131,マクナマラとの別れ
マクナマラ国防長官の人事は1967年末には決まっていました。
大学で教鞭をとり、第二次大戦の空爆の計画をとったのち、フォードで社長を勤める。若くして数奇な人生はまだ途中です。
テト攻勢の後、ワシントンの空気は変わっていた。
戦争が終わったわけではない。むしろ、戦争は続いている。サイゴンでも、フエでも、地方都市でも、まだ銃声は消えていなかった。
だが、ワシントンでは別のものが先に壊れた。
政府の言葉だった。
勝っている。
前進している。
敵は弱っている。
戦争は管理できている。
そう言い続けるための言葉が、テトの映像の前で、急に細くなっていた。
国防総省の机には、まだ報告書が積まれている。敵の損害、反撃の状況、部隊配置、補給線、追加兵力の要請。数字はまだ動いている。地図の上の線も、まだ引き直されている。
けれど、数字が増えるほど、言葉は弱くなっていった。
「軍事的には――」
その前置きがなければ、もう何も語れなくなっていた。
※※※※※※※※※※
ホワイトハウスの一室で、ジョンソンは報告書を机に置いた。
マクナマラは向かいに座っていた。
二人の間には、南ベトナムの地図が広げられている。サイゴン、フエ、ダナン、地方都市。赤い印が、南ベトナムという国の内側に散っていた。
ジョンソンは、その地図を長く見ていた。
「それで、君はどうしろと言うんだ。」
声は荒くなかった。
荒くないぶん、疲れていた。
マクナマラは、手元の紙を見た。
彼はこれまで何度も、大統領に嫌な報告をしてきた。増派の見通し。敵の損耗率。北爆の限界。国内世論の悪化。議会の反発。
ジョンソンは怒った。
怒鳴ったこともある。罵倒に近い言葉を浴びせたこともある。
だが、それでもマクナマラを切らなかった。
友情ではなかったかもしれない。
だが、信頼ではあった。
少なくとも、ジョンソンはこの男が、自分に媚びるためだけの言葉を持ってこないことを知っていた。
だからこそ、腹が立った。
「これ以上、戦争を大きくしてはなりません。」
マクナマラは言った。
ジョンソンは顔を上げた。
「増派を拒むのか。」
「緊急の補強まで否定しているわけではありません。」
「便利な言い方だな。」
「恒久的な増派で解ける段階は過ぎています。」
マクナマラの声は変わらなかった。
「時間をかけて、南ベトナム側へ責任を移す。交渉の余地を残す。戦争をこれ以上、アメリカの戦争として大きくしない。その道を探るべきです。」
ジョンソンは黙った。
窓の外は冬の色をしていた。芝生は湿り、空は低かった。ホワイトハウスの白い壁だけが、妙に明るく見えた。
「それは、俺に予備選を諦めろということか。」
マクナマラは答えなかった。
ジョンソンは、その沈黙を見た。
「否定しないのか。」
「私は、選挙について申し上げているのではありません。」
「同じことだ。」
ジョンソンは低く言った。
「ベトナムを小さくするということは、俺の言葉を小さくするということだ。俺がこれまで国民に言ってきたことを、国民の前で畳むということだ。」
マクナマラは、まだ答えなかった。
その沈黙は、奇妙に穏やかだった。
引き止める言葉ではなかった。突き放す言葉でもなかった。大統領の決断を奪う言葉でもなかった。
ただ、もう十分だと告げる余白のようだった。
ジョンソンは椅子にもたれた。
「俺はな、ボブ。」
彼は天井を見た。
「自分ほど運の悪い大統領はいないと思ってきた。」
マクナマラは何も言わなかった。
「ケネディの血のあとに、この椅子に座った。国は喪に服し、南部は荒れ、黒人は怒り、白人も怒り、貧困は消えず、ベトナムは膨らんでいった。」
ジョンソンは、そこで少しだけ笑った。
「だが、嘘をつくなら、俺は政治家には向いていない。」
マクナマラが顔を上げた。
「本当は、分かっているんだ。」
ジョンソンは続けた。
「ケネディが生きていれば、俺は大統領にはなれなかったかもしれない。年も取っていた。南部の男だ。全国の英雄にはなれん。俺には、あの男の顔も、声も、若さもなかった。」
彼は、自分の大きな手を見た。
「だから、運が悪かったと呪いながら、同時に、運がよかったことも知っている。」
部屋が静かになった。
「その運で、公民権法に署名した。投票権法に署名した。貧困と戦うと言えた。俺が長い間やりたかったことを、あの椅子に座ったからできた。」
ジョンソンは、地図の上の赤い印を見た。
「だが、その椅子で、ベトナムも大きくした。」
マクナマラは黙っていた。
「俺は、どちらの大統領なんだろうな。」
その問いには、答えがなかった。
公民権の大統領。
貧困と戦った大統領。
ベトナムの大統領。
どれも正しかった。
だから、どれか一つだけを選ぶことは、嘘だった。
マクナマラは、ゆっくりと言った。
「世論は、敵になるかもしれません。」
ジョンソンは鼻で笑った。
「もうなっている。」
「はい。」
マクナマラは否定しなかった。
「ですが、歴史はプレジデントを評価する。私は、そう信じています。」
ジョンソンは黙った。
その言葉は慰めではなかった。
マクナマラは、慰めを言う男ではない。
だからこそ、ジョンソンはその言葉を笑い飛ばせなかった。
「歴史か。」
「はい。」
「世論は俺を許さん。新聞も許さん。若者も許さん。おそらく、俺の党も許さん。」
ジョンソンは、ゆっくり息を吐いた。
「だが、歴史にだけは負けたくない。」
「はい。」
「俺は、君と会えたことを今は呪っている。」
マクナマラの眉が、わずかに動いた。
「私も、そう言われる覚悟はあります。」
「そして、最悪の時期に大統領になったことも呪っている。」
ジョンソンは続けた。
「だが、歴史に恥じることはしていない。そう信じてはいる。」
そこで、彼は少しだけ口元を歪めた。
「もっとも、歴史が俺に味方するころには、俺は生きていないだろうがな。」
マクナマラは何も言わなかった。
ジョンソンは地図から目を離し、彼を見た。
「君は若い、ボブ。」
「若いと言われる年齢ではありません。」
「俺よりは若い。」
ジョンソンはぶっきらぼうに言った。
「世界銀行へ行け。」
マクナマラは黙っていた。
「逃げ場じゃない。褒美でもない。赦しでもない。」
ジョンソンは机を指で叩いた。
「次の責任だ。」
「責任。」
「君の数字は、ここでは人を殺した。少なくとも、そう見える。」
その言葉に、マクナマラの表情がわずかに動いた。
ジョンソンは続けた。
「だが、数字は人を殺すためだけのものじゃない。貧困を測れ。飢えを測れ。学校へ行けない子供の数を測れ。病院のない村を測れ。」
彼は、少しだけ顔を背けた。
「俺がこの国でやろうとしたことを、君は世界でやれ。」
マクナマラは、しばらく答えなかった。
「それは、命令ですか。」
「餞別だ。」
ジョンソンは言った。
「気に入らなければ捨てろ。」
沈黙が落ちた。
先ほどまでの沈黙とは違っていた。
重いのに、少しだけ澄んでいた。
ジョンソンは、もう一度地図を見た。
赤い印は消えていない。
戦争は終わっていない。
だが、何かが少しだけ落ちた。
肩に食い込んでいた見えない手が、一瞬だけ緩んだようだった。
「ボブ。」
「はい。」
「君は、俺に降りろとは言わなかったな。」
マクナマラは静かに答えた。
「私が言うことではありません。」
「そうだ。」
ジョンソンはうなずいた。
「だから、聞けた。」
マクナマラは何も言わなかった。
ジョンソンは椅子から立ち上がった。
その時、マクナマラも立った。
「プレジデント。」
「何だ。」
「私は、あなたの下で働けたことを誇りに思います。」
ジョンソンは、すぐには答えなかった。
やがて、顔を背けるように窓の外を見た。
「そういうことを、辞める日に言うな。」
「辞める日だから申し上げました。」
「最後まで嫌な男だ。」
「はい。」
「褒めてはいないぞ。」
「分かっています。」
ジョンソンは、地図を畳まなかった。
畳めなかった。
ただ、片手で机の端を軽く叩いた。
「行け、ボブ。」
それは怒りではなかった。
命令でもなかった。
長いあいだ同じ嵐の中に立っていた二人の、短すぎる別れだった。
※※※※※※※※※※
国防総省に戻ると、マクナマラの部屋は、もう少しずつ長官の部屋ではなくなっていた。
机はまだある。
地図もある。
報告書もある。
だが、壁際には箱が置かれていた。私物が少しずつ片づけられ、書類の束も分けられている。次に来る人間のための空白が、部屋の中に生まれていた。
世界銀行に関する書類が、机の端に置かれている。
戦争から、銀行へ。
その言葉は、メアリーの中で奇妙に響いた。
彼女は扉の前で一度だけ息を整え、それからノックした。
「入りたまえ。」
中から声がした。
メアリーが入ると、マクナマラは立っていた。いつものように姿勢は崩れていない。だが、部屋そのものが彼の背中を少し小さく見せていた。
「お時間をいただき、ありがとうございます。」
「君が来ると思っていた。」
マクナマラは言った。
メアリーは少しだけ驚いた。
「そう見えましたか。」
「この数日、君は何かを決めた顔をしていた。」
メアリーは答えなかった。
マクナマラは椅子を勧めた。
「座りたまえ。」
メアリーは座らなかった。
「世界銀行へ行かれるんですね。」
「そうだ。」
「戦争から、銀行へ。」
マクナマラは、わずかに眉を動かした。
「逃げるように聞こえるかね。」
「分かりません。」
メアリーは正直に言った。
「でも、不思議には聞こえます。」
マクナマラは、机の上の書類を見た。
「銀行は、金を扱う場所だと思われている。」
「違うんですか。」
「金だけではない。信用を扱う場所だ。国が借りる。国が返す。国が約束する。人々が、その約束を信じる。」
彼は少しだけ間を置いた。
「戦争も、少し似ている。」
メアリーは顔を上げた。
「戦争も、ですか。」
「弾薬だけでは続かない。兵士だけでも続かない。国民が政府の言葉を受け取るから続く。政府が、まだ意味があると言う。まだ目的があると言う。まだ犠牲には理由があると言う。人々がそれを信じる間だけ、戦争は続けられる。」
その言葉で、メアリーは手帳の重みを思い出した。
ずっと挟んだままにしていた、一枚の古い紙。
彼女は鞄を開けた。
「私も昔、信用について教えられました。」
マクナマラは黙って彼女を見た。
メアリーは手帳を取り出し、ページの間に挟んでいた封筒を開いた。
色褪せた紙幣が出てきた。
端は擦り切れ、印刷は古びている。ワシントンで見慣れたドルの緑ではない。敗れた国家の匂いがした。
「南軍の軍票です。」
マクナマラの目が、その紙に止まった。
「南北戦争のものか。」
「はい。」
メアリーは、軍票を机の上に置いた。
「ピッグス湾のあと、アレン・ダレスから渡されました。彼がCIAを去る日でした。」
部屋の空気が、少しだけ変わった。
マクナマラはその名に反応したが、何も言わなかった。
「彼は言いました。南北戦争の時、敗れた南側の政府が刷った金だと。今では価値はない、と。」
軍票の古い紙面に、窓からの光が落ちていた。
「その時の私は、彼のことをただの冷酷な老人だと思っていました。キューバで若者たちを死なせ、ユナイテッド・フルーツの利権を守ろうとした、強欲な人間だと。」
マクナマラは静かに聞いていた。
「でも、彼は違ったのかもしれません。正義の人ではなかった。けれど、ただの悪でもなかった。彼は、この国がもう一度割れることを恐れていた。秩序が壊れ、貧困やイデオロギーが国内に流れ込み、また血で血を洗う時代に戻ることを恐れていた。」
メアリーは軍票を見た。
「だから、彼は悪役を引き受けたのだと思います。少なくとも、彼自身はそう信じていた。」
マクナマラは、軍票に手を伸ばさなかった。
ただ見ていた。
「敗れた国家の紙幣か。」
「はい。」
「かつては、国家の約束だった。」
「はい。」
「だが、その国家が敗れた後は、ただの紙になる。」
メアリーはうなずいた。
マクナマラは、そこでようやく軍票を指先で軽く押さえた。
紙は薄かった。
あまりにも薄かった。
「国家が敗れたから、価値を失った。」
メアリーは言った。
マクナマラは首を振った。
「それだけではない。」
「違うんですか。」
「その国家の未来を、誰も信じなくなったからだ。」
メアリーは黙った。
「紙幣は、軍隊だけでは支えられない。税を集める力、約束を守る制度、働く人間、作られる商品、同盟国の信頼、そして、その国が掲げる理念。そういうものが束になって、紙を紙幣にする。」
マクナマラは続けた。
「ドルも同じだ。」
「ドルも。」
「金と交換できるから、世界がドルを信じている。そう説明することはできる。だが、それだけではない。世界は、アメリカが自由世界の中心であり続けると信じている。アメリカが、力だけではなく、理念と制度で世界を支えると信じている。」
そこで彼は言葉を切った。
「ベトナムは、その信用を削っている。」
メアリーは、六月の秘密プロジェクトで交わした会話を思い出した。
あの時、彼らはベトナムだけを見ていたわけではなかった。
ドルの信用。
金との交換。
膨らみ続ける軍事費。
世界に流れ出すアメリカ・ドル。
アメリカが大きくなりすぎたために、その力を支える紙が逆に危うくなるという矛盾。
ブルトンウッズという約束は、制度であると同時に信仰でもあった。世界がアメリカを信じている間だけ、ドルは世界を動かす紙でいられる。
「あの時、長官は言いました。」
メアリーは言った。
「ドルの信用は、軍事力だけでは守れない、と。」
マクナマラは小さくうなずいた。
「軍事力だけで支えられる通貨は、最後には軍票になる。」
その言葉に、メアリーは軍票を見た。
薄く、古びた、かつて国家だった紙。
「では、世界銀行は、そのためですか。」
「言い方は悪いが、ヘッジだ。」
「ヘッジ。」
「アメリカが力だけの国にならないための、もう一つの賭けだ。爆撃機ではなく、道路を作る。基地ではなく、学校を作る。恐怖ではなく、開発で国を結び直す。」
マクナマラは、軍票から目を離さなかった。
「ドルを、この紙にしないために。」
メアリーは息を詰めた。
それは、戦争から逃げる言葉ではなかった。
美しい贖罪の言葉でもなかった。
もっと冷たく、もっと現実的な言葉だった。
ソフトランディング。
崩壊ではなく、移行。
力で世界を支える時代から、信用で世界をつなぎ直す時代へ。
もちろん、それが本当にできるかどうかは分からない。開発という言葉も、融資という制度も、別の支配になりうる。道路も学校も、数字で測られた瞬間に、人間の顔を失うかもしれない。
それでも、爆撃機だけでドルを守るよりは、まだましだった。
メアリーは、テト攻勢の映像を思い出した。
サイゴン。
フエ。
アメリカ大使館。
大使館は落ちていない。敵の損害は大きい。反撃は成功している。軍事的には敵の攻勢は失敗だ。
どれも嘘ではなかった。
だが、嘘に見えた。
一度そう見えた紙は、同じ印刷のままではもう受け取ってもらえない。
「戦争は、もう持たないんですね。」
メアリーは言った。
マクナマラは、すぐには答えなかった。
「戦場で明日敗れる、という意味ではない。」
「分かっています。」
「米軍は強い。南ベトナム政府もまだ倒れていない。敵にも大きな損害が出ている。」
「はい。」
「だが、この戦争を説明する言葉は、もう長くは持たない。」
メアリーは目を伏せた。
やはり、この人は分かっていた。
分かっていながら、最後までその部屋にいた。
「大統領にも、そう伝えたんですか。」
「伝えた。」
「受け入れましたか。」
マクナマラは、わずかに苦く笑った。
「大統領は、簡単に受け入れる人ではない。」
「それでも。」
「分かってはいる。」
マクナマラは言った。
「彼も分かっている。勝っているとは、もう言えない。」
その言葉に、メアリーは何も返せなかった。
勝っているとは言えない。
負けているとも言えない。
その間にいる戦争が、一番国を壊す。
メアリーは軍票を見た。
「私は、ここを去ります。」
マクナマラは驚かなかった。
「どこへ行く。」
「まだ、はっきりとは。」
それは嘘ではなかった。
だが、彼女の中ではもう決まっていた。
「記者になるつもりか。」
メアリーは顔を上げた。
「どうして。」
「君は、会議室でずっと記録を取っていた。だが、記録しているだけの目ではなかった。」
マクナマラは言った。
「君は、いつも紙の外を見ていた。」
その言葉に、メアリーは少しだけ息を詰めた。
「私は、もうここで言葉を選ぶ側にはいられません。」
彼女は言った。
「選ばれなかった言葉の方を、見たいんです。」
マクナマラは黙っていた。
「政府は、何も伝えていなかったわけではありません。嘘ばかりを言っていたわけでもありません。それは分かっています。」
メアリーは続けた。
「でも、伝える言葉を選ぶたびに、落ちるものがある。畳まれるものがある。小さくされる現実がある。私は、そちらを見たい。」
「我々を疑う側へ行くのか。」
「はい。」
マクナマラは、そこで初めて少しだけ笑った。
疲れた笑みだった。
「それが必要な仕事だと、今なら分かる。」
メアリーは何も言えなかった。
この人を憎むのは簡単だった。
数字で戦争を管理しようとした男。敵の損耗率を測り、死者を報告書に並べ、戦争を合理化した男。
だが、目の前にいるのは怪物ではなかった。
自分の作った言葉が信じられなくなる瞬間を、最後まで見てしまった人間だった。
「止めないんですね。」
「止める資格がない。」
「資格ですか。」
「私も去る。」
マクナマラは、机の端の書類を見た。
「私は世界銀行へ行く。君は記者の方へ行く。どちらも、言葉と数字から逃げられる場所ではない。」
彼は軍票を見た。
「ただ、立つ場所が変わるだけだ。」
メアリーは、軍票を手に取った。
その紙は軽かった。
驚くほど軽かった。
かつて国家の約束だった紙。
兵士に渡され、商人に渡され、家族の生活を支えたかもしれない紙。
だが、その国家が敗れると、価値は消えた。
同じ紙なのに。
同じ印刷なのに。
信じる者がいなくなれば、紙は紙に戻る。
「この軍票を、マクナマラ長官にお渡しするべきかもしれません。」
メアリーは言った。
マクナマラは首を振った。
「いや。」
「なぜですか。」
「それは、君が持っていなさい。」
メアリーは軍票を見た。
「ダレスから君へ渡されたものだ。私が受け取るべきものではない。」
「でも、あなたにも関係があります。」
「あるだろう。」
マクナマラは静かに言った。
「だが、君の方が長く持つ。」
その言葉の意味を、メアリーはすぐには理解できなかった。
マクナマラは続けた。
「我々の世代は、何かを守ろうとして、いくつもの紙を刷った。声明、報告書、命令書、予算案、戦況説明。どれも、国家を動かすための紙だった。」
彼はメアリーを見た。
「君は、その紙の後ろに何があったのかを見るべきだ。」
メアリーは軍票を封筒に戻した。
「長官。」
「何かね。」
「あなたは、ダレス長官をどう見ていましたか。」
マクナマラは少しだけ考えた。
「古い時代の人間だ。」
「それだけですか。」
「それだけではない。」
彼は言った。
「彼は、国が割れる恐怖を知っていた。私は、国が負ける恐怖を知った。大統領は、国民に見放される恐怖を知ることになる。」
メアリーは黙った。
「恐怖は、人間を慎重にもする。残酷にもする。」
マクナマラは続けた。
「その違いを、後の時代はあまり区別してくれない。」
「歴史は、単純にしますから。」
「そうだ。」
マクナマラは静かにうなずいた。
「だから、記録する者が必要になる。」
部屋の外で、誰かの足音がした。
秘書が何かを運び、電話が鳴り、別の部屋ではまだ戦争の数字が読まれている。
マクナマラは、まだ国防長官だった。
けれど、その時間はもう残り少なかった。
「ミス・ハリントン。」
「はい。」
「本当に記者になるなら、いつか私を取材しに来たまえ。」
メアリーは驚いた。
「長官を、ですか。」
「そうだ。」
「よろしいんですか。」
「よろしいかどうかは、その時の私が決める。」
マクナマラは少しだけ笑った。
「だが、君が本当に記者になるなら、私のような人間から逃げてはいけない。」
「あなたのような人間。」
「数字で戦争を語った人間だ。」
メアリーは何も言えなかった。
「その時は、許すためではなく、理解するために来たまえ。裁くのは、その後でいい。」
その声は、願いではなかった。
命令でもなかった。
敗れかけた紙の最後の余白に、かろうじて書き込まれた小さな言葉のようだった。
「分かりません。」
メアリーは正直に言った。
「私に、それができるかは。」
「それでいい。」
マクナマラは言った。
「分かる、と簡単に言う記者よりは信用できる。」
メアリーは、初めて少しだけ笑った。
※※※※※※※※※※
部屋を出る時、メアリーは振り返った。
マクナマラはもう机に向かっていた。
まだ書類を読み、まだ数字を追い、まだ戦争を整理しようとしていた。
去る人間でありながら、最後の瞬間まで長官であろうとしていた。
その背中に、メアリーは言葉をかけなかった。
軍票は手帳の中に戻した。
かつて国家だった紙は、薄く、軽かった。
だが、その軽さが、彼女には恐ろしかった。
信用がある間、紙は国家になる。
信用が破れた時、国家の言葉もただの紙になる。
テト攻勢で壊れたのは、戦場だけではなかった。
アメリカ政府の言葉を受け取る、国民の手だった。
その手が、もう紙をそのまま受け取らなくなっていた。
メアリーは廊下を歩いた。
国防総省の蛍光灯は、相変わらず白かった。どの部屋にも電話があり、どの机にも書類があり、どこかで誰かが戦争を言葉に直している。
だが、彼女はもう知っていた。
言葉に直されなかったものがある。
紙に残らなかった声がある。
選ばれなかった現実がある。
彼女は、それを見るためにここを出る。
※※※※※※※※※※
同じ夜、ホワイトハウスでは、ジョンソンが一人で演説草稿を眺めていた。
まだ、不出馬の言葉はそこにはなかった。
北爆。
和平。
責任。
国民への説明。
そこに並ぶ言葉は、どれも必要なものだった。だが、どれも彼自身の胸には届かなかった。
ジョンソンは椅子にもたれた。
ボブは、俺に降りろとは言わなかった。
そのことが、妙に胸に残っていた。
降りろと言われていれば、怒れた。
まだ戦えると言われていれば、続ける理由にできた。
だが、彼はどちらも言わなかった。
それは冷たさではなかった。
最後の敬意だった。
自分で選べ、という敬意だった。
扉の外から、かすかに皿の音がした。
厨房の方だった。
ジョンソンは顔を上げた。
この国で自分は何を壊したのか。
そして、何を残せたのか。
その答えを、新聞も、議会も、将軍たちもすぐには教えてくれない。
皿の音が、もう一度小さく鳴った。
ジョンソンは草稿に目を戻した。
まだ、最後の言葉は書かれていない。
引き裂かれた星条旗編の全編の伏線をマクナマラとの別れで回収してみました。
アメリカ編も残り少なくなりました。身近なアメリカ編で歴史をおさらいしてから時間を戻しキューバに戻る予定でしたが、アメリカは資料が多い分長くなってしまいました。
マクナマラはまた登場予定です。
※更新は、月・木・土曜日(朝・夜)二回の週4話です。
次回は、本日の夜、投稿予定です
【お知らせ】長編のエピソードになると思わず連載を開始したので、今、前半を大幅改稿しています。
改稿後はボリュームが二倍以上になり背景もわかりやすく史実に寄せてます。(初めはヒューマンドラマを描く予定でした。)
改稿したものはタイトルに改稿としています。ぜひお読み下さい。(日本編の前まで改稿よていです!)
ジャンルもヒューマンドラマから歴史へ。
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