僕のスキルは《清掃》と《修繕》でした
第一章 灰境への道
第一編 捨てられた四男編
第1話 僕のスキルは《清掃》と《修繕》でした
前書き
才能があれば、
人は幸せになれるのでしょうか。
立派な家に生まれれば、
大切にしてもらえるのでしょうか。
その答えを、少年はまだ知りません。
ただ一つ知っていたのは――
汚れたものは、きれいにできる。
壊れたものは、直せるかもしれない。
それだけでした。
⸻
「アルフレッド様! 何をなさっているのですか!」
朝の静かな廊下に、若い侍女の悲鳴が響き渡った。
声に驚いたアルフレッド・ロナ・ヨーレリヒトは、磨いていた床から顔を上げた。
十二歳になったばかりの少年である。
柔らかな銀灰色の髪に、亡き母から受け継いだ淡い青色の瞳。貴族の少年としては小柄で、まだ幼さの残る穏やかな顔立ちをしている。
その手に握られているのは、剣でも魔術の杖でもない。
水を含んだ一枚の雑巾だった。
「何って……床を拭いてるんだけど」
「それは見れば分かります!」
若い侍女は青ざめた顔で駆け寄ってきた。
「本日は大切な授紋の儀ですよ! 礼服を汚してしまったら、私は侍女長様に叱られてしまいます!」
「まだ礼服には着替えてないから、大丈夫だよ」
「そういう問題ではございません!」
アルフレッドは自分の服を見下ろした。
飾り気のない白いシャツと黒いズボン。確かに膝の辺りが少し濡れているが、洗えば落ちる程度だ。
「でも、リタが花瓶を落としたんでしょう?」
「そ、それは……」
「割れた欠片は片づけたみたいだけど、水が残ってたから。このままだと誰かが転ぶよ」
若い侍女――リタは、言葉に詰まった。
今朝、大広間へ花を運ぶ途中で、彼女は花瓶を落としてしまった。
幸い、高価な品ではなかった。
しかし今日は、男爵家の四男がスキルを授かる特別な日である。屋敷には教会関係者や近隣の貴族も訪れる予定だった。
こんな日に失敗したことを知られれば、厳しい侍女長からどのような処罰を受けるか分からない。
慌てて破片を集めていたところへ、アルフレッドが通りかかった。
事情を聞いた彼は、責めるでも、誰かを呼びつけるでもなく、何も言わずに雑巾を手に取ったのだ。
「もうほとんど乾いたし、黙っていれば分からないよ」
「アルフレッド様……」
「ただ、次からは一人で破片を拾わないほうがいいよ。指を切ったら大変だから」
リタの右手の人差し指には、小さな布が巻かれていた。
隠していたつもりだったのだろう。彼女は慌てて手を背中へ回す。
「どうして、お気づきに……」
「さっきから右手を使ってないから」
アルフレッドは、当たり前のことのように答えた。
「血は止まった?」
「は、はい。少し切っただけです」
「後で薬を塗ってもらってね。小さな傷でも、ばい菌が入ったら大変だから」
「ばい……きん?」
「あ……ええと、傷が悪くなることがあるってこと」
前世で当たり前に使っていた言葉が、つい口から出てしまった。
アルフレッドには、この世界とは別の場所で生きた記憶がある。
すべてを鮮明に覚えているわけではない。
名前も、家族も、どのように死んだのかも曖昧だった。
けれど、清潔にすることの大切さや、壊れた物を直して使う感覚など、生活の中で身につけた知識だけは、不思議と頭の奥に残っている。
もっとも、それを誰かへ話したことはない。
話したところで、きっと信じてもらえないだろう。
そのとき、廊下の向こうから、一定の間隔を刻む硬い靴音が近づいてきた。
「アル様」
低く、澄んだ少女の声だった。
リタの背筋が、ぴんと伸びる。
廊下の角から現れたのは、黒を基調とした使用人服を身にまとったダークエルフの少女だった。
褐色の肌。
腰近くまで伸びた淡い銀髪。
人間よりも長く尖った耳の片方には、小さな銀色の留め具がついている。
左目は黒い眼帯で覆われていた。
そして右腕は肩から失われ、空になった袖が身体の脇で丁寧に留められている。
少女の名は、セルマ。
ヨーレリヒト男爵家が所有する奴隷であり、亡くなったアルフレッドの実母マリエルに仕えていた使用人でもあった。
現在は主に、アルフレッドの身の回りの世話を任されている。
「まもなく出発のお時間です」
「うん。今行くよ」
「その前に、雑巾をこちらへ」
セルマは残された左手を差し出した。
「もう終わったよ?」
「終わったのであれば、なおさらアル様がお持ちになる理由はございません」
「洗い場まで持っていくだけだけど」
「私が持ちます」
「セルマは片手が塞がるでしょう?」
「アル様の礼服が汚れるよりは問題ございません」
「でも――」
「渡してください」
「……はい」
アルフレッドが大人しく雑巾を差し出すと、リタが思わず小さく笑った。
セルマの視線が向けられ、リタは慌てて口を引き結ぶ。
「何か?」
「い、いえ! 失礼いたしました!」
アルフレッドは困ったように頬をかいた。
「セルマには勝てないんだよね」
「勝ち負けの話ではございません」
「それ、いつも言うよね」
「アル様が、いつも同じことをなさるからです」
セルマの表情はほとんど変わらない。
けれど声には、ほんのわずかな呆れが混じっていた。
アルフレッドはそれに気づき、少しだけ笑った。
「リタのことは?」
「私は何も見ておりません」
セルマはそう答え、リタの布を巻いた指を一瞥した。
「ですが、厨房のマルグリットなら、傷に塗る薬を持っているでしょう。早めに診てもらいなさい」
「ありがとうございます!」
リタが深く頭を下げる。
セルマは雑巾を片手に持ち、アルフレッドへ歩くよう視線で促した。
二人は並んで廊下を進む。
角を曲がり、周囲から人の姿がなくなったところで、セルマが静かに口を開いた。
「アル様」
「うん?」
「他人の失敗を、すべて引き受ける必要はありません」
「全部は引き受けてないよ。床を拭いただけ」
「そういうところです」
「床が濡れたままだと、セルマだって転ぶかもしれないでしょう?」
「私は転びません」
「絶対?」
「……おそらく」
「じゃあ、やっぱり拭いておいてよかったね」
セルマは返事をしなかった。
ただ、その長い耳の先が、ほんの少しだけ下がった。
言い負かされたわけではない。
けれど、これ以上何を言っても、アルフレッドが自分の行動を後悔することはないと知っているのだ。
「それにしても」
アルフレッドが、セルマの持つ雑巾を見た。
「今日は屋敷の中がいつもより騒がしいね」
「当然です。本日の儀式によって、アル様の将来が決まるのですから」
「将来が決まるって、大げさじゃない?」
「大げさではございません」
セルマの声が、少しだけ固くなる。
「貴族社会において、授かったスキルは、その者の価値そのものと見なされます」
「セルマは、そう思う?」
「……私の考えは関係ございません」
「僕はセルマの考えを聞いてるんだけど」
セルマはしばらく黙っていた。
「スキルだけで、人のすべてが決まるとは思いません」
「僕もそう思う」
「ですが、世の中はそう考えない者ばかりではありません」
「そっか」
アルフレッドは、それ以上追及しなかった。
ただ、少しだけ考えるような表情を浮かべながら、自室へ向かった。
⸻
アルフレッドの部屋には、すでに授紋の儀で着用する礼服が用意されていた。
濃紺の上着に、銀糸の刺繍。
ただし新調された品ではない。
兄が幼い頃に着ていた古着を、アルフレッドの身体に合わせて仕立て直したものだ。袖口には、よく見なければ分からない程度の擦れが残っている。
男爵家の四男。
しかも、すでに三人の兄と二人の姉がいる。
家を継ぐ可能性のないアルフレッドへ、新しい礼服を用意する必要はない。
屋敷の者たちは、そのように判断したのだろう。
アルフレッド本人は、特に不満を口にしなかった。
「まだ着られるなら、もったいないからね」
そう言って、むしろ少し嬉しそうに袖を通した。
セルマは慣れた手つきで、上着を整えていく。
片腕しかなくとも、その動きに淀みはない。
布を肘と身体で挟み、残された左手だけで留め具を締める。
アルフレッドは邪魔をしないよう、じっと立っていた。
「苦しくありませんか?」
「大丈夫」
「腕を上げてください」
「こう?」
「もう少し」
「こうかな」
「上げすぎです」
「難しいね」
「服を着るだけです」
「セルマは簡単そうにやるけど」
「毎日しておりますので」
「僕も毎日着てるよ?」
「着せられているだけでしょう」
「……確かに」
アルフレッドは素直に認めた。
セルマの口元が、ごくわずかに緩む。
襟元を整える左手は、いつも以上に慎重だった。
彼女にとっても、今日が特別な日であることに変わりはないのだろう。
最後にセルマは、机の上に置かれていた小さな銀の飾りを手に取った。
古びた楕円形の留め具。
中央には、白い花の紋様が刻まれている。
亡き母マリエルが、大切にしていたものだった。
「こちらを」
セルマが、アルフレッドの胸元へ銀飾りを留める。
アルフレッドは指先で、その表面をそっと撫でた。
「母さんも、授紋の儀を受けたんだよね」
「もちろんです」
「どんなスキルだったんだろう?」
セルマの指が止まった。
ほんの一瞬だった。
それでも、アルフレッドは気づいた。
「知らないの?」
「奥様は、ご自分のスキルについて、多くを語られませんでした」
「セルマにも?」
「はい」
「そっか」
アルフレッドは残念そうにしながらも、それ以上は聞かなかった。
無理に聞けば、セルマを困らせる。
そう感じたのだろう。
セルマは、その横顔を静かに見つめた。
「緊張なさっていますか?」
「少しだけ」
「先ほどは、緊張していないとおっしゃっていました」
「セルマが聞くから、緊張してきた」
「私のせいでしょうか」
「たぶん」
「それは失礼いたしました」
そう答えながらも、セルマは部屋を出ようとはしなかった。
アルフレッドが小さく息を吐く。
「どんなスキルだと思う?」
「アル様に相応しいものでしょう」
「それが分からないから聞いたんだけどな」
「では……」
セルマは少し考えた。
「〈慈愛〉」
「そんなスキル、あるの?」
「分かりません」
「ないものを言ったの?」
「似合うと思いましたので」
「役に立つかな?」
「少なくとも、剣よりはアル様に似合います」
「僕もそう思う」
二人は顔を見合わせた。
先に笑ったのは、アルフレッドだった。
セルマも、わずかに口元を緩める。
だが、その表情はすぐに消えた。
「アル様」
「なに?」
「どのようなスキルを授かったとしても、私にとってアル様はアル様です」
アルフレッドは瞬きをした。
「急にどうしたの?」
「……何でもございません」
「セルマも緊張してる?」
「しておりません」
「絶対?」
「……おそらく」
「やっぱり少ししてるんだ」
アルフレッドが笑う。
セルマは、わずかに視線を逸らした。
「行ってきます」
「はい」
扉へ向かったアルフレッドの背に、セルマは深く頭を下げた。
「奥様も、きっと見守っておられます」
アルフレッドは足を止めた。
振り返らず、胸元の銀飾りへ手を添える。
「うん」
それだけ答え、部屋を出た。
⸻
授紋の儀が行われる七灯教会には、ヨーレリヒト家の者たちが集まっていた。
高い天井。
色鮮やかな硝子窓。
祭壇を囲むように設けられた、七つの燭台。
そのすべてに、白い炎が揺らめいている。
祭壇の中央には、文字の刻まれていない黒い石板が立てられていた。
人の魂に眠るスキルを読み取り、その名を映し出すとされる神聖な授紋石。
ソデリヤ王国において、この石へ触れることを正式に許されているのは、王族と貴族の血を引く者だけだった。
平民にはスキルがない。
神々から統治を任された高貴な血にのみ、特別な力が宿る。
それが、この国に生きる者の多くにとって、疑う余地のない常識である。
スキルの内容は、貴族の子どもの将来を大きく左右する。
剣や指揮に関するものを得れば、騎士や将軍への道が開かれる。
魔術や治癒に関するものなら、学院や宮廷から声がかかることもある。
統治や交渉に関するスキルなら、家を継ぐ者として高く評価される。
反対に、家格にそぐわないスキルを得た者は――。
「遅い」
祭壇前に立つ父ヴォルフラム・ロナ・ヨーレリヒト男爵が、アルフレッドを見た。
四十代後半。
細身ながら、長年騎士として鍛えた身体を持つ、端正な顔立ちの男性である。
声を荒らげたわけではない。
けれど、その短い一言だけで、教会内の空気が硬くなる。
「申し訳ありません、父上」
アルフレッドは素直に頭を下げた。
父の隣には、正妻アーデルハイトが立っている。
艶やかな金髪を美しく結い上げ、深緑色の礼装をまとった気品ある女性だった。
唇には、欠点一つない穏やかな微笑みが浮かんでいる。
「今日くらいは、時間を守っていただきたかったわね」
「申し訳ありません、アーデルハイト様」
アルフレッドは、彼女を母とは呼ばない。
アーデルハイトも、それを求めたことはなかった。
「まあ、よいでしょう」
彼女は優しく微笑んだまま、アルフレッドの膝へ視線を落とした。
「服が少し濡れているようですが」
「あ……」
アルフレッドが、自分のズボンを確認する。
ほとんど乾いたと思っていたが、膝にわずかな水跡が残っていた。
後ろに並んでいた次姉ヴィオラが、くすりと笑う。
「授紋の日まで、使用人の真似事?」
「四男ともなれば、将来の仕事を早めに決めておく必要があるのかもしれないわ」
長姉セシリアも、扇子で口元を隠した。
二人とも華やかに着飾り、今日の主役であるアルフレッドよりも、はるかに高価な礼装をまとっている。
アルフレッドは反論せず、濡れた部分を手で軽く払った。
「誰かが転びそうだったから、床を拭いていました」
「そう」
アーデルハイトの微笑みは崩れない。
「あなたは本当に、使用人たちと仲がよいのね」
言葉だけを聞けば、褒めているようにも思える。
だが教会に集まった親族や家臣たちの間から、控えめな笑いが漏れた。
アルフレッドは、なぜ笑われたのか分からない様子で瞬きをした。
「始めるぞ」
ヴォルフラムが会話を打ち切った。
老神官が、一歩前へ進み出る。
「アルフレッド・ロナ・ヨーレリヒト。授紋石の前へ」
「はい」
アルフレッドは祭壇へ進んだ。
背後から、幾つもの視線が向けられている。
期待。
興味。
侮り。
そして、ごくわずかな警戒。
三人の兄は、いずれも家へ利益をもたらすスキルを授かっていた。
長男レオンハルトは〈領軍指揮〉。
次男ディートリヒは〈剛剣〉。
三男ユリウスは〈術式解析〉。
二人の姉も、社交や魔術に関わる優れた適性を持っている。
四男であるアルフレッドに、家督を継ぐ可能性はない。
だが、希少なスキルを得れば、家の駒として役立つ道は残されていた。
逆に、価値の低いスキルを授かれば――。
「両手を石へ」
神官の指示に従い、アルフレッドは授紋石へ手を触れた。
冷たい。
そう思った直後、祭壇を囲む七つの燭台の炎が、一斉に大きく揺れた。
「これは……」
老神官が目を見開く。
黒い石板の表面に、淡い光が集まり始めた。
最初に浮かんだのは、一つの円。
続いて、その隣へもう一つ。
教会内がざわめいた。
「二つだと?」
ヴォルフラムが、思わず椅子から立ち上がる。
「複数のスキル……」
「王家でも、数代に一人と聞きますわ」
セシリアの声にも、初めて本物の驚きが混じった。
アーデルハイトの微笑みが、ほんの一瞬だけ消える。
複数のスキルを持つ者は、極めて珍しい。
それだけで、王宮へ召し抱えられる可能性すらある。
家督とは無縁だった四男が、兄たちを上回る価値を持つかもしれない。
アルフレッドは、石板を見上げた。
二つの光の円の中に、ゆっくりと文字が形作られていく。
一つ目。
《清掃》
そして、二つ目。
《修繕》
静寂が訪れた。
ほんの一瞬前まで膨らんでいた期待が、音を立てて萎んでいくようだった。
老神官が、何度も文字を見直す。
「……《清掃》と、《修繕》」
確認するように読み上げた。
「以上です」
「以上?」
ヴィオラの甲高い声が、教会内へ響いた。
「本当に、それだけなの?」
「授紋石には、そのように示されております」
「二つも現れたから、どれほどの力かと思えば……!」
ヴィオラは耐えきれずに笑い始めた。
「掃除と修理ですって! お似合いではありませんか!」
周囲の者たちも、顔を見合わせながら笑いを漏らす。
「貴族に〈清掃〉とは……」
「〈修繕〉も、せいぜい職人の補助程度であろう」
「二つ合わせて、使用人一人分といったところか」
「いや、二人分働けるのだから便利ではないか」
悪意を隠そうともしない声。
囁き声であっても、祭壇の上に立つアルフレッドには、すべて聞こえていた。
ヴォルフラムは目を閉じ、額へ片手を当てる。
「……二つのスキルを持ちながら、なぜよりにもよって」
失望を隠そうともしなかった。
アーデルハイトは、すでにいつもの微笑みを取り戻している。
「珍しいことには違いありませんわ」
「貴族として喜ばしい珍しさではない」
「ですが、本人には相応しいのではありませんか?」
彼女の視線が、アルフレッドの濡れた膝へ向けられる。
笑い声が少し大きくなった。
アルフレッドは、授紋石に浮かぶ二つの文字をじっと見つめていた。
肩を落とすでもない。
顔を赤くして怒るでもない。
何かを考えるように、しばらく二つの言葉を眺めてから――。
「二つもあるんですね」
嬉しそうに言った。
笑い声が、途切れた。
老神官が困惑した顔で、アルフレッドを見る。
「アルフレッド様?」
「掃除ができて、壊れたものも直せるんでしょう?」
「まあ……名称どおりであるならば」
「だったら、便利だと思います」
アルフレッドは、本当に嬉しそうだった。
強がりではない。
誰かへ対抗しようとしているわけでもない。
純粋に、二つの力を得たことを喜んでいる。
「掃除しても、壊れていたら使えないでしょう?」
「……はい」
「直しても、汚れたままだと使いにくい。二つ一緒なら、ちょうどいいですね」
老神官は、答えられなかった。
ヴィオラが、呆れたように鼻を鳴らす。
「負け惜しみ?」
「違うよ」
アルフレッドは、姉へ振り返った。
「僕、壊れたものを捨てるのは、もったいないと思ってたから」
その言葉には、皮肉も強がりもなかった。
それがかえって、周囲の者たちを白けさせる。
嘲笑を向けられている本人が傷ついた様子を見せなければ、笑っている側も面白くないのだ。
「儀式は終わりだ」
ヴォルフラムが立ち上がった。
「戻るぞ」
彼はアルフレッドへ声をかけることもなく、教会の出口へ歩き始めた。
アーデルハイトと兄姉たちも、その後へ続く。
三男のユリウスだけが一度足を止め、祭壇に残されたアルフレッドを振り返った。
何かを言おうとしたようだったが、結局そのまま兄たちを追っていった。
アルフレッドは一人、祭壇の前に残された。
やがて老神官が、気まずそうに咳払いする。
「アルフレッド様。石板から手を」
「あ、すみません」
アルフレッドは慌てて両手を離した。
授紋石から、《清掃》と《修繕》の文字がゆっくりと消えていった。
⸻
教会の外へ出ても、家族の姿はなかった。
すでに馬車へ戻ったらしい。
アルフレッドは石段を下りながら、自分の両手を眺めた。
「清掃と、修繕か」
まだ、何ができるのか分からない。
どれほどの範囲へ使えるのか。
一日に何度使えるのか。
本当に、名称どおりの能力なのか。
分からないことばかりだった。
それでも、試してみたいものはいくつも思い浮かんだ。
屋敷の裏へ放置されている、脚の折れた木の椅子。
母が使っていた、留め具の外れた小箱。
古くなった調理器具。
そして――。
「アル様」
石段の下に、セルマが立っていた。
本来、奴隷使用人が授紋の儀へ同席することは許されていない。
それでも彼女は、教会の門の外で、ただ一人アルフレッドを待っていた。
「セルマ。聞いてた?」
「はい」
いつもの無表情。
けれど残された右目が、わずかに赤くなっている。
「二つもあったよ」
「……はい」
「すごいよね」
セルマは答えなかった。
左手を強く握りしめている。
「セルマ?」
「申し訳、ございません」
「どうして謝るの?」
「私が……」
声が、わずかに震えた。
「私が、〈慈愛〉などと余計なことを申し上げたからです」
「セルマのせいじゃないよ」
「皆様は、アル様を笑いました」
「うん」
「悔しく、ないのですか」
アルフレッドは少し考えた。
何も感じていないわけではない。
笑い声が耳へ入るたび、胸の奥がちくりと痛んだ。
父が見せた失望も、姉たちの言葉も、嬉しいはずがなかった。
「笑われるのは、あまり好きじゃないよ」
アルフレッドが、静かに本音を口にする。
セルマが顔を上げた。
「でも、スキルが悪いわけじゃないでしょう?」
「……」
「まだ何ができるのか、何も試してないから」
アルフレッドは、自分の両手を開いた。
「役に立たないかどうかは、使ってみてから決めたいな」
「アル様……」
「それに、セルマの眼帯の留め具、少し曲がってるでしょう?」
セルマは反射的に、左目へ手を伸ばした。
「お気づきだったのですか」
「うん。最近、ときどき触ってたから」
「……少し緩んでいるだけです」
「直せるかもしれないよ」
「儀式を終えたばかりで、最初に直したいものが、私の眼帯なのですか?」
「困ってるでしょう?」
あまりにも当然のように言われ、セルマは言葉を失った。
「もっと、貴族らしい物をお選びください」
「例えば?」
「剣や、家宝の魔道具などです」
「僕、持ってないよ」
「そうでした」
二人の間に、短い沈黙が落ちる。
先に笑ったのは、アルフレッドだった。
セルマは顔を背けたが、その口元もわずかに緩んでいる。
そのとき、教会の脇に設けられた厨房口から、恰幅のよい女性が顔を出した。
「アルフレッド様!」
教会で働く料理番らしい。
彼女は周囲を見回し、誰も見ていないことを確かめると、布に包まれた丸いものをアルフレッドへ押しつけた。
「焼きたてです。お帰りの馬車で召し上がってください」
包みから、温かなパンの香りが漂う。
「いいの?」
「もちろんですとも」
女性は少し迷ってから、声を潜めた。
「私どもにとっては、掃除も修理も、なくては困る立派な仕事です」
アルフレッドの表情が、ぱっと明るくなる。
「そうだよね!」
「ええ。お偉い方々は、ご自分でなさらないから分からないのでしょう」
「マルグリット!」
厨房の奥から、誰かが大声で呼んだ。
「はい、ただいま!」
女性は慌てて厨房へ戻っていった。
セルマが、アルフレッドの抱える布包みを見る。
「半分は私が持ちます」
「食べたいの?」
「アル様が落とさないようにです」
「半分に割って、一緒に食べようか」
「私は奴隷です。主人と同じ物を口にすることは――」
「パンは二人で食べたほうがおいしいよ」
セルマは言葉を止めた。
アルフレッドは特別なことを言ったつもりなどない。
彼にとって、目の前に温かなパンが一つあり、そばにセルマがいるのなら、分けて食べるのが当たり前だった。
「……半分だけ、いただきます」
「うん」
「ですが、少しだけです」
「半分なのに?」
「アル様の半分より、小さい半分です」
「それは半分じゃないと思う」
「細かいことを気にしてはいけません」
「セルマが言うんだ」
二人は肩を並べ、教会の馬車止めへ向かった。
笑われた痛みが消えたわけではない。
それでも、隣にセルマがいて、温かなパンがある。
今のアルフレッドには、それで十分だった。
⸻
同じ日の夜。
ヨーレリヒト男爵邸の執務室では、一本の蝋燭だけが灯されていた。
窓の外では、細い雨が降り始めている。
机の上には、古びた領地図が広げられていた。
ソデリヤ王国北東部。
幾重もの山脈と深い森に囲まれた、色褪せた一帯。
ヴォルフラムは椅子に座ったまま、長い沈黙を守っていた。
向かいに立つアーデルハイトが、白い指先を地図へ置く。
「ちょうどよいのではありませんか?」
「……あそこは、領地と呼べる場所ではない」
ヴォルフラムの声は低かった。
「それでも、王国の記録上はヨーレリヒト家の開拓地です」
「過去に送った調査隊は戻っていない」
「だからこそですわ」
アーデルハイトは、穏やかに微笑んだ。
「《清掃》と《修繕》」
「荒れ果てた土地を任せるには、実に相応しい能力ではありませんか」
ヴォルフラムの眉がわずかに動く。
「アルフレッドは、まだ十二歳だ」
「貴族の子であれば、十二歳は己の責務を知る年齢です」
「現地の状況すら、正確には分かっていない」
「古い記録には、領民が六十八名残っているとあります」
「その記録が作られたのは、何年前だ」
「人が残っているのであれば、領主は必要でしょう」
アーデルハイトは、どこまでも穏やかだった。
心からアルフレッドの将来を案じているようにさえ聞こえる。
「それとも、あの子をこの屋敷に置き続けますか?」
ヴォルフラムは答えなかった。
「生活に関わるスキルを二つ授かった四男として、社交界の笑い者にしながら?」
「……」
「このまま屋敷へ置いておけば、あの子自身がつらい思いをするでしょう」
優しい言葉だった。
その内側に何が隠されているのかは、表情からは読み取れない。
「領地を与えれば、追放ではありません」
アーデルハイトは、地図の一点を指で軽く叩いた。
「機会を与えるのです」
そこには、古い文字で土地の名が記されていた。
灰境。
魔物が巣食う山と森に閉ざされ、街道さえ途絶えかけた、王国北東部の僻地。
まともな貴族なら、金を積まれても赴任したがらない。
本家が長年、所有権だけを手放さず、管理を放棄してきた土地だった。
「少なくとも、本人は喜ぶでしょう」
アーデルハイトは微笑んだ。
「壊れたものを直すのが好きだと、申していたではありませんか」
蝋燭の炎が揺れる。
ヴォルフラムの影が、地図の上で大きく歪んだ。
「本当に、それでよいと思っているのか」
低い問い。
アーデルハイトは微笑みを崩さなかった。
「男爵家の将来を考えた上で、最善だと申し上げております」
誰の将来とは、言わなかった。
雨音だけが、しばらく執務室を満たした。
やがてヴォルフラムは、机の端へ用意されていた一枚の任命書へ目を向けた。
すでに必要な文言は、すべて書き込まれている。
残っているのは、当主の署名だけだった。
ヴォルフラムはペンを取った。
しかし、すぐには紙へ触れない。
脳裏に浮かんだのは、亡きマリエルの面影だった。
そして、その面影を色濃く受け継ぐ、小さな四男。
だが、彼はやがて目を閉じた。
「……分かった」
ペン先が、紙へ触れる。
「アルフレッド・ロナ・ヨーレリヒトを、灰境の開拓領主に任ずる」
署名が記される。
アーデルハイトは、満足そうに目を細めた。
小さな雨粒が、執務室の窓を伝い落ちていく。
その夜。
誰にも告げられないまま、一人の少年を本家から遠ざける命令が決定された。
それが追放であることを――。
当のアルフレッドだけは、まだ知らなかった。
⸻
第1話 僕のスキルは《清掃》と《修繕》でした 了




