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男爵家四男の辺境開拓記 ~不遇スキル《修繕》と《清掃》で、みんなの帰る場所を作ります~  作者: 和泉發仙
第一章 灰境への道

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追放の日

第一章 灰境への道


第二編 旅立ち編


第7話 追放の日


前書き


同じ門をくぐっても、


見送る者と、


送り出される者では、


見えている景色が違います。


ある者にとっては栄誉ある任命。


ある者にとっては厄介払い。


そして少年にとっては――


約束の場所へ向かう、


最初の一歩でした。








 まだ空が白み始める前。


 ヨーレリヒト男爵邸の中庭には、すでに人の声と馬の鼻息が響いていた。


「一号車、水樽固定!」


「二号車、保存食の数を再確認しろ!」


「予備車輪の留め具が緩んでるぞ!」


「今締めます!」


 王国開拓局第七開拓隊の者たちが、慣れた手つきで出発準備を進めている。


 荷馬車は三台。


 一台目には旅の途中で使う食料や水、天幕、薪、調理器具。


 二台目には灰境へ届ける小麦、豆、塩、薬草、農具。


 三台目には木材、縄、釘、補修用の鉄材、予備の車輪などが積まれていた。


 これらは、王国開拓局が支給する最低限の開拓物資である。


 決して多くはない。


 けれど、今の灰境に何が残されているのかすら分からない以上、現地へ持ち込める物は一つでも多いほうがよかった。


「ヘルマン!」


 ガルドの声が飛ぶ。


「三号車の左後輪、音が違うぞ!」


「今見とる!」


 荷馬車の下へ潜り込んでいた年配の技師が、太い声で答える。


「軸受けに砂が噛んどるだけじゃ! 壊れちゃおらん!」


「出発前に掃除しろ!」


「分かっとるわい! 儂に車輪のことを教えるな!」


「なら、音を鳴らすな!」


「馬車に言え!」


 朝から響く怒鳴り合い。


 しかし本気で険悪なわけではない。


 周囲の隊員たちは、いつものことだと気にも留めず、それぞれの仕事を続けていた。


 その様子を、中庭へ面した廊下からアルフレッドが見つめていた。


 背中には、自分で持てる大きさの旅鞄。


 胸元には、母マリエルの銀飾り。


 内側には、セルマが残した短い手紙がしまわれている。


 右腰の小袋には、用途の分からない銀の鍵。


 左手には、ユリウスから受け取った地図の入った革筒。


 必要な物は、何度も確認した。


 それでも何かを忘れているような気がして、アルフレッドは自分の身体を上から順に見下ろした。


「服……着てる」


 当然だった。


「靴もある」


 履いている。


「地図。鍵。銀飾り。セルマの裁縫道具……」


 鞄へ手を当てる。


「昔話の本も入れた」


「それは忘れても困らないと思います」


「わっ」


 すぐ背後から声を掛けられ、アルフレッドは肩を跳ねさせた。


 立っていたのはリタだった。


 両腕に、白い布で包んだ大きな籠を抱えている。


「おはようございます、アルフレッド様」


「おはよう。驚いたよ」


「申し訳ございません。何度かお声を掛けたのですが」


「全然聞こえなかった」


「そのようですね」


 リタは困ったように笑う。


「これは?」


「厨房のみんなからです」


 彼女が籠を少し持ち上げる。


 布の隙間から、焼きたてのパンの香りが漂った。


「パン?」


「はい。丸パンと、固焼きパン。それから干した果物も少し」


「こんなに?」


「旅の途中で、開拓隊の皆様とお召し上がりください」


 アルフレッドは籠を受け取ろうとした。


 だが、想像以上に重い。


「うっ……」


「無理をなさらないでください!」


 落としかけた籠を、リタが慌てて支える。


「持てると思ったんだけど」


「お一人で持つ量ではございません」


「でも、灰境の領主になるなら、これくらい――」


「領主だからといって、パン籠を一人で運ぶ必要はないと思います」


「そっか」


 アルフレッドは素直に手を離した。


 リタは、ほっと息をつく。


「荷馬車まで、私がお持ちします」


「ありがとう」


「それから……」


 リタは周囲を確認し、少しだけ声を落とした。


「鉢植えのお水は、私が差し上げます」


 アルフレッドの目が、わずかに見開かれる。


 セルマの手紙に書かれていたことだ。


「セルマから聞いたの?」


「はい。昨日の夜、短い伝言を受けました」


「いつ会ったの?」


「部屋へ戻る途中です。急いでおられたようで、詳しいことは何も……」


 リタの表情が曇る。


 セルマが逃亡したという話は、すでに使用人たちの間にも広がっているのだろう。


「ご無事でしょうか」


「うん」


 アルフレッドは、不安を隠すように頷いた。


「セルマは灰境へ来るって約束してくれたから」


「灰境へ?」


「僕が先に行って、待つ場所を作るんだ」


 リタは何かを言いかけた。


 だが、少年の表情を見て、その言葉を飲み込む。


「では、お花は私がお守りします」


「お願いしてもいい?」


「もちろんです」


「枯らさないでね」


「アルフレッド様より上手に育ててみせます」


「僕も毎日水をあげてたよ?」


「三日に一度、忘れておられました」


「セルマに聞いた?」


「皆、知っております」


「そんなに?」


 リタが小さく笑う。


 アルフレッドも笑った。


 けれど、その笑みは長くは続かなかった。


「リタ」


「はい」


「セルマが戻ってきたら、伝えてくれる?」


「何と?」


「僕は、ちゃんと灰境へ行ったって」


 アルフレッドは胸元へ手を当てる。


「約束を忘れてないって」


 リタは静かに頭を下げた。


「必ず、お伝えいたします」



「おい、坊主!」


 中庭からガルドの声が飛んできた。


「いつまでそこで別れを惜しんでる! 自分の荷物を持ってこい!」


「今行きます!」


 アルフレッドは慌てて廊下を走り出した。


「廊下を走らないでください!」


 反射的にリタが叫ぶ。


 アルフレッドは急停止し、振り返った。


「ごめん!」


「謝りながら、また走らないでください!」


「はい!」


 今度は早足で中庭へ向かう。


 その背中を見送りながら、リタは籠を抱え直した。


「行ってらっしゃいませ」


 小さな声だった。


 けれど今度は、きちんとアルフレッドの耳へ届いた。


 少年は足を止め、振り返って大きく手を振った。


「行ってきます!」



「遅い」


 ガルドは、アルフレッドが運んできた旅鞄を受け取らず、その場で腕を組んだ。


「すみません」


「謝る前に時間を覚えろ。日の出と同時に出ると言ったはずだ」


「まだ日の出前だよ?」


「だから、遅いんだ」


「どういうこと?」


「出発の時刻に準備を始める奴は、もう遅れてる。日の出に動くなら、その前に荷を積み終えておく」


「なるほど」


 アルフレッドは真剣な顔で頷く。


「次から気をつけます」


「次があると思うな。旅じゃ、一度の遅れで宿場へ着けなくなることもある」


「はい」


 返事だけは素直だった。


 ガルドはアルフレッドの鞄へ目を向ける。


「持てるか?」


「うん」


「本当に?」


「少し重いけど」


「少し重い荷物は、半日歩けば死ぬほど重くなる」


 ガルドは鞄の紐をつまみ、片手で持ち上げた。


「何を増やした」


「増やしてないよ」


「昨日より重い」


「昔話の本を一冊」


「それは知ってる」


「パンを少し……」


「少し?」


 アルフレッドが、目を逸らす。


「リタたちがくれた籠から、自分の鞄にも入れた」


「何個だ」


「五個」


「多い」


「途中でお腹が空くかもしれないでしょう?」


「食料は馬車に積む。自分の鞄へ詰め込むな」


「でも、誰かが欲しがるかもしれない」


「馬車から出せ」


「すぐ渡せないかもしれないよ」


「旅の途中で、知らねえ奴に次々パンを配るつもりか?」


「困ってたら」


 アルフレッドは当たり前のように答えた。


 ガルドはしばらく少年を見つめる。


「二個にしろ」


「五個じゃ駄目?」


「二個だ」


「三個」


「交渉するな」


「二個半」


「パンを半分にする意味がねえ」


 ノエルが近くで書類を確認しながら、肩を震わせた。


「笑ってる?」


「いえ」


「眼鏡が揺れてるよ」


「風です」


「昨日も同じことを言ってたね」


「アルフレッド様まで隊長のようなことを言わないでください」


 結局、アルフレッドの鞄に残されたパンは二個になった。


 残りはリタが持ってきた籠ごと、食料用の荷馬車へ積み込まれる。


「これでいい」


 ガルドが鞄を返す。


「自分の荷物は自分で持て。ただし、無理だと思ったら早く言え」


「無理でも頑張るのは駄目?」


「駄目だ」


「どうして?」


「倒れるまで黙ってた奴は、自分だけじゃなく助ける奴の足も止める」


 ガルドは、アルフレッドの肩へ鞄の紐を掛けた。


「無理をしないってのは、楽をすることじゃねえ。自分の限界を知ることだ」


「限界……」


「分からなきゃ、これから覚えろ」


「はい」


「それから、歩き始めて身体が痛くなったらすぐ言え。靴擦れもだ」


「靴擦れくらいなら大丈夫だよ」


「小さな傷を甘く見るな」


 その言葉を聞き、アルフレッドはリタの指の傷を思い出した。


「ばい菌が入るかもしれないから?」


 ガルドの眉が上がる。


「ばいきん?」


「あ……傷が悪くなるかもしれないから」


「そうだ」


 ガルドは少し不思議そうにアルフレッドを見たが、それ以上は尋ねなかった。


「マルク!」


「何だ!」


 衛生兵の男が、薬箱を持ったまま顔を上げる。


「坊主の靴を見ろ!」


「子どもの靴くらい自分で見ろ!」


「俺は医者じゃねえ!」


「俺も靴屋じゃない!」


「足を見るのはお前の仕事だ!」


「面倒な理屈をつけるな!」


 言い争いながらも、マルクはアルフレッドのところへやって来た。


 三十代半ばほどの、日に焼けた男性である。


 短い赤茶色の髪。


 腰には剣ではなく、幾つもの薬瓶と包帯が入った革袋を下げていた。


「足を出せ」


「ここで?」


「靴を脱げと言ってる」


「まだ出発してないのに?」


「出発してから合わねえと分かったら遅い」


 アルフレッドは近くの木箱へ座り、靴を脱いだ。


 マルクは靴の内側を指でなぞり、革の硬さや大きさを確認する。


「少し新しいな」


「昨日もらったから」


「誰に」


「兄上のお下がり」


「お下がりで新しいとはどういう意味だ」


「兄上は、ほとんど履かなかったみたい」


「なるほどな」


 マルクは薄い布を一枚取り出し、アルフレッドの踵へ当てた。


「最初の数日は、ここへ巻け。擦れたらすぐ言え」


「分かりました」


「我慢するなよ」


「ガルドさんにも言われた」


「なら二回聞いた。忘れねえな」


「たぶん」


「そこは絶対と言え」


「絶対忘れないようにします」


「変な答えだな」


 マルクは笑い、靴を返した。


「俺はマルクだ。身体の具合が悪けりゃ、まず俺に言え」


「治癒魔法が使えるんですか?」


「少しだけな。だが治癒魔法を当てにするな。傷を作らねえのが一番だ」


「はい。よろしくお願いします」


 アルフレッドが頭を下げる。


 マルクは少し驚いたように瞬きをしたが、すぐに笑った。


「こちらこそ、領主様」


「アルでいいです」


「そりゃ駄目だ。仕事中は立場ってもんがある」


「ガルドさんは坊主って呼ぶよ?」


「あの爺さんに礼儀を求めるな」


「聞こえてるぞ!」


 ガルドの怒鳴り声が飛ぶ。


「聞こえるように言った!」


 開拓隊の者たちが笑った。


 アルフレッドも、つられて笑う。


 昨夜まで胸の中にあった重苦しさが、少しだけ軽くなる。


 セルマはいない。


 家を追い出される。


 向かう先は危険な灰境。


 それでも、これから共に旅をする者たちが、冷たい人々ではなさそうだということが嬉しかった。



 東の空から、朝日が昇り始めた。


 中庭の石畳を、橙色の光がゆっくりと照らしていく。


「出発準備、完了しました!」


 若い護衛士エリックが、ガルドの前へ進み出る。


「人員、十二名。馬七頭。荷馬車三台。異常ありません!」


「支給品は?」


 ガルドがノエルを見る。


 ノエルは一覧表へ目を落とした。


「小麦十五袋。乾燥豆八袋。塩二樽。保存肉四箱。薬草二箱。農具十三点。大工道具一式。補修用鉄材。釘。縄。冬用毛布二十五枚」


「最低限だな」


「灰境の現況が不明なため、これ以上は支給できないとの判断です」


「二十五枚?」


 アルフレッドが反応した。


「領民は六十八人かもしれないのに?」


 ノエルが答える。


「正確な人口は不明です。現地確認後、必要であれば追加支援を申請します」


「でも、今寒かったら?」


「残念ですが、運べる量にも、王国の予算にも限りがあります」


「荷馬車を増やすのは?」


「馬も御者も必要になります。道が狭ければ、荷馬車が増えるほど移動も困難になります」


 アルフレッドは、毛布が積まれた荷車を見た。


 二十五枚。


 もし六十八人全員が残っていれば、とても足りない。


「どうした」


 ガルドが尋ねる。


「足りなかったら、どうしようと思って」


「現地で考える」


「今は考えなくていいの?」


「考えるのはいい。だが、答えの出ねえことで足を止めるな」


 ガルドは毛布の荷へ手を置いた。


「まず何人いるのか確かめる。今ある物をどう分けるか考える。足りなけりゃ、ほかに使える物を探す。王国へ追加を頼む」


「届くまで時間がかかるよね」


「そうだ」


「じゃあ、その間は?」


「それを考えるのが、領主の仕事だ」


 厳しい答えだった。


 けれど、できないと突き放したわけではない。


 今は答えがなくても、現地で知り、考え、選ぶ。


 アルフレッドは、真剣な顔で頷いた。


「覚えておきます」


「全部一度で覚えるな。頭が破裂するぞ」


「少しずつ?」


「そうだ」


 ガルドは中庭の中央へ進んだ。


「第七開拓隊、整列!」


 隊員たちの空気が変わる。


 先ほどまで笑っていた者たちが、一斉に持ち場へついた。


 先頭には騎馬の護衛二名。


 続いて一号車。


 二号車。


 三号車。


 最後尾に護衛二名。


 ガルドは先頭付近に立ち、全体を見渡した。


 アルフレッドは、一号車の御者台の隣へ乗るよう指示されている。


 だが馬車へ向かう前に、屋敷の玄関が開いた。



 最初に現れたのは、ヨーレリヒト男爵ヴォルフラムだった。


 礼装ではなく、濃い灰色の上着を身につけている。


 その隣にはアーデルハイト。


 少し後ろには、レオンハルト、セシリア、ヴィオラ、ディートリヒ、ユリウスが並んでいた。


 使用人たちも、玄関の左右へ静かに列を作っている。


 見送り。


 そう呼ぶには、どこか重苦しい光景だった。


 誰も笑っていない。


 泣いている者もいない。


 本家の者にとって、アルフレッドの灰境行きは、祝うべき栄転という建前になっている。


 だから露骨に憐れむわけにはいかない。


 かといって、本心から祝う者もほとんどいなかった。


 アルフレッドは玄関の前まで歩き、家族へ頭を下げた。


「行ってまいります」


「アルフレッド」


 ヴォルフラムが呼ぶ。


「はい」


 父は、すぐには続けなかった。


 灰境へ送り出すことを決めたのは、自分だ。


 昨日までの彼なら、必要な命令だけを伝えて会話を終えただろう。


 しかし今は、王国開拓局の者たちや使用人たちが見守っている。


 当主として、息子を送り出す言葉が必要だった。


「開拓領主の任は、軽いものではない」


「はい」


「ヨーレリヒト家の名を汚すな」


「はい」


「王国への報告を怠るな」


「分かりました」


 それだけ。


 ヴォルフラムは、わずかに顔を背けた。


 アルフレッドは頭を下げたまま待った。


 ほかに何か言葉があるのかと思ったのだ。


 だが父は黙っている。


「父上」


「何だ」


「一つ聞いてもいいですか?」


 ヴォルフラムの眉が動く。


「灰境の人たちを守るには、どうしたらいいですか?」


 あまりにも大きな問いだった。


 領民が何人いるのかすら分からない。


 土地の状態も、魔物の種類も、食料事情も不明だ。


 簡単に答えられるはずがない。


 周囲の者たちも、ヴォルフラムへ視線を向けた。


「それは、お前が現地で判断することだ」


 父は、最初にそう答えた。


「はい」


 アルフレッドは少しだけ残念そうに頷く。


 その表情を見たヴォルフラムの口元が、ごくわずかに動いた。


「だが」


 アルフレッドが顔を上げる。


 父は視線を合わせないまま、低い声で続けた。


「領主とは、領民の上に立つだけの者ではない」


「……」


「最後に民を守る者だ」


 短い言葉。


 立派な訓示ではなかった。


 それでもアルフレッドは、真剣な表情で受け止めた。


「はい」


「覚えておきます」


 ヴォルフラムは返事をしなかった。


 ただ一度だけ、小さく頷く。


 アーデルハイトが一歩前へ出た。


「どうか、お気をつけて」


「ありがとうございます」


「開拓局の皆様のお話をよく聞き、無理はなさらないように」


「はい」


「それから」


 彼女はアルフレッドの胸元へ手を伸ばし、母マリエルの銀飾りを見た。


「その飾りを、なくさないように」


 アルフレッドは少し驚いた。


「知っていたんですか?」


「マリエル様が身につけておられた物ですもの」


「はい。大切にします」


「そう」


 アーデルハイトは優しく微笑む。


 だが、その瞳の奥に何があるのか、アルフレッドには読み取れなかった。


「灰境で、よい領主になれるとよいですね」


「頑張ります」


「ええ」


 どうか二度と戻ってこないで。


 その本心を、完璧な微笑みの裏へ隠したまま。



「アルフレッド」


 長男レオンハルトが声を掛けた。


「兄上」


「現地へ着いたら、最初に記録を取れ。人口、水源、食料、耕作地、戦える者の数」


「分かりました」


「分からなければ、開拓局の書記へ聞け」


「領民に聞くのは?」


 レオンハルトが眉を寄せる。


 だが以前のように、領主が民へ教えを乞うなとは言わなかった。


「必要なら聞け。ただし、すべての話をそのまま信じるな」


「どうして?」


「人は、自分に都合のよいことを話す」


「兄上も?」


「……僕もだ」


 意外な答えだった。


 アルフレッドは少し考え、頷いた。


「気をつけます」


 次男ディートリヒは、アルフレッドの肩を軽く叩いた。


「魔物を見たら、剣を抜く前に逃げろ」


「剣、持ってないよ」


「……何?」


 ディートリヒは目を丸くした。


「護身用の短剣くらい持たせていないのか?」


 ヴォルフラムを見る。


 父も初めて気づいたように顔をしかめた。


 アルフレッドは小さな食事用ナイフを思い出したが、おそらく剣には含まれない。


「開拓局の護衛がいるから、大丈夫です」


「灰境に着けば帰るだろう!」


「現地で借ります」


「誰に!」


「領民の人に」


「あるかどうかも分からん!」


 ディートリヒは頭を抱えた。


「お前、本当に何も分かってないな!」


「うん。だから、これから覚える」


「胸を張って言うな!」


 周囲から、ごく小さな笑いが漏れた。


 ディートリヒは腰へ差していた短剣を抜き、鞘ごとアルフレッドへ押しつける。


「持っていけ」


「兄上の?」


「予備だ。魔物と戦おうとするな。縄を切るか、枝を払うか、本当に最後のときだけ使え」


「ありがとう」


「扱い方はガルド殿に教われ」


 ガルドが離れたところから答える。


「旅の途中で教える。ただし、自分で勝手に抜くなよ、坊主!」


「はい!」


 セシリアは扇子を畳み、アルフレッドを一度だけ見た。


「灰境へ行けば、ヨーレリヒト家の名を利用しようとする者もいるでしょう」


「どういうこと?」


「貴族の子どもだからと近づき、甘い言葉をささやく者です」


「僕、あまりお金を持ってないよ」


「金だけではありません。権利、土地、許可、身分。領主が持つものは多いのです」


「難しいね」


「だから、すぐに署名をしないこと」


「分かりました」


「文字を読まずに印を押すなど、絶対になさらないように」


「ちゃんと読みます」


「読んでも分からなければ?」


「ノエルさんに聞く」


 少し離れたところで聞いていたノエルが、慌てて顔を上げた。


「灰境到着までは、お手伝いします!」


「到着した後は?」


「現地の書記を探してください!」


 ヴィオラは、最後までどこか面白がっているようだった。


「灰境に着いたら、魔物をきれいにして見せてね」


「捕まえられたら」


「本気でやろうとしないでよ?」


「でも、汚れてたら気になるでしょう?」


「知らないわよ!」


 ユリウスが咳き込む。


 今回も笑いを隠したらしい。


「兄上」


 アルフレッドが近づく。


「地図、持ったよ」


「落とすな」


「使うための物だから、汚れてもいいんでしょう?」


「なくすなと言っている」


「分かってる」


「それと」


 ユリウスは周囲へ聞こえないよう、声を落とした。


「川沿いを見ろ」


 セルマのことだ。


 アルフレッドも小さく頷く。


「ガルドさんに相談してみる」


「焦るな。信頼できると思ってから話せ」


「うん」


「銀の鍵も見せるな」


「どうして?」


「母上の遺品だと知られれば、誰かが欲しがるかもしれない」


「普通の鍵じゃないから?」


「それもある」


 ユリウスは、ほんのわずかに言い淀んだ。


「母上――マリエル様が隠していた物なら、理由があるはずだ」


「兄上も、母さんのことを調べてくれる?」


「気が向けばな」


「ありがとう」


「まだ何もすると言っていない」


「でも、してくれそうだから」


「勝手に決めるな」


 ユリウスは視線を逸らした。


「帰ってきたときに、聞く」


「……ああ」


 今度の返事は、昨日より少しだけ早かった。



「出発するぞ!」


 ガルドの声が中庭へ響いた。


 これ以上、別れを引き延ばすつもりはないらしい。


「アルフレッド!」


「はい!」


「一号車へ乗れ!」


 アルフレッドは家族へ、もう一度深く頭を下げた。


「行ってまいります」


 そして背を向ける。


 そのとき。


 使用人たちの列の中から、リタが大きな声を上げた。


「アルフレッド様!」


 アルフレッドが振り返る。


「どうか、お元気で!」


 侍女長オルガが、たしなめるような目を向ける。


 けれどリタは黙らなかった。


「お帰りを、お待ちしております!」


 帰ってくるなと望む者がいる。


 帰ってくることを待つ者もいる。


 アルフレッドは驚いたように目を見開き、それから笑った。


「うん!」


「リタも元気で!」


 厨房のマルグリットが、エプロンの端で目元を拭う。


 庭師が帽子を取る。


 馬丁が深く頭を下げる。


 声にはしない。


 それでも、使用人たちの中には、アルフレッドを本気で見送る者がいた。


 アルフレッドは一号車の御者台へ乗り込んだ。


 隣には荷車係のベンが座っている。


 陽気そうな丸顔の男で、アルフレッドへ軽く手を上げた。


「落ちるなよ、領主様」


「気をつけます」


「俺の名前はベンだ。旅の飯も担当する」


「料理人なんですか?」


「荷車係だ」


「飯も作るの?」


「旅じゃ一人で一つの仕事だけやってられねえ」


 昨日、ガルドが話していたことに似ている。


 一つの道具が、幾つもの仕事をする。


 人も同じなのかもしれない。


「料理、教えてください」


「食える保証はしねえぞ」


「食べられない料理を作るの?」


「食えるが、美味いとは言ってねえ」


「難しいんだね」


「お前さん、変なところで真面目だな」


 ベンが笑う。


 アルフレッドも笑った。


「第七開拓隊!」


 ガルドが馬上で剣を掲げる。


「灰境へ向け、出発!」


「了解!」


 先頭の馬が歩き出す。


 続いて、一号車の車輪がゆっくりと回転した。


 石畳の上を、重い音を立てながら進んでいく。


 二号車。


 三号車。


 護衛たち。


 大きな一団が、男爵邸の正門へ向かう。


 アルフレッドは、御者台から屋敷を見上げた。


 十二年間暮らした家。


 母と過ごした部屋。


 セルマと歩いた廊下。


 リタを手伝った床。


 兄姉たちと食事をした大広間。


 よい思い出ばかりではない。


 けれど、すべて嫌いだったわけでもなかった。


 門をくぐる直前。


 アルフレッドは胸元の銀飾りを握った。


「行ってきます」


 誰へ向けた言葉なのか、自分でも分からない。


 母へ。


 家族へ。


 使用人たちへ。


 あるいは、もうここにいないセルマへ。


 重い正門を越える。


 男爵邸が、少しずつ遠ざかっていく。


 振り返れば、まだ見える。


 けれど、アルフレッドは前へ向き直った。


 街道の先。


 北東の空。


 そのさらに遠くに、灰境がある。


 そしてどこかの道を、セルマも同じ場所へ向かっている。


「待っててね」


 アルフレッドは小さく呟いた。


「僕も、今から行くから」



 その頃。


 男爵領の北東に広がる森。


 昨夜、森狼の群れと遭遇した場所には、折れた枝と血の跡が残されていた。


 一頭の森狼が、地面へ倒れている。


 死んではいない。


 後ろ脚に浅い傷を負い、低い声で唸っていた。


 ほかの狼たちは、すでに森の奥へ退いている。


 大木の根元へ、セルマが座り込んでいた。


 外套の左肩が裂けている。


 頬には、新しい切り傷。


 短剣の刃にも、黒い血が付着していた。


 激しく息を切らしながら、それでも残された右目は鋭く周囲を見ている。


 森狼を倒したわけではない。


 一頭へ傷を負わせ、群れの警戒心を煽り、どうにか退かせただけだ。


 まともに戦えば、勝てなかった。


 片腕と片目を失った現在の身体では、以前のように剣を振るうことなどできない。


「……弱く、なりましたね」


 自嘲するような呟き。


 左手が、わずかに震えている。


 それでも短剣を拭い、鞘へ戻す。


 立ち上がろうとした瞬間、首輪が赤く光った。


「――っ!」


 焼けるような痛みが首筋から全身へ走り、セルマは再び膝をついた。


 所有者から離れすぎたことを罰する奴隷術式。


 距離が広がるほど、痛みは強くなる。


 このまま男爵領を離れれば、術式がさらに強く反応する可能性がある。


 最悪の場合、命を奪うことも。


 セルマは首輪へ左手を掛けた。


 外そうとしても、魔術で固定されている。


 物理的に切れば、術式が発動する。


 自分だけでは、どうすることもできない。


 だが。


 地下倉庫で、アルフレッドの《清掃》が固定術式を消した。


 あの力なら、この首輪も外せるかもしれない。


「アル様のもとへ……」


 行かなければならない。


 首輪を外してもらうためではない。


 約束したからだ。


 セルマは木の幹へ手をつき、ゆっくりと立ち上がった。


 その耳が、遠くの音を捉える。


 街道の方向。


 幾つもの車輪。


 馬の蹄。


 開拓隊が、屋敷を出発したのだ。


 アルフレッドが灰境へ向かい始めた。


「……行ってらっしゃいませ」


 森の中からは、姿を見ることもできない。


 それでもセルマは、音のする方向へ静かに頭を下げた。


「どうか、先へ」


 追いつく。


 必ず。


 たとえ同じ道を歩けなくても。


 同じ馬車へ乗れなくても。


 目指す場所は同じなのだから。


 セルマは傷ついた足を引きずりながら、再び北東へ歩き始めた。



 開拓隊の荷馬車は、朝日に照らされた街道を進んでいた。


 屋敷の塔が小さくなり、やがて木々の向こうへ消えていく。


 アルフレッドは、それを見届けてから前を向いた。


「坊主!」


 先頭からガルドの声が飛ぶ。


「景色ばかり見てるな! まずは馬車から落ちねえ座り方を覚えろ!」


「座り方?」


「足をぶらつかせるな! 揺れたら身体ごと持っていかれるぞ!」


「こう?」


「背筋を固めるな! 揺れに合わせろ!」


「難しい!」


「だから今、覚えるんだ!」


 ベンが横で笑う。


「領主様、旅の最初の仕事だ」


「座ることが?」


「落ちねえことだ」


 アルフレッドは真剣に御者台へ座り直した。


 身体を固くしすぎず。


 足を踏み板へ置き。


 車輪の揺れに合わせる。


 最初は何度も左右へ傾いた。


 そのたびにベンが襟をつかみ、引き戻す。


「危ない!」


「だから教えてる!」


 開拓隊の笑い声が、街道へ響いた。


 こうして。


 男爵家から捨てられた四男の旅は始まった。


 剣も知らない。


 統治も知らない。


 馬車へ上手に座ることすらできない。


 けれど少年には、二つのスキルと、一つの約束があった。


 汚れたものを、きれいにする力。


 壊れたものを、直す力。


 そして――


 誰かが帰ってこられる場所を作るという約束。


 それだけを胸に。


 アルフレッド・ロナ・ヨーレリヒトは、生まれて初めて、本家の領地を後にした。



第7話 追放の日 了

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