第13話 吸血鬼の誘惑
施設の中で衣服を見つけた朔夜は、着替えを済ませることにした。
血にまみれ、あちこちが破れていた服を脱ぎ、代わりに選んだのは黒を基調とした着物だった。
袖を通し、帯を締める。
そして、腰まで伸びた黒髪を後ろで一つに結んだ。
「……こんなものか」
近くにあった鏡を覗き込む。
そこに映っていたのは、以前とは雰囲気の違う自分だった。
かつての自分を知る人間が見れば、驚くかもしれない。
だが、今の朔夜にとって、そんなことはどうでもよかった。
過去の自分にこだわるつもりはない。
今の自分は、今の自分だ。
それだけのことだった。
「お待たせ。どうかしら?」
声に振り返ると、ルシアが立っていた。
彼女は新しく見つけた紅いドレスに着替えていた。紅い髪との相性もよく、まるで最初からその姿だったかのように似合っている。
「……似合ってるんじゃないか」
「ふふっ、ありがとう。あなたもなかなか格好いいわよ」
「そうか」
「もう少し嬉しそうにしてもいいんじゃない?」
「別に、褒められたくらいで喜ぶ歳でもないだろ」
「そういうところ、可愛げがないわね」
ルシアは楽しそうに笑った。
朔夜は小さく息を吐くと、部屋の奥へと視線を向けた。
「それより、浴場があっただろ。俺は先に入ってくる」
「いいわよ。私はその間に装備を調べておくわ」
「ああ。何か使えそうなものがあったら、取っておいてくれ」
「了解」
朔夜はそう言って浴場へと向かった。
◆
浴場には、広々とした湯船があった。
湯気が立ち上り、温かな空気が辺りを満たしている。
朔夜は身体を洗ってから、ゆっくりと湯船に浸かった。
「……はぁ」
思わず、深いため息が漏れる。
ダンジョンに入ってから、まともに休んだ記憶がない。
魔物との戦闘を繰り返し、巨人との死闘まで乗り越えたのだ。身体の疲労はもちろん、精神的にも疲れが溜まっていた。
温かい湯に身体を沈めていると、張り詰めていた気持ちが少しずつ緩んでいく。
「……こういう時間も、悪くないな」
これまでの自分なら、こんなふうに呑気に湯船へ浸かることなど考えもしなかっただろう。
だが、今は違う。
生きるために戦う。
邪魔する者は排除する。
そして、自分が守ると決めたものだけを守る。
それが今の朔夜の生き方だった。
だからこそ、休めるときには休む。
それもまた、生き残るために必要なことなのだ。
朔夜は目を閉じ、しばらく湯の温かさに身を委ねていた。
そのときだった。
ガラッ。
浴場の扉が開く音が響いた。
「……ん?」
朔夜は目を開けた。
「お風呂、失礼するわね」
聞き覚えのある声。
まさかと思い、入口へ目を向ける。
そこにいたのは、紅い髪の少女――ルシアだった。
「…………は?」
朔夜は数秒間、言葉を失った。
そして、ようやく状況を理解すると、慌てて声を上げた。
「おい!? なんでお前が入ってくるんだよ!」
ルシアは不思議そうに首を傾げた。
「なんでって、お風呂に入るためだけど?」
「そういうことを聞いてるんじゃねえ! 俺が入ってるだろうが!」
「ええ、見れば分かるわ」
「分かってて入ってきたのかよ!?」
「だって、私たちしかいないじゃない」
あまりにも平然とした返答だった。
朔夜は頭を抱えたくなった。
「……お前なぁ」
「それとも、私と一緒に入るのは嫌?」
「嫌に決まってるだろ!」
即答だった。
ルシアは一瞬だけ目を丸くし、それからくすくすと笑い始めた。
「ふふっ、そんなに慌てなくてもいいじゃない」
「慌てるに決まってるだろ! いいから出ていけ!」
「はいはい。分かったわよ」
そう言いながらも、ルシアはまったく出ていこうとしなかった。
むしろ、ゆっくりと朔夜の方へ近づいてくる。
「……おい」
「ねえ、朔夜」
「なんだよ」
「あなた、強いのよね?」
突然の質問に、朔夜は眉をひそめた。
「……それがどうした?」
「ちょっと、確かめたいことがあるの」
ルシアの表情から、先ほどまでのふざけた様子が消えた。
彼女は朔夜の首筋へ視線を向ける。
その瞬間、朔夜は嫌な予感を覚えた。
「……お前、何をするつもりだ?」
ルシアは答えなかった。
代わりに、口元をゆっくりと開く。
そこから覗いたのは、人間のものとは明らかに違う、鋭い牙だった。
「……なるほどな」
朔夜は警戒を強めた。
「お前、吸血鬼か」
「正解よ」
ルシアは、悪戯が成功した子供のように笑った。
「私は吸血鬼なの。もっとも、ただ血を吸うだけの存在じゃないけどね」
「それで、俺の血を吸おうってわけか?」
「ええ。強い人間の血は、私たちにとって特別なのよ」
「だからって、勝手に吸わせると思うか?」
朔夜が立ち上がろうとした、その瞬間。
ルシアが素早く彼の腕をつかんだ。
「ちょっとだけ、我慢してね」
「おい、待――」
次の瞬間、鋭い牙が朔夜の首筋に食い込んだ。
「っ……!」
痛みが走る。
朔夜はルシアを引き離そうとしたが、彼女は思いのほか強い力でしがみついていた。
「おい! 離せ!」
ルシアは答えない。
ただ、夢中になって朔夜の血を吸っていた。
「……くそっ!」
朔夜は心の中で、ある人物の名を呼んだ。
『ツクヨミ!』
『なあに、朔夜?』
『助けろ! こいつ、俺の血を吸ってるんだぞ!』
しかし、返ってきたのは予想外の言葉だった。
『……ふぅん?』
『ふぅん、じゃねえよ!』
『あなた、ずいぶん鼻の下を伸ばしていたじゃない』
『はぁ!?』
『美しい女の子と一緒にお風呂に入れて、嬉しかったのでしょう?』
『そんなわけあるか! こいつが勝手に入ってきたんだよ!』
『本当に?』
『本当だって!』
ツクヨミの声は、明らかに楽しそうだった。
『ふふっ。たまにはいいじゃない。女の子に迫られる経験も』
『お前なぁぁぁ!!』
朔夜の叫びは、誰もいない浴場に虚しく響いた。
『私は見守っているから、頑張ってね』
『見守ってないで助けろ!!』
『嫌よ。あなたが悪いんだもの』
『俺の何が悪いんだよ!?』
『さあ、何かしらね?』
ツクヨミは最後まで助けてくれなかった。
そしてルシアは、ようやく朔夜の首筋から顔を離した。
「……ふぅ。ごちそうさま」
「お前……!」
朔夜は首筋を押さえながら、ルシアを睨みつけた。
「勝手に血を吸うな!」
ルシアは小さく笑った。
「ごめんなさい。でも、どうしても必要だったのよ」
「必要なら何をしてもいいのか!?」
「それは……」
ルシアは少しだけ言葉に詰まった。
けれど、すぐにいつもの笑顔を浮かべる。
「次からは気をつけるわ」
「次がある前提で話すな!!」
浴場には、朔夜の怒声が響き渡った。
その声を聞きながら、ルシアは楽しそうに笑っていた。
そして、朔夜の頭の中では、ツクヨミの笑い声まで響いていた。
こうして、ダンジョンの休憩施設での一日は、朔夜にとって予想もしなかった騒動とともに過ぎていくのだった。




