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ゲバラとカストロ ~革命は二人で始まり、一人で終わる~  作者: 相馬ゆう
【幕間】戻れない海~ヘミングウェイとキューバの海~
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144/214

143, 誰が鐘をならしたか

アメリカ編で進めた時間を、キューバ編に戻すための幕間です。

祖国アメリカと心の安息地キューバとのあいだで引き裂かれた作家ヘミングウェイの晩年を描きます。

一九三七年、スペイン。


空は高く、乾いていた。


第一次大戦の記憶にある空とは違っていた。あの戦争の空は、砲声と煙と泥の中にあった。若い兵士たちの身体が壊れ、担架が走り、雨と血が道を埋めていた。


だが、スペインの空には別の硬さがあった。


乾いた土。石の多い山道。小さな村。痩せた畑。白い壁。遠くで鳴る銃声。そこにいる人々は、ただ国家の命令で前線へ送られた兵士ではなかった。村を守る者がいた。土地を守る者がいた。自由という、まだ手で掴めないもののために銃を握る者がいた。


スペイン内戦は、スペインだけの戦争ではなくなっていた。


一九三六年、軍の一部が共和国政府に反乱を起こした。反乱軍の中心にいたのが、フランコだった。彼らは古い秩序、軍、地主、教会、保守的な力を背負っていた。対する共和国側には、労働者、農民、知識人、社会主義者、無政府主義者、自由主義者、反ファシズムを掲げる者たちが集まった。


そこへ、ヨーロッパの影が伸びてきた。


ドイツとイタリアのファシズムは、フランコ側を支えた。ソ連は共和国側へ近づいた。世界各地から義勇兵が来た。記者が来た。作家が来た。スペインは、ひとつの国の内戦でありながら、世界がこれからどちらへ進むのかを先に見せる戦場になっていた。


ヘミングウェイは、兵士としてそこにいたのではない。


彼はジャーナリストだった。戦場を取材し、前線を見て、人々の言葉を聞き、ホテルの部屋で原稿を書いた。だが、外から眺めるだけの観察者ではいられなかった。フランコの側には立てなかった。共和国の側にいる人々の中に、彼は第一次大戦では見られなかったものを見た。


武器に、意味が宿っていた。


第一次大戦で見た砲弾は、遠くから人間を壊すだけの力だった。撃たれる者の顔を見ない。祈りも、階級も、信念も選ばない。ただ金属が飛び、肉体が裂ける。


だがスペインでは、銃を握る者の中に理由があった。


土地を守るため。

村を守るため。

独裁に抗うため。

自由を、自由という言葉だけで終わらせないため。


それでも、銃は人を殺す。


正しい理由があっても、倒れる身体の重さは変わらない。撃たれた者の血は、共和国側でもフランコ側でも同じ色をしている。恐怖も消えない。臆病さも、裏切りも、疲労も、飢えも、恋も消えない。


だからこそ、書かなければならない。


ヘミングウェイはそう思った。


かつて彼は、『武器よさらば』を書いた。第一次大戦の傷を小説にした。人間が国家の巨大な力に呑み込まれていく姿を書いた。愛が戦争の前でどれほど脆いかを書いた。若い身体が壊れ、言葉が届かなくなり、雨だけが降り続ける世界を書いた。


だが、スペインで見ているものは、それだけではなかった。


ここには、壊される人間だけではなく、壊されると分かっていても踏みとどまる人間がいた。負けるかもしれないと知りながら、山に残る者がいた。銃を握ることの汚れを知りながら、それでも握らなければ守れないものがあると信じる者がいた。


この内戦がどう終わるとしても、自分は今見ているものを作品にしなければならない。


『武器よさらば』を書いた自分を、もう一度超えなければならない。


勝利の物語ではない。

正義だけの物語でもない。


敗北するかもしれない者たちが、それでも銃を握る物語だ。


橋を爆破しに行く男。山にこもるゲリラ。村を守る者たち。愛する者を残して任務へ向かう者。裏切りを疑い、恐怖に耐え、それでも朝を待つ者。


その物語が、いつか誰かに読まれるなら。


まだ見ぬどこかの山で、別の若者たちがそれを開くなら。


彼らが、そこに戦い方だけでなく、人間が何のために戦うのかを読んでくれるなら。


その時、自分がスペインで見たものは、ただ敗北の記録では終わらないかもしれない。


ヘミングウェイは、自分の手を見た。


戦場の近くで傷を負った手だった。原稿を書く手だった。酒瓶を持ち、銃を持ち、女の手を取った手だった。


その手で、今度は何を書けるのか。


彼はスペインの空を見上げた。


乾いた空だった。


その空の下で、鐘はまだ鳴っていなかった。けれど彼には、いつかその音が聞こえる気がした。


※※※※※※※※※※


およそ二十年後。


別の山の上に、別の空があった。


シエラ・マエストラの夜空は、スペインの空のように乾いてはいなかった。湿っていて、重く、雲の切れ目からわずかな星が見えた。木々は濡れ、土は柔らかく、虫の声が闇の中に沈んでいた。


火は小さくしてあった。


大きく燃やせば、煙で位置を知られる。山にいる革命軍にとって、暖かさはいつも危険と隣り合わせだった。濡れた服は肌に貼りつき、弾薬は少なく、食料も十分ではない。眠る者も、眠りきってはいなかった。誰かが必ず闇の方を見ていた。


その夜、フィデル・カストロは一冊の本を読んでいた。


『誰がために鐘は鳴る』。


紙は湿気を吸って、端が少し波打っていた。ページの角は折れ、表紙には泥の跡が残っている。それでもフィデルは、まるで地図を見るように読んでいた。


そこには、スペインの山があった。


橋があった。

ゲリラがいた。

敵の後方で生きる者たちがいた。

大きな軍に対して、小さな部隊が時間と地形と恐怖を使って戦う物語があった。


フィデルは、それを文学としてだけ読んでいなかった。


人間の本として読んでいた。

戦い方の本として読んでいた。

恐怖を抱えた者が、なお任務へ向かう時に何を考えるのかを読んでいた。


「またその本か。」


声がして、ラウルが近づいてきた。


フィデルは顔を上げた。弟は濡れた髪を手で払うと、彼の隣に腰を下ろした。若かった。顔つきにはまだ青年の線が残っている。だが目は、兄よりも早く軍隊の形を見ようとしていた。


「読んだんだろう。」


フィデルが言った。


「読んだ。」


ラウルは短く答えた。


「なら分かるはずだ。」


「分かる。だから自分には合わないと思った。」


フィデルは少し笑った。


「合わない?」


「山の戦いは書けている。敵の後方でどう生きるかも、恐怖も、仲間の重さも分かる。だが、迷いが多すぎる。恋も多い。革命に必要なのは、もっと組織と規律だ。」


「人間から迷いを抜いたら、兵士は便利になるな。」


「便利な兵士がいなければ、革命軍は生き残れない。」


「命令だけで動く兵士なら、バティスタにも作れる。」


ラウルは唇の端を少し上げた。


「兄さんは、戦争を読む時まで芝居がかっている。」


「芝居ではない。人間だ。」


フィデルは本を閉じなかった。湿った紙の端を指で押さえたまま、闇の向こうを見た。


「人間は命令だけでは動かない。怒りで動く。恥で動く。愛で動く。腹が減っても、自分がなぜ山にいるのかを忘れなければ動く。俺たちは、ただの部隊ではない。国を取り戻そうとしている。」


「国を取り戻すだけなら、旗を替えればいい。」


ラウルの声は低かった。


「だが、それだけでは戻らない。土地を誰が持つ。砂糖を誰が売る。学校へ誰が行く。病院に誰がかかる。そこを変えなければ、国は変わらない。」


「急げば、国は壊れる。」


フィデルは即座に返した。


「いきなり自立などできない。銃だけで国は食えない。砂糖を売る相手もいる。機械を買う相手もいる。医者も学校も足りない。アメリカと話せるなら、話すべきだ。」


「話すことと従うことは違う。」


ラウルが言った。


フィデルは頷いた。


「その通りだ。俺は、アメリカを倒したいんじゃない。祖国キューバを誰の持ち物にもしたくないだけだ。星条旗の下でも、赤い旗の下でも、島が誰かの農園になるなら意味がない。」


ラウルはその言葉を聞いて、少しだけ黙った。


山の夜は濃かった。雨は止んでいたが、葉から落ちる水滴が絶えず音を立てている。遠くで誰かが咳をした。別の誰かが、それを咎めるように小さく舌打ちした。


その時、暗がりからゲバラが戻ってきた。


濡れた上着を肩にかけ、片手に小さな包みを持っていた。医薬品なのか、ノートなのか、暗くて見えない。彼は二人の顔を見て、すぐに何の話をしていたか察したようだった。


「また国を作っているのか。」


ゲバラは低く言った。


フィデルが笑った。


「まだ山も出ていないさ。」


「山の中で国を作れない者は、平地に降りても作れない。」


ゲバラは腰を下ろし、湿った煙草に火をつけようとして諦めた。


「その本の話か。」


ラウルが言った。


「読んだのか。」


「読んだ。」


ゲバラは本の表紙をちらりと見た。


「いい本だ。だが、読む者を少し酔わせる。」


「酔っては困るな。」


ラウルが言った。


「困る。だが、酔えない者だけで革命をやると、役所になる。」


フィデルが声を殺して笑った。


「医者らしい診断だ。」


「兄弟喧嘩の診断は専門外だ。」


ゲバラは、湿った煙草を指の間で転がした。


「だが革命なら少し分かる。人間は物語で立ち上がる。自分の苦しみが、自分だけのものではないと知った時に立ち上がる。だが、立ち上がったあとに何を作るかは思想で決まる。」


ラウルが頷いた。


「そこだ。国を作るなら、規律がいる。」


「規律だけでは国民は自立しない。」


ゲバラはラウルを見た。


「だが、自由という言葉だけでも自立しない。子どもが病院に行けず、農民が土地を持てず、労働者が砂糖の値段で人生を決められるなら、その自由は誰のものだ。」


フィデルは黙って聞いていた。


ゲバラは続けた。


「社会主義が好きだから社会主義を選ぶんじゃない。搾取されない国を作ろうとすると、そこへ行く。土地を誰が持つのか。工場を誰が持つのか。学校を誰のために作るのか。そこを避けて反帝国を語れば、革命は旗を替えただけで終わる。」


「だが、赤い旗を掲げた帝国に島を渡すつもりもない。」


フィデルの声は、冗談の温度を失っていた。


「アメリカの旗が下りたあとに、別の旗を立てるだけなら、キューバはキューバではない。ソ連が武器をくれるなら、受け取ることはあるだろう。砂糖を買うなら、売ることもあるだろう。だが、それで主人が変わるだけなら、革命をする意味がない。」


ゲバラは、少しだけ目を細めた。


「君は、いつも国の名前で話す。」


「悪いか。」


「悪くない。俺は病人の名前で考える。ラウルは制度の名前で考える。君は島の名前で考える。だから面倒だが、三人そろうと少し役に立つ。」


ラウルが短く笑った。


「俺たちを薬の配合みたいに言うな。」


「配合を間違えると死ぬ。」


「革命も同じだ。」


フィデルが言った。


三人はしばらく黙った。


その沈黙は、重くはなかった。若さのある沈黙だった。全員がまだ、自分たちの言葉で未来を掴めると思っている。国の形を、議論と銃と本と意志で作れると思っている。


その青さは、愚かさではなかった。


泥の中で、空腹の中で、追われる夜の中で、それでも未来の学校や病院や土地の話をしている。彼らはただ怒っているだけではなかった。知ろうとしていた。学ぼうとしていた。自分たちが何を壊し、何を作るのかを、まだ若い言葉で確かめようとしていた。


※※※※※※※※※※


不意に、見張りの一人が低く合図した。


三人の顔つきが変わった。


火がさらに小さくされた。本は布に包まれた。ラウルは銃を取った。ゲバラは包みを懐に入れ、フィデルは膝を立てたまま闇の方へ目を向けた。


遠くで犬が吠えた。


続いて、枝が折れる音がした。


誰も喋らなかった。


さっきまで、本の話をしていた。国の形を議論していた。社会主義や独立やアメリカとの関係を、濡れた夜気の中で語っていた。


だが、ここは教室ではない。


彼らは山の中にいた。見つかれば死ぬ。捕まれば拷問される。議論の続きを明日の夜にできる保証はない。


それでも、彼らは本を読んでいた。


それでも、彼らは国の話をしていた。


犬の声はやがて遠ざかった。見張りが戻り、首を振った。政府軍ではなかったらしい。山の夜は、何事もなかったように元の湿りを取り戻した。


ラウルは銃を膝の上に置いたまま、布に包まれた本を見た。


「兄さん。」


「なんだ。」


「その本が役に立つとしても、俺たちはその物語の通りにはならない。」


フィデルは布をほどき、本を取り出した。


「ならなくていい。」


ゲバラが言った。


「物語は、なぞるためにあるんじゃない。越えるためにある。」


フィデルはその言葉を聞いて、静かに笑った。


「作家が聞いたら怒るな。」


「いや、いい作家なら喜ぶ。」


ゲバラは湿った夜空を見上げた。


「自分の書いたものを、誰かが現実で越えていくなら。」


フィデルは本を開いた。


ラウルは銃の金属部分を布で拭いた。


ゲバラは小さなノートを取り出し、何かを書きつけた。


三人は同じ本を読んでいなかった。


フィデルは、そこに人間を読んだ。恐怖を抱え、弱さを抱え、それでも山から降りていく者たちの力を読んだ。


ラウルは、そこに組織の不足を見た。物語の美しさだけでは軍は動かず、国は支えられないと考えていた。


ゲバラは、そこに革命の先を見た。土地、病院、学校、工場、国民の自立。戦いに勝つだけでは足りない。勝ったあとに、搾取されない社会を作らなければならない。


彼らは同じ本を読んでいなかった。


それでも、同じ島を見ていた。


※※※※※※※※※※


スペインで書かれた山の物語は、カリブの湿った夜の下で、別の読み方をされていた。


それは、ヘミングウェイがスペインで見た敗北の物語だった。


けれど、シエラ・マエストラの若者たちは、その本を敗北のためには読まなかった。彼らは勝つつもりで読んでいた。橋の爆破ではなく、国の奪還を考えていた。死に方ではなく、生き残ったあとに何を作るかを話していた。


受け継がれた物語は、そこで少し形を変えた。


もう、書かれたものだけではなかった。


濡れた土の上に置かれた銃。

湿気を吸った本。

小さな火。

若い声。

まだ存在しない国についての議論。


それらが、次の物語になろうとしていた。


フィデルは本のページを押さえ、もう一度、夜空を見上げた。


スペインの空ではない。


キューバの空だった。


そしてその下で、鐘はまだ鳴っていなかった。


だが、山のどこかで、もう小さく震え始めていた。

ヘミングウェイの小説はおおざっぱには、戦争とともに生きた人間を描いた前期と、自然の中でたくましく生きる後期の作品に分かれます。

近代戦の悲しいほどの人間の無力さを思い知った彼が心の安息地として過ごしたキューバ。

彼は、若い頃生き抜いた闘いを革命軍にみたのでしょうか?


キューバ危機以降の英雄たちの別れを描く本編の前の幕間は続きます。


※更新は、月・木・土曜日(朝・夜)二回の週4話です。


次回は、今夜、投稿予定です。


【お知らせ】長編のエピソードになると思わず連載を開始したので、今、前半を大幅改稿しています。


改稿後はボリュームが二倍以上になり背景もわかりやすく史実に寄せてます。(初めはヒューマンドラマを描く予定でした。)


改稿したものはタイトルに改稿としています。ぜひお読み下さい。(日本編の前まで改稿よていです!)


ジャンルもヒューマンドラマから歴史へ。


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