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男爵家四男の辺境開拓記 ~不遇スキル《修繕》と《清掃》で、みんなの帰る場所を作ります~  作者: 和泉發仙
第一章 灰境への道

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セルマがいなくなりました


第一章 灰境への道


第一編 捨てられた四男編


第4話 セルマがいなくなりました


前書き


約束を守る方法は、


一つとは限りません。


同じ道を歩くこと。


同じ場所で待つこと。


離れていても、


同じ場所を目指すこと。


それもまた、


約束を守るということなのです。



「セルマが、いない……?」


 夜が明けて間もない頃。


 アルフレッドは、使用人棟にある小さな部屋の前で立ち尽くしていた。


 扉は開いている。


 中には、狭い寝台と古い棚。


 片隅に置かれた木箱。


 普段セルマが使用している水差しと、簡素な食器。


 けれど、その部屋の主だけがいなかった。


「セルマ?」


 アルフレッドは、もう一度呼びかけた。


 当然、返事はない。


 昨夜。


 屋敷の裏手で、二人は約束を交わした。


 アルフレッドは先に灰境へ向かい、セルマが暮らせる場所を作る。


 セルマは必ず、後から灰境へ追いつく。


 あの後、セルマは一度使用人棟へ戻ったはずだった。


 アルフレッド自身も、父やアーデルハイトに見つからないよう、自分の部屋へ戻った。


 眠れないまま夜を過ごし、空が白み始めるのを待ってから、セルマの様子を見に来たのだ。


 しかし。


 寝台はきれいに整えられている。


 毛布には、誰かが眠った形跡がない。


 棚に置かれていた外套も、水筒も、短剣も消えていた。


 木箱の蓋がわずかに開いている。


 中には、古くなった使用人服が二着残されているだけだった。


「本当に……行ったんだ」


 アルフレッドは小さく呟いた。


 灰境へ行くために。


 自分との約束を果たすために。


 セルマは、たった一人で屋敷を出た。


 馬もない。


 旅費もない。


 片腕と片目を失った身体で。


 魔物の被害が増えているという街道へ向かった。


 昨夜は、約束してくれたことが嬉しかった。


 けれど朝になり、セルマの姿が本当に消えてしまったことで、初めてその危険が現実のものとして胸へ迫ってきた。


「一人で行くなんて……」


 自分が先に行けと言ったわけではない。


 むしろ一緒に行こうとした。


 それでも、セルマを残して部屋へ戻ったのは自分だ。


 もっと強く止めるべきだったのではないか。


 誰かに相談するべきだったのではないか。


 あるいは、自分も一緒に屋敷を抜け出すべきだったのではないか。


 次々と考えが浮かぶ。


 どれが正しかったのかは、分からない。


「アルフレッド様?」


 廊下から、若い侍女の声がした。


 振り返ると、洗濯物を抱えたリタが立っている。


「こんなに朝早く、どうされたのですか?」


「セルマを見なかった?」


「セルマさんですか?」


「うん。部屋にいないんだ」


 リタは少し驚いた顔をして、室内を覗き込んだ。


「朝のお仕事に出られたのでは?」


「外套も、水筒もなくなってる」


「それは……」


 リタの顔から、眠気が消えていく。


「荷物を持って、どこかへ行ったのかもしれない」


「ですが、セルマさんは奴隷です。許可なく屋敷の外へ出れば……」


 その先を、リタは言えなかった。


 逃亡奴隷。


 捕らえられれば、厳しい処罰を受ける。


 それくらいは、アルフレッドも知っていた。


「誰かが探しに行ってるかもしれない」


「アルフレッド様」


「僕も――」


 探しに行く。


 そう言いかけたとき。


 使用人棟の廊下へ、硬い足音が響いた。


「アルフレッド様」


 現れたのは、侍女長オルガだった。


 その後ろには、二人の兵士が従っている。


 昨夜、地下倉庫へ向かっていた者たちだ。


 オルガは開いた扉と、アルフレッドの顔を交互に見た。


「こちらで何をなさっているのですか」


「セルマを探しています」


「その必要はございません」


「どうして?」


「あの奴隷は、別の場所へ移されました」


 あまりにも平坦な声だった。


「別の場所?」


「はい」


「どこへ?」


「アルフレッド様がお知りになる必要はございません」


「でも、セルマは僕の世話を――」


「奥様のご命令です」


 その一言で、会話を終わらせるつもりらしい。


 だがアルフレッドは動かなかった。


「セルマは、昨夜ここへ戻ってきたんですか?」


「さあ。私は存じません」


「部屋から、旅の道具がなくなっています」


「別の職務へ必要だったのでしょう」


「どんな職務?」


「アルフレッド様」


 オルガの声が低くなる。


「使用人や奴隷の配置は、奥様がお決めになることです。お支度もございます。お部屋へお戻りください」


「セルマは無事なんですか?」


 オルガは、ほんの一瞬だけ黙った。


「無事です」


「どこにいるの?」


「申し上げられません」


「どうして?」


「奥様のご命令です」


 先ほどと同じ言葉。


 答えているようで、何も答えていない。


 アルフレッドはオルガの後ろに立つ兵士を見た。


 二人とも視線を合わせようとしない。


 昨夜、地下倉庫で何が起きたかを知っている者たちだ。


 ユリウスが残っていた。


 扉は開き、セルマは消えた。


 それなのに、今朝になっても何事もなかったように立っている。


「……分かりました」


 アルフレッドは小さく答えた。


「お部屋へ戻ります」


「そうなさってください」


 オルガはわずかに安堵したようだった。


 アルフレッドはリタへ目を向ける。


「仕事の邪魔をして、ごめんね」


「い、いえ……」


 そのまま使用人棟を出ていく。


 背後で、オルガが兵士たちへ低い声で何かを命じた。


 だがアルフレッドは振り返らなかった。


 素直に諦めたわけではない。


 昨夜の約束がある。


 セルマは必ず灰境へ来ると言った。


 そしてアルフレッドも、灰境で待つと約束した。


 ならば今、自分がすべきことは何か。


 焦って屋敷を飛び出し、何の準備もなくセルマを追うことなのか。


 それとも、約束どおり灰境へ行き、彼女を迎えられる場所を作ることなのか。


 まだ、答えは出なかった。



「勝手なことをしたな」


 自室へ戻る途中。


 廊下の窓辺に、ユリウスが立っていた。


 昨夜とは違い、すでに身なりを整えている。


 片手には、相変わらず分厚い本を抱えていた。


「兄上」


「部屋へ戻れと言われたのではないのか」


「戻ってる途中だよ」


「そうか」


 ユリウスは窓の外へ視線を向けた。


 朝靄の残る庭。


 門の向こうでは、早朝から数頭の馬が出入りしている。


 昨日までなら、何の疑問も持たなかった光景だろう。


 だが今のアルフレッドには、あれがセルマを追う者たちに思えてならなかった。


「兄上は、昨夜どうなったの?」


「長い説教を受けた」


「ごめんなさい」


「謝るくらいなら、最初から巻き込むな」


「でも、兄上が来てくれて助かったよ」


「反省しているようには聞こえないな」


「感謝してる」


「それと反省は別だ」


 ユリウスは呆れたように息を吐く。


「罰は?」


「朝食を抜かれた」


「それだけ?」


「一週間、北棟への立ち入りを禁じられた」


「もともと行かない場所でしょう?」


「そうだ」


「じゃあ、あまり困らないね」


「母上も、僕を強く罰する理由を公にできなかったのだろう」


 ユリウスは静かに言った。


「地下倉庫へ奴隷を無断で監禁していたと、開拓局の役人へ知られれば面倒だからな」


「開拓局?」


「二日後、お前を灰境へ送り届ける者たちが来る。王国の役人だ。本家の兵士とは違う」


「王国の人が来るんだ」


「父上たちには、表向きの理由が必要になる」


「表向き?」


「お前に領地を与えるのは、追放ではなく栄誉ある任命。セルマを閉じ込めたのも、逃亡防止ではなく配置換え。そういう形にしておかなければならない」


 アルフレッドは黙った。


 追放。


 その言葉を、家族から直接聞いたことはない。


 だが昨日、執務室で告げられた任命の早さ。


 アーデルハイトの態度。


 地図から消えかけた街道。


 そして、セルマを自分から引き離そうとする行動。


 すべてをつなぎ合わせれば、何となく見えてくるものがある。


「僕は……追い出されるの?」


 初めて、その言葉を口にした。


 ユリウスはすぐには答えなかった。


「少なくとも、母上はお前が戻ることを望んでいない」


「父上は?」


「分からない」


「兄上は?」


 ユリウスの眉が動いた。


「なぜ僕に聞く」


「家族だから」


「……」


「僕に帰ってきてほしくない?」


 まっすぐな問いだった。


 ユリウスは窓の外へ顔を向けた。


 感情を隠すように。


「お前は、昔から質問が直線的すぎる」


「曲げたほうがいい?」


「そういう話ではない」


「じゃあ、どういう話?」


「少し黙れ」


「はい」


 アルフレッドは素直に黙った。


 ユリウスのほうが、かえって困った表情になる。


「……僕は」


 しばらくしてから、彼は小さく口を開いた。


「お前がいなくなれば、本を読む時間が増えると思っている」


「いつも読んでるでしょう?」


「途中で話しかけてくる者が減る」


「僕、そんなに話しかけてた?」


「自覚がないのか」


「ごめん」


「だから謝るな」


 ユリウスは額へ手を当てた。


 それから、ほんのわずかに口元を緩める。


「静かになりすぎるのも、少し困るかもしれない」


 アルフレッドは目を瞬いた。


「それって――」


「それ以上、何も言うな」


「でも」


「言うな」


「はい」


 アルフレッドは小さく笑った。


 ユリウスは気づかないふりをして、抱えていた本を開く。


「セルマは、屋敷から逃げた可能性が高い」


「やっぱり?」


「使用人棟の裏門付近に、片足を引きずったような足跡があったそうだ。早朝、母上の私兵が外へ出た」


「追いかけたんだ……」


「あの奴隷を捕らえるためだろう」


「助けに行かないと」


 アルフレッドが駆け出そうとする。


 ユリウスはすぐに襟元をつかんだ。


「待て」


「離して!」


「今のお前が外へ出て、何ができる」


「セルマを探す」


「どこへ行ったか分かるのか?」


「灰境へ――」


「灰境までの道は一つではない。街道を通っているとも限らない。馬も旅の知識もないお前が追えば、二人とも捕まるだけだ」


「でも!」


「セルマは、お前に何と言った」


 アルフレッドの動きが止まる。


「約束したんだろう」


「……うん」


「お前は先に灰境へ行く。セルマは後から追いつく」


「でも、追っ手がいる」


「だからといって、お前が今すぐ屋敷を飛び出せば、母上は開拓局へ『アルフレッドが任命を拒否して逃亡した』と伝えるだろう」


「そんな……」


「そうなれば、お前は灰境へ行けない」


 アルフレッドは、襟元をつかまれたまま立ち尽くした。


 自分が逃げれば、灰境へ行けなくなる。


 灰境へ行けなければ、セルマを待つ場所も作れない。


 昨夜の約束も守れない。


「じゃあ、僕は何もできないの?」


「今はな」


「今は……」


「だが二日後には、王国開拓局の者が来る。本家の私兵ではない。灰境へ向かう街道にも詳しい」


 ユリウスはアルフレッドから手を離した。


「道中でセルマの痕跡を探すことはできるかもしれない」


「開拓局の人に頼めば?」


「事情をすべて話せば、母上と正面から争うことになる。相手がお前を信用するかどうかも分からない」


「じゃあ、どうしたらいい?」


「まず、自分の荷物を準備しろ」


「荷物?」


「何も持たずに灰境へ行くつもりか?」


「セルマが用意してくれると思ってた」


「そのセルマはいない」


「あ……」


「だから、お前自身で考えろ」


 ユリウスは本を閉じる。


「助けたい者がいるなら、助ける前に自分が生き残れるようになれ」


 厳しい言葉だった。


 けれど、アルフレッドを突き放す響きではなかった。


「兄上」


「何だ」


「荷造り、手伝ってくれる?」


「断る」


「即答なんだ」


「僕は忙しい」


「本を読むのに?」


「重要なことだ」


「服の畳み方だけでも」


「セルマに教わっていなかったのか」


「何度か教わったけど、毎回違う形になる」


「なぜだ」


「僕にも分からない」


 ユリウスは、深く長い息を吐いた。


「……一度だけだ」


「手伝ってくれるの?」


「最低限、必要な物を教えるだけだ」


「ありがとう、兄上」


「大声を出すな」


 二人は並んで、アルフレッドの部屋へ歩き始めた。



 自室の床へ、アルフレッドは思いつく限りの物を並べた。


 服。


 靴。


 本。


 毛布。


 食器。


 裁縫道具。


 母の銀飾り。


 直した銀の鍵。


 小さな木箱。


 壊れた椅子。


 そして、なぜか庭で拾った形のよい石。


「待て」


 ユリウスが、並べられた品々を見下ろした。


「なぜ椅子がある」


「スキルを試すため」


「現地に壊れた物はいくらでもあると言われただろう」


「でも、この椅子は座りやすそうだから」


「脚が折れている」


「直せば座れるよ」


「荷馬車の容量には限りがある。置いていけ」


「はい」


 アルフレッドは素直に椅子を横へ移した。


「この石は?」


「きれいだったから」


「置いていけ」


「でも、少し青くて――」


「灰境には石くらいある」


「同じ色かな?」


「知らん」


「じゃあ、持っていったほうが」


「置いていけ」


「……はい」


 次に、ユリウスは積み上げられた本を見る。


「十六冊」


「選んだよ」


「選んで十六冊なのか」


「最初は三十二冊だった」


「何の本だ」


「植物百科、王国史、料理、建築入門、魔物図鑑、昔話、それから――」


「三冊に絞れ」


「三冊!?」


「現地へ読書に行くわけではない」


「兄上なら何冊持っていく?」


「専用の荷馬車を用意する」


「ずるい」


「僕は灰境へ追い出されないからな」


 口にした直後、ユリウスの表情がわずかに固まった。


「……すまない」


 珍しく、彼のほうから謝った。


 アルフレッドは首を振る。


「大丈夫」


「大丈夫ではないだろう」


「少しだけ嫌だったけど、兄上が嫌なことを言おうとしたんじゃないって分かるから」


「お前は……」


 ユリウスは何か言いかけ、諦めたように本へ手を伸ばした。


「植物百科。魔物図鑑。建築入門」


「昔話は?」


「必要ない」


「夜に読むかもしれない」


「自分で物語を考えろ」


「難しいよ」


「お前なら、壊れた椅子が旅に出る話でも作れるだろう」


「面白そう」


「本気にするな」


 荷造りは、想像以上に時間がかかった。


 アルフレッドは、何でも「使えるかもしれない」と考える。


 ユリウスは、必要性が低い物を容赦なく外していく。


 その結果、昼を迎える頃には、床に並んでいた物の半分以上が除外されていた。


「これで最低限だ」


「少ないね」


「旅とは、家をそのまま運ぶことではない」


「セルマも同じことを言いそう」


「ならば、覚えておけ」


 アルフレッドは、残った荷物を見下ろした。


 服が三着。


 予備の靴。


 毛布。


 裁縫道具。


 本が三冊。


 母の銀飾り。


 銀の鍵。


 そして、小さな布袋。


「この袋は何だ」


「裁縫道具を入れる」


「すでにあるだろう」


「セルマの分」


 ユリウスが黙る。


「来たとき、すぐ使えるように」


「……そうか」


 彼は、それを捨てろとは言わなかった。



 同じ頃。


 ヨーレリヒト領北東部。


 男爵邸から離れた深い森の中を、セルマは一人で歩いていた。


 夜明け前に降り始めた雨が、森の土を濡らしている。


 濡れた銀髪が頬へ張りつく。


 古い外套の右側は、空になった袖ごと身体へ結びつけられていた。


 歩くたびに、左足首が痛む。


 地下倉庫でつけられた金属輪の傷が、まだ腫れている。


 それでも止まることはできない。


 街道を進めば、すぐに見つかる。


 だから森へ入り、木々の間を縫って北東へ向かっていた。


 ダークエルフであるセルマには、人間よりも森を読む知識がある。


 苔の生える向き。


 枝葉の密度。


 獣道。


 足跡。


 風の運ぶ匂い。


 だが今の身体では、昔のようには動けない。


 片目を失ったことで距離感が狂う。


 片腕では、転びそうになったとき身体を支えにくい。


 奴隷の首輪も残ったままだ。


 所有者の許可なく一定の距離を離れれば、首輪に刻まれた術式が反応する。


 すでに首筋には、焼けるような痛みが走り始めていた。


「……まだです」


 セルマは息を整える。


 ここで倒れるわけにはいかない。


 灰境へ行く。


 アルフレッドのもとへ行く。


 そのために屋敷を出たのだ。


 木の根へ足を取られ、身体が傾く。


 残された左手で幹をつかみ、どうにか転倒を免れた。


「……アル様」


 灰境へ着いたら、セルマの部屋を作る。


 屋根がなければ直す。


 壁がなければ作る。


 家そのものがなければ、最初から作る。


 あの少年は、本気で言っていた。


 簡単なことではない。


 そもそも、無事に灰境へたどり着けるかすら分からない。


 それでも。


 セルマには、その言葉を信じたいと思わせる何かがあった。


 風に混じって、微かな音が届いた。


 馬の蹄。


 一頭ではない。


 複数。


 セルマは即座に身体を低くし、大木の陰へ隠れた。


 呼吸を抑える。


 しばらくして、遠くの獣道を三騎の男たちが通り過ぎていった。


 全員、ヨーレリヒト家の兵装ではない。


 黒い外套。


 紋章のない革鎧。


 アーデルハイトが裏で使っている者たちだった。


「足跡は?」


「雨で消えかけている」


「片腕の奴隷だ。そう遠くへは行けん」


「奥様は、生死を問わないと?」


「ああ。ただし、アルフレッド様へ近づけるなとの命令だ」


 セルマの右目が細くなる。


 三人が去るまで、身動き一つしなかった。


 やがて蹄の音が完全に消える。


 セルマは大木の陰から、静かに姿を現した。


 追っ手は三人。


 ほかにもいる可能性がある。


 街道へ戻るのは危険だ。


 水と食料も、十分ではない。


 それでも、彼女は北東へ歩き出した。


「必ず……参ります」


 誰へ聞かせるでもなく、小さく呟く。


「アル様」


 灰色の空の下。


 セルマはたった一人で、灰境へ続く長い道を進み始めた。



 その日の夕方。


 アルフレッドは窓辺へ立ち、北東の空を眺めていた。


 雲が低い。


 遠くで雨が降っているのかもしれない。


 セルマは、今どこにいるのだろう。


 濡れていないだろうか。


 食事は取れているだろうか。


 怪我はしていないだろうか。


 考え始めれば、不安は尽きない。


 それでもアルフレッドは、自分へ言い聞かせるように呟いた。


「先に行くからね」


 約束どおり。


 灰境へ行く。


 そしてセルマが来たとき、安心して休める場所を作る。


 まだ領主が何をするのか、ほとんど分かっていない。


 灰境がどれほど厳しい場所なのかも知らない。


 けれど、一つだけやるべきことができた。


 誰かを待てる場所を作る。


 それならば、自分にもできるかもしれない。


 アルフレッドは、机の上へ置かれた任命書を見た。


 そこに記された、灰境という二文字。


 昨日までは、知らない土地の名前にすぎなかった。


 今は違う。


 セルマと再会するための場所。


 初めて、自分が作りたいと思った場所になった。


「壊れてたら、直せばいい」


 小さく言う。


「何もなかったら、作ればいい」


 まだ十二歳の少年の言葉だった。


 現実を知らない、あまりに素朴な考えだったかもしれない。


 それでも、その小さな決意こそが――。


 やがて灰境に残された人々の運命を変える、最初の一歩となる。



第4話 セルマがいなくなりました 了

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