148,帰れない海
アメリカ編からキューバ編に戻るための幕間ヘミングウェイ編も次回で終了です。
釣り大会のあと、ヘミングウェイは自分の言葉がまだ海の上に残っているような気がしていた。
「本よりうまくやった」
「もう一人のキューバ人として、見ている」
その言葉は、本心だった。だからこそ厄介だった。嘘なら忘れられる。社交辞令なら笑って済ませられる。だが彼は、本当にそう思っていた。カストロたちは、腐敗した島を泥の中から振り払った。土地、砂糖、学校、病院、主権。あの若い男の言葉は、ただ民衆を酔わせるためのものではなく、島を取り戻すための言葉だった。
だから認めた。認めてしまった。
けれど言葉は、口を離れた瞬間から彼のものではなくなった。人の耳に入り、記者の手帳に入り、誰かの記憶に入り、いずれハバナへ行く。ワシントンへ行く。大使館へ行く。どこかの机の上で、別の意味を与えられる。
そのことを考え始めると、フィンカ・ビヒアの静けさまで変わって見えた。
庭は同じだった。犬は同じように歩き、朝になれば草は湿り、遠くから車の音がした。ピラーの甲板には塩が残り、コヒマルの漁師たちは、相変わらず天気と魚の話をした。それでも、電話が鳴るまでの沈黙が長く感じられた。酒場で自分が入ると、会話の端が一瞬だけ切れるように思えた。新聞に自分の名前が出ると、その文字が紙の上から離れて、どこか別の場所へ運ばれていくように見えた。
誰かが見ている。
そう感じた。
誰が、とは言えなかった。アメリカなのか、キューバなのか、反革命派なのか、革命政府なのか、新聞記者なのか、友人なのか。それとも自分自身の恐怖が、外の世界に形を与えているだけなのか。
分からないことが、いちばん悪かった。戦場なら、敵のいる方角を探せばよかった。海なら、魚の走る向きを手で読めばよかった。だが、いま彼を追っているものには姿がなかった。窓の外を見たあと、また同じ窓を見た。車の音を聞いたあと、もう一度耳を澄ませた。郵便物を手に取り、封筒の端を見て、誰が触れたのかを考えた。
馬鹿げていることは、自分でも分かっていた。
分かっているのに、やめられなかった。
※※※※※※※※※※
周囲の者たちは、心配していた。
だが、同じものを見てはいなかった。
彼が「見られている」と言っても、相手の顔には困惑が浮かんだ。酒が悪いのだろう、と言う者がいた。疲れているのだ、と言う者がいた。年齢のせいだ、と言う者もいた。医者の言葉はもっと整っていた。神経。抑うつ。不安。休養。治療。
どれも、完全な間違いではなかった。
酒は増えていた。夜になると、手が自然に瓶へ伸びた。グラスに氷を入れる音だけが、部屋の中ではっきり響いた。昼間の高揚は、夜には苦い沈殿物になった。飲めば少し薄まる。だが、薄まるだけで消えない。翌朝には、もっと濁った形で戻ってくる。
彼を何より傷つけていたのは、書けないことだった。
紙はある。ペンもある。題材もある。むしろ、題材は多すぎるほどあった。
キューバについて書けるはずだった。ラ・クーブル号の爆発について。サルトルが追悼式典に立ったことについて。農地改革のまともさについて。汗を流した者が、汗の対価を得る仕組みについて。アメリカ資本が、そのまともさをどう恐れたかについて。
そして、カストロについて書けるはずだった。
あの若い男が、自分の本をシエラで読んだと言ったこと。自分が紙の上に散りばめたものを、山の泥の中で使ったこと。作品を読んだ者が、作品を越えて現実を動かしたこと。その高揚も、後悔も、嫉妬も、苦しみも、本当なら書くべきだった。
だが、筆は進まなかった。
言い訳はいくらでもあった。キューバを称えれば祖国を裏切る。アメリカをかばえば愛した島を裏切る。革命を褒めれば宣伝に使われる。批判を書けば、自分が暮らした海と漁師たちを裏切る。恐怖を書けば、病人の妄想として読まれる。
ほかにも理由はあった。
作風が変わってしまったのかもしれない。もう自分は、戦争と革命を書く作家ではなく、海と老人を書いた作家になってしまったのかもしれない。酒のせいかもしれない。病のせいかもしれない。若い頃から積み重なった頭の傷が、記憶や判断に影を落としているのかもしれない。
理由は、ありすぎるほどあった。
だからこそ、彼にはそれが言い訳に思えた。
本当は、書く力そのものが失われているのではないか。
その考えが、夜になると静かに戻ってきた。
※※※※※※※※※※
彼は『老人と海』を書いた。
あの物語では、キューバの海が、人間の本来の姿を見せてくれた。敗れても糸を離さない老人。自然に勝つのではなく、自然と向き合うことで尊厳を保つ人間。国家も、戦争も、名誉も、最後には役に立たない場所で、それでも人間が人間であろうとする姿。
それは書けた。
戦争で傷ついた彼に、キューバの海は静かな答えをくれた。人間は大きなものには勝てない。国家にも、砲弾にも、歴史にも、老いにも、自然にも、完全には勝てない。それでも、糸を握る手には尊厳がある。敗れても、向き合うことには意味がある。
だから彼は、あの老人を書くことができた。
だが、その先が書けない。
目の前には、もっと大きな歴史があった。戦争。革命。独立。祖国。裏切り。若者。カリスマ。自分の本を読んで現実を動かした男。
それらはすべて、彼の近くにあった。近すぎるほど近くにあった。フィンカの窓の向こうにあり、新聞の紙面にあり、ラジオの声にあり、海の上で交わした会話の中にあった。
しかし、近すぎるものは書けない。
彼はそれを政治のせいにした。引き裂かれた二つの国のせいにした。アメリカとキューバの亀裂のせいにした。友人の顔のせいにした。名誉のせいにした。酒のせいにした。病のせいにした。
もちろん、それらは事実だった。
だが、すべてではなかった。
彼自身が老いていた。
戦争から文学を作った男が、革命を前にして言葉を失っている。独立を語る言葉が出てこない。自分の本を現実にした若者を、作品にできない。
その事実は、彼の中でゆっくり毒になった。
小説家が、言葉を持てなくなっていた。
それが彼には、何よりも恐ろしかった。
※※※※※※※※※※
釣り大会の記憶は、何度も形を変えて戻ってきた。
カストロは、自分の本を読んでいた。題名を知っていただけではない。山で戦う者の時間を読んでいた。恐怖をどう扱うか、仲間がなぜ必要か、命令だけでは人間が動かないことを読んでいた。
あの本は、私にとってゲリラ戦の教科書でした。
その言葉は、老いた作家の胸を深く撃った。
ノーベル賞よりも重かった。賞は、文学が文学として認められることだった。だがカストロの言葉は、作品が現実に持ち出された証だった。紙の上の物語が、シエラ・マエストラの泥の中で使われた。彼がスペインの空の下で、いつか誰かに託したかったものが、カリブの島で若者たちの血になった。
それは、作家としてこの上ない報酬だった。
同時に、嫉妬でもあった。
カストロを憎んでいるわけではない。むしろ認めている。あの男には知性があった。肉体があった。人を動かす力があった。山の中でも海の上でも、自分の身体を現実の中へ投げ込める男だった。
そして、成し遂げた。
ヘミングウェイは書いた。カストロは、やった。
その単純な差が、夜になると胸を刺した。
スペインで見た理想を、彼は紙の上へ移した。敗北するかもしれない者たちの尊厳を書いた。愛する者を残して任務へ向かう男を書いた。恐怖を抱えながら橋へ向かう人間を書いた。
だが、彼は国を変えなかった。
カストロは変えた。
しかも、その男は自分の本を読んでいた。読んだだけではない。使った。ヘミングウェイが命がけで散りばめたものを、山の泥の中へ持ち込み、仲間を動かし、恐怖を越え、ひとつの島を動かした。
夢が叶った時、人は必ずしも幸福になるわけではない。
自分の外で叶った夢は、時に自分を置き去りにする。
夢が叶った代わりに、自分は書く力を奪われた。
そんな馬鹿げた考えが、夜になると本気の顔をして戻ってきた。
理屈ではない。原因でもない。だが、そう感じてしまう。自分がスペインで誰かに託した願いを、カストロが叶えた。その代償のように、自分の中から言葉が抜け落ちていく。
嬉しかった。
そのことが、いちばん苦しかった。
※※※※※※※※※※
やがて、島を離れる話が現実になった。
治療のためだった。
それは嘘ではない。酒があった。眠れない夜があった。神経の不調があった。血圧のことも、身体の衰えも、頭の霧もあった。医者へ行くべきだという言葉に反論するだけの力を、彼はもう十分に持っていなかった。
だが、彼にとってそれは、身体を治すだけの旅ではなかった。
書く力を取り戻すための旅でもあった。
酒を減らせば書ける。病を治せば書ける。頭の霧が晴れれば書ける。政治から少し距離を置けば書ける。アメリカとキューバの裂け目から一度身を引けば、あの海の上のことを、いつか冷静に書ける。
彼はそう思おうとした。
カストロの声。シエラで読まれた本。自分が誰かに託した夢が、別の男の肉体で叶った瞬間。そこにあった高揚も、屈辱も、嫉妬も、誇りも、すべていつか書けるはずだった。
いまは無理でも、いつか書く。
治療のあとで。
酒を断ったあとで。
頭の中の霧が晴れたあとで。
そう考えなければ、島を離れることはできなかった。
フィンカ・ビヒアの部屋を見た。本棚、紙、机、酒瓶、窓、外の光、犬の気配、庭の湿気。そして、海の方角。
この家は奪われていない。海も消えていない。ピラーも、コヒマルの漁師たちも、まだそこにある。誰かが銃を突きつけて追い出したわけではない。だからこそ、残酷だった。
場所は残っている。
自分だけが、そこにいられなくなっている。
一九六〇年七月二十五日、彼はキューバを離れた。
その時はまだ、最後の別れだとは思わなかった。治療を受ける。体調を戻す。少し休む。そうすればまた帰れる。そう考えようとした。
海は逃げない。
だが、心のどこかでは分かっていた。
海は逃げない。
それでも、人間は帰れなくなる。
※※※※※※※※※※
アメリカ側の空気は、キューバの湿気とは違っていた。
病院の壁は白かった。海の白さではない。乾いた、匂いの少ない白だった。看護師の声は丁寧で、医師の言葉は落ち着いていた。診察、休養、治療、薬、電気、記憶、睡眠。彼の苦しみは、ひとつずつ名前をつけられ、書類に置かれていった。
名前をつけられることは、救いでもある。同時に、屈辱でもあった。
戦場を歩いた男が、病室の白い壁に囲まれている。海で魚と戦った男が、薬と診断の言葉に従っている。自分の文章で世界に形を与えてきた作家が、医師の言葉で説明される。
彼は、見られていると言った。
だが、その恐怖は、ほかの者には同じ温度で届かなかった。
心配はされた。治療もされた。慰めもあった。妻の視線にも、医師の言葉にも、悪意はなかった。
しかし、理解ではなかった。
恐怖は、共有されない時にいちばん深くなる。
彼にとってそれは、孤独だった。
誰かが見ている。その感覚を言えば言うほど、彼は病に近づいていく。黙れば、恐怖は自分の内側で濃くなる。言っても孤独になり、黙っても孤独になる。
小説家なのに、自分の恐怖を他人へ渡す言葉が見つからない。
それが彼をさらに追い詰めた。
※※※※※※※※※※
ふるさとの空には海がなかった。
アイダホの山の光は清潔だった。空は高く、空気は乾いていた。そこにはキューバの潮の匂いがない。コヒマルの漁師たちの声もない。ピラーの甲板に残る塩もない。
ふるさとは、安心の場所であるはずだった。
だが、彼にはそれさえ少し遠かった。
病院から戻っても、恐怖は完全には消えなかった。酒を断たれれば、手持ちの逃げ道は減った。酒に戻れば、今度は自分が崩れていくのを見せつけられる。書こうとしても、言葉は続かない。紙の白さが、病院の壁の白さに似て見えた。
その頃、キューバはさらに遠くなっていた。
一九六一年一月、アメリカとキューバの国交は断たれた。
その知らせは、彼の中で静かに重く沈んだ。国と国が言葉を失った。それは、彼自身の沈黙と似ていた。
どちらも、まだ完全な戦争ではない。だが、もう以前の会話には戻れない。大使館の扉が閉じることは、書類の上の出来事に見える。しかし、その書類の向こうには海があった。フィンカがあった。ピラーがあった。彼の生活があった。
帰る道が、少しずつ細くなっていく。
彼は、それを見ていた。
そして、何もできなかった。
※※※※※※※※※※
一九六一年四月。
ピッグス湾の報せが届いた。
亡命キューバ人の部隊が上陸した。アメリカの影がそこにあることは、もはや隠しきれなかった。飛行機、支援、失敗、海岸、捕虜。新聞は日ごとに言葉を変え、ラジオは緊張した声で新しい情報を伝えた。
ヘミングウェイは、その報道をアメリカ側で聞いた。
キューバの海のそばではなかった。コヒマルの酒場でもない。ピラーの甲板でもない。ふるさとの側で、その知らせを受け取った。
キューバは勝った。
小さな島が、海から来た侵攻を退けた。アメリカに支えられたはずの作戦は崩れた。隠された手は見え、偽装は剥がれ、若い大統領の名にも傷がついた。
報道は、アメリカを英雄にはできなかった。
もちろん、すべての新聞がカストロを称えたわけではない。恐怖もあった。反共の言葉もあった。亡命者への同情もあった。だが、それでも構図は隠しようがなかった。大きな国が、小さな島を揺さぶろうとした。小さな島は、浜辺でそれを撃ち返した。
その姿に、判官びいきの感情が生まれないはずがなかった。
ヘミングウェイの胸は、熱くなった。
思想的には、痛快だった。スペインで信じたものが、カリブの海岸で勝った。彼がいつか誰かに託したかったものが、シエラで読まれ、山から降り、ついに海辺で大国の影を退けた。カストロは、またやった。
若者たちは、自分の本の先へ行った。
彼の胸には、誇りに近いものがあった。
だが、そのすぐ下に、別のものが沈んでいた。
嫉妬。
自分はそこにいなかった。勝った島の側に、彼はいなかった。しかも、撃退されたのは祖国だった。
その事実は、どちらの喜びもきれいには残さなかった。キューバが勝ったことは、彼にとって高揚だった。アメリカが退けられたことは、彼にとって痛みだった。
そして何より、その勝利は、彼にひとつのことを知らせた。
もう帰れない。
これで、あの海は完全に政治の海になった。コヒマルの朝も、ピラーの甲板も、漁師たちの手も、すべてが国交と警戒と疑いの向こう側へ行ってしまった。
彼が愛したキューバは、勝った。
だからこそ、彼の手から離れた。
※※※※※※※※※※
夜、彼は長く眠れなかった。
キューバの勝利は、頭の中で何度も形を変えた。海岸へ押し寄せる男たち。砂に倒れる影。ラジオの声。勝利を叫ぶ群衆。カストロの顔。大きな身体。疲れを知らない目。海の上で言った言葉。
あなたの本を、シエラで読んでいました。
あの声が、また戻ってきた。
ヘミングウェイは目を閉じた。
スペインの空が浮かんだ。山で戦う者たち。橋。恐怖。恋。裏切り。死。彼が紙の上に閉じ込めたもの。それを、カストロは本当に外へ出してしまった。
そして、勝った。
自分が書いた理想は、自分の外で叶った。
それは救いのようでもあり、追放のようでもあった。
彼は、名誉を得ていた。ノーベル賞も受けた。世界中に読者がいた。戦争を書き、海を書き、人間の尊厳を書いた。第一次大戦の傷から文学を作り、スペインの敗北から別の物語を作り、キューバの自然の中で人間の本来の姿を見つけた。
海に出る老人。敗れても、なお糸を離さない手。自然に勝つのではなく、自然と向き合うことで人間であろうとする姿。
彼は、それをキューバで見つけた。
だが、その海はもう遠い。
キューバは勝った。カストロは勝った。彼が託した夢は叶った。
そして、その勝利によって、帰る場所は閉じた。
治療が終われば書ける。そう思って島を離れた。だが、書くべき現実は、彼を待たずに先へ進んでしまった。彼が言葉にできないうちに、キューバは歴史の中で勝ち、自分の海を守り、彼をその外へ置いていった。
ヘミングウェイは、暗い部屋の中で静かに息をした。
ふるさとの夜には、波の音がなかった。
その静けさは、安らぎではなかった。
空白だった。
彼はその空白の中で、自分がどちらにも立っていないことを知った。
祖国に完全には戻れない。
キューバへも戻れない。
自分の本が現実になった場所へ、自分だけが帰れない。
海は勝った。
だが、その海はもう、彼のものではなかった。
ヘミングウェイ編も次回で終了。
キューバ編本編に戻ります。
ヘミングウェイの自死については遺書がないため諸説あります。
この幕間の解釈は、明らかになった事実をもとに独自の解釈で語っています。
死後かなりの期間がたち明らかになった事実も含め彼の死にまつわるミステリーを最終話で語ります。
※更新は、月・木・土曜日(朝・夜)二回の週4話です。
次回は、木曜日、夜投稿予定です。
【お知らせ】長編のエピソードになると思わず連載を開始したので、今、前半を大幅改稿しました。
改稿後はボリュームが二倍以上になり背景もわかりやすく史実に寄せてます。(初めはヒューマンドラマを描く予定でした。)
改稿したものはタイトルに改稿としています。ぜひお読み下さい。(日本編の前まで改稿です!)
ジャンルもヒューマンドラマから歴史へ。
よろしければ、ブックマーク/感想/★で応援してもらえると励みになります。




