追放の日
第一章 灰境への道
第二編 旅立ち編
第7話 追放の日
前書き
同じ門をくぐっても、
見送る者と、
送り出される者では、
見えている景色が違います。
ある者にとっては栄誉ある任命。
ある者にとっては厄介払い。
そして少年にとっては――
約束の場所へ向かう、
最初の一歩でした。
⸻
まだ空が白み始める前。
ヨーレリヒト男爵邸の中庭には、すでに人の声と馬の鼻息が響いていた。
「一号車、水樽固定!」
「二号車、保存食の数を再確認しろ!」
「予備車輪の留め具が緩んでるぞ!」
「今締めます!」
王国開拓局第七開拓隊の者たちが、慣れた手つきで出発準備を進めている。
荷馬車は三台。
一台目には旅の途中で使う食料や水、天幕、薪、調理器具。
二台目には灰境へ届ける小麦、豆、塩、薬草、農具。
三台目には木材、縄、釘、補修用の鉄材、予備の車輪などが積まれていた。
これらは、王国開拓局が支給する最低限の開拓物資である。
決して多くはない。
けれど、今の灰境に何が残されているのかすら分からない以上、現地へ持ち込める物は一つでも多いほうがよかった。
「ヘルマン!」
ガルドの声が飛ぶ。
「三号車の左後輪、音が違うぞ!」
「今見とる!」
荷馬車の下へ潜り込んでいた年配の技師が、太い声で答える。
「軸受けに砂が噛んどるだけじゃ! 壊れちゃおらん!」
「出発前に掃除しろ!」
「分かっとるわい! 儂に車輪のことを教えるな!」
「なら、音を鳴らすな!」
「馬車に言え!」
朝から響く怒鳴り合い。
しかし本気で険悪なわけではない。
周囲の隊員たちは、いつものことだと気にも留めず、それぞれの仕事を続けていた。
その様子を、中庭へ面した廊下からアルフレッドが見つめていた。
背中には、自分で持てる大きさの旅鞄。
胸元には、母マリエルの銀飾り。
内側には、セルマが残した短い手紙がしまわれている。
右腰の小袋には、用途の分からない銀の鍵。
左手には、ユリウスから受け取った地図の入った革筒。
必要な物は、何度も確認した。
それでも何かを忘れているような気がして、アルフレッドは自分の身体を上から順に見下ろした。
「服……着てる」
当然だった。
「靴もある」
履いている。
「地図。鍵。銀飾り。セルマの裁縫道具……」
鞄へ手を当てる。
「昔話の本も入れた」
「それは忘れても困らないと思います」
「わっ」
すぐ背後から声を掛けられ、アルフレッドは肩を跳ねさせた。
立っていたのはリタだった。
両腕に、白い布で包んだ大きな籠を抱えている。
「おはようございます、アルフレッド様」
「おはよう。驚いたよ」
「申し訳ございません。何度かお声を掛けたのですが」
「全然聞こえなかった」
「そのようですね」
リタは困ったように笑う。
「これは?」
「厨房のみんなからです」
彼女が籠を少し持ち上げる。
布の隙間から、焼きたてのパンの香りが漂った。
「パン?」
「はい。丸パンと、固焼きパン。それから干した果物も少し」
「こんなに?」
「旅の途中で、開拓隊の皆様とお召し上がりください」
アルフレッドは籠を受け取ろうとした。
だが、想像以上に重い。
「うっ……」
「無理をなさらないでください!」
落としかけた籠を、リタが慌てて支える。
「持てると思ったんだけど」
「お一人で持つ量ではございません」
「でも、灰境の領主になるなら、これくらい――」
「領主だからといって、パン籠を一人で運ぶ必要はないと思います」
「そっか」
アルフレッドは素直に手を離した。
リタは、ほっと息をつく。
「荷馬車まで、私がお持ちします」
「ありがとう」
「それから……」
リタは周囲を確認し、少しだけ声を落とした。
「鉢植えのお水は、私が差し上げます」
アルフレッドの目が、わずかに見開かれる。
セルマの手紙に書かれていたことだ。
「セルマから聞いたの?」
「はい。昨日の夜、短い伝言を受けました」
「いつ会ったの?」
「部屋へ戻る途中です。急いでおられたようで、詳しいことは何も……」
リタの表情が曇る。
セルマが逃亡したという話は、すでに使用人たちの間にも広がっているのだろう。
「ご無事でしょうか」
「うん」
アルフレッドは、不安を隠すように頷いた。
「セルマは灰境へ来るって約束してくれたから」
「灰境へ?」
「僕が先に行って、待つ場所を作るんだ」
リタは何かを言いかけた。
だが、少年の表情を見て、その言葉を飲み込む。
「では、お花は私がお守りします」
「お願いしてもいい?」
「もちろんです」
「枯らさないでね」
「アルフレッド様より上手に育ててみせます」
「僕も毎日水をあげてたよ?」
「三日に一度、忘れておられました」
「セルマに聞いた?」
「皆、知っております」
「そんなに?」
リタが小さく笑う。
アルフレッドも笑った。
けれど、その笑みは長くは続かなかった。
「リタ」
「はい」
「セルマが戻ってきたら、伝えてくれる?」
「何と?」
「僕は、ちゃんと灰境へ行ったって」
アルフレッドは胸元へ手を当てる。
「約束を忘れてないって」
リタは静かに頭を下げた。
「必ず、お伝えいたします」
⸻
「おい、坊主!」
中庭からガルドの声が飛んできた。
「いつまでそこで別れを惜しんでる! 自分の荷物を持ってこい!」
「今行きます!」
アルフレッドは慌てて廊下を走り出した。
「廊下を走らないでください!」
反射的にリタが叫ぶ。
アルフレッドは急停止し、振り返った。
「ごめん!」
「謝りながら、また走らないでください!」
「はい!」
今度は早足で中庭へ向かう。
その背中を見送りながら、リタは籠を抱え直した。
「行ってらっしゃいませ」
小さな声だった。
けれど今度は、きちんとアルフレッドの耳へ届いた。
少年は足を止め、振り返って大きく手を振った。
「行ってきます!」
⸻
「遅い」
ガルドは、アルフレッドが運んできた旅鞄を受け取らず、その場で腕を組んだ。
「すみません」
「謝る前に時間を覚えろ。日の出と同時に出ると言ったはずだ」
「まだ日の出前だよ?」
「だから、遅いんだ」
「どういうこと?」
「出発の時刻に準備を始める奴は、もう遅れてる。日の出に動くなら、その前に荷を積み終えておく」
「なるほど」
アルフレッドは真剣な顔で頷く。
「次から気をつけます」
「次があると思うな。旅じゃ、一度の遅れで宿場へ着けなくなることもある」
「はい」
返事だけは素直だった。
ガルドはアルフレッドの鞄へ目を向ける。
「持てるか?」
「うん」
「本当に?」
「少し重いけど」
「少し重い荷物は、半日歩けば死ぬほど重くなる」
ガルドは鞄の紐をつまみ、片手で持ち上げた。
「何を増やした」
「増やしてないよ」
「昨日より重い」
「昔話の本を一冊」
「それは知ってる」
「パンを少し……」
「少し?」
アルフレッドが、目を逸らす。
「リタたちがくれた籠から、自分の鞄にも入れた」
「何個だ」
「五個」
「多い」
「途中でお腹が空くかもしれないでしょう?」
「食料は馬車に積む。自分の鞄へ詰め込むな」
「でも、誰かが欲しがるかもしれない」
「馬車から出せ」
「すぐ渡せないかもしれないよ」
「旅の途中で、知らねえ奴に次々パンを配るつもりか?」
「困ってたら」
アルフレッドは当たり前のように答えた。
ガルドはしばらく少年を見つめる。
「二個にしろ」
「五個じゃ駄目?」
「二個だ」
「三個」
「交渉するな」
「二個半」
「パンを半分にする意味がねえ」
ノエルが近くで書類を確認しながら、肩を震わせた。
「笑ってる?」
「いえ」
「眼鏡が揺れてるよ」
「風です」
「昨日も同じことを言ってたね」
「アルフレッド様まで隊長のようなことを言わないでください」
結局、アルフレッドの鞄に残されたパンは二個になった。
残りはリタが持ってきた籠ごと、食料用の荷馬車へ積み込まれる。
「これでいい」
ガルドが鞄を返す。
「自分の荷物は自分で持て。ただし、無理だと思ったら早く言え」
「無理でも頑張るのは駄目?」
「駄目だ」
「どうして?」
「倒れるまで黙ってた奴は、自分だけじゃなく助ける奴の足も止める」
ガルドは、アルフレッドの肩へ鞄の紐を掛けた。
「無理をしないってのは、楽をすることじゃねえ。自分の限界を知ることだ」
「限界……」
「分からなきゃ、これから覚えろ」
「はい」
「それから、歩き始めて身体が痛くなったらすぐ言え。靴擦れもだ」
「靴擦れくらいなら大丈夫だよ」
「小さな傷を甘く見るな」
その言葉を聞き、アルフレッドはリタの指の傷を思い出した。
「ばい菌が入るかもしれないから?」
ガルドの眉が上がる。
「ばいきん?」
「あ……傷が悪くなるかもしれないから」
「そうだ」
ガルドは少し不思議そうにアルフレッドを見たが、それ以上は尋ねなかった。
「マルク!」
「何だ!」
衛生兵の男が、薬箱を持ったまま顔を上げる。
「坊主の靴を見ろ!」
「子どもの靴くらい自分で見ろ!」
「俺は医者じゃねえ!」
「俺も靴屋じゃない!」
「足を見るのはお前の仕事だ!」
「面倒な理屈をつけるな!」
言い争いながらも、マルクはアルフレッドのところへやって来た。
三十代半ばほどの、日に焼けた男性である。
短い赤茶色の髪。
腰には剣ではなく、幾つもの薬瓶と包帯が入った革袋を下げていた。
「足を出せ」
「ここで?」
「靴を脱げと言ってる」
「まだ出発してないのに?」
「出発してから合わねえと分かったら遅い」
アルフレッドは近くの木箱へ座り、靴を脱いだ。
マルクは靴の内側を指でなぞり、革の硬さや大きさを確認する。
「少し新しいな」
「昨日もらったから」
「誰に」
「兄上のお下がり」
「お下がりで新しいとはどういう意味だ」
「兄上は、ほとんど履かなかったみたい」
「なるほどな」
マルクは薄い布を一枚取り出し、アルフレッドの踵へ当てた。
「最初の数日は、ここへ巻け。擦れたらすぐ言え」
「分かりました」
「我慢するなよ」
「ガルドさんにも言われた」
「なら二回聞いた。忘れねえな」
「たぶん」
「そこは絶対と言え」
「絶対忘れないようにします」
「変な答えだな」
マルクは笑い、靴を返した。
「俺はマルクだ。身体の具合が悪けりゃ、まず俺に言え」
「治癒魔法が使えるんですか?」
「少しだけな。だが治癒魔法を当てにするな。傷を作らねえのが一番だ」
「はい。よろしくお願いします」
アルフレッドが頭を下げる。
マルクは少し驚いたように瞬きをしたが、すぐに笑った。
「こちらこそ、領主様」
「アルでいいです」
「そりゃ駄目だ。仕事中は立場ってもんがある」
「ガルドさんは坊主って呼ぶよ?」
「あの爺さんに礼儀を求めるな」
「聞こえてるぞ!」
ガルドの怒鳴り声が飛ぶ。
「聞こえるように言った!」
開拓隊の者たちが笑った。
アルフレッドも、つられて笑う。
昨夜まで胸の中にあった重苦しさが、少しだけ軽くなる。
セルマはいない。
家を追い出される。
向かう先は危険な灰境。
それでも、これから共に旅をする者たちが、冷たい人々ではなさそうだということが嬉しかった。
⸻
東の空から、朝日が昇り始めた。
中庭の石畳を、橙色の光がゆっくりと照らしていく。
「出発準備、完了しました!」
若い護衛士エリックが、ガルドの前へ進み出る。
「人員、十二名。馬七頭。荷馬車三台。異常ありません!」
「支給品は?」
ガルドがノエルを見る。
ノエルは一覧表へ目を落とした。
「小麦十五袋。乾燥豆八袋。塩二樽。保存肉四箱。薬草二箱。農具十三点。大工道具一式。補修用鉄材。釘。縄。冬用毛布二十五枚」
「最低限だな」
「灰境の現況が不明なため、これ以上は支給できないとの判断です」
「二十五枚?」
アルフレッドが反応した。
「領民は六十八人かもしれないのに?」
ノエルが答える。
「正確な人口は不明です。現地確認後、必要であれば追加支援を申請します」
「でも、今寒かったら?」
「残念ですが、運べる量にも、王国の予算にも限りがあります」
「荷馬車を増やすのは?」
「馬も御者も必要になります。道が狭ければ、荷馬車が増えるほど移動も困難になります」
アルフレッドは、毛布が積まれた荷車を見た。
二十五枚。
もし六十八人全員が残っていれば、とても足りない。
「どうした」
ガルドが尋ねる。
「足りなかったら、どうしようと思って」
「現地で考える」
「今は考えなくていいの?」
「考えるのはいい。だが、答えの出ねえことで足を止めるな」
ガルドは毛布の荷へ手を置いた。
「まず何人いるのか確かめる。今ある物をどう分けるか考える。足りなけりゃ、ほかに使える物を探す。王国へ追加を頼む」
「届くまで時間がかかるよね」
「そうだ」
「じゃあ、その間は?」
「それを考えるのが、領主の仕事だ」
厳しい答えだった。
けれど、できないと突き放したわけではない。
今は答えがなくても、現地で知り、考え、選ぶ。
アルフレッドは、真剣な顔で頷いた。
「覚えておきます」
「全部一度で覚えるな。頭が破裂するぞ」
「少しずつ?」
「そうだ」
ガルドは中庭の中央へ進んだ。
「第七開拓隊、整列!」
隊員たちの空気が変わる。
先ほどまで笑っていた者たちが、一斉に持ち場へついた。
先頭には騎馬の護衛二名。
続いて一号車。
二号車。
三号車。
最後尾に護衛二名。
ガルドは先頭付近に立ち、全体を見渡した。
アルフレッドは、一号車の御者台の隣へ乗るよう指示されている。
だが馬車へ向かう前に、屋敷の玄関が開いた。
⸻
最初に現れたのは、ヨーレリヒト男爵ヴォルフラムだった。
礼装ではなく、濃い灰色の上着を身につけている。
その隣にはアーデルハイト。
少し後ろには、レオンハルト、セシリア、ヴィオラ、ディートリヒ、ユリウスが並んでいた。
使用人たちも、玄関の左右へ静かに列を作っている。
見送り。
そう呼ぶには、どこか重苦しい光景だった。
誰も笑っていない。
泣いている者もいない。
本家の者にとって、アルフレッドの灰境行きは、祝うべき栄転という建前になっている。
だから露骨に憐れむわけにはいかない。
かといって、本心から祝う者もほとんどいなかった。
アルフレッドは玄関の前まで歩き、家族へ頭を下げた。
「行ってまいります」
「アルフレッド」
ヴォルフラムが呼ぶ。
「はい」
父は、すぐには続けなかった。
灰境へ送り出すことを決めたのは、自分だ。
昨日までの彼なら、必要な命令だけを伝えて会話を終えただろう。
しかし今は、王国開拓局の者たちや使用人たちが見守っている。
当主として、息子を送り出す言葉が必要だった。
「開拓領主の任は、軽いものではない」
「はい」
「ヨーレリヒト家の名を汚すな」
「はい」
「王国への報告を怠るな」
「分かりました」
それだけ。
ヴォルフラムは、わずかに顔を背けた。
アルフレッドは頭を下げたまま待った。
ほかに何か言葉があるのかと思ったのだ。
だが父は黙っている。
「父上」
「何だ」
「一つ聞いてもいいですか?」
ヴォルフラムの眉が動く。
「灰境の人たちを守るには、どうしたらいいですか?」
あまりにも大きな問いだった。
領民が何人いるのかすら分からない。
土地の状態も、魔物の種類も、食料事情も不明だ。
簡単に答えられるはずがない。
周囲の者たちも、ヴォルフラムへ視線を向けた。
「それは、お前が現地で判断することだ」
父は、最初にそう答えた。
「はい」
アルフレッドは少しだけ残念そうに頷く。
その表情を見たヴォルフラムの口元が、ごくわずかに動いた。
「だが」
アルフレッドが顔を上げる。
父は視線を合わせないまま、低い声で続けた。
「領主とは、領民の上に立つだけの者ではない」
「……」
「最後に民を守る者だ」
短い言葉。
立派な訓示ではなかった。
それでもアルフレッドは、真剣な表情で受け止めた。
「はい」
「覚えておきます」
ヴォルフラムは返事をしなかった。
ただ一度だけ、小さく頷く。
アーデルハイトが一歩前へ出た。
「どうか、お気をつけて」
「ありがとうございます」
「開拓局の皆様のお話をよく聞き、無理はなさらないように」
「はい」
「それから」
彼女はアルフレッドの胸元へ手を伸ばし、母マリエルの銀飾りを見た。
「その飾りを、なくさないように」
アルフレッドは少し驚いた。
「知っていたんですか?」
「マリエル様が身につけておられた物ですもの」
「はい。大切にします」
「そう」
アーデルハイトは優しく微笑む。
だが、その瞳の奥に何があるのか、アルフレッドには読み取れなかった。
「灰境で、よい領主になれるとよいですね」
「頑張ります」
「ええ」
どうか二度と戻ってこないで。
その本心を、完璧な微笑みの裏へ隠したまま。
⸻
「アルフレッド」
長男レオンハルトが声を掛けた。
「兄上」
「現地へ着いたら、最初に記録を取れ。人口、水源、食料、耕作地、戦える者の数」
「分かりました」
「分からなければ、開拓局の書記へ聞け」
「領民に聞くのは?」
レオンハルトが眉を寄せる。
だが以前のように、領主が民へ教えを乞うなとは言わなかった。
「必要なら聞け。ただし、すべての話をそのまま信じるな」
「どうして?」
「人は、自分に都合のよいことを話す」
「兄上も?」
「……僕もだ」
意外な答えだった。
アルフレッドは少し考え、頷いた。
「気をつけます」
次男ディートリヒは、アルフレッドの肩を軽く叩いた。
「魔物を見たら、剣を抜く前に逃げろ」
「剣、持ってないよ」
「……何?」
ディートリヒは目を丸くした。
「護身用の短剣くらい持たせていないのか?」
ヴォルフラムを見る。
父も初めて気づいたように顔をしかめた。
アルフレッドは小さな食事用ナイフを思い出したが、おそらく剣には含まれない。
「開拓局の護衛がいるから、大丈夫です」
「灰境に着けば帰るだろう!」
「現地で借ります」
「誰に!」
「領民の人に」
「あるかどうかも分からん!」
ディートリヒは頭を抱えた。
「お前、本当に何も分かってないな!」
「うん。だから、これから覚える」
「胸を張って言うな!」
周囲から、ごく小さな笑いが漏れた。
ディートリヒは腰へ差していた短剣を抜き、鞘ごとアルフレッドへ押しつける。
「持っていけ」
「兄上の?」
「予備だ。魔物と戦おうとするな。縄を切るか、枝を払うか、本当に最後のときだけ使え」
「ありがとう」
「扱い方はガルド殿に教われ」
ガルドが離れたところから答える。
「旅の途中で教える。ただし、自分で勝手に抜くなよ、坊主!」
「はい!」
セシリアは扇子を畳み、アルフレッドを一度だけ見た。
「灰境へ行けば、ヨーレリヒト家の名を利用しようとする者もいるでしょう」
「どういうこと?」
「貴族の子どもだからと近づき、甘い言葉をささやく者です」
「僕、あまりお金を持ってないよ」
「金だけではありません。権利、土地、許可、身分。領主が持つものは多いのです」
「難しいね」
「だから、すぐに署名をしないこと」
「分かりました」
「文字を読まずに印を押すなど、絶対になさらないように」
「ちゃんと読みます」
「読んでも分からなければ?」
「ノエルさんに聞く」
少し離れたところで聞いていたノエルが、慌てて顔を上げた。
「灰境到着までは、お手伝いします!」
「到着した後は?」
「現地の書記を探してください!」
ヴィオラは、最後までどこか面白がっているようだった。
「灰境に着いたら、魔物をきれいにして見せてね」
「捕まえられたら」
「本気でやろうとしないでよ?」
「でも、汚れてたら気になるでしょう?」
「知らないわよ!」
ユリウスが咳き込む。
今回も笑いを隠したらしい。
「兄上」
アルフレッドが近づく。
「地図、持ったよ」
「落とすな」
「使うための物だから、汚れてもいいんでしょう?」
「なくすなと言っている」
「分かってる」
「それと」
ユリウスは周囲へ聞こえないよう、声を落とした。
「川沿いを見ろ」
セルマのことだ。
アルフレッドも小さく頷く。
「ガルドさんに相談してみる」
「焦るな。信頼できると思ってから話せ」
「うん」
「銀の鍵も見せるな」
「どうして?」
「母上の遺品だと知られれば、誰かが欲しがるかもしれない」
「普通の鍵じゃないから?」
「それもある」
ユリウスは、ほんのわずかに言い淀んだ。
「母上――マリエル様が隠していた物なら、理由があるはずだ」
「兄上も、母さんのことを調べてくれる?」
「気が向けばな」
「ありがとう」
「まだ何もすると言っていない」
「でも、してくれそうだから」
「勝手に決めるな」
ユリウスは視線を逸らした。
「帰ってきたときに、聞く」
「……ああ」
今度の返事は、昨日より少しだけ早かった。
⸻
「出発するぞ!」
ガルドの声が中庭へ響いた。
これ以上、別れを引き延ばすつもりはないらしい。
「アルフレッド!」
「はい!」
「一号車へ乗れ!」
アルフレッドは家族へ、もう一度深く頭を下げた。
「行ってまいります」
そして背を向ける。
そのとき。
使用人たちの列の中から、リタが大きな声を上げた。
「アルフレッド様!」
アルフレッドが振り返る。
「どうか、お元気で!」
侍女長オルガが、たしなめるような目を向ける。
けれどリタは黙らなかった。
「お帰りを、お待ちしております!」
帰ってくるなと望む者がいる。
帰ってくることを待つ者もいる。
アルフレッドは驚いたように目を見開き、それから笑った。
「うん!」
「リタも元気で!」
厨房のマルグリットが、エプロンの端で目元を拭う。
庭師が帽子を取る。
馬丁が深く頭を下げる。
声にはしない。
それでも、使用人たちの中には、アルフレッドを本気で見送る者がいた。
アルフレッドは一号車の御者台へ乗り込んだ。
隣には荷車係のベンが座っている。
陽気そうな丸顔の男で、アルフレッドへ軽く手を上げた。
「落ちるなよ、領主様」
「気をつけます」
「俺の名前はベンだ。旅の飯も担当する」
「料理人なんですか?」
「荷車係だ」
「飯も作るの?」
「旅じゃ一人で一つの仕事だけやってられねえ」
昨日、ガルドが話していたことに似ている。
一つの道具が、幾つもの仕事をする。
人も同じなのかもしれない。
「料理、教えてください」
「食える保証はしねえぞ」
「食べられない料理を作るの?」
「食えるが、美味いとは言ってねえ」
「難しいんだね」
「お前さん、変なところで真面目だな」
ベンが笑う。
アルフレッドも笑った。
「第七開拓隊!」
ガルドが馬上で剣を掲げる。
「灰境へ向け、出発!」
「了解!」
先頭の馬が歩き出す。
続いて、一号車の車輪がゆっくりと回転した。
石畳の上を、重い音を立てながら進んでいく。
二号車。
三号車。
護衛たち。
大きな一団が、男爵邸の正門へ向かう。
アルフレッドは、御者台から屋敷を見上げた。
十二年間暮らした家。
母と過ごした部屋。
セルマと歩いた廊下。
リタを手伝った床。
兄姉たちと食事をした大広間。
よい思い出ばかりではない。
けれど、すべて嫌いだったわけでもなかった。
門をくぐる直前。
アルフレッドは胸元の銀飾りを握った。
「行ってきます」
誰へ向けた言葉なのか、自分でも分からない。
母へ。
家族へ。
使用人たちへ。
あるいは、もうここにいないセルマへ。
重い正門を越える。
男爵邸が、少しずつ遠ざかっていく。
振り返れば、まだ見える。
けれど、アルフレッドは前へ向き直った。
街道の先。
北東の空。
そのさらに遠くに、灰境がある。
そしてどこかの道を、セルマも同じ場所へ向かっている。
「待っててね」
アルフレッドは小さく呟いた。
「僕も、今から行くから」
⸻
その頃。
男爵領の北東に広がる森。
昨夜、森狼の群れと遭遇した場所には、折れた枝と血の跡が残されていた。
一頭の森狼が、地面へ倒れている。
死んではいない。
後ろ脚に浅い傷を負い、低い声で唸っていた。
ほかの狼たちは、すでに森の奥へ退いている。
大木の根元へ、セルマが座り込んでいた。
外套の左肩が裂けている。
頬には、新しい切り傷。
短剣の刃にも、黒い血が付着していた。
激しく息を切らしながら、それでも残された右目は鋭く周囲を見ている。
森狼を倒したわけではない。
一頭へ傷を負わせ、群れの警戒心を煽り、どうにか退かせただけだ。
まともに戦えば、勝てなかった。
片腕と片目を失った現在の身体では、以前のように剣を振るうことなどできない。
「……弱く、なりましたね」
自嘲するような呟き。
左手が、わずかに震えている。
それでも短剣を拭い、鞘へ戻す。
立ち上がろうとした瞬間、首輪が赤く光った。
「――っ!」
焼けるような痛みが首筋から全身へ走り、セルマは再び膝をついた。
所有者から離れすぎたことを罰する奴隷術式。
距離が広がるほど、痛みは強くなる。
このまま男爵領を離れれば、術式がさらに強く反応する可能性がある。
最悪の場合、命を奪うことも。
セルマは首輪へ左手を掛けた。
外そうとしても、魔術で固定されている。
物理的に切れば、術式が発動する。
自分だけでは、どうすることもできない。
だが。
地下倉庫で、アルフレッドの《清掃》が固定術式を消した。
あの力なら、この首輪も外せるかもしれない。
「アル様のもとへ……」
行かなければならない。
首輪を外してもらうためではない。
約束したからだ。
セルマは木の幹へ手をつき、ゆっくりと立ち上がった。
その耳が、遠くの音を捉える。
街道の方向。
幾つもの車輪。
馬の蹄。
開拓隊が、屋敷を出発したのだ。
アルフレッドが灰境へ向かい始めた。
「……行ってらっしゃいませ」
森の中からは、姿を見ることもできない。
それでもセルマは、音のする方向へ静かに頭を下げた。
「どうか、先へ」
追いつく。
必ず。
たとえ同じ道を歩けなくても。
同じ馬車へ乗れなくても。
目指す場所は同じなのだから。
セルマは傷ついた足を引きずりながら、再び北東へ歩き始めた。
⸻
開拓隊の荷馬車は、朝日に照らされた街道を進んでいた。
屋敷の塔が小さくなり、やがて木々の向こうへ消えていく。
アルフレッドは、それを見届けてから前を向いた。
「坊主!」
先頭からガルドの声が飛ぶ。
「景色ばかり見てるな! まずは馬車から落ちねえ座り方を覚えろ!」
「座り方?」
「足をぶらつかせるな! 揺れたら身体ごと持っていかれるぞ!」
「こう?」
「背筋を固めるな! 揺れに合わせろ!」
「難しい!」
「だから今、覚えるんだ!」
ベンが横で笑う。
「領主様、旅の最初の仕事だ」
「座ることが?」
「落ちねえことだ」
アルフレッドは真剣に御者台へ座り直した。
身体を固くしすぎず。
足を踏み板へ置き。
車輪の揺れに合わせる。
最初は何度も左右へ傾いた。
そのたびにベンが襟をつかみ、引き戻す。
「危ない!」
「だから教えてる!」
開拓隊の笑い声が、街道へ響いた。
こうして。
男爵家から捨てられた四男の旅は始まった。
剣も知らない。
統治も知らない。
馬車へ上手に座ることすらできない。
けれど少年には、二つのスキルと、一つの約束があった。
汚れたものを、きれいにする力。
壊れたものを、直す力。
そして――
誰かが帰ってこられる場所を作るという約束。
それだけを胸に。
アルフレッド・ロナ・ヨーレリヒトは、生まれて初めて、本家の領地を後にした。
⸻
第7話 追放の日 了




