147,海の上の出会い~高揚と嫉妬~
(投稿遅れてしまいました。すいません。)
公式にカストロとヘミングウェイが出会っているのは、1960年初夏の伝統的な釣り大会でした。
そこでヘミングウェイはある発言をします。
海の上の対面
一九六〇年五月、ハバナの海は明るかった。
三月の港の煙は、まだ消えたわけではない。ラ・クーブル号の爆発で死んだ者たちの名前は、まだ島の中に残っていた。追悼式典の黒い服も、ラジオから流れた怒りの声も、カストロが語った防衛の言葉も、キューバの空気を硬くしていた。
それでも、五月の海は光を返した。
船は波に揺れ、男たちは釣り竿を確かめ、港には記者と見物人と役人が集まっていた。釣り大会の朝には、戦場や政治にはない明るさがあった。魚は外交を知らない。波は大使館の言葉を覚えない。海の上では、腕と運と忍耐がものを言う。
ヘミングウェイは、その明るさをよく知っていた。
一九五〇年に始まったその釣り大会は、いつしかキューバの釣り好きたちにとって大きな催しになっていた。国際的な参加者も集まり、海を愛する者たちが、マカジキやカジキを追って腕を競う。ヘミングウェイ自身も、この大会をただの飾りとは考えていなかった。釣りは遊びであると同時に、男の技術を試す真剣な営みでもあった。
一九六〇年五月中旬。
年次のヘミングウェイ釣り大会は、革命後のキューバで行われる最初期の国際的な催しのひとつになっていた。
その事実だけで、海には政治が乗っていた。
観光。外貨。革命政府の安定。キューバが世界へ見せる顔。そこに、ヘミングウェイの名があった。アメリカ人作家であり、キューバを愛した男であり、フィンカ・ビヒアに暮らす高名な住人。その大会に、フィデル・カストロが参加するという。
ヘミングウェイは、胸の奥が少し重くなるのを感じていた。
カストロは、もう山から降りたばかりの英雄ではない。バティスタを倒した男であり、アメリカに渡り、歓迎され、冷たく扱われ、それでも土地と砂糖と学校と病院と主権を語り続けた男だった。ラ・クーブル号の爆発のあと、キューバは襲われていると考え、防衛の言葉を強めている。
その男が、自分の大会に来る。
ヘミングウェイは、その意味を分かっていた。
分かっているからこそ、何も言わないつもりでいた。
リップサービスはしない。
革命の旗にはならない。
アメリカへの裏切り者にもならない。
彼はそう決めていた。
キューバ革命の正しさは分かる。農地改革のまともさも分かる。汗を流した者が、汗の対価を得る仕組みを作ろうとすることは、誰が見ても筋が通っている。傀儡だった島が、自分の土地と港と砂糖を自分の手に戻そうとするのも分かる。
しかし、奪われる側の顔も知っている。
ハバナのクラブで酒を飲んだ友人。釣り仲間。別荘や農園を持ち、島で老後を過ごすつもりだった夫婦。彼らの全員が悪人だったわけではない。キューバを愛していた者もいた。漁師や使用人の名前を覚えていた者もいた。古い家の窓から入る風を、本当に大切に思っていた者もいた。
その暮らしが古い秩序の上に乗っていたとしても、彼らには名前があった。
だから、正義は簡単ではなかった。
ヘミングウェイは、友人のためにも、生活のためにも、祖国のためにも、そして自分の名誉のためにも、沈黙を選んできた。サルトルのように式典へ立つことはできなかった。アメリカの影を見ても、それを紙面に書くことはできなかった。キューバ革命への理解も、祖国への疑いも、胸の奥にしまい込んだ。
それでも、彼はキューバにいた。
フィンカ・ビヒアに住み、コヒマルの漁師たちと会い、ピラーの手入れをし、朝の海を見ていた。その生活そのものが、まだ言葉の代わりになると思っていた。
だが、その大会は違った。
彼の沈黙の前に、沈黙を破るだけの男が現れようとしていた。
※※※※※※※※※※
カストロは、忙しい革命政権の首相でありながら、大会に姿を見せた。
それは気まぐれではなかった。
キューバはまだ世界に見られていた。ラ・クーブル号の爆発で、島は危険な場所としても語られている。アメリカとの緊張は高まっている。だからこそ、海の催しには意味があった。外国の釣り人が来る。観光の顔がある。キューバは閉じた島ではない。革命は生活を壊すだけのものではない。海はまだ開かれている。
カストロは、それを見せる必要も感じていた。
だが、ヘミングウェイが遠くから見たカストロは、宣伝のためだけに来た男ではなかった。
海の上でも大きく見えた。
背丈だけではない。身体の奥に熱があり、動きの一つ一つに無駄が少なかった。船に足を置いても、重心が崩れない。笑うと少年のような無防備さがあるのに、目は周囲を見逃さない。
あの目だ、とヘミングウェイは思った。
ラジオの向こうで土地と砂糖と学校と病院を語っていた声の持ち主。群衆を酔わせるだけではなく、国を作ろうとしていた若い声。その声が今、肉体を持って目の前にいる。
海には、多くの男がいた。
記者がいた。役人がいた。漁師がいた。革命政府の関係者がいた。写真を撮る者もいた。釣り大会は祝祭の顔をしていたが、そこにいる誰もが、この対面に別の意味があることを薄々分かっていた。
カストロは、釣りにも興味を示した。
それは政治家の演技だけには見えなかった。彼は海を見て、船を見て、釣り竿を見た。山の男であると同時に、身体を使うことを好む男でもあった。ヘミングウェイは、その点をすぐに見抜いた。
この男は、机だけの政治家ではない。
そう思った時点で、彼はもう少し危なかった。
カストロは釣った。
しかも、勝った。
一日目に二匹、次の日にも魚を上げたという話が広がった。経験ある釣り師たちが驚くほどの初心者の幸運だった。釣りの作法にも従い、助手に任せきりにせず、規則通りに自分の手でやろうとした。その姿は、ただ偶然に勝った者のものではなく、見られていることを分かった上で、なお身体を使って勝とうとする男のものだった。
周囲が笑い、カメラが動き、拍手が起きた。
表彰の場で、老いた作家は、若い指導者へトロフィーを渡す位置に立った。
大会としては、よくできすぎた場面だった。
アメリカ人作家の名を持つ釣り大会で、キューバ革命の指導者が魚を釣り、笑顔で賞を受ける。
これほど写真にしやすい構図はない。
カストロは、少し照れたように言った。
「私は、釣りは初心者です。」
ヘミングウェイは笑った。
「あなたは幸運な初心者だ。おめでとう、コマンダンテ。」
周囲にも笑いが広がった。
それだけなら、ただの釣り大会だった。
老いた作家と若い指導者が、海の上で軽口を交わす。写真に残り、新聞に載り、やがてよくできた逸話として語られる。それだけで終わったなら、ヘミングウェイはまだ橋の上に立っていられたかもしれない。
だが、カストロはそれだけでは終わらせなかった。
※※※※※※※※※※
表彰の騒ぎが少し落ち着いたあと、二人は人の輪から少し離れて話した。
時間にすれば長くはなかった。
それでも、ヘミングウェイにとっては長すぎるほどの時間だった。
カストロはヘミングウェイの方へ身体を向けた。
「あなたにお会いしたかった。」
ヘミングウェイは、最初それを礼儀だと思った。
若い指導者が、老いた有名作家に払う敬意。釣り大会の場にふさわしい、よくできた言葉。記者やカメラもいる。政治家なら、そのくらいの言葉は自然に選ぶ。
だが、続きが違った。
「シエラでは、あなたの本を読んでいました。」
カストロは言った。
「『誰がために鐘は鳴る』です。私は正規の軍事教育を受けた将校ではありません。だから、あの本は私にとって、ゲリラ戦の教科書でした。」
ヘミングウェイは、一瞬、返す言葉を失った。
風が吹いた。海の光が船べりに跳ねた。遠くで誰かが笑っていた。だが、その一瞬だけ、周囲の音が薄くなった。
カストロは題名を言っただけではなかった。
山で戦う者の時間について話した。大軍と小さな部隊では、恐怖の流れ方が違うと言った。人間は命令だけでは動かない。空腹でも、疲れていても、自分がなぜそこにいるのかを忘れなければ動く。逆に、それを失えば、どんな武器を持っていても崩れる。
「あの本には、戦術だけではないものがありました。」
カストロは続けた。
「橋をどう爆破するかではありません。小さな部隊が、巨大な力と戦う時、何を守らなければならないのか。恐怖をどう扱うのか。仲間がなぜ必要なのか。私は、それを読みました。」
この男は、読んでいる。
ヘミングウェイはそう思った。
いや、読んだだけではない。
使ったのだ。
スペインの乾いた空が、胸の奥で一瞬だけ戻ってきた。
あの時、彼は敗北するかもしれない者たちを書こうと思った。自由のために銃を握る者たちを書こうと思った。恋や恐怖や裏切りや任務を抱えながら、それでも山で戦う人間を書こうと思った。
批評家のためではなかった。
映画のためでもなかった。
どこかの山で、自分より若い者が、その物語を生きるために開くなら。そういう願いが、スペインの空の下にはあった。
もちろん、本は本だった。
読者に読まれ、批評家に読まれ、映画にもなり、賞賛も受けた。人々はそこに恋愛を見た。死を見た。マッチョイズムを見た。理念を見た。敗北の美しさを見た。
だが、カストロは違う読み方をしていた。
紙の上の物語を、シエラ・マエストラの泥の中へ持ち出した。腹を空かせた若者たちの間で、少ない銃と粗い地図と、眠れない夜の中で使った。弱い者が巨大な軍に抗うための時間の作り方として読んだ。
ヘミングウェイは、胸の奥が熱くなるのを感じた。
ノーベル賞よりも重かった。
あれは文学が文学として評価されたものだった。世界が、作家に賞を与えた。それは名誉であり、たしかに大きな出来事だった。
だが、いまカストロが告げているのは、それとは違った。
作品が現実に使われた。
しかも、自分が戦争の疲れを癒やしに来たキューバで。
自分がスペインの空の下で願ったものを、この若者たちは現実にしてしまった。
作品は、一人で書ける。
机に向かい、酒を置き、紙に向かい、記憶を言葉にすればいい。もちろん、それも容易ではない。書くことにも恐怖はある。書けない夜もある。自分の嘘を見抜く苦しさもある。
だが、作品を現実にするには、一人では足りない。
仲間がいる。統率がいる。判断がいる。恐怖に耐える力がいる。裏切りを見抜き、迷いを飲み込み、死者を背負い、それでも人を前へ進ませる力がいる。
カストロは、それをやった。
ヘミングウェイが紙の上に置いたものを、彼は山で使い、現実の国へ持ち込んだ。
その事実が、老いた作家を深く揺さぶった。
※※※※※※※※※※
ヘミングウェイは、言わないつもりだった。
政治の言葉は避ける。リップサービスはしない。革命の宣伝道具にはならない。祖国アメリカに背を向ける言葉も言わない。友人たちの顔も、フィンカの生活も、コヒマルの漁師たちも、アメリカで積み上げた名誉も、すべてを軽く扱うわけにはいかなかった。
そう決めていた。
だが、言葉は出た。
「なら、あなたたちは、よく読んだ。」
自分でも思ったより、声が強かった。
カストロの目が、わずかに細くなった。
ヘミングウェイは続けた。
「そして、本よりうまくやった。」
周囲の空気が、ほんの少し動いた。
それは冗談の形をしていた。釣り大会の笑顔の中で、年老いた作家が若い指導者に向けて言った称賛。その場では、そう見えたかもしれない。
だが、ヘミングウェイ自身には分かっていた。
これはただの冗談ではない。
作家が読者に礼を言っただけでもない。
アメリカ人である自分が、キューバ革命の若い勝利者を認めた言葉だった。
しかも、その言葉は本心だった。
だから危険だった。
海は明るかった。
明るすぎた。
カストロは笑っていた。周囲も笑っていた。写真を撮る者がいた。誰かが拍手をした。魚と船と太陽と、人間の声があった。港の爆発も、追悼式典も、アメリカとの亀裂も、その瞬間だけは遠ざかったように見えた。
高揚が勝っていた。
カストロの肉体。言葉の知性。自分の本を実戦の中で読んだという告白。そのすべてが、ヘミングウェイの理性を越えていた。
彼は、もう一つ言ってしまった。
「私は、この島を外から見ているつもりはない!」
声に出してから、熱がさらに強くなった。
「もう一人のキューバ人として、見ている!」
その瞬間、彼は、自分が越えてはいけない線を越えたことを知った。
だが、言葉は戻らない。
それは美しい言葉だった。
同時に、危険な言葉だった。
アメリカ人作家が、自分をもう一人のキューバ人として語る。しかも、カストロの前で。革命政府の人間がいる場で。記者がいて、カメラがあり、誰かがその言葉を拾うかもしれない場所で。
ヘミングウェイは、それでも笑っていた。
笑うしかなかった。
その場では、まだ海の光が勝っていた。
※※※※※※※※※※
大会は明るく終わった。
魚がいた。写真があった。トロフィーがあり、笑顔があった。カストロは初心者の幸運を冗談にし、ヘミングウェイはそれを受けた。老いた作家と若い革命家は、海の上で自然に並んでいるように見えた。
その場だけを切り取れば、美しい一日だった。
キューバを愛したアメリカ人作家。
その作家を敬う革命の指導者。
釣り大会の光。
海。
だが、ヘミングウェイの言葉は、海の上には残らなかった。
それは人の耳に入り、記者の手帳に入り、誰かの記憶に入り、やがて別の場所へ運ばれていく。ハバナへ。ワシントンへ。大使館へ。新聞社へ。どこかの机へ。
言葉は、彼の手を離れていた。
そのことに気づくのは、もう少しあとだった。
昼のあいだ、彼はまだ興奮していた。
自分の本がシエラで読まれていた。自分がスペインで書いた戦いが、カリブの山で若者たちの判断になっていた。その事実は、作家としてこれ以上ない報酬だった。
しかも、その読者は、ただ読んだのではない。
国を動かした。
ヘミングウェイは、自分の胸の中に、若い頃の熱が戻ってくるのを感じていた。第一次大戦で壊れ、スペインで燃え、キューバの海でようやく静かになったはずのものが、もう一度、身体の奥で動いていた。
まだ自分は終わっていない。
そんな錯覚さえあった。
だが錯覚は、夕方の光が落ちるのと同じように、少しずつ色を変えていく。
※※※※※※※※※※
夜になると、海の光は消えた。
残ったのは、自分の声だった。
フィンカ・ビヒアの部屋で、ヘミングウェイは酒を注いだ。氷が小さく鳴った。その音だけが、妙にはっきり聞こえた。昼間の笑い声、船の揺れ、カストロの顔、記者たちの視線、海の反射。それらが一つずつ遠ざかり、最後に残ったのは、自分が口にした言葉だった。
本よりうまくやった。
もう一人のキューバ人として、見ている。
それは本心だった。
だから厄介だった。
嘘なら忘れられた。社交辞令なら笑って済ませられた。釣り大会の空気に流された言葉だと言い訳することもできた。
だが、違った。
彼は本当にそう思っていた。バティスタの島は腐っていた。アメリカから来た金と、マフィアと、観光客の欲望と、警官の目が、島の美しさを飾り物にしていた。カストロたちは、それを泥の中から振り払った。土地、砂糖、学校、病院、主権。あの若い男の言葉は、島を取り戻そうとする言葉だった。
だから認めた。
認めてしまった。
ヘミングウェイはグラスを置いた。
昼間の興奮は、夜の中で別の形になった。胸を熱くしたものが、今度は苦くなって戻ってきた。
後悔だけではなかった。
嫉妬があった。
その名を認めるまで、少し時間がかかった。
カストロを憎んでいるわけではない。むしろ、認めている。知性があった。肉体があった。人を動かす力があった。海の上でも山の中でも、自分の身体を現実の中へ投げ込める男だった。
そして、成し遂げた。
ヘミングウェイがスペインの空の下で、いつか誰かに託した夢。
敗北の記録で終わらず、どこか別の山で、若い者が本を開き、自由と土地と共同体のために立ち上がるなら。そう願いながら書いたもの。
カストロは、その願いを読んだ。
読んだだけではない。
現実にした。
そのことが、ヘミングウェイを高揚させた。
同時に、深く傷つけた。
夢が叶った時、人は必ずしも幸福になるわけではない。自分の外で叶った夢は、時に自分を置き去りにする。自分が託したはずのものが、別の男の肉体と声と決断によって現実になった時、そこには祝福だけでは済まない感情が残る。
ヘミングウェイは書いた。
カストロは、やった。
その単純な差が、夜になると胸を刺した。
スペインで見た理想を、彼は紙の上へ移した。敗北するかもしれない者たちの尊厳を書いた。山で戦う人間の恐怖を書いた。愛する者を残して任務へ向かう男を書いた。
だが、彼は国を変えなかった。
カストロは変えた。
しかも、その男は自分の本を読んでいた。読んだだけではない。使った。ヘミングウェイが命がけで散りばめたものを、山の泥の中へ持ち込み、仲間を動かし、恐怖を越え、ひとつの島を動かした。
作家としては、これ以上ない報酬だった。
男としては、敗北に近かった。
その二つが同じ場所から来ていることが、彼には耐えがたかった。
誇りと屈辱が、同じ顔をしていた。
祝福と嫉妬が、同じ声で鳴っていた。
ヘミングウェイは、その声を酒で沈めようとした。
だが、沈まなかった。
自分は橋でいるはずだった。
アメリカ人であり、キューバを愛する男でいるはずだった。どちらか一方の旗にはならない。どちらか一方の宣伝道具にはならない。そう決めていた。
それなのに、片側へ身体を傾けてしまった。
しかも、誰かに押されたのではない。
自分で言った。
それが、彼をいっそう不安にした。
言葉は、もう海の上には残っていない。記者の耳に入り、紙面に乗り、誰かの翻訳にかけられ、ワシントンの机へ行く。誰かが線を引く。誰かがファイルに入れる。誰かが、また一つ名前の横に印をつける。
ヘミングウェイは、窓の外を見た。
夜の庭は静かだった。犬の気配があり、虫の声があり、遠くの街の音は薄い膜の向こうに沈んでいた。キューバはまだそこにある。フィンカも、海も、コヒマルも、ピラーもある。
だが、自分の立っている場所だけが、急に細くなった気がした。
※※※※※※※※※※
翌日から、周囲の空気が少し変わったように思えた。
何が変わったのか、はっきりとは言えなかった。
車の音。
電話の沈黙。
酒場で一瞬だけ途切れる会話。
新聞の紙面に載る名前。
大使館という言葉。
誰かがこちらを見ているような気配。
それらの一つ一つは、取るに足らないものだった。偶然で片づけられる。酒のせいだと言える。老いのせいだとも言える。神経が過敏になっているだけだと説明することもできる。
しかし、説明できることと、安心できることは違った。
ヘミングウェイは見られているように感じた。
誰に、とは言えなかった。
アメリカなのか。キューバなのか。反革命派なのか。革命政府なのか。記者なのか。友人なのか。自分自身の恐怖なのか。
正体は分からない。
分からないからこそ、気配だけが濃くなった。
彼は自分に言い聞かせた。
考えすぎだ。
酒が悪い。
疲れている。
だが、言い聞かせる声は、以前ほど強くなかった。
海の上で言った言葉は、海には沈まなかった。
それはどこかへ運ばれていた。
彼の知らない机の上へ。
そのことだけは、どうしても消えなかった。
昼の海では、自分の本が現実に届いたことに酔っていた。
夜になると、その現実が、自分の外で動き始めたことに気づいた。
そして、その中心にはカストロがいた。
若く、強く、疲れを知らず、島を動かした男がいた。
ヘミングウェイは、机の上の紙を見た。
何かを書かなければならない気がした。
だが、何を書けばいいのか分からなかった。
キューバを称えれば、祖国を裏切る。
アメリカをかばえば、愛した島を裏切る。
沈黙すれば、自分の言葉を裏切る。
小説家が、また言葉を失っていた。
窓の外では、キューバの夜が静かに続いていた。
その静けさの奥で、何かが彼を見ているような気がした。
そして、そのさらに奥で、昼間のカストロの声が残っていた。
あなたの本を、シエラで読んでいました。
ヘミングウェイは目を閉じた。
嬉しかった。
そのことが、いちばん苦しかった。
これ以降ヘミングウェイは、監視されている感覚にとりつかれ、酒の量も増えていきます。
少し私の解釈もありますがカストロとの出会いはヘミングウェイの人生を変えていきます。
※更新は、月・木・土曜日(朝・夜)二回の週4話です。
本日朝投稿を飛ばしてしまいました。
申し訳ありません。
次回は、月曜日夜投稿予定です。
【お知らせ】長編のエピソードになると思わず連載を開始したので、今、前半を大幅改稿しました。
改稿後はボリュームが二倍以上になり背景もわかりやすく史実に寄せてます。(初めはヒューマンドラマを描く予定でした。)
改稿したものはタイトルに改稿としています。ぜひお読み下さい。(日本編の前まで改稿です!)
ジャンルもヒューマンドラマから歴史へ。
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