最後の夜
第一章 灰境への道 第二編 旅立ち 第6話 最後の夜
前書き
いつもと同じ部屋。
いつもと同じ窓。
いつもと同じ夜。
けれど、
明日にはそこを離れると知っただけで、
すべてが少し違って見えるものです。
⸻
ヨーレリヒト男爵邸で過ごす、最後の夜。
アルフレッドは自室の床へ座り込み、荷物を前に腕を組んでいた。
「……少ない」
服が三着。
予備の靴。
毛布。
食器。
裁縫道具。
植物百科。
魔物図鑑。
建築入門。
そして、ガルドとノエルの許可を得て加えた一冊の昔話集。
母マリエルの銀飾りと、正体不明の銀の鍵。
セルマのために用意した小さな布袋。
雑巾が三枚。
縄。
小さな鍋。
これだけだった。
昨日までは、部屋の中にある物の多くを持っていこうとしていた。
壊れた椅子。
形のきれいな石。
読み切れないほどの本。
母が使っていた古い小箱。
しかし荷馬車の積載量には限りがある。
ガルドからは、自分で使えない物や、現地で代用できる物を持っていくなと言われた。
「旅とは、家をそのまま運ぶことではない」
ユリウスの言葉を思い出す。
そのとおりなのだろう。
それでも、十二年間暮らした部屋から、わずかな荷物だけを選び出すのは不思議な気分だった。
ほかの物は、ここへ残される。
机も。
椅子も。
本棚も。
窓辺の鉢植えも。
自分がいなくなった後、この部屋がどうなるのかは分からない。
誰か別の人が使うのか。
物置になるのか。
それとも、母の部屋と同じように閉ざされるのか。
「戻ってくるかもしれないのにね」
アルフレッドは、誰もいない部屋で呟いた。
だが、自分が本当にこの屋敷へ戻ってくる姿を、うまく想像できなかった。
灰境へ行く。
領主になる。
そこに暮らしているかもしれない人々と出会う。
家や井戸を直す。
セルマが来るのを待つ。
今のアルフレッドに見えているのは、そこまでだった。
何年後に戻るのか。
そもそも帰ることを許されるのか。
考えたこともなかった。
「アルフレッド」
扉の外から声がした。
「入ってもいいか」
「兄上?」
アルフレッドが立ち上がり、扉を開ける。
廊下に立っていたのはユリウスだった。
いつもどおり片腕に本を抱えている。
もう片方の手には、細長い革製の筒を持っていた。
「どうしたの?」
「忘れ物だ」
「兄上の?」
「お前のだ」
ユリウスは部屋へ入ると、革筒を机の上へ置いた。
蓋を外し、中から丸めた羊皮紙を取り出す。
広げられたのは、王国北東部の地図だった。
アルフレッドがこれまで見ていた物よりも新しく、街道や川、宿場などが細かく記されている。
「これ、持っていっていいの?」
「僕の手描きだ」
「兄上が描いたの?」
「王立学院の地図と、開拓局が公開している街道記録を写した」
羊皮紙には、ヨーレリヒト男爵領から灰境までの道筋が示されていた。
途中には、小さな印が幾つもある。
「この丸は?」
「宿場や村だ」
「三角は?」
「険しい峠や、崩落が報告された場所」
「この黒い印は?」
「近年、魔物の被害が確認された地域だ」
地図の北東へ進むほど、黒い印が増えている。
灰境の周囲は、黒い点と線に囲まれていた。
「……本当に魔物が多いんだね」
「怖くなったか」
「少し」
「なら、危険な場所を覚えておけ。怖がることと、何も考えずに近づくことは違う」
アルフレッドは地図をじっと見た。
「セルマも、この道を通ると思う?」
「分からない」
ユリウスは即答した。
「逃亡者が街道を堂々と歩くとは考えにくい。森を抜けるか、村を避けるかもしれない」
「そうだよね」
「だが、灰境を目指すなら、どこかでこの道へ近づくはずだ」
ユリウスの指が、街道に沿って流れる一本の川をなぞる。
「水が必要になる。森の中だけを進み続けることは難しい」
「じゃあ、川の近くを見れば――」
「勝手に隊から離れるな」
先回りするように釘を刺された。
「まだ何も言ってないよ」
「顔に書いてある」
「どこ?」
「全部だ」
ユリウスは呆れたように言った。
「開拓隊の隊長へ相談しろ。だが、セルマが逃亡奴隷であることを最初からすべて明かす必要はない」
「嘘をつくの?」
「嘘をつけとは言っていない」
「じゃあ、どう言えばいい?」
ユリウスは少し考えた。
「大切な使用人が、自分を追って灰境へ向かった可能性がある。道中で見かけたら助けてほしい。それだけでいい」
「追っ手のことは?」
「確かな証拠がない」
「でも、兄上も見たんでしょう?」
「僕が見たのは、母上の私兵が屋敷を出たところだけだ。セルマを殺すためだとは証明できない」
「難しいね」
「世の中は、正しいと思ったことを言えば、すべて信じてもらえるほど単純ではない」
アルフレッドは、少し寂しそうに地図へ目を落とした。
「でも、何も言わないよりはいいよね」
「ああ」
「明日、ガルドさんに相談してみる」
「相手を見て話せ。ガルド・ヴァイスは本家の者ではない」
「兄上は知ってるの?」
「王国開拓局の記録を読んだ」
「いつの間に?」
「昨日の夜だ」
「兄上、寝てないんじゃない?」
「二時間は寝た」
「少ないよ」
「お前に心配される覚えはない」
「でも――」
「話を戻すぞ」
ユリウスはわずかに声を強めた。
アルフレッドは口を閉じる。
「ガルド・ヴァイスは、三十年以上、開拓局の現場にいる。貴族の命令より、任務規定を優先する人物だという」
「いい人?」
「記録から人柄までは分からない」
「今日、少し笑ってくれたよ」
「なら、お前が判断しろ」
「僕が?」
「明日から一緒に旅をするのはお前だ」
その言葉に、アルフレッドは少しだけ目を見開いた。
これまで何かを決めるときは、家族や使用人の指示へ従うことが多かった。
だが明日からは違う。
誰を信じるか。
誰へ何を話すか。
自分で考えなくてはならない。
「分かった」
アルフレッドは地図を丁寧に丸め、革筒へ戻した。
「大切にする」
「紙だ。使わなければ意味がない」
「汚してもいいの?」
「地図は、飾るための物ではない」
「破れたら?」
「お前には《修繕》があるだろう」
「あ、そうだった」
ユリウスは、ほんの少しだけ笑った。
アルフレッドもつられて笑う。
「兄上」
「何だ」
「ありがとう」
「地図の礼なら、灰境へ到着してから言え」
「じゃあ、帰ってきたときに言う」
ユリウスの表情がわずかに固まった。
だが、今度は言葉を濁さなかった。
「……ああ」
短い返事。
「戻ってきたら聞いてやる」
⸻
その頃。
男爵邸の西棟にある私室で、アーデルハイトは一通の報告書を読んでいた。
目の前には、黒い外套をまとった男が片膝をついている。
顔の半分を布で隠し、腰には細身の剣を下げていた。
「見失った?」
アーデルハイトの声は穏やかだった。
けれど、その場にいる者を凍らせるような冷たさがある。
「雨で足跡が消えました。森へ入ったことは間違いありませんが、その先が」
「片腕と片目を失った奴隷一人を?」
「ダークエルフです。森へ入られれば、人間より追跡に長けております」
「言い訳は求めていません」
「……申し訳ございません」
男はさらに頭を下げた。
アーデルハイトは報告書を机へ置く。
「開拓局が来た以上、これ以上本家の兵を大きく動かすわけにはいきません」
「では、追跡を中止いたしますか」
「いいえ」
即答だった。
「あの奴隷は、マリエル様の秘密を知っている可能性があります」
「秘密?」
「あなたが知る必要はありません」
アーデルハイトは、紅茶のカップへ手を伸ばす。
「街道沿いの宿場と奴隷商へ、特徴を伝えなさい。片腕。片目。銀髪のダークエルフ。首輪にはヨーレリヒト家の所有紋」
「捕縛した場合は?」
「こちらへ連れ戻す必要はありません」
黒衣の男が顔を上げる。
「奴隷商へ引き渡し、大陸南部へ送らせなさい。アルフレッドと再会できない場所なら、どこでも構いません」
「抵抗した場合は?」
アーデルハイトは微笑んだ。
「生きている必要はありません」
蝋燭の炎が揺れる。
「ただし、開拓局の目につく場所で騒ぎを起こしてはなりません」
「承知しました」
「それから、レオニスへはまだ何も伝えないように」
男の目がわずかに動く。
「若様には?」
「あの子は、余計なことを考えますから」
「ですが、アルフレッド様が灰境へ向かわれると知れば――」
「知られる前に、すべて終わらせます」
アーデルハイトの表情は、慈愛に満ちた母親のように穏やかだった。
「レオニスには、まだ私の望む騎士でいてもらわなければなりません」
黒衣の男は深く頭を下げ、音もなく部屋から消えた。
アーデルハイトは一人になると、窓の外へ目を向ける。
中庭には、王国開拓局の青い旗が見える。
明日の朝。
アルフレッドは、この屋敷を去る。
追放は成功する。
そう考えるだけで、長年胸へ刺さっていた小さな棘が抜けるようだった。
「灰境で、幸せにお暮らしなさい」
優しい声で呟く。
「生きていられる間は」
⸻
夜が深まる頃。
男爵邸の中庭では、第七開拓隊の者たちが最後の打ち合わせを行っていた。
中央に置かれた簡易机へ地図を広げ、ガルドが隊員たちを見回す。
「出発は日の出と同時だ」
書記官ノエル。
衛生兵マルク。
測量と車両整備を担うヘルマン。
若い護衛士エリック。
そのほか三名の護衛と、二名の荷車係。
全員の視線がガルドへ集まる。
「最初の二日は本街道を北東へ進む。三日目、ラント村で食料と水を補充。その先から旧北東街道だ」
「橋の崩落地点は?」
ノエルが尋ねる。
「現地を見る。小規模なら直す。無理なら南へ迂回だ」
「予定より三日ほど延びます」
「日程より命だ」
ガルドは即答した。
「護衛交代は、これまでどおり四時間ごと。男爵領内だからって気を抜くな。魔物より人間のほうが面倒なこともある」
「新任領主の扱いは?」
エリックが少し迷いながら尋ねた。
「貴族の子弟へ、どこまで訓練を課してよいのでしょう」
「荷物は自分で持たせろ。食器も自分で洗わせる。馬車が止まれば降りて歩かせる」
「十二歳ですよ?」
「十二歳だからだ」
ガルドは腕を組んだ。
「灰境へ着けば、俺たちは帰る。そこで『一人じゃ何もできません』じゃ、領民全員が死ぬ」
「ですが、男爵家から苦情が来ませんか」
ノエルが眼鏡を押し上げた。
「来たら俺が受ける」
「また局長に怒られますよ」
「いつものことだ」
「いつものことにしないでください」
隊員たちから笑いが起きる。
ガルドは口元を緩めながらも、すぐに真顔へ戻った。
「ただし、無茶はさせるな。坊主ができねえことは教える。危険なことは止める。笑ってもいいが、馬鹿にはするな」
「隊長は、アルフレッド様を随分と気に入られたようですね」
ノエルが言う。
「まだ気に入ってねえ」
「雑巾を認めたではありませんか」
「あれは道具として使えるからだ」
「昔話の本も」
「お前が認めたんだろうが」
「長編を勧めたのは隊長です」
「あれは適当だ」
また笑いが起きた。
ガルドは鬱陶しそうに手を振る。
「とにかく、油断するな。灰境へ向かう開拓領主を送り届けるのは、今回が初めてじゃねえ」
隊員たちの笑いが止まる。
「だが、あそこはほかの開拓地とは違う。現在の人口すら分からねえ。道も死にかけてる。魔物の分布も古いままだ」
「前回の調査隊は?」
エリックが尋ねる。
「十四年前。五人のうち、戻ったのは一人だけだ」
空気が重くなる。
「戻った者も、まともに話せる状態じゃなかった」
「原因は魔物ですか?」
「分からねえ」
「分からない?」
「『森が道を食った』と、それだけ繰り返していた」
誰も言葉を返せなかった。
ガルドは地図に記された灰境を見た。
「だから、現地へ着くまでは何も決めつけるな。魔物が出たと聞いても、最初から魔物の仕業だと思うな。道が壊れていても、自然に壊れたとは限らねえ」
「何かいると?」
「分からねえから、見に行くんだ」
開拓局の仕事は、領主を運ぶことだけではない。
人が暮らせる土地なのか。
街道を維持できるのか。
王国から支援を送る価値があるのか。
その目で確かめ、記録する。
「明日は長い旅の初日だ。今夜は寝ろ」
「了解!」
隊員たちはそれぞれの天幕へ戻っていった。
最後まで残ったノエルが、地図を片づけながらガルドを見る。
「十四年前の話を、あの少年へ伝えますか?」
「今はまだいい」
「知らないまま連れていくのですか」
「怖がらせるだけの情報は、知識とは言わねえ」
ガルドは屋敷の窓を見上げた。
二階の一室に、まだ明かりが灯っている。
アルフレッドの部屋だろう。
「まずは歩き方を教える」
「歩き方?」
「あの坊主は、他人のことばかり見て、自分の足元を見落としそうだからな」
ガルドは小さく鼻を鳴らし、自分の天幕へ戻った。
⸻
同じ夜。
アルフレッドは、自室のベッドへ入っていた。
けれど、眠ることができない。
目を閉じると、さまざまなものが浮かぶ。
授紋石に現れた《清掃》と《修繕》。
家族の笑い声。
地下倉庫に鎖でつながれたセルマ。
暗い森を一人で歩く彼女。
今日出会ったガルドと、開拓局の人々。
そして、まだ一度も見たことのない灰境。
明日の朝、この屋敷を出る。
胸の奥が落ち着かない。
楽しみなのか。
怖いのか。
悲しいのか。
自分でもよく分からなかった。
アルフレッドはベッドから起き上がり、窓を開けた。
冷たい夜風が部屋へ入る。
中庭の天幕は、すでに静まり返っていた。
遠くに見える正門。
セルマも、あそこから屋敷を出たのだろうか。
「セルマ」
呼んでも、届かない。
それでも言わずにはいられなかった。
「明日、僕も行くよ」
灰境へ。
約束の場所へ。
「ちゃんと待てる場所を作るから」
壊れていれば直す。
汚れていればきれいにする。
何もなければ、最初から作る。
言葉にするのは簡単だった。
実際には、何から始めればよいのかも分からない。
だが、分からないことは教えてもらえばいい。
できないことは、できる人へ頼めばいい。
そして、自分にできることは、自分でやる。
アルフレッドは窓を閉じ、荷物のそばへ歩いた。
小さな布袋を取り出す。
セルマのための裁縫道具。
その隣へ、ユリウスから受け取った地図を置く。
「忘れ物は、ないよね」
何度も確認した。
それでも最後に、部屋の中を見回す。
その視線が、机の端で止まった。
小さな鉢植え。
亡き母と一緒に植えた白い花だった。
持っていくことはできない。
灰境までの長い旅に耐えられないだろう。
アルフレッドは鉢の前へしゃがみ込んだ。
「ごめんね。連れていけないんだ」
葉へ軽く触れる。
「誰かに水をあげてもらわないと」
明日の朝、リタへ頼もう。
そう考えたとき。
花の根元に、小さな紙片が差し込まれていることに気づいた。
「……何だろう?」
引き抜いて広げる。
短い文章が書かれていた。
見覚えのある、少し角張った字。
アル様へ。
花の水やりは、リタへお願いしました。
灰境へ鉢をお持ちになろうとなさらないでください。
必ず、お待ちください。
セルマ
アルフレッドは、何度も文字を読み返した。
セルマは、屋敷を出る前にこの部屋へ来たのだ。
自分が花を心配することまで分かっていた。
そして、約束を残してくれた。
「持っていこうとしてたの、分かったんだ……」
小さく笑う。
しかし次第に、視界が滲んだ。
笑われたときにも。
灰境へ送られると告げられたときにも。
セルマの同行を拒まれたときにも。
泣かなかった。
それなのに、たった数行の手紙を読んだだけで、涙がこぼれた。
「ずるいよ」
アルフレッドは、手の甲で目元を拭った。
「先にいなくなったのに……」
返事を書くことはできない。
どこへ届ければいいか分からない。
だから紙片を丁寧に折り、母の銀飾りと一緒に胸元へしまった。
「分かった」
誰もいない部屋で頷く。
「灰境で待ってる」
今度は、声が震えなかった。
アルフレッドはベッドへ戻り、目を閉じた。
明日になれば、ここを離れる。
セルマとの再会がいつになるのかは分からない。
灰境へ無事に着ける保証もない。
それでも。
少年は初めて、自分の意思で進む先を決めていた。
追い出されるから行くのではない。
誰かが待っている場所を作るために行く。
その違いが、いつか彼の人生を大きく変えることになる。
⸻
屋敷の鐘が、深夜を告げた。
アルフレッドが眠りについた頃。
男爵領から遠く離れた森では、セルマが大木の根元へ身を寄せていた。
左手には短剣。
首輪の術式が、淡く赤い光を放っている。
焼けるような痛みに耐えながら、彼女は北東の空を見た。
「明日ですね」
アルフレッドが出発する日を、正確に覚えていた。
「どうか、ご無事で」
セルマは目を閉じる。
眠るためではない。
近づいてくる気配へ、意識を集中するためだった。
湿った地面を踏む音。
低い唸り声。
暗闇の中で、幾つもの黄色い目が開く。
森狼。
一頭ではない。
セルマは静かに立ち上がった。
片腕。
片目。
満足に動かない左足。
使える武器は、短剣一本。
それでも、その瞳に諦めはなかった。
「退いてください」
森狼たちへ向け、低く告げる。
「私は、約束を果たさなければなりません」
次の瞬間。
夜の森へ、獣の咆哮が響き渡った。
⸻
第6話 最後の夜 了




