159,キューバ~見たピックス湾④~世界地図に浮かぶ島
ピックス湾事件を乗り越えキューバは世界史上に華々しく登場します。
米ソ対立の後に鉄のカーテンと呼ばれる境界のはるか西側、アメリカまで150キロ程度の国に、アメリカの工作を退け社会主義を宣言した国の誕生。
その後の世界への大きな影響の輪郭を今回描きます。
一九六一年四月下旬。
キューバ・ハバナ、革命宮殿。
夜のテラスには、まだ勝利の熱が残っていた。
ハバナの街では、何日経ってもピックス湾の話が尽きなかった。酒場では誰かが戦闘の噂を大げさに語り、工場では労働者たちがラジオで聞いた捕虜の数を言い合い、学校では子どもたちが海から来た敵を棒切れで追い払う遊びをしていた。
革命は、勝った。
その言葉は、街のあちこちで繰り返されていた。
だが、革命宮殿のテラスにいる二人の男は、その言葉を簡単には口にしなかった。
カストロは手すりに片手を置き、暗い海の方角を見ていた。葉巻の火が、夜風の中で小さく赤く光る。ゲバラは少し離れた椅子に腰掛け、まだ火をつけていない煙草を指の間で転がしていた。
「街は、まだ酔っているな。」
ゲバラが言った。
「必要な酔いだ。死者が出た。空港が焼かれた。海から敵が来た。勝利の酒でも飲まなければ、怒りだけが残る。」
カストロは振り返らずに答えた。
「怒りも必要だろう。」
「必要だ。だが、怒りだけの国は長く持たない。勝利を物語に変える時間がいる。誰が何のために戦い、何を守ったのか。そこを曖昧にすれば、勝利はすぐに噂と復讐に変わる。」
ゲバラは煙草を唇へ持っていき、また戻した。
「君はもう次の物語を作っている。」
「作らなければ、向こうが作る。アメリカは、この敗北をただの事故とは扱わない。ソ連も、この勝利をただの祝電では終わらせない。世界中が、ピックス湾に意味をつけ始めている。」
その時、テラスの扉が静かに開いた。
カストロの秘書のセリア・サンチェスが、厚い封筒を抱えて入ってきた。彼女は派手な足音を立てず、しかし部屋の空気を変えるだけの確かな存在感を持っていた。革命の表舞台で演説する人物ではない。だが、記録し、整理し、必要なものを必要な瞬間に差し出すことで、革命政府の呼吸を支えている人物だった。
セリアはテーブルの上に封筒を置いた。
「各国の新聞と、外務関係の報告です。ハバナ、マイアミ、ニューヨーク、ワシントン、ロンドン、パリ、モスクワ、カイロ、ベオグラード、ニューデリー、北京、ハノイ、メキシコシティ、ブエノスアイレス。翻訳できたものからまとめています。」
ゲバラが少し眉を上げた。
「ずいぶん旅をしたな、ピックス湾は。」
セリアは淡々と答えた。
「戦場は狭くても、記事になると世界中へ広がります。」
カストロは封筒を開けた。
中から、新聞の切り抜き、翻訳メモ、電報の写し、赤鉛筆で印をつけられた見出しが出てきた。同じ写真が、国ごとにまったく違う言葉を与えられている。
泥にまみれた捕虜。
煙を上げる船。
演説するカストロ。
銃を持つ民兵。
そこに並ぶ見出しは、一つの事件が一つの意味では終わらないことを示していた。
アメリカの失敗。
共産主義の脅威。
カリブの勝利。
小国の抵抗。ソ連の機会。
第三世界の希望。
ゲバラは一枚を取り上げ、低く笑った。
「俺たちは、ずいぶん忙しい存在になったらしい。」
「忙しくなるのはこれからだ。」
カストロは、新聞の束を指で押さえた。
「勝った国は、勝った理由を世界に説明しなければならない。負けた国は、負けた理由を隠そうとする。どちらも、黙ってはいない。」
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ワシントンにとって、ピックス湾は軍事的敗北である前に、説明不能な敗北だった。
公式には、アメリカは関与していないことになっていた。祖国を取り戻したいキューバ人亡命者たちが、自発的に立ち上がった。自由のための戦いだった。ワシントンは、そういう言葉を用意していた。
だが、作戦が失敗した瞬間、その包装紙は濡れた新聞のように破れた。
飛んだのはB-26だった。
訓練されたのは亡命者部隊だった。
沖合にはアメリカ海軍の影があった。
世界中が、アメリカの指紋を見た。
ワシントンの政府関係者は、この敗北を屈辱として受け止めた。若い大統領の初期外交に傷がつき、CIAの威信は大きく揺らいだ。保守派の新聞は、西半球に共産主義の癌を残したと怒り、フロリダの亡命キューバ人社会では、喪失と怒りが街の空気を重くした。
だが、アメリカは一つではなかった。
大学の食堂で、学生が小さな新聞を広げて笑った。左派雑誌の編集部では、CIAの失敗を痛快だと書く者がいた。公民権運動に関わる若い活動家の中には、自由を語る自国が、他国の政権を当然のように動かそうとしたことに、うんざりしている者もいた。
彼らは、カストロを全面的に信じていたわけではない。
だが、巨大な国が小さな島を動かせると思い込み、その小さな島の湿地で泥を食わされたことには、奇妙な痛快さを覚えた。
同じアメリカの中に、屈辱を感じる者と、痛快さを感じる者がいた。
その分裂こそ、カストロにとって重要だった。
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「アメリカ人にも、俺たちを見て笑う者がいるのか。」
カストロは、ニューヨークの小さな雑誌の記事を読みながら言った。
ゲバラは、別の切り抜きを手に取った。
「俺たちを愛しているからではない。自分の国の傲慢が嫌いだからだ。そこを勘違いすると、こちらが馬鹿を見る。」
「それで十分だ。」
カストロは、葉巻の煙を海へ流した。
「帝国は、外からだけでは割れない。内側にも、必ずひびがある。ひびがあると分かれば、こちらはそこへ声を届けられる。」
ゲバラは頷いた。
「ただし、あの国の政府は別だ。政府は、恥を忘れない。痛快だと笑う学生よりも、屈辱に震える官僚と将軍の方が、次の政策を作る。」
「分かっている。だから喜びすぎるなと、軍には言った。」
カストロは、アメリカの新聞をテーブルに置いた。
「ワシントンは、次にもっと見えにくい手で来る。暗殺、破壊工作、禁輸、外交圧力。彼らは敗北を忘れるのではなく、制度に変える。」
「復讐を制度にする国か。」
ゲバラは薄く笑った。
「厄介だな。」
「だからこちらも、勝利を制度に変える。」
カストロは新聞の束を一つに寄せた。
「演説だけでは足りない。軍だけでも足りない。外交だ。彼らが世界に言い訳を撒くなら、われわれは世界に意味を撒く。」
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モスクワでは、キューバの勝利は祝福された。
だが、それは弟を抱きしめる兄の笑顔だけではなかった。
地図を読む大国の目だった。
フロリダの南、アメリカの喉元。そこにある小さな島が、社会主義を名乗り、アメリカが支援した侵攻を退けた。これは、遠い国で起きた反米運動とは違う。地図上の距離が、すべてを変えていた。
キューバは、ソ連に助けを求めるだけの弱い島ではなくなった。
アメリカの目の前で、アメリカの手を噛んだ島になった。
モスクワにとって、それは友情の対象であると同時に、投資の対象だった。砂糖、石油、兵器、顧問団、貿易協定。紙の上では相互援助と書かれる。演説では同志愛と呼ばれる。
だが、地図の上では違う名を持っていた。
“楔”―アメリカの喉元に刺さった、赤い楔。
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ゲバラは、モスクワからの祝電を指で弾いた。
「急に親切になったな。」
カストロは、祝電の翻訳に目を通してから、テーブルへ置いた。
「こちらの値段が上がったからだ。」
「また商売か。」
「国は商売もする。砂糖だけではない。位置も売る。勝利も売る。こちらの革命を安く買わせる気はない。」
ゲバラは、ようやく煙草に火をつけた。
「モスクワは、理想郷ではない。大国だ。大国は、自分の利益を愛国心のように語る。」
「知っている。」
「知っていて近づくのか。」
「近づく。」
カストロは即答した。
「アメリカを止めるには、こちらにも大きな影がいる。軽い盾では、次は防げない。ソ連を使う。使われる前に、こちらが使う。」
ゲバラは煙を吐いた。
「使い合いだな。」
「外交は、きれいな握手だけではできない。」
「俺は嫌いじゃない。泥臭くていい。」
ゲバラはそう言ったが、その目は笑っていなかった。
ソ連の祝電は、勝利の祝福であると同時に、次の鎖の最初の輪にも見えた。
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ヨーロッパでは、同じ写真が二つの顔で読まれた。
ロンドンの古い外交官は、アメリカの拙劣さに眉をひそめた。秘密作戦をするなら、失敗してはいけない。失敗した秘密作戦ほど、帝国の顔を傷つけるものはない。彼らは、キューバの勝利よりも、アメリカの手際の悪さを見ていた。
パリでは、別の反応があった。
ある新聞は、カリブに危険な共産主義の前哨基地が生まれたと書いた。別の紙面では、小国が帝国の軍靴を止めたと書いた。左派の知識人は、キューバを反植民地主義の新しい象徴として読み、保守層は、植民地の時代が自分たちの思い出したくない過去を掘り返すことに苛立った。
その中には、キューバを遠い新聞記事としてだけ読まない者もいた。
フランスの作家ジャン=ポール・サルトルである。
彼はすでに革命後のキューバを訪れていた。砂糖、港、爆発した貨物船、若い革命政府の熱、そしてカストロとゲバラの言葉を、自分の目で見ていた。ヨーロッパの机の上で革命を語るだけの知識人ではなく、少なくともキューバの湿気と煙草と砂糖の匂いを知っていた。
だからピックス湾の勝利は、彼にとって紙の上の反米事件ではなかった。
あのとき彼が見た、砂糖の上に吹いていた嵐が、ついにアメリカの手を払いのけた出来事だった。
一九六〇年、国連は植民地独立の原則を高らかに掲げたばかりだった。
帝国の時代は、紙の上では終わりを告げ始めていた。
だが、紙の上の原則が現実になるには、泥が必要だった。
ピックス湾の泥は、その紙に重さを与えた。
キューバの勝利は、単に共産主義国がアメリカに勝ったという話ではなかった。植民地、保護国、半植民地、経済支配、軍事基地、砂糖、石油、運河、港。そうした言葉の下に置かれてきた国々が、自分たちの地図を取り戻す物語として読まれ始めた。
古い帝国は、それを不快に思った。
新しい国々は、それを記憶した。
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ゲバラは、パリの記事の端にある名前を見つけた。
「サルトルも、また何か書いているらしい。」
カストロは少し笑った。
「あの男は、砂糖の匂いを覚えている。ヨーロッパの机の上だけで革命を語る連中よりは、少しは現実を見ている。」
「信用はしない。だが、見たものを書ける人間は役に立つ。」
ゲバラは記事を畳んだ。
「ピックス湾を、ただの共産主義の勝利ではなく、砂糖と帝国の問題として読めるならな。」
「ヨーロッパは、俺たちを危険な熱病のように見ている。」
カストロは、フランス紙の別の切り抜きを手に取った。
「古い帝国ほど、独立という言葉を嫌がる。自分の過去を思い出すからだ。」
ゲバラは煙草の灰を落とした。
「ただし、彼らは賢い。アメリカほど単純に怒鳴らない。新聞、銀行、港、保険、貿易、文化。やわらかい手で首を絞める。」
「それも知っている。」
カストロは、ロンドンの新聞を手に取った。
「だから、われわれは一つの敵だけを見ていてはいけない。アメリカは大きすぎて見やすい。だが、世界にはもっと静かな支配もある。」
「革命を国家にすると、敵の種類が増えるな。」
「国家を持たない時は、敵の名前も持てない。敵が増えるのは、自分の名前を持った証拠だ。」
その言葉に、ゲバラは少しだけ笑った。
「面倒な慰めだ。」
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一九六一年の世界は、二つの大国だけでできていたわけではなかった。
米ソ冷戦は、確かに世界を二つに割ろうとしていた。ワシントンか、モスクワか。資本主義か、社会主義か。自由陣営か、人民民主主義か。大国は、自分たちの言葉で世界を整列させようとした。
だが、アジア、アフリカ、中東、ラテンアメリカには、別の言葉を欲しがる国々があった。
第三の道。
非同盟。
民族自決。
植民地から独立したばかりの国々にとって、大国の旗の下に並ぶことは、別の主人を持つことにも見えた。彼らは、援助を必要としていた。兵器も、資金も、技術も必要だった。だが、それでも、自分の国の名前を他人の地図の端に書かれることを嫌がった。
その年の秋、ユーゴスラビアのベオグラードでは、非同盟の国々が集まることになる。
ユーゴスラビアのチトー。スターリンのソ連から距離を取り、独自の社会主義を掲げた指導者。
エジプトのナセル。スエズ運河をめぐって英仏の圧力と戦った、アラブ民族主義の象徴。
インドのネルー。米ソどちらにも完全には寄らない、非同盟外交の理性。
インドネシアのスカルノ。バンドン精神と反植民地主義の熱を体現する男。
ガーナのンクルマ。アフリカ独立の時代を代表する、新しい国家の声。
彼らは同じ思想の人間ではなかった。社会主義者もいれば、民族主義者もいた。理想家もいれば、権力者もいた。だが、彼らには共通する感覚があった。
大国の地図に、自分たちの国を勝手に置かれたくない。
その一点だった。
そこへ、カリブ海の小さな島の名も、無視できないものとして浮かび上がり始めていた。
“キューバ”
アメリカの裏庭で、アメリカの侵攻を退けた国。
その名は、遠い会議室の机の上に置かれ始めた。
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カストロは、地名の並んだ報告書を指でなぞった。
「カイロ、ニューデリー、ベオグラード、アクラ、ジャカルタ。俺たちの島は、ずいぶん遠くまで流れ着いたらしい。」
ゲバラは煙草を口から離した。
「流れ着いたのではない。見つかったんだ。」
「見つかることは、いいことか。」
「革命にとってはいい。国家にとっては、面倒だ。」
カストロは、わずかに笑った。
「お前はいつも、その二つを分ける。」
「分けなければ見誤る。革命は、火を広げたい。国家は、火事を止めたい。同じ手で両方をやるのは難しい。」
「だが、今はやるしかない。」
「そうだ。だから君は、夜ごと葉巻を増やす。」
カストロは葉巻を見た。
「お前は煙草を増やしている。」
「俺は医者だ。自分の体にだけは無責任でいられる。」
二人は短く笑った。
その笑いのあと、カストロはカイロの報告に目を落とした。
「エジプトのナセルは、どう見ると思う。」
ゲバラは椅子に背を預けた。
「スエズを経験した男だ。運河を奪われかけ、帝国の軍事力に囲まれた。彼なら分かる。砂糖でも、運河でも、港でも、帝国は自分のもののように手を伸ばす。その手を払いのけたとき、初めて国は自分の名を持つ。」
「中東は遠いが、似ているな。」
「遠い場所ほど、構造が見えることがある。」
カストロは次に、ニューデリーの紙を見た。
「インドのネルーは、熱狂よりも警戒するだろうな。」
「彼はそういう男だ。小国が大国に噛みつけることは理解する。だが、噛みついた小国が次にどちらの大国の口へ入るのかも見る。」
「痛いところを突く。」
「だから必要なんだ。革命に熱だけをくれる友人より、冷たい警告をくれる距離のある国の方が、役に立つこともある。」
カストロは、ベオグラードの報告書を取り上げた。
「ユーゴスラビアのチトー。」
「ソ連に従わない社会主義者だ。モスクワから見れば厄介者。俺たちから見れば、いずれ学ぶところがある。」
「アメリカにも従わず、ソ連にも従わない。」
「言うのは簡単だ。やるのは難しい。だが、難しいことをやっている国があるなら、見ておく価値はある。」
カストロは、報告書を静かに置いた。
「われわれも、いずれそこを問われるな。ソ連に近づく。だが、ソ連の衛星にはならない。アメリカに対抗する。だが、アメリカと戦うだけの国にもならない。」
ゲバラは頷いた。
「その綱渡りが、これから始まる。」
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中国では、キューバの勝利はソ連の勝利としてだけでは読まれなかった。
中国の毛沢東は、農民と革命戦争によって巨大な国家を変えた指導者だった。北京にとって、ピックス湾は別の意味を持っていた。帝国に囲まれた革命が、民兵と農民と政治の熱で持ちこたえた例。大国の軍事力に対し、人民の動員と革命の意思が抵抗し得るという物語。
だが、中国とソ連のあいだには、すでに見えないひびがあった。
同じ社会主義という言葉を使っていても、そこに込める熱と理屈は違った。モスクワは大国の秩序を語り、北京は革命の継続を語る。カストロとゲバラは、その違いをまだ遠くから見ているだけだったが、いずれそれはキューバにも届くことになる。
ハノイでは、もっと静かだった。
ベトナムのホー・チ・ミンは、フランス植民地支配との長い戦いをくぐり抜け、分断された祖国の統一を目指していた。ベトナムにとって、帝国との戦いは新聞の見出しではなく、生活の中にあった。フランスとの長い戦いがあり、南北に分かれた国土があり、アメリカの影が少しずつ濃くなっていた。
キューバがアメリカを退けたという知らせは、遠い奇跡ではなかった。
いつか自分たちの空にも来るかもしれない爆撃機の影を、少しだけ薄くする知らせだった。
小さな島が帝国を止めた。
その前例は、まだ名前のつかない未来の戦争へ、静かに染み込んでいった。
※※※※※※※※※※
「中国は、俺たちをモスクワの弟分としては見ないだろうな。」
ゲバラが言った。
カストロは、北京からの翻訳メモを読んでいた。
「見ない方がいい。俺たちは誰の弟でもない。」
「その言葉を、モスクワの連中にも聞かせたいな。」
「まだ早い。」
「いずれ聞かせることになる。」
カストロは反論しなかった。
ゲバラは、ハノイに関する小さな記事を指で押さえた。
「ベトナムは、いずれアメリカと正面からぶつかる。」
「なぜそう思う。」
「帝国は、一度足を入れた場所から、簡単には抜けない。フランスが退いた場所に、アメリカが入る。アメリカは自分を植民地主義者とは呼ばないだろうが、現地の人間から見れば、外から来た力であることに変わりはない。」
カストロは、ハノイという文字を見た。
「ピックス湾は、彼らにとって前例になるか。」
「小さな前例だ。帝国は、負けることがある。まずそれを知るだけで、人間は少し強くなる。」
「お前は、世界中に火種を見ている。」
「見ているのではない。もう燃えている。俺たちは、その煙に気づき始めただけだ。」
※※※※※※※※※※
南米では、ピックス湾の勝利は、地図ではなく血で読まれた。
ブエノスアイレスの新聞は、遠いカリブの島を大きく扱った。メキシコシティの学生たちは、アメリカの失敗を議論した。サンティアゴでは左派の若者が、キューバの写真を切り抜いて壁に貼った。ボリビアの鉱山町では、誰かがラジオで聞いた話を仲間へ伝えた。
軍人は恐れた。
地主は顔をしかめた。
学生は熱を帯びた。
労働者は、遠い島の名を仲間内で口にした。
アメリカの裏庭で、アメリカが負けた。
その事実は、アンデスの山道や、港町の酒場や、大学の壁に、ゆっくりと染み込んでいった。
南米にとって、ゲバラは特別だった。
アルゼンチン生まれの医者が、カリブの島で革命の顔の一人になった。その事実は、国境が絶対ではないことを示していた。貧困、鉱山、農園、地主、軍政、外資、アメリカ大使館。国は違っても、同じ構造がある。
ならば、革命も国境を越えるのではないか。
その問いが、まだ小さな文字として新聞の余白に生まれていた。
※※※※※※※※※※
ゲバラは、南米の記事だけを少し長く読んでいた。
カストロは、それに気づいた。
「帰りたくなったか。」
ゲバラは、紙面から目を離さなかった。
「俺はもう、帰るだけの国を持っていない。」
「アルゼンチンが怒るぞ。」
「アルゼンチンには、俺がいなくても牛と将軍がいる。」
カストロは笑ったが、ゲバラはあまり笑わなかった。
「だが、行くべき大陸はある。」
その言葉が、夜風の中で少しだけ重くなった。
カストロは、すぐには返さなかった。
南米。
その言葉は、ゲバラの過去であり、未来でもあった。若い医学生がバイクで走った大陸。鉱山労働者の咳を聞き、ハンセン病患者の手を握り、土地を奪われた人々の顔を見た大陸。
キューバは、彼に国を与えた。
だが、ゲバラの視線は、いつも国境の外へ伸びていた。
「まだ早い。」
カストロは静かに言った。
ゲバラは、ようやく顔を上げた。
「分かっている。今は、この島を守る時だ。」
「そうだ。お前が外へ行く話は、勝手に未来へ置いておけ。今は、俺の工場と銀行と外交の書類を片づけるのが先だ。」
「それは革命より過酷だな。」
「だからお前にやらせる。」
ゲバラは嫌そうに顔をしかめ、それから短く笑った。
二人の間に、まだ別れの言葉はなかった。
だが、夜のテラスには、いつか来る別れのための最初の余白が生まれていた。
※※※※※※※※※※
中東では、キューバの名はナセルの時代の言葉と重なった。
エジプトのナセルは、スエズ運河をめぐって英仏の圧力と戦った、アラブ民族主義の象徴である。運河をめぐる争いは、単なる水路の話ではなかった。誰が自分の国の道を所有するのか。誰が通行料を取り、誰が軍艦を通し、誰が世界の地図に線を引くのか。
キューバでは、それが砂糖と土地と港だった。
エジプトでは、運河だった。
場所は違っても、問いは似ていた。
カイロの外交官は、ピックス湾の報告を読み、アメリカがなぜあの島にこだわるのかを理解した。帝国は、遠い理想のために動くのではない。通路、資源、基地、面子、地図上の位置。そうしたもののために動く。
だからこそ、キューバの勝利は中東でも読まれた。
小国が、自分の地図の上にあるものを自分のものだと言い切るには、時に大国の怒りを買わなければならない。
その怒りを退けた国は、たとえ小さくても、象徴になる。
※※※※※※※※※※
カストロは、カイロの報告を読み終えると、グラスの水を飲んだ。
「ナセルとは、いずれ話してみたい。」
「君とは気が合うかもしれない。演説が長いところも似ている。」
ゲバラの言葉に、カストロは少し顔をしかめた。
「そこではない。」
「分かっている。運河と砂糖だろう。自分の国のものを自分のものにする。それだけのことが、大国には反乱に見える。」
「それだけのこと、か。」
カストロは、ハバナの夜景を見下ろした。
「本当に、それだけのことなんだ。自分の土地、自分の学校、自分の病院、自分の港。それを自分の国のために使う。なぜ、それが世界戦争の入口のように扱われる。」
ゲバラは、煙草を灰皿で消した。
「大国にとっては、世界地図が自分の家の間取り図に見えているからだ。他人の部屋の家具を勝手に動かしても、悪いとは思わない。」
「なら、鍵をかけるしかないな。」
「鍵だけでは足りない。扉の前に銃も置く。できれば、その後ろに大砲も置く。」
「さらに後ろにソ連か。」
ゲバラは少し黙った。
「そうなる。」
その沈黙が、次の章の入口になっていた。
※※※※※※※※※※
秘書のセリアは、切り抜きを一つずつ整理し直していた。
彼女の手つきは正確だった。どの新聞がどの国のものか、どこに赤線を引いたか、誰が翻訳したか。彼女は、世界の反応を感情ではなく記録として扱っていた。
だが、その紙の束はただの記録ではなかった。
世界が、キューバを見つけた証拠だった。
カストロはテーブルの上に広がる地名を見た。
ワシントン。
モスクワ。
パリ。
ロンドン。
カイロ。
ベオグラード。
ニューデリー。
北京。
ハノイ。
アクラ。
ジャカルタ。
ブエノスアイレス。
メキシコシティ。
そのどれもが、ハバナからは遠かった。だが、今は一枚のテーブルの上に並んでいる。
「名が売れたな。」
ゲバラが言った。
「名が売れるということは、狙われるということだ。」
カストロは答えた。
「同時に、値段が上がるということでもある。」
ゲバラは笑った。
「また商売か。」
「国を持つとは、そういうことだ。われわれは、もう山の中の反乱軍ではない。名前を持った国だ。名前を持った国は、売られることもあれば、買われることもある。だから自分の値段くらい、自分で決めなければならない。」
セリアが、最後の紙束を揃えた。
「このスクラップは、保存しますか。」
カストロは少し考えた。
「保存してくれ。後で必要になる。」
「何に使うんですか。」
「われわれが、いつから世界に見られ始めたのかを忘れないためだ。」
セリアは頷き、紙束を抱え直した。
ゲバラは、その背中を見送りながら言った。
「世界に見つかった小国は、自由になるのか。それとも、より大きな檻に入るのか。」
「両方だ。」
カストロは即答した。
「だから面白く、だから危険だ。」
夜風がテラスを抜けた。
ハバナの街では、まだ勝利の歌が続いている。遠くで誰かが笑い、別のどこかで母親が前線から帰らない息子の名を呼んでいる。勝利は、単純ではなかった。
ピックス湾で、キューバはアメリカを退けた。
だが、本当に変わったのは、戦場の地図ではなかった。
世界地図だった。
それまで、カリブ海に浮かぶ小さな島だった国が、ワシントン、モスクワ、ベオグラード、カイロ、ニューデリー、北京、ハノイ、アクラ、ブエノスアイレスの机の上に置かれ始めた。
小国は、勝てば自由になるわけではない。
勝った瞬間から、より大きな視線に捕まる。
キューバは、名を持った。
そして、名を持った国は、もう誰からも忘れられない。
キューバは、当時米ソ対立で引き裂かれていた小国のモデルになります。大国に対して非対称な戦いを挑む姿勢は、後の歴史に影響を与える出来事でした。
次回はピックス湾以降のキューバを描きキューバから見たキューバ危機につなげます。
※更新は、月・木・土曜日(朝・夜)二回の週4話です。
次回は、月曜日の夜投稿予定です。
【お知らせ】長編のエピソードになると思わず連載を開始したので、今、前半を大幅改稿しました。
改稿後はボリュームが二倍以上になり背景もわかりやすく史実に寄せてます。(初めはヒューマンドラマを描く予定でした。)
改稿したものはタイトルに改稿としています。ぜひお読み下さい。(日本編の前まで改稿です!)
ジャンルもヒューマンドラマから歴史へ。
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