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男爵家四男の辺境開拓記 ~不遇スキル《修繕》と《清掃》で、みんなの帰る場所を作ります~  作者: 和泉發仙
第一章 灰境への道

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閉じ込められたセルマ

第一章 灰境への道


第一編 捨てられた四男編


第3話 閉じ込められたセルマ


前書き


命令に従うことと、


正しいことをすることは、


いつも同じではありません。


けれど、


まだ幼い少年にとって、


その違いを選ぶのは、


とても勇気のいることでした。



 ヨーレリヒト男爵邸、北棟。


 普段はほとんど人の寄りつかない廊下を、アルフレッドは息を切らしながら走っていた。


 夜の屋敷は静かだった。


 昼間であれば、侍女や従僕、兵士たちが絶えず行き交っている。だが今は、壁へ掛けられた魔石灯も半分ほど消され、長い廊下の先は黒い闇に沈んでいた。


 磨かれた床を踏むたび、靴音が不自然なほど大きく響く。


 アルフレッドは何度も後ろを振り返った。


 誰かに呼び止められるのではないか。


 侍女長オルガが現れ、部屋へ戻るよう命じるのではないか。


 父ヴォルフラムやアーデルハイトへ、自分の行動が伝わってしまうのではないか。


 胸の鼓動が速い。


 それでも、足を止めることはできなかった。


 右手には、修繕したばかりの銀の鍵が握られている。


 亡き母マリエルが遺した、用途の分からない鍵。


 地下倉庫の扉を開けられる保証などない。


 鍵の大きさも、形も、合っているかどうかすら分からない。


 それでも今のアルフレッドが頼れるものは、この鍵と、昨日授かった二つのスキルだけだった。


「セルマ……」


 北棟の奥。


 地下へ続く石階段の手前で、アルフレッドは急停止した。


 階段の脇に、短槍を持った兵士が立っている。


 先ほど侍女長オルガと話していた兵士とは違う。まだ若く、顔にも幼さが残っていた。


 彼は退屈そうに壁へ背を預け、何度も欠伸を噛み殺している。


 見張りは一人。


 けれど、十二歳のアルフレッドが力ずくで通れる相手ではない。


 そもそも、相手は命令どおりに職務を果たしているだけだ。悪いことをしたわけではない。


 アルフレッドは廊下の角へ身を隠し、兵士の様子をうかがった。


 正面から、通してほしいと頼む。


 きっと断られる。


 父へ相談する。


 だがヴォルフラムは、セルマの同行を認めなかった。


 アーデルハイトへ頼む。


 セルマを閉じ込めるよう命じた本人なのだから、聞き入れてくれるとは思えない。


 ほかの使用人へ助けを求めれば、その人まで処罰されるかもしれない。


「……どうしよう」


 声に出してみても、名案が浮かぶわけではなかった。


 アルフレッドは銀の鍵を見つめる。


 このまま朝まで待つべきなのだろうか。


 けれど、オルガは兵士たちへ「出発の日まで出すな」と命じていた。


 最低限の水しか与えないとも。


 三日間。


 冷たい地下倉庫で、セルマを一人にする。


 そんなことはできなかった。


「何をしているんだ?」


「わっ!」


 すぐ後ろから声を掛けられ、アルフレッドは飛び上がった。


「大声を出すな」


「ご、ごめん」


 振り返った先に立っていたのは、三男ユリウスだった。


 寝間着の上から濃紺の外套を羽織り、長い黒髪は結ばずに肩へ垂らしている。


 こんな時間だというのに、片腕には分厚い本を抱えていた。


「兄上……」


「謝る前に答えろ。こんな時間に、なぜ北棟へ来ている?」


「それは……」


 アルフレッドは反射的に、銀の鍵を背中へ隠した。


 ユリウスは呆れたように目を細めた。


「隠し事が下手すぎる」


「そうかな?」


「隠した物が反対側から見えている」


「あ」


 右手を背中へ回したため、左脇から銀色の先端が完全に覗いていた。


 アルフレッドは諦めて、鍵を見せる。


「セルマが、地下倉庫に閉じ込められてるみたいなんだ」


「なぜ分かった?」


「オルガたちが話しているのを聞いた」


「盗み聞きか」


「隠れて聞こうとしたわけじゃないよ。向こうが近づいてきたから、見つからないようにしただけで」


「それを盗み聞きという」


「そうなの?」


「そうだ」


 ユリウスは片手で額を押さえた。


「それで、その鍵を使って助け出すつもりか」


「うん」


「その鍵が地下倉庫のものだという根拠は?」


「ないよ」


「……ないのか」


「でも、母さんが残した鍵だから」


「余計に意味が分からない」


 ユリウスは大きく息を吐いた。


 普段の彼なら、ここでアルフレッドへ部屋へ戻れと命じただろう。


 少なくとも、父やアーデルハイトの命令へ逆らう手助けなど、するはずがない。


 けれど彼は、廊下の角から見張りの兵士を確認すると、何かを考えるように目を細めた。


「見張りは一人か」


「どうすればいいと思う?」


「僕に聞くな。お前が勝手に始めたことだろう」


「そうだけど、兄上は頭がいいから」


「都合のいいときだけ頼るな」


「駄目?」


 アルフレッドが真っ直ぐに見上げる。


 ユリウスは何かを言い返そうと口を開き――結局、何も言わずに閉じた。


「……少し待っていろ」


 彼は抱えていた本を、アルフレッドへ押しつけた。


「重い」


「落とすな。王都でも手に入りにくい術式書だ」


「どうして寝るときまで本を持ってるの?」


「寝る前に読んでいたからだ」


「歩きながら?」


「自室へ戻る途中だった」


「北棟と兄上の部屋、反対方向じゃなかった?」


「……夜の散歩だ」


「本を持って?」


「細かいことを気にするな」


 そう言うと、ユリウスは見張りの兵士へ向かって歩き出した。


 足音に気づいた兵士が、慌てて姿勢を正す。


「ユリウス様。このような時間に、どうされました」


「北棟の書庫へ本を戻しに来た」


「書庫でございますか。しかし、こちらは地下倉庫へ続く階段ですが……」


「知っている」


 ユリウスは、いかにも機嫌が悪そうな声で答えた。


「書庫の鍵を部屋に忘れた。お前、取りに行け」


「わ、私がですか?」


「僕に戻れと言うのか?」


「いえ! そのようなことは……」


「鍵は机の上だ。部屋の前にいる従者へ言えば分かる」


 兵士は迷った。


 彼が受けた命令は、地下倉庫を見張ることだ。


 だが目の前にいるのは、正妻アーデルハイトの実子であり、高位スキル〈術式解析〉を持つ三男ユリウス。


 その命令を拒むことも、兵士には難しかった。


「では、少々お待ちください」


「急げ。眠い」


「はっ!」


 兵士は短槍を手にしたまま、廊下の向こうへ駆けていった。


 足音が十分に遠ざかると、ユリウスが物陰へ手招きする。


「今のうちだ」


 アルフレッドは本を抱えて飛び出した。


「兄上の部屋に、本当に鍵があるの?」


「ない」


「それじゃ、兵士が困るよ」


「従者も何の話か分からず困るだろうな」


「悪いことをしたんじゃ……」


「お前がそれを言うのか?」


 アルフレッドは黙った。


 確かに、これから主人の命令に背いて、地下倉庫へ入ろうとしているのは自分だ。


「本を返して」


「落とすなよ」


「落とさないよ」


「お前は昨日、廊下で滑りかけた」


「転んでないよ」


「セルマと同じ言い訳をするな」


「セルマも言ってた?」


「さあな」


 ユリウスは本を受け取り、先に階段を下り始めた。



 地下は、地上よりもさらに暗かった。


 湿った石の匂い。


 古い油。


 長い間、陽の光へ晒されていない空気。


 壁際には小さな魔石灯が一つだけ設置されているが、その光も今にも消えそうに明滅している。


 一段下りるたび、気温が少しずつ下がっていくようだった。


「セルマ!」


 階段の途中で、アルフレッドが呼びかけた。


「アル様?」


 すぐに奥から声が返ってくる。


 いつもの落ち着いた声音。


 けれど、わずかな驚きが混じっていた。


 地下通路の突き当たりに、鉄板で補強された頑丈な扉があった。


 格子状の小窓。


 分厚い錠前。


 扉の向こうに、淡い銀色の髪が見える。


 アルフレッドは扉へ駆け寄った。


「セルマ、大丈夫?」


「なぜ、こちらにいらっしゃるのですか」


「閉じ込められてるって聞いたから」


「今すぐお戻りください」


「でも――」


「アーデルハイト様のご命令です」


 セルマの声は、普段以上に固かった。


 小窓から見える顔には、新しい傷はない。


 だが残された右目には、アルフレッドがここへ来てしまったことへの焦りが浮かんでいる。


「命令だからって、食事もなしで閉じ込めるのはおかしいよ」


「私は奴隷です」


「それは関係ないでしょう?」


「関係があります」


 セルマは扉の向こうから、アルフレッドを真っ直ぐに見つめた。


「奴隷は、主人の命令へ従わなければなりません。逆らえば処罰されます」


「僕が出してあげる」


「その場合、処罰されるのはアル様です」


「僕も閉じ込められるの?」


「その程度で済めばよいのですが」


「じゃあ、一緒に怒られよう」


「なぜ、その結論になるのですか」


 横に立つユリウスが顔を背けた。


 口元が、わずかに震えている。


「兄上、笑った?」


「笑っていない」


「笑ってたように見えたけど」


「気のせいだ。それより、まず鍵を試せ」


「あ、そうだった」


 アルフレッドは銀の鍵を取り出した。


 扉の鍵穴は大きく、手の中の鍵とは形も古さも違う。


 どう見ても、この扉のために作られた鍵ではなかった。


「合わないと思うぞ」


「やってみないと分からないよ」


「母上の遺品だからといって、すべての鍵穴を開けられるわけではない」


「うん。でも、ほかに鍵がないから」


「それは理由になっていない」


 アルフレッドは、鍵を錠前へ差し込んだ。


 先端は途中まで入る。


 だが、それ以上は進まなかった。


 回すこともできない。


「やっぱり駄目か」


 ユリウスが呟く。


 アルフレッドは鍵を引き抜こうとした。


 だが内部で何かに引っかかり、今度は抜けなくなってしまった。


「あれ?」


「無理に動かすな。折れるぞ」


「でも、取れない」


「だから、合わない鍵を差すなと言ったんだ」


 ユリウスが鍵へ手を伸ばしかける。


 その瞬間。


 アルフレッドの指先が、淡い光を帯びた。


「……え?」


 昨日、銀の鍵を修繕したときと同じ感覚。


 ただし今回は、鍵そのものだけではなかった。


 鍵穴の奥。


 錆びついた留め金。


 歪んだ金属板。


 欠けた小さな歯車。


 長い年月と乱暴な扱いによって傷んだ、錠前全体の状態が頭の中へ流れ込んでくる。


 目で見えているわけではない。


 それでもアルフレッドには、どこが削れ、どこが歪み、何が本来の動きを妨げているのかが分かった。


 同時に、銀の鍵が錠前の内部へ入り切らない理由も理解できた。


「この鍵じゃないんだ」


「だから、そう言っただろう」


「違うよ。鍵が合わないだけじゃない。錠前の中が壊れてる」


「何?」


 アルフレッドは、片手を扉へ添えた。


 自分の中にある何かを、壊れた錠前へ流し込む。


「《修繕》」


 淡い光が鉄扉の表面を走った。


 錠前の内部から、がりがりと硬い音が響く。


 内部へ落ち込んでいた金属片が浮かび上がり、欠けていた部分へ吸い込まれていく。


 錆びついて動かなかった部品が、本来あるべき位置へ戻る。


 曲がっていた金属板が伸び、歯車が噛み合う。


 やがて――。


 かちり。


 軽い音が、地下通路へ響いた。


 銀の鍵が、錠前の中で自然に半回転した。


「開いた……」


 アルフレッドが扉を引く。


 長い間まともに整備されていなかったはずの鉄扉が、驚くほど滑らかに開いた。


 セルマが倉庫の中で目を見開いている。


 ユリウスも、言葉を失っていた。


「本当に……直したのか」


「うん。たぶん」


「たぶんで、鉄製の錠前を完全に修復するな」


「でも、直ったよ」


「そういう問題ではない」


 どこかで何度も聞いたような言葉だった。


 アルフレッドは首を傾げたが、今は気にしている場合ではなかった。


 扉の向こうへ入る。


 倉庫の中には、壊れた家具、破れた麻袋、使われなくなった道具が乱雑に積まれていた。


 その壁際に、セルマが座っている。


 左の足首には金属製の輪がはめられ、太い鎖が壁の金具へつながっていた。


 その光景を目にした瞬間、アルフレッドの表情から、わずかに残っていた笑みが消えた。


「どうして、鎖まで……」


「脱走防止のためでしょう」


「セルマは逃げたりしないよ」


「奥様は、そうお考えではなかったようです」


 セルマは淡々と答えた。


 けれど、その声には苦いものが混じっていた。


 アルフレッドは彼女の前へしゃがみ込み、足首を確認する。


 金属輪が食い込み、褐色の肌が赤く擦れている。


「痛い?」


「問題ございません」


「痛いかどうかを聞いてるんだけど」


「……少しだけ」


「やっぱり痛いんじゃないか」


 アルフレッドは鎖へ触れる。


「これも《修繕》すれば外せるかな」


「直したら、むしろ外れなくなるのでは?」


 背後からユリウスが指摘する。


「あ」


「考えてから使え」


「じゃあ、壊せば……」


「お前のスキルは〈修繕〉だろう」


「そうだった」


 セルマが小さく息を吐く。


「お二人とも、もうお戻りください」


「セルマを置いていけないよ」


「私は明日の朝には出されます」


「本当に?」


「……おそらく」


「さっきセルマ、おそらく転ばないって言ってたよね」


「今は関係ありません」


「おそらくって、絶対じゃないんでしょう?」


 セルマは返答に詰まった。


 アルフレッドは再び、鎖へ目を向ける。


 《修繕》では外せない。


 けれど昨日、授かったスキルはもう一つある。


「《清掃》なら、どうかな」


「鎖は汚れていますが、きれいにしたところで消えはしないでしょう」


 ユリウスの言葉はもっともだった。


 それでもアルフレッドは、金属輪へ手を置いた。


 錆。


 土埃。


 古い油。


 人の手から付着した脂。


 そして、それらとは明らかに異なる何か。


 金属輪とセルマの身体を、強引に結びつけるように漂う、薄暗い魔力。


 アルフレッドには、その正体は分からなかった。


 術式の知識など、ほとんどない。


 ただ、それが金属輪本来の一部ではないことだけは、なぜか理解できた。


 そこにあるべきではないもの。


 外から後付けされた異物。


「《清掃》」


 淡い光が、鎖と金属輪を包む。


 表面にこびりついていた錆と汚れが、細かな砂のように崩れ落ちた。


「本当にきれいにはなったな」


 ユリウスが感心したように目を細める。


「でも、外れないね」


「当然――」


 そのときだった。


 セルマの足首付近から、黒い煙のようなものが立ち上った。


「……っ!」


 セルマが息を呑む。


 金属輪の内側に刻まれていた小さな術式が、一つ、また一つと光を失っていく。


 同時に、足首を締めつけていた輪が、わずかに緩んだ。


「何が起きた?」


 ユリウスが素早くしゃがみ込み、金属輪を観察する。


「固定術式が……消えている」


「やっぱり汚れてたのかな」


「術式を汚れとして除去したのか?」


「分からない」


「分からないことが多すぎる」


 ユリウスは呆れた口調だった。


 けれどその瞳には、学者としての強い興味が浮かんでいる。


「少なくとも、ただの生活スキルではない」


「掃除は生活に必要だよ?」


「そういう話ではない」


「今日、何度も言われるなあ」


 魔力による固定が消えたことで、輪と足首の間にわずかな隙間が生まれている。


 セルマは細い足を横へ傾け、ゆっくりと輪から引き抜いた。


 金属輪が床へ落ちる。


 乾いた音が響いた。


 外れた。


 三人はしばらく、無言で鎖を見つめた。


「セルマ、痛くない?」


「……はい」


 セルマは足首へ触れた。


 赤く擦れてはいるが、深い傷にはなっていない。


 けれど彼女の視線は、自分の足ではなく、アルフレッドの手へ向けられていた。


「アル様」


「なに?」


「今、何をなさったのですか」


「鎖をきれいにした」


「そういうことではありません」


「僕にも、よく分からないんだ」


「おそらく」


 ユリウスが、金属輪を拾い上げながら言った。


「お前の〈清掃〉は、泥や埃だけを取り除く力ではない」


「じゃあ、何をきれいにするの?」


「それが分からないから、おそらくと言った」


「兄上にも、分からないことがあるんだね」


「当然ある」


「少し安心した」


「どういう意味だ」


 暗く冷たい地下倉庫に、ほんの一瞬だけ穏やかな空気が流れた。


 しかし、その時間は長く続かなかった。


 地上から、複数の足音が響いてくる。


 先ほどの兵士が、誰かを連れて戻ってきたのだろう。


「まずい」


 ユリウスが階段の方向を振り返った。


「アルフレッド。セルマを連れて、裏の通路から出ろ」


「裏の通路?」


「この倉庫は、昔の使用人用通路とつながっている。奥の棚の裏だ」


「兄上は?」


「僕はここに残る」


「一緒に来ればいいよ」


「三人とも消えれば、最初から示し合わせていたと疑われる」


「でも、兄上も怒られるよ」


「お前一人に任せれば、もっとひどいことになる」


「それは、僕が頼りないから?」


「そうだ」


 即答だった。


「少しくらい迷ってくれてもいいのに」


「迷っている時間はない。行け」


 セルマは、その場から動かなかった。


「ユリウス様。私が残ります」


「お前が残れば、アルフレッドも戻る」


「戻るよ」


「ほらな」


 ユリウスは倉庫の奥へ駆け寄り、積まれていた木箱を幾つか動かした。


 その裏に、人一人がようやく通れるほどの小さな木戸が隠されている。


「この先を真っ直ぐ進め。洗い場の裏へ出る」


「どうして、こんな道を知ってるの?」


「昔、この辺りを探検した」


「兄上も、悪いことをしてたんだね」


「今、それを言うな!」


 階段を下りてくる足音が近づく。


 鎧の擦れる音。


 兵士たちの話し声。


 アルフレッドは、セルマの左手を取った。


「行こう」


「ですが――」


「一緒に来てくれるって、言ったでしょう?」


 昼間、セルマが口にした言葉だった。


 ――私は、アル様と共に参ります。


 ――何があろうと。


 セルマは目を伏せた。


 それから、小さく頷く。


「……はい」


 二人は木戸の向こうへ入った。


 アルフレッドは最後に振り返る。


「兄上」


「何だ」


「ありがとう」


「礼は、無事に逃げてから言え」


「分かった」


 木戸が閉じられる直前、ユリウスが低い声で付け加えた。


「それと、その銀の鍵は絶対に失くすな」


「どうして?」


「地下倉庫の鍵ではない。それなのに、修繕された錠前が、その形に合わせて動いた」


「うん」


「普通の鍵ではない可能性がある」


 アルフレッドが聞き返す前に、木戸は閉じられた。


 直後。


 倉庫の鉄扉が、乱暴に開かれる。


「ユリウス様!?」


「なぜ、こちらに!」


「騒ぐな。少し道に迷っただけだ」


「地下倉庫でございますが!?」


「だから、迷ったと言っている」


「それに扉が開いております!」


「壊れていた錠前が、勝手に直ったようだ」


「勝手に!?」


「古い屋敷だ。そういうこともある」


「ございません!」


 兄の声を背に、アルフレッドとセルマは暗い通路を進んだ。



 使用人用通路は狭く、埃と蜘蛛の巣に覆われていた。


 天井は低く、アルフレッドでも何度か頭をぶつけそうになる。


「《清掃》を使おうか?」


「今はお控えください」


「どうして?」


「発光すれば、居場所を知られます」


「あ、そっか」


「それから、私の手を離さないでください」


「うん」


「床板が腐っている場所もあります」


「セルマが転ばないため?」


「アル様が落ちないためです」


「セルマは?」


「私は見えます」


 ダークエルフの目には、わずかな光でも周囲が見えるらしい。


 片目を失っていても、その足取りに迷いはなかった。


 アルフレッドは、彼女の左手を両手で握って進んだ。


 何度か道が曲がり、細い階段を上る。


 やがて前方に、月明かりが見えた。


 木戸を押し開けると、冷たい夜気が頬へ触れる。


 二人が出たのは、屋敷の洗い場の裏だった。


 正面には、夜の庭。


 振り返れば、男爵邸の窓に幾つもの明かりが灯っている。


 まだ誰も、二人が外へ出たことには気づいていないようだった。


「セルマ」


「はい」


「このまま、僕と一緒に灰境へ来て」


 セルマは、すぐには答えなかった。


「アーデルハイト様は認めないと思う」


「存じております」


「だったら、隠れて開拓局の馬車に乗るとか」


「出発前に荷物の検査が行われます。すぐに発見されるでしょう」


「じゃあ、僕の鞄の中は?」


「私が入る大きさではございません」


「大きな箱を用意するとか」


「片腕以前の問題として、私は荷物ではありません」


「そうだった」


「ご自分でおっしゃったことを、すぐにお忘れにならないでください」


 アルフレッドは困ったように眉を下げた。


「じゃあ、どうしよう」


「アル様」


 セルマは静かに少年を見下ろした。


「私は、ヨーレリヒト家の所有する奴隷です」


「うん」


「アル様と共に灰境へ向かうためには、本家の許可が必要です」


「でも、許可してくれないよ」


「はい」


 セルマの口調は冷静だった。


 けれど左手は、アルフレッドの手を握ったまま離そうとしなかった。


「ですから、アル様は予定どおり出発してください」


「セルマを置いて?」


「私は、後から参ります」


「後から?」


「必ず追いつきます」


 アルフレッドは、不安そうにセルマを見上げた。


「本当に?」


「はい」


「どうやって?」


「……それは、まだ考えておりません」


「考えてないの?」


「アル様にだけは、言われたくございません」


 それはもっともだった。


 アルフレッドは、少しだけ笑う。


 だがすぐに、不安そうな顔へ戻った。


「一人で来るのは危ないよ」


「危険であることは承知しております」


「僕、ここで待つよ」


「お待ちになっては困ります」


「でも――」


「灰境へ到着したら、まず安全な場所を確保してください」


「セルマが来る場所も?」


 セルマの残された目が、わずかに揺れた。


「……はい」


「分かった」


 アルフレッドは、ゆっくりと頷いた。


「セルマの部屋も作る」


「私は使用人ですので、物置で十分です」


「駄目だよ」


「なぜです?」


「セルマは物じゃないから」


 あまりにも当たり前のように言われ、セルマは何も返せなかった。


 アルフレッドは、彼女の空になった右袖を見たわけでも、眼帯を見たわけでもない。


 ただ、一人の人間としてセルマの顔を見ていた。


「ちゃんと部屋を作る」


「アル様は、まだ現地の家の状態すらご存じないでしょう」


「壊れてたら直すよ」


「屋根がないかもしれません」


「屋根から直す」


「壁もないかもしれません」


「壁も作る」


「家そのものが残っていない可能性もあります」


 アルフレッドは、少し考えた。


「じゃあ、最初から作ればいいね」


 セルマは長い息を吐いた。


「本当に、簡単におっしゃいます」


「難しい?」


「非常に」


「でも、できないとは言わないんだね」


「できないと申し上げても、アル様はなさるでしょう」


「うん」


「でしたら、私が止めるだけ無駄です」


「手伝ってくれる?」


「……仕方ありません」


 セルマは顔を背けた。


 月明かりに照らされた長い耳の先が、少しだけ赤くなっている。


「必ず、参ります」


「待ってる」


「灰境で、です」


「分かってるよ」


「途中の街道で待たないでください」


「少しくらいなら」


「お待ちにならないでください」


「……はい」


「お約束を」


 アルフレッドはセルマの左手を握り直した。


「約束する。灰境へ先に行って、セルマが来られる場所を作る」


「私も、お約束いたします」


 セルマは静かに答えた。


「必ず、アル様のもとへ参ります」


 二人は、屋敷の裏手で小さな約束を交わした。


 それは、主人と奴隷の間に交わされた命令ではない。


 離れたくない二人が、自分たちの意思で結んだ、初めての約束だった。



 その夜のうちに、セルマは一度、使用人棟へ戻った。


 何事もなかったように自室へ入り、最低限の物だけを集める。


 使い古した外套。


 小さな水筒。


 干し肉。


 短剣。


 包帯。


 そして、亡きマリエルから預かっていた小さな革袋。


 夜明け前。


 見張りの交代で屋敷内の警戒が薄くなる、ほんのわずかな時間。


 セルマは男爵邸を抜け出した。


 馬もない。


 旅費もない。


 右腕も、左目もない。


 奴隷の首輪も、まだついたまま。


 それでも、彼女の足取りに迷いはなかった。


 向かう先は一つ。


 灰境。


 アルフレッドが送られる、王国北東部の最果て。


 夜が明ける頃、アーデルハイトはセルマの逃亡を知った。


「追いなさい」


 穏やかな声で、短く命じる。


「生死は問いません。ですが、アルフレッドへ接触させてはなりません」


 屋敷から、数人の追跡者が放たれた。


 その頃。


 何も知らないアルフレッドは、ようやく自室へ戻り、セルマが使っていた椅子へ視線を向けていた。


「灰境で、待ってるからね」


 空になった部屋で、小さく呟く。


 すでにセルマが、自分より先に長い旅へ踏み出していることを。


 その背後へ、追っ手が迫っていることを。


 アルフレッドは、まだ知らなかった。



第3話 閉じ込められたセルマ 了

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