161,砂糖と酒と歌、そして再会。かすかなマングースの足跡。
アメリカの傀儡国家時代のキューバの農業は日本の戦前と同じように多くは小作でした。違いは土地を持つものの多くが外国資本だった点です。
革命政権の農地解放は、日本のそれと同じように自分で耕す土地を自分たちで管理する姿に戻す政策でした。
アメリカの半植民地からの解放、そしてピックス湾の勝利は農民の自信にも繋がります。
この話では、ピックス湾以降のつかの間の平和を描きます。
そして、この頃ゲバラと南米旅行をしたアルベルト・グラナードがキューバに招かれます。是非前半のモータサイクル・ダイヤリーズ編を読み返してください。
ピックス湾の砂は、まだ兵士たちの靴の底に残っていた。
ハバナの街にも、地方の村にも、勝利の熱は残っている。民兵たちは英雄のように迎えられ、銃を担いだ若者たちは胸を張って歩いた。母親たちは息子の無事を確かめるたびに泣き、父親たちは酒を飲みながら、あの上陸部隊がどれほど愚かだったかを何度も語った。
だが、国は勝利の話だけでは動かない。
畑は待ってくれなかった。
工場は待ってくれなかった。
学校も、診療所も、港も、配給所も、明日の食卓も、勝利の余韻が冷める前から人間の手を求めていた。
動員は終わりつつあった。
銃を持っていた男たちが、鎌を持ち直した。トラックの荷台で眠っていた若者が、今度はサトウキビを積むために同じ荷台へ上った。銃油の匂いが残る手で、労働者たちは古い機械の歯車を拭いた。
国民そのものが、急に別の人間になったわけではない。
怠ける者はいた。
文句を言う者もいた。
配給の列で割り込もうとして怒鳴られる者もいた。
夜の酒が抜けないまま畑に来て、妻に耳をつねられる男もいた。
だが、どこかが少し違っていた。
人々は、自分たちが守った国へ戻ってきた。
それは、小さな違いだった。だが、朝の光の中では、その小さな違いが人間の表情を変えていた。
※※※※※※※※※※
サトウキビ畑に、朝が来た。
葉の先に残った露が、低い光を受けて細く光っていた。畑の向こうには、まだ薄い霧が残っている。トラックのエンジンが咳き込むように鳴り、荷台では若者たちが眠そうな顔で鎌を持っていた。
カストロは、畦道の途中で車を降りた。
すぐに農民たちが集まってきたが、彼は大きく手を振っただけで演説はしなかった。畑へ入り、手袋もしないまま土をすくった。黒く湿った土が、彼の指の間から落ちた。
ゲバラは少し後ろで、その様子を見ていた。
「まだ眠そうな顔が多いな。」
ゲバラが言うと、カストロは土を払いながら笑った。
「革命は、朝に強い人間だけで作るものではない。」
「それでは効率が悪い。」
「そうだ。だが、効率のいい国にしたいなら、俺たちはもっと別の政権を作っていた。」
近くで聞いていた農民の一人が笑った。
彼は年配の男で、麦わら帽子のつばが汗と泥で変色していた。笑ったあと、すぐに真面目な顔に戻り、畑を見た。
「今年は、ちゃんと刈りきらないといけません。雨が遅れたら困る。」
その言い方に、ゲバラはわずかに耳を留めた。
以前なら、その男は収穫の心配をしていただろう。だが、それは生活のためであって、畑そのものの心配ではなかったかもしれない。土地は、誰か別の者のものだった。自分はそこで働くだけだった。収穫が悪ければ飢える。収穫が良くても、豊かになるとは限らない。
しかし今、男は畑を自分の家族の誰かのように見ていた。
カストロも、それに気づいていた。
彼は農民たちの手を見た。鎌を持つ手。爪の間に土が入った手。ピックス湾で銃を持っていた手。配給の袋を運び、子どもの頭を撫で、夜には酒瓶を持つ手。
「国民が変わったわけではない。」
カストロは、ゲバラにだけ聞こえる声で言った。
「だが、責任を持った人間は少し変わる。自分の畑だと思えば、雨の見方も変わる。」
ゲバラは答えなかった。
畑の向こうで、若い男が鎌を振るった。サトウキビが音を立てて倒れた。その音を聞いて、別の者が声を上げた。冗談が飛び、誰かが怒鳴り返し、また笑いが起きた。
革命は、人間を清らかにする魔法ではない。
だが、人間が自分の働く場所を、自分のものとして心配するようになる。それだけで、世界は少し変わるのかもしれなかった。
カストロは畑を見渡した。
「この砂糖が、機械になる。薬になる。学校の机になる。銃にもなる。だが、最初はここだ。」
「砂糖に戻ったな。」
ゲバラが言った。
「この島では、いつも砂糖に戻る。」
カストロは笑わずに答えた。
「だからこそ、砂糖が誰のものかを変えなければならなかった。」
ゲバラは、倒されたサトウキビの束を見た。
以前で訪れた農園の男が、権利証を手に震えていたことを思い出す。土地を渡された喜びより、また奪われるかもしれない恐怖が先に立っていた男。
あの恐怖は、まだ消えていないだろう。
だが、この朝の畑には、別のものも生まれていた。
自分の土地を心配する者の顔。
自分の収穫を待つ者の身体。
自分の国のために汗を流していると信じ始めた者の、少し不格好な誇り。
ゲバラは、煙草を取り出しかけてやめた。
朝の畑には、煙より土の匂いの方が似合っていた。
※※※※※※※※※※
製糖所の門をくぐると、油の匂いと甘い糖蜜の匂いが混じっていた。
前に来たとき、工場は動いていたが、無理をしているように見えた。古い機械は唸り、ベルトはきしみ、労働者たちは足りない部品を工夫で補っていた。
今も、すべてが解決したわけではない。
だが、その日は門のそばに木箱が積まれていた。
箱にはロシア語の文字があり、チェコ語らしい印字もあった。別の箱には、港で貼られた紙の上に、日本から届いた機械部品であることを示す記載があった。労働者たちは、それらの文字を読めなかったが、箱の中身には興味津々だった。
若い労働者が工具を一つ持ち上げ、仲間に見せびらかした。
「見ろ。アメリカ製じゃないのに、ちゃんと重いぞ。」
「重ければいいってものじゃない。使えるかどうかだ。」
「使えるかは、お前の腕次第だ。」
笑いが起きた。
カストロは、そのやり取りを見ていた。彼は箱の文字を一つ一つ眺め、工場長の説明を聞いた。部品の数は十分ではない。技師も足りない。輸送も遅れる。約束されたものがすべて届くとは限らない。
それでも、箱はそこにあった。
アメリカが世界の扉を閉めようとしても、世界のすべてが同じ鍵で閉まるわけではなかった。
「アメリカだけが世界ではない。」
カストロが言った。
ゲバラは、木箱に貼られた紙を見た。港の湿気を吸って端がめくれている。
「世界が広いのはいい。だが、広い世界はいつも親切とは限らない。」
「親切でなくていい。取引できればいい。」
「砂糖を売って、鉄を買う。」
「そうだ。砂糖を売って、鉄を買う。鉄を動かして、また砂糖を作る。国は演説だけでは動かない。」
カストロは労働者たちへ向き直った。
「この機械を大事に扱え。これはただの鉄ではない。砂糖を売って、この国が引き寄せた時間だ。」
労働者たちは、彼の言葉を聞いた。
大きな歓声は起きなかった。工場では、演説より機械の音の方が強い。だが、若い労働者の一人が、油で黒くなった手を工具箱の上に置いた。別の者が、古い機械の横腹を軽く叩いた。
「時間なら、止めるわけにはいきませんね。」
誰かが言い、今度は小さな笑いが広がった。
機械が動き始めた。
古いベルトが回る。
金属がきしむ。
歯車の音が工場の壁に反響する。
糖蜜の匂いが強くなる。
ゲバラは、その音を聞いていた。
工場の音は美しくはない。
むしろ、荒く、うるさく、身体に響く。
だが、その音は、国が動いている音だった。
以前で、カストロは言った。砂糖を作る者が、砂糖の国の主人になる。それが革命の意味だと。
その言葉は、まだ完全な現実ではない。官僚の手違いもある。輸送の遅れもある。機械を扱う技術も足りない。計画はしばしば遅れる。
それでも、機械の前に立つ労働者たちの表情は、少し違っていた。
彼らは、誰かの工場で働いているだけではなかった。
自分たちの国の古い心臓を、どうにか動かそうとしていた。
ゲバラは言った。
「この工場に詩はないな。」
カストロは、油の匂いの中で笑った。
「あるさ。お前が気づかないだけだ。」
「どこに。」
「止まりかけた機械を、明日も動かそうとする手に。」
ゲバラは肩をすくめた。
「君は何でも演説にする。」
「お前は何でも診断にする。」
二人は、しばらく機械の音を聞いていた。
※※※※※※※※※※
その夜、村では歌が始まった。
最初は、誰かが冗談半分に声を出しただけだった。畑から戻った男たちが酒を飲み、女たちが鍋を片づけ、子どもたちが眠るにはまだ早い時間だった。工場から戻った若者の一人が、空になった箱を椅子代わりにして、古びたギターを抱えた。
弦は少し狂っていた。
それでも、最初の音が鳴ると、誰かが笑った。
次に、別の男が手を叩いた。
女が歌詞を直し、老人が昔の歌を口ずさんだ。
ゲバラは、少し離れたところに立っていた。
カストロはすでに輪の中にいた。誰かに肩を叩かれ、何かを言われて笑い返している。彼はこういう場所に入るのがうまい。大統領宮殿でも、農民の台所でも、工場の食堂でも、彼は自分の声の大きさをほとんど変えずに人々の輪へ入っていける。
ゲバラには、それができなかった。
彼はアルゼンチン人だった。キューバの歌をすべて知っているわけではない。冗談の細かい意味も、ときどき分からない。人々がどの歌詞で笑い、どの節で少し声を低くするのか、その理由をすべて知っているわけではなかった。
だが、この夜の意味は分かった。
キューバには、もともと音楽があった。
ホテルのロビーに。
カジノの奥に。
浜辺の酒場に。
リゾート客が夜を楽しむための舞台に。
外から来た客は、陽気な島を求めた。
酒と踊りと女と賭博と、笑顔の男たち。
金を払う者たちの気分をよくするために、キューバ人は歌い、演奏し、踊った。
その音楽にも誇りはあった。腕もあった。歌い手は本物で、演奏者たちの技術も本物だった。人々は、生きるために、家族を食わせるために、自分たちの才を磨いていた。
だが、その歌には、いつも誰かの視線が混じっていた。
客を喜ばせるための笑顔。
チップをもらうための軽口。
島の貧しさを、南国の陽気さで覆うための音。
外の者が見たいキューバを、キューバ人が演じる夜。
今、村に鳴っている歌は違った。
誰かの機嫌を取るためではない。
アメリカ人観光客の気分をよくするためでもない。
賭博場の喧騒を飾るためでもない。
畑から戻った男が、自分の疲れをほどくために歌っている。
工場で油まみれになった若者が、仲間と酒を飲むために歌っている。
子どもを寝かせた女が、台所の戸口で少しだけ声を重ねている。
老人が、もう客のためではなく、自分の若いころを思い出すために歌っている。
歌は、見世物から生活へ戻っていた。
ゲバラは、そのことに気づいた。
革命は、人間から酒を奪うものではない。
歌を奪うものでもない。
笑いをきれいに並べ直すものでもない。
むしろ、働いた後に、自分の疲れを自分の歌でほどくこと。
誰かに見せるためではなく、そこにいる者たちのために声を出すこと。
それは、政治の言葉よりずっと古い自由かもしれなかった。
カストロが輪の中からゲバラを見つけ、手招きした。
ゲバラは首を振った。
カストロは何か大げさに言い、周囲が笑った。たぶん、アルゼンチン人は踊りを知らない、という類の冗談だろう。ゲバラは聞こえないふりをした。
近くにいた老人が、ゲバラへ小さな杯を差し出した。
「司令官、飲みなさい。見ているだけでは、歌は分からん。」
「俺は酒はのまないから――。」
ゲバラは杯を押しつけられた。ラムの匂いが強かった。
「いや、やはり飲めない。」
「そうか。残念だ。こんなうまい酒はないぞ。」
老人は当然のように言い笑う。
ゲバラも少し笑った。
歌は続いていた。
その歌の中に、政治理論はなかった。
だが、ゲバラはそこに、理論だけでは作れない何かを見ていた。
昼に汗を流す。
夜に歌う。
自分たちの畑、自分たちの工場、自分たちの国の話を、冗談と酒で包みながら語る。
それが続くなら、この革命は紙の上だけのものではなくなる。
ゲバラは、輪の中にいるカストロを見た。
カストロは、この島の内側にいる。
自分は、まだ少し外にいる。
だが、外にいるからこそ見えるものもあった。
キューバは、演説の中だけではなく、夜の歌の中で少しずつ変わり始めていた。
※※※※※※※※※※
翌日の診療所は、白い壁に新しい石灰が塗られていた。
それでも、建物そのものは粗末だった。屋根の一部は古く、雨が降れば水が染みるだろう。椅子は足りず、机の脚には板がかませてある。薬棚には、まだ空いた場所が多かった。
だが、前よりは少し整っていた。
包帯の箱がある。消毒液の瓶がいくつか並んでいる。熱を下げる薬も、わずかだが入っていた。若い助手が二人、診察室と待合の間を行き来している。
ゲバラは薬棚を開け、瓶の数を見た。
「少しは増えたな。」
若い医師が頷いた。
「はい。ただ、十分ではありません。昨日の夜も、子どもが三人、熱を出しました。畑で怪我をした男もいます。包帯はいくらあっても足りません。」
「足りないと言えるだけ、前よりはいい。」
ゲバラは瓶を戻した。
「前は、足りないものを数える棚すらなかった。」
医師は少し笑った。
そのとき、診察室の奥で若い見習いが包帯を巻いていた。患者は腕を切った農民で、見習いは真剣な顔で包帯をぐるぐると巻いている。
だが、巻き方が悪かった。
ゲバラは眉をひそめた。
「おい。」
見習いが顔を上げた。
その顔を見て、ゲバラは少し黙った。
どこかで見た顔だった。
まだ幼さが残っているが、目元に覚えがあった。山の中で、泥にまみれて走っていた少年。薬箱を背負い、弾薬箱を持ちたがり、叱られていた少年。
「お前、どこかで見た顔だな。」
見習いは、驚いたあと、照れたように笑った。
「山で、あなたの薬箱を運びました。ラサリートです。」
ゲバラは、記憶の中から名前を引き出した。
「ラサリート……あの、薬箱より銃を持ちたがっていた小僧か。」
周囲の者たちが笑った。
見習いは耳まで赤くなった。
「今はラサロです。まだ見習いですが。」
「兵士にはならなかったのか。」
ゲバラが聞くと、ラサロは一瞬だけ患者の腕を見た。包帯の端を押さえながら、少し真面目な顔になった。
「なりたかったです。ピックス湾の時も、銃を持ちたいと言いました。でも後ろへ回されました。」
「賢い判断だ。」
「悔しかったです。」
「それも賢い。」
ラサロは笑いかけて、すぐに表情を戻した。
「でも、あなたに憧れていました。」
「俺に?」
「はい。銃も持てて、傷も縫える人になりたかったんです。撃つだけでは、革命は終わらないと思いました。」
診療所の中が、少し静かになった。
ゲバラは、ラサロを見た。
少年は、もう完全な子どもではなかった。だが、まだ大人でもない。山で薬箱を運んでいた頃の幼さが残り、同時に、新しい国で何者かになろうとする焦りがあった。
銃を持つこと。
傷を縫うこと。
国を守ること。
人を救うこと。
ラサロの中では、それらはまだ分かれていない。
ゲバラは、少し困ったように視線を落とした。ラサロの巻いた包帯が目に入る。
「まず、包帯から覚えろ。」
「はい。」
「そんな巻き方では、敵より先に患者が降伏する。」
診療所に笑いが起きた。
患者の農民まで笑い、ラサロは慌てて包帯をほどき始めた。
ゲバラは横に立ち、手本を見せた。
「強く巻きすぎるな。血が止まる。弱すぎれば落ちる。傷を見ろ。包帯を見るな。相手の顔も見ろ。痛ければ、顔に出る。」
ラサロは真剣に頷いた。
「はい。」
「革命も同じだ。」
ゲバラは、つい言ってしまってから、少しだけ自分で嫌そうな顔をした。
若い医師が笑った。
「司令官まで演説を包帯にするようになりましたね。」
「カストロの悪い病気が移った。」
ラサロが、今度は丁寧に包帯を巻いた。
患者が顔をしかめなかったのを見て、ゲバラは小さく頷いた。
「少しはましだ。」
ラサロは、ほっとしたように笑った。
その笑顔を見て、ゲバラは一瞬、山の中の少年を思い出した。弾薬箱を持ちたがり、薬箱を背負わされ、不満そうに走っていた小さな背中。
その少年が今、診療所で包帯を巻いている。
革命は、銃を持つ者だけでは続かない。
撃った後に、傷を縫う者がいなければならない。
そして、傷を縫う者を育てる国でなければならない。
ゲバラは、ラサロの手元を見ながら、そのことを思った。
※※※※※※※※※※
ハバナに戻ると、ゲバラは医学部の古い建物へ向かった。
廊下には湿気がこもっていた。窓は開け放たれているが、風は弱い。部屋の中では、学生たちが机を動かしていた。壁には解剖学の図が貼られ、机の上には古い顕微鏡、試薬瓶、学生名簿、地方医療派遣の計画書が並んでいた。
そこは、まだ整った研究室とは呼べなかった。
足りないものばかりだった。
顕微鏡は古い。
試薬は少ない。
椅子は揃っていない。
黒板には前の授業の文字が消え残っている。
だが、そこには熱があった。
診療所では、今いる患者を救う。
ここでは、まだ見ぬ患者を救うための医者を育てる。
その部屋の奥で、男が顕微鏡を調整していた。
背中を見ただけで、ゲバラは足を止めた。
男は振り向かずに言った。
「お前は、まだ人に無理をさせる顔をしているな、エルネスト。」
ゲバラは少しだけ笑った。
「お前は、まだ人の顔色を見ずに研究室を作る顔をしている。」
アルベルト・グラナードは、ようやく振り向いた。
二人はしばらく見合った。
南米を走った若い日々が、一瞬だけ部屋に戻った。古いバイク。埃っぽい道。鉱山労働者。ハンセン病療養所。川を泳いだ夜。貧しさを見て怒り、怒りをどうすればいいのか分からなかった頃の二人。
だが、今は違った。
ゲバラは革命の指導者の一人になっていた。
グラナードは研究者として、キューバで医学教育に関わろうとしていた。
「本当に来たのか。」
ゲバラが言った。
「お前が国をひとつ作ると言うなら、学者も必要だろう。」
「俺は国を作ると言った覚えはない。」
「では、壊れた国を直すと言い換えればいい。」
グラナードは顕微鏡のねじを回した。
「ただし、医者を育てるには怒鳴るだけでは足りない。教室がいる。研究室がいる。地味な基礎がいる。革命は、白衣を着た退屈な仕事にも耐えなければならない。俺のような基礎研究をする学者もいる。」
ゲバラは、机の上の試薬瓶を見た。
「制度は、怒りより手間がかかる。」
「昔からそうだ。南米を走っていた頃、お前は怒っていた。鉱山の男にも、病人にも、土地を持たない農民にも。あの怒りを、今度は制度に変える場所ができたんだろう。」
ゲバラは答えなかった。
グラナードは、部屋の中を見回した。
「まだ足りないものだらけだ。教授も、器材も、試薬も、教科書も。だが、ここには始めようとする意志がある。それは、他の国には案外少ない。」
「中南米には、怒りならいくらでもある。」
「怒りはある。だが、場所がない。ここは、場所になりつつある。」
グラナードは、ゲバラを見た。
「中南米の連中は、この島を見ている。鉱山町の医者も、大学の若い教師も、亡命している学生も、みんなだ。大げさに言えば、奇跡を見ている。アメリカの喉元で、小さな島が生き残り、学校を作り、医者を育てようとしている。うまくいくかどうかではない。やろうとしていること自体が、彼らには信じがたい。」
ゲバラは窓の外を見た。
外では学生が何かを運んでいた。重そうな机を二人で抱え、途中でぶつけて悪態をついている。立派な大学の風景ではない。泥臭く、騒がしく、まだ何も整っていない。
だが、そこに始まりがあった。
「奇跡という言葉は嫌いだ。」
ゲバラは言った。
「奇跡は、人間の努力を安くする。」
グラナードは笑った。
「なら、努力が目に見える奇跡だと言い換えればいい。」
「お前は昔から、言葉を少しずるく使う。」
「お前ほどではない。お前は怒りを思想にした。」
「まだ途中だ。」
「知っている。だから来た。」
グラナードは、机の上の名簿を手に取った。
「ここで医者を育てる。地方へ出す。研究者も育てる。中南米からも呼ぶ。キューバ人だけでは足りないなら、傷を見てきた連中を集めればいい。鉱山の肺を知る者。砂糖畑の傷を知る者。貧しい村の熱を知る者。そういう人間が医者を育てる国になれば、この島は本当に厄介な前例になる。」
「厄介か。」
「大国にとってはな。」
ゲバラは、少しだけ笑った。
その言葉は、彼の胸に残った。
キューバは、キューバだけのものではなくなりつつある。
帝国に資源を奪われ、土地を奪われ、労働を安く買われてきた国々の知識人が、この島を見ている。
小さな国が、アメリカのすぐそばで、学校を作り、医者を育て、工場を動かそうとしている。
それは、勝利の宣伝ではない。
前例だった。
前例は、成功すれば危険になる。
失敗すれば笑われる。
だからこそ、見られている。
ゲバラは、グラナードに言った。
「この島は、まだ奇跡ではない。」
「なら、働けばいい。」
「簡単に言うな。」
「簡単ではないことを、簡単に言うために友人がいる。」
ゲバラは呆れたように息を吐いた。
だが、その部屋を出るとき、彼の足取りは少しだけ軽かった。
畑、工場、歌、診療所、研究室。
それらは別々のものではなかった。
キューバは、生活を作り直そうとしている。
しかも、その作り直しを、島の外にいる多くの者が見ている。
査察の帰路でゲバラが感じたことを、グラナードは外から来た友人として言葉にした。
世界の傷ついた国々は、キューバを見ている。
自分たちも変われるかもしれないという、危うい希望として。
※※※※※※※※※※
革命宮殿に戻ると、空気が変わった。
窓の外のハバナには、いつもの湿った熱があった。街はまだ動いている。通りでは車が鳴り、どこかの店から音楽が漏れ、遠くで子どもが笑っていた。
だが、カストロの机の上には報告書が積まれていた。
秘書のセリアが、それを整理していた。彼女は二人が入ってきても、すぐに口を開かなかった。紙を一枚ずつ揃え、重要度の高いものを上に置き、最後にカストロへ差し出した。
「読んでください。」
カストロは受け取った。
ゲバラは、彼の横から紙を見た。
不審火。
亡命者向け放送の活発化。
港湾関係者への接触。
反革命グループの移動。
一部物資の入荷遅れ。
カストロ暗殺の噂。
アメリカ側の新しい計画。
紙の上では、どれも小さな出来事に見えた。
火災は小規模。
放送は噂。
物資の遅れは天候や手続きの問題かもしれない。
港の男に近づいた人物も、ただの商人かもしれない。
暗殺の情報は、どこまで本当か分からない。
だが、並べると別の形になった。
カストロは、報告書を読み終えてしばらく黙っていた。
それから、低い声で言った。
「ピックス湾の次は、海から来ないということか。」
秘書のセリアは、表情を変えなかった。
「はい。今度は、倉庫、ラジオ、港、薬箱、人の不安から来ます。」
ゲバラは、診療所の薬棚を思い出した。少し増えた瓶。包帯の箱。ラサロの不器用な手。患者の腕に巻かれた包帯。
次に、グラナードの研究室を思い出した。古い顕微鏡。少ない試薬。学生名簿。中南米から来るかもしれない研究者たち。
そして、夜の歌を思い出した。
自分たちのために戻ってきた歌。
畑の疲れをほどく声。
リゾート客のためではなく、そこにいる人間のために鳴った音。
それらが、報告書の中で別の意味を帯びていった。
薬箱は、攻撃される場所になる。
部品箱は、止められる場所になる。
研究室の試薬は、届かなくなるかもしれない。
歌の夜には、噂が混じるかもしれない。
カストロは、報告書を机に置いた。
「敵は、われわれが何を作り始めたかを見ている。」
秘書のセリアが答えた。
「はい。そして、どこを削れば人が不安になるかも見ています。」
ゲバラは窓の外を見た。
ハバナの空は、夕方の色へ変わり始めていた。街にはまだ勝利の熱が残っている。人々は、ピックス湾で勝ったことを忘れていない。自分たちの国を守ったという実感も、まだ生きている。
だが、敵も学んでいた。
上陸して来れば、キューバ人は銃を取る。
旗を立てて来れば、民兵は集まる。
船が見えれば、海岸へ走る。
ならば、次は見えない形で来る。
カストロは、葉巻に手を伸ばした。
秘書のセリアが、すぐに言った。
「確認の済んだものだけにしてください。」
カストロは動きを止めた。
それから、ほんの少しだけ苦笑した。
「葉巻までか。」
「葉巻までです。」
ゲバラは、セリアを見た。
彼女は冗談を言っていなかった。
その瞬間、ゲバラは理解した。
戦争は、海だけから来るのではない。
銃弾だけが戦争ではない。
人間が安心して手を伸ばすものへ、疑いを混ぜることも戦争だった。
カストロは葉巻を机に戻した。
「分かった。吸うのはあとにする。」
「あとではなく、確認後です。」
セリアが言い直した。
ゲバラは少しだけ笑った。
カストロも笑いかけた。
だが、その笑いはすぐに消えた。
机の上には、報告書が残っていた。
※※※※※※※※※※
その夜も、人々は歌っていた。
村では、収穫を終えた男たちが酒を飲んでいた。工場宿舎では、油の匂いが残る手を洗った若者たちが、誰かの持ち出したギターに合わせて声を出していた。ハバナの路地でも、どこかの家の窓から歌が漏れていた。
その歌は、外から来た客のための歌ではなかった。
チップのためでもない。
賭博場の明かりを飾るためでもない。
陽気な島を演じるためでもない。
それは、自分たちのために戻ってきた歌だった。
カストロは、窓のそばに立っていた。遠くの音を聞いているように見えた。
ゲバラは机の上の報告書を見ていた。
秘書のセリアは、次の紙を整理していた。
歌は、確かにあった。
畑も、工場も、診療所も、研究室も、確かに動き始めていた。
だが、その同じ夜、革命宮殿の机の上では、別の音がしていた。
紙がこすれる音。
報告書が重なる音。
まだ見えない敵が、生活の中へ指を伸ばしてくる音。
ゲバラは、窓の外の歌を聞いた。
そして、診療所のラサロを思い出した。
銃も持てて、傷も縫える人になりたい。
撃つだけでは、革命は終わらないと思いました。
その言葉は、まだ希望の形をしていた。
だが、ゲバラは知らなかった。
その希望が、やがて別の問いになって戻ってくることを。
まだ、その日は来ていない。
その夜も、人々は歌っていた。
だが革命宮殿の机の上では、歌とは別の戦争が、もう始まっていた。
ピックス湾での勝利は、自分たちの土地を自分たちで運営していくという民族自決の精神を国民に植え付けます。
しかし、つかの間の平穏は、アメリカの工作により次第に蝕まれていきます。
※更新は、月・木・土曜日(朝・夜)二回の週4話です。
次回は、土曜日の朝、投稿予定です。
【お知らせ】長編のエピソードになると思わず連載を開始したので、今、前半を大幅改稿しました。
改稿後はボリュームが二倍以上になり背景もわかりやすく史実に寄せてます。(初めはヒューマンドラマを描く予定でした。)
改稿したものはタイトルに改稿としています。ぜひお読み下さい。(日本編の前まで改稿です!)
ジャンルもヒューマンドラマから歴史へ。
よろしければ、ブックマーク/感想/★で応援してもらえると励みになります。




