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男爵家四男の辺境開拓記 ~不遇スキル《修繕》と《清掃》で、みんなの帰る場所を作ります~  作者: 和泉發仙
第一章 灰境への道

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8/40

街道の向こうへ



前書き


遠くへ行くために必要なのは、


速く進むことではありません。


転ばない歩き方を覚えること。


疲れたときに休むこと。


困ったときに、助けを求めること。


そして――


同じ道を進む人を、


少しずつ信じることでした。



第一章 -街道の旅編 -第8話 街道の向こうへ




「落ちる!」


「落ちると思ったら、踏ん張れ!」


「踏ん張ってる!」


「なら手を離すな!」


「離してないよ!」


「その割には、身体が半分外へ出てるぞ!」


 男爵邸を出発してから、まだ一刻も経っていなかった。


 それにもかかわらず、アルフレッドは早くも荷馬車から落ちかけていた。


 原因は、街道の小さなくぼみである。


 一号車の左車輪が穴へ落ち、馬車全体が大きく揺れた。


 御者台の端へ座っていたアルフレッドの身体が宙へ浮き、そのまま外側へ傾いたのだ。


 隣にいたベンが、すんでのところで襟をつかんでいる。


「苦しい……」


「苦しいで済んでよかったな」


 ベンはアルフレッドを御者台へ引き戻した。


「落ちて車輪に巻き込まれたら、笑い話じゃ済まねえぞ」


「今の道、急にへこんでたよ」


「道ってのは、ずっと平らじゃねえ」


「誰か直さないの?」


「全部の道をか?」


「うん」


 アルフレッドが当然のように頷く。


 ベンは手綱を握ったまま、横目で少年を見た。


「王国中に、どれだけ道があると思ってる」


「分からない」


「俺も分からねえ」


「じゃあ、数えたほうがいいね」


「そこから始めるのか?」


 前方を馬で進んでいたガルドが振り返る。


「何を話してる!」


「領主様が、王国中の道を直すそうだ!」


 ベンが大声で答えた。


「そんなこと言ってないよ!」


「似たようなことは言っただろ!」


「へこんでるところだけ!」


「それが幾つあると思ってる!」


 開拓隊の者たちから笑い声が上がった。


 アルフレッドは少しだけ頬を膨らませる。


「笑わなくてもいいのに」


「馬鹿にしてるんじゃねえ」


 ベンが言った。


「旅の最初なんて、誰でも似たようなもんだ」


「ベンさんも落ちたの?」


「俺は初日に馬車から落ちて、そのまま泥へ頭から刺さった」


「本当に?」


「嘘だ」


「どっち?」


「半分本当だ」


「どういうこと?」


「落ちたのは本当だ。頭からは刺さってねえ」


「じゃあ半分じゃない気がする」


「細かいな、領主様」


 ベンは豪快に笑った。


 アルフレッドも、少し遅れて笑う。


 男爵邸はすでに見えなくなっていた。


 街道の両側には、よく手入れされた畑が広がっている。


 麦。


 豆。


 低い果樹。


 農民たちは開拓局の青い旗を見つけると、仕事の手を止めて道を譲った。


 その中には、御者台へ座る小さな少年を不思議そうに見つめる者もいた。


「開拓局だ」


「また誰か送られるのか?」


「あの子どもか?」


「貴族の坊ちゃんだろう」


「かわいそうにな」


 風に乗って、そんな声が届く。


 アルフレッドは、無意識に胸元の銀飾りへ触れた。


 かわいそう。


 屋敷を離れる前から、何度か聞いた言葉だった。


 自分が不幸な目に遭っていることを、周囲のほうがよく知っているような言い方。


 けれどアルフレッド自身は、まだ実感できていなかった。


 家を追い出された。


 父やアーデルハイトが、自分の帰還を望んでいないかもしれない。


 それは寂しい。


 怖くもある。


 だが灰境には、人がいるかもしれない。


 セルマも、そこを目指している。


 これから何が始まるのかという気持ちまで、すべて不幸と呼ぶことはできなかった。


「どうした?」


 ベンが尋ねる。


「何でもないよ」


「何でもない顔じゃねえな」


「かわいそうって言われたから」


「ああ」


 ベンは街道脇の農民たちへ一度だけ目を向けた。


「気になるか?」


「少し」


「なら、覚えとけ」


「何を?」


「旅人を見て、勝手にかわいそうだと思う奴は多い」


 ベンは前を向いたまま続ける。


「荷物が少ないから、かわいそう」


「一人だから、かわいそう」


「遠くへ行くから、かわいそう」


「でも、その旅が本人にとって何なのかは、本人にしか分からねえ」


 アルフレッドは瞬きをした。


「ベンさん、時々すごく真面目なこと言うね」


「時々は余計だ」


「いつも料理の話か、ガルドさんの悪口だから」


「悪口じゃねえ。事実だ」


「聞こえてるぞ、ベン!」


 先頭から怒鳴り声が飛ぶ。


「耳だけは若いな、隊長!」


「今夜の見張りを増やすぞ!」


「職権乱用だ!」


 開拓隊に、また笑いが起きた。


 アルフレッドは荷馬車の揺れに合わせながら、少しずつ正しい座り方を覚えていった。



 正午を過ぎた頃。


 一行は街道脇にある大きな樫の木の下で、最初の休憩を取った。


「全員、降りろ!」


 ガルドの指示が飛ぶ。


「馬へ水! 車輪と荷締めを確認! 昼飯は半刻以内だ!」


 荷馬車が順番に止められる。


 アルフレッドは、教えられたとおり御者台の手すりをつかみ、慎重に地面へ降りようとした。


 しかし、足が地面へ届く前に手を離してしまった。


「うわっ」


 どすん。


 尻から土の上へ落ちる。


「……痛い」


「落ちねえ座り方の次は、降り方だな」


 ベンが笑いながら荷車から降りた。


「先に片足を踏み板へ置け。地面を確認してから降りる」


「分かった」


「今、覚えても遅いけどな」


 アルフレッドは尻についた土を払った。


 その様子を見つけたマルクが近づいてくる。


「頭は打ってないか?」


「尻だけ」


「腰は?」


「大丈夫」


「本当に?」


「たぶん」


「たぶんじゃ困る」


 マルクは腰と背中を軽く確認する。


「痛むところがあったら、後からでも言えよ」


「はい」


「次は、落ちる前に呼べ」


「落ちると思ったときには、もう落ちてた」


「じゃあ、落ちそうな場所へ座るな」


「それが分かったら苦労しないよ」


「少しは口が回るようになったな」


 マルクは笑い、ほかの隊員の様子を見に行った。


 周囲では、それぞれが休憩の準備をしている。


 護衛たちは街道の前後へ立ち、周囲を警戒する。


 ヘルマンは荷車の車輪を一つずつ叩き、音を確認していた。


 ノエルは簡易机を出し、出発からの距離や天候を記録している。


 ベンは鉄鍋を取り出し、火を使わずに食べられる昼食を並べ始めた。


 黒パン。


 干し肉。


 硬いチーズ。


 酢漬けの野菜。


「アルフレッド」


 ガルドが呼んだ。


「はい」


「薪を拾ってこい」


「火を使わないんじゃないの?」


「今夜の分だ」


「ここで集めるの?」


「乾いた枝がある場所で集める。森へ入ってから見つかるとは限らねえ」


 ガルドは街道脇の林を指差した。


「ただし、見える範囲から離れるな。地面へ落ちている乾いた枝だけだ。生木を折るな」


「どうして?」


「燃えにくい。煙が出る。木も傷む」


「分かりました」


「一人で行くな。エリック!」


「はい!」


 若い護衛士が駆け寄ってくる。


 年齢は二十歳ほど。


 短い金髪と、真面目そうな青い目を持つ青年だった。


「坊主についていけ」


「承知しました」


「薪拾いくらい、一人でもできるよ」


「一人でできるかどうかを決めるのは、道を知ってからだ」


 ガルドはそう言い残し、馬の状態を確認しに行った。


 アルフレッドはエリックと共に、街道脇の林へ入る。


 林といっても、奥深い森ではない。


 農地の境に残された小さな木立だ。


 陽の光が十分に入り、遠くからも荷馬車の姿が見えている。


「これでいいかな?」


 アルフレッドは、落ちていた枝を一本拾う。


 エリックが確認した。


「少し湿っていますね」


「どこで分かるの?」


「重さと色です。それから、折ったときの音」


 エリックは別の細い枝を拾い、両手で折った。


 ぱきん。


 乾いた音が響く。


「これは使えます」


「僕のは?」


 アルフレッドが枝を折る。


 ぐにゃりと曲がり、なかなか折れない。


「湿ってる」


「そういうことです」


「なるほど」


 二人は枝を拾いながら進んだ。


 アルフレッドは細い枝ばかりを集めていたが、エリックは腕ほどの太さがある物も選んでいる。


「太い枝も必要なの?」


「細い枝だけでは、すぐ燃え尽きます。火を起こす細枝。火を育てる中くらいの枝。長く燃やす太い薪。全部必要です」


「火も、いきなり大きくできないんだね」


「そうですね」


「町を作るのと似てるのかな」


「町ですか?」


「最初から大きな家や城を作るんじゃなくて、小さなことから始める」


 エリックは枝を抱えたまま、アルフレッドを見た。


「まだ灰境をご覧にもなっていませんよ」


「うん。でも、何から始めるのか考えておきたくて」


「まずは現地を確認することでしょうね」


「ガルドさんにも言われた」


「隊長の言葉は乱暴ですが、間違ってはいません」


「エリックさんは、ガルドさんが好きなの?」


「す、好きという表現は少し……」


 エリックは困った顔になる。


「尊敬しております」


「同じじゃないの?」


「違います」


「どう違うの?」


「……戻りましょう。昼食の時間です」


 明らかに話をそらされた。


 アルフレッドは首を傾げながらも、集めた枝を抱えて荷馬車へ戻った。



「少ない」


 ガルドが、地面へ置かれた薪を見て言った。


「二人でこれだけか」


「見える範囲だけって言ったでしょう?」


「言った」


「乾いた枝だけって」


「言ったな」


「そのとおりに集めたよ」


「それでも少ない」


「難しいね」


 アルフレッドが素直に答える。


 ガルドは一瞬黙り、それから薪の山へ手を伸ばした。


「これは使える。これは湿ってる。こっちは虫に食われすぎだ」


 一つずつ選別していく。


「虫がいると駄目なの?」


「焚き火へ入れるだけなら、少しくらい構わねえ。だが中が空洞なら、見た目ほど長く燃えない」


「触ったら分かる?」


「慣れりゃな」


「何でも慣れなんだね」


「最初から全部できる奴なんていねえ」


 ガルドは使える薪だけをまとめた。


「今日の分には足りる。次はもっと集めろ」


「はい」


「それから、指示を守ったのはいい」


 アルフレッドが顔を上げる。


「少ないからって、勝手に奥へ行かなかった」


「駄目って言われたから」


「その当たり前ができねえ奴は多い」


「褒められた?」


「調子に乗るな」


「褒められたんだ」


 アルフレッドが少し嬉しそうに笑う。


 ガルドは鼻を鳴らし、昼食の場所へ向かった。



 黒パンは硬かった。


 想像していた以上に硬い。


 アルフレッドは両手で持ち、何度か噛みついた。


 表面へ歯形はつくが、なかなか千切れない。


「これ、食べ物だよね?」


「非常食にもなる立派なパンだ」


 向かいに座るベンが答えた。


「石じゃなくて?」


「石なら、もっと歯が欠ける」


「歯が欠ける可能性はあるんだ」


「スープへ浸せば柔らかくなる」


「スープがないよ」


「だから今日は、水で我慢しろ」


 アルフレッドは水筒の水を少しだけパンへ垂らした。


「全部かけるなよ」


「どうして?」


「飲む分がなくなる」


「あ」


 慌てて水筒を止める。


 ガルドが近くから声を飛ばした。


「水を粗末にするな!」


「少しだけだよ!」


「少しの積み重ねで、最後に足りなくなる!」


「はい!」


 アルフレッドは水筒へ栓を戻した。


 その隣で、ノエルが黒パンを小さく切り分け、チーズと一緒に食べている。


「ノエルさんは上手だね」


「旅には慣れていますから」


「最初から?」


「いいえ。初めての旅では、黒パンを一つ丸ごと川へ落としました」


「風で?」


「手が滑りました」


「そこは風じゃないんだ」


「私は事実を認められる人間です」


「昨日、書類は風のせいにしてたよ」


 ノエルは黙って眼鏡を直した。


 周囲から笑いが起きる。


 アルフレッドは、ようやく柔らかくなった部分を噛み切った。


「……味はおいしい」


「腹が減ってるからだ」


 ベンが言う。


「旅の飯は、調味料より空腹が大事だ」


「今日の夜は、ベンさんが作るんでしょう?」


「豆と干し肉の煮込みだ」


「おいしい?」


「食える」


「それ、答えになってないよ」


「食ってから決めろ」


 昼食後。


 アルフレッドは食器を片づけようと、ほかの隊員たちが使った木皿へ手を伸ばした。


「何してる」


 ガルドが尋ねる。


「洗おうと思って」


「誰の皿だ」


「みんなの」


「自分のだけでいい」


「でも、まとめて洗ったほうが早いよ」


「水は?」


「近くに川が――」


「川まで距離がある。昼休憩で使う水は決められてる」


「あ……」


 アルフレッドは、積み上げられた皿を見る。


 屋敷では、食事の後に使用人たちが洗っていた。


 水の量など考えたこともない。


「汚れを布で拭き取って、今夜まとめて洗う」


 ベンが説明した。


「汚れが乾いたら落ちにくくならない?」


「だから先に拭く」


「なるほど」


 アルフレッドは自分の荷物から雑巾を取り出そうとした。


 ガルドが止める。


「待て。それは何用だ」


「掃除用」


「傷へ使う布と分けたか?」


「分けたよ」


「なら使え」


 アルフレッドは木皿の汚れを丁寧に拭き始めた。


「僕のだけでいいんだよね?」


「そう言った」


「でも、ベンさんの皿が隣にある」


「放っとけ」


「汚れが乾くよ」


「本人にやらせろ」


「ベンさん」


「何だ?」


「皿を拭いて」


「今、横になったばかりなんだ」


「乾くよ」


「あとでやる」


「ガルドさんが、自分のことは自分でって」


「告げ口を覚えやがったな」


 ベンは渋々起き上がり、自分の皿を拭いた。


 それを見たほかの隊員たちも、それぞれ食器を片づけ始める。


「坊主」


 ガルドが、少し離れた場所から呼んだ。


「はい?」


「お前が全部やる必要はねえ」


「分かってるよ」


「本当に分かってるか?」


「みんな、自分でやってくれたから」


「そうさせるのも仕事だ」


 アルフレッドは雑巾を洗わず、汚れた面を内側へ折り畳んだ。


「領主の仕事?」


「それだけじゃねえ」


 ガルドは答え、出発準備を始めるよう隊員たちへ声を掛けた。



 最初の野営地へ到着したのは、空が赤く染まり始めた頃だった。


 街道から少し離れた小高い草地。


 近くには細い川が流れ、背後には風を遮る木立がある。


 以前から旅人たちが利用している場所らしく、地面には古い焚き火跡が幾つも残っていた。


「ここで夜を越す!」


 ガルドの指示で、全員が動き始める。


 荷馬車を半円状に並べる。


 馬を内側へつなぐ。


 周囲へ簡単な警戒線を張る。


 天幕を立てる。


 薪を分ける。


 水を汲む。


 昼間よりもさらに慌ただしい。


「僕は何をすればいい?」


 アルフレッドが尋ねる。


「まず自分の寝床を作れ」


 ガルドは小さな天幕を指差した。


「一人で?」


「エリックにやり方を聞け」


「ガルドさんが教えてくれるんじゃないの?」


「俺は全体を見る」


「分かりました」


 何でもガルドへ聞けばいいわけではない。


 アルフレッドはエリックを探した。


 若い護衛士は、ちょうど天幕用の杭を地面へ打ち込んでいる。


「エリックさん」


「どうされました?」


「天幕の立て方を教えてください」


「もちろんです」


 エリックは自分の作業を一度止め、アルフレッドの天幕へ向かった。


「最初に風向きを確認します」


「風向き?」


「入口を強い風の正面へ向けると、夜中に風が入り込みます。雨が降った場合、水の流れる方向も考えなくてはなりません」


「平らな場所なら、どこでもいいと思ってた」


「見た目が平らでも、地面が柔らかすぎると杭が抜けます」


 エリックは土へ短い棒を差し込み、硬さを確認した。


「ここにしましょう」


 二人で布を広げる。


 支柱を組み立てる。


 縄を張る。


 杭を打つ。


 アルフレッドが最初に打った杭は、斜めになった。


「これでいい?」


「引っ張れば抜けます」


 エリックが縄を引く。


 杭はあっさりと倒れた。


「本当だ」


「地面へ斜めに打ち込み、縄の力と反対方向へ踏ん張らせます」


「こう?」


「もう少し角度をつけて」


「こうかな」


「今度は倒しすぎです」


「難しいね」


「慣れればできます」


 何度か失敗しながら、ようやく小さな天幕が形になった。


 布は少したるみ、入口もわずかに傾いている。


 完璧とは言い難い。


 それでも、自分で立てた最初の寝床だった。


「できた……!」


 アルフレッドは嬉しそうに天幕を見る。


「少し修正しましょう」


「まだ駄目?」


「雨が降れば、中央へ水が溜まります」


「直せばいい?」


「今のうちに、壊れないように作るのです」


 その言葉に、アルフレッドは少しだけ考えた。


「壊れてから直すより、壊れないようにするほうがいいんだね」


「もちろんです」


 《修繕》があれば、壊れたものを直せる。


 けれど、何でも壊れてから直せばいいわけではない。


 エリックと共に縄を張り直しながら、アルフレッドはそのことを初めて意識した。



 日が沈む。


 焚き火が、野営地の中央で赤々と燃えていた。


 ベンが大鍋をかき回す。


 豆。


 干し肉。


 根菜。


 香草。


 昼食よりもずっと温かそうな匂いが周囲へ漂っている。


「いい匂い」


 アルフレッドが鍋を覗き込む。


「顔を近づけるな。湯気で火傷するぞ」


「おいしい?」


「まだ分からん」


「作ってる人も分からないの?」


「同じ材料でも、火加減で変わる」


「料理も難しいね」


「何でも簡単だと思うなよ、領主様」


 ベンは木杓子で少量すくい、味を見る。


 顔をしかめた。


「塩が足りねえ」


 塩樽へ手を伸ばしかけ、止まる。


 ほんの少量だけつまみ、鍋へ入れた。


「もっと入れないの?」


「旅の塩は貴重だ」


「灰境へ持っていく分もあるから?」


「そうだ。俺たちが道中で食いすぎりゃ、現地へ届く量が減る」


 アルフレッドは荷馬車の塩樽を見た。


 屋敷では、料理へ塩が入っていることなど意識したこともなかった。


 食料。


 水。


 薪。


 塩。


 毛布。


 どれも無限にあるわけではない。


 自分たちが使えば、その分だけ減る。


「ベンさん」


「何だ」


「灰境に塩がなかったら、どうするの?」


「買う。運ぶ。岩塩を探す。塩気のある泉がありゃ煮詰める」


「海からは?」


「灰境から海がどれだけ遠いと思ってる」


「分からない」


「俺も正確には知らんが、簡単に取りに行ける距離じゃねえ」


 アルフレッドは頷いた。


 また一つ、灰境で必要になるものが増えた。


「全部覚えられるかな」


「覚えなくていい」


 後ろからガルドの声がした。


「必要になったとき、誰に聞けばいいか覚えろ」


「塩のことはベンさん?」


「飯のことはベン。怪我はマルク。馬車や建物の構造はヘルマン。地図と記録はノエル。護衛や野営は俺とエリック」


「みんな違うことができるんだね」


「一人で全部やろうとするな」


 ガルドはアルフレッドの頭を軽く小突いた。


「昨日も言った。全部背負えば潰れる」


「でも、領主は最後に民を守るんでしょう?」


 父の言葉を思い出し、アルフレッドは尋ねた。


「最後に守ることと、全部一人でやることは違う」


「どう違うの?」


「決めるのを逃げねえことだ」


 ガルドは焚き火の向こうへ視線を向けた。


「誰へ何を任せるか。足りない物を誰へ渡すか。危険なとき、逃げるか残るか。正しい答えがねえことでも、最後には誰かが決めなくちゃならねえ」


「それが領主?」


「領主だけじゃねえ。隊長も同じだ」


「ガルドさんも怖い?」


「当たり前だ」


 アルフレッドは驚いた。


「怖くなさそうなのに」


「怖くねえ奴へ人の命は預けるな」


「どうして?」


「怖さが分からねえ奴は、平気で他人を危険へ放り込む」


 焚き火の薪が、ぱちりと弾けた。


 アルフレッドは炎を見つめながら、その言葉を胸の中で何度か繰り返した。



 夕食の後。


 隊員たちは川辺で食器や鍋を洗い始めた。


 アルフレッドも自分の木皿を持ち、水際へ向かう。


 川は浅く、流れも穏やかだった。


 月明かりが水面へ揺れている。


「川へ直接、食べ残しを流すなよ」


 ベンが言った。


「少しならいいんじゃないの?」


「野営地の近くへ獣を呼ぶ。川も汚す」


「じゃあ、どうするの?」


「先に布で拭き取る。残りは穴を掘って埋めるか、燃やせる物なら燃やす」


「昼と同じだね」


「旅じゃ、水を汚せば次に使う奴が困る」


 アルフレッドは木皿の汚れを雑巾で拭き取った。


 それから少量の川水ですすぐ。


 自分の皿を洗い終えた後。


 少し下流に、何かが引っかかっているのを見つけた。


「何だろう」


 草の根に絡まった、細い布切れ。


 アルフレッドは水際へしゃがみ込み、それを拾い上げた。


 黒い布。


 泥と水を吸い、端が裂けている。


 何の変哲もない布に見える。


 けれどアルフレッドは、動きを止めた。


「これ……」


 見覚えがあった。


 セルマが身につけていた、黒い使用人服。


 同じ布かもしれない。


 奴隷たちへ支給される服は、どれも似ている。


 確かな証拠ではない。


 だが布の端には、細い銀色の糸が縫い込まれていた。


 セルマは片手でも服を扱いやすいよう、右袖の内側へ銀糸で目印をつけていた。


 アルフレッドが以前、縫い目を見たことがある。


「セルマ……?」


 立ち上がろうとした拍子に、川石で足を滑らせた。


「危ない!」


 近くにいたベンが腕をつかむ。


「何やってる!」


「この布!」


「布?」


「セルマのかもしれない!」


 アルフレッドは、濡れた布切れを握りしめた。


「川の上に、いるかもしれない」


「待て」


「探しに行かないと!」


「暗い川沿いを、今からか?」


「近くにいるかもしれない!」


 アルフレッドはベンの手を振りほどこうとした。


 だが大人の力には敵わない。


「離して!」


「落ち着け!」


「セルマが怪我してるかもしれない!」


 声が大きくなる。


 野営地にいた者たちも、何事かと振り向いた。


「どうした」


 ガルドが近づいてくる。


「隊長。この布を」


 ベンが事情を説明しようとした。


 アルフレッドは先に口を開く。


「大切な人が、この道を灰境へ向かってるんです」


 ガルドの目が細くなる。


「誰だ」


「セルマ。僕の使用人です」


「男爵家は、同行する使用人はいねえと言ってたな」


「一緒に来ることを、許してもらえなかったから」


 どこまで話すべきか。


 ユリウスの忠告が頭をよぎる。


 すべてを話せば、アーデルハイトと争うことになるかもしれない。


 けれど今、黙っていれば、セルマを見つけられない。


「セルマは、後から灰境へ来るって約束しました」


「家の許可は?」


「……ありません」


「つまり、逃亡したのか」


 ガルドの言葉に、アルフレッドの肩が揺れた。


「逃げたんじゃない」


「許可なく屋敷を出たなら、王国法じゃ逃亡奴隷だ」


「でも!」


「最後まで聞け」


 ガルドの低い声が、アルフレッドを止めた。


「お前がどう思うかと、法律がどう扱うかは別だ」


「じゃあ、見つけたら捕まえるの?」


 アルフレッドは布切れを胸へ抱える。


「男爵家へ戻すの?」


 ガルドはすぐには答えなかった。


 周囲の隊員たちも、黙って見守っている。


「そのセルマって奴は、片腕と片目を失ったダークエルフか」


「知ってるの?」


「支給書類に、男爵家から逃亡した奴隷の注意書きがあった」


「そんな……」


「見つけた場合、本家へ知らせろとな」


 アーデルハイトは、すでに開拓局にも手を回していた。


 アルフレッドの顔から血の気が引く。


「知らせないで」


「坊主」


「お願いします!」


 アルフレッドは、初めてガルドへ深く頭を下げた。


「セルマは悪いことをしてません。僕と一緒に来ようとしただけです」


「それを決めるのは、お前じゃねえ」


「じゃあ、誰が決めるの?」


「法と、その奴隷の所有者だ」


「そんなのおかしいよ!」


 アルフレッドの声が、夜の川辺へ響く。


 これまで、家族に笑われても大声を出さなかった。


 灰境へ送られると聞いても、父へ反抗しなかった。


 けれど今は、残された青い目に、はっきりとした怒りが浮かんでいた。


「セルマは物じゃない!」


 ガルドは少年を見下ろした。


「法律では、奴隷は所有物として扱われる」


「法律が間違ってる!」


「そうかもしれねえ」


 意外な返答だった。


 アルフレッドが息を止める。


「だが、間違ってると思ったからって、今すぐ消える法律じゃねえ」


「……」


「お前がここで怒鳴っても、セルマって奴が安全になるわけじゃない」


「じゃあ、どうすればいいの」


「まず、布を見せろ」


 アルフレッドは躊躇いながらも、黒い布切れを差し出した。


 ガルドは焚き火の近くへ持っていき、縫い目や裂け方を確認する。


 ノエルも横から覗き込んだ。


「水に長く浸かっていたものではありませんね」


「分かるの?」


「色の抜け方が浅い。流れも弱いので、上流から来たとしても、それほど遠くないでしょう」


 ノエルが答える。


 ガルドは布の裂け目を指でなぞった。


「刃物で切れた跡じゃねえ。枝か、爪だ」


「魔物?」


「決めつけるな」


 ガルドは周囲へ目を向けた。


「エリック。マルク。川の上流を半里だけ確認してこい。痕跡があっても、追いすぎるな。夜の森へは入るな」


「了解!」


 二人が装備を整え始める。


 アルフレッドも立ち上がった。


「僕も行く」


「駄目だ」


「セルマのことなら、僕のほうが分かる」


「暗闇で足跡を読めるか?」


「分からない」


「魔物が出たら戦えるか?」


「できない」


「なら残れ」


「でも――」


「お前がついていけば、捜索じゃなく護衛が必要になる」


 ガルドはアルフレッドの肩をつかんだ。


「助けたいなら、邪魔をするな」


 厳しい言葉だった。


 アルフレッドは唇を噛む。


 何もできない。


 また同じだ。


 セルマが屋敷を出たときも。


 追っ手が放たれたと知ったときも。


 今も。


 自分は待つことしかできない。


「待つの、嫌いだ」


 アルフレッドが小さく呟く。


「誰だってそうだ」


 ガルドは答えた。


「だが待つしかねえときに動く奴は、自分が安心するために他人を危険へ巻き込む」


「僕が安心するため?」


「助けたい気持ちは本物だろう。だが、今ついていきたいのは、お前が何もしてねえと思いたくないからでもある」


 言い返せなかった。


 セルマのため。


 そう思っている。


 けれど、ここで待つ自分が怖くて、動きたい気持ちも確かにあった。


「何をすればいい?」


 アルフレッドは尋ねた。


「今、僕にできることは?」


 ガルドは少しだけ表情を緩めた。


「セルマの特徴を全部話せ。服装。怪我。持ち物。歩き方。森で何ができるか」


「うん」


「ノエルが記録する。捜索へ行く二人にも伝える」


 アルフレッドは大きく頷いた。


「それならできる」


「できることを探すんだろ」


 応接室で自分が言った言葉だった。


 アルフレッドは胸元の布切れを握り直し、セルマについて話し始めた。


 淡い銀髪。


 左目の眼帯。


 失われた右腕。


 足首の傷。


 黒い外套。


 短剣。


 ダークエルフで、暗闇でも人間より遠くを見られること。


 森の歩き方を知っていること。


 でも今の身体では、以前のように戦えないかもしれないこと。


 首には奴隷の首輪があること。


 ノエルが一つ残らず書き留める。


 ガルドは最後まで黙って聞いていた。


「約束してくれたんです」


 アルフレッドは、最後に言った。


「必ず灰境へ来るって」


「そうか」


「だから、死んでません」


 願いに近い言葉だった。


「絶対に」


 ガルドは否定しなかった。


「なら、信じて待て」


 それだけ言った。



 エリックとマルクが戻ってきたのは、一刻ほど後だった。


「人の足跡がありました」


 エリックの報告に、アルフレッドが立ち上がる。


「セルマ?」


「断定はできません。ただ、川の上流に一人分。街道から森へ入り、再び川へ近づいた跡です」


「片足を引きずってる?」


「……はい」


 アルフレッドの胸が締めつけられる。


 地下倉庫で傷ついた足首。


 森狼に襲われ、さらに怪我をしたのかもしれない。


「血も少しあった」


 マルクが続ける。


「量は多くない。立ち止まった跡もない。歩けてはいる」


「どっちへ?」


「北東だ」


 灰境と同じ方向。


「追いかけられないの?」


 アルフレッドが尋ねる。


 エリックは悔しそうに首を横へ振った。


「森の中へ続いています。夜間に入れば、こちらも危険です」


「明日の朝なら?」


「一行は街道を進む」


 ガルドが答えた。


「川沿いなら、痕跡を確認しながら進める。だが、森へ入って追うことはしねえ」


「どうして?」


「俺たちの任務は、お前と物資を灰境へ届けることだ」


「セルマは?」


「その任務を捨てて全員で探すことはできねえ」


 冷たい答えに聞こえた。


 しかし、ガルドは続ける。


「だから明日から、川と街道の両方を確認しながら進む。水を汲む場所。渡河地点。休めそうな場所。見落とさねえようにする」


「探してくれるの?」


「ついでだ」


「でも――」


「任務のついでだ。勘違いするな」


 アルフレッドは、深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


「礼は見つけてからにしろ」


 どこかで聞いたような言い方だった。


 ユリウスも、似たことを言っていた。


 アルフレッドは顔を上げる。


「ガルドさん」


「何だ」


「セルマを見つけたら、本家に知らせるの?」


 避けては通れない問いだった。


 ガルドは焚き火へ薪を一本入れる。


「まず、本人の話を聞く」


「それから?」


「そのとき決める」


「法律では、戻さないといけないんでしょう?」


「俺は開拓局の隊長だ。奴隷を取り締まる役人じゃねえ」


「じゃあ――」


「先走るな」


 ガルドは、アルフレッドを真っ直ぐ見た。


「お前の話だけで、男爵家が悪いとも決めねえ。セルマ本人の話も聞く。状況も見る。その上で、俺が判断する」


「信じていい?」


「それも、お前が決めろ」


 昨日、ユリウスから言われたことと同じだった。


 誰を信じるのか。


 自分で考える。


 アルフレッドはしばらくガルドの顔を見つめた。


 右頬の傷。


 厳しい目。


 乱暴な口調。


 けれど、布切れを見た後、すぐに二人を捜索へ出してくれた。


 法律を理由に、何も聞かず自分を黙らせることもしなかった。


「信じます」


 アルフレッドは答えた。


「今は」


 ガルドの口元が、わずかに上がった。


「それでいい」



 夜。


 見張りの焚き火を除き、野営地の明かりが消えていった。


 アルフレッドは、自分で立てた小さな天幕の中へ横になっていた。


 地面は硬い。


 薄い毛布を敷いても、背中へ石の感触が伝わる。


 天幕の布が風に揺れ、外から虫の声が聞こえる。


 屋敷の寝台とは、まるで違う。


 それでも、不思議と眠れない理由は寝心地ではなかった。


 手元には、川で見つけた黒い布切れがある。


 ノエルが乾かし、返してくれたものだ。


 セルマの服だという確証はない。


 けれどアルフレッドは、そう信じていた。


「ちゃんと進んでるんだね」


 北東へ。


 灰境へ。


 セルマも向かっている。


 今夜は、どこで眠っているのだろう。


 雨に濡れていないだろうか。


 傷は痛まないだろうか。


 食べ物は残っているだろうか。


 アルフレッドは天幕の入口を少し開け、外を見た。


 焚き火のそばに、ガルドが座っている。


 今夜最初の見張りらしい。


 剣を膝へ置き、暗い街道と木立を交互に見ていた。


「眠れねえのか」


 こちらを見ずに、ガルドが尋ねた。


「分かるの?」


「天幕の布が動いた」


「少しだけ、話してもいい?」


「静かにな」


 アルフレッドは毛布を肩へ掛け、焚き火のそばまで歩いた。


 ガルドの向かいへ座る。


「セルマは強い人です」


「そうか」


「昔は、剣も使えたみたい」


「今は?」


「片腕と片目を失ってる」


「それでも一人で森を進んでる」


「うん」


「なら、お前が思ってるより強い」


 アルフレッドは布切れを握った。


「でも、強いからって大丈夫とは限らないでしょう?」


「そうだな」


「ガルドさんも強い?」


「お前よりはな」


「僕と比べたら、みんな強いよ」


「分かってるじゃねえか」


 ガルドが小さく笑う。


「怖い人がいても、見張りをするの?」


「怖いから見張る」


「眠くない?」


「眠い」


「疲れてる?」


「疲れてる」


「それでも?」


「俺が寝てる間は、次の奴が見張る。交代だ」


「一人で全部やらないんだね」


「何度言わせる」


「確認しただけ」


 少しの沈黙。


 薪の中で火が鳴る。


「ガルドさん」


「何だ」


「開拓領主を、何人も送ったことがあるんでしょう?」


「ああ」


「みんな、灰境みたいなところへ?」


「もっと楽な土地もあった。もっとひどい場所もあった」


「成功した人は?」


「いる」


「失敗した人も?」


「いる」


「何が違ったの?」


 ガルドは、しばらく答えなかった。


「失敗の理由は、一つじゃねえ」


「食料が足りなかった」


「魔物に襲われた」


「領民と争った」


「金を使い果たした」


「病気が出た」


「全部、自分で決めようとして潰れた奴もいた」


「人に任せすぎて、何も分からなくなった奴もいた」


「難しいね」


「だから簡単に成功する方法なんてねえ」


「ガルドさんでも分からない?」


「分からねえ」


「兄上と同じだ」


「何がだ」


「分からないって言える」


 ガルドは横目でアルフレッドを見る。


「当たり前だろ」


「家の人たちは、分からないってあまり言わないから」


「貴族は、分からねえ顔を見せたがらねえ」


「ガルドさんは?」


「分からねえことを分かったふりして、隊を殺したくねえ」


 その声には、冗談の気配がなかった。


 アルフレッドは、それ以上詳しく尋ねなかった。


「僕も、分からないって言っていい?」


「言え」


「領主なのに?」


「領主だからだ」


「でも、最後には決める」


「そうだ」


「難しい」


「今すぐ全部できる必要はねえ」


 ガルドは火へ細い枝を加えた。


「今日は、馬車から落ちねえ座り方を覚えた」


「一回落ちたよ」


「二回目は落ちなかった」


「天幕も立てた」


「エリックに半分以上直されてたがな」


「皿も洗った」


「川へ落ちかけた」


「薪も拾った」


「少なかった」


「少しくらい褒めてくれてもいいのに」


 ガルドは鼻を鳴らした。


「昨日のお前よりは、少しマシだ」


 アルフレッドは笑った。


「それ、褒めてる?」


「好きに受け取れ」


「褒められたことにする」


「寝ろ」


「はい」


 アルフレッドは立ち上がり、自分の天幕へ戻ろうとした。


 途中で振り返る。


「ガルドさん」


「今度は何だ」


「セルマのこと、探してくれてありがとう」


「礼はまだ早いと言っただろ」


「でも、今日の分」


 ガルドは答えなかった。


 アルフレッドが天幕へ入り、布が閉じられた後。


 老人は暗い川上へ視線を向けた。


「片腕、片目で森を抜けるダークエルフか」


 独り言のように呟く。


「本当に、面倒な旅になりやがった」


 口調とは裏腹に、その目は笑っていなかった。



 翌朝。


 川辺の薄い霧の中で、第七開拓隊は再び出発した。


 アルフレッドは昨日よりも慎重に御者台へ乗る。


 片足を踏み板へ置き。


 手すりを握り。


 身体を引き上げる。


「できた」


「当たり前のことで喜ぶな」


 ガルドが馬上から言う。


「昨日はできなかったよ」


「なら、今日は一つ進んだな」


 アルフレッドは少し嬉しそうに座った。


 一行は街道を北東へ進む。


 川が道と並び。


 やがて離れ。


 再び近づく。


 水を汲むたび。


 橋を渡るたび。


 エリックやマルクが周囲を確認した。


 足跡。


 折れた枝。


 布切れ。


 焚き火跡。


 セルマのものかもしれない痕跡を探す。


 確かな手掛かりは見つからなかった。


 それでも昼頃。


 川辺の泥へ、片足をかばうような足跡が一つ残されていた。


 その隣には、短剣を杖代わりに突いたような小さな穴。


 進む方向は北東。


「セルマだ」


 アルフレッドは確信した。


 ガルドは否定も肯定もしない。


「少なくとも、誰かが先へ進んでる」


「生きてる」


「ああ」


「僕たちより先に」


「森を抜けてるなら、道は短い」


「追いつけるかな」


「焦るな」


 ガルドは街道の先を見る。


 遠くに、低い丘が重なっている。


 その向こうから、道は徐々に細くなる。


「今日までは、人の多い街道だ」


「明日からは?」


「宿場を一つ越えたら、旧北東街道へ入る」


 風景が変わり始めていた。


 畑は少なくなり。


 家々の間隔は広がり。


 森が街道の近くまで迫っている。


 遠くの山並みは、昨日よりも大きく見えた。


「そこから先は、道が生きてる保証もねえ」


 ガルドが言った。


「灰境へ近づいてる?」


「ああ」


 アルフレッドは前方を見つめた。


 街道の向こう。


 まだ見えない場所。


 セルマ。


 灰境。


 二十二人まで減っていることを、彼はまだ知らない領民たち。


 すべてが、この道の先にある。


「行こう」


 誰かへ命じたのではない。


 自分自身へ言い聞かせるような声だった。


 荷馬車の車輪が回る。


 青い旗が風にはためく。


 第七開拓隊は、人の営みが残る街道を抜け、少しずつ大陸北東部の深い森へ近づいていった。


 その先で道が途切れていることを。


 そして、灰境が簡単には人を受け入れない土地であることを。


 アルフレッドは、まだ知らなかった。



第8話 街道の向こうへ 了

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