王国開拓局がやって来ました
前書き
知らない場所へ向かうとき、
必要なのは、
勇気だけではありません。
道を知る人。
荷物を運ぶ人。
怪我を治す人。
壊れた車輪を直す人。
多くの人の力が重なって、
初めて旅は始まるのです。
⸻
アルフレッドが灰境行きを告げられてから、二日目の朝。
ヨーレリヒト男爵邸の正門前に、見慣れない旗を掲げた一団が現れた。
青地に描かれているのは、金色の羅針盤と交差する鍬。
軍旗ではない。
貴族家の紋章でもない。
王国開拓局の旗だった。
「門を開けろ!」
門番の声が響く。
重い鉄門が左右へ開いていく。
先頭を進むのは、黒鹿毛の大きな馬。
その背には、白髪交じりの短髪をした男が乗っていた。
日に焼けた顔。
右頬を斜めに走る古い傷。
分厚い外套の下には、使い込まれた革鎧。
腰へ下げているのは、華美な装飾のない幅広の剣だった。
年齢は六十を越えているはずだが、背筋は真っ直ぐに伸びている。
男に続き、二台の幌馬車と一台の荷馬車が門をくぐった。
幌馬車の脇には、同じ意匠の外套をまとった護衛が四人。
荷馬車には食料、水樽、工具、予備の車輪、天幕などが隙間なく積み込まれている。
そして最後尾には、荷車の状態を確認しながら歩く数人の職員が続いていた。
「王国開拓局、第七開拓隊!」
先頭の男が馬を止め、門番へ革張りの証書を差し出した。
「隊長、ガルド・ヴァイスだ。ヨーレリヒト男爵家より申請された開拓領主の護送、および灰境開拓地の現況確認任務に参った」
門番は証書へ目を通すと、慌てて姿勢を正した。
「お待ちしておりました! ただいま当主様へお知らせいたします!」
「その前に、馬へ水を頼む。ここまで休ませてねえ」
「は、はい!」
門番が駆けていく。
ガルドは馬から軽々と飛び降りた。
地面へ降りた瞬間、身体の大きさが一層際立つ。
背丈も肩幅も、周囲の若い護衛たちより一回り大きい。
「隊長」
幌馬車から、一人の青年が降りてきた。
年齢は二十代半ば。
茶色い髪をきっちりと分け、細い銀縁眼鏡をかけている。
両腕には、今にも崩れそうな量の書類筒を抱えていた。
「現地到着までの予定を、もう一度男爵家側と確認する必要があります」
「ノエル」
「はい?」
「まず、その紙を落とすな」
「落としません」
「昨日、川へ落とした」
「あれは風です」
「一昨日は泥へ落とした」
「あれは馬車の揺れです」
「三日前は焚き火へ落としかけた」
「あれは隊長が急に呼んだからでしょう!」
「全部お前の不注意じゃねえか」
「違います!」
二人の会話を聞いていた職員たちから、慣れた笑い声が起きる。
軍隊のように張り詰めた一団ではない。
それぞれが冗談を交わしながらも、馬具の状態や荷物の固定を確認する手は止めていなかった。
「エリック、護衛の交代表を確認しろ」
「はい!」
「マルク、馬の脚を見てやれ」
「今やってる」
「ヘルマンは荷車だ」
「言われなくても分かっとるわい」
荷車の下から、太い声が返ってくる。
ガルドはそれぞれの動きを見回し、満足そうに頷いた。
そこへ、執事長と数人の使用人が中庭から出てきた。
「王国開拓局の皆様、お待ちしておりました。当家当主が応接室でお待ちです」
「分かった。ノエル」
「はい」
「書類を持って来い」
「そのために抱えております」
「落とすなよ」
「落としません!」
ガルドとノエルは、執事長の案内で屋敷へ向かった。
残された隊員たちは慣れた様子で作業を続ける。
その光景を、二階の窓からアルフレッドがじっと見つめていた。
「すごい……」
青い旗。
見たことのない形の工具。
同じ制服を着ているのに、それぞれが違う仕事をしている人々。
護衛だけではない。
馬の脚を確認する者。
車輪を叩き、音を聞く者。
地面へ簡単な測量器を立てる者。
荷物の数を書き留める者。
まるで一つの大きな生き物のように、一団全体が淀みなく動いていた。
「王国開拓局……」
アルフレッドは、昨日ユリウスから聞いた言葉を口にした。
自分を灰境まで送り届ける、王国の機関。
本家の兵士とは違う。
灰境への道を知る者たち。
もしかすると、セルマの痕跡を見つける手助けをしてくれるかもしれない。
期待に胸が動く。
だが同時に、ユリウスの忠告も思い出した。
事情をすべて話せば、アーデルハイトと正面から争うことになる。
初対面の人々が、自分の話を信じてくれるとも限らない。
「まずは、ちゃんと話を聞かないと」
アルフレッドは自分へ言い聞かせた。
焦って失敗すれば、セルマを助けられない。
出発まで、まだ一日ある。
何ができるのか。
何を頼めるのか。
それを考えるためにも、まず相手を知る必要があった。
アルフレッドは窓から離れ、応接室へ向かった。
⸻
ヨーレリヒト男爵邸の応接室。
中央の長机を挟み、ヴォルフラムとアーデルハイトが並んで座っていた。
その向かい側に、ガルドとノエルが腰を下ろしている。
机の上には、何枚もの地図と書類が広げられていた。
「灰境まで、何日を見ている」
ヴォルフラムが尋ねる。
「順調なら十二日」
ガルドが答えた。
「ただし、北東街道の状況次第では十五日以上かかる」
「馬車で十日ほどではなかったのですか?」
アーデルハイトが微笑みながら口を挟む。
「昔の街道が生きてりゃ、な」
ガルドは地図の一点を太い指でなぞった。
「ここ三年で、北東部は魔物の出没が増えている。街道の二か所が崩れ、古い橋も一本落ちた。迂回路を使う可能性が高い」
「開拓局が、道を整備しているはずでは?」
「使う者がいない道へ、無限に人も金も出せるわけじゃねえ」
ガルドの言葉は率直だった。
相手が男爵夫妻であっても、過度にへりくだる様子はない。
「灰境へ正式な領主が入るとなれば、今後の整備計画も立てられる。だが、それは現地を確認してからだ」
「現地の人口は、六十八名と記録されています」
ノエルが書類へ目を落とす。
「ただし、この名簿は二十七年前に作成されたものです。その後、本家へ届いた記録には欠落が多く、現在の正確な人口は不明です」
「二十七年前……」
扉の前まで来ていたアルフレッドは、その言葉に足を止めた。
昨日、古い記録だとは聞いていた。
だが、自分が生まれるよりもはるかに前の記録だとは思っていなかった。
「入れ」
ヴォルフラムが、扉の外にいるアルフレッドへ声をかけた。
気配に気づいていたらしい。
「失礼します」
アルフレッドは扉を開け、室内へ入った。
ガルドとノエルの視線が、一斉に向けられる。
アルフレッドは少し緊張しながら、丁寧に頭を下げた。
「アルフレッド・ロナ・ヨーレリヒトです。灰境まで、よろしくお願いします」
ノエルが固まった。
眼鏡の奥の目が、何度か瞬く。
「……この方が?」
「ああ」
ヴォルフラムが短く答える。
「灰境の新任開拓領主、アルフレッドだ」
ノエルは手元の書類を確認した。
名前。
年齢。
十二歳。
記載どおりだった。
それでも実際に目の前へ現れた少年は、想像よりずっと幼く見える。
ガルドは椅子へ座ったまま、アルフレッドをじっと見つめていた。
銀灰色の髪。
淡い青色の瞳。
兄から譲られたらしい、少し古い服。
貴族の子どもにしては薄い手のひら。
しかし爪の間には、わずかに黒い汚れが残っていた。
「坊主」
「はい」
「本当に、お前が行くのか?」
「はい」
「灰境がどんな場所か、聞いているか?」
「山と森に囲まれていて、魔物が多くて、街道も壊れているそうです」
「ほかには?」
「今、何人住んでいるか分からないと聞きました」
「怖くねえのか?」
アルフレッドは少し考えた。
「怖いです」
素直な答えだった。
ノエルが意外そうに目を上げる。
「ですが、行くことは決まっています」
「決まってりゃ、何でもするのか?」
「何でもは、できないと思います」
「なら、どうする」
「できることを探します」
ガルドの片眉が上がる。
「できないことは?」
「できる人に教えてもらいます」
その答えを聞き、ノエルはヴォルフラムへ一瞬だけ視線を向けた。
貴族の子どもが、これほど自然に「教えてもらう」と口にすることは珍しい。
「灰境の人たちにもか?」
ガルドが尋ねる。
「はい。その土地のことは、住んでいる人のほうが知っているでしょう?」
「領主が民に頭を下げるのか」
昨日、レオンハルトからも聞かれた問いだった。
アルフレッドは首を傾げる。
「教えてもらうときは、頭を下げたほうがいいんじゃないですか?」
ガルドが黙る。
ノエルは眼鏡の位置を直しながら、口元を手で隠した。
笑いを堪えたらしい。
「変なこと言いました?」
「いや」
ガルドは椅子の背へ身体を預けた。
「変わった坊主だと思っただけだ」
「よく言われます」
「そうだろうな」
その口元に、ごく薄い笑みが浮かんだ。
ヴォルフラムが咳払いする。
「アルフレッド。明日の朝、開拓隊と共に出発する」
「はい」
「本日中に荷物の確認を受けろ。持ち込みを認める量については、開拓局の指示に従うこと」
「分かりました」
「同行する使用人は?」
ノエルが書類を確認しながら尋ねた。
アルフレッドの肩が、わずかに揺れた。
アーデルハイトが先に答える。
「現在、適任者がおりませんので、同行させません」
「領主本人のみ?」
「開拓局の皆様がいらっしゃるのであれば、道中の世話に問題はないでしょう」
「我々は護送と現地確認を担いますが、貴族付きの使用人ではありません」
ノエルの口調は丁寧だった。
しかし指摘は明確だった。
「身の回りのことは、原則としてご本人に行っていただきます」
「アルフレッドなら問題ありません」
アーデルハイトは微笑む。
「使用人たちの仕事を手伝うことが、昔から好きな子ですから」
その言葉に含まれた棘を、ノエルがどう受け取ったのかは分からない。
ガルドは、アルフレッドの爪に残る汚れをもう一度見た。
「自分の服は畳めるか?」
「きれいには畳めません」
「火は起こせるか?」
「やったことがありません」
「馬の世話は?」
「人参をあげたことならあります」
「料理は?」
「パンを切れます」
「それは料理とは言わねえ」
「やっぱり?」
アルフレッドは困ったように笑った。
ガルドは大きく息を吐く。
「出発までに全部覚えるのは無理だな」
「はい」
「そこは少しくらい、できると言い張らねえのか」
「できないので」
「……正直なのは悪くねえ」
ガルドは膝へ手を置き、立ち上がった。
「荷物を見せろ」
「今からですか?」
「今からだ。お前が何を持って行こうとしてるか確認する」
「分かりました」
アルフレッドは応接室を出ようとした。
その背へ、アーデルハイトが声をかける。
「アルフレッド」
「はい」
「開拓局の皆様へ、ご迷惑をかけないようになさい」
「分かりました」
少年は素直に頷き、ガルドたちを自室へ案内した。
扉が閉じた後。
アーデルハイトの微笑みが、ほんのわずかに薄くなった。
「随分と、あの子へ興味を持たれたようですね」
「ガルド・ヴァイスは、開拓局でも古株だ」
ヴォルフラムが答える。
「送り届けた開拓領主は、五十人を超えると聞く」
「そのうち、何人が成功したのでしょう」
「さあな」
アーデルハイトは窓の外へ目を向けた。
中庭では、第七開拓隊の職員たちが荷車を整備している。
王国の役人が屋敷へ入ったことで、セルマへの追跡を公然と強めることは難しくなった。
逃亡奴隷一人のために、大勢の兵を動かせば不自然に映る。
「早く見つかるとよいのですが」
「何の話だ」
「いいえ」
アーデルハイトは、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「何でもございません」
⸻
アルフレッドの部屋へ入ったガルドとノエルは、床に並べられた荷物を見て、しばらく無言になった。
ユリウスと選別した後なので、それほど多くはない。
服が三着。
予備の靴。
毛布。
食器。
裁縫道具。
本が三冊。
母の銀飾り。
銀の鍵。
セルマのために用意した布袋。
そして――。
「坊主」
「はい」
「これは何だ」
ガルドは、机の下から飛び出している木の脚を指差した。
「椅子です」
「見りゃ分かる」
脚の一本が折れた、古い木製の椅子だった。
「置いていくよう言われなかったか?」
「言われました」
「なぜ、まだある」
「最後に一度だけ、お願いしてみようかと」
「誰に?」
「ガルドさんに」
「初対面の俺なら許すと思ったのか?」
「少しくらいは」
「置いていけ」
「はい」
あまりにも素直に引き下がったため、ガルドのほうが少し拍子抜けした。
「反論しねえのか」
「必要ないなら、仕方ないです」
「必要だと思ってたんじゃねえのか?」
「僕はそう思ったけど、ガルドさんは旅に詳しいから」
「俺が間違ってるかもしれねえぞ」
「そのときは、途中で考え直します」
ガルドはアルフレッドを見た。
意地がないわけではない。
考えがないわけでもない。
ただ、自分より知識のある者の意見を、素直に受け入れられる。
貴族の子どもとしては珍しい性質だった。
「これは?」
ノエルが小さな布袋を手に取る。
「裁縫道具です」
「こちらにも同じ物がありますが」
「それは、セルマの分です」
「セルマ?」
「……僕の使用人です。後から灰境へ来る予定なので」
アーデルハイトの説明では、同行する使用人はいないという話だった。
ノエルは一瞬だけガルドを見る。
ガルドも視線を返したが、その場では何も尋ねなかった。
「来るかどうか分からない者の荷物を運ぶ余裕はない」
厳しい言葉を口にしながらも、ガルドは布袋を床へ戻した。
「ただ、それくらいなら自分の鞄へ入れろ」
「いいんですか?」
「小せえからな」
「ありがとうございます!」
「礼を言うほどじゃねえ」
アルフレッドは嬉しそうに布袋を自分の荷物へ入れた。
「本は三冊か」
ノエルが確認する。
「植物百科、魔物図鑑、建築入門。悪くない選択です」
「兄上が選んでくれました」
「昔話の本を持っていこうとして、止められました」
「旅の途中で読む余裕は、あまりないでしょうね」
「やっぱり?」
「ですが、持っていくなら一冊程度は構いません」
アルフレッドの表情が明るくなる。
「本当ですか?」
「重量に余裕があれば」
「ノエル」
ガルドが低く呼ぶ。
「何です?」
「甘やかすな」
「本一冊ですよ」
「一冊を認めると、二冊目を隠す奴がいる」
「アルフレッド様は、そのようなことをなさるようには見えませんが」
「貴族の坊ちゃんを、信用しすぎるな」
ガルドはそう言いながら、アルフレッドの机の引き出しを開けた。
中から、薄い昔話の本が二冊出てくる。
ノエルが沈黙した。
アルフレッドは気まずそうに視線を逸らす。
「……二冊目を入れようとは思ってなかったよ」
「一冊目は?」
「少しだけ」
「ほら見ろ」
ガルドが笑う。
ノエルは眼鏡の位置を直した。
「一冊だけです」
「はい!」
「ただし、自分の鞄へ入るものに限ります」
アルフレッドは二冊を見比べ、真剣な顔で悩み始めた。
「選ぶのに時間がかかりそうですね」
「放っとけ。先にほかを見るぞ」
ガルドは荷物の脇に置かれた縄を持ち上げる。
「これは残せ」
「何に使いますか?」
「荷物を縛る。人を引き上げる。馬をつなぐ。崖を下りる。橋の応急処置にも使える」
「一つで、そんなに?」
「旅で役に立つ道具ってのは、一つで幾つも仕事をする物だ」
アルフレッドは何度も頷いた。
「鍋も?」
「煮る。湯を沸かす。水を運ぶ。雨漏りを受ける。小せえ魔物なら叩ける」
「武器にもなるんだ」
「最後の手段だ」
「雑巾は?」
「……何枚ある」
「三枚です」
「なぜ持っていく」
「掃除するから」
「どこを」
「途中で汚れてる場所があったら」
「旅の途中は、だいたい全部汚れてる」
「じゃあ必要ですね」
「そういう意味じゃねえ」
ノエルが思わず吹き出した。
ガルドが睨む。
「笑うな」
「申し訳ありません」
「笑ってるじゃねえか」
「アルフレッド様の言うことにも、一理あります」
「雑巾三枚の何に一理がある」
アルフレッドが指を折り始める。
「掃除。怪我をしたときに巻く。鍋を持つ。雨漏りをふさぐ。物を包む」
「……」
「五つです」
ガルドは数秒黙った。
「残せ」
「やった」
「ただし、清潔な物と汚れた物を分けろ。傷へ使う布で鍋を拭くな」
「分かりました!」
アルフレッドは、雑巾を大切そうに畳み直す。
ガルドはその姿を見ながら、鼻から小さく息を吐いた。
「隊長」
ノエルが、小声で話しかける。
「どうです?」
「何がだ」
「今回の開拓領主です」
「まだ会ったばかりだ」
「今までの方々とは、少し違うように見えます」
ガルドは答えず、荷物の確認を続けた。
だが視線の先には、昔話の本を一冊に絞ろうと真剣に悩むアルフレッドの姿があった。
これまで、ガルドは何人もの開拓領主を指定地まで送り届けてきた。
家督争いに敗れた者。
借金を抱えた者。
本家から厄介払いされた者。
理想だけを語り、現実を知らない若者。
現地へ着く前から領民を見下していた貴族。
灰境のような危険地帯へ送られる者に、ろくな準備がされていないことも珍しくない。
今回も、おそらく同じだと思っていた。
十二歳の子ども。
《清掃》と《修繕》という、貴族社会では価値が低いとされるスキル。
荒れ果てた土地へ送り出される四男。
長くはもたない。
そう判断する材料なら、いくらでもある。
しかし――。
「ガルドさん」
「何だ」
「この二冊なら、どっちが旅向きだと思いますか?」
「どっちも昔話だろうが」
「こっちは短い話がたくさん入ってます。こっちは一つの長い冒険です」
「好きなほうを選べ」
「迷うなあ」
「そこは人に聞かねえのか」
「好きなものは、自分で決めたほうがいいでしょう?」
ガルドは、わずかに目を細めた。
人の意見を聞く。
けれど、自分で選ぶべきことまで他人へ預けるわけではない。
「……長いほうにしろ」
「どうして?」
「灰境までの道も長い」
「なるほど」
「今のは適当に言った」
「えぇ?」
ノエルがまた笑った。
アルフレッドも、少し遅れて笑う。
その笑い声が聞こえたのか、廊下を通った使用人たちが不思議そうに部屋の中を覗いた。
男爵家の四男が灰境へ送られる。
屋敷の者たちにとって、それは笑える話ではない。
けれど本人は、新しく出会ったばかりの開拓隊長と、昔話の本を選びながら笑っている。
「よし」
ガルドが立ち上がった。
「大きな問題はねえ。明日の朝、日の出と同時に出る」
「はい」
「寝坊するな」
「分かりました」
「出発前に飯を食え。緊張して食えねえなんて言うなよ」
「パンなら食べられます」
「パン以外も食え」
「努力します」
「食事に努力が必要なのか」
ガルドは呆れたように言い、扉へ向かった。
その背中へ、アルフレッドが声をかける。
「ガルドさん」
「何だ」
「灰境まで、よろしくお願いします」
改めて、少年は深く頭を下げた。
ガルドは立ち止まり、半分だけ振り返る。
「俺たちの仕事は、お前を灰境へ運ぶことじゃねえ」
「え?」
「生きたまま、立たせたまま、領民の前まで連れていくことだ」
低く、力強い声だった。
「途中で泣こうが、吐こうが、逃げたくなろうが構わねえ。だが、自分の足で灰境へ入れ」
「はい」
「いい返事だ」
ガルドは今度こそ部屋を出ていった。
ノエルも一礼し、その後へ続く。
廊下へ出てから、ノエルが小声で尋ねた。
「気に入りましたか?」
「何がだ」
「あの少年です」
「雑巾を三枚持っていく変な坊主だ」
「否定はしません」
「まだ期待するな」
ガルドは階段を下りながら答えた。
「開拓ってのは、人のいい奴から死ぬこともある」
「……はい」
「優しいだけじゃ、土地も人も守れねえ」
それは、何人もの失敗を見てきた者の言葉だった。
「だが」
ガルドは、そこで一度だけ足を止めた。
「教えたことを聞く耳はありそうだ」
「それは、かなり高い評価では?」
「うるせえ」
彼は再び歩き始めた。
⸻
夕方。
アルフレッドは窓辺に立ち、屋敷の中庭を見下ろしていた。
第七開拓隊の者たちは、明日の出発へ向けて天幕を張り、荷馬車の最終点検を行っている。
ガルド。
ノエル。
ほかの職員たち。
明日から共に旅をする人々。
新しい出会いに、わずかな期待を感じる。
だが、心の大半を占めているのはセルマのことだった。
開拓隊の前で、すべてを話すことはできなかった。
セルマが逃亡奴隷として追われていると知られれば、彼らも王国法に従って捕らえようとするかもしれない。
けれど何も伝えなければ、街道で近くを通り過ぎても気づけない。
「どうしたらいいんだろう」
アルフレッドは、ポケットから銀の鍵を取り出した。
《修繕》によって本来の姿を取り戻した、母の鍵。
地下倉庫の錠前を開けた、不思議な鍵。
ユリウスは、普通の鍵ではないと言っていた。
「母さんなら、どうする?」
問いかけても、答えは返らない。
銀の鍵が、夕日を反射して小さく光るだけだった。
そのとき。
机の上に置いていた布袋が、目に入った。
セルマのための裁縫道具。
必ず来ると約束した人のために、持っていく荷物。
アルフレッドは、それを手に取った。
「約束したもんね」
自分は先に灰境へ行く。
セルマが来られる場所を作る。
今は、それを守るしかない。
けれど、ただ待つだけではない。
道中で彼女の痕跡を探す。
森や街道のことをガルドたちから学ぶ。
自分にできることを一つずつ増やす。
「できることを探す」
応接室でガルドへ答えた言葉を、もう一度口にする。
明日。
この屋敷を出る。
十二年間暮らしてきた場所を離れ、まだ見たことのない灰境へ向かう。
それは本家が望んだ追放だった。
けれどアルフレッドにとっては――。
セルマと再会するため。
そして、顔も知らない領民たちと出会うための、最初の旅でもあった。
⸻
第5話 王国開拓局がやって来ました 了




