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解き放たれた星辰

二条院では、朝堂院での一件など露知らず、春眠暁を覚えずとばかりに葵が熟睡していた。

「葵! 起きろ!」

東宮の呼声に模糊として気付いた葵が、春霞に靄靄とした瞳を向けると緩慢に答えた。

「うーん……。おはよう……」

後から入室した薫が、呆れ顔で声を掛けた。

「――驚いたな。お前、未だ寝ていたのか」

葵が、寝癖でぐしゃぐしゃになった頭を掻きながら遅遅と答えた。

「ん――? 僕、そんなに寝てたかな……。あれ、薫? 今日は朝議に出なくていいの?」

葵の指摘に薫が苦笑を浮かべ、東宮をちらと睨み付けると答えた。

「……少々訳ありで出辛くてね。今日は欠席した」

「ふーん、珍しいね……。何か、あったの?」

閑閑としながら妙に勘の鋭い葵に東宮がチッと舌打ちすると、薫が毒舌を吐く前に先手とばかり口を開き、淡々として事実を告げた。

「ああ、ちょっと手元が狂ってな。……清涼殿に矢を放った」

葵の目が、今や完全に覚めた様だった。

「……それはまた、凄い事したね」

東宮が不快千万とばかり、惰眠を貪る葵の布団をバッと剥ぎ取る。

「いい加減、起きろ! ……客人だ」

東宮の性急な言葉と態度に、意表を突かれた葵が驚いて室内を見回した。

東宮の背後に所在無さ気に佇む裕を見付けると、吃驚するなり急ぎ身支度を整える。

慌てふためき右往左往するものの、寝起きで髪がぼさぼさの上に着衣も乱れ醜態を晒し、焦燥するばかりで何とも不器用極まりない。髪を結おうとしては、気ばかり急いて紐を取り落とす。お世話好きの薫が軽く苦笑すると、手際良くそれを手伝った。

東宮は裕に声を掛けると、中央の居室から中庭を見渡せる簀子に彼を誘い、腰掛けた。

  中庭は、今が盛りの春夏の草花で千紫万紅に彩られ、何とも甘い香りが立ち籠めていた。

濃緑な芝生に覆われた庭には薄紅や紅梅の皐月が満開に咲き誇り、皎潔な純白や婉麗なる淡紅の芍薬が艶陽に映え、千姿万態の美が共演する有様は、春を司る青帝を感戴し、万物が萌え出づる春を謳歌していた。

裕は中でも余りに見事に咲き溢れる藤の姿に心打たれ、ふと簀子より立ち上がると、心の赴くまま庭に出た。

中央の居間で薫が手早く葵の髪を結い上げると、優雅な仕草で客人にお茶の用意をし始める。東宮は暫く悠然と、晴朗な庭に深く感じ入り熱心に愛でている裕を眺めていたが、軈て静かに口を開いた。

「……お前は、楓なのだろう?」

藤棚の中に佇み薄色の藤を愛おしく見上げていた裕が、はたと体を強張らせると振り返る。麗らかな陽光が藤棚に降り注ぎ、裕の絹の如き黒髪が艶めいて、大層美しかった。

藤色の木洩れ陽が、色青ざめ悄然とした裕の憂色を、尚一層際立てる。

裕がその哀愁を帯びた瞳を東宮に合わせると、寂然と答えた。

「……気付いていたのか。……そうだ。私は、楓だ」

微笑して頷いた東宮が真っ向から裕を見つめ、単刀直入に話を切り出した。

「女の楓が、本来のお前の姿だろう? 何故宮中では裕と名乗り、男装しているのだ?」

楓が寂寞とした微笑を浮かべると、足下をみつめ、力無く呟いた。

「……仕方無いのだ。武者小路家に生まれた以上……」

言い掛け沈黙した楓が哀哀として、ふと頭上に撓垂れる藤を見上げた。

「武者小路家は十一年間子宝に恵まれなかった……。十二年目に初子が生まれたが、女児だった。武者小路家は、歴代が検非違使に奉職する武芸の家……。直系の男子でなければ世襲できないという現実に、私は生来男として育てられ、武芸を仕込まれた」

胸奥の深潭に紅涙を秘めた楓が、時折差し込む眩い陽光に視線を落とし、嘆息する。

「だが、私も女人だ……。何度か、女性に戻りたいと思った事もある。……だからこそ、あの人里離れた洞穴に居所を造り、抑え難い衝動に駆られる度、密かに屋敷を抜け出しては誰にも悟られぬ様、天真のまま……楓として過ごしていたのだ」

吹き抜ける薫風が齎す花木の何とも甘い香りに、楓がぐっと唇を噛みしめ震わせる。

ここは……何と、美しい庭であろうか。

燦々と降り注ぐ春陽に祝福され、天を仰ぎ爛漫に咲き誇る躑躅に、天に向かい誇らしげに大輪の花を綻ばせた芍薬の息を呑む美しさに、楓が思わず瞳を震わせた。

「……泣いているのか」

簀子に座し、じっと静聴していた東宮の言葉に、はっと我に返った楓が振り返る。

「……いや」

「……ただ、私は日々、武道の修行に明け暮れ、庭など、愛でたことが無かったから……。斯くも花が美しいとは……知らなかった」

切ないまでに遥か彼方を見つめる楓の視線に、甘露を淹れながら二人の会話を聞いていた薫がはたと手を止めると、居た堪れない様子で楓を見守る。東宮が、ふっと微笑した。

「……泣きたいならば、思うままに、泣けばいい」

どきりとした楓が双瞳を大きく見開くと、暫時瞬きも忘れ、東宮を見つめた。

「……ありがとう」

楓が僅かに口元を緩めた。

「……だが、……涙は早、枯れ果てた」

楓が藤の樹幹に軽く凭れ掛かると、再び頭上を見上げた。降り注ぐ薄陽に皓皓と瞬く房花は、薄紫の天穹に、数多輝く星宿を思わせた。

「あの日、私が偶然洞穴に居たのは……まさに心置き無く、ひとり慟哭する為だった。先日、綾小路の奴等に妹が殺されたという衝撃で……発作的に家を飛び出したのだ。……訳が分からなかった。妹の突然の死という現実が、受け止められなかった。……父は私に、妹は余りに惨い殺され方をしたからと、亡骸にさえ……会わせて下さらなかった」

眉を顰めた東宮が、悲憤に声を震わせる楓に、掛ける言葉を失い緘黙する。

……如何に非業の死と雖も、姉でありながら妹の亡骸と会えず終いとは……。

慷慨に咽ぶ楓の心中を察した薫が、遣る瀬無さに唇を噛みしめた。

「……近頃は母上も病がちで、父上の他とは、誰とも会おうとせぬ……。……私は、私はただ、綾小路が憎い……!」

哀傷悲絶に楓が呻いた。哀切を覚えた薫が憐憫に満ちた瞳を向け、楓を見つめる。

東宮が沈黙したまま、深い瞳で楓を見遣った。

一陣の春風が吹き抜けた。藤の清籟は蕭蕭として哀韻を帯び、花陰に佇む楓の悲傷に哀咽していた。


稍あって、静かに顔を上げた楓が清淡な眼差しで東宮を見つめ、口を開いた。

「ところで……貴方こそ、楠少納言とは偽りの名でしょう?」

少納言程度では、あんな強弓は持てない筈……とばかり、好奇をそそられた楓が微笑を浮かべ、東宮の答えを促した。

真っ直ぐに向けられた楓の双瞳に、沈思黙考していた東宮が、真摯に炯眼を欹てる。

じっと楓を凝視すると、ふっと笑い、口を開いた。

「……ああ、そうだ。俺は、少納言ではない。俺の名は大津大浪皇子……東宮だ」

はっとした楓の顔が、一瞬で蒼白になる。


「綾小路は……薫は、俺の親友だ」

突如として発せられた、あまりにも残酷な東宮の言葉に、身を震わせ唇を噛んだ楓が瞬時に身を翻し、あっという間に庭を駆け抜け、軽々と生垣を跳躍するなり、その場から疾風の如く逃げ去った。

「待て、楓!」

チッと舌打ちしつつも自ら追わず、また追手を掛けない東宮に、背後で事態を静観していた薫が眉を顰めると、東宮に苦言を呈した。

「何故、苛酷に彼女を追い詰めた? ……私の名を出せば、取り乱した裕……いや、楓が、突発的な行動に出る事ぐらい、分かっていただろう?」

ふんと鼻を鳴らした東宮が、傲然と薫に向き直る。

「……限界に達した楓自身が立ち上がり、真の自分を取り戻さねばならん」

毅然として、薫の憂慮を撥ね付けた。

「たとえ、裕として積み上げてきた全てを失う苛酷な茨の道であったとしても、臆する事無く切り開き、自ら邁進せねばならん。己自身でしがらみを断ち切り、楓として戦うべき時が来たのだ。……涙を取り戻す為に」

東宮の意を受け得心した薫が頷くと、その艶麗な口元を綻ばせた。

「……だが」

薫を見遣った東宮がにやりと笑い、その鷹の様な双眸を眈眈として、獲物を定めた時の様な好戦的な顔を見せた。

「何かおかしいと、お前も感じたろう? 楓の親父だが、どうやら尋常ではないな。女人として生まれた楓の性別を奪い、男性の業を平然と負わせるなど……単に家の存続を考えただけとは到底思えない。楓の妹の死にまつわる疑念も募るばかりだ。目的は分からんが、かなり得体の知れぬ胡散臭い奴とみた。この際、少し調べてやろうと思ってな」

薫と共に静粛を守り、事の顛末を静聴していた葵が、不意に口を挟んだ。

「ねえ、薫。……今居た人が、大津が言ってた楓さんなの?」

妙に不思議めいた顔で尋ねる葵を見遣り、薫が答えた。

「ああ、そうだよ。武者小路 裕が、楓だった」

純真な瞳を大きく見開くと、葵が首を捻り、真剣な口調で口を開いた。

「そう……だったら、おかしいよ。楓さんの話と違うなあ」

珍しく深刻な面持ちで話を切り出した葵を見つめると、薫が冷静に聞き返す。

「……話が違う?」

平素と異なる葵の様子に、簀子に座していた東宮が、ついと部屋に立ち戻る。

いつもなら真っ先に御菓子でも食べてのほほんとしている筈の葵が、薫に出されたお茶にさえ手を付けず、顔を上げ二人を見つめると語り始めた。

「武者小路家には確か……とっくに成人している男子がいる筈なんだ。然も、八人も。僕の父さんは典薬寮(てんやくりょう)(とう)で主上の侍医だけど、僕の家は診療所として、宮中のみならず一般にも解放されているから、御産の手伝いも方々行くんだけど……。武者小路家については、男ばかり八人も生まれるのは珍しいって、助産した先輩医師が言っていたもの」

「何?」

衝撃の内容に驚愕した東宮と薫が、葵の顔を食い入る様に凝視した。

「楓は十一年間子供がおらず、十二年目に生まれたのが自分だと言っていたが?」

「だから、おかしいんだよ。確かに……楓さんよりずっと年上の兄が八人生まれた筈なんだ。診療所の記録にも残ってる筈だよ!」

東宮が信じられないといった顔を向けると、矢継ぎ早に言葉を返した。

「……しかし楓の態度は、嘘を吐いている様には見えなかった! 少納言と思い込んでいた俺に兄の存在を隠す必要は全く無いし、第一彼女は、女人に戻りたがっていた!」

混乱めく話の展開に、訳が分からんとばかりに思考を中断した東宮が当惑顔になる。

怜悧な薫が淡淡として私情を挟まず、明敏に見解を述べた。

「楓の話が虚談でないとすれば、彼女は誰かに騙されているという事になる。……先の彼女の話からして、恐らく父親が彼女に嘘を教えているのだろう」

天性の直感に恵まれた葵が幽妙な瞳を向けると、鋭く尤もな指摘をした。

「……でも父親だとしたら、何故楓さんに、兄の存在を秘密にする必要があるのさ?」

実に肯綮に中った葵の疑問に、東宮と薫が揃って閉口する。葵自身も皆目見当が付かなかった。暫時黙思していた東宮が、駄目だとばかり思考を諦めると、一声を発した。

「おい、茜! 居るのか?」

刹那、庭に人の気配を感じた。片膝をつき一礼すると、茜が畏まる。

「はい、東宮様。何か、御用でしょうか」

東宮が、直ちに命令を下した。

「これより武者小路家へ潜入して内情を探り、楓を誑かしている輩と、その真意を掴んで来い」

茜が顔を上げ、自信に満ちた黒曜の瞳を東宮に向けた。

「畏まりました。直ちに調べて参ります」

謹んで一礼するなり、庭からスッと気配が消えた。



 綾小路家とは朱雀大路を挟んで反対側の右京四条大路近くの武者小路家は、その周囲をこの時代にしては高すぎる塀に囲まれ、外大路からは邸内の様子が全く窺い知れない様になっていた。塀の内部は、建物こそ寝殿造りであったが、庭一面に玉砂利が敷き詰められ殺風景で、綾小路家の庭園に代表される花鳥風月を愉しむ趣の開放的な邸宅とは対極の、あらゆる侵入者を拒断する閉鎖的な空間となっていた。


「父上、楓です。只今、戻りました」

 楓が父である頼行の御前に進み出るなり手を突き、礼を尽くす。

 殺伐とした寝殿の中央に塊然と座す中肉中背の男性は見るからに冷厳で、その峻酷なる威容は稜稜として、絶対的に他者を制圧していた。

頼行が、八方睨みの鳳凰を思わせる鋭い眦で楓を見遣ると、厳烈に非難した。

「……楓という女はこの世に存在しない。そうだろう、裕」

冷酷無情に発せられた父の言々句句に、肺腑を抉られた楓が慄然する。

瞬刻躊躇い、軈て意を決した様に楓が哀願した。

「……父上……。真の私は、やはり女人です。女性に戻らせて下さい……」

平伏したまま肩を震わせ俯いている楓を冷ややかに見遣ると、頼行がひと言尋ねた。

「……何があった?」

楓が俯いたまま唇を噛み締めると、口を噤んだ。

頼行がフンと鼻を鳴らし、峻厳極まりない顔を向ける。

「血迷うたか? 武者小路家に男子がいない以上、女に戻れん事ぐらい、疾うに承知しているだろう。二度とそのような事、言うでない」

異論を挟む余地が無い、余りに苛烈な厳威であった。

孝を尽くす楓が、難渋に満ちて随順する。

「……はい。……愚かな事を、申しました」

明らかに得心してはいなかったが、傍目に……恐怖で全身が竦み上がり、兢兢と思考が停止したかの様であった。

寡黙になった楓を一瞥すると、頼行は座して脇息に肩肘を凭れたまま、暫し黙想した。頼行が、手にした蝙蝠扇を徒らに開閉させては弄ぶ。軈て、冷眼を向けると口を開いた。

「そちを男として育て鍛えたのは、家督を継がせる事は元より……あの憎っくき綾小路の奴等を殲滅する為じゃ」

頼行は冷血なる爬虫類の如き視線で楓を見据えると、ゾクッとさせる狂気を孕んだ、背筋の凍て付く冷笑を浮かべた。

「だが……そちが、其れ程までに女性に戻りたいならば……。叶えてやろうではないか。……今から綾小路の家に向かい、密かに友禅を殺害するのだ。その後、お前は都を離れ、何処へなりと逃げて好きなだけ女性として生き……生涯、武者小路家とは縁を切って、密やかに暮らすが良い。幸いにして、我が家は検非違使の任にある。追手の心配は全く無い。表向き、裕は犯人を追って殉職した事にすれば良い。我が家にとっては誉れともなり、好都合じゃ。そちも妹の仇という本懐を遂げ、まさに一石二鳥というものであろう」

楓が、父の残酷非道で狡猾極めた謀略に顔色を失い、絶句する。

俄かに信じ難く正義に悖る父の言葉に、楓が壮絶な恐怖と闘いながらも懸命に己を奮励すると、苦悶に満ちた表情で諫言した。

「……如何に、如何に憎き綾小路と雖も……。我が家の私怨を除けば……友禅様は、世にも人徳優れた無辜の太政大臣であると聞き及びます。其れを理由無く殺めるなど……恐ろしい。何たる恐ろしい事を……父上。其の様な事、天道が許す筈もありません。……私も、其の様な形で女人に戻りたくはありません……」

頼行が冷酷無比に楓を見遣ると、吐き捨てる様に放言した。

「奴さえ死ねば、理由など後から、どうとでも付けられる。長い間待ち侘びたが、お前も立派な一人前だ。お前の弓と剣の腕前なら、よもやしくじる事は万に一つも無いだろう」

楓が血の気を失い、立ち尽くす。

額より流れ落ちる寒冷な冷汗は、凛冽なまでに楓の心奥を寒心たらしめた。

呻く様に楓が尋ねる。

「父上、何と罰当たりな……。何故その様な邪知に満ちた、恐ろしい事を仰るのです……?」

楓の容貌は苦渋に満ち、漆黒の深く冴え冴えとした瞳が冥冥とした昏迷に逡巡する。

綾小路という怨敵への深怨、父頼行への絶対的な孝心と、義憤に咽ぶ己の清心との凄烈なる鬩ぎ合いに混沌と惑い、千千に乱れた楓が、その葛藤のままに叫号した。

「仇討ちならば正々堂々と宣告し、粛粛と果たせば良いではありませんか! 何故に闇討ちという、卑怯で屈辱的な手段を執らねばならないのです、父上! ……出来ません! 私には、出来ません!」

無情なる頼行が、緩慢に冷笑した。

「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや……とは、この事か。そちの様な未熟者が、何を案じる事がある? 不要なる愚慮は致すでない。そちは唯、その身命のみを致せば良い」

頼行が不意に立ち上がり、楓の眼前にひたと歩み寄ると楓の両肩を掴み、制圧した。

蒼然とした楓が、肉薄する頼行に緊迫する。頼行が、楓の双瞳を容赦無く睥睨した。

闇闇とした惑乱の内に皓然と瞬く楓の星辰に、頼行が自らの酷薄極まる双眸を強制的に合わせると、瞬間苛烈極まる冷光と共に、峻烈な気を発動した。

「分かったな、裕!」

冷厳なる声が、唯一絶対に威圧する。

衰微した楓が弾かれた様に体を反応させると、双瞳を大きく見開いた。

「……分かりました。……父上」

楓の蒼白の顔からは一切の表情が消え、清かな夜の瞳には星の輝きが失われていた。

「では、行け!」

強硬に促す頼行の厳命に、茫茫とした楓が踵を返し、地に足着かぬ人形の様に洞洞と、部屋から消え去った。


 楓が去り、再び静寂が訪れると、頼行が悦に入った様子で独語した。

「ふふ……孝を貫く為とはいえ、あまりに盲従……。愚直なまでに、儂の命令を守りおる」

 東宮の命を受け、頼行の居る部屋の天井から事の顛末を黙視していた茜が、身の毛立つ頼行の喜悦に戦慄すると甚だ慷慨した。

何て事! ……実の娘に卑劣極める暗示を掛け殺人を強制させた挙句、完遂の後には追放して己の名誉に摩り替えるとは……。何という非道! 人の親とも思えない……。

 凡そ血が通った人間とはとても信じ難い非情無比なる頼行の言動を、茜は一言一句漏らさず盗み聞いていた。

頼行が、手にした蝙蝠扇をぱちりぱちりと弄ぶ。倨傲に満ちた双眸で眺めると、ひとり放言した。

「ふん……儂を疑いもせんとはのう。清虚なる故に大義に囚われ、明暗に揺揺として軟弱なる奴の性根を正さんが為、妹を贄としたのは儂だと言うのに、綾小路の凶行だと信じて悲憤しつつも、未だ人情に絆され、復讐さえ出来んとは……」

頼行が嘲笑するなり、不意に閉口する。俄かに忌ま忌ましい険相になるなり、手にした蝙蝠扇を床に突くと力を込め、真っ二つに圧し折った。

「……情けなど、何になる。何事にも揺るぎ無い、強固たる意志を何故持ち得ないのだ! 人情など鬱陶しい偽善であると、何故に覚醒しないのだ! 情があるから煩悩が生まれ、人は惑うのだ! 正道など儒者の欺瞞であると、何故に分からんのか! 奴等の妄信する仁愛が、数多の危難から身を守る盾となった事があるか! 悪意ある者の尖鋭なる刺突に立ち向かい、確固たる防衛となった事があるというのか!」

峻厲苛酷を極めた頼行が、発憤するなり激昂する。

楓が消えた襖に両断した蝙蝠扇を乱暴に投げ付けると、冷ややかに笑った。

「だが……裕は、殊に武道に於いては天分に恵まれていた……。皮肉にも八人の愚兄には全く無かったというのに……な。強堅な心身を旨とする武者小路家に弱者はいらんから、煩い母親諸共全員、密殺してしまったがな!」

頼行が陰陰滅滅として、ほくそ笑む。陰湿な凶相を見せると今後の算段を呟いた。

「彼奴を一流の暗殺者に仕立てる迄には、それこそ長い時間と謀略、壮絶なる忍耐を要したが、それも漸く今日で報われる……。……さて、裕が行方を晦ませた後の後嗣だが……。儂の側妾の子にするか。まあ綾小路さえ死ねば、そう焦る事でもないがな」

 天井裏にて一部始終を見聞した茜が、激しい冷寒に身を震わせた。

……常軌を逸している……。……一刻も早く、東宮様に注進せねば……。

 茜が屋根裏の昏冥に溶け込むかの様に、暗暗裏に姿を消した。



 二条院の東宮私室では、東宮が茜の報告を今か今かと、苛苛しながら待ち侘びていた。薫が飲み損ねた新茶を淹れ直してその花香を悠々と愉しみつつ、東宮の持久心の無さに呆れていた。春風駘蕩とした葵が蕨餅を口一杯頬張りながら、ちらと東宮を見遣り窘める。

「大体、大津は短気過ぎるんだよ!」

優美な茶碗を取り、いつもの癖で茶柱を確認すると、偉そうに言葉を継いだ。

「葵みたいにのんびりしないと、長生き出来ないよ!」

急須から二杯目を注ごうとしていた薫が、葵の説教にふと手を止めると苦笑する。

「煩いな。お前みたいに鈍重の極みにいるよりは、断然増しだ!」

 東宮が悪態をついた矢先、庭の生垣を鮮やかに飛び越え、血相を変えた茜が息を弾ませながら大至急とばかり報告に戻って来た。

「東宮様、只今、戻りました」

「御苦労だった」

 危急を察した東宮が眉を顰めると、茜が座礼するなり、ひと息に注進した。

「楓殿の父親、頼行が黒幕でした。実の息子八人を天資が無いと言って其の母諸共殺害し、楓殿を暗殺者に成育する為に一流の武芸を教え、楓殿が綾小路家を仇と憎む様に長期に渡って奸計を巡らし、最終的には自ら楓殿の御妹君を犠牲にして綾小路家の仕業に仕立て上げ……更に今、友禅様を暗殺する様に楓殿に強力な暗示を掛け、楓殿の孝心を逆手に取り、完遂後は武者小路家と絶縁して女性に戻り好きに暮らせと、長年の謀略を実行に移しました。最早、一刻の猶予もありません」

「!」

 一同が余りの衝撃に瞠目するなり、絶句する。

パンッという破裂音と共に、顔面蒼白になった薫が茶碗を取り落とすと、刹那蒼然として、疾風の如く走り出した。

「薫! 待て! ひとりで行くな!」

東宮の咄嗟の制止も虚しく、韋駄天をも凌駕する俊足で薫が風を切る。

舌打ちした東宮が、自らも猛然と薫の後を追って走り出した。

くそう! ……何という梟悪! 何という無道! ……許せん!

激情に駆られた東宮が、怒髪天を衝く勢いで憤激すると、益益速度を上げて疾走した。

「父上、どうか御無事で……!」

 薫が祈る様な気持ちで二条院に係留してあった愛馬の紅妃に飛び乗ると、鮮やかな手綱捌きで制し、綾小路家に向かい一目散に疾駆した。

 中庭でひとり取り残された葵が、震慄するなり立ち尽くす。

「薫……。……唯ひとりの肉親なのに、暗殺者に狙われるなんて……。……然も、暗殺者は頼行に無理強いされた楓さん……。友禅様は薫と違って、全然体鍛えてないし……。どうか二人共、間に合って! ……神様、薫の最後の肉親まで奪わないで……」

……まさか、こんな事態になるなんて……。

蒼白の葵が涙片手に声を震わせた。傍らに控えた茜が、冷静に葵を促した。

「葵様、私達も急ぎましょう。何かの手助けになるかもしれません」

「そうだね、急ごう」

我に返った葵が頷くと、茜と共に、急ぎ東宮の後を追った。



 綾小路家の広大な中庭に紅妃を乗り捨てると、薫は力の限り疾走し、寝殿中央の友禅の居室に向かった。

「父上!」

叫ぶなり妻戸を跳ね上げ、中に飛び込む。

「!」

汗牛充棟の書棚は傾き、貴重な巻物や夥しい書物が見るも無残に四散していた。

太刀を握った楓に部屋の片隅に追い詰められた友禅が、手にした巻物を数巻放り投げては必死に防戦していた。楓の双瞳は漠として、忽然と現われた薫が見えていない様だった。

窮地に立つ友禅が、飛び込んで来た薫に気付き、間一髪とばかり助けを求める。

「おお、薫! 助けてくれ――い!」

 正眼の構えで差し迫り、一撃必殺の間合いに入った楓が打って出る。

刹那、父の前に流れる様に割り入った薫が父を庇う様に屹立すると、楓の太刀筋を見極め片手で薙ぎ払い、手刀で軽く一閃した。楓の太刀が鏗然と弾け飛ぶ。太刀を封殺された楓が一瞬動きを鈍らせた。寸隙を突いた薫が、楓の鳩尾に寸分違わず軽微な拳の一撃を加えた。堪らず楓が意識を失い、前のめりに倒れ込む。

薫が哀哀として、楓をふわりと抱き留めた。

 ……男装し、男として生きる事を強要されながら……こうして抱き上げてみると何とも軽く、修練を積み鍛え上げた体と雖も……薫から見れば、真に華奢な女性の肢体であった。

「慕う父親に騙されているとも知らず……何と、哀れな……」

 辛苦に満ちた此れ迄の楓の生い立ちを思い遣り、薫が万感胸に迫る思いで楓の顔を見つめると、底知れぬ哀憫を覚えて言葉を失った。

いかばかり、彼女は悲しみの深淵にいた事だろう……。どんなに辛かった事だろう……。たったひとりで煩悶し……この何とも繊麗なる肩で……ひたすら耐えて来たのだろう……。


「……薫」

ふと背後から優しく呼び掛ける声に気付き、薫がはっと我に返るなり振り返る。

「父上。御無事で何よりでした。実は――……」

温柔にして敦厚なる父友禅が、哀切極まりない様子で佇む薫を見つめると、微笑んだ。

薫の腕に抱かれた楓に慈愛に満ちた眼差しを注ぐと、温和な口調で遮った。

「……よい、よい。大方……分かっておる。……その娘さんは、武者小路家の長男裕で、私を殺める様に、頼行に強迫されていたのじゃな」

吃驚した薫が温色なる父を凝視すると、思わず問い返した。

「……御存知だったのですか……」

友禅が隣室の遣戸を開け放ち、御帳の傍らに静座した。

薫が帳台に楓を丁重に寝かせると、父の傍らに端座する。喜びに満ちた雅びやかな中庭が清明なる水鏡に精彩を放ち、蒼天の青藍と相俟って佳絶であった。

友禅が、睡臥する楓を見つめながら、湛然として薫に答えた。

「……哀絶なるかな……。この娘は、その胸奥で惨然と泣いていたのだよ……。恐らく彼女は、自分が父親に操られている事を知っていたのだよ。……暗然と此処に現われてから、この娘の清心は絶え間無く私に懇請していた……。口では虚ろに貴方を殺すと脅しながら、天真清けき瞳の深奥ではずっと、逃げて下さい……とね」

 恩容な瞳を向けた友禅が、静かに微笑した。

「……父上……」

 薫が柔和に微笑み、何とも仁篤深き父を、尊敬の眼差しでじっと見つめる。

「薫」

「はい」

「この娘さんには十分な休養が必要だ。……此処でゆっくり、休ませてあげなさい」

「はい」

 穏やかに薫が微笑むと、友禅が莞然として頷いた。穏和で慈悲に満ちた父子の様子を、密やかに目覚めた楓が二人に悟られまいと憚り、沈黙を守りながら溢れる涙を止められず、人知れずそっと横を向くと潸然とした涙に頬を濡らした。

淙淙とした遣水の音に、清風が爽涼に吹き渡る。花木の芳香がはんなりと四方を包容していた。暫くして、庭を愛でる友禅に、薫がふと話を切り出した。

「父上……。私には、どうも腑に落ちない事があるのですが……」

 友禅が温厚な顔を向け無言のまま、薫の次の言葉を促した。

 凛とした薫が、真摯に父に向き直る。

「先程二条院にて、頼行殿による謀略を全て聞き及びました。……ですが抑抑何故、頼行殿が楓殿を暗殺者にしてまで綾小路家を根絶しようと切望するのか分かりません。単に、長年に渡る対立だけでは説明出来ない事態に思えます。何故、父上の代になって殺戒が破られたのでしょうか。……どうして、姉上が犠牲になられたのでしょうか。武者小路家は何故、自らも多大な犠牲を払いながら、我が家の殲滅を願うのでしょうか」

 友禅が薫を見遣り、我が子ながら何と怜悧な子かと……思わず苦笑した。

何とも鋭利に痛い所を突いて来る……。自分を真っ向から熟視する清粋極めた薫の瞳に、焦点の回避と欺瞞は一切通じない……と、思わずたじろいだ。

友禅が暫し黙考した。故あって長年、薫に武者小路家との仔細は、一切話さずに来た。だが聡明なこの子に、最早いつまでも真実を隠蔽する事は不可能だろう。

……言うべき時が、来たのかも知れない。

明敏な薫は今ならきっと、全てを受け止められるだろう。

友禅が慈しみに満ちた瞳を薫に向けると、観念した様に話し始めた。

「武者小路家と綾小路家が長年対立関係にある事は言うに及ばず……。武者小路家が代々検非違使を拝任している事も、既知の通りだ。近年、院宮王臣家の勢力の基盤となっている荘園が急増している現状は、朝廷としては中々頭の痛い問題でね……。不輸の権を獲得した荘園は朝廷の財政を著しく逼迫させ、疲弊した朝廷の代行として、国司が徴税に奔走するという現実がある。国司が租税の取り立てに、既に寄進済みの私荘園に立ち入る事も珍しくないが、多大な権力を持つ院宮を始め上位貴族はこれを不服として、国司の立ち入る事が叶わない不入の権を獲得し……近年は、国司と私荘園の紛争が頻発しては国司の支配下にある公領との争論も併発し、各地で争いが絶えなくなっている。……こうした争いは更なる武装を生み、地方では、国司の許に武士団と呼ばれる武装した集団が形成され、こうした武士を統括する棟梁として、各地に離散した院宮家の末裔である平氏や源氏が台頭し、強力な一門が形成されつつあるのだよ。……武者小路家は、頼行殿の先代に押領使(おうりょうし)が設置された辺りから、こうして急速に台頭しつつある武装勢力が、行く行くは朝廷を脅かす存在となりかねないから、今の内に全て征伐してしまった方が良いという強攻策の急先鋒で、極めて急進的で強硬なる考えをお持ちなのだ」

父の言葉を受け、思い澄ました薫が静かに頷いた。

「……成程。各地で相次ぐ紛争を武力解決し、悪質な暴徒の鎮定の為に、選りすぐりの武力を有する国司や郡司から臨時的に任命される押領使……。確かに、地方の内乱が増加の一途を辿るのであれば、何れ常設となるのは否めませんからね。このまま武士勢力が拡大すれば、押領使の趨勢を鑑み、武士団の持つ本態的な機能と性格上……宮中警備を任とする滝口の武士に代表される侍以上に、検非違使の職務内容に抵触しないとも限りませんから……武者小路家としては、大きな脅威でしょう。頼行殿の御考えには、今後も検非違使を重任する為の、自己防衛本能が働いている可能性もありますね」

薫が淡々として、冷静に分析する。友禅が、自身の見解を述べた。

「……そうだね。しかし武力による征伐は、私は反対でね。上策でないと思っている。本来中央政権とは人心を掴んで得心させ、以て国民の繁栄を尊び支援し、侵略者に対しては朝廷に心服させる事こそ肝要であると思っている。頼行殿の懸念も、確かに杞憂では無く、近い未来の大きな障害になるとは思うが、私は抑抑、武力に対し武力で訴えるという姿勢は和平の道から遠ざかるという信念を持っている。……それに、朝廷に対し叛意を持たない武士団を危険視して未然の内に排除するという事に、正当な理由も無ければ正義も無いだろう。正義無ければ、人心離れると言うものだ。人が無くして、国が成り立つ訳もない」

 傾聴していた薫が、深く頷いた。

「父上の仰る事は、良く分かります。私も、全く同感です。しかし……どうしてその政治上の対立が、私怨にまで発展してしまったのでしょうか」

怜悧な薫がその清澄なる瞳を向けると、核心に迫った。

「……頼行殿が、そなたの姉である(さや)()を殺めた時に判ったのだが……。彼は、私がこの様な考え方に至った経緯を、そなたの母のせいであると思い込んでいる様だ。……そして、それは……あながち嘘ではないのだよ」

 薫が、驚いた顔で父を熟視した。薫にとって全く心外な……父の言葉だった。

 友禅が哀愁を帯びた顔を見せると、寂寞として薫を見遣り、追憶する。

「……そなたの母と出会ったのは、唐の都でな。共に祖国から派遣された留学生の身分だった。そなたの母は、唐より絹の道を越えた遥か西方の国の出身で……閉鎖的な社会で育った私とは、国の文化が別なら言語も宗教も違い……考え方も随分異なっていた。大変見識豊かな、聡明な女性であったのだよ。共に帰国し夫婦となったが、私は彼女と過ごして熟熟、相互理解とは……つまり、文化も考え方も異なる人間同士が真に理解し合い、ひとつの結論に至るには何が最も重要であるか、身に染みて解ったのだよ。……それは、御互いを尊敬して、思い遣る気持ちだ。そなたの母は、其れを『愛』と呼んでいた。それさえあれば、全ての障害は乗り越えられる。武力は何の解決にもならない。溝を深め、憎しみを募らせ、蟠りを残すだけだ。……もともと争い事は好まない私であったが、そなたの母と出会い尚一層、武力という解決策に嫌悪感を抱く様になった事は確かだ」

 深い溜息を吐いた友禅が、唇を震わせた。

「朝廷の政策で頼行殿が武力制圧を唱える度、断固として私は反対した。そして到頭、悲劇が起きた。清香が……犠牲になってしまった」

 友禅がぶわっと涙を溢れさせると、力なく泣き崩れた。

悲泣に暮れ、哀哭に噎せつつ、やっとの有様で口を開く。

「……武者小路家から、清香の遺体と共に、手紙が返されたのだよ……」

 友禅は暗誦していた文を、噎び入りながら一言一句違う事無く諳んじた。

「……武装しない事が、どれだけ危険か解ったろう。大事なものを奪われてからでは、取り返しがつかないと言う事が、身に染みて解った事だろう。これに懲りて、毛唐女に騙されるのも大概にしたまえ。今目覚めなければ、より大きな……取り返しのつかない犠牲を払う事になるぞ」

 声涙倶に下り、泣き伏した格好のまま、友禅が話を続けた。

「それでも私は……武力行使には反対の姿勢を貫いた。……断じて頼行殿の言うまま、彼の理に屈する訳にはいかなかった。だがこれ以上甘んじて、愛する者達を犠牲にするつもりもなかった。……耐えられなかった! 清香を失って! ……強く麗朗だったそなたの母も失意の内に衰弱し……我々を残して、呆気なく他界してしまった。……だから、だから私は、歴代の綾小路家の家訓を破り、そなたにだけは我が身を護身する術を……武道を習わせた。何としても、そなただけは……失いたくなかったのだよ」

薫は絶句したまま……唯、父の話を聞いていた。

「頼行殿は……。余りに強情な私の姿勢に、とうに堪忍袋の緒を切らしたに違いない。私を抹殺する為に、後継として手塩に掛けて愛育した筈の裕……いや、武者小路家の純真な御令嬢までをその犠牲にしようとは……。何と痛ましい事か……嘆かわしい」

 友禅が居た堪れない悲痛に苦悶する。双涙が漣漣と友禅の直衣に零れ落ちた。

薫は、初めて目にする父の涙顔を、何とも優艶に、やんわりとした微笑で見守った。

友禅の告白は内容こそ重く、また哀傷に満ち……政治官としての立場と、家族としての思いから深く考えさせられるものであったが……薫は子として、父親の自分に対する深い愛情を感じ、寧ろ感慨ひとしおであった。

稍あって、落ち着きを取り戻した様子の父を、その慈愛に満ちた瞳で見つめながら、静黙していた薫が口を開いた。

「父上、よくぞお辛い胸中を……残らず私にお話下さいました。父上には、私が居ます。決して、おひとりではありません。今後は……政治の事も、武者小路家との確執も、私が父上の片腕となり、父上の本懐を共に遂げたいと思います」

友禅がはっとして驚き顔を上げると、その温柔極まりない瞳を大きく見開き、薫の顔をよくよく凝視した。

……今は亡き妻と、面影が重なった。妻と同じ……薄茶色の髪に蒼氷の瞳、白皙の顔。――ああ。……余りにこの子は、その母に似ている。

……薫の言葉が、亡き妻の生前を鮮やかに彷彿させた。

友禅の双瞳から再びはらはらと、止め処ない涙が滴り落ちた。

「そなたは……私に何も言わなかったが、そなたの方こそ幼い頃から、幾度も辛い目に遭うたのであろうな……。そんなそなたを、より深く悲しませる事になると思うと……。どうしても言えなかったのだよ。済まなかった……薫」

薫が長く美しい片手をそっと父の肩に置くと、温雅な微笑を浮かべ、清清しい深青の瞳で悠然と答えた。

「嘗て、自暴自棄になり……何処かへ逃れ、消えてしまいたいと思った事もありました。……今の私は、違います。父上が決しておひとりではない様に……私もまた、孤独ではありません。東宮が……私をあらゆる意味で、救ってくれました。私は生涯を掛けてその恩に報い、東宮と共に歩んで、父上の理想とする社会の実現に尽力したいと思います。そして、貴方の子として私は、望まれてこの世に生を受けた。それに勝る幸せはありません」

愛しい我が子の切なる言葉に、友禅が肩を震わせた。

薫が包み込む様に、優しく友禅を抱き締めた。今や自分を遥かに凌ぐ長身の息子に抱擁されると、友禅が感極まって涙する。二人の会話を期せずして聞いていた楓もまた、両頬を伝う涙を拭いもせず、声を押し殺して泣き濡れた。


「薫!」

 中庭より響いた葵の叫声に気付き、はっとするなり薫が春の園庭に視線を移す。

葵がひとりで来た事を不審に思った薫が、問い掛けた。

「葵、大津はどうした?」

 葵が愛馬の白公から下乗するなり、息を弾ませながら薫に報告した。

「それがね、大変な事になった! 大津が薫を透かさず猛追したまでは良かったんだけど、黒王で疾駆している最中に、憤激が沸点に達して逆上したみたいで……。途中から武者小路家へ行っちゃったんだよ! 突然止まったと思ったらさ……」

 葵が先程の様子を克明に思い出し、薫に詳細を告げた。


 猛然と黒王を馳せていた東宮であったが、突如手綱を大きく引き絞り黒王を急停止させると、憤然として後方の葵と茜を振り返った。

「葵! 俺は今から、武者小路家へ向う事にする!」

 息切れしながら漸くの思いで馬を走らせていた葵が、突然の方針転換に面食らう。

「え? ええっ? 何で? どうしてさ?」

 東宮が不機嫌極まりない顔で、ふんと鼻を鳴らすと舌打ちする。

「煩いな、気が変わっただけだ! 理由などあるか」

 ええ――? と狼狽える葵を尻目に、東宮が思い付くまま奔放に指示を出す。

「茜は病中だという楓の母君を、薫の所へ連れて行け。今、綾小路家には楓が居る筈だからな。薫が上手くやるだろう。葵は、ひと足先に薫の所へ行ってくれ」

「はい」

 主命を受け、茜が一も二もなく即答すると東宮の背後に畏まる。

にやりと笑った東宮が、合意を得たとばかり満足すると、勝手に宣言した。

「では葵、気を付けて行けよ! おい茜、行くぞ!」

蒼惶した葵が、慌てて東宮を窘める。

「大津! もう! 勝手な事すると、後で薫に怒られるよ!」

 不遜な顔で振り返り、東宮が傲然とせせら笑う。

「知った事か!」 

 そのまま鬼神の如く黒王を駆り、茜と共に凄風の如く掻き消えた。


 話し終えた葵が困惑頻りに瞳を泳がせると、薫に尋ねる。

「……とまあ、そういう経緯なんだけど……。どうする薫? 今から追い掛ける?」

 葵があどけない瞳を見開くと、当惑顔で薫を見つめた。

 優雅な足取りで簀子に歩み出た薫が、淡淡と答えた。

「今更赴いても、無駄さ」

 薫が嘆息する。意味が解らないとばかり、葵が薫をまじまじと見つめた。

「どうして?」

「これから赴いた所で……頼行殿の運命は、変わりないからだ」

「?」

 意味深長な薫の発言に、葵がきょとんとして不思議そうな顔をした。



 武者小路家では、主命を帯びた茜が寝殿の東の対を中心に、目星を付けた部屋に忍び入っては楓の母君を捜していた。

武者小路家は、何処を見ても殺風景であった。弟子達を始め屋敷の若い連中は皆、母屋とは別棟の道場に居るらしく、時折喧喧とした喧騒が遠方より聞こえるものの、寝殿は人払いが徹底した様子で静まり返り、寝殿横に位置する東の対においても、人の気配は全く無かった。温もりに満ちた春日が燦燦と差し込む筈の白昼にも拘わらず、明かりが必要な程の仄暗い部屋が大半である。殺伐たる光景は、万物が萌え出で、坤徳豊かな陽気が満満と恩恵を齎す春を頑に拒絶し、辺りを冷寒たらしめた。

陰暗とした邸内に、茜が何やら薄気味悪いものさえ感じて緊張する。

 茜が東の対の中央に位置する部屋に狙いを定めると、音も無く廊下に下りるなり息を潜め、無音のまま障子を滑らせた。茜が、はっとするなり顔を強張らせる。

 薄暗い部屋の御帳が乱れ、帳台には十二単姿の女性が俯せに倒れていた。茜が周囲の気配を鋭意に感知しながら、女性の安否を慎重に確認する。

伏臥していた女性は中年で、その口唇は血の気が失せていた。瞳孔が散大していて、脈が無い……。だがその体は、未だ温もりが残っていた。

痩羸した女性の容貌に、茜が思わず息を呑む。……楓殿に似ている……。

窶れて生気を亡くした痩躯は、病に伏せていたという、楓の御母上に違いなかった。

場数を踏み臨んだ流石の茜も、背筋に冷たいものを感じ惨慄する。

……来るのが遅かったか……。

刺し傷を改めた茜が、無念至極に瞳を伏せる。

唯ひとつの刺突で内臓を損傷し、表からは分からぬ様に致命させる……。

人体の急所を知り尽くし、正確無比にその正鵠を射るとは何たる至芸……。正に暗殺の為だけに振るわれた、狂気の達人技だ……。しかもこの刀傷……。凶器が刀子としても、身幅が極端に狭い。熟視せねば分からぬ刀痕で一撃に急所を穿つとは、恐るべき技術だ。こんな芸当は、武に通じた人間の中でも卓越した者にしか出来ない筈……。

寒慄した茜の額から、冷汗が流れ落ちた。

……殺したのは十中八九、頼行殿……。友禅様の暗殺が成就したと思い、早計に楓殿の母君を殺めるとは……。

頼行殿は一体……何人殺せば気が済むのか……。

 茜が懇情込めて楓の母君を帳台に仰向けに横たえると御身を整え、暫し合掌すると衷心から念仏を唱え哀悼し、軈て静かに姿を消した。


 その頃、寝殿中央の部屋では頼行が介然と座し、刀子に付いた血糊を白布で拭き取り、手入れをしていた。武芸者である頼行の部屋には、実用的な武具が種種並べられていた。 

ふと細微な気配を感じ取り、八方睨みの鳳凰の如き双眸を視線鋭く妻戸に向ける。  

刹那、突如として発生した雷鳴の如き馬蹄音が、寝殿を震撼させた。

「頼行!」

 戦慄する激声と同時に、凶暴極めた破砕音を発しながら妻戸が全て吹き飛んだ。

漆黒の偉躯を誇る駿馬が、重厚なる馬蹄で悍然と簀子を破壊すると、傲然と威圧する。馬上の偉丈夫が、憤然として睥睨した。

頼行が座したまま、手入れ中の小刀を懐に納めちらと目を転じると、冷然として酷薄なる声を発した。

「これはこれは……東宮様。随分と荒々しいお出ましですな。どうかなさいましたか」

黒王より剽軽に降りるや否や、東宮が土足のまま砕破した妻戸を蹴散らし、烈火の如き怒りを露に頼行を睨み据える。

「どうしたもこうしたも無い」

東宮が獰猛なる笑いを浮かべ、言い放った。

「この俺自ら、お前に天誅を加えに来た! 身に余る栄誉を感謝しろ」

 東宮は何故赴いたのか、一切の説明をしなかった。

夜叉や羅刹を完膚無きまで懲悪する毘沙門天の如き憤怒を以て、東宮が頼行を威圧する。東宮が発する焦熱の業火の様な『気』に晒されながらも、頼行は依然として座したまま、微動だにしなかった。

「ほう。この儂を……ね」

 頼行が、恰も他人事の様に平然と返答する。不思議な事に頼行もまた、東宮が何故自分を討ちに現われたのか、一切の理由を求めなかった。


武芸者としての彼は、自分の実力に絶対の自信を有していた。東宮が現われた理由など、頼行からすればどうでも良かったのである。難無く、返り討ちにしてしまえば良い。不法侵入は東宮側であるし、第一宮中全てがその存在に怯えているという、疫病神の東宮である。東宮を廃し、腹違いの弟宮であり扱い易い性質の()(きの)皇子(みこ)を東宮にしてしまえば良い。

綾小路が死んだ今なら、異論を挟む者はいないだろう。綾小路には息子が居たが、未だ若い。後ろ盾の父親の庇護無くば……元より異国の血が混入した、所詮は宮中でも異端なる輩だ。直に捻り潰せるだろう。それに帝も……手に余る暴れん坊の東宮がこのまま後継するよりは、次子の有希皇子を東宮とした方が、却って喜ぶぐらいであろう。

殊、武力行使という手段に於いて、本来東宮は頼行の懸念材料では無かった。寧ろ、暴れん坊の東宮は自分と同様、武装は必要という見解に、大いに賛同するとさえ思っていた。征伐に関しても、そう異論は挟まないだろう。勇胆豪邁にして剛毅果断なる東宮は、頼行にとっては障害とならない筈の人物であった。唯一気になると言えば、東宮の人格はどうにも扱い難く、自分の意のまま傀儡と化すのは恐らく絶望だろうという点であった。

……であれば今、東宮の方から死地に飛び込んで来たのである。無害と踏んでいた人物だがいっその事、此処で発生する不慮の事故で薨去して頂き、有希皇子様を挿げ替えた方が得策というものだ……。

それに……東宮の発する『気』はその激昂により、熾烈な炎を思わせる灼熱の気迫を有するが、豪放磊落で奔放、かなり隙が有る様に思える。果たしてどれだけの実力があるのか、武道を志す者としては一度、真剣に拳を交えてみても面白いかもしれない。

……ならば今が、正に千載一遇の好機というものだ。

頼行は、瞬時に自分の都合をしたたかに計算すると、にたりと狡猾な笑みを浮かべた。


「……返り討ちになっても、良いという御覚悟ですな?」

 言い終えるなり頼行が片膝を立て座したまま、瞬息太刀を抜刀し先手を仕掛けた。

 東宮が難無く太刀筋を見極め、剽疾に躱す。身を翻した瞬間、電光石火の早技で太刀を握る頼行の手をぐいっと掴んで前に引き倒すとその懐に飛び込み、頼行の片膝を後ろに蹴り上げて軽々一回転させ、床に激しく叩き付けた。

 虚を衝かれた頼行の太刀が、深々と床に突き刺さる。が、頼行も名うての武芸者。受身を取ると、瞬時に上体を転じて透かさず東宮の足を狙い、鋭い蹴りで反撃に出た。

東宮が鮮やかに跳躍し、後方に避ける。一瞬の空隙に頼行が壁に走り寄り、壁に掛けられた太刀を取り、今度は立姿勢で身構えた。

 東宮が豪然と鼻で笑い、近くの壁に掛けてあった長槍を手にする。にやりと笑うと、口を開いた。

「俺は全ての武道の中で、棒術が最も得意だ。覚悟しろ」

 頼行が驕慢なる笑みを浮かべ、答えた。

「それは、残念でしたな……。儂は、剣術には絶対の自信がありますからな」

東宮が、ふんと鼻を鳴らすと嘲笑した。

「さっきの鈍い剣術を誇っているのか? 笑わせる!」

「油断していると、痛い目に遭いますぞ!」

 言うが早いか頼行が目にも留まらぬ速さで突進すると、太刀風鋭く東宮に斬り掛かった。東宮が、易易と槍先で跳ね上げる。数合、激しい打ち合いとなった。が、太刀の頼行は間合いが不利となり、なかなか必勝の間合いに近付けない。東宮が矢継ぎ早に長槍を繰り出し、徐々に部屋の隅に頼行を追い詰めて行った。

攻防が長引く程、刀剣が槍より重い分、頼行が疲れを見せ始め動きを鈍らせる。一方、驚異的な剛健を誇る東宮は、化け物染みた強堅が手伝って、信じ難い事に、槍の繰り出す速度が益々上がった様であった。

頼行が、自らの体力の限界が近い事を悟り、虎視眈々と一撃必殺の機を窺う。

更に太刀を交える事数合、頼行の太刀がいよいよ制御を失い軌道を大きく外れ、空を滑った。好機とばかり、東宮が透かさず上から長槍を打ち下ろそうとした瞬間、頼行が瞬時に刀を返し渾身の力を込め、上に向かい斬り上げる。

 東宮の槍が、上三分の一でスパッと斬れて弾け飛んだ。

勝利を確信した頼行が、思わず得たりと冷笑を浮かべる。とどめとばかり最後の一撃を振り下ろそうとした矢先、東宮がにやりと笑っているのが見えた。

刹那、槍先を切断された状態の棒でズダンと両足を薙ぎ払われ、受身を取る間も無く激しく転倒し、頭を壁に強打した。


 脳震盪を起こした頼行がはっと目を覚ますと、頸に自らの太刀がビタリと突き付けられていた。

「動くな!」

 東宮が太刀を喉許に突き付けたまま、眼光鋭く睨み据える。頼行が微動だにしない事を見て取ると、峻厳至極に口を開いた。

「最後の命乞いだ。楓を女人に戻し、悔悛して贖罪すると誓うか?」

 ……何億分の一の確率で、俺の気が変わるかもしれないぞ……とばかり、頼行の返答を待った東宮であったが、不意に背後から声が掛かった。

「其奴に慈悲など無用ですよ、東宮様」

 茜……にしては、やけに冷たい声だ……とばかり、東宮が頼行に鋒鋩を突き付けたまま、視線を欹て茜を見遣る。

「茜? どういう事だ」

 先程の乱闘で頼行の懐中から落下した刀子を床から拾い上げ、その血糊を見た茜が、抑え難い悲憤に身を震わせた。

「其奴は……楓殿の母君さえも……その手に掛けたのです」

「何?」

瞠目した東宮の双眸が見る間に烈火の怒りで沸騰する。太刀を握る拳をぐっと震わせ、躊躇なく満身の力を込めた次の瞬間、東宮が猛然と太刀を振り翳した。

「頼行!」

 雷鳴の如き怒号に、東宮の猛威に気圧された茜が思わず一瞬目を瞑る。

床を鳴動させる雷撃に、頼行が一刀の下に両断された……と震慄した。


東宮は振り上げた太刀を有りっ丈の力で床に深く突き刺すと、拳を握り締め、渾身の力で頼行の頬を殴り倒した。もともと長身の上、天恵に浴した強靭な体躯から繰り出される拳は空前絶後の破壊力を内包し、凄絶なる拳圧と相俟って頼行を部屋の隅まで強暴に吹き飛ばした。頼行の鼻と口が裂け、周囲に血飛沫が迸散する。頼行が、堪らずその場に蹲る。

目を見開いた茜が、予想に反して東宮が太刀を用いなかった事に驚きを覚えた。

「何故、殺した!」

目を剥いた東宮が頼行の胸元を引き掴むと、強烈な平手打ちを食らわせた。

再び反対側の部屋の隅に飛ばされた頼行が、悶絶躃地する。満身創痍にも拘わらず、三度迫り来る東宮に傲倨な双眸を向けると、不遜に放言した。

「成程……東宮様。貴方様も又……毛唐の輩の影響を受けたと見えますな」

「何?」

東宮が頼行の胸倉を剛と掴んだまま、その動きを止めた。

「私を斬る勇気が、無いと見える」

東宮が冷眼を向け、頼行を下に打ち捨てその足に強烈な蹴りを加えると、口を開いた。

「……勘違いも大概にするんだな。太刀を使わないのは、断じてお前の為ではない。お前は、斬るにも値しない。太刀が腐ると言うものだ」

東宮が吐き捨てる様に答えると、冷ややかな双眸で頼行を下瞰した。

「それに、俺の前で謗言は許さん! 耳が腐る。毛唐……だと? 断じて、その言葉は許さんぞ! 何様のつもりだ、お前?」

頼行が血塗れの口と鼻を拭いながら、厳烈なる非難の視線を東宮に向けた。

「凡そ千年もの間、血統を重んじて来た皇族の言葉とも思えませんな。御身に流れる血が如何に尊いか、純なる血脈を守り続けて来た皇祖の労苦が、貴方様の様な愚かな皇孫の顕現で、甚だ無に帰すというものですな」

東宮が、冷然と嘲笑った。

「血統だと? ……笑わせる。戯けるのもいい加減にするんだな。お前の言う血とは一体何だ? 純なる血脈などと言う幻影が、この世にあると本気で思っているのか? ……何が皇統だ! 皇祖からの家系図が残り、その歴代が明瞭である事は確かだが、血統としての価値はそれだけだ! 嘗て桓武天皇の母君は勿論、嵯峨天皇の女御も百済の姫君だった。外国の血が入るなど、当たり前の事ではないのか? より言及するならば、政略結婚が常識であり、星の数程の婚姻を繰り返している皇族程、上代より得体の知れない血が混合した存在など無いのではないか? 大体お前の先祖も、辿れば何処ぞの皇族に行き着くだろう。其れ程皇族の血を継ぐなんて者は数多居る。俺から言わせれば、お前ら貴族が何を以って高貴な血脈だの矜持だのと、真顔で話している事自体が、甚だ滑稽だ!」

 東宮が片腹痛いとばかり放笑した。皇族の中でも最も尊き皇太子という立場にあり、正統な皇位継承者である東宮が、恰も自らの存在を否定するかの様な発言を展開している。

頼行と茜が思わず呆気に取られると、繁繁と東宮を凝視した。

東宮が壁から小刀を取り再び頼行に歩み寄ると、突然頼行の髪をむんずと掴み、一気に髷を剃り落とした。一瞥して冷笑を浮かべると、傲然と言い放つ。

「どうだ、お前! 髷を失い珍奇な頭になれば、お前はお前でなくなるのか? 禿頭や黒髪、白髪は許せても、薄茶色の髪が癇に障るのだろう? 俺に言わせれば、馬鹿みたいな屁理屈だ」

閉口したままの頼行を見据えると、東宮がふんと鼻を鳴らした。

「黒い瞳が許せても、蒼い瞳は駄目なのか? 俺にはさっぱり、こだわる意味が解らん。いいか、見てろよ!」

 小刀を懐紙で丁寧に拭き取ると、東宮が自らの指をその鋭い切っ先で少し傷付けた。

茜が思わず、あっと小さな悲鳴を上げる。深紅の鮮血が、床にぽたりと滴り落ちた。

東宮が淡淡と眺めながら、静かに口を開いた。

「これが純なる血統かどうか、高貴かどうか、お前らと一体何が違うというのか……頼行! お前には解るというのか? ……俺には、全く分からん。俺にとっては誰とも変わらぬ、唯の赤い血だ。……そうだろう? 誰もが、生きてる時は温かい。そして、死んだら肉の塊となり、軈て骨になる。それが、唯ひとつの……命ではないか」

 東宮が頼行の胸倉を剛と掴み容赦無く座らせると、その鷹の様な双眸で、頼行を鋭利に睨み据えた。

「お前の命を取る事は、俺にとって簡単な事だ……。自殺に追い込む事も、お前の家を殲滅させる事も、俺にとっては造作無い。だが、敢えてしない。意味が無いからだ! 尤も、これは……あいつの受け売りだがな」

 東宮が瞳を伏せ懐かしそうに昔を思い出すと、面白そうにくっくと笑った。

そして凛然と向き直ると、峻烈なる鋒鋩で頼行を睥睨する。

「……だが、お前に殺された無数の罪無き犠牲者を思えば……。到底、お前を許す事は出来ん! だから、覚悟しろ!」

 東宮が犠牲者の人数分だけ、頼行に強烈な制裁の拳を浴びせ掛けた。

余りの衝撃に、頼行が堪らず意識を失い床に昏倒する。

 暫し無言のまま床に悶絶した頼行を見遣ると、東宮が徐に茜に命じた。

「茜……。応急手当をして、葵の屋敷へ連れて行ってやれ」

 想定外の言葉に驚いた茜が眉を上げ我が耳を疑うと、その真意を量りかね、東宮の顔を仰視する。主命に従い急ぎ頼行の傍に駆け寄ると、その状態を確認した。

「しかし東宮様……。この傷では、恐らく手当てをしても、助かりますまい」

 損傷を慎重に判断した茜に、東宮が口角を上げにやりと笑うと、明言した。

「大丈夫だ、急所は外してある。……それに、其奴は生粋の武芸者だ。日頃の鍛錬に抜かりは無い筈だ。ゴキブリ並みに、しぶといさ」

 茜が東宮を見上げて婉容に微笑むと、ひとつ尋ねた。

「東宮様、刀を使わなかったのは……。初めから、お助けになるおつもりで?」

 背を向けた東宮が肩越しに笑うと、豪爽に答えた。

「楓の母君が亡くなった以上、良くも悪くも……其奴は楓にとって、最後の肉親だ。恩人を悲しませる様な真似は、人として……とても出来んだろう?」

 ……やはり此の御方は、生まれついての帝王なのだ。

茜が会心の笑みを浮かべると、尊崇の眼差し深く東宮を見上げた。

「……では、俺は薫の家に戻るから、後は頼んだぞ」

 言い置くなり東宮は庭に待たせた黒王に飛び乗り、早々と武者小路家を後にした。



 綾小路家では、退室した友禅に代わり葵が御帳の傍らに座ると、時折楓の様子を心配そうに覗いては、縁側に静座したまま庭を愛でている薫と話していた。

「ね、薫。頼行殿は武芸の達人なんでしょ? ……大津、大丈夫かなあ。何か……心配」

 葵が膝の上に置いた両手をいじっては、はらはらした様子で顔を上げ、薫を見つめた。

 薫が呆気に取られると、葵をまじまじと見遣り、嘆息した。

「なんだ、お前……そんな事を心配していたのか?」

 こくりと頷く葵を見て、どうやら本気で心配している心境を察すると、薫が明言した。

「逆を心配するなら兎も角……。その心配は全く無いぞ! あいつが脅威に感じるのは、恐らく……激昂した帝くらいだ」

「そ……そうなの?」

 葵が狐につままれた顔をした。……それを言うなら、激怒した薫も別の意味で相当怖いから、間違い無く大津には脅威だと思うんだけど……などと余計な疑問が過ぎりつつ、薫の言葉に、差し当たり安心した顔を見せる。

「心配無い。そろそろ……大津が戻って来るだろう」

 穏やかな顔で葵を安慰した薫が再び視線を庭に戻し、麗艶なる藤を眺めた。

……二条院の爛漫なる庭で、数多咲き誇る花木の中でも唯一、楓が心を留めていた藤……。百花繚乱の春に於いて最も高雅な紫に匂い立ち、その嬌艶なる麗姿を艶陽に燦然と時めかせながらも、磐石なる藤棚の庇蔭無くば自ら竪立する事さえ叶わぬ、哀婉なる花……。

 妙なる花房が花陰の幽光に瞬く様は、宛ら幽囚された楓の清かな瞳に宿る星辰に似て、静黙していた薫が哀愁を覚えて瞳を伏せた。

……真に、楓が心惹かれたのも頷ける……。


幽思に耽る薫の耳に、聞き慣れた跫音と共に、鷹揚なる東宮の声が陽と響いた。

「薫! 友禅と楓はどうした? 上手く片付いたか?」

「大津! おかえり!」

爽快な様子で戻った東宮に、安意した葵が嬉々として声を掛ける。

静慮していた薫が視線を上げ、東宮を見遣ると柔和に微笑む。

「おかえり。今、御帳で楓殿を寝かせている。……そちらは? 殺さなかっただろうな?」

念を押す薫を見遣り、ふんと口角を上げると平然として、東宮が答えた。

「殺しはしないさ。唯……奴が反撃しないで殴られに来たから、親切にその望みを叶え、滅多打ちしてやっただけだ」

 喜色満面の葵が駭然として、蒼白になる。

「叶えてやったって……。それも殺したって事になるんじゃないの?」

 屹度して葵が糾弾する。……それって、自殺幇助した事になるんじゃないの? もう信じらんない……とばかり、葵が激しく落ち込んだ。東宮が、存外だとばかり反論する。

「大袈裟な奴だな! 大丈夫だ、あんな傷で易易と死ぬものか! ……まあ、良くて全身打撲、悪くて内臓破裂の危険が少し有るくらいだ!」

 あっけらかんとした顔で豪快に笑う東宮に、嘘……と呟いたまま、葵が絶句する。

薫が深い溜息を吐くと、やはり……と呟くなり顔を曇らせ閉口した。

 

 ふと御帳から、啜り泣く声が聞こえた。帳台に横臥したまま気配を殺し、その実ずっと話を聞いていた楓が、とうとう堪らず肩を震わせ泣き出した。

友禅と薫の話を期せずして聞いた事で、初めて父の悪行を知る事となった。そして、仇と怨嗟していた綾小路家が、どんな思いで今日まで過ごして来たのかも……。その後の葵と薫の話から、東宮が何を目的に武者小路家に向かったのかも……全てを知る事となった。

父はきっと……もう殺される。それは父のした事を考えれば、逃れられない罪に思えた。でも……。楓にとっては、それでも血の繋がった父であり、肉親なのである。自分を騙し続けた父に激しい憎悪も抱けば……それでいて憎み切れない、複雑な自分がいた。

「では……。父は……生きているのですね」

 居た堪れなくなった楓が終に上半身を起こし、瞳に満々と涙を湛え東宮を見つめた。

 葵が目覚めた様子の楓に安堵した表情を見せると、体調を気遣う声を掛ける。薫が慈愛に満ちた眼差しで葵と楓を見守ると、泰然とした東宮が楓を見遣り、深く頷いた。

「今、言った通りだ。治療の為、今頃は葵の診療所に居る筈だ。……安心していい。今回の一件で、然しもの頼行も懲りただろうから……これでお前も、楓という女人に戻れるな」

 桎梏の難渋に喘いでいた楓が、心の底から零れるばかりの眩い笑顔を見せた。

「はい。……嬉しい……! 本当に、ありがとうございました」

漆黒の夜空の如き瞳には爛然とした星辰が煌き、溢れ出た嬉し涙は皓皓とした星河となって頬を濡らしていた。



後日、葵は医学の講義中に目を盗んで、珍しく何やら熱心に手紙を書いていた。

宮中の噂話に通じ、情報通を自負する紅蘭が話の種に事欠き、好奇心の赴くまま東宮と薫に話題の提供をせがんだが、二人共に忙しい事を理由にはぐらかし、何ひとつ答えようとはしなかった。

……何か、あるわね……? と、本能的に感知した紅蘭は、東宮と薫からネタを仕入れる事を断念し、薄弱そうな葵から何か情報を得ようと揺さぶりを掛け、ネタ出しを強要していたのである。

 二条院で葵に詰問すると、東宮と薫に余計な詮索をするなと怒られる……。そう考えた紅蘭は、葵の大好物である甘味を餌に、文での報告を指示していた。葵は、お菓子箱数箱を条件に出されるとつい釣られて、熱心に紅蘭への報告書を纏めていたのである。


【……あれから数日後……。武者小路頼行殿は、未だ僕の家で入院中です。しかしながら持ち前の体力で、めきめきと驚異的な回復を見せています。

今後の彼の処遇は未だ決定されていない様ですが、ひとつだけ朝廷の方針として明確な事は、彼は治療が済み次第、再教育機関に送られ、一から学問を学び直し更生させ、今後はその適正を見極め、適材適所に配置されるという姿勢です。

人としての仁愛を忘れ、急進的で狭隘なる欲求に駆られ、殺人という重罪を犯した彼の獰悪なる性根を誠心誠意根本的に叩き直す為、只今朝廷では、全国から腕に覚えのある辣腕教官を、文武問わず熱烈募集中との事です。

 楓さんの方はあれから、ちょくちょく二条院へ遊びに来る面面に仲間入りしました。

昨日も来ましたが、又もや男装の麗人姿で現れて、

『大津! 今日は剣術で勝負しよう』

などと、大津に颯爽と勝負を挑んでいました。勿論、大津は顔を強張らせて猛抗議。

『何? 楓! 何だ、その格好は! お前、切望して女人に戻ったのではないのか?』

……なんて怒っていたけれど、楓さんは、けろりとして放言しました。

『ああ、確かに女に戻った。……だが、飽きた。女は、鬱陶しくて敵わん! やはり私は男の方が好い。部屋に籠り、一生おしろいお化けで居るよりは、野山に出て武芸の稽古に勤しむ方がずっと好い! さあ、勝負だ!』

 実に清清しい顔で、大津に挑戦していました。

大津が苦虫を噛み潰した顔で、くそう、俺の努力は一体……なんて、嘆いていました。

そういう大津を見るのも、僕は楽しいけれどね!

 ……そんな訳で、楓さんは三日で女性をやめたみたいです。……あんなに女人に戻りたがっていたのにね! 女心は秋の空……? 女の人の気持ちは、良く分かりません。

 楓さんが二条院の仲間に加わった事で、これで綾小路家と武者小路家の二百年に渡る対立は、事実上終息したと思います。

 それと……近々、薫が内大臣になるみたい。公私共に、友禅様の片腕になるんだと思うよ! 大津は、これで薫の目を盗んでやりたい放題だ! ……なんて、最高に罰当たりな喜び方をしていました。

 今日は大津と薫で、何処かに出掛けたみたい。行き先は聞いていないけど……。

そのうち、楓さんを紅蘭やといち様に引き合わせるって大津が言っていたので、楽しみにしていてね。それではそろそろ見付かりそうなので、この辺で筆を擱きます。 葵】


 葵が事の経緯を具に紅蘭に報告している事など露知らず、東宮と薫は悠悠閑閑とした平素の通り、各々の愛馬に跨り遠駆けを愉しんでいた。

思わぬ騒動で出来ずにいた、鷹狩りに出たのである。

狩場に向おうとした矢先、薫が東宮に少し先に行き待っていてくれ、と声を掛けた。

東宮が理由を尋ねると、嵯峨野にある綾小路の墓地に少し寄りたいから、との事であった。

それならば暇だから俺も行こうとばかり、遠駆けがてら、二人で嵯峨野まで来たのである。墓地の入口に到着すると、薫が持参した見事な芍薬の花束を抱えて馬を下りた。

不思議に思った東宮が尋ねる。

「墓前に芍薬か? 珍しいな」

薫が、ふふっと笑って答えた。

「この芍薬は、唐へ留学中に父上と母上が大層気に入って、唐から日本に苗木を持ち帰った思い出の花でね。母上は、とても花がお好きで……。家の庭にある季節の花木も、父上と共に趣向を凝らして、色々植えたらしい」

東宮が感心すると目を欹て、ふと問うた。

「では姉の清香といい……お前の名前も、好きだった花の薫りから取ったのか?」

くっくと笑い、薫が頷いた。

「……そうらしい。だが母上が一番お好きな花は、薔薇だったとの事だ。……薔薇という名前にされなくて、本当に良かったよ」

視線を交わし、思わず吹き出した東宮と薫が、ひとしきり愉快そうに哄笑した。ゆったりとした足取りで融融と会話を楽しみながら、芝生に覆われた墓地の奥へと歩むと、軈て薫がひとつの墓石の前で、ふと立ち止まる。

東宮が薫の隣に並んで立つと、静かに尋ねた。

「お前の……母上と、姉上の墓か?」

 薫が穏やかに微笑んだ。

「そうだ。……暫く来てなかったから、今日は、報告がてらと思ってね」

 薫が、庭から摘み取った見事な芍薬を墓前に供えると、屈んで手を合せる。

 墓石を静かに見つめながら、東宮がふと呟いた。

「お前の親父は……真に、お前の母上を愛していたんだな」

 薫が酷く驚いた顔で双瞳を大きく見開くと、東宮の顔を凝視した。

凡そ恋愛とは無縁の東宮が、そんな感情を持っている事自体が驚愕であり……況してや真剣な面持ちでそういう話題を口にするのは、もっと有り得ない出来事だった。

薫の視線に気付いた東宮が、薫にも初めて見せる……何とも穏やかな顔になる。

「……だって、そうだろう? 考えても見ろよ。普通、貴族の……取り分け人臣を極めた太政大臣ともなれば、数多の息子に政権を握らせ、沢山儲けた娘を入内させ、如何に自らの栄耀栄華を極めるかを考えるだろう。それが寧ろ、普通だ。……でもお前の親父は、そうしなかった。子供はお前という息子、たったひとりだ」

 薫が穏やかに墓石を見つめたまま、東宮の話を聞いていた。

「生涯に、たったひとりの女性を愛する……。羨ましいぜ、お前の親父は! ……そういう女性に出会って、添い遂げる事が出来たんだからな……」

薫がふっと瞳を和らげ柔和な笑みを浮かべると、その深青の瞳で東宮を見つめた。

「意外な所で、お前の結婚観を聞いた気がするな……」

 東宮がふんと鼻を鳴らすと、言葉を返した。

「馬鹿言え、お前だって同じ価値観だろうが」

 薫が穏やかな微笑を浮かべて、それを肯定する。

 やがて二人は悠然とした足取りで墓地を後にし、それぞれの愛馬に飛び乗ると、鷹狩り場まで遠駆けの競争だとばかり疾風の如く、あっという間に草原を駆け抜けて行った。



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