバラとカストロ ~革命は二人で始まり、一人で終わる~  作者: 相馬ゆう
二人の英雄の友情と別れ(前編)
PR
165/214

164,汚れた盾

キューバは義務教育で広島の原爆投下を詳しくおしえている。

ゲバラもゲバラの息子や娘、そしてカストロ自身も訪日時広島平和公園を訪問するなど、核兵器へのスタンスはネガティブなものだということは事実です。


しかし、マングース作戦の苦境の中ソ連特使の核兵器持ち込み提案を全会一致で承認したのも事実です。


この一見矛盾に思える事象を、作者のフィクションで今回はつなぎあわせてみます。

革命後、ゲバラが強くこだわったものの一つに、医療があった。


革命とは、政権を倒すことだけではない。銃を置いたあと、これまで数えられなかった命を、国の中心に置き直すことでもあった。


ハバナの大きな病院だけでは足りない。医者は、山の村にも、サトウキビ畑にも、港の労働者にも、子どもを抱えた母親にも、腰の曲がった老人にも届かなければならない。金を持つ者だけが医師にかかる国では、革命はまだ半分しか終わっていない。


命に値段はない。

命に階級はない。


その当たり前のことを、制度にしなければならなかった。


若い医師や見習いたちが、都市から地方へ送られた。診療所が作られ、巡回診療が始まり、予防と教育が医療の一部として語られるようになった。まだ器材は足りず、薬も十分ではなかったが、革命は少なくとも一つの約束を掲げていた。


病人を、金の有無で分けない。


後にキューバモデルとして知られる地域医療の芽は、その頃すでに島のあちこちで育ち始めていた。やがてキューバの医師たちは、母国だけでなく、世界の貧しい国や災害に傷ついた土地、感染症に苦しむ地域へも出ていくことになる。国境を越えて医療を届けるその姿の基礎は、こうした小さな診療所の棚と椅子と、若い見習いの震える手の中にあった。


だから、薬棚が空になることは、単なる物資不足ではなかった。


革命の約束そのものが、試されているということだった。


※※※※※※※※※※


ラサロは、診療所の裏庭でバナナを一本選んでいた。


箱の中にある果物は多くなかった。熟れすぎたものもあり、まだ青いものもあった。彼はその中から、柔らかくて食べやすそうな一本を取り上げ、手のひらで軽く押した。


「また、それを持っていくの。」


年上の看護婦が言った。


ラサロは少し気まずそうに笑った。


「噛みやすいから。」


「薬じゃないのよ。」


「分かっています。でも、何もないよりはいい。」


看護婦は、何か言いかけてやめた。ラサロが誰に持っていくのか、知っていたからだった。


待合の端に、腰の曲がった老女が座っていた。


皆からは、ドロレスばあさんと呼ばれている。年齢を聞くと、本人も正確には分からないと言った。戸籍の数字より、雨季の回数や収穫の記憶の方が、彼女には確かだった。


背は小さく、腰は大きく曲がっていた。手は黒く固く、節が目立ち、指はまっすぐ伸びきらない。長いあいだサトウキビを切り、束ね、運んできた手だった。爪の間にはいつも土の色が残り、洗っても完全には落ちなかった。


ラサロが近づくと、ドロレスばあさんは顔を上げた。


「ラサリート。」


「今はラサロです。」


「わたしにはラサリートでいい。」


「また子ども扱いですか。」


「子どもは、子どもだよ。背が伸びてもね。」


ラサロは苦笑して、バナナを差し出した。


「今日はこれです。」


ドロレスばあさんは、受け取る前に少しだけ手を引いた。


「また、わたしにくれるのかい。」


「診療所からです。」


「嘘をお言い。あんたが選んできたんだろう。」


ラサロは答えなかった。


老女は、彼の顔を見てから、ゆっくりとバナナを受け取った。指の関節が腫れていて、皮をむくのにも時間がかかった。ラサロが手を出そうとすると、彼女は首を振った。


「できるよ。まだ、これくらいは。」


彼女は皮を少しむき、口に運んだ。


「甘いね。」


「よかった。」


「でも、これは薬じゃない。」


「みんな、そう言いますね。」


「本当のことだからさ。」


そう言って、ドロレスばあさんは笑った。


彼女の関節は悪かった。指も膝も腫れ、雨の日は痛みで眠れないことがある。診療所には痛み止めも多くはなく、栄養のある食べ物も簡単には届かなかった。ラサロが渡すバナナは治療薬ではない。ただ、食の細った老女が口にしやすい、小さな気遣いだった。


それでも彼女は、いつも大事そうに受け取った。


「昔はね。」


ドロレスばあさんは、バナナを半分だけ食べると、残りを膝の上に置いた。


「畑にはいくらでもサトウキビがあったよ。見渡す限り、ずっとね。でも、その広い畑の中に、わたしのものは何もなかった。」


ラサロは、そばの椅子に腰を下ろした。


「ずっと同じ畑で働いていたんですか。」


「子どものころからだよ。朝になる前に起きて、暗くなるまで切った。手を切っても、腰が痛くても、熱があっても、働いた。休めば食べられない。文句を言えば、次の日から仕事がない。」


彼女は自分の手を見た。


「奴隷じゃない、と言われた。けれど、どこへ行く自由もなかった。畑は広かった。空も広かった。でも、人間の行ける場所は狭かった。」


ラサロは、何も言えなかった。


「地主の家には医者が来た。馬より早く来た。わたしたちは、熱が出ても待つだけだった。治れば働く。治らなければ、畑から一人減る。それだけだった。」


ドロレスばあさんの声は、怒っていなかった。


怒りは、長い年月の中で別のものに変わっていた。諦めでもなく、許しでもない。あまりに長くそう生きてきた者だけが持つ、乾いた響きだった。


「だからね、ラサリート。」


「ラサロです。」


「だから、ラサリート。わたしがこの椅子に座っていることは、奇跡みたいなものなんだよ。」


彼女は診療所の壁を見た。白く塗られた壁には、消毒液の匂いが染みついている。新しい建物ではない。立派でもない。薬棚は空きが多く、器具も古い。


それでも、彼女はそこを見る目を少し細めた。


「わたしのような女が、医者に名前を呼ばれて、椅子に座って、若い子に果物までもらう。昔のわたしに話しても、信じないだろうね。」


ラサロは胸の奥が熱くなった。


「当たり前のことです。」


「そうだね。」


ドロレスばあさんは、ゆっくり頷いた。


「でも、その当たり前が、わたしには一生来ないと思っていた。」


彼女は膝の上のバナナを見た。


「子どもや孫が、自分たちの土地を持てる時代になった。誰かの畑で、誰かのためだけに腰を折るんじゃない。自分の畑を心配できる。雨を見て、自分の作物を思える。そんな日が来るなんてね。」


ラサロは、外の畑を思った。


彼自身はプランテーションの記憶を持たない。だが、この老女の手を見ると、その時代が急に近くなる。革命は本の中の言葉ではなく、この固く曲がった指に触れるものなのだと思えた。


「世界中が、そうなればいいですね。」


思わず、ラサロは言った。


ドロレスばあさんは彼を見た。


「世界中?」


「はい。キューバだけじゃなくて。畑で働く人も、鉱山で働く人も、医者にかかれない人も、自分の国を持てるようになればいい。」


老女は笑った。


「大きなことを言うようになったね。」


「司令官たちの話を聞いていると、そう思うんです。」


「なら、あんたは長生きしなさい。」


「なぜですか。」


「大きなことを言う人間は、それを見届ける責任がある。」


ラサロは答えに詰まった。


その言葉を冗談として受け取りたかった。だが、ドロレスばあさんの顔には、いつもの柔らかな笑みの奥に、畑で長く働いてきた者の重さがあった。


「あなたも長生きしてください。」


ラサロは言った。


「わたしはもう、ずいぶん長く生きたよ。」


「まだです。」


「欲張りだね。」


彼女はそう言って、バナナの残りを布に包んだ。


「食べないんですか。」


「あとで食べる。」


ラサロはその布を見た。


「また、お孫さんにあげるつもりですね。」


ドロレスばあさんは悪びれなかった。


「あの子は育ち盛りだ。」


「あなたのために渡したんです。」


「わたしのためだよ。あの子が食べるのを見ると、わたしの腹も少しふくれる。」


ラサロは叱ろうとしたが、言葉が出なかった。


老女は、彼の手を軽く叩いた。


「そんな顔をしない。若い者は、食べなきゃいけない。」


その手は軽かった。


だが、ラサロには、サトウキビ畑で何十年も鎌を握ってきた重さがあった。


※※※※※※※※※※


数日後、ドロレスばあさんは診療所へ運び込まれた。


最初に聞こえたのは、孫の泣き声だった。


ラサロが待合へ走ると、男二人に抱えられた老女が入ってきた。足元の布は赤黒く汚れていた。畑の端で転び、古い金具でふくらはぎを切ったという。傷そのものは、大きすぎるものではなかった。


だが、傷口の周りは腫れ、熱を持っていた。


「いつ切った。」


若い医師が聞いた。


「三日前です。」


孫の一人が答えた。


「なぜすぐ連れてこなかった。」


「本人が、大したことないと……。」


ラサロは、寝台のそばに立ち尽くしていた。


ドロレスばあさんは、額に汗を浮かべていた。目は開いているが、焦点が合わない。呼吸が浅い。


若い医師が傷を見て、顔を硬くした。


「抗生物質を。」


看護婦が薬棚へ向かった。ラサロも反射的に動いた。


棚の中を開ける。瓶を数える。箱を開ける。別の棚を見る。引き出しを開ける。


少ない。


本当に、少なかった。


禁輸によって薬が突然この世から消えたわけではない。だが、輸送は遅れ、外貨は足りず、許可は滞り、届くはずのものが届かず、必要な時に棚は軽くなっていた。紙の上では例外があっても、現場の棚には空きがある。


医療は、紙では人を救えない。


看護婦が、貴重な抗生物質の瓶を一本取り出した。


ラサロはそれを受け取り、医師へ渡そうとした。


その時、ドロレスばあさんが目を開けた。


「待ちなさい。」


声は小さかった。


ラサロは寝台へ顔を寄せた。


「大丈夫です。すぐ薬を使います。」


ドロレスばあさんは首を振った。


「それは、若い者に残しなさい。」


ラサロは一瞬、意味が分からなかった。


「何を言っているんですか。」


「これから国を背負う子たちに、残しなさい。」


若い医師が言った。


「あなたに必要です。」


「わたしは、もう畑を見た。孫が自分の土地で働くところも見た。病院の椅子にも座った。十分だよ。」


「十分な命なんてありません。」


ラサロの声が震えた。


ドロレスばあさんは彼を見た。


「ラサリート。」


「ラサロです。今はラサロです。」


「なら、ラサロ。怒らないでおくれ。」


「怒ります。」


ラサロは、瓶を握りしめた。


「これはあなたのための薬です。若い者に残すとか、そういう話じゃない。あなたも生きる人です。」


老女は、少し笑った。


「そう言ってもらえる時代になったんだね。」


その言葉に、ラサロは息を詰まらせた。


彼女は本気で、病院に運ばれることも、薬を使われることも、自分にはもったいないと感じている。革命が「あなたの命にも同じ価値がある」と言っても、長いプランテーションの年月は、彼女の心の奥に別の声を残していた。


若い者を先に。

働ける者を先に。

未来のある者を先に。


その順番が、彼女の中では当然のものとして沈んでいた。


「駄目です。」


ラサロは言った。


「あなたがそれを当たり前だと思っているなら、革命はまだ終わっていません。」


その場にいた者たちが黙った。


その時、診療所の入口にゲバラが現れた。


彼は別の用件で近くへ来ていた。若い医師の使いが走ったのかもしれない。あるいは、偶然だったのかもしれない。ゲバラは寝台のそばへ歩き、傷を見た。薬棚を見た。ラサロの手に握られた瓶を見た。


「使え。」


ゲバラは言った。


ドロレスばあさんが、彼を見た。


「司令官。」


「俺は医者だ。患者が薬を拒む理由を聞くことはある。だが、命に順番をつける言葉は聞かない。」


ドロレスばあさんは苦しそうに息をした。


「順番じゃありません。お願いです。若い者に。」


ゲバラは、彼女の手を見た。


荒れた手。曲がった指。サトウキビの葉で切られ、鎌を握り、畑で何十年も使われてきた手だった。


彼はその手を、どこかで見たことがあった。


ペルーの高地。チリの鉱山。アルゼンチンの小さな村。旅の途中で出会った、病人と労働者と農民たち。医者にかかる前に、自分はその資格がないと諦めていた人々。貧しさが、病名より先に人間を分類する世界。


そこでは、命は平等ではなかった。


少なくとも、資本と土地と国境は、そう扱っていなかった。


人間は部品のように使われ、壊れれば取り替えられる。鉱山では肺が削られ、畑では腰が曲がり、病室の外では金がない者が待たされる。そして恐ろしいのは、それを多くの人が当然だと思わされていることだった。


ゲバラは、若いころの自分を思い出した。


怒り方さえ分からず、ただ胸の中に熱をためていた自分。何のために生き、何のために死ぬのか、問いだけを増やしていった自分。


その問いが、今ラサロの目の中にあった。


「薬を使う。」


ゲバラはもう一度言った。


若い医師は頷き、処置を始めた。


ドロレスばあさんは、それ以上は拒まなかった。ただ、ラサロの袖を弱くつかんだ。


「わたしのせいで、怒らないでおくれ。」


「怒っています。」


ラサロは涙をこらえながら言った。


「でも、あなたのせいじゃない。」


ドロレスばあさんは目を閉じた。


「それなら、いい。」


※※※※※※※※※※


ドロレスばあさんは、数日もった。


熱は下がりきらなかった。薬は使った。傷も処置した。できることはした。だが、年齢と疲れた身体と栄養の細さは、感染に抵抗する力を削っていた。


ラサロは、寝台のそばに通い続けた。


水を飲ませ、汗を拭き、布を替えた。ドロレスばあさんは目を覚ますたびに、彼をラサリートと呼んだ。ラサロは、そのたびに「今はラサロです」と言い返した。だが、声は少しずつ弱くなっていった。


ある朝、彼女は窓の方を見ていた。


「畑の匂いがするね。」


実際には、診療所の中には消毒液の匂いがあった。外には小さな庭があり、土と湿った葉の匂いはしたが、サトウキビ畑は遠い。


ラサロは、彼女に合わせた。


「今日は晴れています。」


「収穫にはいい。」


「ええ。」


「昔は、空を見ても地主の畑のことしか考えなかった。今は、孫の畑を思える。」


彼女は、ゆっくり息を吸った。


「それだけで、ずいぶん遠くまで来た気がするよ。」


ラサロは、彼女の手を握った。


「もっと遠くまで行きます。」


「行きなさい。」


「あなたも一緒に。」


ドロレスばあさんは、少しだけ笑った。


「わたしは、ここでいい。」


「駄目です。」


「ラサロ。」


初めて、彼女は愛称ではなく名前で呼んだ。


ラサロは顔を上げた。


「はい。」


「お前のせいじゃないよ。」


彼は何も言えなかった。


「薬が少ないのも、畑で転んだのも、わたしが年を取ったのも、お前のせいじゃない。」


ラサロは首を振った。


「でも、僕は助けられなかった。」


「助けてくれたよ。」


「助かっていません。」


「そういう助けもある。」


彼女の声は、ほとんど息だった。


「わたしは、名前を呼ばれて、診てもらって、怒ってもらった。自分の命を、もったいないと言ったら、若い子に叱られた。そんな日が来るなんて、思わなかった。」


ラサロの目から涙が落ちた。


「泣くな。」


「泣きます。」


「なら、少しだけにしなさい。あとは、働け。」


ドロレスばあさんは、ゆっくり目を閉じた。


そのまま、呼吸が浅くなっていった。


ラサロは彼女の手を握っていた。荒れた手は、少しずつ力を失った。サトウキビ畑で何十年も働いた手が、彼の手の中で軽くなっていく。


彼女は、静かに息を引き取った。


診療所の中で、誰もすぐには動かなかった。


外では、遠くから子どもの声が聞こえていた。


革命は、老婆に「あなたの命も同じ重さだ」と言うためにあった。


だが禁輸は、彼女にもう一度「若い者を先に」と言わせた。


※※※※※※※※※※


ラサロは夕方まで黙っていた。


泣きもしなかった。怒鳴りもしなかった。ただ、薬棚の前に立ち、空いた場所を見ていた。棚の木目、瓶の跡、使い終わった包帯の箱、古いラベル。そういうものを、まるで初めて見るように見ていた。


ゲバラが診療所へ戻ったのは、日が落ちてからだった。


ラサロは振り返らなかった。


「彼女は、何のために生まれたんですか。」


ゲバラは足を止めた。


「何のために、あんな手になるまで働いて、何のために、やっと診療所に来られる時代になって、何のために死んだんですか。」


ラサロの声は低かった。低いほど、怒りが深いことが分かった。


「アメリカに、キューバは何をしたんですか。僕たちは何をしたんですか。自分たちの土地を持とうとしただけです。病人を診ようとしただけです。年寄りに薬を使おうとしただけです。それの何がいけないんですか。」


ゲバラは黙っていた。


「僕は、包帯を巻きました。水も飲ませました。薬も探しました。でも、足りなかった。何も足りなかった。僕に力がないなら、力がほしい。銃でも何でもいい。戦う時です。」


ゲバラは、ゆっくり近づいた。


「銃を持てば、何が変わる。」


ラサロは振り返った。


「敵を撃てます。」


「誰を撃つ。港に火をつけた男か。薬を止めた役人か。船を止めた会社か。書類に署名した大統領か。マイアミで笑っている連中か。」


ラサロは答えられなかった。


「ひとり撃てば、棚に薬が戻るのか。ふたり撃てば、ドロレスばあさんが戻るのか。」


「でも、何もしないんですか。」


「何もしないとは言っていない。」


ゲバラは、薬棚の前に立った。


「俺も若いころ、同じ顔をしていた。」


ラサロは黙った。


「南を旅した。鉱山を見た。病人を見た。土地を持たない農民を見た。働いても働いても、自分のものが何も残らない人間を見た。金がないというだけで、病気より先に諦める人間を見た。」


ゲバラの声は静かだった。


「そこでは、人間は人間として扱われていなかった。労働力だった。数字だった。替えのきく部品だった。壊れれば捨てられる。年を取れば後ろへ回される。病気になれば、運が悪かったで片づけられる。」


ラサロは、棚から目を離さなかった。


「もっと恐ろしいのはな、ラサロ。みんな、それを当然だと思わされていたことだ。医者にかかれないのは貧しいから仕方ない。土地を持てないのは生まれが悪いから仕方ない。年寄りが若者に薬を譲るのは、当然だ。そう思わされていた。」


ゲバラは、ドロレスばあさんの手を思い出した。


「彼女は革命家だった。」


ラサロが顔を上げた。


「銃を持っていません。」


「銃を持つ者だけが革命家ではない。」


ゲバラは言った。


「彼女は、自分が半分奴隷のように扱われてきた時代を生きた。それでも、孫が自分の土地を持つ時代まで生きた。診療所の椅子に座り、自分の命を若者と同じ重さだと言われた。彼女は、その時代の境目に立っていた。」


ラサロの目が濡れていた。


「でも、死にました。」


「死んだ。」


ゲバラは逃げなかった。


「だが、その怒りだけで銃を持てば、彼女が見た未来はそこで止まる。お前が怒りで走れば、アメリカは喜ぶ。見ろ、キューバの若者は危険だ。見ろ、革命は暴力だ。そう言って、次の火を持ってくる。」


「では、何をすればいいんですか。」


ラサロの声は、ほとんど叫びだった。


「僕は何をすれば、彼女の死を無駄にしないんですか。」


ゲバラは、すぐには答えなかった。


診療所の外では、夜が深くなっていた。遠くで誰かが歌っている。細い歌だった。明るい歌ではない。消えないための歌だった。


「お前たちが盾になる前に、俺たちが盾になる。」


ゲバラは言った。


ラサロは眉を寄せた。


「盾?」


「お前たちの世代を、最前線に立たせないためにだ。」


「どういう意味ですか。」


「キューバだけじゃない。」


ゲバラは続けた。


「世界には、キューバ以外にも、帝国の資本に土地を奪われ、鉱山で肺を削られ、病院の外で待たされ、自分の命を安く見積もるように教えられてきた人間がいる。ドロレスばあさんのような人間が、どこにでもいる。ラサロのような若者も、どこにでもいる。」


ラサロは黙って聞いていた。


「キューバがここで折れれば、彼らはまた言う。小さな国は従うしかない。貧しい者は待つしかない。年寄りは薬を譲るしかない。若者は怒りで死ぬしかない。そういう世界が続く。」


「なら、戦うんですね。」


「戦う。」


ゲバラは言った。


「だが、お前が今夜、銃を持って走ることではない。お前が最初に死ぬことでもない。お前が包帯を捨てることでもない。」


ラサロは、言葉を失った。


ゲバラは、まだ彼に核の話をするつもりはなかった。ラサロに背負わせるには、重すぎる。


「お前は、明日も包帯を巻け。」


ラサロは唇を噛んだ。


「それだけですか。」


「それだけではない。だが、そこから始めろ。彼女は、お前に働けと言ったんだろう。」


ラサロの顔が崩れた。


ようやく涙が出た。


ゲバラは、それ以上言わなかった。


※※※※※※※※※※


その夜、ゲバラはカストロのもとへ向かった。


革命宮殿の部屋には、まだ灯りがあった。カストロは机の前で書類を読んでいた。秘書のセリアはいなかった。灰皿には火の消えた葉巻が置かれている。


カストロは顔を上げた。


「眠らないのか。」


「お前もだ。」


「俺は国家だからな。」


「便利な言い訳だ。」


カストロは少しだけ笑ったが、ゲバラの顔を見て、その笑みを消した。


「何があった。」


ゲバラは、しばらく黙っていた。


それから言った。


「今日、ささやかな革命家の死に出会った。」


カストロは書類を置いた。


ゲバラは、ドロレスばあさんの話をした。


プランテーションのサトウキビ畑で働いていたこと。半分奴隷のように扱われ、腰を曲げ、手を荒らし、それでも孫が自分の土地を持てる時代を奇跡のように感じていたこと。診療所の椅子に座れることさえ、自分にはもったいないと内心思っていたこと。傷口から感染し、貴重な抗生物質を若者に残せと言ったこと。ラサロが泣かずに怒ったこと。


カストロは、途中で何も挟まなかった。


ゲバラは最後に言った。


「彼女の死に復讐したい若者がいる。」


「ラサロか。」


「そうだ。」


ゲバラは頷いた。


「だが、それは革命ではない。復讐の連鎖は、俺たちの世代で断つ。」


カストロは、ゆっくり椅子にもたれた。


ゲバラは続けた。


「これはキューバだけの問題ではない。世界中で、人間として当たり前に生きる営みを、帝国と資本に奪われている者たちのための闘争だ。働くこと、食べること、医者にかかること、自分の土地を持つこと、自分の国を持つこと。その当たり前を、彼らは商品にし、特権にし、支配の道具にする。」


カストロは黙って聞いていた。


「ドロレスばあさんは、自分の命を未来に譲ろうとした。尊いことだ。だが、そんなことを美徳にしてはいけない。老人が薬を譲り、若者が復讐で銃を持つ。そんな世界を終わらせるために、革命をしたんだ。」


ゲバラは息をついた。


「俺は核を信じない。正義とも呼ばない。広島を忘れたわけでもない。ソ連の地図に載せられる危険も消えていない。」


カストロの目が、わずかに動いた。


「それでもか。」


「それでもだ。」


ゲバラは答えた。


「ラサロたちが盾になる前に、俺たちが盾になる。若者を帝国の戦場へ差し出さないために、俺たちが先に汚れる。キューバを守るためだけではない。帝国に命の値段をつけられてきた国々のために、ここで折れるわけにはいかない。」


カストロは、長いあいだ黙っていた。


その沈黙の中で、ゲバラは自分が何を言ったのかを聞いていた。


核を受け入れる。

そう言ったわけではない。

だが、もう拒絶だけに立ってはいなかった。


カストロは、静かに言った。


「だから、お前に先に話した。」


ゲバラは顔を上げた。


「国家の言葉だけでは、俺はこれを防衛としか呼べなかった。必要だが、汚い防衛だ。お前は、それを革命の言葉に戻した。」


「きれいにしたわけではない。」


「分かっている。」


カストロは頷いた。


「汚れたまま、引き受ける理由を見つけたんだ。」


その言葉は、二人の間に落ちた。


どちらも勝った顔をしていなかった。


カストロは、机の引き出しから一枚の紙を取り出した。そこには、まだ正式な命令にはなっていない名前があった。


「ラウルを出す。」


ゲバラは、すぐに分かった。


「モスクワか。」


「ああ。」


「信用できるのか。」


「だからラウルだ。軍を知っている。俺を知っている。向こうの言葉に呑まれない。」


ゲバラは、紙を見た。


「秘密裏に進めるのか。」


「今はな。」


カストロは答えた。


「だが、忘れるな。俺たちはソ連の基地になるために革命をしたわけではない。」


「忘れない。」


ゲバラは言った。


「核を置くなら、なおさらだ。」


カストロは、火の消えた葉巻を灰皿で転がした。


「ドロレスという女は、銃を持ったことがあるのか。」


「ない。」


「なら、革命家だったんだな。」


ゲバラは、少しだけ目を伏せた。


「そうだ。」


※※※※※※※※※※


その夜、ラウルをモスクワへ送る準備が、秘密裏に始まった。


キューバは、核を愛したのではない。

ソ連を信じきったのでもない。

勝利のために、街を焼く兵器を欲したのでもない。


ただ、ラサロのような若者を復讐の海岸へ立たせないために、汚れた盾を、自分たちの世代で背負うことにした。

革命以前と以後の人間模様。

そしてマングース作戦と全面禁輸。


結果キューバはソ連の核兵器持ち込みを承認します。次回は承認後の外交について描きます。


※更新は、月・木・土曜日(朝・夜)二回の週4話です。


次回は、木曜日の夜、投稿予定です。


【お知らせ】長編のエピソードになると思わず連載を開始したので、今、前半を大幅改稿しました。


改稿後はボリュームが二倍以上になり背景もわかりやすく史実に寄せてます。(初めはヒューマンドラマを描く予定でした。)


改稿したものはタイトルに改稿としています。ぜひお読み下さい。(日本編の前まで改稿です!)


ジャンルもヒューマンドラマから歴史へ。


よろしければ、ブックマーク/感想/★で応援してもらえると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。