137,モラルというジャケット2
アメリカ編のラストに41話の回収、1979年のメアリー目線です。
カストロを取材していたメアリーは何を感じていたのでしょうか?
一九七九年秋。
ニューヨークへ向かう機内の空気は乾いていた。
乾いているのに、熱があった。
飛行機の中は、どこへ向かう時でも少し不自然な場所になる。国境の上を飛びながら、誰もが自分の国の言葉で考え、自分の国の新聞に載せるための答えを探している。空の上にいるのに、地上の線からは逃げられない。
通路の一角に、即席の取材席が作られていた。
小さな録音機。
手帳。
ペン先。
紙の匂い。
機体の金属の匂い。
その中心に、フィデル・カストロが座っていた。
彼は、座らされているようにも、場を支配しているようにも見えた。数人の記者が周囲に円を作り、質問の順番をうかがっている。けれど、実際に囲まれているのは記者たちの方かもしれないと、私は思った。
カストロは、場の中心になることに慣れていた。
背は高く、声は低い。表情は大きく動かない。それなのに、彼が少し視線を動かすだけで、記者たちはその意味を探そうとする。彼を英雄として書きたい者がいる。独裁者として書きたい者がいる。危険な男として切り取りたい者がいる。第三世界の代弁者として持ち上げたい者がいる。
熱は、二種類あった。
彼を悪役にしたい熱。
彼を英雄にしたい熱。
私は、そのどちらにも加わるつもりはなかった。
学生の頃、新聞の中で見たカストロは、髭を生やした危険な男だった。軍服を着て、大きな手を動かし、遠い島からアメリカに楯突いている男。保守的な家庭で育った私には、彼は共産主義者であり、革命家であり、危険な図像だった。
連邦の中にいた頃、彼は政策文書の中の名前になった。
ピッグス湾。
キューバ危機。
ソ連。
核。
中南米。
反米。
そこに人間の顔はあまりなかった。カストロは、リスクであり、対象であり、敵側の変数だった。
だが今、目の前にいる彼は、写真でも文書でもなかった。
機内の狭い通路に座り、記者たちの視線を受け、ほんの少し退屈そうに、それでいて一瞬も気を抜かずに呼吸している一人の男だった。
私はもう、連邦の人間ではない。
けれど、完全に外側の人間でもなかった。
アメリカの言葉がどう作られ、どう壊れるかを、私は見てきた。だからこそ、目の前の男が作ろうとしている言葉にも、すぐには飛びつけなかった。
※※※※※※※※※※
質問は、予想通りのところから始まった。
「カストロ議長、あなたはアメリカに楯突いた小国の英雄だと言われています。ピッグス湾の勝利者だ、と。」
別の記者が、ほとんど間を置かずに続けた。
「その一方で、世界を核戦争の危機に近づけた独裁者だとも言われています。キューバ危機の危険な男だ、と。あなた自身は、どちらだと思いますか?」
カストロは、ほんの少しだけ目を細めた。
その表情を、私は見逃さなかった。
呆れたのだと思った。
だが、呆れを顔に出し切らない。怒りもしない。記者の質問が雑であることに腹を立てるほど、彼は若くなかった。
英雄。
独裁者。
どちらも、事実の一部ではある。
そして、どちらも雑だった。
二十年ほど前、アメリカの支援を受けた部隊がキューバに上陸しようとして失敗した。小国が巨大な国に楯突き、生き残った。それは英雄の物語になった。
その翌年、キューバは大国同士の核戦争の中心に置かれた。カストロは、危険な男として名を刻まれた。
どちらの言葉にも、事実はある。
けれど、事実だけでは人は分からない。
ラベルは、現実に遅れて貼られる。貼られた瞬間、現実の一部を隠す。私はそのことを、もう何度も見てきた。
カストロは、短く答えた。
「どちらも、君たちが必要としている言葉だろう。」
機内の空気が、わずかに動いた。
「私がどう思うかより、君たちが何を書きたいかの方が、たぶん先に決まっている。」
記者たちの何人かが笑った。
笑いは、彼のものだった。
場が少しずつ彼の方へ傾いていくのが分かった。
※※※※※※※※※※
私は、その瞬間、少しだけ彼に引き込まれかけていた。
カストロは、質問を避けているのではなかった。質問を自分の舞台に変えていた。
英雄と呼ばれれば、その言葉を受け流す。
独裁者と呼ばれれば、その刃を鈍らせる。
危険を突きつけられれば、冗談に変える。
その動きは、あまりに自然だった。
記者たちの笑いが起きる。録音機の赤いランプが揺れる。誰かがペンを止め、誰かが次の見出しを思いついた顔をする。
この人は、分かっている。
自分が英雄として欲しがられていることも、悪役として欲しがられていることも、危険な男として切り取られることも、全部分かっている。その上で、どの役も引き受けている。
怖い男だと思った。
残酷だからではない。
魅力があるからだ。
人は、残酷な男よりも、魅力のある男に多くを渡してしまう。
私はそれを知っていた。大統領にも、将軍にも、運動家にも、そういう力を持つ者はいた。人は言葉だけでは動かない。声の温度、間の取り方、自分を大きく見せる技術、そのすべてで動く。
カストロは、その技術を持っていた。
そして、それを必要としている男でもあった。
※※※※※※※※※※
質問が途切れた一瞬に、私は口を開いた。
「ニューヨークには、あなたを殺したいと思っている人間がいるはずです。それでも、あなたはなぜここへ来たのですか。」
他の記者が、わずかにこちらを見た。
質問は挑発に聞こえたかもしれない。
けれど、私が聞きたかったのは、恐怖そのものではなかった。
恐怖を抱えたまま、なぜ人前に立つのか。
そのことだった。
カストロは、初めて私を正面から見た。
その目は、すぐに答えを出さない人間の目だった。相手の言葉ではなく、相手がどこから来たのかを測っている。
「人は死ぬ時は死ぬんだよ。」
カストロは言った。
「それが運命だ。」
録音機の赤いランプが、小さく光っていた。
私は続けた。
「あなたは、いつも防弾チョッキを着ていると聞いていますが。」
周囲の空気が少し動いた。
防弾チョッキ。
記者たちは、そういう物を好む。恐怖を、服の話にできるからだ。死の可能性を、身につけるものの話に変えれば、記事にしやすい。
カストロは面倒そうにはしなかった。
むしろ、少しだけ芝居がかった手つきでジャケットをはだけた。シャツのボタンを外し、胸元を見せる。
「着ていないよ。」
彼は言った。
「モラルというチョッキは着ている。これがあれば強い。」
周囲に短い笑いが起きた。
英雄を欲しがる者は息を呑み、悪役を欲しがる者は口元を歪めた。カストロは、その両方を分かっていて場を作っている。
私も、ほんの少し笑いそうになった。
その瞬間、自分が彼のペースに乗せられかけていることに気づいた。
このままなら、彼の勝ちになる。
記者たちは、モラルのチョッキという言葉を持ち帰るだろう。英雄にしたい者はそれを勇気の言葉として使い、悪役にしたい者は独裁者の虚勢として使う。
どちらにしても、カストロは物語の中心に残る。
私は、一段だけ踏み込むことにした。
「モラルで、弾は止まりますか?」
笑いが止まった。
カストロの目が、こちらを向いた。
まだ彼は崩れていない。むしろ、その程度なら受け止める準備があるように見えた。
「止まらない。」
彼は低く言った。
「だが、臆病な人間の舌は止める。」
うまい答えだった。
危険な答えでもあった。
このままなら、また彼の勝ちになる。場は笑いと感心で終わる。録音機には使いやすい言葉が残り、私は、彼が見せたいカストロだけを持ち帰ることになる。
私は少しだけ息を吸った。
自分がこれから聞くことが、意地の悪い質問だとは分かっていた。
友の死を、取材の道具にする。
それは褒められたことではない。
それでも私は、彼の冗談ではなく、彼の人間を見たかった。
「では、ゲバラを殺した弾については、どうお考えですか。」
機内の空気が変わった。
私は続けた。
「彼にも、モラルはあったはずです。それでも、弾は止まらなかった。」
その時、初めてカストロの顔から、場を支配する男の表情が消えた。
ほんの一瞬だった。
だが、見えた。
彼は怒らなかった。笑いもしなかった。記者を睨みつけることもしなかった。
ただ、目の奥が少しだけ遠くなった。
その沈黙の中に、私は別の男を見た気がした。
世界が語りすぎた名前。
本人はもう、何も語れない名前。
そして、カストロが自分の言葉の中で、簡単には触れない名前。
ゲバラ。
私は、質問を間違えたとは思わなかった。
けれど、自分の胸の奥が少し痛んだ。
彼は政治家だった。革命家だった。独裁者だった。演説家だった。国家そのものになろうとしている男だった。
それでも今、目の前にいるのは、友を失った男だった。
※※※※※※※※※※
カストロは、ゆっくりとジャケットを戻した。
「君は、ひどい質問をする。」
声は静かだった。
周囲の記者たちが、一斉にペンを構え直す気配がした。
私は答えた。
「そう思います。」
「だが、逃げない質問だ。」
彼はそう言って、ほんのわずかに口元を動かした。
笑ったのかどうかは分からなかった。
「ゲバラは、モラルで弾を止めようとしたのではない。彼は、自分の信じたもののために、弾の前へ出ていった。止められると思っていたわけではないだろう。」
カストロはそこで一度、言葉を切った。
「私は、彼のようには死ななかった。」
その一言だけ、機内の音が遠くなった。
私はペンを動かせなかった。
彼は続けた。
「私は国に残った。国を守る人間は、死ぬことより生き残ることを選ばなければならない時がある。美しくはない。伝説にもなりにくい。だが、国は伝説だけでは残らない。」
私はその言葉を聞きながら、彼が自分を弁護しているのだと思った。
同時に、自分を責めてもいるのだと思った。
ゲバラは死んで伝説になった。
カストロは生きて国家になった。
その二つの間にある距離を、彼は一生歩くのだろう。
私は手帳に短く書いた。
生き残った者の革命。
それは、彼を許す言葉ではなかった。
ただ、彼を見るための言葉だった。
※※※※※※※※※※
私は、彼を英雄として書くつもりはなかった。
独裁者として片づけるつもりもなかった。
どちらも、事実の一部ではある。けれど、どちらか一つだけを選んだ瞬間、この男の中にある矛盾は消えてしまう。
ゲバラは死んだ。
カストロは生き残った。
一人は伝説になり、一人は国家になった。
その違いが、二人を分けたのだろうか。
それとも、最初から二人は違う場所を見ていたのだろうか。
私は、まだ知らない。
けれど、その問いを持てるところまでは来た。
学生の頃、新聞の中のカストロは、髭を生やした危険な男だった。連邦にいた頃、彼は政策文書の中の敵だった。そして今、機内の狭い取材席に座る彼は、英雄でも独裁者でもなく、友を失ったあとも国を背負い続けている一人の男に見えた。
理解することと、許すことは違う。
それでも、理解しようとしなければ、物語はいつまでも敵の形をしている。
私はそれを、遠回りをして学んだ。
父から。
ジョンソンから。
マクナマラから。
置いていかれた南ベトナムの人々から。
そして今、カストロから。
人は正しさだけで動くのではない。
恐怖で動く。
屈辱で動く。
誇りで動く。
失ったもののために動く。
愛した者の死を、別の形で抱え直すために動く。
その背景を見ないまま、英雄や独裁者という名前だけを貼れば、記事は書ける。
けれど、人間は書けない。
※※※※※※※※※※
機体が軽く揺れた。
誰かがシートベルトの金具を鳴らした。録音機の赤いランプは、まだ点いている。カストロは次の質問に答え始めていた。
彼はまた、場の中心へ戻っていた。
英雄でもいい。
悪役でもいい。
危険な男でもいい。
第三世界の代弁者でもいい。
とにかく、目を逸らさせない。
忘れられた瞬間に、小国は壊される。
彼は、そのことを知っている男だった。
私は手帳を見た。
生き残った者の革命。
その一行の下に、もう何も書けなかった。
私の役目は、ここまでなのだと思った。
カストロを完全に理解したわけではない。ゲバラのことも、キューバのことも、私はまだ知らない。私が見たのは、機内の一角で、友の死を突かれ、一瞬だけ演じる顔を失った男だけだった。
けれど、それで十分だった。
この男の物語は、一人では始まっていない。
だから、一人だけを見ても終わらない。
私は手帳を閉じた。
録音機の赤いランプは、まだ点いていた。カストロは記者たちに向かって話し続けている。機体はニューヨークへ向かっていた。
この先、彼は国連の演壇に立つ。
世界はまた、彼に名前を与えるだろう。
英雄。
独裁者。
第三世界の代弁者。
アメリカに楯突いた男。
どれも間違いではない。
けれど、どれだけ名前を重ねても、そこにはまだ足りないものがある。
彼の背後には、もう一人の男がいる。
死んだことで伝説になった男。
沈黙したまま、なお世界を動かしている男。
ゲバラ。
私の取材ノートは、ここで閉じる。
けれど物語は終わらない。
それは、私の手を離れ、もっと前の時間へ戻っていく。
二人がまだ、同じ革命の続きを信じていた時間へ。
革命は、二人で始まった。
そしていつか、一人で終わる。
アメリカ編本編は終わり、次回、時間を巻き戻してキューバ編に戻る前にサイドストーリーを投稿予定です。
最近、選挙に関する分断が世界中で問題になっていますが、1960年代のアメリカはこの状況とびっくりするほど似ている部分があります。
その象徴として、日本ではあまり馴染みのないアバラマ州知事ウォレスのストーリーを四話で語ります。肌の色による隔離政策を打ち出し、大統領選挙の第三極に上り詰めた彼の半生はドラマがあり興味深いです。
※更新は、月・木・土曜日(朝・夜)二回の週4話です。
次回は、木曜日夜、投稿予定です。
【お知らせ】長編のエピソードになると思わず連載を開始したので、今、前半を大幅改稿しています。
改稿後はボリュームが二倍以上になり背景もわかりやすく史実に寄せてます。(初めはヒューマンドラマを描く予定でした。)
改稿したものはタイトルに改稿としています。ぜひお読み下さい。(日本編の前まで改稿よていです!)
ジャンルもヒューマンドラマから歴史へ。
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