↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
男爵家四男の辺境開拓記 ~不遇スキル《修繕》と《清掃》で、みんなの帰る場所を作ります~  作者: 和泉發仙
第一章 灰境への道

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/53

追放の日

第一章 灰境への道


第二編 旅立ち編


第7話 追放の日


前書き


同じ門をくぐっても、


見送る者と、


送り出される者では、


見えている景色が違います。


ある者にとっては栄誉ある任命。


ある者にとっては厄介払い。


そして少年にとっては――


約束の場所へ向かう、


最初の一歩でした。



⸻






 まだ空が白み始める前。


 ヨーレリヒト男爵邸の中庭には、すでに人の声と馬の鼻息が響いていた。


「一号車、水樽固定!」


「二号車、保存食の数を再確認しろ!」


「予備車輪の留め具が緩んでるぞ!」


「今締めます!」


 王国開拓局第七開拓隊の者たちが、慣れた手つきで出発準備を進めている。


 荷馬車は三台。


 一台目には旅の途中で使う食料や水、天幕、薪、調理器具。


 二台目には灰境へ届ける小麦、豆、塩、薬草、農具。


 三台目には木材、縄、釘、補修用の鉄材、予備の車輪などが積まれていた。


 これらは、王国開拓局が支給する最低限の開拓物資である。


 決して多くはない。


 けれど、今の灰境に何が残されているのかすら分からない以上、現地へ持ち込める物は一つでも多いほうがよかった。


「ヘルマン!」


 ガルドの声が飛ぶ。


「三号車の左後輪、音が違うぞ!」


「今見とる!」


 荷馬車の下へ潜り込んでいた年配の技師が、太い声で答える。


「軸受けに砂が噛んどるだけじゃ! 壊れちゃおらん!」


「出発前に掃除しろ!」


「分かっとるわい! 儂に車輪のことを教えるな!」


「なら、音を鳴らすな!」


「馬車に言え!」


 朝から響く怒鳴り合い。


 しかし本気で険悪なわけではない。


 周囲の隊員たちは、いつものことだと気にも留めず、それぞれの仕事を続けていた。


 その様子を、中庭へ面した廊下からアルフレッドが見つめていた。


 背中には、自分で持てる大きさの旅鞄。


 胸元には、母マリエルの銀飾り。


 内側には、セルマが残した短い手紙がしまわれている。


 右腰の小袋には、用途の分からない銀の鍵。


 左手には、ユリウスから受け取った地図の入った革筒。


 必要な物は、何度も確認した。


 それでも何かを忘れているような気がして、アルフレッドは自分の身体を上から順に見下ろした。


「服……着てる」


 当然だった。


「靴もある」


 履いている。


「地図。鍵。銀飾り。セルマの裁縫道具……」


 鞄へ手を当てる。


「昔話の本も入れた」


「それは忘れても困らないと思います」


「わっ」


 すぐ背後から声を掛けられ、アルフレッドは肩を跳ねさせた。


 立っていたのはリタだった。


 両腕に、白い布で包んだ大きな籠を抱えている。


「おはようございます、アルフレッド様」


「おはよう。驚いたよ」


「申し訳ございません。何度かお声を掛けたのですが」


「全然聞こえなかった」


「そのようですね」


 リタは困ったように笑う。


「これは?」


「厨房のみんなからです」


 彼女が籠を少し持ち上げる。


 布の隙間から、焼きたてのパンの香りが漂った。


「パン?」


「はい。丸パンと、固焼きパン。それから干した果物も少し」


「こんなに?」


「旅の途中で、開拓隊の皆様とお召し上がりください」


 アルフレッドは籠を受け取ろうとした。


 だが、想像以上に重い。


「うっ……」


「無理をなさらないでください!」


 落としかけた籠を、リタが慌てて支える。


「持てると思ったんだけど」


「お一人で持つ量ではございません」


「でも、灰境の領主になるなら、これくらい――」


「領主だからといって、パン籠を一人で運ぶ必要はないと思います」


「そっか」


 アルフレッドは素直に手を離した。


 リタは、ほっと息をつく。


「荷馬車まで、私がお持ちします」


「ありがとう」


「それから……」


 リタは周囲を確認し、少しだけ声を落とした。


「鉢植えのお水は、私が差し上げます」


 アルフレッドの目が、わずかに見開かれる。


 セルマの手紙に書かれていたことだ。


「セルマから聞いたの?」


「はい。昨日の夜、短い伝言を受けました」


「いつ会ったの?」


「部屋へ戻る途中です。急いでおられたようで、詳しいことは何も……」


 リタの表情が曇る。


 セルマが逃亡したという話は、すでに使用人たちの間にも広がっているのだろう。


「ご無事でしょうか」


「うん」


 アルフレッドは、不安を隠すように頷いた。


「セルマは灰境へ来るって約束してくれたから」


「灰境へ?」


「僕が先に行って、待つ場所を作るんだ」


 リタは何かを言いかけた。


 だが、少年の表情を見て、その言葉を飲み込む。


「では、お花は私がお守りします」


「お願いしてもいい?」


「もちろんです」


「枯らさないでね」


「アルフレッド様より上手に育ててみせます」


「僕も毎日水をあげてたよ?」


「三日に一度、忘れておられました」


「セルマに聞いた?」


「皆、知っております」


「そんなに?」


 リタが小さく笑う。


 アルフレッドも笑った。


 けれど、その笑みは長くは続かなかった。


「リタ」


「はい」


「セルマが戻ってきたら、伝えてくれる?」


「何と?」


「僕は、ちゃんと灰境へ行ったって」


 アルフレッドは胸元へ手を当てる。


「約束を忘れてないって」


 リタは静かに頭を下げた。


「必ず、お伝えいたします」


⸻


「おい、坊主!」


 中庭からガルドの声が飛んできた。


「いつまでそこで別れを惜しんでる! 自分の荷物を持ってこい!」


「今行きます!」


 アルフレッドは慌てて廊下を走り出した。


「廊下を走らないでください!」


 反射的にリタが叫ぶ。


 アルフレッドは急停止し、振り返った。


「ごめん!」


「謝りながら、また走らないでください!」


「はい!」


 今度は早足で中庭へ向かう。


 その背中を見送りながら、リタは籠を抱え直した。


「行ってらっしゃいませ」


 小さな声だった。


 けれど今度は、きちんとアルフレッドの耳へ届いた。


 少年は足を止め、振り返って大きく手を振った。


「行ってきます!」


⸻


「遅い」


 ガルドは、アルフレッドが運んできた旅鞄を受け取らず、その場で腕を組んだ。


「すみません」


「謝る前に時間を覚えろ。日の出と同時に出ると言ったはずだ」


「まだ日の出前だよ?」


「だから、遅いんだ」


「どういうこと?」


「出発の時刻に準備を始める奴は、もう遅れてる。日の出に動くなら、その前に荷を積み終えておく」


「なるほど」


 アルフレッドは真剣な顔で頷く。


「次から気をつけます」


「次があると思うな。旅じゃ、一度の遅れで宿場へ着けなくなることもある」


「はい」


 返事だけは素直だった。


 ガルドはアルフレッドの鞄へ目を向ける。


「持てるか?」


「うん」


「本当に?」


「少し重いけど」


「少し重い荷物は、半日歩けば死ぬほど重くなる」


 ガルドは鞄の紐をつまみ、片手で持ち上げた。


「何を増やした」


「増やしてないよ」


「昨日より重い」


「昔話の本を一冊」


「それは知ってる」


「パンを少し……」


「少し?」


 アルフレッドが、目を逸らす。


「リタたちがくれた籠から、自分の鞄にも入れた」


「何個だ」


「五個」


「多い」


「途中でお腹が空くかもしれないでしょう?」


「食料は馬車に積む。自分の鞄へ詰め込むな」


「でも、誰かが欲しがるかもしれない」


「馬車から出せ」


「すぐ渡せないかもしれないよ」


「旅の途中で、知らねえ奴に次々パンを配るつもりか?」


「困ってたら」


 アルフレッドは当たり前のように答えた。


 ガルドはしばらく少年を見つめる。


「二個にしろ」


「五個じゃ駄目?」


「二個だ」


「三個」


「交渉するな」


「二個半」


「パンを半分にする意味がねえ」


 ノエルが近くで書類を確認しながら、肩を震わせた。


「笑ってる?」


「いえ」


「眼鏡が揺れてるよ」


「風です」


「昨日も同じことを言ってたね」


「アルフレッド様まで隊長のようなことを言わないでください」


 結局、アルフレッドの鞄に残されたパンは二個になった。


 残りはリタが持ってきた籠ごと、食料用の荷馬車へ積み込まれる。


「これでいい」


 ガルドが鞄を返す。


「自分の荷物は自分で持て。ただし、無理だと思ったら早く言え」


「無理でも頑張るのは駄目?」


「駄目だ」


「どうして?」


「倒れるまで黙ってた奴は、自分だけじゃなく助ける奴の足も止める」


 ガルドは、アルフレッドの肩へ鞄の紐を掛けた。


「無理をしないってのは、楽をすることじゃねえ。自分の限界を知ることだ」


「限界……」


「分からなきゃ、これから覚えろ」


「はい」


「それから、歩き始めて身体が痛くなったらすぐ言え。靴擦れもだ」


「靴擦れくらいなら大丈夫だよ」


「小さな傷を甘く見るな」


 その言葉を聞き、アルフレッドはリタの指の傷を思い出した。


「ばい菌が入るかもしれないから?」


 ガルドの眉が上がる。


「ばいきん?」


「あ……傷が悪くなるかもしれないから」


「そうだ」


 ガルドは少し不思議そうにアルフレッドを見たが、それ以上は尋ねなかった。


「マルク!」


「何だ!」


 衛生兵の男が、薬箱を持ったまま顔を上げる。


「坊主の靴を見ろ!」


「子どもの靴くらい自分で見ろ!」


「俺は医者じゃねえ!」


「俺も靴屋じゃない!」


「足を見るのはお前の仕事だ!」


「面倒な理屈をつけるな!」


 言い争いながらも、マルクはアルフレッドのところへやって来た。


 三十代半ばほどの、日に焼けた男性である。


 短い赤茶色の髪。


 腰には剣ではなく、幾つもの薬瓶と包帯が入った革袋を下げていた。


「足を出せ」


「ここで?」


「靴を脱げと言ってる」


「まだ出発してないのに?」


「出発してから合わねえと分かったら遅い」


 アルフレッドは近くの木箱へ座り、靴を脱いだ。


 マルクは靴の内側を指でなぞり、革の硬さや大きさを確認する。


「少し新しいな」


「昨日もらったから」


「誰に」


「兄上のお下がり」


「お下がりで新しいとはどういう意味だ」


「兄上は、ほとんど履かなかったみたい」


「なるほどな」


 マルクは薄い布を一枚取り出し、アルフレッドの踵へ当てた。


「最初の数日は、ここへ巻け。擦れたらすぐ言え」


「分かりました」


「我慢するなよ」


「ガルドさんにも言われた」


「なら二回聞いた。忘れねえな」


「たぶん」


「そこは絶対と言え」


「絶対忘れないようにします」


「変な答えだな」


 マルクは笑い、靴を返した。


「俺はマルクだ。身体の具合が悪けりゃ、まず俺に言え」


「治癒魔法が使えるんですか?」


「少しだけな。だが治癒魔法を当てにするな。傷を作らねえのが一番だ」


「はい。よろしくお願いします」


 アルフレッドが頭を下げる。


 マルクは少し驚いたように瞬きをしたが、すぐに笑った。


「こちらこそ、領主様」


「アルでいいです」


「そりゃ駄目だ。仕事中は立場ってもんがある」


「ガルドさんは坊主って呼ぶよ?」


「あの爺さんに礼儀を求めるな」


「聞こえてるぞ!」


 ガルドの怒鳴り声が飛ぶ。


「聞こえるように言った!」


 開拓隊の者たちが笑った。


 アルフレッドも、つられて笑う。


 昨夜まで胸の中にあった重苦しさが、少しだけ軽くなる。


 セルマはいない。


 家を追い出される。


 向かう先は危険な灰境。


 それでも、これから共に旅をする者たちが、冷たい人々ではなさそうだということが嬉しかった。


⸻


 東の空から、朝日が昇り始めた。


 中庭の石畳を、橙色の光がゆっくりと照らしていく。


「出発準備、完了しました!」


 若い護衛士エリックが、ガルドの前へ進み出る。


「人員、十二名。馬七頭。荷馬車三台。異常ありません!」


「支給品は?」


 ガルドがノエルを見る。


 ノエルは一覧表へ目を落とした。


「小麦十五袋。乾燥豆八袋。塩二樽。保存肉四箱。薬草二箱。農具十三点。大工道具一式。補修用鉄材。釘。縄。冬用毛布二十五枚」


「最低限だな」


「灰境の現況が不明なため、これ以上は支給できないとの判断です」


「二十五枚?」


 アルフレッドが反応した。


「領民は六十八人かもしれないのに?」


 ノエルが答える。


「正確な人口は不明です。現地確認後、必要であれば追加支援を申請します」


「でも、今寒かったら?」


「残念ですが、運べる量にも、王国の予算にも限りがあります」


「荷馬車を増やすのは?」


「馬も御者も必要になります。道が狭ければ、荷馬車が増えるほど移動も困難になります」


 アルフレッドは、毛布が積まれた荷車を見た。


 二十五枚。


 もし六十八人全員が残っていれば、とても足りない。


「どうした」


 ガルドが尋ねる。


「足りなかったら、どうしようと思って」


「現地で考える」


「今は考えなくていいの?」


「考えるのはいい。だが、答えの出ねえことで足を止めるな」


 ガルドは毛布の荷へ手を置いた。


「まず何人いるのか確かめる。今ある物をどう分けるか考える。足りなけりゃ、ほかに使える物を探す。王国へ追加を頼む」


「届くまで時間がかかるよね」


「そうだ」


「じゃあ、その間は?」


「それを考えるのが、領主の仕事だ」


 厳しい答えだった。


 けれど、できないと突き放したわけではない。


 今は答えがなくても、現地で知り、考え、選ぶ。


 アルフレッドは、真剣な顔で頷いた。


「覚えておきます」


「全部一度で覚えるな。頭が破裂するぞ」


「少しずつ?」


「そうだ」


 ガルドは中庭の中央へ進んだ。


「第七開拓隊、整列!」


 隊員たちの空気が変わる。


 先ほどまで笑っていた者たちが、一斉に持ち場へついた。


 先頭には騎馬の護衛二名。


 続いて一号車。


 二号車。


 三号車。


 最後尾に護衛二名。


 ガルドは先頭付近に立ち、全体を見渡した。


 アルフレッドは、一号車の御者台の隣へ乗るよう指示されている。


 だが馬車へ向かう前に、屋敷の玄関が開いた。


⸻


 最初に現れたのは、ヨーレリヒト男爵ヴォルフラムだった。


 礼装ではなく、濃い灰色の上着を身につけている。


 その隣にはアーデルハイト。


 少し後ろには、レオンハルト、セシリア、ヴィオラ、ディートリヒ、ユリウスが並んでいた。


 使用人たちも、玄関の左右へ静かに列を作っている。


 見送り。


 そう呼ぶには、どこか重苦しい光景だった。


 誰も笑っていない。


 泣いている者もいない。


 本家の者にとって、アルフレッドの灰境行きは、祝うべき栄転という建前になっている。


 だから露骨に憐れむわけにはいかない。


 かといって、本心から祝う者もほとんどいなかった。


 アルフレッドは玄関の前まで歩き、家族へ頭を下げた。


「行ってまいります」


「アルフレッド」


 ヴォルフラムが呼ぶ。


「はい」


 父は、すぐには続けなかった。


 灰境へ送り出すことを決めたのは、自分だ。


 昨日までの彼なら、必要な命令だけを伝えて会話を終えただろう。


 しかし今は、王国開拓局の者たちや使用人たちが見守っている。


 当主として、息子を送り出す言葉が必要だった。


「開拓領主の任は、軽いものではない」


「はい」


「ヨーレリヒト家の名を汚すな」


「はい」


「王国への報告を怠るな」


「分かりました」


 それだけ。


 ヴォルフラムは、わずかに顔を背けた。


 アルフレッドは頭を下げたまま待った。


 ほかに何か言葉があるのかと思ったのだ。


 だが父は黙っている。


「父上」


「何だ」


「一つ聞いてもいいですか?」


 ヴォルフラムの眉が動く。


「灰境の人たちを守るには、どうしたらいいですか?」


 あまりにも大きな問いだった。


 領民が何人いるのかすら分からない。


 土地の状態も、魔物の種類も、食料事情も不明だ。


 簡単に答えられるはずがない。


 周囲の者たちも、ヴォルフラムへ視線を向けた。


「それは、お前が現地で判断することだ」


 父は、最初にそう答えた。


「はい」


 アルフレッドは少しだけ残念そうに頷く。


 その表情を見たヴォルフラムの口元が、ごくわずかに動いた。


「だが」


 アルフレッドが顔を上げる。


 父は視線を合わせないまま、低い声で続けた。


「領主とは、領民の上に立つだけの者ではない」


「……」


「最後に民を守る者だ」


 短い言葉。


 立派な訓示ではなかった。


 それでもアルフレッドは、真剣な表情で受け止めた。


「はい」


「覚えておきます」


 ヴォルフラムは返事をしなかった。


 ただ一度だけ、小さく頷く。


 アーデルハイトが一歩前へ出た。


「どうか、お気をつけて」


「ありがとうございます」


「開拓局の皆様のお話をよく聞き、無理はなさらないように」


「はい」


「それから」


 彼女はアルフレッドの胸元へ手を伸ばし、母マリエルの銀飾りを見た。


「その飾りを、なくさないように」


 アルフレッドは少し驚いた。


「知っていたんですか?」


「マリエル様が身につけておられた物ですもの」


「はい。大切にします」


「そう」


 アーデルハイトは優しく微笑む。


 だが、その瞳の奥に何があるのか、アルフレッドには読み取れなかった。


「灰境で、よい領主になれるとよいですね」


「頑張ります」


「ええ」


 どうか二度と戻ってこないで。


 その本心を、完璧な微笑みの裏へ隠したまま。


⸻


「アルフレッド」


 長男レオンハルトが声を掛けた。


「兄上」


「現地へ着いたら、最初に記録を取れ。人口、水源、食料、耕作地、戦える者の数」


「分かりました」


「分からなければ、開拓局の書記へ聞け」


「領民に聞くのは?」


 レオンハルトが眉を寄せる。


 だが以前のように、領主が民へ教えを乞うなとは言わなかった。


「必要なら聞け。ただし、すべての話をそのまま信じるな」


「どうして?」


「人は、自分に都合のよいことを話す」


「兄上も?」


「……僕もだ」


 意外な答えだった。


 アルフレッドは少し考え、頷いた。


「気をつけます」


 次男ディートリヒは、アルフレッドの肩を軽く叩いた。


「魔物を見たら、剣を抜く前に逃げろ」


「剣、持ってないよ」


「……何?」


 ディートリヒは目を丸くした。


「護身用の短剣くらい持たせていないのか?」


 ヴォルフラムを見る。


 父も初めて気づいたように顔をしかめた。


 アルフレッドは小さな食事用ナイフを思い出したが、おそらく剣には含まれない。


「開拓局の護衛がいるから、大丈夫です」


「灰境に着けば帰るだろう!」


「現地で借ります」


「誰に!」


「領民の人に」


「あるかどうかも分からん!」


 ディートリヒは頭を抱えた。


「お前、本当に何も分かってないな!」


「うん。だから、これから覚える」


「胸を張って言うな!」


 周囲から、ごく小さな笑いが漏れた。


 ディートリヒは腰へ差していた短剣を抜き、鞘ごとアルフレッドへ押しつける。


「持っていけ」


「兄上の?」


「予備だ。魔物と戦おうとするな。縄を切るか、枝を払うか、本当に最後のときだけ使え」


「ありがとう」


「扱い方はガルド殿に教われ」


 ガルドが離れたところから答える。


「旅の途中で教える。ただし、自分で勝手に抜くなよ、坊主!」


「はい!」


 セシリアは扇子を畳み、アルフレッドを一度だけ見た。


「灰境へ行けば、ヨーレリヒト家の名を利用しようとする者もいるでしょう」


「どういうこと?」


「貴族の子どもだからと近づき、甘い言葉をささやく者です」


「僕、あまりお金を持ってないよ」


「金だけではありません。権利、土地、許可、身分。領主が持つものは多いのです」


「難しいね」


「だから、すぐに署名をしないこと」


「分かりました」


「文字を読まずに印を押すなど、絶対になさらないように」


「ちゃんと読みます」


「読んでも分からなければ?」


「ノエルさんに聞く」


 少し離れたところで聞いていたノエルが、慌てて顔を上げた。


「灰境到着までは、お手伝いします!」


「到着した後は?」


「現地の書記を探してください!」


 ヴィオラは、最後までどこか面白がっているようだった。


「灰境に着いたら、魔物をきれいにして見せてね」


「捕まえられたら」


「本気でやろうとしないでよ?」


「でも、汚れてたら気になるでしょう?」


「知らないわよ!」


 ユリウスが咳き込む。


 今回も笑いを隠したらしい。


「兄上」


 アルフレッドが近づく。


「地図、持ったよ」


「落とすな」


「使うための物だから、汚れてもいいんでしょう?」


「なくすなと言っている」


「分かってる」


「それと」


 ユリウスは周囲へ聞こえないよう、声を落とした。


「川沿いを見ろ」


 セルマのことだ。


 アルフレッドも小さく頷く。


「ガルドさんに相談してみる」


「焦るな。信頼できると思ってから話せ」


「うん」


「銀の鍵も見せるな」


「どうして?」


「母上の遺品だと知られれば、誰かが欲しがるかもしれない」


「普通の鍵じゃないから?」


「それもある」


 ユリウスは、ほんのわずかに言い淀んだ。


「母上――マリエル様が隠していた物なら、理由があるはずだ」


「兄上も、母さんのことを調べてくれる?」


「気が向けばな」


「ありがとう」


「まだ何もすると言っていない」


「でも、してくれそうだから」


「勝手に決めるな」


 ユリウスは視線を逸らした。


「帰ってきたときに、聞く」


「……ああ」


 今度の返事は、昨日より少しだけ早かった。


⸻


「出発するぞ!」


 ガルドの声が中庭へ響いた。


 これ以上、別れを引き延ばすつもりはないらしい。


「アルフレッド!」


「はい!」


「一号車へ乗れ!」


 アルフレッドは家族へ、もう一度深く頭を下げた。


「行ってまいります」


 そして背を向ける。


 そのとき。


 使用人たちの列の中から、リタが大きな声を上げた。


「アルフレッド様!」


 アルフレッドが振り返る。


「どうか、お元気で!」


 侍女長オルガが、たしなめるような目を向ける。


 けれどリタは黙らなかった。


「お帰りを、お待ちしております!」


 帰ってくるなと望む者がいる。


 帰ってくることを待つ者もいる。


 アルフレッドは驚いたように目を見開き、それから笑った。


「うん!」


「リタも元気で!」


 厨房のマルグリットが、エプロンの端で目元を拭う。


 庭師が帽子を取る。


 馬丁が深く頭を下げる。


 声にはしない。


 それでも、使用人たちの中には、アルフレッドを本気で見送る者がいた。


 アルフレッドは一号車の御者台へ乗り込んだ。


 隣には荷車係のベンが座っている。


 陽気そうな丸顔の男で、アルフレッドへ軽く手を上げた。


「落ちるなよ、領主様」


「気をつけます」


「俺の名前はベンだ。旅の飯も担当する」


「料理人なんですか?」


「荷車係だ」


「飯も作るの?」


「旅じゃ一人で一つの仕事だけやってられねえ」


 昨日、ガルドが話していたことに似ている。


 一つの道具が、幾つもの仕事をする。


 人も同じなのかもしれない。


「料理、教えてください」


「食える保証はしねえぞ」


「食べられない料理を作るの?」


「食えるが、美味いとは言ってねえ」


「難しいんだね」


「お前さん、変なところで真面目だな」


 ベンが笑う。


 アルフレッドも笑った。


「第七開拓隊!」


 ガルドが馬上で剣を掲げる。


「灰境へ向け、出発!」


「了解!」


 先頭の馬が歩き出す。


 続いて、一号車の車輪がゆっくりと回転した。


 石畳の上を、重い音を立てながら進んでいく。


 二号車。


 三号車。


 護衛たち。


 大きな一団が、男爵邸の正門へ向かう。


 アルフレッドは、御者台から屋敷を見上げた。


 十二年間暮らした家。


 母と過ごした部屋。


 セルマと歩いた廊下。


 リタを手伝った床。


 兄姉たちと食事をした大広間。


 よい思い出ばかりではない。


 けれど、すべて嫌いだったわけでもなかった。


 門をくぐる直前。


 アルフレッドは胸元の銀飾りを握った。


「行ってきます」


 誰へ向けた言葉なのか、自分でも分からない。


 母へ。


 家族へ。


 使用人たちへ。


 あるいは、もうここにいないセルマへ。


 重い正門を越える。


 男爵邸が、少しずつ遠ざかっていく。


 振り返れば、まだ見える。


 けれど、アルフレッドは前へ向き直った。


 街道の先。


 北東の空。


 そのさらに遠くに、灰境がある。


 そしてどこかの道を、セルマも同じ場所へ向かっている。


「待っててね」


 アルフレッドは小さく呟いた。


「僕も、今から行くから」


⸻


 その頃。


 男爵領の北東に広がる森。


 昨夜、森狼の群れと遭遇した場所には、折れた枝と血の跡が残されていた。


 一頭の森狼が、地面へ倒れている。


 死んではいない。


 後ろ脚に浅い傷を負い、低い声で唸っていた。


 ほかの狼たちは、すでに森の奥へ退いている。


 大木の根元へ、セルマが座り込んでいた。


 外套の左肩が裂けている。


 頬には、新しい切り傷。


 短剣の刃にも、黒い血が付着していた。


 激しく息を切らしながら、それでも残された右目は鋭く周囲を見ている。


 森狼を倒したわけではない。


 一頭へ傷を負わせ、群れの警戒心を煽り、どうにか退かせただけだ。


 まともに戦えば、勝てなかった。


 片腕と片目を失った現在の身体では、以前のように剣を振るうことなどできない。


「……弱く、なりましたね」


 自嘲するような呟き。


 左手が、わずかに震えている。


 それでも短剣を拭い、鞘へ戻す。


 立ち上がろうとした瞬間、首輪が赤く光った。


「――っ!」


 焼けるような痛みが首筋から全身へ走り、セルマは再び膝をついた。


 所有者から離れすぎたことを罰する奴隷術式。


 距離が広がるほど、痛みは強くなる。


 このまま男爵領を離れれば、術式がさらに強く反応する可能性がある。


 最悪の場合、命を奪うことも。


 セルマは首輪へ左手を掛けた。


 外そうとしても、魔術で固定されている。


 物理的に切れば、術式が発動する。


 自分だけでは、どうすることもできない。


 だが。


 地下倉庫で、アルフレッドの《清掃》が固定術式を消した。


 あの力なら、この首輪も外せるかもしれない。


「アル様のもとへ……」


 行かなければならない。


 首輪を外してもらうためではない。


 約束したからだ。


 セルマは木の幹へ手をつき、ゆっくりと立ち上がった。


 その耳が、遠くの音を捉える。


 街道の方向。


 幾つもの車輪。


 馬の蹄。


 開拓隊が、屋敷を出発したのだ。


 アルフレッドが灰境へ向かい始めた。


「……行ってらっしゃいませ」


 森の中からは、姿を見ることもできない。


 それでもセルマは、音のする方向へ静かに頭を下げた。


「どうか、先へ」


 追いつく。


 必ず。


 たとえ同じ道を歩けなくても。


 同じ馬車へ乗れなくても。


 目指す場所は同じなのだから。


 セルマは傷ついた足を引きずりながら、再び北東へ歩き始めた。


⸻


 開拓隊の荷馬車は、朝日に照らされた街道を進んでいた。


 屋敷の塔が小さくなり、やがて木々の向こうへ消えていく。


 アルフレッドは、それを見届けてから前を向いた。


「坊主!」


 先頭からガルドの声が飛ぶ。


「景色ばかり見てるな! まずは馬車から落ちねえ座り方を覚えろ!」


「座り方?」


「足をぶらつかせるな! 揺れたら身体ごと持っていかれるぞ!」


「こう?」


「背筋を固めるな! 揺れに合わせろ!」


「難しい!」


「だから今、覚えるんだ!」


 ベンが横で笑う。


「領主様、旅の最初の仕事だ」


「座ることが?」


「落ちねえことだ」


 アルフレッドは真剣に御者台へ座り直した。


 身体を固くしすぎず。


 足を踏み板へ置き。


 車輪の揺れに合わせる。


 最初は何度も左右へ傾いた。


 そのたびにベンが襟をつかみ、引き戻す。


「危ない!」


「だから教えてる!」


 開拓隊の笑い声が、街道へ響いた。


 こうして。


 男爵家から捨てられた四男の旅は始まった。


 剣も知らない。


 統治も知らない。


 馬車へ上手に座ることすらできない。


 けれど少年には、二つのスキルと、一つの約束があった。


 汚れたものを、きれいにする力。


 壊れたものを、直す力。


 そして――


 誰かが帰ってこられる場所を作るという約束。


 それだけを胸に。


 アルフレッド・ロナ・ヨーレリヒトは、生まれて初めて、本家の領地を後にした。


⸻


第7話 追放の日 了

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。