163,包囲網の中の人々、そしてソ連の提案
カリブ海の奥地にあるキューバ。
アメリカは前面禁輸という圧力をかけてきます。
傀儡政権時代の秩序を取り戻し、以前のキューバに戻すという目的。しかし、他の中南米と違い割れないキューバ。
アメリカの100マイル程度先の社会主義国家。明確な出口がないまま、圧力だけが強くなりキューバ国民を苦しめていきます。
二つの帝国のあいだ
アメリカは、ピックス湾で知った。
キューバの革命政権と直接ぶつかることは、簡単な警察行動ではない。海岸に部隊を上げ、亡命者を前に立て、短い時間で政権を倒すはずだった計画は、革命軍と民兵の抵抗によって崩れた。敗北そのものよりも、アメリカにとって深刻だったのは、あの小さな島が倒れなかったという事実だった。
アメリカの喉元で、革命政権が生き残った。
だからアメリカは、戦い方を変えた。
次は正面から来ない。マングース作戦は、キューバの内部へ足を入れる作戦だった。反革命分子を探し、亡命者組織を使い、ラジオで不安を流し、港に火種を置き、暗殺の可能性をちらつかせ、政府と人民のあいだに疑いを育てる。
キューバが怒れば、それはアメリカの口実になる。
キューバが耐えれば、内部から疲れていく。
そして一九六二年二月、アメリカは禁輸に踏み込んだ。
砂糖の売り先を狭め、部品の流れを鈍らせ、薬や試薬や機械の入手を難しくする。アメリカのキューバへの攻撃は、軍事侵攻の一歩手前まで来ていた。砲弾ではなく、港と銀行と書類と噂で、政権の瓦解を狙う段階に入ったのである。
禁輸の波紋は、キューバの国民をじわじわと追いつめていた。
それでも、人民はまだ立っていた。
だが、その足元は、少しずつ削られていた。
※※※※※※※※※※
ゲバラは、ハバナの街を歩いていた。
護衛は少なかった。秘書のセリアなら顔をしかめるだろうと思ったが、彼はあえて車を長く使わなかった。窓越しでは、街の疲れは分からない。報告書の文字では、人民の顔に浮かぶ一瞬のためらいは見えない。
配給所の前には列があった。
女たちが袋を持ち、子どもたちが壁にもたれている。男たちは煙草を吸いながら順番を待っていた。誰も暴れてはいない。列は崩れていない。だが、冗談のあとに沈黙が長くなっていた。
一人の老人が、ゲバラに気づいて帽子を取った。
「司令官。」
ゲバラは足を止めた。
「今日は何を待っている。」
老人は、列の先を見た。
「米と油です。あれば、ですが。」
そばにいた女が、慌てて老人の腕をつついた。
「余計なことを言わないの。」
ゲバラは女を見た。
「余計なことではない。」
女は目を伏せた。怒っているのではない。怖がっているのでもない。ただ、言葉の置き場所を失っていた。
「足りないものは足りないと言えばいい。」
ゲバラが言うと、老人は小さく笑った。
「足りないものを言い始めたら、列がもう一本できますよ。」
周りで笑いが起きた。
乾いた笑いだったが、まだ笑いだった。
ゲバラはその笑いを聞いた。革命は、勝利の叫びだけで支えられるものではない。こんな列の中で、腹を立てながらも冗談を言う人間の粘りで支えられている。
だが、粘りにも限界がある。
列の後ろで、若い男が言った。
「アメリカは、俺たちを腹から締めるつもりなんだ。」
別の男が答えた。
「なら、こっちも何か締め返せばいい。」
「何を?」
「マイアミにいる連中の首でも。」
近くの女が、声を低くした。
「やめなさい。聞かれているかもしれない。」
その一言で、列の空気が変わった。
敵は海の向こうにいる。だが、疑いは列の中にも入ってきていた。
ゲバラは、何も言わずに列を離れた。
※※※※※※※※※※
診療所の薬棚は、さらに軽くなっていた。
ラサロは、包帯を巻いていた。手つきは前より確かになっている。傷口を見て、患者の顔色を見て、きつく巻きすぎないよう指を差し込む。その動きには、少年の慌てた軽さではなく、見習い医療者の慎重さがあった。
ゲバラは、しばらく黙って見ていた。
「上手くなったな。」
ラサロは顔を上げた。
「本当ですか。」
「少なくとも、患者を包帯で殺す心配は減った。」
患者の男が笑った。
ラサロも笑ったが、すぐに外へ目を向けた。診療所の外では、若者たちが集まっていた。民兵の訓練帰りなのか、肩に木銃を担いだ者もいる。声は抑えていたが、怒りは隠れていなかった。
「昨夜、また放送があった。」
「マイアミの犬どもだ。」
「港の火事だって、どうせあいつらだろう。」
「診療所で待っているだけでは、何も守れない。」
その声に、ラサロの手が止まった。
ゲバラは言った。
「手を止めるな。」
ラサロは包帯を巻き終えた。患者が出ていくと、外の若者の一人が診療所へ入ってきた。頬がこけ、目だけが熱を持っていた。
「司令官、犯人を探すべきです。」
ゲバラは彼を見た。
「誰の犯人だ。」
「港の火事です。薬が来ないのも、部品が止まるのも、全部つながっている。島の中に手引きしている奴がいるはずです。」
「証拠は。」
若者は黙った。
「噂で人を捕まえれば、敵が欲しがっている島になる。」
ゲバラの声は静かだった。
「疑いだけで走れば、次は隣人を敵にする。アメリカはそれを待っている。」
若者は唇を噛んだ。
「では、僕たちは何をすればいいんですか。」
ラサロが、薬棚の前で小さく言った。
「薬箱が空になるのを見ているだけですか。」
ゲバラは、すぐに答えられなかった。
棚の中には、空いた場所があった。瓶の形だけが埃のない跡として残っている。そこに本来あるべき薬の名を、ゲバラは医師として知っていた。知っているからこそ、何も言えなくなる。
ラサロは続けた。
「山では薬箱を運びました。ここでは包帯を覚えています。でも、アメリカが来るなら、僕は銃を持つべきなんじゃないですか。」
「今は包帯を巻け。」
ゲバラは言った。
その言葉は強かったが、彼自身にも十分ではなかった。
ラサロは頷いた。
「はい。」
しかし、その目は外を向いていた。
ゲバラは、彼を責められなかった。
この若者の手を診療所に残したい。傷を縫い、熱を測り、包帯を巻く手として育てたい。だが、島が追い込まれれば、その手は銃を持つ。ラサロが望むからではない。そうしなければ守れないと思わされるからだ。
それこそが、真綿の戦争だった。
人間から、選択肢を奪っていく。
※※※※※※※※※※
世界地図の上で見れば、キューバは小さかった。
フロリダの南、カリブ海に浮かぶ細長い島。砂糖、港、葉巻、音楽、海。長いあいだ、北の大国にとってそこは裏庭だった。守るべき相手ではなく、管理すべき場所。尊重する国家ではなく、都合よく安定していればよい島だった。
だが、ピックス湾はその見方を変えた。
侵攻の直前、カストロは革命の社会主義的性格を宣言した。戦いの中で、キューバはアメリカが支えた侵攻を退けた。しかも、ソ連軍が直接戦ったわけではない。カリブの小国が、自分たちの民兵と革命軍で、アメリカの計算を押し返した。
その事実は、モスクワにも届いた。
キューバは、ただの砂糖の島ではなくなった。
アメリカの喉元に成立した革命政権になった。
それは、冷戦の地図を塗り替えるに足る出来事だった。ヨーロッパの分断、ベルリンの壁、トルコやイタリアに置かれたアメリカのミサイル、東西に割られた世界。その地図の端にあったはずのカリブ海が、突然、中心へ近づいた。
ソ連にとって、キューバは守る価値のある同盟になった。
同時に、使う価値のある場所にもなった。
革命は、自分たちの島を取り戻すために始まった。だが大国の地図に載った瞬間、島は自分たちだけの島ではいられなくなる。
カストロも、ゲバラも、それを知らないほど若くはなかった。
※※※※※※※※※※
夜、革命宮殿の部屋には、窓の外から遠い車の音が入っていた。
カストロは机の前に立っていた。椅子には座っていない。葉巻も持っていない。机の上には、いつもの報告書が並んでいる。禁輸、港、医薬品、亡命者放送、不審火、民兵の動き。紙の角がそろえられているのは、秘書のセリアの仕事だった。
ゲバラが入ると、カストロは顔を上げた。
「街はどうだった。」
最初の言葉は、それだった。
ゲバラは帽子を脱ぎ、机の端に置いた。
「耐えている。」
カストロは黙って続きを待った。
「だが、耐えているだけだ。配給の列では冗談を言っている。診療所では包帯を巻いている。工場では止まりかけた機械を動かしている。みんな仕事を捨ててはいない。だが、どこに行っても同じ顔を見る。」
「どんな顔だ。」
「怒っているのに、まだ怒ることを怖がっている顔だ。」
カストロは、少しだけ目を伏せた。
ゲバラは続けた。
「禁輸が続けば、危険水域に入る。薬箱が空になれば、怒りはアメリカだけに向かない。政府にも向く。隣人にも向く。噂にも向く。若者たちは診療所より銃を見るようになる。」
「ラサロか。」
カストロが名を出した。
ゲバラは頷いた。
「彼だけではない。ああいう若者が増えている。撃ちたいわけではない。何かしなければ、自分が無力だと感じるんだ。」
カストロは、窓の外を見た。
「マングースは、よくできた名前だ。獣は小さい。だが、家の中に入る。」
「毒も運ぶ。」
ゲバラは言った。
「毒の種類は分かる。だが、どの傷口から入ったか分からない。」
カストロは、しばらく黙った。
部屋には、紙の匂いがあった。湿った夜の空気と混じり、妙に重かった。
やがてカストロは言った。
「モスクワから、秘密裏に提案があった。」
ゲバラは目を細めた。
「武器か。物資か。」
「それより重い。」
カストロは椅子に座らなかった。立ったまま、机の上の一枚の紙に指を置いた。
「内容が内容だけに、まずお前の意見を聞きたい。」
ゲバラは、カストロを見た。
それは閣僚への根回しではなかった。会議で反対を減らすための準備でもない。カストロの声には、政治家としての計算より、もっと深い覚悟があった。
「何だ。」
カストロは、短く言った。
「核だ。」
部屋の空気が変わった。
窓の外の車の音が遠くなった。机の上の紙が、急に白く見えた。
ゲバラは動かなかった。
「ミサイルを置くということか。」
「アメリカを抑止するために、キューバに配備する。向こうは、これを盾だと言っている。」
「盾。」
ゲバラは、その言葉を口の中で噛んだ。
「都市を焼くものを、盾と呼ぶのか。」
カストロは反論しなかった。
ゲバラは、机に近づいた。
「通常兵器ではない。戦車でも、対空砲でもない。核だ。あれは兵器ではない。人間というものへの侮辱だ。」
カストロは、静かに言った。
「お前は広島を見た。」
ゲバラの目が一瞬だけ動いた。
広島。
石段。焦げた衣服。川へ逃げた人々の話。説明する者の声。言葉が、意味より先に喉で止まる感覚。戦争が終わったあとも、人間の身体に残り続ける見えない火。
ゲバラは低い声で言った。
「見た。だから言う。核は革命の武器ではない。人民を解放しない。街を消すだけだ。」
「分かっている。」
カストロの声は、変わらなかった。
「分かっているなら、なぜ聞く。」
「この島が潰れれば、人民も守れない。」
カストロは、ようやく椅子に座った。深く腰を下ろしたのではない。すぐ立てるような座り方だった。
「アメリカは、ピックス湾で退いた。だが、次はもっと大きく来るかもしれない。禁輸で締め、工作で疑わせ、若者を怒らせて、こちらが先に撃つのを待っている。俺たちが耐え続けても、いつか向こうが理由を作る。」
「だから核か。」
「だから盾がいる。」
「それは盾ではない。モスクワの剣だ。」
ゲバラの声が強くなった。
「アメリカの帝国主義から逃げるために、ソ連の地図へ載せられるのか。俺たちは、ワシントンの裏庭でなくなるために戦った。モスクワの前哨基地になるためではない。」
カストロは、そこで初めて強く頷いた。
「その通りだ。」
ゲバラは黙った。
カストロは続けた。
「俺たちはアメリカの植民地に戻らない。だが、ソ連の基地になるために革命をしたわけでもない。俺はモスクワを楽園だと思っていない。向こうも大国だ。大国は、助ける時にも地図を見る。」
「なら断れ。」
「断れるほど、この島は安全か。」
ゲバラは答えなかった。
カストロの目が、まっすぐ彼を捉えていた。
「今日、お前は街を見た。配給の列を見た。診療所を見た。ラサロを見た。もし次の侵攻が来れば、あの若者たちは銃を持つ。診療所の手が、海岸へ行く。」
「それでも核は違う。」
「違う。だからお前を呼んだ。」
カストロは言った。
「俺は、これを会議にかける前に、お前の目で見たい。国家としては検討しなければならない。だが、革命として越えてはいけない線なら、俺は断る。」
ゲバラの顔に怒りが浮かんだ。
「俺を良心として使うな。」
「使っているのではない。」
カストロは、すぐに返した。
「信じている。」
その言葉は、命令より重かった。
ゲバラは黙った。
カストロが責任を逃がそうとしているのではないことは分かっていた。彼は最後に決める責任を自分で背負う。そのうえで、もしゲバラが革命の道徳として拒むなら、ソ連の提案そのものを断る覚悟で聞いている。
それは、相談ではなかった。
共同で罪を薄めるための確認でもなかった。
カストロは、道徳の線をゲバラに預けていた。預けたうえで、その線が引かれれば、自分の国家判断を曲げるつもりでいた。
だから痛かった。
カストロにとっては、国を守るための可能性を、ゲバラの拒絶によって手放す痛みだった。
ゲバラにとっては、自分の拒絶がこの島の防衛を狭めるかもしれないという痛みだった。
勝手に決めたと怒ることができない。
知らなかったと逃げることもできない。
ゲバラは、ゆっくりと言った。
「今は、同意できない。」
カストロは頷いた。
「分かった。」
「それでも検討は続けるのか。」
「続ける。アメリカは待ってくれない。」
カストロは紙を伏せた。
「だが、お前が最後まで拒むなら、俺はこの島にそれを置かない。会議にもかけない。」
ゲバラは、信じたくなかった。
信じれば、自分もその決断の一部になる。
だが、カストロは本気だった。
※※※※※※※※※※
その夜、ゲバラは革命宮殿を出たあと、診療所へ寄った。
灯りは落ちていた。廊下には消毒液の匂いが薄く残っている。奥の部屋で、誰かが咳をした。椅子の上には畳まれた白衣があり、机の端には包帯が置かれていた。
ラサロは眠っていなかった。
診療所の裏口近くに立ち、外を見ていた。遠くでは、民兵訓練の帰りなのか、若者たちの低い話し声がしている。
ゲバラは近づいた。
「どこへ行く。」
ラサロは振り返った。
「どこにも。」
「嘘をつくな。」
ラサロは目を伏せた。
「少し、話を聞きに行こうと思っただけです。」
「銃の話か。」
ラサロは答えなかった。
ゲバラは、彼の横に立った。夜の空気は湿っていた。海から来る風の中に、遠い街の匂いが混じっている。
「今は戻れ。」
ラサロは、しばらく動かなかった。
「先生。」
「何だ。」
「僕が包帯を巻いている間に、誰かがこの島を壊しに来たら、どうすればいいんですか。」
ゲバラは、夜の暗がりを見た。
その問いに、昼なら怒鳴れたかもしれない。医療者は患者を見ろ、と。目の前の傷を放り出すな、と。
だが夜には、答えが少し違って聞こえた。
「それでも、まず包帯を巻け。」
ゲバラは言った。
「人間は、守るものがあるから銃を持つ。銃を持つために人間になるわけではない。」
ラサロは、その言葉を理解しようとしている顔をした。
「分かりました。」
完全には分かっていない声だった。
それでも彼は裏口から離れ、診療所の奥へ戻っていった。
ゲバラは、ラサロの背中を見送った。細い肩だった。まだ、銃より薬箱の方が似合う背中だった。
だが、島が追い込まれれば、あの背中は前線へ向く。
ゲバラは核を拒んだ。
広島の沈黙は、彼の中から消えない。
ソ連の地図にキューバを載せることも、まだ認められない。
それでもその夜、彼の耳に残ったのは、遠い都市の焼け跡ではなかった。
診療所の廊下を歩いて戻る、若者の足音だった。
日本編でも描いたようにゲバラは核兵器の非人道的な性質に嫌悪感をもっていました。
しかし、国民の困窮の中卑劣な圧力をかけるアメリカに対しての盾の必要性感じ葛藤します。
次回史実ギリギリで作った寓話です。
ソ連の提案をゲバラとカストロはどう受け止めるのか?
※更新は、月・木・土曜日(朝・夜)二回の週4話です。
次回は、月曜日の夜、投稿予定です。
【お知らせ】長編のエピソードになると思わず連載を開始したので、今、前半を大幅改稿しました。
改稿後はボリュームが二倍以上になり背景もわかりやすく史実に寄せてます。(初めはヒューマンドラマを描く予定でした。)
改稿したものはタイトルに改稿としています。ぜひお読み下さい。(日本編の前まで改稿です!)
ジャンルもヒューマンドラマから歴史へ。
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