↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
男爵家四男の辺境開拓記 ~不遇スキル《修繕》と《清掃》で、みんなの帰る場所を作ります~  作者: 和泉發仙
第一章 灰境への道

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/53

セルマがいなくなりました


第一章 灰境への道


第一編 捨てられた四男編


第4話 セルマがいなくなりました


前書き


約束を守る方法は、


一つとは限りません。


同じ道を歩くこと。


同じ場所で待つこと。


離れていても、


同じ場所を目指すこと。


それもまた、


約束を守るということなのです。


⸻


「セルマが、いない……?」


 夜が明けて間もない頃。


 アルフレッドは、使用人棟にある小さな部屋の前で立ち尽くしていた。


 扉は開いている。


 中には、狭い寝台と古い棚。


 片隅に置かれた木箱。


 普段セルマが使用している水差しと、簡素な食器。


 けれど、その部屋の主だけがいなかった。


「セルマ?」


 アルフレッドは、もう一度呼びかけた。


 当然、返事はない。


 昨夜。


 屋敷の裏手で、二人は約束を交わした。


 アルフレッドは先に灰境へ向かい、セルマが暮らせる場所を作る。


 セルマは必ず、後から灰境へ追いつく。


 あの後、セルマは一度使用人棟へ戻ったはずだった。


 アルフレッド自身も、父やアーデルハイトに見つからないよう、自分の部屋へ戻った。


 眠れないまま夜を過ごし、空が白み始めるのを待ってから、セルマの様子を見に来たのだ。


 しかし。


 寝台はきれいに整えられている。


 毛布には、誰かが眠った形跡がない。


 棚に置かれていた外套も、水筒も、短剣も消えていた。


 木箱の蓋がわずかに開いている。


 中には、古くなった使用人服が二着残されているだけだった。


「本当に……行ったんだ」


 アルフレッドは小さく呟いた。


 灰境へ行くために。


 自分との約束を果たすために。


 セルマは、たった一人で屋敷を出た。


 馬もない。


 旅費もない。


 片腕と片目を失った身体で。


 魔物の被害が増えているという街道へ向かった。


 昨夜は、約束してくれたことが嬉しかった。


 けれど朝になり、セルマの姿が本当に消えてしまったことで、初めてその危険が現実のものとして胸へ迫ってきた。


「一人で行くなんて……」


 自分が先に行けと言ったわけではない。


 むしろ一緒に行こうとした。


 それでも、セルマを残して部屋へ戻ったのは自分だ。


 もっと強く止めるべきだったのではないか。


 誰かに相談するべきだったのではないか。


 あるいは、自分も一緒に屋敷を抜け出すべきだったのではないか。


 次々と考えが浮かぶ。


 どれが正しかったのかは、分からない。


「アルフレッド様?」


 廊下から、若い侍女の声がした。


 振り返ると、洗濯物を抱えたリタが立っている。


「こんなに朝早く、どうされたのですか?」


「セルマを見なかった?」


「セルマさんですか?」


「うん。部屋にいないんだ」


 リタは少し驚いた顔をして、室内を覗き込んだ。


「朝のお仕事に出られたのでは?」


「外套も、水筒もなくなってる」


「それは……」


 リタの顔から、眠気が消えていく。


「荷物を持って、どこかへ行ったのかもしれない」


「ですが、セルマさんは奴隷です。許可なく屋敷の外へ出れば……」


 その先を、リタは言えなかった。


 逃亡奴隷。


 捕らえられれば、厳しい処罰を受ける。


 それくらいは、アルフレッドも知っていた。


「誰かが探しに行ってるかもしれない」


「アルフレッド様」


「僕も――」


 探しに行く。


 そう言いかけたとき。


 使用人棟の廊下へ、硬い足音が響いた。


「アルフレッド様」


 現れたのは、侍女長オルガだった。


 その後ろには、二人の兵士が従っている。


 昨夜、地下倉庫へ向かっていた者たちだ。


 オルガは開いた扉と、アルフレッドの顔を交互に見た。


「こちらで何をなさっているのですか」


「セルマを探しています」


「その必要はございません」


「どうして?」


「あの奴隷は、別の場所へ移されました」


 あまりにも平坦な声だった。


「別の場所?」


「はい」


「どこへ?」


「アルフレッド様がお知りになる必要はございません」


「でも、セルマは僕の世話を――」


「奥様のご命令です」


 その一言で、会話を終わらせるつもりらしい。


 だがアルフレッドは動かなかった。


「セルマは、昨夜ここへ戻ってきたんですか?」


「さあ。私は存じません」


「部屋から、旅の道具がなくなっています」


「別の職務へ必要だったのでしょう」


「どんな職務?」


「アルフレッド様」


 オルガの声が低くなる。


「使用人や奴隷の配置は、奥様がお決めになることです。お支度もございます。お部屋へお戻りください」


「セルマは無事なんですか?」


 オルガは、ほんの一瞬だけ黙った。


「無事です」


「どこにいるの?」


「申し上げられません」


「どうして?」


「奥様のご命令です」


 先ほどと同じ言葉。


 答えているようで、何も答えていない。


 アルフレッドはオルガの後ろに立つ兵士を見た。


 二人とも視線を合わせようとしない。


 昨夜、地下倉庫で何が起きたかを知っている者たちだ。


 ユリウスが残っていた。


 扉は開き、セルマは消えた。


 それなのに、今朝になっても何事もなかったように立っている。


「……分かりました」


 アルフレッドは小さく答えた。


「お部屋へ戻ります」


「そうなさってください」


 オルガはわずかに安堵したようだった。


 アルフレッドはリタへ目を向ける。


「仕事の邪魔をして、ごめんね」


「い、いえ……」


 そのまま使用人棟を出ていく。


 背後で、オルガが兵士たちへ低い声で何かを命じた。


 だがアルフレッドは振り返らなかった。


 素直に諦めたわけではない。


 昨夜の約束がある。


 セルマは必ず灰境へ来ると言った。


 そしてアルフレッドも、灰境で待つと約束した。


 ならば今、自分がすべきことは何か。


 焦って屋敷を飛び出し、何の準備もなくセルマを追うことなのか。


 それとも、約束どおり灰境へ行き、彼女を迎えられる場所を作ることなのか。


 まだ、答えは出なかった。


⸻


「勝手なことをしたな」


 自室へ戻る途中。


 廊下の窓辺に、ユリウスが立っていた。


 昨夜とは違い、すでに身なりを整えている。


 片手には、相変わらず分厚い本を抱えていた。


「兄上」


「部屋へ戻れと言われたのではないのか」


「戻ってる途中だよ」


「そうか」


 ユリウスは窓の外へ視線を向けた。


 朝靄の残る庭。


 門の向こうでは、早朝から数頭の馬が出入りしている。


 昨日までなら、何の疑問も持たなかった光景だろう。


 だが今のアルフレッドには、あれがセルマを追う者たちに思えてならなかった。


「兄上は、昨夜どうなったの?」


「長い説教を受けた」


「ごめんなさい」


「謝るくらいなら、最初から巻き込むな」


「でも、兄上が来てくれて助かったよ」


「反省しているようには聞こえないな」


「感謝してる」


「それと反省は別だ」


 ユリウスは呆れたように息を吐く。


「罰は?」


「朝食を抜かれた」


「それだけ?」


「一週間、北棟への立ち入りを禁じられた」


「もともと行かない場所でしょう?」


「そうだ」


「じゃあ、あまり困らないね」


「母上も、僕を強く罰する理由を公にできなかったのだろう」


 ユリウスは静かに言った。


「地下倉庫へ奴隷を無断で監禁していたと、開拓局の役人へ知られれば面倒だからな」


「開拓局?」


「二日後、お前を灰境へ送り届ける者たちが来る。王国の役人だ。本家の兵士とは違う」


「王国の人が来るんだ」


「父上たちには、表向きの理由が必要になる」


「表向き?」


「お前に領地を与えるのは、追放ではなく栄誉ある任命。セルマを閉じ込めたのも、逃亡防止ではなく配置換え。そういう形にしておかなければならない」


 アルフレッドは黙った。


 追放。


 その言葉を、家族から直接聞いたことはない。


 だが昨日、執務室で告げられた任命の早さ。


 アーデルハイトの態度。


 地図から消えかけた街道。


 そして、セルマを自分から引き離そうとする行動。


 すべてをつなぎ合わせれば、何となく見えてくるものがある。


「僕は……追い出されるの?」


 初めて、その言葉を口にした。


 ユリウスはすぐには答えなかった。


「少なくとも、母上はお前が戻ることを望んでいない」


「父上は?」


「分からない」


「兄上は?」


 ユリウスの眉が動いた。


「なぜ僕に聞く」


「家族だから」


「……」


「僕に帰ってきてほしくない?」


 まっすぐな問いだった。


 ユリウスは窓の外へ顔を向けた。


 感情を隠すように。


「お前は、昔から質問が直線的すぎる」


「曲げたほうがいい?」


「そういう話ではない」


「じゃあ、どういう話?」


「少し黙れ」


「はい」


 アルフレッドは素直に黙った。


 ユリウスのほうが、かえって困った表情になる。


「……僕は」


 しばらくしてから、彼は小さく口を開いた。


「お前がいなくなれば、本を読む時間が増えると思っている」


「いつも読んでるでしょう?」


「途中で話しかけてくる者が減る」


「僕、そんなに話しかけてた?」


「自覚がないのか」


「ごめん」


「だから謝るな」


 ユリウスは額へ手を当てた。


 それから、ほんのわずかに口元を緩める。


「静かになりすぎるのも、少し困るかもしれない」


 アルフレッドは目を瞬いた。


「それって――」


「それ以上、何も言うな」


「でも」


「言うな」


「はい」


 アルフレッドは小さく笑った。


 ユリウスは気づかないふりをして、抱えていた本を開く。


「セルマは、屋敷から逃げた可能性が高い」


「やっぱり?」


「使用人棟の裏門付近に、片足を引きずったような足跡があったそうだ。早朝、母上の私兵が外へ出た」


「追いかけたんだ……」


「あの奴隷を捕らえるためだろう」


「助けに行かないと」


 アルフレッドが駆け出そうとする。


 ユリウスはすぐに襟元をつかんだ。


「待て」


「離して!」


「今のお前が外へ出て、何ができる」


「セルマを探す」


「どこへ行ったか分かるのか?」


「灰境へ――」


「灰境までの道は一つではない。街道を通っているとも限らない。馬も旅の知識もないお前が追えば、二人とも捕まるだけだ」


「でも!」


「セルマは、お前に何と言った」


 アルフレッドの動きが止まる。


「約束したんだろう」


「……うん」


「お前は先に灰境へ行く。セルマは後から追いつく」


「でも、追っ手がいる」


「だからといって、お前が今すぐ屋敷を飛び出せば、母上は開拓局へ『アルフレッドが任命を拒否して逃亡した』と伝えるだろう」


「そんな……」


「そうなれば、お前は灰境へ行けない」


 アルフレッドは、襟元をつかまれたまま立ち尽くした。


 自分が逃げれば、灰境へ行けなくなる。


 灰境へ行けなければ、セルマを待つ場所も作れない。


 昨夜の約束も守れない。


「じゃあ、僕は何もできないの?」


「今はな」


「今は……」


「だが二日後には、王国開拓局の者が来る。本家の私兵ではない。灰境へ向かう街道にも詳しい」


 ユリウスはアルフレッドから手を離した。


「道中でセルマの痕跡を探すことはできるかもしれない」


「開拓局の人に頼めば?」


「事情をすべて話せば、母上と正面から争うことになる。相手がお前を信用するかどうかも分からない」


「じゃあ、どうしたらいい?」


「まず、自分の荷物を準備しろ」


「荷物?」


「何も持たずに灰境へ行くつもりか?」


「セルマが用意してくれると思ってた」


「そのセルマはいない」


「あ……」


「だから、お前自身で考えろ」


 ユリウスは本を閉じる。


「助けたい者がいるなら、助ける前に自分が生き残れるようになれ」


 厳しい言葉だった。


 けれど、アルフレッドを突き放す響きではなかった。


「兄上」


「何だ」


「荷造り、手伝ってくれる?」


「断る」


「即答なんだ」


「僕は忙しい」


「本を読むのに?」


「重要なことだ」


「服の畳み方だけでも」


「セルマに教わっていなかったのか」


「何度か教わったけど、毎回違う形になる」


「なぜだ」


「僕にも分からない」


 ユリウスは、深く長い息を吐いた。


「……一度だけだ」


「手伝ってくれるの?」


「最低限、必要な物を教えるだけだ」


「ありがとう、兄上」


「大声を出すな」


 二人は並んで、アルフレッドの部屋へ歩き始めた。


⸻


 自室の床へ、アルフレッドは思いつく限りの物を並べた。


 服。


 靴。


 本。


 毛布。


 食器。


 裁縫道具。


 母の銀飾り。


 直した銀の鍵。


 小さな木箱。


 壊れた椅子。


 そして、なぜか庭で拾った形のよい石。


「待て」


 ユリウスが、並べられた品々を見下ろした。


「なぜ椅子がある」


「スキルを試すため」


「現地に壊れた物はいくらでもあると言われただろう」


「でも、この椅子は座りやすそうだから」


「脚が折れている」


「直せば座れるよ」


「荷馬車の容量には限りがある。置いていけ」


「はい」


 アルフレッドは素直に椅子を横へ移した。


「この石は?」


「きれいだったから」


「置いていけ」


「でも、少し青くて――」


「灰境には石くらいある」


「同じ色かな?」


「知らん」


「じゃあ、持っていったほうが」


「置いていけ」


「……はい」


 次に、ユリウスは積み上げられた本を見る。


「十六冊」


「選んだよ」


「選んで十六冊なのか」


「最初は三十二冊だった」


「何の本だ」


「植物百科、王国史、料理、建築入門、魔物図鑑、昔話、それから――」


「三冊に絞れ」


「三冊!?」


「現地へ読書に行くわけではない」


「兄上なら何冊持っていく?」


「専用の荷馬車を用意する」


「ずるい」


「僕は灰境へ追い出されないからな」


 口にした直後、ユリウスの表情がわずかに固まった。


「……すまない」


 珍しく、彼のほうから謝った。


 アルフレッドは首を振る。


「大丈夫」


「大丈夫ではないだろう」


「少しだけ嫌だったけど、兄上が嫌なことを言おうとしたんじゃないって分かるから」


「お前は……」


 ユリウスは何か言いかけ、諦めたように本へ手を伸ばした。


「植物百科。魔物図鑑。建築入門」


「昔話は?」


「必要ない」


「夜に読むかもしれない」


「自分で物語を考えろ」


「難しいよ」


「お前なら、壊れた椅子が旅に出る話でも作れるだろう」


「面白そう」


「本気にするな」


 荷造りは、想像以上に時間がかかった。


 アルフレッドは、何でも「使えるかもしれない」と考える。


 ユリウスは、必要性が低い物を容赦なく外していく。


 その結果、昼を迎える頃には、床に並んでいた物の半分以上が除外されていた。


「これで最低限だ」


「少ないね」


「旅とは、家をそのまま運ぶことではない」


「セルマも同じことを言いそう」


「ならば、覚えておけ」


 アルフレッドは、残った荷物を見下ろした。


 服が三着。


 予備の靴。


 毛布。


 裁縫道具。


 本が三冊。


 母の銀飾り。


 銀の鍵。


 そして、小さな布袋。


「この袋は何だ」


「裁縫道具を入れる」


「すでにあるだろう」


「セルマの分」


 ユリウスが黙る。


「来たとき、すぐ使えるように」


「……そうか」


 彼は、それを捨てろとは言わなかった。


⸻


 同じ頃。


 ヨーレリヒト領北東部。


 男爵邸から離れた深い森の中を、セルマは一人で歩いていた。


 夜明け前に降り始めた雨が、森の土を濡らしている。


 濡れた銀髪が頬へ張りつく。


 古い外套の右側は、空になった袖ごと身体へ結びつけられていた。


 歩くたびに、左足首が痛む。


 地下倉庫でつけられた金属輪の傷が、まだ腫れている。


 それでも止まることはできない。


 街道を進めば、すぐに見つかる。


 だから森へ入り、木々の間を縫って北東へ向かっていた。


 ダークエルフであるセルマには、人間よりも森を読む知識がある。


 苔の生える向き。


 枝葉の密度。


 獣道。


 足跡。


 風の運ぶ匂い。


 だが今の身体では、昔のようには動けない。


 片目を失ったことで距離感が狂う。


 片腕では、転びそうになったとき身体を支えにくい。


 奴隷の首輪も残ったままだ。


 所有者の許可なく一定の距離を離れれば、首輪に刻まれた術式が反応する。


 すでに首筋には、焼けるような痛みが走り始めていた。


「……まだです」


 セルマは息を整える。


 ここで倒れるわけにはいかない。


 灰境へ行く。


 アルフレッドのもとへ行く。


 そのために屋敷を出たのだ。


 木の根へ足を取られ、身体が傾く。


 残された左手で幹をつかみ、どうにか転倒を免れた。


「……アル様」


 灰境へ着いたら、セルマの部屋を作る。


 屋根がなければ直す。


 壁がなければ作る。


 家そのものがなければ、最初から作る。


 あの少年は、本気で言っていた。


 簡単なことではない。


 そもそも、無事に灰境へたどり着けるかすら分からない。


 それでも。


 セルマには、その言葉を信じたいと思わせる何かがあった。


 風に混じって、微かな音が届いた。


 馬の蹄。


 一頭ではない。


 複数。


 セルマは即座に身体を低くし、大木の陰へ隠れた。


 呼吸を抑える。


 しばらくして、遠くの獣道を三騎の男たちが通り過ぎていった。


 全員、ヨーレリヒト家の兵装ではない。


 黒い外套。


 紋章のない革鎧。


 アーデルハイトが裏で使っている者たちだった。


「足跡は?」


「雨で消えかけている」


「片腕の奴隷だ。そう遠くへは行けん」


「奥様は、生死を問わないと?」


「ああ。ただし、アルフレッド様へ近づけるなとの命令だ」


 セルマの右目が細くなる。


 三人が去るまで、身動き一つしなかった。


 やがて蹄の音が完全に消える。


 セルマは大木の陰から、静かに姿を現した。


 追っ手は三人。


 ほかにもいる可能性がある。


 街道へ戻るのは危険だ。


 水と食料も、十分ではない。


 それでも、彼女は北東へ歩き出した。


「必ず……参ります」


 誰へ聞かせるでもなく、小さく呟く。


「アル様」


 灰色の空の下。


 セルマはたった一人で、灰境へ続く長い道を進み始めた。


⸻


 その日の夕方。


 アルフレッドは窓辺へ立ち、北東の空を眺めていた。


 雲が低い。


 遠くで雨が降っているのかもしれない。


 セルマは、今どこにいるのだろう。


 濡れていないだろうか。


 食事は取れているだろうか。


 怪我はしていないだろうか。


 考え始めれば、不安は尽きない。


 それでもアルフレッドは、自分へ言い聞かせるように呟いた。


「先に行くからね」


 約束どおり。


 灰境へ行く。


 そしてセルマが来たとき、安心して休める場所を作る。


 まだ領主が何をするのか、ほとんど分かっていない。


 灰境がどれほど厳しい場所なのかも知らない。


 けれど、一つだけやるべきことができた。


 誰かを待てる場所を作る。


 それならば、自分にもできるかもしれない。


 アルフレッドは、机の上へ置かれた任命書を見た。


 そこに記された、灰境という二文字。


 昨日までは、知らない土地の名前にすぎなかった。


 今は違う。


 セルマと再会するための場所。


 初めて、自分が作りたいと思った場所になった。


「壊れてたら、直せばいい」


 小さく言う。


「何もなかったら、作ればいい」


 まだ十二歳の少年の言葉だった。


 現実を知らない、あまりに素朴な考えだったかもしれない。


 それでも、その小さな決意こそが――。


 やがて灰境に残された人々の運命を変える、最初の一歩となる。


⸻


第4話 セルマがいなくなりました 了

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。