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ゲバラとカストロ ~革命は二人で始まり、一人で終わる~  作者: 相馬ゆう
【幕間】戻れない海~ヘミングウェイとキューバの海~
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145/214

144,美しい島の腐った日常

スペインを去ったヘミングウェイは美しい島キューバで日常を過ごします。


そして、そのあとキューバ革命は始まります。

一九四〇年代、ハバナ郊外。


フィンカ・ビヒアの朝は、アメリカの朝とは違っていた。


窓を開けると、湿った光が部屋へ入ってくる。庭には草の匂いがあり、犬の気配があり、遠くから車の音がかすかに届いた。机には原稿があり、酒瓶があり、読みかけの本があった。だが、そのどれよりも先に、彼の身体は海の方角を探していた。


アメリカは祖国だった。


しかし、祖国は彼を休ませてはくれなかった。そこには出版社があり、批評家があり、成功した作家としての名前があった。アメリカにいる時、彼はいつもヘミングウェイでいなければならなかった。書いたもの、書けなかったもの、結婚、酒、賞賛、噂。すべてが彼の周りにまとわりついた。


キューバでは違った。


海へ出れば、名声は役に立たない。魚はノーベル賞を知らず、波は批評家の名前を覚えない。風の変化に気づく目、糸を読む指、腕の痛みに耐える力だけが試される。そこでは、アメリカの国民的作家であることより、朝の潮を間違えないことの方が大事だった。


コヒマルの漁師たちは、彼を特別扱いしすぎなかった。有名な作家であることは知っていた。けれど沖へ出れば、誰もが同じ海の上にいる。老いた漁師も、若い船乗りも、アメリカから来た作家も、魚の前ではただの人間だった。


ヘミングウェイは、その平等さに救われていた。


第一次大戦では、人間は国家の力に壊された。スペインでは、思想のために自分を差し出す人間を見た。だがキューバの海では、人間はもっと古い営みへ戻ることができた。


船を出す。

風を読む。

魚を待つ。

逃げられても、また海へ出る。


それは勝利のためだけの行為ではなかった。敗れても、何かが残る。何も持ち帰れなくても、その日の耐え方だけは残る。やがて彼が老いた漁師の物語に託すことになるものは、この島の海にあった。


キューバの海は、戦い続けた人間が、もう一度人間として息をする場所だった。


だからこそ、夜のハバナは余計に苦かった。


昼のコヒマルには、魚の血と塩の匂いがあった。だが夜のハバナには、香水と葉巻と金の匂いがあった。ホテルのロビーでは英語が飛び交い、カジノではルーレットの球が乾いた音を立てて回った。白いスーツの男が笑い、大きな指輪をした男が、ドアマンの手に紙幣を握らせる。警官はそれを見ても、顔色ひとつ変えなかった。


ネオンは明るかった。


けれど、その光は海の朝とは違っていた。人間を照らすためではなく、欲望を隠すための光だった。島の美しさは、外から来た金と、バティスタの腐った権力によって飾り物にされていた。


一九五二年、バティスタはクーデターで権力へ戻った。軍、警察、役人、ホテル、カジノ、港。島の夜には、彼の名が見えない糸のように張り巡らされていた。アメリカから来た資本は、キューバの海ではなく、キューバの夜を買っていた。マフィアはその夜を管理し、観光客はそこを楽園と呼んだ。


ヘミングウェイは、その矛盾を知らなかったわけではない。


彼はアメリカ人だった。だからこそ、見えすぎるものがあった。島を汚しているものの中に、自分の祖国の影がある。キューバの夜を食い物にする金の多くは、海の向こうから来ていた。腐敗した政権を支える力のどこかにも、アメリカの都合があった。


彼はそのことを、声高には言わなかった。言えば、自分の足場まで崩れる気がしたのかもしれない。


それでも、知っていた。


キューバは美しい。だが、その美しさは汚されている。


だからこそ、朝の海がいっそう美しく見えた。


だからこそ、コヒマルの漁師たちがいっそう誇り高く見えた。


彼らは、ネオンの下で笑う男たちより貧しかった。けれど、船を出す時の背中には、カジノの支配人や役人にはない静けさがあった。彼らは誰かのために島を飾る人間ではなかった。海と暮らし、魚を追い、明日の食卓を自分の手で引き寄せる人間だった。


ヘミングウェイは、そこに救われていた。


キューバは、彼の祖国ではなかった。


しかし、生活はそこにあった。


※※※※※※※※※※


一九五六年十二月、カストロ達革命軍をのせたグランマ号がキューバへ着いた。


それは、勝利の船というより、難破に近い始まりだった。海は荒れ、上陸は乱れ、兵士たちは散り散りになった。バティスタの軍は彼らを追い、革命軍は最初から英雄の姿で山へ入ったわけではなかった。


汚れていた。


服は破れ、靴には泥が入り、眠る場所も、食べるものも、弾も足りなかった。薬は少なく、銃は古く、空腹は議論よりも早く腹を鳴らした。彼らの革命は、ポスターの中の美しさではなく、濡れた布と、傷口と、息を殺す夜から始まった。


それでも、シエラ・マエストラの山中には、ハバナのネオンにはない光があった。


フィデルは、少ない人数の中に、人数以上のものを見ようとしていた。相手は軍隊を持っている。飛行機を持っている。都市を持ち、警察を持ち、役人を持っている。バティスタ政権は、外から見れば巨象だった。アメリカの支援と黙認があり、ホテルには金が流れ、カジノは夜ごとに回り続けていた。


それに対して、山にいるのは、泥にまみれた若者たちだった。


だが、フィデルは知っていた。


巨象は、必ずしも強いから立っているのではない。倒れないと思われているから立っていることがある。人々が「倒せる」と思い始めた時、その足元は変わる。


最初は、誰も本気にしなかった。


山に逃げ込んだ若者たち。負け残り。夢想家。学生。弁護士。医者。銃の扱いも十分ではない者たち。バティスタの軍はそう見た。


だが、彼らは消えなかった。


消えなかったことが、最初の勝利だった。


山の農民が、彼らに食べ物を渡す。小さな情報が届く。政府軍の動きが耳に入る。誰かが弾を運び、誰かが怪我人を隠す。小さな噂が、山から村へ、村から町へ降りていく。


まだ、いるらしい。


カストロたちは、まだ山にいる。


その言葉は弾より遅く、しかし確実に島を動かしていった。


ゲバラは、傷の手当てをしながら、革命がただの突撃ではないことを身に染みて知っていた。熱を出した農民の子どもを診る。銃創を洗う。薬が足りない時、何を諦めるか決める。革命とは、演説の中にある時は美しいが、山の中では膿と血と飢えの匂いを持っていた。


ラウルは、人数と銃と見張りの位置を考えていた。情熱だけでは夜を越えられない。誰がどこに立つか、誰が黙るか、誰が退くか。その規律がなければ、理想はすぐ死体になる。


フィデルは、その二人の違いを分かっていた。


ゲバラは、革命の先を見ようとする。

ラウルは、革命を生き残らせる形を考える。

自分は、人々に「まだ終わっていない」と思わせなければならない。


シエラの舞台は汚れていた。服も、靴も、銃も、顔も汚れていた。けれどその汚れは、ハバナのカジノの床を磨く光よりも清潔に見えた。濡れた土に膝をつく若者たちの方が、ネオンの下で金を数える男たちよりも、ずっとまっすぐに立っていた。


神々しい、という言葉を使えば笑われるかもしれない。


それでも、そこには何か崇高なものがあった。


飢えながら、眠れず、追われながら、それでも自分たちの国を語る若者たち。まだ存在しない学校や病院や土地の分け方について議論する者たち。勝てる保証などないのに、勝った後の国を心配する者たち。


汚れたゲリラの舞台は、ハバナのネオンよりも明るかった。


やがて、その明るさは山を降り始める。


政府軍は何度も山を叩いた。だが、山は完全には沈黙しなかった。敗北したと思われた者たちが、また現れる。殺されたと思われた指導者の声が、ラジオから流れる。小さな勝利が重なり、兵士たちの間に疲れが広がる。警察は厳しくなるが、厳しくなるほど、人々は政権の恐怖を感じる。


バティスタの巨象は、少しずつ足を滑らせていった。


一九五八年の終わりが近づくころ、島の空気は変わっていた。


ホテルの明かりはまだついていた。カジノのルーレットもまだ回っていた。だが、そこにいる者たちは、以前と同じ顔では笑えなくなっていた。警官は制服の襟を気にし、役人は電話の相手を選ぶ。誰かが、逃げる準備を始める。


一九五九年一月一日、バティスタはキューバを去った。


一月八日、フィデル・カストロはハバナへ入った。


革命軍は、もうただの山の若者ではなかった。


島が、彼らを見ていた。


※※※※※※※※※※


ヘミングウェイがそのしらせを聞いた時、最初に覚えたのは驚きではなかった。


胸の奥に、何かがほどけるような感覚があった。


バティスタが去った。


その一文だけなら、政治ニュースにすぎない。だが彼にとっては、そうではなかった。長いあいだ愛してきた島の上から、腐った膜が一枚剥がれたように思えた。


彼が一月八日のハバナの群衆の中にいたわけではない。革命軍のパレードを、通りの石畳の上で見上げていたわけでもない。ヘミングウェイが受け取ったのは、新聞の写真であり、ラジオの声であり、酒場の噂であり、フィンカへ届く人々の表情だった。


それで十分だった。


島は変わっていた。


革命後、フィンカ・ビヒアにもカストロの声は届いた。


ラジオの音は、いつも少し割れていた。雑音の向こうで、若い男の声が続いていた。長い声だった。熱を帯びていた。だが、ただ群衆を酔わせるための声ではなかった。


土地のことを語っていた。

砂糖のことを語っていた。

学校のことを語っていた。

病院のことを語っていた。

主権のことを語っていた。


ヘミングウェイは、黙って聞いた。


若い声だった。疲れを知らない声だった。だが、不思議と軽くはなかった。そこには、ただの反抗ではなく、国を作ろうとする知性があった。民衆を煽るための言葉ではない。島がなぜ奪われ、どう取り戻されなければならないのかを、荒いが確かな論理で語っていた。


彼は、少し驚いた。


革命家の声というものを、彼は何度も聞いたことがある。スペインで、ホテルで、前線で、酒場で。大きな理想を語る者は珍しくなかった。だが、カストロの声には、古い演説とは違う新しさがあった。帝国の言葉でも、軍人の言葉でも、ファシズムの言葉でもない。島が、自分の言葉を探しているようだった。


その純粋さに、彼は惹かれた。


同時に、危ういとも思った。


純粋なものは、折れる時に鋭く折れる。正しいと信じる力は、人間の弱さにぶつかった時、時に残酷になる。スペインで、彼はそれを見ていた。正しい側にいても、人は裏切り、怯え、飢え、憎む。革命もまた、人間が作るものだった。


だが、その危うさを見ている自分の目が、完全に冷静ではないことも分かっていた。


嫉妬があった。


彼らは若かった。泥にまみれ、傷つき、腹を減らしながら、それでも国を作る話をしていた。ヘミングウェイが戦場で見て、紙の上に閉じ込めたものを、彼らは現実の島の上でやろうとしている。


自分は書いた。

彼らは、やった。


その違いが、胸を少しだけ苦くした。


嫉妬は、醜いものではなかった。老いた男が若い男を見る時の、避けようのない痛みに近かった。自分が信じ、書き、何度も敗北の形で見送ってきたものを、彼らはまだ若い身体で成し遂げようとしている。


ハバナのネオンより、泥に汚れたゲリラたちの姿の方が明るく見えた。


彼らは美しく着飾っていたわけではない。靴は破れ、服は乾かず、顔には疲労があった。だが、その疲労には意味があった。カジノの光が人間の欲望を飾るものなら、彼らの汚れは、島が自分自身を取り戻すための汚れだった。


もちろん、革命がこれから何を生むのかは分からない。


新しい政府が、必ず古い政府より清潔であり続ける保証などない。武器を持って勝った者が、権力を持った時にどう変わるかを、ヘミングウェイは知らないわけではなかった。スペインで、彼は正しい側にも弱さや醜さがあることを見ている。


それでも、その時は希望が勝った。


フィンカ・ビヒアの朝は、いつもと同じだった。庭には湿った光があり、犬が動き、風が窓から入ってきた。遠くのハバナも、海も、すぐには変わらない。ピラーの甲板には塩が残り、コヒマルの漁師たちは、革命の翌日も魚を追わなければならない。


だが、同じではなかった。


島が、自分の声で話し始めた。


ヘミングウェイはそう感じた。


キューバは、美しいだけの島ではなくなった。


誰かに飾られる島でもない。


思想としても、愛せる島になろうとしていた。


そのことに、彼は少し酔った。


酒の酔いとは違う。もっと若い頃の、戦場へ向かう前の胸の熱に近かった。自分がもう若くないことを忘れさせる熱だった。長く生き、何度も失望し、言葉にできるものとできないものを分けてきた男の中に、まだ何かを信じたがる部分が残っていた。


ヘミングウェイは、海を見た。


海は、昨日と同じ色をしていた。


だが、島は昨日と同じではなかった。


その時のヘミングウェイには、それがとても正しいことに思えた。


そして正しいものは、いつか人を救うのだと、まだ信じることができた。

それまでアメリカの傀儡国家だったキューバが、革命によりキューバ国民のものとなります。

しかし、ヘミングウェイはその中で引き裂かれた立場になっていきます。


※更新は、月・木・土曜日(朝・夜)二回の週4話です。


次回は、月曜日の夜投稿予定です。


【お知らせ】長編のエピソードになると思わず連載を開始したので、今、前半を大幅改稿しています。


改稿後はボリュームが二倍以上になり背景もわかりやすく史実に寄せてます。(初めはヒューマンドラマを描く予定でした。)


改稿したものはタイトルに改稿としています。ぜひお読み下さい。(日本編の前まで改稿よていです!)


ジャンルもヒューマンドラマから歴史へ。


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