162,マングースの牙そして
ピックス湾事件の敗北のあとアメリカは方針を変え小さな工作活動を繰り返していきます。
CIAが主導した通称「マングース作戦」
兵糧責めや小さな工作をしてキューバを追い詰めるアメリカ。
当時の中南米ではよくある光景でした。
ピックス湾で、アメリカは負けた。
だが、敗北は撤退を意味しなかった。軍隊を海岸に上げるやり方が失敗しただけで、キューバ革命を潰すという目的は変わっていない。カストロの政府を倒し、中南米の人々が「あの小さな島にもできた」と思う前に、前例そのものを壊す。そのために、アメリカは戦い方を変えた。
今度は、砂浜から来ない。
砂糖の売り先を狭める。船会社をためらわせる。銀行の書類を止める。部品を届きにくくする。薬を足りなくする。マイアミの亡命者組織に金と声を与え、ラジオで不安を流し、倉庫に火を入れ、食事や葉巻や移動経路にまで疑いを差し込む。
キューバが怒って撃てば、アメリカは世界に向かって言える。
あの島は危険だ。あの政権は攻撃的だ。だから正式に軍事力で抑えなければならない。
反発すれば、口実になる。黙れば、生活が削られる。
畑が削られ、工場が削られ、診療所が削られ、学校が削られる。ようやく自分たちのものになりかけた歌まで、少しずつ声を落としていく。
キューバは袋小路に入っていた。まだ大国と正面から戦いきる自信はない。だが、もう二度と従属の島へ戻るつもりもない。怒りと恐怖を同じ胸に抱えたまま、国は歯を食いしばることを覚え始めていた。
それが、ピックス湾の後に始まった戦争だった。
銃声の代わりに、紙が来る。
砲弾の代わりに、噂が来る。
軍靴の代わりに、空になった薬箱が来る。
真綿は、毎日少しずつ締まっていった。
※※※※※※※※※※
歌は、まだ消えていなかった。
村の夜にはギターの音があり、工場宿舎では、油の匂いが残る手を洗った若者たちが酒瓶を囲んでいた。ハバナの路地でも、窓の奥から小さな歌声が漏れていた。
それは、外から来た客のための歌ではなかった。ホテルのロビーでチップを待ちながら鳴らす音でも、賭博場のざわめきを飾るための音楽でもない。南の島は陽気でなければならないと信じている観光客へ向けた、作り笑いの伴奏でもなかった。
畑から戻った者が、自分の疲れをほどくために歌う。工場で働いた者が、自分たちの夜を取り戻すために声を合わせる。子どもを寝かせた女が、台所の戸口で少しだけ旋律を重ねる。
歌は、生活に戻っていた。
ただ、その夜は、同じ部屋にラジオの雑音があった。
古い受信機が、棚の上でかすれた声を吐き出していた。波のような雑音の向こうから、マイアミの亡命者放送が言葉を投げ込んでくる。
カストロは国を売った。キューバはソ連に支配される。薬は政府が隠している。本当の敵はアメリカではない。カストロ政権だ。次は本物の軍隊が来る。
最初、人々は笑った。
「またマイアミの連中か。」
酒を飲んでいた男が言った。別の男が、受信機へ向かって罵声を飛ばした。女たちは、そんな声を聞かせるなと子どもを奥の部屋へ追いやった。
それでも、笑いのあとに一拍の間が空いた。
港の火事を見た者がいた。届くはずの部品が止まったと聞いた者がいた。診療所の薬が足りないことを知っている者もいた。誰かがアメリカの名を口にすると、別の誰かが、声を落とせと言った。
歌は止まらなかった。
ただ、歌う者たちは、戸口の暗がりや窓の外を気にするようになっていた。そこに敵がいるわけではない。それでも疑いは、いつの間にか歌の合間に座り込んでいた。
陽気だから歌っているのではなかった。
黙れば、もっと怖くなるから歌っていた。
※※※※※※※※※※
革命宮殿の机の上には、報告書が積まれていた。
秘書のセリアは、それを一枚ずつ並べた。急いではいない。乱暴でもない。彼女の手つきは静かで、だからこそ紙の一枚一枚が重く見えた。
港湾労働者への接触。小型船の目撃。マイアミの亡命者組織。旧バチスタ派の資金。ラジオ放送の強化。不審火。製糖所の故障。医薬品の遅延。暗殺情報。CIAに近い人物との接触。アメリカ側の新しい作戦。
カストロは、最初の数枚を黙って読んだ。
ゲバラは窓辺に立っていた。外からは、遠い車の音と、どこかの店から漏れる音楽が聞こえていた。紙の上の世界と窓の外の世界が、同じ街にあるとは思えなかった。
秘書のセリアは、最後の紙を上に置いた。
「これは偶然の寄せ集めではありません。」
カストロは顔を上げた。
「アメリカです。直接か、亡命者組織を通じてか、事件ごとに手は違います。ですが、方向は一つです。この島を内側から疲れさせることです。」
室内が静かになった。
カストロは、机の上の紙を指で軽く叩いた。
「犯人が分かっていても、火をつけた手まで捕まえられない。そういう戦争か。」
ゲバラが言った。
「毒の種類は分かる。だが、どの傷口から入ったか分からない。」
秘書のセリアは、別の紙を差し出した。
「作戦名も、入っています。」
カストロはそれを読んだ。
マングース。
小さな獣の名だった。
ゲバラは短く息を吐いた。
「かわいらしい名前をつける。」
「かわいらしいものほど、隙間に入り込む。」
カストロは低い声で言った。
ピックス湾で敗れたアメリカは、諦めたのではない。旗を立てて海岸から来るやり方をやめただけだった。これからは、倉庫、ラジオ、港、薬箱、人の不安から入ってくる。
秘書のセリアは、続けて別の報告を出した。
「食事、葉巻、車、演説会場、移動経路。すべて確認が必要です。」
カストロは葉巻に伸ばしかけていた手を止めた。
「葉巻までか。」
「葉巻までです。」
「俺は、アメリカでなく毒入り葉巻に殺されるのか?」
セリアは笑わなかった。
「冗談にしていいものと、してはいけないものがあります。」
カストロは葉巻を机に戻した。ゲバラは、その動きを見ていた。人間が日常の中で疑わずに触れるものへ、戦争が入り込んでいる。食べること、吸うこと、車に乗ること、人前で話すこと。そのすべてが、確認の対象になっていた。
「他には。」
ゲバラが聞いた。
秘書のセリアは少し間を置いた。
「海もです。」
カストロが顔を上げた。
「海?」
「未確認情報ですが、潜水具に細工する案まであります。毒、病原菌、皮膚を侵すもの。確証は薄いです。ですが、発想としてはある。」
カストロはしばらく黙った。
海は、島の外側ではなかった。キューバにとって海は、身体の一部だった。漁師が出る場所であり、港へ物資が入る道であり、かつて亡命者も、革命家も、侵攻部隊も越えてきた境界だった。
「俺は、海まで疑わなければならないのか。」
「はい。」
秘書のセリアは答えた。
「いまは、そういう戦争です。」
ゲバラは、カストロの顔を見た。
ピックス湾では、海から敵が来た。敵は見えた。撃てばよかった。守ればよかった。勝敗も見えた。しかし今は、海そのものに毒を疑わなければならない。
カストロは報告書へ目を戻した。
「アメリカは、俺たちに先に手を出させたい。」
ゲバラは頷いた。
「我慢せず暴走する。そして撃てば、向こうが欲しがっている絵になる。」
「では撃たずに削られろと言うのか。」
カストロの声に、珍しく苛立ちが混じった。
ゲバラは答えなかった。
二人とも、答えを知っているわけではなかった。ただ、いま怒りに任せて動けば、アメリカはそれを待っていたように軍事力の言葉へ変える。キューバは危険だ。キューバは攻撃的だ。共産主義の前哨基地だ。そう言って、次はもっと大きく来る。
秘書のセリアが、落ちかけた紙を拾い上げた。
それは医薬品の遅延に関する報告だった。
紙は軽かった。
だが、その先にいる子どもの熱は軽くない。
※※※※※※※※※※
港の火は、大きな火ではなかった。
倉庫の一角から煙が出た。最初に気づいたのは、夜番をしていた労働者だった。彼は眠気を追い払うために外へ出て、焦げた匂いに気づいた。
すぐに人が集まった。水を運ぶ者がいた。怒鳴る者がいた。燃え広がらないよう荷を動かす者もいた。何もできず、ただ煙を見ている者もいた。
火は消えた。
死者は出ず、倉庫全体が焼けたわけでもなかった。被害は、数字の上では小さいと記録されるだろう。
だが、焼けたのは物資だった。
砂糖袋の一部が黒く焦げ、港に届いたばかりの部品の箱もいくつか濡れていた。湿った灰の匂いが、海風の中に残った。
カストロが現場に着いたとき、労働者たちはすでに怒っていた。
「事故じゃありません。」
誰かが言った。
「見慣れない男がいました。」
「配線がショートしたと言っている者もいます。」
別の者が言った。
「配線? 都合のいい配線だな。」
群衆の中で笑いが起きたが、すぐに消えた。
誰も、本当のことは分からなかった。配線かもしれない。港に紛れ込んだ工作員かもしれない。金を受け取った労働者かもしれない。亡命者組織の手かもしれない。海の向こうで計画され、島の中の誰かが火をつけたのかもしれない。
それでも、なぜこの火が必要だったのかは分かっていた。
物資を燃やし、遅れを作り、怒りを作る。政府への不満を育て、キューバ人にキューバを疑わせる。そのための火だった。
ゲバラは、焦げた砂糖袋の前にしゃがんだ。指先で触れると、黒い粉がついた。
朝のサトウキビ畑が、彼の中に戻った。鎌の音、農民の手、自分の畑として雨を心配する顔。その砂糖が、ここで焦げている。
カストロは労働者たちの前に立った。
彼らは何かを待っていた。
アメリカを名指しして怒鳴る言葉。報復を約束する言葉。もう我慢しないという言葉。船を出せ、撃ち返せ、捕まえろ、吊るせ。そう言ってほしかった。
若い労働者が声を上げた。
「やったのは奴らです。アメリカです。マイアミの連中です。何を待つんですか。」
別の声が続いた。
「ピックス湾で勝ったんだ。今度もやれる。」
その声には誇りがあった。だが、同時に焦りもあった。自信があるから怒鳴っているのではない。怖いから、怒鳴っていた。
カストロは、そのことを分かっていた。
彼は焼けた倉庫を見た。焦げた砂糖袋を見た。怒っている労働者たちを見た。
「俺たちは、挑発に乗るために勝ったのではない。」
労働者たちの顔が変わった。
「では、黙っていろと?」
誰かが叫んだ。
カストロは、その声の方を見た。
「黙るのではない。耐える。耐えながら、国を動かす。敵は、われわれに先に手を出させたい。われわれが怒りで撃てば、彼らは世界に向かって言うだろう。見ろ、キューバは危険だ。見ろ、キューバは攻撃的だ。だから潰さなければならない、と。」
「やられっぱなしでいいんですか。」
若い男が言った。
カストロは、すぐには答えなかった。
その問いは、港にいた全員の胸にあった。やられっぱなしでいいのか。悪意が見えているのに、手を出せないのか。相手が望む口実を与えないために、歯を食いしばるしかないのか。
「よくはない。」
カストロは静かに言った。
「だから覚えておけ。誰がやったかを。何を燃やされたかを。どんな顔で耐えたかを。怒りを忘れるな。だが、怒りに操られるな。」
ゲバラは、カストロを見ていた。
カストロは怒っていないわけではなかった。むしろ、誰よりも怒っていた。だがその怒りを、今ここで燃やすわけにはいかないと知っていた。
燃やせば、相手の火になる。
港の煙は、まだ低く漂っていた。
労働者たちは黙った。完全に納得した顔ではなかったが、怒鳴り声は少しずつ消えていった。
その沈黙は、敗北ではない。屈辱だった。
共有された屈辱は、少しずつ人間を一つにしていく。明るい団結ではない。追い込まれ、怒りを飲み込み、同じ方向を見ざるを得なくなる団結だった。
※※※※※※※※※※
製糖所の機械は、また止まりかけていた。
前に届いた部品によって、工場は少し息を吹き返していた。労働者たちは、古い歯車が回る音を聞いて笑った。砂糖を売り、機械を買い、国を動かす。そういう循環が、ようやく形になり始めていた。
だが、部品は続かなかった。
必要な交換部品の箱が港で止まった。別の部品は、船積み前に遅れた。輸送業者が契約をためらった。保険の条件が変わった。銀行の書類が止まった。商社の返事が遅れた。
工場長は、ゲバラに部品リストを見せた。
「これが一つ足りないだけで、機械全体が止まります。」
紙の上には、部品番号と数量が並んでいた。小さな数字だった。だが、その小さな数字がなければ、巨大な機械は動かない。
ゲバラは、工場の中を見た。
労働者たちは苛立っていた。誰も怠けてはいない。むしろ、以前より熱心に働いていた。だからこそ、止まりかける機械が腹立たしかった。
若い労働者が言った。
「また止まるんですか。」
別の者が吐き捨てるように言った。
「アメリカの部品じゃないなら大丈夫だと言っていたじゃないか。」
「日本の機械も来るって話だった。」
「ソ連の部品は合うのか。」
「政府は、ちゃんと分かっているのか。」
その言葉に、ゲバラは反射的に眉をひそめた。だが、叱れなかった。彼らの不満は裏切りではない。生活がかかっている。収穫がかかっている。配給がかかっている。子どもの靴、診療所の薬、学校の机がかかっている。
怒るのは当然だった。
そして、その怒りが政府へ向くように仕組まれている。
ゲバラは、機械の横腹に手を置いた。鉄はまだ温かかった。止まっていても、さっきまで動いていた熱が残っている。
これは事故ではない。政策だ。
部品が来ないようにする政策。砂糖を売りにくくする政策。船が避けるようにする政策。銀行が書類を止めるようにする政策。キューバ人が、自分の工場を信じられなくなるようにする政策。
アメリカの手は、港のクレーンには見えなかった。
だが、止まった機械の中にあった。
工場の隅には、ソ連から届いた箱もあった。助かる箱だった。なければ、もっと早く止まっていた。だが、ゲバラはその箱を見るたびに、別の不安も覚えた。
アメリカの締めつけから逃れるために、キューバはソ連の手を取っている。砂糖を買い、信用を与え、武器を送るその手は、今の島には必要だった。だが、大国の手は、助ける時にも地図を広げる。
キューバはアメリカの所有物ではない。
だからといって、モスクワの持ち物になるために革命をしたわけでもない。
ゲバラは工場長に言った。
「動かせるところまで動かせ。」
「それで壊れたら?」
「止めても壊れる。動かしても壊れる。なら、動かして壊れた方がましだ。」
工場長は苦笑した。
「医者の言葉ではありませんね。」
「医者なら、もっとひどいことを言う。死ぬ前に歩け、と。」
工場長は短く笑い、すぐに労働者たちへ指示を出した。
工場にまた音が戻った。完全な音ではない。どこか欠けた、苦しそうな音だった。
それでも、機械は動いた。
ゲバラは、その音を聞きながら思った。
耐えるとは、何もしないことではない。止められた部品の前で、動かせるものを動かし続けることだ。
勝利より地味で、ずっと苦しい。
※※※※※※※※※※
ラジオの声は、夜ごとに入り込んだ。
政府は薬を隠している。カストロは国を売った。ソ連はキューバを利用する。アメリカはキューバ人を憎んでいるのではない。カストロ政権を憎んでいるだけだ。ゲバラは外国人だ。外国人が、キューバの子どもを戦争へ送る。
完全な嘘だけではなかった。
だから嫌らしかった。
薬は実際に足りなかった。ソ連は確かに大国だった。ゲバラは確かに外国人だった。アメリカは、自分たちはキューバ人民の敵ではないと言いたがった。
嘘は、事実の欠片を混ぜると強くなる。
村の男たちは、最初は笑い飛ばした。
「カストロが薬を隠すなら、あの髭の中にでも隠しているんだろう。」
誰かが言い、笑いが起きた。
だが翌日、診療所で熱を出した子どもに薬が足りなかった。畑で怪我をした男に、消毒液を節約しなければならなかった。工場の部品がまた止まった。
そうなると、昨日笑った言葉が、耳の奥に少し残った。
政府は本当に全部を知っているのか。幹部には食料があるのではないか。ソ連に頼れば本当に助かるのか。アメリカとここまで対立して、勝てるのか。
誰も大声では言わなかった。
配給の列で人々の顔が少し硬くなった。診療所の待合で、誰かが別の誰かの言葉を疑うようになった。港の労働者は、見慣れない男だけでなく、よく知る同僚の動きまで気にするようになった。
密告という言葉が、まだ声にならないまま、人々の間を歩き始めた。
マングースの足音は、派手ではなかった。
小さく、低く、隙間に入る。
※※※※※※※※※※
診療所の薬棚は、また空き始めていた。
少し前に整えた棚には、空いた場所が目立つようになった。薬瓶の数を数える若い医師の指が、以前より早く動く。数えるものが少ないからだった。
ラサロは、患者の腕に包帯を巻いていた。
前より上手くなっている。
ゲバラは、それに気づいた。強すぎず、弱すぎず、傷の位置を見て、患者の顔色も見ている。山で薬箱を運んでいた少年は、少しずつ医療者の手を覚え始めていた。
だが、その目は落ち着かなかった。
外から、民兵訓練の声が聞こえていた。銃の扱いを教える声、足並みを揃える音、号令、短く響く返事。
ラサロの手が、一瞬止まった。
「手を止めるな。」
ゲバラが言った。
ラサロは慌てて包帯を巻き続けた。
「はい。」
患者が出ていったあと、診療所の奥で若い見習いたちが集まっていた。港の火事の話をしている。マイアミの放送の話もしている。彼らは声をひそめていたが、怒りは隠せていなかった。
「診療所で待っているだけでは、何も守れない。」
誰かが言った。
「敵がいるなら捕まえるべきだ。」
別の者が応じた。
「アメリカが来るなら、その前にこちらも準備しないと。」
ラサロは黙って聞いていた。
ゲバラが近づくと、若者たちは口を閉じた。ラサロだけが、薬棚の前に立ったまま動かなかった。空いた棚を見て、それから外の訓練の音を聞いた。
「先生。」
「何だ。」
ラサロは、すぐには言わなかった。
ゲバラは薬瓶を整理しながら待った。
「僕は診療所にいた方がいいんでしょうか。それとも、銃を持った方がいいんでしょうか。」
ゲバラの手が止まった。
診療所の中には、消毒液の匂いがあった。待合には、まだ患者がいた。熱を出した子どももいる。畑で怪我をした男もいる。老女が咳をしている。
薬が足りないから、ラサロは必要だった。医師が足りないから、見習いの手も必要だった。包帯を巻く若者が一人増えるだけで、助かる人間がいる。
だが、アメリカが来ればどうなる。
もし次の侵攻が、ピックス湾より大きかったら。正面から来たら。本物の軍隊が来たら。
ラサロのような若者たちは、診療所ではなく前線へ行く。
ゲバラは、それを知っていた。
だからこそ即答できなかった。
ラサロは、言葉を続けた。
「山では薬箱を運びました。ここでは包帯を覚えています。でも、外の声を聞くと、僕だけここにいていいのかと思うんです。」
ゲバラは、少し強い声で言った。
「今は包帯を巻け。」
ラサロは背筋を伸ばした。
「はい。」
「銃を持つかどうかは、今考えるな。目の前の傷を見ろ。」
「はい。」
ラサロは頷いた。
だが、その目はまだ外へ向いていた。
ゲバラは、それを責められなかった。
この少年に、傷を縫うことだけを覚えさせたい。だが、この少年が銃を持たなければならない日が来るかもしれない。その可能性を作っているのは、この診療所ではない。ラサロでもない。キューバの未熟さだけでもない。
海の向こうの大国だった。
ゲバラは薬棚を閉じた。
棚の中で、瓶が軽い音を立てた。
※※※※※※※※※※
グラナードの研究室にも、影は入っていた。
机の上に、空の試薬瓶が並んでいた。顕微鏡の部品は届かず、学生たちは古い器具を何度も修理して使っていた。黒板には授業の予定が書かれているが、その横に小さく「延期」と書き足された文字があった。
ゲバラが部屋へ入ると、グラナードは机に座り、手紙を読んでいた。
「また誰か来られなくなったのか。」
ゲバラが聞くと、グラナードは手紙を畳んだ。
「中南米から来る予定だった若い研究者だ。家族に止められた。危ないから行くな、と。」
「間違ってはいない。」
「だから困る。」
グラナードは、空の試薬瓶を指で押した。瓶は軽く転がり、机の端で止まった。
「病院を壊すには、爆弾はいらない。医者を育てる場所へ試薬を送らなければいい。」
ゲバラは何も言わなかった。
「今日届かない試薬で、今日死ぬ患者はいない。顕微鏡の部品が来なくても、明日の新聞には載らない。だが、医者を育て損ねた国では、十年後に確実に人が死ぬ。誰も、その死を今日の書類の遅れと結びつけない。」
ゲバラは、部屋の中を見た。
学生たちは、まだ机を運んでいた。古い顕微鏡を直し、足りない器具を別の器具で代用しようとしている。窓の外では、誰かが荷物を落として悪態をつき、別の学生が笑っていた。
始まりの熱は、まだあった。
だが、その熱の周りに冷たい手が伸びている。
「アメリカはよく分かっている。」
ゲバラは言った。
「何を?」
「人間を殺さなくても、未来を殺せることだ。」
グラナードは、しばらく黙った。
「その言葉は、医者としては聞きたくないな。」
「俺も言いたくない。」
グラナードは空の瓶を立て直した。
「ソ連からの薬や器材が来るなら、受け取るべきだ。今は選り好みしている場合じゃない。」
「分かっている。」
ゲバラは短く答えた。
「だが?」
「だが、俺たちは反帝国主義者だ。アメリカの帝国から逃げるために、別の帝国の棚へ並べられるなら、それは勝利ではない。」
グラナードはゲバラを見た。
「ソ連を帝国と言うのか。」
「大国は、どこも地図を持っている。アメリカはその地図でわれわれを砂糖と基地と賭博場にした。モスクワが同じようにしない保証はない。」
「それでも、今はモスクワの船が必要だ。」
「だから苦しい。」
ゲバラは机の上の空瓶を見た。
「薬が必要だ。部品が必要だ。武器も必要になるかもしれない。だが、必要なものを受け取るたびに、われわれが何のために革命をしたのかを忘れるわけにはいかない。」
グラナードは笑わなかった。
「お前が忘れないなら、まだましだ。」
「俺一人が覚えていても足りない。」
「なら、カストロにも覚えさせろ。」
ゲバラは少しだけ笑った。
「彼は、俺より忘れにくい顔をしている。」
グラナードは肩をすくめた。
「なら、二人で忘れるな。」
ゲバラは答えなかった。
外では学生たちがまた机を動かしていた。古い木の脚が床をこすり、ぎい、と音を立てた。
未来は、そんな音で少しずつ作られる。
そして、そんな音から先に締められていく。
※※※※※※※※※※
夜、革命宮殿でカストロとゲバラは向かい合っていた。
机の上には、報告書があった。港の火、部品の遅れ、薬不足、亡命者放送、暗殺情報、研究室の試薬不足、全面禁輸に向けたアメリカ側の動き。
紙は、日々増えていた。
カストロは、疲れた顔をしていた。だが、眠そうではなかった。目だけが冴えていた。
「ピックス湾の方が、まだ分かりやすかった。」
彼は言った。
ゲバラは椅子の背にもたれず、少し前のめりで座っていた。
「敵が見えたからな。」
「今も見えている。アメリカだ。」
カストロは、報告書の山を見た。
「だが、手が見えない。だから撃てない。」
ゲバラは頷いた。
「撃てば、敵が欲しがっている絵になる。」
二人は黙った。
その沈黙は、怒りを失った沈黙ではなかった。むしろ、怒りが大きすぎて、すぐ言葉にできない沈黙だった。
カストロは窓の外を見た。
「敵は、われわれを飢えさせたいだけではない。飢えた人民に、われわれを憎ませたいんだ。」
ゲバラは、机の上の紙を見た。
「銃ではなく、薬瓶と部品と噂で人間を殺す戦争だ。」
「殺すだけではない。疑わせる。」
カストロは言った。
「自分の政府を疑わせる。隣人を疑わせる。歌を疑わせる。葉巻を疑わせる。海を疑わせる。」
ゲバラは、海という言葉に反応した。
「君が海を疑うのは、想像しにくいな。」
「俺もだ。」
カストロは苦笑したが、すぐに表情を戻した。
「海まで疑わなければならない国を、自由な国と言えるのか。」
ゲバラは答えなかった。
自由とは何か。
旗を掲げることだけではない。日常の中に安心して手を伸ばせることでもある。食事を疑わず、葉巻を疑わず、薬箱を空にせず、港の火を偶然として処理できることでもある。
その日常が、真綿で絞められていた。
カストロは言った。
「耐えるしかない。」
ゲバラは、すぐには答えなかった。耐えるより動く方が性に合っている。怒りを行動へ変える方が、ずっと分かりやすい。だが、今は動けば敵の口実になる。
「耐えるだけでは、国は守れない。」
ゲバラが言うと、カストロは頷いた。
「だから準備する。耐えながら、動かす。畑を、工場を、診療所を、学校を。敵は、われわれが怒りで先に斬りかかることを待っている。」
「斬らなければ、削られる。」
「斬れば、潰される。」
二人はまた黙った。
答えは、まだなかった。
カストロは、机の端に置かれたソ連製の機械部品の報告に目をやった。
「モスクワは助けてくれる。」
ゲバラは、その言い方を聞き逃さなかった。
「助けるだけではない。」
カストロは頷いた。
「分かっている。ソ連も大国だ。われわれの砂糖だけを見ているわけではない。アメリカの喉元にあるこの島を、彼らが地図の外に置くはずがない。」
「それでも頼るのか。」
「頼らなければ、明日の薬も部品も足りない。」
カストロは、ゲバラを見た。
「だが、頼ることと、所有されることは違う。」
ゲバラは静かに言った。
「違うと、こちらが思っているだけかもしれない。」
「だから、忘れるな。」
カストロの声は低かった。
「われわれは、アメリカの植民地に戻らない。だが、ソ連の前哨基地になるために革命をしたわけでもない。この島は、われわれの島だ。」
ゲバラは、カストロを見た。
その言葉は強かった。だが、強い言葉ほど、現実に試される。薬箱が空になり、部品が止まり、港が燃え、若者が銃を見始める時、主権という言葉は机の上ではなく、誰かの身体の重さとして問われる。
カストロは、報告書を閉じた。
「アメリカは、われわれに袋小路を見せている。怒れば潰す。黙れば締める。なら、われわれは第三の道を探さなければならない。」
ゲバラは言った。
「第三の道は、たいてい地図の上にはない。」
「だから作る。」
カストロは短く答えた。
その自信が、ゲバラには時々腹立たしく、同時に必要だった。
※※※※※※※※※※
一九六二年二月。
その紙が来たとき、部屋は妙に静かだった。
秘書のセリアが、いつものように報告書を持ってきた。だが、その日の紙は、これまでの報告とは違った。不審火でも、噂でも、亡命者の動きでも、未確認の暗殺情報でもなかった。
アメリカが、キューバとの全面的な貿易停止へ動いた。
影だったものが、国家の言葉になった。
カストロは紙を読んだ。ゲバラは、その横に立っていた。秘書のセリアは、机の前で待っていた。
誰もすぐには話さなかった。
全面禁輸。
言葉は短かった。だが、その中には、彼らが地方で見てきたすべてが入っていた。
サトウキビ畑、製糖所の機械、自分たちのために戻った歌、診療所のラサロ、グラナードの研究室、中南米の知識人たちの希望。薬箱、部品箱、試薬瓶、港、配給、夜の酒、子どもの熱。
それらが、同じ紙の上で締められていた。
カストロは、ようやく口を開いた。
「彼らは、はっきりさせた。」
その声には怒りがあった。だが、叫びではなかった。
「われわれを倒すためなら、子どもの薬も、工場の部品も、砂糖の売り先も、同じ紙の上で締める。」
ゲバラは紙を見た。
これまで、敵は手を隠していた。亡命者を使い、噂を使い、火を使い、遅れを使い、不安を使っていた。
だが、ここでは隠れていなかった。
アメリカという国家が、紙の上でキューバの首を絞めていた。
ゲバラは、広島を思い出しかけた。
まだ、その記憶は遠かった。だが、どこかでつながり始めていた。
大国は、言葉を持っている。安全保障、秩序、自由、未来、抑止、制裁。そういう言葉で、人間の身体に触れずに、人間の生活を壊すことができる。
爆弾だけが暴力ではない。
紙もまた、暴力になる。
秘書のセリアが静かに言った。
「これで、言い逃れは少なくなりました。」
カストロは首を振った。
「言い逃れは残る。彼らはいつも人民を愛していると言う。憎んでいるのは政権だけだと言う。だが、政権だけを締める縄などない。縄は、先に子どもの喉へ触れる。」
ゲバラは、その言葉を聞いてラサロを思い出した。
診療所で、包帯を巻いていた手。外の民兵訓練へ向いた目。診療所にいた方がいいのか、銃を持った方がいいのかと聞いた声。
まだ、彼は診療所にいる。
だが、いつまでいられるのか。
ゲバラは紙から目を離した。
「これで、向こうの狙いははっきりした。」
カストロは頷いた。
「こちらを怒らせる。飢えさせる。疑わせる。先に動かせる。」
「そして、こちらが動けば言う。」
ゲバラは続けた。
「キューバは危険だ、と。」
「そうだ。」
カストロは紙を机に置いた。
「だから、まだ斬らない。」
その言葉は、部屋の中で重く落ちた。
斬らない。
それは臆病ではない。
だが、臆病でないと知っていても、苦しかった。
カストロは外を見た。
「耐えることでしか、見せられない強さもある。」
ゲバラは答えなかった。
彼は、耐えるという言葉をまだ好きになれなかった。
※※※※※※※※※※
その夜も、人々は歌っていた。
村の酒場に、工場宿舎に、ハバナの路地に、収穫を終えた家の前に、誰かのギターがあった。酒もあり、冗談もあり、子どもを叱る母親の声もあった。
歌は、まだ生活の側にあった。
ただ、その周りには話し声が増えていた。港の火事、部品の遅れ、診療所の薬、禁輸の噂、マイアミの放送、アメリカの名前。誰かが声を荒げると、別の誰かが手で制した。
大きく言うな。
聞かれているかもしれない。
向こうは、こちらが怒るのを待っている。
それでも歌は続いた。
陽気だからではない。
まだここにいると、互いに確かめるためだった。
革命宮殿の窓辺で、カストロはその遠い音を聞いていた。ゲバラは机の上の紙を見ていた。秘書のセリアは、また新しい報告書を整理していた。
敵は見えていた。
アメリカだった。海の向こうにあり、マイアミに声を持ち、亡命者に手を持ち、禁輸の紙に国家の印を持っていた。
だが、斬ればこちらが悪者になる。
だからキューバは、怒りを飲み込みながら、国になるしかなかった。明るい団結ではない。追い込まれた者たちが、同じ屈辱を抱えることで生まれる団結だった。
ピックス湾で敗れた敵は、今度は海から来なかった。
人々が取り戻し始めた生活の中へ、静かに手を入れてきた。
マングース作戦のあと全面禁輸。
しかし圧倒的な大国との戦力差の前にひたすら耐えることを選びます。
キューバの反撃はまだ先になります。
※更新は、月・木・土曜日(朝・夜)二回の週4話です。
次回は、本日夜、投稿予定です。
【お知らせ】長編のエピソードになると思わず連載を開始したので、今、前半を大幅改稿しました。
改稿後はボリュームが二倍以上になり背景もわかりやすく史実に寄せてます。(初めはヒューマンドラマを描く予定でした。)
改稿したものはタイトルに改稿としています。ぜひお読み下さい。(日本編の前まで改稿です!)
ジャンルもヒューマンドラマから歴史へ。
よろしければ、ブックマーク/感想/★で応援してもらえると励みになります。




