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男爵家四男の辺境開拓記 ~不遇スキル《修繕》と《清掃》で、みんなの帰る場所を作ります~  作者: 和泉發仙
第一章 灰境への道

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灰境へ行けと言われました

第一章 捨てられた四男編


第2話 灰境へ行けと言われました


前書き


家を出る理由には、


いろいろなものがあります。


夢を追うため。


仕事を始めるため。


誰かと暮らすため。


けれど中には、


帰ってこないことを望まれて、


送り出される者もいるのです。



「灰境の開拓領主……ですか?」


 翌朝。


 父ヴォルフラムの執務室へ呼び出されたアルフレッドは、告げられた言葉の意味を理解しきれず、何度か瞬きをした。


 重厚な執務机の向こうには、ヨーレリヒト男爵家当主ヴォルフラム・ロナ・ヨーレリヒトが座っている。


 その右隣に立つのは、正妻アーデルハイト。


 さらに長男レオンハルトと長姉セシリアまで同席していた。


 ただ家族の話をするだけにしては、妙に物々しい顔ぶれだった。


「聞こえなかったのか」


 ヴォルフラムの低い声が響く。


「いえ。聞こえました」


 アルフレッドは、両手で受け取った任命書へ視線を落とした。


 厚手の上質な紙。


 上部にはヨーレリヒト家の紋章が押され、末尾には父の署名が記されている。


 そして中央には、大きな文字で一つの地名が書かれていた。


 ――灰境。


 ソデリヤ王国北東部。


 山と森に囲まれた、ヨーレリヒト家所有の開拓領。


 昨日までのアルフレッドは、男爵家の四男にすぎなかった。


 それが今日からは、書類の上だけとはいえ、一つの土地を預かる領主になるらしい。


「でも、どうして僕が?」


 アルフレッドが素直に尋ねると、ヴォルフラムは眉を寄せた。


「不満なのか」


「不満というより、驚いています」


「お前も十二歳だ。授紋の儀を終えた以上、ヨーレリヒト家の一員として役目を持たねばならん」


「十二歳で領主になる人は、珍しいのでは?」


「通常の領主ならば、そうでしょう」


 答えたのはアーデルハイトだった。


 今日も彼女は美しく身なりを整え、非の打ち所のない穏やかな微笑を浮かべている。


「けれど、あなたに与えられるのは開拓領です」


「普通の領地とは違うんですか?」


「すでに町や農地が整えられた土地を治めるのではありません。荒れた土地を切り開き、領民をまとめ、王国へ新たな富をもたらす。それが開拓領主の役目です」


「荒れた土地を……」


「あなたが授かったスキルに、これほど相応しい役目はないでしょう?」


 アーデルハイトの視線が、任命書の脇へ置かれた授紋証明書へ向けられる。


 そこには、昨日判明した二つのスキルが記されていた。


 《清掃》。


 《修繕》。


「汚れた土地を清め、壊れた建物を直す。あなたの力を、思う存分に生かせるのではなくて?」


「なるほど」


 アルフレッドは、少し考えてから頷いた。


「確かに、そうかもしれません」


 セシリアが扇子の陰で、わずかに眉を上げる。


 もう少し怯えるか、父へ取り消しを願い出ると予想していたのだろう。


「アルフレッド」


 長男レオンハルトが、低い声で呼びかけた。


 二十二歳の彼は、次期当主として幼い頃から領主教育を受けている。


 父に似た端正な顔立ちをしているが、その表情はいつも硬い。


「開拓領主は遊びではない」


「うん」


「領民の生活。食料の確保。税の管理。治安の維持。魔物への対処。道や水源の整備。そのすべてに責任を負うことになる」


「分かりました」


「本当に分かっているのか?」


 問われたアルフレッドは、少し考えた。


 そして正直に答えた。


「まだ、よく分かっていないと思います」


「なに?」


「聞いたことは分かります。でも、実際に領地を治めたことはないから、本当にどれくらい大変なのかは分かりません」


 あまりにも率直な返答に、レオンハルトが言葉を詰まらせる。


「ですが、分からないことは、向こうの人たちに教えてもらいます」


「領民に教えを乞うつもりか?」


「その土地のことは、住んでいる人のほうが詳しいでしょう?」


「領主が、民へ頭を下げるものではない」


「でも、何も知らないまま命令するより、教えてもらったほうがいいと思うけど……」


 アルフレッドが不思議そうに首を傾げる。


 レオンハルトの眉間へ、深いしわが刻まれた。


 彼が学んできた領主学では、領主とは民を導く者だった。


 民から教えを受けるなど、威厳を損なう行為でしかない。


 だがアルフレッドには、分からないことを分からないままにしておくほうが、よほど危険に思えた。


「アルフレッド」


 ヴォルフラムが、二人の会話を打ち切った。


「任命は決定事項だ」


「はい」


「出発は三日後。王国開拓局の護送隊が到着する」


「王国開拓局?」


「開拓領主や物資を、指定された土地まで送り届ける王国の機関です」


 アーデルハイトが説明する。


「道中の護衛だけでなく、地図の確認や馬車の整備も担当します。灰境へ到着するまでは、彼らの指示に従いなさい」


「分かりました」


「同行できる荷物には限りがあります。身の回りの品をまとめておくように」


「本は持っていってもいいですか?」


「必要なものを数冊までなら認める」


 ヴォルフラムが答える。


「壊れた椅子は?」


「なぜ椅子を持っていく必要があるのです?」


 アーデルハイトの笑顔が、ほんの少しだけ固まった。


「昨日、スキルを試そうと思って」


「灰境には、壊れた物などいくらでもあるでしょう」


「あ。それもそうですね」


「……話は以上です」


 ヴォルフラムは机の上へ視線を戻した。


 これ以上、アルフレッドと会話を続けるつもりはないようだった。


「出発までに準備を整えておけ」


「分かりました」


 アルフレッドは任命書を抱え、丁寧に一礼した。


 扉へ向かいかけたところで、ふと足を止める。


「父上」


「何だ」


「灰境には、何人くらい住んでいるんですか?」


 室内の空気が、わずかに止まった。


 ヴォルフラムはすぐには答えなかった。


 代わりにアーデルハイトが、穏やかな声で告げる。


「本家に残された最後の記録では、六十八名です」


「六十八人……」


 アルフレッドは、その数字を小さく繰り返した。


 それまでは、灰境という地名しか意識していなかった。


 けれど六十八という数字を聞いた瞬間、その土地に暮らす人々の姿が、少しだけ現実味を持った。


 老人がいるかもしれない。


 自分と同じ年頃の子どももいるかもしれない。


 畑を耕す人。


 料理をする人。


 怪我や病気を抱えた人。


 自分が失敗すれば、その人たちが困る。


 先ほどまでの軽い驚きが、アルフレッドの表情から消えていく。


「記録は、いつのものですか?」


 初めて、アルフレッドのほうから尋ねた。


 アーデルハイトの瞳が、ほんのわずかに細められる。


「かなり以前のものです」


「今は、何人いるか分からないんですね」


「灰境との定期的な連絡は途絶えています」


 答えたのはレオンハルトだった。


「街道の状態が悪化し、調査隊を送る費用も増した。最後に正式な報告が届いてから、すでに長い年月が経っている」


「そうなんだ……」


 増えているかもしれない。


 減っているかもしれない。


 あるいは、もう誰もいない可能性すらある。


 それでも、記録に六十八人と残されている以上、誰かが今もそこで暮らしているかもしれない。


「分かりました」


 アルフレッドは、任命書を両手で持ち直した。


「できるだけ頑張ります」


「期待していますよ」


 アーデルハイトは、優しく微笑みながら言った。


 その言葉に、どれほどの本心が含まれていたのか。


 この部屋で気づいていないのは、おそらくアルフレッドだけだった。



「お待ちください」


 自室へ戻り、任命のことを説明した直後。


 セルマの口から出たのは、祝福でも驚きでもなかった。


「私も同行いたします」


 迷いのない声だった。


「うん。その相談をしようと思ってたんだ」


 アルフレッドは机の上へ任命書を広げた。


 その隣には、執事から借りてきた灰境周辺の地図が置かれている。


 ソデリヤ王国北東部。


 北と東を険しい山脈に囲まれ、西と南には広大な森林が描かれていた。


 灰境へ通じる道らしき線は、一本だけ。


 しかも途中から薄くなり、最後には消えている。


「ここみたい」


 アルフレッドが、地図の一点を指差す。


 セルマは机へ身を寄せ、残された右目で地図を確認した。


「……古い地図ですね」


「分かるの?」


「記された街道の一部は、すでに使われていないはずです」


「そうなの?」


「厨房へ出入りする行商人から聞いたことがあります。北東の街道では、近年、魔物の被害が増えていると」


「多少険しいだけだって聞いたけど」


 セルマの目が、わずかに細くなる。


「誰からですか」


「アーデルハイト様」


「……そうですか」


 ただそれだけ。


 けれど声から、わずかに温度が消えていた。


「では、なおさら私が必要です」


「セルマは森のことが分かるの?」


「幼い頃に、多少」


 セルマが奴隷として男爵家へ来る以前、どのような暮らしをしていたのか。


 アルフレッドは詳しく知らない。


 尋ねても、彼女は多くを語ろうとしなかった。


「でも、危ないよ」


「アル様がおっしゃることではございません」


「どうして?」


「アル様も、その危険な場所へ行かれるのでしょう」


「僕は任命されたから」


「私は、アル様にお仕えするよう命じられております」


 セルマは、いつものように淡々と答えた。


 だがアルフレッドは、すぐには頷かなかった。


「命じられたから?」


「はい」


「それだけ?」


 セルマの表情が、わずかに固まる。


 予想していなかった問いだったのだろう。


「僕が行くから、仕方なくついてくるの?」


「そのようなことは……」


「嫌なら、残ってもいいんだよ」


「嫌ではありません」


 返事は、ほとんど間を置かなかった。


 アルフレッドは、少し安心したように笑う。


「よかった」


「私は、アル様と共に参ります」


「うん」


「何があろうと」


 いつものセルマにしては、妙に強い言葉だった。


 だがアルフレッドは、その奥にある覚悟までは読み取れなかった。


「じゃあ、二人分の荷物を準備しないとね」


「私がいたします」


「僕もやるよ」


「お断りします」


「どうして?」


「アル様に任せますと、必要な物より、壊れた道具を多く詰め込まれる恐れがあります」


「そんなことないよ」


「先ほど、壊れた椅子を持っていこうとなさったのでしょう?」


「どうして知ってるの?」


「執事長から伺いました」


「話すのが早いなあ……」


「椅子は置いていきます」


「一脚くらいなら」


「置いていきます」


「……はい」


 また負けた。


 それでもアルフレッドは、どこか楽しそうだった。


 未知の土地へ行くことが、怖くないわけではない。


 けれど、セルマが隣にいてくれるなら、何とかなるような気がしていた。


「まずは服と薬。それから、保存食を用意いたします」


「掃除道具も」


「現地にあるでしょう」


「壊れていたら?」


「雑巾は、それほど壊れる物ではございません」


「穴が開いてるかもしれないよ」


「では、布を数枚持っていきます」


「箒は?」


「現地で枝を集めれば作れます」


「セルマ、開拓に詳しいね」


「アル様が不要な荷物を増やそうとなさるので、考える必要に迫られております」


 そう言いながら、セルマは棚から旅行鞄を引き出した。


 片腕しかなくとも、その動きには迷いがない。


 アルフレッドも手伝おうと、別の鞄へ手を伸ばす。


「それは重いので、触らないでください」


「まだ空だよ」


「昨日、廊下で滑りかけておられました」


「滑りかけただけで、転んでないよ」


「結果ではなく、危険を避けるべきです」


「セルマのほうが領主に向いてるんじゃないかな」


「心から否定いたします」


 その返答だけは、いつもより少し早かった。



 昼食の席では、アルフレッドの灰境行きが、すでに家族全員へ知らされていた。


 長い食卓。


 白い布。


 磨き上げられた銀器。


 美しく盛りつけられた肉料理と、焼きたての白パン。


 アルフレッドの席は、父から最も遠い末席にある。


「灰境ですって?」


 次姉ヴィオラが、笑いを堪えるように口元へ手を添えた。


「まあ、昨日の今日で、随分と相応しい場所が見つかったのね」


「どんな場所なんですか?」


 アルフレッドが尋ねると、ヴィオラは目を丸くした。


「知らないの?」


「地図は見たけど、詳しいことはまだ」


「魔物の巣よ」


 彼女は、菓子の話でもするような軽い調子で言った。


「山には飛竜。森には大蜘蛛や森狼。街道を通った行商隊が、荷馬車ごと消えたこともあるそうよ」


「ヴィオラ」


 長男レオンハルトが、低い声で制止する。


「何よ。本当のことでしょう?」


「不確かな噂を、事実のように口にするな」


「では、兄上は灰境へ行きたい?」


 レオンハルトは答えなかった。


 それだけで、十分な答えになっていた。


「六十八人も住んでるんでしょう?」


 アルフレッドが言う。


「人が住めるなら、魔物ばかりじゃないと思う」


「昔の記録では、でしょう?」


 長姉セシリアが静かに口を挟んだ。


「本家から正式な調査団が派遣されたのは、かなり以前のことです」


「それなら、今はもっと増えてるかもしれないね」


 一瞬の沈黙。


 ヴィオラが耐えきれずに吹き出した。


「減っている可能性は考えないの?」


「あ……」


 言われて初めて気づいたらしい。


「そうか。増えることもあれば、減ることもあるよね」


「本当に呑気ね」


「アルフレッド」


 父ヴォルフラムが低く呼んだ。


「灰境へ到着したら、まず正確な人口と土地の状態を確認しろ」


「はい」


「開拓局の書記へ報告書を作成させ、王国と本家へ提出すること」


「分かりました」


「開拓地からの税は、初年度のみ免除する。二年目以降は、収穫量に応じて納めよ」


「収穫がなかったら?」


「収穫を得られるようにすることが、領主の務めだ」


「分かりました」


 本当には分かっていないかもしれない。


 それでもアルフレッドは、誤魔化さずに頷いた。


「護送には、誰がつくのですか?」


 ふいに三男ユリウスが尋ねた。


 十四歳の彼は、兄姉の中ではアルフレッドと最も年齢が近い。


 長い黒髪を首元で束ね、食事中にもかかわらず、隣の椅子には分厚い本を置いている。


「王国開拓局の第七開拓隊が来る」


 ヴォルフラムが答えた。


「開拓局が、灰境まで?」


「新任開拓領主の護送と、現地確認は開拓局の管轄だ」


「到着した後は?」


「引き継ぎを終えれば、彼らは帰還する」


「では、灰境に着いた後の護衛は?」


「現地の者を使えばよい」


 ユリウスは、何か言いたそうに父を見た。


 だがヴォルフラムの表情を確認すると、それ以上は尋ねなかった。


 アルフレッドは、そんなやり取りに気づかず、皿の上の肉を小さく切り分けている。


「ねえ、アルフレッド」


 ヴィオラが笑いながら身を乗り出した。


「もし魔物が家へ入ってきたら、《清掃》で追い払うの?」


「魔物って汚れてるの?」


「知らないわよ!」


「汚れてるなら、少しくらいきれいになるかもしれないね」


「そういう話じゃないでしょう!」


 思いがけない返答に、ヴィオラがむっとする。


 ユリウスが、思わず咳き込んだ。


 笑ったのを隠したらしい。


「何がおかしいの?」


「いや。肉が喉に引っかかっただけだ」


「ずいぶん楽しそうに引っかかるのね」


「気のせいだ」


 食卓の空気が、ほんの少しだけ緩んだ。


 だがアーデルハイトだけは、穏やかな微笑を崩すことなく、アルフレッドを見つめていた。


 魔物の巣だと聞かされても、泣かない。


 家族から遠ざけられると知っても、拒まない。


 それどころか、見たこともない領民の心配をしている。


 自分が追い出されようとしていることに、まだ気づいていない。


 その無邪気さが、彼女には妙に癇に障った。


「ところで」


 アーデルハイトが、食後の会話のような自然さで口を開いた。


「同行する使用人についてですが」


 アルフレッドが顔を上げる。


「セルマを連れていきます」


「いいえ」


 否定は、あまりにも早かった。


「え?」


「あの奴隷は、ヨーレリヒト家の所有物です。あなた個人の使用人ではありません」


「でも、母さんがセルマを――」


「マリエル様がお亡くなりになった後、所有権は本家へ戻っています」


 アーデルハイトの口調は、どこまでも柔らかい。


 だが、その言葉には異論を挟む余地がなかった。


「灰境へは、必要に応じて別の使用人を同行させます」


「誰ですか?」


「現在、選ばせています」


「セルマでは駄目なんですか?」


「片腕と片目を失った奴隷を、魔物の多い土地へ連れていってどうするのです」


 まるでセルマの身を案じているような言い方だった。


「ですが、セルマは森のことも分かります」


「幼い頃の記憶でしょう。今の身体では、あなたを守ることもできません」


「守ってもらうために、連れていくんじゃありません」


「では、何のためです?」


 アルフレッドは答えようとした。


 けれど、うまく言葉にならない。


 セルマは、昔からそこにいた。


 母が亡くなった後も。


 姉たちに笑われた日も。


 熱を出して眠れなかった夜も。


 悲しいことがあったときも、何も聞かずに温かな飲み物を置いてくれた。


 アルフレッドにとってセルマは、使用人だからそばにいる人ではなかった。


「一緒に行きたいからです」


 ようやく出たのは、子どもらしく単純な答えだった。


 アーデルハイトの目が、わずかに細められる。


「あなたは、遊びに行くのではありません」


「分かっています」


「分かっていないから、そのようなことを言うのです」


 アルフレッドは黙り込んだ。


 そして、父へ視線を向ける。


「父上」


「アーデルハイトの言うとおりだ」


 ヴォルフラムの答えは短かった。


「セルマの同行は認めない」


「……はい」


 アルフレッドは俯いた。


 灰境へ送られると告げられたときでさえ、これほど分かりやすく落ち込まなかった。


 その姿を見たユリウスが、わずかに顔をしかめる。


 だが、この場で正妻の決定に反対する者はいなかった。



 昼食を終えた後。


 アルフレッドは、自室の扉を開けた。


 そこには、机の上へ広げられた地図と、空の旅行鞄が残されている。


「セルマ?」


 返事はなかった。


「どこにいるの?」


 荷造りをすると言っていたはずなのに、部屋のどこにも姿がない。


 少し待てば戻ってくるかもしれない。


 そう考えて、アルフレッドは自分で服を畳み始めた。


 しかし、袖と裾の向きがなかなか揃わない。


「……難しい」


 いつもなら、セルマが隣から手を伸ばしてくる。


『上下が逆です』


『その畳み方では、すぐ崩れます』


『アル様は、なぜ毎回新しい畳み方を発明なさるのですか』


 そんな声が聞こえてきそうだった。


 だが、夕方になってもセルマは戻らなかった。


 夕食の時間になっても。


 日が暮れ、屋敷の魔石灯へ明かりが灯っても。


 アルフレッドは、使用人棟へ向かった。


「セルマを見なかった?」


 洗濯物を畳んでいた侍女へ尋ねる。


「侍女長に呼ばれたのではないでしょうか」


 厨房へ向かう。


「セルマさんなら?」


「今日は見ていないねえ」


 マルグリットが、心配そうに首を傾げた。


 洗い場。


 倉庫。


 母が使っていた庭。


 どこを探しても、セルマはいない。


 最後にアルフレッドは、今は誰も使っていない母マリエルの部屋へ向かった。


 扉の前で足を止める。


 部屋は、母が亡くなって以来、閉ざされたままだ。


 立ち入りを禁じられているわけではない。


 けれど、アルフレッドは何となく扉を開けることができずにいた。


 胸元の銀飾りへ触れる。


 それから、ポケットの中へ手を入れた。


 取り出したのは、小さな銀の鍵だった。


 母の遺品の中に残されていたものだ。


 何の鍵なのかは分からない。


 屋敷の扉や箱へ何度試しても、どの鍵穴にも合わなかった。


 そのうえ長い年月で錆び、先端がわずかに曲がっている。


「これも、壊れてるんだよね」


 アルフレッドは、鍵を掌へ乗せた。


 昨日授かった力を、まだ一度も試していない。


 使い方を教えてくれる者もいなかった。


 だが、スキルとは魂に刻まれた力だという。


 ならば、使いたいと願えば応えてくれるのかもしれない。


 銀の鍵を見つめる。


 直したい。


 そう、心から思った。


「《修繕》」


 小さく呟く。


 次の瞬間。


 掌の上で、鍵が淡い光に包まれた。


「……っ」


 指先から、温かな何かが流れ出す。


 それが銀の鍵へ吸い込まれていく。


 表面へこびりついていた黒い錆が、薄い殻のように剥がれた。


 曲がっていた先端が、ゆっくりと元の形へ戻っていく。


 欠けていた細かな歯まで、見えない手に整えられるかのように再生していく。


 数秒後。


 アルフレッドの掌には、美しい銀色を取り戻した一本の鍵が残されていた。


「直った……」


 嬉しさより先に、驚きが込み上げる。


 磨いただけではない。


 歪みも欠けも、完全に元へ戻っている。


 熟練した職人に頼んでも、ここまで正確に直すことは難しいかもしれない。


「本当に、便利だ」


 教会で笑っていた者たちの顔が、ふと頭に浮かぶ。


 だが今は、何も気にならなかった。


 少なくとも、この鍵は直った。


 昨日まで使えなかったものが、もう一度役目を持てるようになった。


 それだけで、アルフレッドには十分だった。


「セルマにも見せたいな」


 そう呟いたとき。


 廊下の奥から、複数の足音が聞こえてきた。


 アルフレッドは反射的に、太い柱の陰へ身を隠した。


 別に悪いことをしていたわけではない。


 だが夜の廊下で見つかれば、部屋へ戻るよう言われる。


 セルマを探す前に、連れ戻されたくなかった。


 近づいてきたのは、侍女長オルガと、見慣れない二人の兵士だった。


「奥様からのご命令です」


 オルガの硬い声が響く。


「出発の日まで、あの奴隷を地下倉庫から出してはなりません」


「食事は、どういたしますか」


 兵士の一人が尋ねる。


「最低限の水だけでよいとのことです」


「ですが、三日間も?」


「余計な情けをかける必要はありません」


「……承知しました」


「アルフレッド様と接触させてはなりません。出発後の扱いについては、奥様が改めてお決めになります」


 足音が遠ざかっていく。


 アルフレッドは、柱の陰からゆっくりと顔を出した。


「セルマ……?」


 地下倉庫。


 その言葉には、心当たりがあった。


 屋敷北棟の地下。


 かつて、重大な失敗をした使用人や、逃亡を図った奴隷を閉じ込めるために使われていた場所。


 セルマは、そこへ入れられている。


 理由は一つしか思い浮かばなかった。


 自分と共に灰境へ行くと言ったからだ。


 アルフレッドは、直したばかりの銀の鍵を強く握りしめた。


 そして北棟へ向かって走り出す。


 だが、数歩進んだところで足が止まった。


 セルマを閉じ込めたのは、アーデルハイトの命令だ。


 父も、セルマの同行を認めなかった。


 地下倉庫へ行き、勝手に扉を開ければ、当主と正妻の命令へ背くことになる。


 貴族の子として。


 ヨーレリヒト家の一員として。


 決して許されないことなのかもしれない。


 もし捕まれば、自分だけでなくセルマへの処罰も重くなる可能性がある。


 アルフレッドは、暗い廊下で立ち尽くした。


 怖かった。


 叱られることが、ではない。


 自分の行動によって、セルマがさらに傷つけられることが怖かった。


 けれど。


 暗く冷たい倉庫の中で、一人きりになっているセルマを想像した。


 片腕で。


 片目で。


 食事も与えられず。


 自分が来るのを待っているかもしれない。


 アルフレッドは、胸元にある母の銀飾りへ手を触れた。


「……ごめんなさい」


 誰へ向けた謝罪なのか、自分でも分からなかった。


 父へか。


 アーデルハイトへか。


 母へか。


 それとも、これから迷惑をかけるかもしれないセルマへか。


 それでも。


 次の瞬間には、少年は再び走り出していた。


 直したばかりの銀の鍵を、手の中に握りしめて。



第2話 灰境へ行けと言われました 了

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