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男爵家四男の辺境開拓記 ~不遇スキル《修繕》と《清掃》で、みんなの帰る場所を作ります~  作者: 和泉發仙
第一章 灰境への道

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王国開拓局がやって来ました


前書き


知らない場所へ向かうとき、


必要なのは、


勇気だけではありません。


道を知る人。


荷物を運ぶ人。


怪我を治す人。


壊れた車輪を直す人。


多くの人の力が重なって、


初めて旅は始まるのです。




⸻


 アルフレッドが灰境行きを告げられてから、二日目の朝。


 ヨーレリヒト男爵邸の正門前に、見慣れない旗を掲げた一団が現れた。


 青地に描かれているのは、金色の羅針盤と交差する鍬。


 軍旗ではない。


 貴族家の紋章でもない。


 王国開拓局の旗だった。


「門を開けろ!」


 門番の声が響く。


 重い鉄門が左右へ開いていく。


 先頭を進むのは、黒鹿毛の大きな馬。


 その背には、白髪交じりの短髪をした男が乗っていた。


 日に焼けた顔。


 右頬を斜めに走る古い傷。


 分厚い外套の下には、使い込まれた革鎧。


 腰へ下げているのは、華美な装飾のない幅広の剣だった。


 年齢は六十を越えているはずだが、背筋は真っ直ぐに伸びている。


 男に続き、二台の幌馬車と一台の荷馬車が門をくぐった。


 幌馬車の脇には、同じ意匠の外套をまとった護衛が四人。


 荷馬車には食料、水樽、工具、予備の車輪、天幕などが隙間なく積み込まれている。


 そして最後尾には、荷車の状態を確認しながら歩く数人の職員が続いていた。


「王国開拓局、第七開拓隊!」


 先頭の男が馬を止め、門番へ革張りの証書を差し出した。


「隊長、ガルド・ヴァイスだ。ヨーレリヒト男爵家より申請された開拓領主の護送、および灰境開拓地の現況確認任務に参った」


 門番は証書へ目を通すと、慌てて姿勢を正した。


「お待ちしておりました! ただいま当主様へお知らせいたします!」


「その前に、馬へ水を頼む。ここまで休ませてねえ」


「は、はい!」


 門番が駆けていく。


 ガルドは馬から軽々と飛び降りた。


 地面へ降りた瞬間、身体の大きさが一層際立つ。


 背丈も肩幅も、周囲の若い護衛たちより一回り大きい。


「隊長」


 幌馬車から、一人の青年が降りてきた。


 年齢は二十代半ば。


 茶色い髪をきっちりと分け、細い銀縁眼鏡をかけている。


 両腕には、今にも崩れそうな量の書類筒を抱えていた。


「現地到着までの予定を、もう一度男爵家側と確認する必要があります」


「ノエル」


「はい?」


「まず、その紙を落とすな」


「落としません」


「昨日、川へ落とした」


「あれは風です」


「一昨日は泥へ落とした」


「あれは馬車の揺れです」


「三日前は焚き火へ落としかけた」


「あれは隊長が急に呼んだからでしょう!」


「全部お前の不注意じゃねえか」


「違います!」


 二人の会話を聞いていた職員たちから、慣れた笑い声が起きる。


 軍隊のように張り詰めた一団ではない。


 それぞれが冗談を交わしながらも、馬具の状態や荷物の固定を確認する手は止めていなかった。


「エリック、護衛の交代表を確認しろ」


「はい!」


「マルク、馬の脚を見てやれ」


「今やってる」


「ヘルマンは荷車だ」


「言われなくても分かっとるわい」


 荷車の下から、太い声が返ってくる。


 ガルドはそれぞれの動きを見回し、満足そうに頷いた。


 そこへ、執事長と数人の使用人が中庭から出てきた。


「王国開拓局の皆様、お待ちしておりました。当家当主が応接室でお待ちです」


「分かった。ノエル」


「はい」


「書類を持って来い」


「そのために抱えております」


「落とすなよ」


「落としません!」


 ガルドとノエルは、執事長の案内で屋敷へ向かった。


 残された隊員たちは慣れた様子で作業を続ける。


 その光景を、二階の窓からアルフレッドがじっと見つめていた。


「すごい……」


 青い旗。


 見たことのない形の工具。


 同じ制服を着ているのに、それぞれが違う仕事をしている人々。


 護衛だけではない。


 馬の脚を確認する者。


 車輪を叩き、音を聞く者。


 地面へ簡単な測量器を立てる者。


 荷物の数を書き留める者。


 まるで一つの大きな生き物のように、一団全体が淀みなく動いていた。


「王国開拓局……」


 アルフレッドは、昨日ユリウスから聞いた言葉を口にした。


 自分を灰境まで送り届ける、王国の機関。


 本家の兵士とは違う。


 灰境への道を知る者たち。


 もしかすると、セルマの痕跡を見つける手助けをしてくれるかもしれない。


 期待に胸が動く。


 だが同時に、ユリウスの忠告も思い出した。


 事情をすべて話せば、アーデルハイトと正面から争うことになる。


 初対面の人々が、自分の話を信じてくれるとも限らない。


「まずは、ちゃんと話を聞かないと」


 アルフレッドは自分へ言い聞かせた。


 焦って失敗すれば、セルマを助けられない。


 出発まで、まだ一日ある。


 何ができるのか。


 何を頼めるのか。


 それを考えるためにも、まず相手を知る必要があった。


 アルフレッドは窓から離れ、応接室へ向かった。


⸻


 ヨーレリヒト男爵邸の応接室。


 中央の長机を挟み、ヴォルフラムとアーデルハイトが並んで座っていた。


 その向かい側に、ガルドとノエルが腰を下ろしている。


 机の上には、何枚もの地図と書類が広げられていた。


「灰境まで、何日を見ている」


 ヴォルフラムが尋ねる。


「順調なら十二日」


 ガルドが答えた。


「ただし、北東街道の状況次第では十五日以上かかる」


「馬車で十日ほどではなかったのですか?」


 アーデルハイトが微笑みながら口を挟む。


「昔の街道が生きてりゃ、な」


 ガルドは地図の一点を太い指でなぞった。


「ここ三年で、北東部は魔物の出没が増えている。街道の二か所が崩れ、古い橋も一本落ちた。迂回路を使う可能性が高い」


「開拓局が、道を整備しているはずでは?」


「使う者がいない道へ、無限に人も金も出せるわけじゃねえ」


 ガルドの言葉は率直だった。


 相手が男爵夫妻であっても、過度にへりくだる様子はない。


「灰境へ正式な領主が入るとなれば、今後の整備計画も立てられる。だが、それは現地を確認してからだ」


「現地の人口は、六十八名と記録されています」


 ノエルが書類へ目を落とす。


「ただし、この名簿は二十七年前に作成されたものです。その後、本家へ届いた記録には欠落が多く、現在の正確な人口は不明です」


「二十七年前……」


 扉の前まで来ていたアルフレッドは、その言葉に足を止めた。


 昨日、古い記録だとは聞いていた。


 だが、自分が生まれるよりもはるかに前の記録だとは思っていなかった。


「入れ」


 ヴォルフラムが、扉の外にいるアルフレッドへ声をかけた。


 気配に気づいていたらしい。


「失礼します」


 アルフレッドは扉を開け、室内へ入った。


 ガルドとノエルの視線が、一斉に向けられる。


 アルフレッドは少し緊張しながら、丁寧に頭を下げた。


「アルフレッド・ロナ・ヨーレリヒトです。灰境まで、よろしくお願いします」


 ノエルが固まった。


 眼鏡の奥の目が、何度か瞬く。


「……この方が?」


「ああ」


 ヴォルフラムが短く答える。


「灰境の新任開拓領主、アルフレッドだ」


 ノエルは手元の書類を確認した。


 名前。


 年齢。


 十二歳。


 記載どおりだった。


 それでも実際に目の前へ現れた少年は、想像よりずっと幼く見える。


 ガルドは椅子へ座ったまま、アルフレッドをじっと見つめていた。


 銀灰色の髪。


 淡い青色の瞳。


 兄から譲られたらしい、少し古い服。


 貴族の子どもにしては薄い手のひら。


 しかし爪の間には、わずかに黒い汚れが残っていた。


「坊主」


「はい」


「本当に、お前が行くのか?」


「はい」


「灰境がどんな場所か、聞いているか?」


「山と森に囲まれていて、魔物が多くて、街道も壊れているそうです」


「ほかには?」


「今、何人住んでいるか分からないと聞きました」


「怖くねえのか?」


 アルフレッドは少し考えた。


「怖いです」


 素直な答えだった。


 ノエルが意外そうに目を上げる。


「ですが、行くことは決まっています」


「決まってりゃ、何でもするのか?」


「何でもは、できないと思います」


「なら、どうする」


「できることを探します」


 ガルドの片眉が上がる。


「できないことは?」


「できる人に教えてもらいます」


 その答えを聞き、ノエルはヴォルフラムへ一瞬だけ視線を向けた。


 貴族の子どもが、これほど自然に「教えてもらう」と口にすることは珍しい。


「灰境の人たちにもか?」


 ガルドが尋ねる。


「はい。その土地のことは、住んでいる人のほうが知っているでしょう?」


「領主が民に頭を下げるのか」


 昨日、レオンハルトからも聞かれた問いだった。


 アルフレッドは首を傾げる。


「教えてもらうときは、頭を下げたほうがいいんじゃないですか?」


 ガルドが黙る。


 ノエルは眼鏡の位置を直しながら、口元を手で隠した。


 笑いを堪えたらしい。


「変なこと言いました?」


「いや」


 ガルドは椅子の背へ身体を預けた。


「変わった坊主だと思っただけだ」


「よく言われます」


「そうだろうな」


 その口元に、ごく薄い笑みが浮かんだ。


 ヴォルフラムが咳払いする。


「アルフレッド。明日の朝、開拓隊と共に出発する」


「はい」


「本日中に荷物の確認を受けろ。持ち込みを認める量については、開拓局の指示に従うこと」


「分かりました」


「同行する使用人は?」


 ノエルが書類を確認しながら尋ねた。


 アルフレッドの肩が、わずかに揺れた。


 アーデルハイトが先に答える。


「現在、適任者がおりませんので、同行させません」


「領主本人のみ?」


「開拓局の皆様がいらっしゃるのであれば、道中の世話に問題はないでしょう」


「我々は護送と現地確認を担いますが、貴族付きの使用人ではありません」


 ノエルの口調は丁寧だった。


 しかし指摘は明確だった。


「身の回りのことは、原則としてご本人に行っていただきます」


「アルフレッドなら問題ありません」


 アーデルハイトは微笑む。


「使用人たちの仕事を手伝うことが、昔から好きな子ですから」


 その言葉に含まれた棘を、ノエルがどう受け取ったのかは分からない。


 ガルドは、アルフレッドの爪に残る汚れをもう一度見た。


「自分の服は畳めるか?」


「きれいには畳めません」


「火は起こせるか?」


「やったことがありません」


「馬の世話は?」


「人参をあげたことならあります」


「料理は?」


「パンを切れます」


「それは料理とは言わねえ」


「やっぱり?」


 アルフレッドは困ったように笑った。


 ガルドは大きく息を吐く。


「出発までに全部覚えるのは無理だな」


「はい」


「そこは少しくらい、できると言い張らねえのか」


「できないので」


「……正直なのは悪くねえ」


 ガルドは膝へ手を置き、立ち上がった。


「荷物を見せろ」


「今からですか?」


「今からだ。お前が何を持って行こうとしてるか確認する」


「分かりました」


 アルフレッドは応接室を出ようとした。


 その背へ、アーデルハイトが声をかける。


「アルフレッド」


「はい」


「開拓局の皆様へ、ご迷惑をかけないようになさい」


「分かりました」


 少年は素直に頷き、ガルドたちを自室へ案内した。


 扉が閉じた後。


 アーデルハイトの微笑みが、ほんのわずかに薄くなった。


「随分と、あの子へ興味を持たれたようですね」


「ガルド・ヴァイスは、開拓局でも古株だ」


 ヴォルフラムが答える。


「送り届けた開拓領主は、五十人を超えると聞く」


「そのうち、何人が成功したのでしょう」


「さあな」


 アーデルハイトは窓の外へ目を向けた。


 中庭では、第七開拓隊の職員たちが荷車を整備している。


 王国の役人が屋敷へ入ったことで、セルマへの追跡を公然と強めることは難しくなった。


 逃亡奴隷一人のために、大勢の兵を動かせば不自然に映る。


「早く見つかるとよいのですが」


「何の話だ」


「いいえ」


 アーデルハイトは、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。


「何でもございません」


⸻


 アルフレッドの部屋へ入ったガルドとノエルは、床に並べられた荷物を見て、しばらく無言になった。


 ユリウスと選別した後なので、それほど多くはない。


 服が三着。


 予備の靴。


 毛布。


 食器。


 裁縫道具。


 本が三冊。


 母の銀飾り。


 銀の鍵。


 セルマのために用意した布袋。


 そして――。


「坊主」


「はい」


「これは何だ」


 ガルドは、机の下から飛び出している木の脚を指差した。


「椅子です」


「見りゃ分かる」


 脚の一本が折れた、古い木製の椅子だった。


「置いていくよう言われなかったか?」


「言われました」


「なぜ、まだある」


「最後に一度だけ、お願いしてみようかと」


「誰に?」


「ガルドさんに」


「初対面の俺なら許すと思ったのか?」


「少しくらいは」


「置いていけ」


「はい」


 あまりにも素直に引き下がったため、ガルドのほうが少し拍子抜けした。


「反論しねえのか」


「必要ないなら、仕方ないです」


「必要だと思ってたんじゃねえのか?」


「僕はそう思ったけど、ガルドさんは旅に詳しいから」


「俺が間違ってるかもしれねえぞ」


「そのときは、途中で考え直します」


 ガルドはアルフレッドを見た。


 意地がないわけではない。


 考えがないわけでもない。


 ただ、自分より知識のある者の意見を、素直に受け入れられる。


 貴族の子どもとしては珍しい性質だった。


「これは?」


 ノエルが小さな布袋を手に取る。


「裁縫道具です」


「こちらにも同じ物がありますが」


「それは、セルマの分です」


「セルマ?」


「……僕の使用人です。後から灰境へ来る予定なので」


 アーデルハイトの説明では、同行する使用人はいないという話だった。


 ノエルは一瞬だけガルドを見る。


 ガルドも視線を返したが、その場では何も尋ねなかった。


「来るかどうか分からない者の荷物を運ぶ余裕はない」


 厳しい言葉を口にしながらも、ガルドは布袋を床へ戻した。


「ただ、それくらいなら自分の鞄へ入れろ」


「いいんですか?」


「小せえからな」


「ありがとうございます!」


「礼を言うほどじゃねえ」


 アルフレッドは嬉しそうに布袋を自分の荷物へ入れた。


「本は三冊か」


 ノエルが確認する。


「植物百科、魔物図鑑、建築入門。悪くない選択です」


「兄上が選んでくれました」


「昔話の本を持っていこうとして、止められました」


「旅の途中で読む余裕は、あまりないでしょうね」


「やっぱり?」


「ですが、持っていくなら一冊程度は構いません」


 アルフレッドの表情が明るくなる。


「本当ですか?」


「重量に余裕があれば」


「ノエル」


 ガルドが低く呼ぶ。


「何です?」


「甘やかすな」


「本一冊ですよ」


「一冊を認めると、二冊目を隠す奴がいる」


「アルフレッド様は、そのようなことをなさるようには見えませんが」


「貴族の坊ちゃんを、信用しすぎるな」


 ガルドはそう言いながら、アルフレッドの机の引き出しを開けた。


 中から、薄い昔話の本が二冊出てくる。


 ノエルが沈黙した。


 アルフレッドは気まずそうに視線を逸らす。


「……二冊目を入れようとは思ってなかったよ」


「一冊目は?」


「少しだけ」


「ほら見ろ」


 ガルドが笑う。


 ノエルは眼鏡の位置を直した。


「一冊だけです」


「はい!」


「ただし、自分の鞄へ入るものに限ります」


 アルフレッドは二冊を見比べ、真剣な顔で悩み始めた。


「選ぶのに時間がかかりそうですね」


「放っとけ。先にほかを見るぞ」


 ガルドは荷物の脇に置かれた縄を持ち上げる。


「これは残せ」


「何に使いますか?」


「荷物を縛る。人を引き上げる。馬をつなぐ。崖を下りる。橋の応急処置にも使える」


「一つで、そんなに?」


「旅で役に立つ道具ってのは、一つで幾つも仕事をする物だ」


 アルフレッドは何度も頷いた。


「鍋も?」


「煮る。湯を沸かす。水を運ぶ。雨漏りを受ける。小せえ魔物なら叩ける」


「武器にもなるんだ」


「最後の手段だ」


「雑巾は?」


「……何枚ある」


「三枚です」


「なぜ持っていく」


「掃除するから」


「どこを」


「途中で汚れてる場所があったら」


「旅の途中は、だいたい全部汚れてる」


「じゃあ必要ですね」


「そういう意味じゃねえ」


 ノエルが思わず吹き出した。


 ガルドが睨む。


「笑うな」


「申し訳ありません」


「笑ってるじゃねえか」


「アルフレッド様の言うことにも、一理あります」


「雑巾三枚の何に一理がある」


 アルフレッドが指を折り始める。


「掃除。怪我をしたときに巻く。鍋を持つ。雨漏りをふさぐ。物を包む」


「……」


「五つです」


 ガルドは数秒黙った。


「残せ」


「やった」


「ただし、清潔な物と汚れた物を分けろ。傷へ使う布で鍋を拭くな」


「分かりました!」


 アルフレッドは、雑巾を大切そうに畳み直す。


 ガルドはその姿を見ながら、鼻から小さく息を吐いた。


「隊長」


 ノエルが、小声で話しかける。


「どうです?」


「何がだ」


「今回の開拓領主です」


「まだ会ったばかりだ」


「今までの方々とは、少し違うように見えます」


 ガルドは答えず、荷物の確認を続けた。


 だが視線の先には、昔話の本を一冊に絞ろうと真剣に悩むアルフレッドの姿があった。


 これまで、ガルドは何人もの開拓領主を指定地まで送り届けてきた。


 家督争いに敗れた者。


 借金を抱えた者。


 本家から厄介払いされた者。


 理想だけを語り、現実を知らない若者。


 現地へ着く前から領民を見下していた貴族。


 灰境のような危険地帯へ送られる者に、ろくな準備がされていないことも珍しくない。


 今回も、おそらく同じだと思っていた。


 十二歳の子ども。


 《清掃》と《修繕》という、貴族社会では価値が低いとされるスキル。


 荒れ果てた土地へ送り出される四男。


 長くはもたない。


 そう判断する材料なら、いくらでもある。


 しかし――。


「ガルドさん」


「何だ」


「この二冊なら、どっちが旅向きだと思いますか?」


「どっちも昔話だろうが」


「こっちは短い話がたくさん入ってます。こっちは一つの長い冒険です」


「好きなほうを選べ」


「迷うなあ」


「そこは人に聞かねえのか」


「好きなものは、自分で決めたほうがいいでしょう?」


 ガルドは、わずかに目を細めた。


 人の意見を聞く。


 けれど、自分で選ぶべきことまで他人へ預けるわけではない。


「……長いほうにしろ」


「どうして?」


「灰境までの道も長い」


「なるほど」


「今のは適当に言った」


「えぇ?」


 ノエルがまた笑った。


 アルフレッドも、少し遅れて笑う。


 その笑い声が聞こえたのか、廊下を通った使用人たちが不思議そうに部屋の中を覗いた。


 男爵家の四男が灰境へ送られる。


 屋敷の者たちにとって、それは笑える話ではない。


 けれど本人は、新しく出会ったばかりの開拓隊長と、昔話の本を選びながら笑っている。


「よし」


 ガルドが立ち上がった。


「大きな問題はねえ。明日の朝、日の出と同時に出る」


「はい」


「寝坊するな」


「分かりました」


「出発前に飯を食え。緊張して食えねえなんて言うなよ」


「パンなら食べられます」


「パン以外も食え」


「努力します」


「食事に努力が必要なのか」


 ガルドは呆れたように言い、扉へ向かった。


 その背中へ、アルフレッドが声をかける。


「ガルドさん」


「何だ」


「灰境まで、よろしくお願いします」


 改めて、少年は深く頭を下げた。


 ガルドは立ち止まり、半分だけ振り返る。


「俺たちの仕事は、お前を灰境へ運ぶことじゃねえ」


「え?」


「生きたまま、立たせたまま、領民の前まで連れていくことだ」


 低く、力強い声だった。


「途中で泣こうが、吐こうが、逃げたくなろうが構わねえ。だが、自分の足で灰境へ入れ」


「はい」


「いい返事だ」


 ガルドは今度こそ部屋を出ていった。


 ノエルも一礼し、その後へ続く。


 廊下へ出てから、ノエルが小声で尋ねた。


「気に入りましたか?」


「何がだ」


「あの少年です」


「雑巾を三枚持っていく変な坊主だ」


「否定はしません」


「まだ期待するな」


 ガルドは階段を下りながら答えた。


「開拓ってのは、人のいい奴から死ぬこともある」


「……はい」


「優しいだけじゃ、土地も人も守れねえ」


 それは、何人もの失敗を見てきた者の言葉だった。


「だが」


 ガルドは、そこで一度だけ足を止めた。


「教えたことを聞く耳はありそうだ」


「それは、かなり高い評価では?」


「うるせえ」


 彼は再び歩き始めた。


⸻


 夕方。


 アルフレッドは窓辺に立ち、屋敷の中庭を見下ろしていた。


 第七開拓隊の者たちは、明日の出発へ向けて天幕を張り、荷馬車の最終点検を行っている。


 ガルド。


 ノエル。


 ほかの職員たち。


 明日から共に旅をする人々。


 新しい出会いに、わずかな期待を感じる。


 だが、心の大半を占めているのはセルマのことだった。


 開拓隊の前で、すべてを話すことはできなかった。


 セルマが逃亡奴隷として追われていると知られれば、彼らも王国法に従って捕らえようとするかもしれない。


 けれど何も伝えなければ、街道で近くを通り過ぎても気づけない。


「どうしたらいいんだろう」


 アルフレッドは、ポケットから銀の鍵を取り出した。


 《修繕》によって本来の姿を取り戻した、母の鍵。


 地下倉庫の錠前を開けた、不思議な鍵。


 ユリウスは、普通の鍵ではないと言っていた。


「母さんなら、どうする?」


 問いかけても、答えは返らない。


 銀の鍵が、夕日を反射して小さく光るだけだった。


 そのとき。


 机の上に置いていた布袋が、目に入った。


 セルマのための裁縫道具。


 必ず来ると約束した人のために、持っていく荷物。


 アルフレッドは、それを手に取った。


「約束したもんね」


 自分は先に灰境へ行く。


 セルマが来られる場所を作る。


 今は、それを守るしかない。


 けれど、ただ待つだけではない。


 道中で彼女の痕跡を探す。


 森や街道のことをガルドたちから学ぶ。


 自分にできることを一つずつ増やす。


「できることを探す」


 応接室でガルドへ答えた言葉を、もう一度口にする。


 明日。


 この屋敷を出る。


 十二年間暮らしてきた場所を離れ、まだ見たことのない灰境へ向かう。


 それは本家が望んだ追放だった。


 けれどアルフレッドにとっては――。


 セルマと再会するため。


 そして、顔も知らない領民たちと出会うための、最初の旅でもあった。


⸻


第5話 王国開拓局がやって来ました 了

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