閉じ込められたセルマ
第一章 灰境への道
第一編 捨てられた四男編
第3話 閉じ込められたセルマ
前書き
命令に従うことと、
正しいことをすることは、
いつも同じではありません。
けれど、
まだ幼い少年にとって、
その違いを選ぶのは、
とても勇気のいることでした。
⸻
ヨーレリヒト男爵邸、北棟。
普段はほとんど人の寄りつかない廊下を、アルフレッドは息を切らしながら走っていた。
夜の屋敷は静かだった。
昼間であれば、侍女や従僕、兵士たちが絶えず行き交っている。だが今は、壁へ掛けられた魔石灯も半分ほど消され、長い廊下の先は黒い闇に沈んでいた。
磨かれた床を踏むたび、靴音が不自然なほど大きく響く。
アルフレッドは何度も後ろを振り返った。
誰かに呼び止められるのではないか。
侍女長オルガが現れ、部屋へ戻るよう命じるのではないか。
父ヴォルフラムやアーデルハイトへ、自分の行動が伝わってしまうのではないか。
胸の鼓動が速い。
それでも、足を止めることはできなかった。
右手には、修繕したばかりの銀の鍵が握られている。
亡き母マリエルが遺した、用途の分からない鍵。
地下倉庫の扉を開けられる保証などない。
鍵の大きさも、形も、合っているかどうかすら分からない。
それでも今のアルフレッドが頼れるものは、この鍵と、昨日授かった二つのスキルだけだった。
「セルマ……」
北棟の奥。
地下へ続く石階段の手前で、アルフレッドは急停止した。
階段の脇に、短槍を持った兵士が立っている。
先ほど侍女長オルガと話していた兵士とは違う。まだ若く、顔にも幼さが残っていた。
彼は退屈そうに壁へ背を預け、何度も欠伸を噛み殺している。
見張りは一人。
けれど、十二歳のアルフレッドが力ずくで通れる相手ではない。
そもそも、相手は命令どおりに職務を果たしているだけだ。悪いことをしたわけではない。
アルフレッドは廊下の角へ身を隠し、兵士の様子をうかがった。
正面から、通してほしいと頼む。
きっと断られる。
父へ相談する。
だがヴォルフラムは、セルマの同行を認めなかった。
アーデルハイトへ頼む。
セルマを閉じ込めるよう命じた本人なのだから、聞き入れてくれるとは思えない。
ほかの使用人へ助けを求めれば、その人まで処罰されるかもしれない。
「……どうしよう」
声に出してみても、名案が浮かぶわけではなかった。
アルフレッドは銀の鍵を見つめる。
このまま朝まで待つべきなのだろうか。
けれど、オルガは兵士たちへ「出発の日まで出すな」と命じていた。
最低限の水しか与えないとも。
三日間。
冷たい地下倉庫で、セルマを一人にする。
そんなことはできなかった。
「何をしているんだ?」
「わっ!」
すぐ後ろから声を掛けられ、アルフレッドは飛び上がった。
「大声を出すな」
「ご、ごめん」
振り返った先に立っていたのは、三男ユリウスだった。
寝間着の上から濃紺の外套を羽織り、長い黒髪は結ばずに肩へ垂らしている。
こんな時間だというのに、片腕には分厚い本を抱えていた。
「兄上……」
「謝る前に答えろ。こんな時間に、なぜ北棟へ来ている?」
「それは……」
アルフレッドは反射的に、銀の鍵を背中へ隠した。
ユリウスは呆れたように目を細めた。
「隠し事が下手すぎる」
「そうかな?」
「隠した物が反対側から見えている」
「あ」
右手を背中へ回したため、左脇から銀色の先端が完全に覗いていた。
アルフレッドは諦めて、鍵を見せる。
「セルマが、地下倉庫に閉じ込められてるみたいなんだ」
「なぜ分かった?」
「オルガたちが話しているのを聞いた」
「盗み聞きか」
「隠れて聞こうとしたわけじゃないよ。向こうが近づいてきたから、見つからないようにしただけで」
「それを盗み聞きという」
「そうなの?」
「そうだ」
ユリウスは片手で額を押さえた。
「それで、その鍵を使って助け出すつもりか」
「うん」
「その鍵が地下倉庫のものだという根拠は?」
「ないよ」
「……ないのか」
「でも、母さんが残した鍵だから」
「余計に意味が分からない」
ユリウスは大きく息を吐いた。
普段の彼なら、ここでアルフレッドへ部屋へ戻れと命じただろう。
少なくとも、父やアーデルハイトの命令へ逆らう手助けなど、するはずがない。
けれど彼は、廊下の角から見張りの兵士を確認すると、何かを考えるように目を細めた。
「見張りは一人か」
「どうすればいいと思う?」
「僕に聞くな。お前が勝手に始めたことだろう」
「そうだけど、兄上は頭がいいから」
「都合のいいときだけ頼るな」
「駄目?」
アルフレッドが真っ直ぐに見上げる。
ユリウスは何かを言い返そうと口を開き――結局、何も言わずに閉じた。
「……少し待っていろ」
彼は抱えていた本を、アルフレッドへ押しつけた。
「重い」
「落とすな。王都でも手に入りにくい術式書だ」
「どうして寝るときまで本を持ってるの?」
「寝る前に読んでいたからだ」
「歩きながら?」
「自室へ戻る途中だった」
「北棟と兄上の部屋、反対方向じゃなかった?」
「……夜の散歩だ」
「本を持って?」
「細かいことを気にするな」
そう言うと、ユリウスは見張りの兵士へ向かって歩き出した。
足音に気づいた兵士が、慌てて姿勢を正す。
「ユリウス様。このような時間に、どうされました」
「北棟の書庫へ本を戻しに来た」
「書庫でございますか。しかし、こちらは地下倉庫へ続く階段ですが……」
「知っている」
ユリウスは、いかにも機嫌が悪そうな声で答えた。
「書庫の鍵を部屋に忘れた。お前、取りに行け」
「わ、私がですか?」
「僕に戻れと言うのか?」
「いえ! そのようなことは……」
「鍵は机の上だ。部屋の前にいる従者へ言えば分かる」
兵士は迷った。
彼が受けた命令は、地下倉庫を見張ることだ。
だが目の前にいるのは、正妻アーデルハイトの実子であり、高位スキル〈術式解析〉を持つ三男ユリウス。
その命令を拒むことも、兵士には難しかった。
「では、少々お待ちください」
「急げ。眠い」
「はっ!」
兵士は短槍を手にしたまま、廊下の向こうへ駆けていった。
足音が十分に遠ざかると、ユリウスが物陰へ手招きする。
「今のうちだ」
アルフレッドは本を抱えて飛び出した。
「兄上の部屋に、本当に鍵があるの?」
「ない」
「それじゃ、兵士が困るよ」
「従者も何の話か分からず困るだろうな」
「悪いことをしたんじゃ……」
「お前がそれを言うのか?」
アルフレッドは黙った。
確かに、これから主人の命令に背いて、地下倉庫へ入ろうとしているのは自分だ。
「本を返して」
「落とすなよ」
「落とさないよ」
「お前は昨日、廊下で滑りかけた」
「転んでないよ」
「セルマと同じ言い訳をするな」
「セルマも言ってた?」
「さあな」
ユリウスは本を受け取り、先に階段を下り始めた。
⸻
地下は、地上よりもさらに暗かった。
湿った石の匂い。
古い油。
長い間、陽の光へ晒されていない空気。
壁際には小さな魔石灯が一つだけ設置されているが、その光も今にも消えそうに明滅している。
一段下りるたび、気温が少しずつ下がっていくようだった。
「セルマ!」
階段の途中で、アルフレッドが呼びかけた。
「アル様?」
すぐに奥から声が返ってくる。
いつもの落ち着いた声音。
けれど、わずかな驚きが混じっていた。
地下通路の突き当たりに、鉄板で補強された頑丈な扉があった。
格子状の小窓。
分厚い錠前。
扉の向こうに、淡い銀色の髪が見える。
アルフレッドは扉へ駆け寄った。
「セルマ、大丈夫?」
「なぜ、こちらにいらっしゃるのですか」
「閉じ込められてるって聞いたから」
「今すぐお戻りください」
「でも――」
「アーデルハイト様のご命令です」
セルマの声は、普段以上に固かった。
小窓から見える顔には、新しい傷はない。
だが残された右目には、アルフレッドがここへ来てしまったことへの焦りが浮かんでいる。
「命令だからって、食事もなしで閉じ込めるのはおかしいよ」
「私は奴隷です」
「それは関係ないでしょう?」
「関係があります」
セルマは扉の向こうから、アルフレッドを真っ直ぐに見つめた。
「奴隷は、主人の命令へ従わなければなりません。逆らえば処罰されます」
「僕が出してあげる」
「その場合、処罰されるのはアル様です」
「僕も閉じ込められるの?」
「その程度で済めばよいのですが」
「じゃあ、一緒に怒られよう」
「なぜ、その結論になるのですか」
横に立つユリウスが顔を背けた。
口元が、わずかに震えている。
「兄上、笑った?」
「笑っていない」
「笑ってたように見えたけど」
「気のせいだ。それより、まず鍵を試せ」
「あ、そうだった」
アルフレッドは銀の鍵を取り出した。
扉の鍵穴は大きく、手の中の鍵とは形も古さも違う。
どう見ても、この扉のために作られた鍵ではなかった。
「合わないと思うぞ」
「やってみないと分からないよ」
「母上の遺品だからといって、すべての鍵穴を開けられるわけではない」
「うん。でも、ほかに鍵がないから」
「それは理由になっていない」
アルフレッドは、鍵を錠前へ差し込んだ。
先端は途中まで入る。
だが、それ以上は進まなかった。
回すこともできない。
「やっぱり駄目か」
ユリウスが呟く。
アルフレッドは鍵を引き抜こうとした。
だが内部で何かに引っかかり、今度は抜けなくなってしまった。
「あれ?」
「無理に動かすな。折れるぞ」
「でも、取れない」
「だから、合わない鍵を差すなと言ったんだ」
ユリウスが鍵へ手を伸ばしかける。
その瞬間。
アルフレッドの指先が、淡い光を帯びた。
「……え?」
昨日、銀の鍵を修繕したときと同じ感覚。
ただし今回は、鍵そのものだけではなかった。
鍵穴の奥。
錆びついた留め金。
歪んだ金属板。
欠けた小さな歯車。
長い年月と乱暴な扱いによって傷んだ、錠前全体の状態が頭の中へ流れ込んでくる。
目で見えているわけではない。
それでもアルフレッドには、どこが削れ、どこが歪み、何が本来の動きを妨げているのかが分かった。
同時に、銀の鍵が錠前の内部へ入り切らない理由も理解できた。
「この鍵じゃないんだ」
「だから、そう言っただろう」
「違うよ。鍵が合わないだけじゃない。錠前の中が壊れてる」
「何?」
アルフレッドは、片手を扉へ添えた。
自分の中にある何かを、壊れた錠前へ流し込む。
「《修繕》」
淡い光が鉄扉の表面を走った。
錠前の内部から、がりがりと硬い音が響く。
内部へ落ち込んでいた金属片が浮かび上がり、欠けていた部分へ吸い込まれていく。
錆びついて動かなかった部品が、本来あるべき位置へ戻る。
曲がっていた金属板が伸び、歯車が噛み合う。
やがて――。
かちり。
軽い音が、地下通路へ響いた。
銀の鍵が、錠前の中で自然に半回転した。
「開いた……」
アルフレッドが扉を引く。
長い間まともに整備されていなかったはずの鉄扉が、驚くほど滑らかに開いた。
セルマが倉庫の中で目を見開いている。
ユリウスも、言葉を失っていた。
「本当に……直したのか」
「うん。たぶん」
「たぶんで、鉄製の錠前を完全に修復するな」
「でも、直ったよ」
「そういう問題ではない」
どこかで何度も聞いたような言葉だった。
アルフレッドは首を傾げたが、今は気にしている場合ではなかった。
扉の向こうへ入る。
倉庫の中には、壊れた家具、破れた麻袋、使われなくなった道具が乱雑に積まれていた。
その壁際に、セルマが座っている。
左の足首には金属製の輪がはめられ、太い鎖が壁の金具へつながっていた。
その光景を目にした瞬間、アルフレッドの表情から、わずかに残っていた笑みが消えた。
「どうして、鎖まで……」
「脱走防止のためでしょう」
「セルマは逃げたりしないよ」
「奥様は、そうお考えではなかったようです」
セルマは淡々と答えた。
けれど、その声には苦いものが混じっていた。
アルフレッドは彼女の前へしゃがみ込み、足首を確認する。
金属輪が食い込み、褐色の肌が赤く擦れている。
「痛い?」
「問題ございません」
「痛いかどうかを聞いてるんだけど」
「……少しだけ」
「やっぱり痛いんじゃないか」
アルフレッドは鎖へ触れる。
「これも《修繕》すれば外せるかな」
「直したら、むしろ外れなくなるのでは?」
背後からユリウスが指摘する。
「あ」
「考えてから使え」
「じゃあ、壊せば……」
「お前のスキルは〈修繕〉だろう」
「そうだった」
セルマが小さく息を吐く。
「お二人とも、もうお戻りください」
「セルマを置いていけないよ」
「私は明日の朝には出されます」
「本当に?」
「……おそらく」
「さっきセルマ、おそらく転ばないって言ってたよね」
「今は関係ありません」
「おそらくって、絶対じゃないんでしょう?」
セルマは返答に詰まった。
アルフレッドは再び、鎖へ目を向ける。
《修繕》では外せない。
けれど昨日、授かったスキルはもう一つある。
「《清掃》なら、どうかな」
「鎖は汚れていますが、きれいにしたところで消えはしないでしょう」
ユリウスの言葉はもっともだった。
それでもアルフレッドは、金属輪へ手を置いた。
錆。
土埃。
古い油。
人の手から付着した脂。
そして、それらとは明らかに異なる何か。
金属輪とセルマの身体を、強引に結びつけるように漂う、薄暗い魔力。
アルフレッドには、その正体は分からなかった。
術式の知識など、ほとんどない。
ただ、それが金属輪本来の一部ではないことだけは、なぜか理解できた。
そこにあるべきではないもの。
外から後付けされた異物。
「《清掃》」
淡い光が、鎖と金属輪を包む。
表面にこびりついていた錆と汚れが、細かな砂のように崩れ落ちた。
「本当にきれいにはなったな」
ユリウスが感心したように目を細める。
「でも、外れないね」
「当然――」
そのときだった。
セルマの足首付近から、黒い煙のようなものが立ち上った。
「……っ!」
セルマが息を呑む。
金属輪の内側に刻まれていた小さな術式が、一つ、また一つと光を失っていく。
同時に、足首を締めつけていた輪が、わずかに緩んだ。
「何が起きた?」
ユリウスが素早くしゃがみ込み、金属輪を観察する。
「固定術式が……消えている」
「やっぱり汚れてたのかな」
「術式を汚れとして除去したのか?」
「分からない」
「分からないことが多すぎる」
ユリウスは呆れた口調だった。
けれどその瞳には、学者としての強い興味が浮かんでいる。
「少なくとも、ただの生活スキルではない」
「掃除は生活に必要だよ?」
「そういう話ではない」
「今日、何度も言われるなあ」
魔力による固定が消えたことで、輪と足首の間にわずかな隙間が生まれている。
セルマは細い足を横へ傾け、ゆっくりと輪から引き抜いた。
金属輪が床へ落ちる。
乾いた音が響いた。
外れた。
三人はしばらく、無言で鎖を見つめた。
「セルマ、痛くない?」
「……はい」
セルマは足首へ触れた。
赤く擦れてはいるが、深い傷にはなっていない。
けれど彼女の視線は、自分の足ではなく、アルフレッドの手へ向けられていた。
「アル様」
「なに?」
「今、何をなさったのですか」
「鎖をきれいにした」
「そういうことではありません」
「僕にも、よく分からないんだ」
「おそらく」
ユリウスが、金属輪を拾い上げながら言った。
「お前の〈清掃〉は、泥や埃だけを取り除く力ではない」
「じゃあ、何をきれいにするの?」
「それが分からないから、おそらくと言った」
「兄上にも、分からないことがあるんだね」
「当然ある」
「少し安心した」
「どういう意味だ」
暗く冷たい地下倉庫に、ほんの一瞬だけ穏やかな空気が流れた。
しかし、その時間は長く続かなかった。
地上から、複数の足音が響いてくる。
先ほどの兵士が、誰かを連れて戻ってきたのだろう。
「まずい」
ユリウスが階段の方向を振り返った。
「アルフレッド。セルマを連れて、裏の通路から出ろ」
「裏の通路?」
「この倉庫は、昔の使用人用通路とつながっている。奥の棚の裏だ」
「兄上は?」
「僕はここに残る」
「一緒に来ればいいよ」
「三人とも消えれば、最初から示し合わせていたと疑われる」
「でも、兄上も怒られるよ」
「お前一人に任せれば、もっとひどいことになる」
「それは、僕が頼りないから?」
「そうだ」
即答だった。
「少しくらい迷ってくれてもいいのに」
「迷っている時間はない。行け」
セルマは、その場から動かなかった。
「ユリウス様。私が残ります」
「お前が残れば、アルフレッドも戻る」
「戻るよ」
「ほらな」
ユリウスは倉庫の奥へ駆け寄り、積まれていた木箱を幾つか動かした。
その裏に、人一人がようやく通れるほどの小さな木戸が隠されている。
「この先を真っ直ぐ進め。洗い場の裏へ出る」
「どうして、こんな道を知ってるの?」
「昔、この辺りを探検した」
「兄上も、悪いことをしてたんだね」
「今、それを言うな!」
階段を下りてくる足音が近づく。
鎧の擦れる音。
兵士たちの話し声。
アルフレッドは、セルマの左手を取った。
「行こう」
「ですが――」
「一緒に来てくれるって、言ったでしょう?」
昼間、セルマが口にした言葉だった。
――私は、アル様と共に参ります。
――何があろうと。
セルマは目を伏せた。
それから、小さく頷く。
「……はい」
二人は木戸の向こうへ入った。
アルフレッドは最後に振り返る。
「兄上」
「何だ」
「ありがとう」
「礼は、無事に逃げてから言え」
「分かった」
木戸が閉じられる直前、ユリウスが低い声で付け加えた。
「それと、その銀の鍵は絶対に失くすな」
「どうして?」
「地下倉庫の鍵ではない。それなのに、修繕された錠前が、その形に合わせて動いた」
「うん」
「普通の鍵ではない可能性がある」
アルフレッドが聞き返す前に、木戸は閉じられた。
直後。
倉庫の鉄扉が、乱暴に開かれる。
「ユリウス様!?」
「なぜ、こちらに!」
「騒ぐな。少し道に迷っただけだ」
「地下倉庫でございますが!?」
「だから、迷ったと言っている」
「それに扉が開いております!」
「壊れていた錠前が、勝手に直ったようだ」
「勝手に!?」
「古い屋敷だ。そういうこともある」
「ございません!」
兄の声を背に、アルフレッドとセルマは暗い通路を進んだ。
⸻
使用人用通路は狭く、埃と蜘蛛の巣に覆われていた。
天井は低く、アルフレッドでも何度か頭をぶつけそうになる。
「《清掃》を使おうか?」
「今はお控えください」
「どうして?」
「発光すれば、居場所を知られます」
「あ、そっか」
「それから、私の手を離さないでください」
「うん」
「床板が腐っている場所もあります」
「セルマが転ばないため?」
「アル様が落ちないためです」
「セルマは?」
「私は見えます」
ダークエルフの目には、わずかな光でも周囲が見えるらしい。
片目を失っていても、その足取りに迷いはなかった。
アルフレッドは、彼女の左手を両手で握って進んだ。
何度か道が曲がり、細い階段を上る。
やがて前方に、月明かりが見えた。
木戸を押し開けると、冷たい夜気が頬へ触れる。
二人が出たのは、屋敷の洗い場の裏だった。
正面には、夜の庭。
振り返れば、男爵邸の窓に幾つもの明かりが灯っている。
まだ誰も、二人が外へ出たことには気づいていないようだった。
「セルマ」
「はい」
「このまま、僕と一緒に灰境へ来て」
セルマは、すぐには答えなかった。
「アーデルハイト様は認めないと思う」
「存じております」
「だったら、隠れて開拓局の馬車に乗るとか」
「出発前に荷物の検査が行われます。すぐに発見されるでしょう」
「じゃあ、僕の鞄の中は?」
「私が入る大きさではございません」
「大きな箱を用意するとか」
「片腕以前の問題として、私は荷物ではありません」
「そうだった」
「ご自分でおっしゃったことを、すぐにお忘れにならないでください」
アルフレッドは困ったように眉を下げた。
「じゃあ、どうしよう」
「アル様」
セルマは静かに少年を見下ろした。
「私は、ヨーレリヒト家の所有する奴隷です」
「うん」
「アル様と共に灰境へ向かうためには、本家の許可が必要です」
「でも、許可してくれないよ」
「はい」
セルマの口調は冷静だった。
けれど左手は、アルフレッドの手を握ったまま離そうとしなかった。
「ですから、アル様は予定どおり出発してください」
「セルマを置いて?」
「私は、後から参ります」
「後から?」
「必ず追いつきます」
アルフレッドは、不安そうにセルマを見上げた。
「本当に?」
「はい」
「どうやって?」
「……それは、まだ考えておりません」
「考えてないの?」
「アル様にだけは、言われたくございません」
それはもっともだった。
アルフレッドは、少しだけ笑う。
だがすぐに、不安そうな顔へ戻った。
「一人で来るのは危ないよ」
「危険であることは承知しております」
「僕、ここで待つよ」
「お待ちになっては困ります」
「でも――」
「灰境へ到着したら、まず安全な場所を確保してください」
「セルマが来る場所も?」
セルマの残された目が、わずかに揺れた。
「……はい」
「分かった」
アルフレッドは、ゆっくりと頷いた。
「セルマの部屋も作る」
「私は使用人ですので、物置で十分です」
「駄目だよ」
「なぜです?」
「セルマは物じゃないから」
あまりにも当たり前のように言われ、セルマは何も返せなかった。
アルフレッドは、彼女の空になった右袖を見たわけでも、眼帯を見たわけでもない。
ただ、一人の人間としてセルマの顔を見ていた。
「ちゃんと部屋を作る」
「アル様は、まだ現地の家の状態すらご存じないでしょう」
「壊れてたら直すよ」
「屋根がないかもしれません」
「屋根から直す」
「壁もないかもしれません」
「壁も作る」
「家そのものが残っていない可能性もあります」
アルフレッドは、少し考えた。
「じゃあ、最初から作ればいいね」
セルマは長い息を吐いた。
「本当に、簡単におっしゃいます」
「難しい?」
「非常に」
「でも、できないとは言わないんだね」
「できないと申し上げても、アル様はなさるでしょう」
「うん」
「でしたら、私が止めるだけ無駄です」
「手伝ってくれる?」
「……仕方ありません」
セルマは顔を背けた。
月明かりに照らされた長い耳の先が、少しだけ赤くなっている。
「必ず、参ります」
「待ってる」
「灰境で、です」
「分かってるよ」
「途中の街道で待たないでください」
「少しくらいなら」
「お待ちにならないでください」
「……はい」
「お約束を」
アルフレッドはセルマの左手を握り直した。
「約束する。灰境へ先に行って、セルマが来られる場所を作る」
「私も、お約束いたします」
セルマは静かに答えた。
「必ず、アル様のもとへ参ります」
二人は、屋敷の裏手で小さな約束を交わした。
それは、主人と奴隷の間に交わされた命令ではない。
離れたくない二人が、自分たちの意思で結んだ、初めての約束だった。
⸻
その夜のうちに、セルマは一度、使用人棟へ戻った。
何事もなかったように自室へ入り、最低限の物だけを集める。
使い古した外套。
小さな水筒。
干し肉。
短剣。
包帯。
そして、亡きマリエルから預かっていた小さな革袋。
夜明け前。
見張りの交代で屋敷内の警戒が薄くなる、ほんのわずかな時間。
セルマは男爵邸を抜け出した。
馬もない。
旅費もない。
右腕も、左目もない。
奴隷の首輪も、まだついたまま。
それでも、彼女の足取りに迷いはなかった。
向かう先は一つ。
灰境。
アルフレッドが送られる、王国北東部の最果て。
夜が明ける頃、アーデルハイトはセルマの逃亡を知った。
「追いなさい」
穏やかな声で、短く命じる。
「生死は問いません。ですが、アルフレッドへ接触させてはなりません」
屋敷から、数人の追跡者が放たれた。
その頃。
何も知らないアルフレッドは、ようやく自室へ戻り、セルマが使っていた椅子へ視線を向けていた。
「灰境で、待ってるからね」
空になった部屋で、小さく呟く。
すでにセルマが、自分より先に長い旅へ踏み出していることを。
その背後へ、追っ手が迫っていることを。
アルフレッドは、まだ知らなかった。
⸻
第3話 閉じ込められたセルマ 了




