165,ラウルが見たモスクワ・ゲバラが見たモスクワ
ソ連が持ちかけた核ミサイルキューバ国内持ち込み計画はキューバで全会一致で可決します。
カストロは弟ラウロに、そして最終的にゲバラをモスクワに派遣します。
紙の計画は、日を追うごとに形になっていきました。
一九六二年七月二日、ラウルは二度目のモスクワに降り立った。
一度目は、一九六〇年の夏だった。革命はまだ若く、キューバも若かった。ハバナの街には、倒した独裁者の埃が残り、兵士たちは勝利の熱をまだ畳みきれずにいた。アメリカの圧力はすでに強まっていたが、それでも未来は、手を伸ばせば自分たちで掴めるものに見えた。
あの時のモスクワは、大きかった。
空港の石も、車の窓から見える広い通りも、赤の広場へ続く人の流れも、すべてがキューバとは違っていた。ラウルは、その大きさを希望として受け取った。アメリカに睨まれた小さな島の背後に、これほど巨大な国が立つ。その事実だけで、海の向こうから吹いてくる圧力が、少しだけ遠くなるように思えた。
だが、二度目のモスクワは違った。
同じ空港だった。黒い車が待ち、軍服の男たちが敬礼し、通訳は丁寧に名前を呼んだ。握手は固く、歓迎は厚かった。けれどラウルは、歓迎の熱の奥に、別のものを感じていた。
注目されている。
それは、革命への称賛だけではなかった。同志への友情だけでもなかった。モスクワはキューバを見ていた。アメリカの喉元にある島として、世界地図の上で急に重くなった一点として、彼らはキューバを見ていた。
ラウルは、革命軍を預かる者として来ていた。
兄の名代ではある。だが、ただの使者ではない。キューバの軍をどう動かし、島のどこを守り、アメリカが次に来た時に誰が命令を出すのか。それを確かめるために来ていた。ラウルの鞄には、ハバナから預かった信頼と同じだけ、軍人としての疑いが入っていた。
車が市街へ入ると、ラウルは窓の外を眺めた。石造りの建物は大きく、通りは広く、兵士の歩幅は揃っていた。キューバの街には、いつも海風と怒号と歌が混じっている。モスクワには、別の音があった。国家の音だった。巨大な机の引き出しが開き、書類が揃えられ、命令が複数の部屋を通って動いていく音だった。
二年前、ラウルはこの街を味方の首都として見た。
今は違った。
モスクワは味方だった。
だが味方である前に、大国だった。
※※※※※※※※※※
会議室の壁には、地図が掛けられていた。
キューバは小さかった。
ラウルは、その小ささに少し腹を立てた。ハバナの街路、サンティアゴの山、シエラ・マエストラの雨、サトウキビ畑の泥、港で働く男たち、診療所の若者。ラサロのような顔。そのすべてが、地図の上では細長い島の形に押し込められていた。
そのすぐ北に、アメリカがあった。
フロリダの半島は、まるでキューバへ伸びた指のようだった。キューバはその指先の下で息をしている。モスクワの軍人たちは、その位置を何度も確認した。距離、射程、港、飛行場、道路、山地、天候、潮、偵察機の可能性。
ラウルは、彼らがキューバを驚くほど調べていることに気づいた。海岸線、港湾能力、道路の弱さ、基地に向く平地、米軍の侵攻経路。ときおり通訳が遅れ、先に指が地図をなぞった。言葉より先に、地図が話していた。
ロジオン・マリノフスキー国防相は、赤い鉛筆で数か所を示した。厚い指先が、キューバの上を動いた。
「ここに防空網を置きます。ここには通信設備。輸送は複数の港へ分散します。作業は夜間を中心に進める必要があります。」
ラウルは黙って聞いた。
アナスタス・ミコヤンは、軍人たちの言葉に政治の柔らかさを添えるように座っていた。フルシチョフは大きな体を椅子に預け、時に冗談めいた口調を挟んだが、地図を見る目だけは笑っていなかった。
七月三日。
そして、八日。
会議は一度で終わらなかった。
一度目の会談で、ソ連側は計画の骨を見せた。二度目の会談で、その骨に筋肉がついた。港の名前、船の順序、兵員、基地予定地、防空網、通信設備、偽装資材。ラウルが求めたのは、支援の有無ではなかった。キューバはすでに、盾を受け入れる方向へ進んでいた。彼が知りたかったのは、その盾が誰の手で動くのかだった。
フルシチョフが言った。
「キューバは、もはや小さな島ではありません。」
通訳が訳すあいだ、ラウルは彼の顔を見た。
「アメリカの喉元にある革命です。あなた方が倒れれば、ワシントンは勝利を宣言するでしょう。あなた方が立ち続ければ、世界は別の可能性を見ます。」
それは褒め言葉だった。
だが、同時に重荷でもあった。
マリノフスキーが資料をめくった。数字が並んでいる。船の予定、兵員、装備、建設期間、偽装資材。そこには、革命の言葉はなかった。あるのは重量、日数、距離、口径、部隊番号だった。
「時間がありません。」
マリノフスキーは言った。
「十一月のアメリカ中間選挙の後に、完成した事実として示す。そのためには、輸送をすぐに始めなければならない。鉄道で港へ運ぶものがあります。黒海から出す船があります。バルト海から出す船もあります。船名は偽装し、目的地も偽ります。だが、出航が遅れれば、完成は間に合わない。」
ラウルは、資料の上の線を見た。
紙の上では、すべてが簡単に動いていた。
兵器は鉄道で港へ行く。船に積まれる。船は海を渡る。キューバの港へ着く。夜のうちに降ろされる。道路を走る。山の陰へ入る。基地になる。
だが、その線の一つが切れれば、全部が露出する。
「完成するまでは、秘密が必要です。」
通訳がそう訳した。
ラウルは顔を上げた。
「完成してから、どうするつもりだ。」
マリノフスキーは一瞬、フルシチョフを見た。フルシチョフは顎を少し動かし、話すよう促した。
「完成すれば、それは事実になります。アメリカは、その事実を前提に動かざるを得なくなる。」
「いつ、それを見せる。」
「アメリカの中間選挙の後です。」
ラウルは、指先を机の縁に置いた。
マリノフスキーは続けた。
「ケネディは国内を見ています。選挙前に騒ぎを起こせば、彼は強く出ざるを得ません。だが選挙後であれば、事実を計算する余地が生まれる。完成した戦力を示せば、キューバへの侵攻はあまりに危険になる。」
核は知られて初めて盾になる。
それは理解できた。
アメリカが知らなければ、ワシントンの判断は変わらない。知られなければ、核は海岸の若者たちを守る政治的な力にはならない。ただ、島のどこかに眠る火薬にすぎない。だからソ連は、完成までは隠し、完成後に見せるつもりだった。
ラウルは、その理屈を理解した。軍人として、理解できた。
だからこそ、別の疑問が口に出た。
「完成前に見つかったらどうする。」
会議室の空気が、わずかに固くなった。
マリノフスキーはすぐには答えなかった。通訳が沈黙し、紙をめくる音だけが残った。
やがて、フルシチョフが笑みを消して言った。
「だからこそ、秘密が必要なのです。」
それは答えではなかった。
ラウルには分かった。
この計画は強力だった。だが完全ではなかった。巨大な国家機械が、膨大な船と兵士と書類を動かしている。それでも最後には、見つからないという一点に賭けていた。
ラウルはさらに尋ねた。
「基地の周囲を守るのは誰だ。」
「ソ連部隊とキューバ側の協力で行います。」
「協力とは、どこまでだ。キューバ軍は、どこまで入れる。」
マリノフスキーの目が少し細くなった。
「機密区画には、必要な者だけが入ります。」
「アメリカが上陸した時、命令はどこから出る。ハバナか。モスクワか。」
通訳が訳し終えたあと、誰もすぐに話さなかった。
ミコヤンが、初めて前へ身を乗り出した。
「ラウル同志、これはキューバを守るための計画です。」
「それは分かっている。」
ラウルはすぐに答えた。
「だが、守られるだけなら軍はいらない。俺たちは戦う。だから聞いている。どこに何があり、誰が命令し、アメリカが来た時に誰が撃つのか。キューバの土で戦うなら、キューバ軍が知らなければならない。」
フルシチョフは椅子の背に体を戻した。彼は怒ってはいなかった。むしろ、目の奥でラウルを測っているようだった。
「あなた方の勇気は疑っていません。」
「勇気の話ではない。」
ラウルは地図を指した。
「ここで死ぬのは、キューバ人だ。」
また、沈黙が落ちた。
その沈黙の中で、ラウルは二度目のモスクワの意味を知った。
一度目、この大きさは希望に見えた。
二度目、この大きさは、必要な力であると同時に、キューバの手から何かを遠ざける力でもあった。
※※※※※※※※※※
七月のモスクワで、時間は急に縮んだ。
会議室を出ると、廊下の向こうで電信担当の男たちが動いていた。扉の向こうで電話が鳴り、紙が運ばれ、別の部屋では暗号表が開かれていた。外交官の言葉は柔らかい。だが軍の時間は硬い。決まれば、動く。
その夜、ラウルはソ連側から改めて確認を求められた。
運用の細部にはまだ不満がある。
キューバ軍の関与にも曖昧さが残る。
しかし、輸送を止めれば、中間選挙後に完成した事実を示すという計画は崩れる。
ラウルは、窓の外の暗いモスクワを見た。
ハバナから遠かった。だが、彼がここで遅らせれば、影響はハバナの港に出る。サンティアゴの道路に出る。海岸に立つ民兵の背中に出る。
彼は短い返答を選んだ。
承認する。
ただし、キューバ側への連絡と現地調整を急がせる。
暗号電報が作られた。
文面は乾いていた。そこには、ラウルの迷いも、ハバナの湿気も、サトウキビ畑の匂いもなかった。必要な言葉だけが並んだ。
準備を進めよ。
港湾受け入れを整えよ。
道路と保管場所を確認せよ。
ソ連側輸送予定に合わせ、現地協力を開始せよ。
暗号化された文字列は、革命宮殿へ向けて送られた。
紙の上では、それはただの信号だった。
だがその信号の先で、島は動き始める。
八月十日、ロケット部隊の一部は鉄道輸送のため積み込みに入った。兵士たちの多くは、自分たちがどこへ向かうのか知らなかった。書類には別の目的地が書かれ、船の表向きの積荷には農業機械や一般貨物の名が使われた。兵器は箱に収められ、箱には別の名前が与えられた。
黒海沿岸の港では、夜のクレーンが動いた。
鋼鉄の腕が、ゆっくりと木箱を持ち上げる。甲板に立つ男たちは、声を低くして合図した。船倉の奥は熱を帯びていた。貨物船の名前は、ただの商船のように見えた。だがその腹の中には、地図を変えるものが積み込まれていた。
八月下旬、オムスク号が黒海を離れた。
表向きの目的地は、別の港だった。
本当の目的地は、キューバだった。
船は、静かに海へ出た。
港の灯が後ろへ遠ざかる。甲板には、見せてもよい荷だけが置かれていた。見せてはならないものは、船の腹の中に隠されていた。兵士たちは、暑い船倉に押し込められ、甲板へ出ることを禁じられた。空から見れば、船はただの貨物船だった。海図の上では、一本の線にすぎなかった。
だがその線は、キューバへ向かっていた。
九月九日、オムスク号はキューバ南岸のカシルダ港に入る。
その時、最初のミサイル部隊が島の土を踏むことになる。
だが、七月のモスクワにいたラウルは、まだそこまでは見ていなかった。
彼が見ていたのは、時計だった。
中間選挙までの時計。
アメリカに見られる前に完成させるための時計。
キューバが自分の言葉を持つ前に、海を渡り始めた時計。
※※※※※※※※※※
ハバナに戻ると、夜は蒸し暑かった。
革命宮殿の窓は開いていたが、風はあまり入ってこない。机の上には灰皿と書類があり、壁際の扇風機が硬い音を立てて回っていた。
フィデルは立ったまま、ラウルの報告を聞いた。ゲバラは椅子に座り、手元の葉巻に火をつけずに転がしていた。
ラウルは長く前置きをしなかった。モスクワで見たものを、必要な順に並べた。兵器、港、工事、ソ連兵、通信、秘密、中間選挙後の発表、完成してから相手に見せるという計算。そして、すでに輸送の時計が動き始めたこと。
「もう止まらない。」
ラウルは言った。
「鉄道が動く。船が出る。暗号も送った。港と道路を準備しなければならない。」
フィデルは黙っていた。ゲバラも、顔を上げた。
ラウルは地図の端を指で押さえた。ハバナで広げられた同じ島は、モスクワの地図より少し大きく見えた。それでも、周囲の海は変わらなかった。
「盾は必要だ。そこは疑わない。」
ラウルは言った。
「ピックス湾の次が来れば、民兵の勇気だけでは島を守れない。アメリカは前より大きく来る。前より慎重に来る。だから盾はいる。だが、モスクワが持ってくる盾は、俺たちの手だけでは動かない。」
ラウルは、机の上の灰皿を少し横へ動かした。
「基地の場所はこの島にある。道路を使うのは俺たちだ。守るのも俺たちだ。攻撃されれば死ぬのはキューバ人だ。だが、最後の鍵はソ連軍が握る。」
扇風機の音が、少し大きく聞こえた。
「俺が見てきたのは、そこだ。彼らは同志だ。支援も本気だ。だが、盾の鍵はモスクワにある。」
フィデルは窓の外を見た。外では夜のハバナが明るく、遠くで車の音がした。人々はまだ歌っているかもしれない。配給所の列に並んだ者も、診療所で包帯を巻いた者も、港で荷を降ろした者も、いまこの部屋で話されている重さを知らない。
「鍵を持たせなければ、盾は来ない。」
フィデルが言った。
ゲバラは顔を上げた。
「鍵だけではない。」
フィデルとラウルが、同時にゲバラを見た。
ゲバラは葉巻から手を離した。
「名前だ。」
「名前。」
ラウルが繰り返した。
「世界がこれを何と呼ぶかだ。キューバの防衛協定なのか。ソ連の秘密基地なのか。そこを敵に決めさせたら、盾は守る前に俺たちを縛る。」
フィデルは机に手をついた。
「お前は、公表すべきだと言うのか。」
「置くならな。キューバはアメリカに脅かされている。ピックス湾があった。マングース作戦がある。禁輸がある。だから主権国家としてソ連の支援を受ける。そう言わなければならない。」
ラウルは眉を寄せた。
「完成前に言えば、アメリカに潰される。」
「だからソ連は黙る。分かっている。」
ゲバラの声は荒くなかった。
「だが、黙ったまま見つかったらどうする。アメリカが写真を掲げる。世界はその写真を見る。俺たちの言葉より先に、敵の言葉が走る。その時、キューバは自分の島について、自分の言葉を持てるのか。」
フィデルは椅子に座らなかった。窓の外を見たまま、煙草を一本取り出した。火はつけない。
ラウルが見てきたのは、盾の鍵だった。
ゲバラが問うているのは、盾の名前だった。
フィデルは二人の言葉を、別々に受け取った。
国を守るには、鍵が必要だ。
革命を守るには、名前が必要だ。
だが今、キューバにはどちらも十分にはなかった。
やがてフィデルは言った。
「エルネスト、お前も行け。」
ゲバラは少し目を細めた。
「モスクワか。」
「ラウルは軍を見た。お前は別のものを見る。」
「俺に何を見てこいと言う。」
「すでに盾は来る。そこをひっくり返すためではない。」
フィデルの声は低かった。
「持ち込まれたものを、どう世界に伝えるのか。誰の言葉で発表するのか。キューバが主導する防衛協定なのか、ソ連が秘密裏に置いた基地なのか。そこを問いに行け。」
ゲバラは黙って聞いた。
「それと、もう一つだ。」
フィデルは続けた。
「運用の鍵をすべて取り返せるとは思わない。だが、キューバがただの置き場所ではないことは、向こうに言わなければならない。ここは俺たちの島だ。」
ラウルは、少しだけ息を吐いた。
自分がモスクワで問い、取りきれなかったもの。
それを、ゲバラは別の言葉で問いに行くのだと分かった。
フィデルはゲバラを見た。
「俺は国家として飲む。だが、革命として何を飲んでいるのかは、お前に見てほしい。」
ゲバラは、手元の葉巻を指で転がした。
「俺は、工業相として行くのか。」
「そうだ。」
「兵器の交渉に、工業相を送る。」
「兵器だけの交渉ではない。」
フィデルは即座に言った。
「これは、キューバがどういう国家として世界に立つかの交渉だ。お前は工業を見ている。労働を見ている。人間を見ている。だから行け。」
ゲバラは少しだけ笑った。笑いと言うには、息が短かった。
「また俺を良心にするのか。」
「違う。」
フィデルは灰皿の横に煙草を置いた。
「俺たちの名前を持っていけ。」
その言葉が、ゲバラを動かした。
※※※※※※※※※※
八月の終わり、ゲバラはエミリオ・アラゴネスとともにモスクワへ向かった。
肩書きで言えば、ゲバラは工業相だった。銀行を預かり、工場を見、労働奉仕に立ち、砂糖だけに頼らない国家を作ろうとしていた男だった。軍の代表ではない。だが、彼は革命の顔でもあった。医師であり、ゲリラであり、キューバの外から来てキューバ革命に命を預けた者だった。
エミリオ・アラゴネスは、フィデルに近い男として同行した。ハバナの意志を伝え、モスクワ側の返答を持ち帰るためだった。
この訪問は、ラウルの訪問とは違っていた。
ラウルは、盾の軍事的な骨組みを見に行った。
ゲバラは、すでに動き出した盾の名前を問いに行った。
船は、もう動き始めていた。
港へ向かう計画も、基地を組み立てる手順も、モスクワの机の上ではすでに線になっていた。ゲバラがこれから決めるのは、船の行き先そのものではなかった。問うべきなのは、その線を誰の言葉で世界へ示すのかだった。
ゲバラの見たモスクワは、ラウルの見たモスクワとは違っていた。
もちろん、同じ街だった。広い通り、灰色の建物、軍服、党の旗、磨かれた床、長い廊下。だが、ゲバラの目に映ったのは、軍事力だけではなかった。
国家として完成した社会主義が、そこにあった。
工場は動いていた。機械は規則正しく回り、労働者は時間通りに列を作り、会議では計画と成果が語られた。配給、住宅、教育、重工業、防衛。すべてが巨大な表の中に置かれ、数字になり、次の数字へ接続されていく。
ゲバラはそれを軽んじなかった。
資本主義の下で、数えられないまま死んでいく人間を、彼は見てきた。南米の鉱山で、労働者は肺を削られながら名前を失っていた。療養所では、患者が川の向こうへ追いやられていた。土地を持たない農民は、病気より先に諦めを覚えた。
国家が病院を作り、学校を作り、機械を作り、軍を持つ。
それは必要だった。
夢だけで子どもは食えない。愛だけで薬棚は満たせない。
だが、モスクワの社会主義には、遠さがあった。
ゲバラは、ある会議で、厚い眼鏡をかけた官僚が工業生産の数字を読み上げるのを聞いていた。通訳が滑らかに訳す。数字は正確だった。紙は整っていた。出席者たちは頷いた。
その時、ゲバラはふと、ラサロの包帯を思い出した。
皺の寄った包帯。
患者の腕に触れる若い手。
ドロレスばあさんが、薬を若者へ残そうとした声。
鉱山で咳き込む男。
雨の中で裸足の子どもを抱く母親。
彼の社会主義は、そこから始まっていた。
官僚組織ではなく、人間から。
計画表ではなく、傷口から。
国家の達成ではなく、名もない者が自分の命を安く見積もらなくてよくなるところから。
モスクワでは、人間が計画の中へ入っていく。
ゲバラの社会主義では、計画が人間のところへ降りてこなければならなかった。
会議が終わると、ソ連側の担当者が笑顔で握手を求めた。
「キューバの同志たちのために、われわれは最大限の努力をしています。」
ゲバラは握手を返した。
「感謝している。」
それは嘘ではなかった。
だが、感謝と不安は、同じ胸の中に並ぶことがある。
※※※※※※※※※※
別の会議で、ゲバラは秘密配備について問うた。
部屋には地図があった。ラウルが見たものと同じような地図だった。キューバはやはり小さく、アメリカはやはり大きかった。違っていたのは、ゲバラが地図の上の島を、ただの島として見られなかったことだった。
そこには、ラサロがいた。
ドロレスばあさんがいた。
砂糖黍畑の農民がいた。
診療所の棚があった。
「秘密にするべきではない。」
ゲバラは言った。
通訳がその言葉を訳すと、ソ連側の男たちは表情を変えずに聞いた。
「置くなら、防衛協定として発表すべきだ。キューバはアメリカに脅かされている。ピックス湾があった。破壊工作がある。禁輸がある。だからキューバは、主権国家としてソ連の支援を受ける。そう言うべきだ。」
フルシチョフは、大きな手を机の上で組んだ。
「完成前に発表すれば、アメリカは妨害します。」
「発見されれば、もっと悪い。」
「発見されないように進めます。」
ゲバラは、机の上の地図を見た。
「世界は、俺たちの言葉ではなく、アメリカの言葉でこれを知ることになるかもしれない。」
「完成していれば、彼らは事実を受け入れるしかありません。」
「完成する前に見られたら。」
ソ連側の沈黙は、ラウルが聞いたものと同じだった。答えは用意されている。だが、不安を消す答えではない。
ミコヤンが、穏やかな声で言った。
「同志ゲバラ、これはキューバを守るためです。われわれは、アメリカの侵攻を止めたい。あなた方と同じです。」
ゲバラはその男を見た。
「同じなら、なぜキューバの言葉で語らせない。」
通訳が訳したあと、部屋の空気が少しだけ重くなった。
ゲバラは続けた。
「問題は、どこに置くかだけではない。誰の言葉で置くかだ。ソ連が置いた、と世界が聞くのか。キューバが受け入れた、と世界が聞くのか。それで意味は変わる。」
フルシチョフの表情は変わらなかった。
「政治には、順序があります。」
「革命にも順序はある。だが、人間に説明できない秘密を抱えた社会主義は、人間を守る前に人間から離れる。」
「あなたは理想を語っている。」
「違う。現実を語っている。アメリカは写真を使う。言葉を使う。恐怖を使う。俺たちが先に言葉を持たなければ、奴らの言葉で世界が決まる。」
フルシチョフは、しばらくゲバラを見た。
「完成までは沈黙が必要です。」
その一言で、会議は実質的に終わった。
ゲバラは、それ以上押さなかった。
押しても動かないものがある。
そして、その動かないものが国家というものなのだと、彼は知っていた。
※※※※※※※※※※
帰りの機内で、ゲバラは窓の外を見ていた。
モスクワで決まったことは、単純ではなかった。
ラウルの訪問で、盾は受け入れられた。
その承認を受けて、鉄道が動き、船が出た。
ゲバラの訪問で、その盾の名前をキューバのものにしようとした。
だがモスクワは、完成まで沈黙を選んだ。
雲の下に、海がある。
その先に、キューバがある。
さらに北には、アメリカがある。
彼はモスクワを憎んではいなかった。ソ連の支援がなければ、キューバは追いつめられる。石油、機械、部品、兵器、砂糖の買い手。島を国家として生かすには、モスクワの肺で呼吸しなければならない時が来ている。
それでも、胸の奥に違和感は残った。
社会主義は、誰のためにあるのか。
会議室の数字のためではない。
党の書類のためでもない。
兵器を運ぶ船のためでもない。
人間が、自分の命を安く見積もらなくていい世界を作るためだ。ドロレスばあさんが薬を若者に譲ろうとしなくていい世界。ラサロが、包帯か銃かで揺れなくていい世界。鉱山で咳き込む男が、代わりはいくらでもいると言われない世界。
ゲバラは、眼鏡を外して目を閉じた。
核は、知られて初めて盾になる。
知られなければ、まだ盾ではない。
それは島の奥に置かれた火薬にすぎない。
そして、知られる前に見つかれば、どうなる。
キューバは「自分を守るために置いた」と語る前に、アメリカの写真で世界へ晒される。革命の言葉より先に、敵の言葉が走る。防衛協定ではなく、秘密基地として語られる。主権ではなく、陰謀として語られる。
その時、キューバは自分の島について、自分の言葉を持てるのか。
機体がわずかに揺れた。
ゲバラは窓の外を見た。雲の切れ間に、暗い海が見えた。
盾は来る。
だが、その盾を世界へ見せる言葉は、まだキューバの手になかった。
核戦争という言葉がリアリティがありすぎた時代、ある意味キューバは東側の期待の星でもありました。
しかし、小国が脚光を浴びるのと自分たちの望む社会を作っていくことはまた別だったかもしれません。
※更新は、月・木・土曜日(朝・夜)二回の週4話です。
次回は、土曜日の朝投稿予定です。
【お知らせ】長編のエピソードになると思わず連載を開始したので、今、前半を大幅改稿しました。
改稿後はボリュームが二倍以上になり背景もわかりやすく史実に寄せてます。(初めはヒューマンドラマを描く予定でした。)
改稿したものはタイトルに改稿としています。ぜひお読み下さい。(日本編の前まで改稿です!)
ジャンルもヒューマンドラマから歴史へ。
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