↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
男爵家四男の辺境開拓記 ~不遇スキル《修繕》と《清掃》で、みんなの帰る場所を作ります~  作者: 和泉發仙
第一章 灰境への道

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/40

王国開拓局がやって来ました


前書き


知らない場所へ向かうとき、


必要なのは、


勇気だけではありません。


道を知る人。


荷物を運ぶ人。


怪我を治す人。


壊れた車輪を直す人。


多くの人の力が重なって、


初めて旅は始まるのです。





 アルフレッドが灰境行きを告げられてから、二日目の朝。


 ヨーレリヒト男爵邸の正門前に、見慣れない旗を掲げた一団が現れた。


 青地に描かれているのは、金色の羅針盤と交差する鍬。


 軍旗ではない。


 貴族家の紋章でもない。


 王国開拓局の旗だった。


「門を開けろ!」


 門番の声が響く。


 重い鉄門が左右へ開いていく。


 先頭を進むのは、黒鹿毛の大きな馬。


 その背には、白髪交じりの短髪をした男が乗っていた。


 日に焼けた顔。


 右頬を斜めに走る古い傷。


 分厚い外套の下には、使い込まれた革鎧。


 腰へ下げているのは、華美な装飾のない幅広の剣だった。


 年齢は六十を越えているはずだが、背筋は真っ直ぐに伸びている。


 男に続き、二台の幌馬車と一台の荷馬車が門をくぐった。


 幌馬車の脇には、同じ意匠の外套をまとった護衛が四人。


 荷馬車には食料、水樽、工具、予備の車輪、天幕などが隙間なく積み込まれている。


 そして最後尾には、荷車の状態を確認しながら歩く数人の職員が続いていた。


「王国開拓局、第七開拓隊!」


 先頭の男が馬を止め、門番へ革張りの証書を差し出した。


「隊長、ガルド・ヴァイスだ。ヨーレリヒト男爵家より申請された開拓領主の護送、および灰境開拓地の現況確認任務に参った」


 門番は証書へ目を通すと、慌てて姿勢を正した。


「お待ちしておりました! ただいま当主様へお知らせいたします!」


「その前に、馬へ水を頼む。ここまで休ませてねえ」


「は、はい!」


 門番が駆けていく。


 ガルドは馬から軽々と飛び降りた。


 地面へ降りた瞬間、身体の大きさが一層際立つ。


 背丈も肩幅も、周囲の若い護衛たちより一回り大きい。


「隊長」


 幌馬車から、一人の青年が降りてきた。


 年齢は二十代半ば。


 茶色い髪をきっちりと分け、細い銀縁眼鏡をかけている。


 両腕には、今にも崩れそうな量の書類筒を抱えていた。


「現地到着までの予定を、もう一度男爵家側と確認する必要があります」


「ノエル」


「はい?」


「まず、その紙を落とすな」


「落としません」


「昨日、川へ落とした」


「あれは風です」


「一昨日は泥へ落とした」


「あれは馬車の揺れです」


「三日前は焚き火へ落としかけた」


「あれは隊長が急に呼んだからでしょう!」


「全部お前の不注意じゃねえか」


「違います!」


 二人の会話を聞いていた職員たちから、慣れた笑い声が起きる。


 軍隊のように張り詰めた一団ではない。


 それぞれが冗談を交わしながらも、馬具の状態や荷物の固定を確認する手は止めていなかった。


「エリック、護衛の交代表を確認しろ」


「はい!」


「マルク、馬の脚を見てやれ」


「今やってる」


「ヘルマンは荷車だ」


「言われなくても分かっとるわい」


 荷車の下から、太い声が返ってくる。


 ガルドはそれぞれの動きを見回し、満足そうに頷いた。


 そこへ、執事長と数人の使用人が中庭から出てきた。


「王国開拓局の皆様、お待ちしておりました。当家当主が応接室でお待ちです」


「分かった。ノエル」


「はい」


「書類を持って来い」


「そのために抱えております」


「落とすなよ」


「落としません!」


 ガルドとノエルは、執事長の案内で屋敷へ向かった。


 残された隊員たちは慣れた様子で作業を続ける。


 その光景を、二階の窓からアルフレッドがじっと見つめていた。


「すごい……」


 青い旗。


 見たことのない形の工具。


 同じ制服を着ているのに、それぞれが違う仕事をしている人々。


 護衛だけではない。


 馬の脚を確認する者。


 車輪を叩き、音を聞く者。


 地面へ簡単な測量器を立てる者。


 荷物の数を書き留める者。


 まるで一つの大きな生き物のように、一団全体が淀みなく動いていた。


「王国開拓局……」


 アルフレッドは、昨日ユリウスから聞いた言葉を口にした。


 自分を灰境まで送り届ける、王国の機関。


 本家の兵士とは違う。


 灰境への道を知る者たち。


 もしかすると、セルマの痕跡を見つける手助けをしてくれるかもしれない。


 期待に胸が動く。


 だが同時に、ユリウスの忠告も思い出した。


 事情をすべて話せば、アーデルハイトと正面から争うことになる。


 初対面の人々が、自分の話を信じてくれるとも限らない。


「まずは、ちゃんと話を聞かないと」


 アルフレッドは自分へ言い聞かせた。


 焦って失敗すれば、セルマを助けられない。


 出発まで、まだ一日ある。


 何ができるのか。


 何を頼めるのか。


 それを考えるためにも、まず相手を知る必要があった。


 アルフレッドは窓から離れ、応接室へ向かった。



 ヨーレリヒト男爵邸の応接室。


 中央の長机を挟み、ヴォルフラムとアーデルハイトが並んで座っていた。


 その向かい側に、ガルドとノエルが腰を下ろしている。


 机の上には、何枚もの地図と書類が広げられていた。


「灰境まで、何日を見ている」


 ヴォルフラムが尋ねる。


「順調なら十二日」


 ガルドが答えた。


「ただし、北東街道の状況次第では十五日以上かかる」


「馬車で十日ほどではなかったのですか?」


 アーデルハイトが微笑みながら口を挟む。


「昔の街道が生きてりゃ、な」


 ガルドは地図の一点を太い指でなぞった。


「ここ三年で、北東部は魔物の出没が増えている。街道の二か所が崩れ、古い橋も一本落ちた。迂回路を使う可能性が高い」


「開拓局が、道を整備しているはずでは?」


「使う者がいない道へ、無限に人も金も出せるわけじゃねえ」


 ガルドの言葉は率直だった。


 相手が男爵夫妻であっても、過度にへりくだる様子はない。


「灰境へ正式な領主が入るとなれば、今後の整備計画も立てられる。だが、それは現地を確認してからだ」


「現地の人口は、六十八名と記録されています」


 ノエルが書類へ目を落とす。


「ただし、この名簿は二十七年前に作成されたものです。その後、本家へ届いた記録には欠落が多く、現在の正確な人口は不明です」


「二十七年前……」


 扉の前まで来ていたアルフレッドは、その言葉に足を止めた。


 昨日、古い記録だとは聞いていた。


 だが、自分が生まれるよりもはるかに前の記録だとは思っていなかった。


「入れ」


 ヴォルフラムが、扉の外にいるアルフレッドへ声をかけた。


 気配に気づいていたらしい。


「失礼します」


 アルフレッドは扉を開け、室内へ入った。


 ガルドとノエルの視線が、一斉に向けられる。


 アルフレッドは少し緊張しながら、丁寧に頭を下げた。


「アルフレッド・ロナ・ヨーレリヒトです。灰境まで、よろしくお願いします」


 ノエルが固まった。


 眼鏡の奥の目が、何度か瞬く。


「……この方が?」


「ああ」


 ヴォルフラムが短く答える。


「灰境の新任開拓領主、アルフレッドだ」


 ノエルは手元の書類を確認した。


 名前。


 年齢。


 十二歳。


 記載どおりだった。


 それでも実際に目の前へ現れた少年は、想像よりずっと幼く見える。


 ガルドは椅子へ座ったまま、アルフレッドをじっと見つめていた。


 銀灰色の髪。


 淡い青色の瞳。


 兄から譲られたらしい、少し古い服。


 貴族の子どもにしては薄い手のひら。


 しかし爪の間には、わずかに黒い汚れが残っていた。


「坊主」


「はい」


「本当に、お前が行くのか?」


「はい」


「灰境がどんな場所か、聞いているか?」


「山と森に囲まれていて、魔物が多くて、街道も壊れているそうです」


「ほかには?」


「今、何人住んでいるか分からないと聞きました」


「怖くねえのか?」


 アルフレッドは少し考えた。


「怖いです」


 素直な答えだった。


 ノエルが意外そうに目を上げる。


「ですが、行くことは決まっています」


「決まってりゃ、何でもするのか?」


「何でもは、できないと思います」


「なら、どうする」


「できることを探します」


 ガルドの片眉が上がる。


「できないことは?」


「できる人に教えてもらいます」


 その答えを聞き、ノエルはヴォルフラムへ一瞬だけ視線を向けた。


 貴族の子どもが、これほど自然に「教えてもらう」と口にすることは珍しい。


「灰境の人たちにもか?」


 ガルドが尋ねる。


「はい。その土地のことは、住んでいる人のほうが知っているでしょう?」


「領主が民に頭を下げるのか」


 昨日、レオンハルトからも聞かれた問いだった。


 アルフレッドは首を傾げる。


「教えてもらうときは、頭を下げたほうがいいんじゃないですか?」


 ガルドが黙る。


 ノエルは眼鏡の位置を直しながら、口元を手で隠した。


 笑いを堪えたらしい。


「変なこと言いました?」


「いや」


 ガルドは椅子の背へ身体を預けた。


「変わった坊主だと思っただけだ」


「よく言われます」


「そうだろうな」


 その口元に、ごく薄い笑みが浮かんだ。


 ヴォルフラムが咳払いする。


「アルフレッド。明日の朝、開拓隊と共に出発する」


「はい」


「本日中に荷物の確認を受けろ。持ち込みを認める量については、開拓局の指示に従うこと」


「分かりました」


「同行する使用人は?」


 ノエルが書類を確認しながら尋ねた。


 アルフレッドの肩が、わずかに揺れた。


 アーデルハイトが先に答える。


「現在、適任者がおりませんので、同行させません」


「領主本人のみ?」


「開拓局の皆様がいらっしゃるのであれば、道中の世話に問題はないでしょう」


「我々は護送と現地確認を担いますが、貴族付きの使用人ではありません」


 ノエルの口調は丁寧だった。


 しかし指摘は明確だった。


「身の回りのことは、原則としてご本人に行っていただきます」


「アルフレッドなら問題ありません」


 アーデルハイトは微笑む。


「使用人たちの仕事を手伝うことが、昔から好きな子ですから」


 その言葉に含まれた棘を、ノエルがどう受け取ったのかは分からない。


 ガルドは、アルフレッドの爪に残る汚れをもう一度見た。


「自分の服は畳めるか?」


「きれいには畳めません」


「火は起こせるか?」


「やったことがありません」


「馬の世話は?」


「人参をあげたことならあります」


「料理は?」


「パンを切れます」


「それは料理とは言わねえ」


「やっぱり?」


 アルフレッドは困ったように笑った。


 ガルドは大きく息を吐く。


「出発までに全部覚えるのは無理だな」


「はい」


「そこは少しくらい、できると言い張らねえのか」


「できないので」


「……正直なのは悪くねえ」


 ガルドは膝へ手を置き、立ち上がった。


「荷物を見せろ」


「今からですか?」


「今からだ。お前が何を持って行こうとしてるか確認する」


「分かりました」


 アルフレッドは応接室を出ようとした。


 その背へ、アーデルハイトが声をかける。


「アルフレッド」


「はい」


「開拓局の皆様へ、ご迷惑をかけないようになさい」


「分かりました」


 少年は素直に頷き、ガルドたちを自室へ案内した。


 扉が閉じた後。


 アーデルハイトの微笑みが、ほんのわずかに薄くなった。


「随分と、あの子へ興味を持たれたようですね」


「ガルド・ヴァイスは、開拓局でも古株だ」


 ヴォルフラムが答える。


「送り届けた開拓領主は、五十人を超えると聞く」


「そのうち、何人が成功したのでしょう」


「さあな」


 アーデルハイトは窓の外へ目を向けた。


 中庭では、第七開拓隊の職員たちが荷車を整備している。


 王国の役人が屋敷へ入ったことで、セルマへの追跡を公然と強めることは難しくなった。


 逃亡奴隷一人のために、大勢の兵を動かせば不自然に映る。


「早く見つかるとよいのですが」


「何の話だ」


「いいえ」


 アーデルハイトは、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。


「何でもございません」



 アルフレッドの部屋へ入ったガルドとノエルは、床に並べられた荷物を見て、しばらく無言になった。


 ユリウスと選別した後なので、それほど多くはない。


 服が三着。


 予備の靴。


 毛布。


 食器。


 裁縫道具。


 本が三冊。


 母の銀飾り。


 銀の鍵。


 セルマのために用意した布袋。


 そして――。


「坊主」


「はい」


「これは何だ」


 ガルドは、机の下から飛び出している木の脚を指差した。


「椅子です」


「見りゃ分かる」


 脚の一本が折れた、古い木製の椅子だった。


「置いていくよう言われなかったか?」


「言われました」


「なぜ、まだある」


「最後に一度だけ、お願いしてみようかと」


「誰に?」


「ガルドさんに」


「初対面の俺なら許すと思ったのか?」


「少しくらいは」


「置いていけ」


「はい」


 あまりにも素直に引き下がったため、ガルドのほうが少し拍子抜けした。


「反論しねえのか」


「必要ないなら、仕方ないです」


「必要だと思ってたんじゃねえのか?」


「僕はそう思ったけど、ガルドさんは旅に詳しいから」


「俺が間違ってるかもしれねえぞ」


「そのときは、途中で考え直します」


 ガルドはアルフレッドを見た。


 意地がないわけではない。


 考えがないわけでもない。


 ただ、自分より知識のある者の意見を、素直に受け入れられる。


 貴族の子どもとしては珍しい性質だった。


「これは?」


 ノエルが小さな布袋を手に取る。


「裁縫道具です」


「こちらにも同じ物がありますが」


「それは、セルマの分です」


「セルマ?」


「……僕の使用人です。後から灰境へ来る予定なので」


 アーデルハイトの説明では、同行する使用人はいないという話だった。


 ノエルは一瞬だけガルドを見る。


 ガルドも視線を返したが、その場では何も尋ねなかった。


「来るかどうか分からない者の荷物を運ぶ余裕はない」


 厳しい言葉を口にしながらも、ガルドは布袋を床へ戻した。


「ただ、それくらいなら自分の鞄へ入れろ」


「いいんですか?」


「小せえからな」


「ありがとうございます!」


「礼を言うほどじゃねえ」


 アルフレッドは嬉しそうに布袋を自分の荷物へ入れた。


「本は三冊か」


 ノエルが確認する。


「植物百科、魔物図鑑、建築入門。悪くない選択です」


「兄上が選んでくれました」


「昔話の本を持っていこうとして、止められました」


「旅の途中で読む余裕は、あまりないでしょうね」


「やっぱり?」


「ですが、持っていくなら一冊程度は構いません」


 アルフレッドの表情が明るくなる。


「本当ですか?」


「重量に余裕があれば」


「ノエル」


 ガルドが低く呼ぶ。


「何です?」


「甘やかすな」


「本一冊ですよ」


「一冊を認めると、二冊目を隠す奴がいる」


「アルフレッド様は、そのようなことをなさるようには見えませんが」


「貴族の坊ちゃんを、信用しすぎるな」


 ガルドはそう言いながら、アルフレッドの机の引き出しを開けた。


 中から、薄い昔話の本が二冊出てくる。


 ノエルが沈黙した。


 アルフレッドは気まずそうに視線を逸らす。


「……二冊目を入れようとは思ってなかったよ」


「一冊目は?」


「少しだけ」


「ほら見ろ」


 ガルドが笑う。


 ノエルは眼鏡の位置を直した。


「一冊だけです」


「はい!」


「ただし、自分の鞄へ入るものに限ります」


 アルフレッドは二冊を見比べ、真剣な顔で悩み始めた。


「選ぶのに時間がかかりそうですね」


「放っとけ。先にほかを見るぞ」


 ガルドは荷物の脇に置かれた縄を持ち上げる。


「これは残せ」


「何に使いますか?」


「荷物を縛る。人を引き上げる。馬をつなぐ。崖を下りる。橋の応急処置にも使える」


「一つで、そんなに?」


「旅で役に立つ道具ってのは、一つで幾つも仕事をする物だ」


 アルフレッドは何度も頷いた。


「鍋も?」


「煮る。湯を沸かす。水を運ぶ。雨漏りを受ける。小せえ魔物なら叩ける」


「武器にもなるんだ」


「最後の手段だ」


「雑巾は?」


「……何枚ある」


「三枚です」


「なぜ持っていく」


「掃除するから」


「どこを」


「途中で汚れてる場所があったら」


「旅の途中は、だいたい全部汚れてる」


「じゃあ必要ですね」


「そういう意味じゃねえ」


 ノエルが思わず吹き出した。


 ガルドが睨む。


「笑うな」


「申し訳ありません」


「笑ってるじゃねえか」


「アルフレッド様の言うことにも、一理あります」


「雑巾三枚の何に一理がある」


 アルフレッドが指を折り始める。


「掃除。怪我をしたときに巻く。鍋を持つ。雨漏りをふさぐ。物を包む」


「……」


「五つです」


 ガルドは数秒黙った。


「残せ」


「やった」


「ただし、清潔な物と汚れた物を分けろ。傷へ使う布で鍋を拭くな」


「分かりました!」


 アルフレッドは、雑巾を大切そうに畳み直す。


 ガルドはその姿を見ながら、鼻から小さく息を吐いた。


「隊長」


 ノエルが、小声で話しかける。


「どうです?」


「何がだ」


「今回の開拓領主です」


「まだ会ったばかりだ」


「今までの方々とは、少し違うように見えます」


 ガルドは答えず、荷物の確認を続けた。


 だが視線の先には、昔話の本を一冊に絞ろうと真剣に悩むアルフレッドの姿があった。


 これまで、ガルドは何人もの開拓領主を指定地まで送り届けてきた。


 家督争いに敗れた者。


 借金を抱えた者。


 本家から厄介払いされた者。


 理想だけを語り、現実を知らない若者。


 現地へ着く前から領民を見下していた貴族。


 灰境のような危険地帯へ送られる者に、ろくな準備がされていないことも珍しくない。


 今回も、おそらく同じだと思っていた。


 十二歳の子ども。


 《清掃》と《修繕》という、貴族社会では価値が低いとされるスキル。


 荒れ果てた土地へ送り出される四男。


 長くはもたない。


 そう判断する材料なら、いくらでもある。


 しかし――。


「ガルドさん」


「何だ」


「この二冊なら、どっちが旅向きだと思いますか?」


「どっちも昔話だろうが」


「こっちは短い話がたくさん入ってます。こっちは一つの長い冒険です」


「好きなほうを選べ」


「迷うなあ」


「そこは人に聞かねえのか」


「好きなものは、自分で決めたほうがいいでしょう?」


 ガルドは、わずかに目を細めた。


 人の意見を聞く。


 けれど、自分で選ぶべきことまで他人へ預けるわけではない。


「……長いほうにしろ」


「どうして?」


「灰境までの道も長い」


「なるほど」


「今のは適当に言った」


「えぇ?」


 ノエルがまた笑った。


 アルフレッドも、少し遅れて笑う。


 その笑い声が聞こえたのか、廊下を通った使用人たちが不思議そうに部屋の中を覗いた。


 男爵家の四男が灰境へ送られる。


 屋敷の者たちにとって、それは笑える話ではない。


 けれど本人は、新しく出会ったばかりの開拓隊長と、昔話の本を選びながら笑っている。


「よし」


 ガルドが立ち上がった。


「大きな問題はねえ。明日の朝、日の出と同時に出る」


「はい」


「寝坊するな」


「分かりました」


「出発前に飯を食え。緊張して食えねえなんて言うなよ」


「パンなら食べられます」


「パン以外も食え」


「努力します」


「食事に努力が必要なのか」


 ガルドは呆れたように言い、扉へ向かった。


 その背中へ、アルフレッドが声をかける。


「ガルドさん」


「何だ」


「灰境まで、よろしくお願いします」


 改めて、少年は深く頭を下げた。


 ガルドは立ち止まり、半分だけ振り返る。


「俺たちの仕事は、お前を灰境へ運ぶことじゃねえ」


「え?」


「生きたまま、立たせたまま、領民の前まで連れていくことだ」


 低く、力強い声だった。


「途中で泣こうが、吐こうが、逃げたくなろうが構わねえ。だが、自分の足で灰境へ入れ」


「はい」


「いい返事だ」


 ガルドは今度こそ部屋を出ていった。


 ノエルも一礼し、その後へ続く。


 廊下へ出てから、ノエルが小声で尋ねた。


「気に入りましたか?」


「何がだ」


「あの少年です」


「雑巾を三枚持っていく変な坊主だ」


「否定はしません」


「まだ期待するな」


 ガルドは階段を下りながら答えた。


「開拓ってのは、人のいい奴から死ぬこともある」


「……はい」


「優しいだけじゃ、土地も人も守れねえ」


 それは、何人もの失敗を見てきた者の言葉だった。


「だが」


 ガルドは、そこで一度だけ足を止めた。


「教えたことを聞く耳はありそうだ」


「それは、かなり高い評価では?」


「うるせえ」


 彼は再び歩き始めた。



 夕方。


 アルフレッドは窓辺に立ち、屋敷の中庭を見下ろしていた。


 第七開拓隊の者たちは、明日の出発へ向けて天幕を張り、荷馬車の最終点検を行っている。


 ガルド。


 ノエル。


 ほかの職員たち。


 明日から共に旅をする人々。


 新しい出会いに、わずかな期待を感じる。


 だが、心の大半を占めているのはセルマのことだった。


 開拓隊の前で、すべてを話すことはできなかった。


 セルマが逃亡奴隷として追われていると知られれば、彼らも王国法に従って捕らえようとするかもしれない。


 けれど何も伝えなければ、街道で近くを通り過ぎても気づけない。


「どうしたらいいんだろう」


 アルフレッドは、ポケットから銀の鍵を取り出した。


 《修繕》によって本来の姿を取り戻した、母の鍵。


 地下倉庫の錠前を開けた、不思議な鍵。


 ユリウスは、普通の鍵ではないと言っていた。


「母さんなら、どうする?」


 問いかけても、答えは返らない。


 銀の鍵が、夕日を反射して小さく光るだけだった。


 そのとき。


 机の上に置いていた布袋が、目に入った。


 セルマのための裁縫道具。


 必ず来ると約束した人のために、持っていく荷物。


 アルフレッドは、それを手に取った。


「約束したもんね」


 自分は先に灰境へ行く。


 セルマが来られる場所を作る。


 今は、それを守るしかない。


 けれど、ただ待つだけではない。


 道中で彼女の痕跡を探す。


 森や街道のことをガルドたちから学ぶ。


 自分にできることを一つずつ増やす。


「できることを探す」


 応接室でガルドへ答えた言葉を、もう一度口にする。


 明日。


 この屋敷を出る。


 十二年間暮らしてきた場所を離れ、まだ見たことのない灰境へ向かう。


 それは本家が望んだ追放だった。


 けれどアルフレッドにとっては――。


 セルマと再会するため。


 そして、顔も知らない領民たちと出会うための、最初の旅でもあった。



第5話 王国開拓局がやって来ました 了

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。