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ゲバラとカストロ ~革命は二人で始まり、一人で終わる~  作者: 相馬ゆう
引き裂かれる星条旗【後編】~肌とベトナム~
131/133

130,テト攻勢

とうとう恐れていた事態が起きてしまいます。

明らかにアメリカが攻められているように見える映像が全世界に流れています。

アメリカでは、遠い戦争は国民の多くに、現実よりもイメージとして届く。


人は、自分の町のことならよく知っている。州の大学フットボールの選手の名前を知り、隣の州との因縁を知り、教会の噂を知り、町の高校の試合結果を知っている。


けれど、自分の国が戦争をしている場所を、世界地図の上で正確に指せる者は多くない。


それは、アメリカが世界を知らない国だったという意味ではない。


連邦政府は世界各地に基地を置き、外交官を置き、情報機関を置き、日々、遠い国の戦況を読み続けていた。ワシントンには、世界地図を読み、統計を読み、同盟国の弱さまで知っている人間たちがいた。


だが、政府が知っている世界と、国民が受け取る世界は同じではない。


遠い戦争は、現実そのものではなく、いくつかの言葉に置き換えられて届く。


テロ。


内紛。


ゲリラ。


限定作戦。


共産主義の浸透。


ベトナム戦争も、多くのアメリカ人には、悪の共産勢力が支援する北ベトナムと、自由世界に属する南ベトナムの内戦として理解されていた。


もちろん、連邦はベトナムで何が起きているかを隠していたわけではなかった。南ベトナムで爆弾が炸裂することも、道路が破壊されることも、村で役人が殺されることも、報道されていた。記者会見でも語られ、新聞にも載った。


だが、それらは戦争そのものというより、内戦の中のテロや治安問題として届いていた。


政府は、何も伝えていなかったのではない。


伝える言葉を選んでいた。


そして、言葉を選ぶということは、現実の形を変えるということでもある。


※※※※※※※※※※


一九六八年一月三十日から三十一日にかけて、旧正月テトの休戦を破り、北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線は南ベトナム各地で一斉攻撃を開始した。


それが、テト攻勢だった。


攻撃されたのは、国境付近の前線だけではなかった。サイゴン、フエ、ダナン、地方都市、軍事基地、政府機関、放送局、警察署。南ベトナムという国家の内側そのものが、同時に撃たれていた。


軍事的に見れば、攻勢は成功しなかった。


多くの地点で、米軍と南ベトナム軍は反撃に成功した。敵の損害も大きかった。サイゴンのアメリカ大使館も、本館が占領されたわけではない。


だが、最初にアメリカの家庭へ届いたのは、軍事報告ではなかった。


映像だった。


サイゴンが撃たれていた。フエが燃えていた。アメリカ大使館の外壁が破られ、敵が敷地内へ入っていた。


敵は敷地に入ったが、建物は落ちていない。


それは、あとから訂正できる事実だった。


しかし、画面は訂正を待たなかった。


南ベトナムの南部。その首都の中心。しかも、アメリカの大使館だった。


誰が見ても、そこには戦争が映っていた。


遠いジャングルの治安問題ではなかった。国境線の向こうにいるはずの敵が、守っているはずの国の中心にいた。


記者会見で整理され、新聞の見出しで小さく畳まれていた戦争が、映像となってアメリカの居間に入ってきた。


テト攻勢は、前線を突破したのではなかった。


距離を突破し、言葉ではなくアメリカ国民のイメージを突破した。


※※※※※※※※※※


記者会見の前、ホワイトハウスの小部屋には、紙の匂いがこもっていた。


机の上には、報告書、電報、速報、記者向けの想定問答が並んでいた。同じ出来事を、どの言葉で呼ぶか。そのための紙だった。


ジョンソンは椅子に座り、マクナマラは立ったまま資料に目を落としていた。


「“奇襲”は避けた方がいい。」


マクナマラが鉛筆で一つの文に線を引いた。


ジョンソンが顔を上げた。


「奇襲ではないのか。」


「一部の攻撃は予想されていました。敵の動きも把握していた。完全な奇襲と言えば、こちらが眠っていたことになります。」


「だが、国民には奇襲に見える。」


「だからこそです。」


マクナマラは淡々と言った。


「大使館についても同じです。“落ちた”は使えません。本館は占領されていない。敵は敷地に侵入したが、排除されています。」


ジョンソンは報告書を見た。


「敵は入った。」


「はい。」


「だが、落ちてはいない。」


「その通りです。」


ジョンソンは、しばらく黙った。部屋の外から電話の音が聞こえた。その音は、遠い戦場より近かった。


「その二つの違いを、国民は聞き分けると思うか。」


マクナマラは答えなかった。


代わりに、別の紙を差し出した。


「“戦争が拡大した”も避けるべきです。これは敵の一斉攻撃であり、現在は各地で反撃中です。“心理的効果を狙った攻撃”という言い方ができます。」


「心理的効果。」


ジョンソンは、その言葉を繰り返した。


「サイゴンが撃たれ、フエが燃え、大使館の壁を越えられて、それを心理的効果と言うのか。」


「軍事的には、敵の損害は大きい。」


「軍事的には、か。」


ジョンソンは椅子にもたれた。


「その言葉も、何度も使うな。逃げているように聞こえる。」


部屋の空気が沈んだ。


誰も、嘘をつけとは言っていなかった。


むしろ、逆だった。


嘘にならない言葉だけを選んでいた。だからこそ、選べる言葉が少なくなっていった。


「“勝っている”は?」


ジョンソンが聞いた。


マクナマラは、すぐには答えなかった。


「避けるべきです。」


「では、聞かれたらどうする。」


「第二段階を見なければならない。全体の状況を精査中である。軍の能力には自信がある。敵の軍事的目的は達成されていない。そう答えるしかありません。」


ジョンソンは笑わなかった。


「つまり、勝っているとは言わない。」


「言えません。」


「負けているとも言わない。」


「言うべきではありません。」


ジョンソンは紙を机に置いた。


「ボブ。そういう答えを、国民は一番嫌う。」


マクナマラは黙っていた。


その通りだった。


だが、他に答えはなかった。


※※※※※※※※※※


記者会見場に入ると、ジョンソンはすぐに分かった。


記者たちは、説明を待っていなかった。


答えを待っていた。


彼らが知りたいのは、細かな作戦経過ではなかった。大使館本館が占領されたかどうかでもなかった。


勝っているのか。


嘘をついていたのか。


これは、これまで政府が説明してきた戦争と同じものなのか。


最初の質問には、用意した言葉で返すことができた。


敵の攻撃は大規模だったが、各地で反撃が行われている。大使館本館は占領されていない。敵の損害は大きい。これは敵が心理的効果を狙った攻撃である。


言葉は滑らかに出た。


嘘ではなかった。


だが、部屋の空気は軽くならなかった。


やがて、一人の記者が手を上げた。


「大統領。政府はこれまで、敵は消耗している、南ベトナム政府は持ちこたえている、戦況は改善していると説明してきました。」


ジョンソンは記者を見た。


来る。


そう思った。


「では、なぜ敵は、これほど多くの都市で、これほど統制された攻撃を仕掛けることができたのですか。」


室内が静かになった。


ジョンソンの頭の中に、会見前の紙が浮かんだ。


奇襲、と言うな。


敗北、と言うな。


拡大、と言うな。


勝っている、と言い切るな。


彼は、少しだけ間を置いた。


「敵は、軍事的な勝利ではなく、心理的な効果を狙っている。」


声は落ち着いていた。


「事実を見れば、敵の損害は大きい。各地でわが軍と南ベトナム軍は反撃している。大使館も占領されていない。」


記者は、まだペンを止めなかった。


別の記者が続けた。


「要するに、大統領。」


その言葉で、ジョンソンは内心で身構えた。


「われわれは、まだ勝っているのですか。」


質問は短かった。


だから、逃げ場がなかった。


ジョンソンは、すぐには答えなかった。


勝っている、と言えば、サイゴンの映像がそれを裏切る。負けている、と言えば、国家が崩れる。


沈黙は一秒にも満たなかった。


だが、彼には長く感じられた。


「最終的な判断を下すには、まだ早い。」


ジョンソンは言った。


「われわれは第二段階を見なければならない。敵の意図、こちらの反撃、全体の推移を見極める必要がある。わが軍の力には自信がある。」


それは、用意された答えだった。


嘘ではなかった。


だが、問いの中心を避けていた。


記者たちも、それを分かっていた。


ジョンソン自身も、分かっていた。


※※※※※※※※※※


会見の後、ジョンソンは執務室に戻った。


マクナマラが呼ばれた。


扉が閉まると、部屋は急に静かになった。ジョンソンはネクタイを緩めず、椅子にも座らなかった。


「聞いただろう。」


マクナマラはうなずいた。


「はい。」


「まだ勝っているのか、と聞かれた。」


ジョンソンは窓の外を見た。


「答えられるか、ボブ。」


マクナマラは少し間を置いた。


「軍事的には、敵の攻勢は失敗です。」


「俺が聞いているのは、それじゃない。」


ジョンソンは振り返った。


「国民も、それを聞いているんじゃない。」


マクナマラは黙った。


「大使館は落ちていない。敵の損害は大きい。南ベトナム政府は倒れていない。軍事的には敵の目的は達成されていない。」


ジョンソンは、会見前に確認した言葉を一つずつ並べた。


「全部、嘘ではない。」


「はい。」


「だが、嘘に聞こえる。」


マクナマラは反論できなかった。


ジョンソンは、ようやく椅子に座った。


「我々は、国民に何を信じさせていたんだ。」


その声は、怒りよりも疲れに近かった。


「ベトナムではうまくいっている。敵は弱っている。戦争は管理できている。そう信じさせていたんじゃないのか。」


マクナマラは低く答えた。


「我々は、隠していたわけではありません。」


「ああ。隠してはいない。」


ジョンソンはすぐに言った。


「爆弾も、ゲリラも、治安問題も、報告はしてきた。」


そして、声を落とした。


「だが、本当の大きさでは伝えていなかった。」


その言葉に、部屋が止まった。


嘘ではなかった。


だが、嘘に見えた。


政府にとって、それが一番悪かった。


※※※※※※※※※※


メアリーは、国防総省でその報告を聞いた。


記者会見のやり取りは、すぐに回ってきた。大統領がどう答えたのか、記者が何を聞いたのか、どの言葉で切り抜け、どの言葉を避けたのか。


彼女は、机の上に置かれた紙を見た。


そこには、戦争が整った文章で並んでいた。


敵の損害と反撃の状況。


大使館本館は占領されていないこと。


南ベトナム政府は倒れていないこと。


どれも事実だった。だが、事実だけを並べても、画面の中のサイゴンは消えなかった。


政府は、いつも嘘をついているわけではない。


むしろ、事実を並べる。数字を出す。分類する。名前をつける。


テロ。


内紛。


ゲリラ。


治安問題。


掃討作戦。


そうやって、現実を国民が受け取れる大きさに畳んでいく。それは説明でもあった。遠い土地の複雑さを、民主国家の国民に伝えるためには、言葉が必要だった。


けれど、その説明は政治利用でもあった。


国民に分かる言葉へ直すことと、国民に都合よく分からせることは、紙一重だった。


畳まれた現実は、消えたわけではない。折り目の奥に残っている。


テト攻勢は、その折り目を破って現れた。


国民は、政府が嘘をついていたと思った。政府は、自分たちは嘘をついていないと思った。


その間に、映像があった。


サイゴン。


フエ。


アメリカ大使館。


言葉で遠ざけていた戦争が、画面の中でこちらを見返していた。


※※※※※※※※※※


マクナマラは、もう去る人間だった。


世界銀行へ行くことは決まっている。だが、二月の終わりまでは国防長官だった。だから彼は、最後まで公式の言葉を持たなければならなかった。


軍事的には撃退した。


敵の損害は大きい。


大使館は落ちていない。


南ベトナム政府は倒れていない。


どれも間違いではなかった。


けれど、正しい説明が、人々の疑問を消せないことがある。


画面を見た国民は、別のことを聞いていた。


勝っているなら、なぜ敵がここまで来られたのか。


前進しているなら、なぜ南ベトナム首都が撃たれたのか。


敵が弱っているなら、なぜ大使館の壁を越えられたのか。


マクナマラは、その問いに数字で答えることができた。敵の損害も、攻撃地点も、反撃の経過も、地図上の状況も説明できた。


だが、数字では届かなかった。


彼が国防総省で築いてきたものが、そこで揺らいでいた。


損害を測ること。敵の消耗を計算すること。戦争を管理すること。報告書に整理すること。


それらはすべて、映像の前で弱かった。


ジョンソンもまた、黙って画面を見ていた。


彼は国を裏切りたかったわけではない。公民権法も、投票権法も、貧困対策も、本気だった。アメリカを前へ進めたかった。


だが、ベトナムがすべてを飲み込んでいく。


国内の信頼。民主党。若者。黒人。南部。議会。メディア。そして、大統領の言葉。


ジョンソンは報告書を閉じた。


「ボブ。」


「はい。」


「これは、負けた戦争なのか。」


マクナマラはすぐには答えなかった。


「軍事的には、そうではありません。」


「なら、勝っているのか。」


マクナマラは沈黙した。


その沈黙だけで、答えは十分だった。


ジョンソンは椅子の背にもたれた。


「負けたとは言えない。勝っているとも言えない。」


彼は天井を見上げた。


「そういう戦争が、一番国を壊す。」


誰も言葉を返せなかった。


※※※※※※※※※※


その夜、メアリーは国防総省の廊下を歩いた。


蛍光灯の光が、床に白く伸びていた。扉の向こうでは、まだ電話が鳴っている。記者から、議員から、ホワイトハウスから、各地から届く報告は、紙の束になって机の上に積まれていく。


サイゴン。フエ。ダナン。地方都市。軍事施設。政府機関。


名前が増えるたびに、地図の上の赤い印も増えていった。


軍事的には、押し返している。敵の損害は大きい。南ベトナム政府は倒れていない。そう書くことはできた。


だが、メアリーの耳には、記者会見の問いが残っていた。


われわれは、まだ勝っているのですか。


彼女は立ち止まった。


窓の外に、ワシントンの夜が広がっていた。


この街は、言葉でできている。


法案、報告書、声明、演説、記者会見、覚書、議事録。


言葉が国を動かし、言葉が戦争を説明し、言葉が死者の数を処理する。けれど、言葉で包まれた現実が、いつか破れることがある。


その時、出てくるものは数字ではない。


人間だった。

走る兵士。

逃げる市民。

燃える街。

壁を越える敵。


それを見た者は、もう同じ言葉を信じられない。


メアリーは、自分の手を見た。


何度も報告書を運んだ手だった。何度も会議室の扉を開けた手だった。何度も、現実を言葉にするための紙を受け取った手だった。


彼らは、悪人ではなかった。


だが、共犯者ではあった。


メアリー自身もまた、その部屋の中にいた。


※※※※※※※※※※


テト攻勢は、アメリカ軍を壊したわけではなかった。


多くの地点で、米軍と南ベトナム軍は反撃に成功した。敵の損害も大きかった。軍事報告の上では、そう書けた。


けれど、人々が覚えたのは数字ではなかった。


サイゴン。


フエ。


アメリカ大使館。


テト攻勢が壊したのは、軍ではない。


アメリカ政府がかたってきた物語としての戦争のイメージだった。


遠い国の内紛。ジャングルのゲリラ。南ベトナムの治安問題。その言葉の奥にあったものが、映像になって現れた。


戦争は、そこにあった。


国境線の向こうだけではない。ジャングルの奥だけでもない。守っているはずの国の中心に。アメリカの大使館の壁の内側に。そして、アメリカの居間のテレビの中に。


その日から、マクナマラの部屋は少しずつ、長官の部屋ではなくなっていった。

アメリカ兵はジャングルや国境線で戦っているというイメージをみな抱いていました。政府の発表がなかったわけではない。政府は国民がその程度の理解しかないことが分からなかった訳でもなかった。

テト攻勢で多くのアメリカ人が政府に騙されていたと感じた理由は、国民の知識とイメージのギャップにもありました。そして政府はそれを時には利用していたかもしれません。


※更新は、月・木・土曜日(朝・夜)二回の週4話です。

次回は、土曜日の午前投稿予定です


【お知らせ】長編のエピソードになると思わず連載を開始したので、今、前半を大幅改稿しています。


改稿後はボリュームが二倍以上になり背景もわかりやすく史実に寄せてます。(初めはヒューマンドラマを描く予定でした。)


改稿したものはタイトルに改稿としています。ぜひお読み下さい。(日本編の前まで改稿よていです!)


ジャンルもヒューマンドラマから歴史へ。


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