観測井の向こう
第二章 灰境
第35話 観測井の向こう
前書き
助けを求める声は、
いつも大きいとは限りません。
叫ぶ力を失った者。
声を出せない場所にいる者。
自分がここにいると、
誰にも伝えられない者。
だから時には。
小さな音を拾うことが、
命を見つけることになるのです。
⸻
十一日前。
その数字が意味するものを、誰もすぐには口にできなかった。
『第三区画隔壁――手動解放』
『最終操作――十一日前』
A―07の青い瞳が、静かに明滅している。
地下施設の石壁。
そこへ浮かび上がった古い記録。
十一日前。
つまり。
「俺たちが灰境へ来るより前だ」
ガルドが低く言った。
「はい」
ノエルが帳面へ視線を落とす。
「少なくとも、この施設は完全に放棄されていたわけではありません」
「誰かがいた?」
アルフレッドが尋ねる。
「可能性は高いです」
「村の人?」
「それは分かりません」
ノエルは眼鏡を押し上げた。
「ですが、少なくとも誰かがこの扉を操作した」
「十一日前に」
「そういうことになります」
地下施設へ。
誰かが入った。
あるいは。
誰かが、ここから出ようとした。
「……行こう」
アルフレッドが言った。
「待て」
当然のようにガルドが止める。
「まだ何も分かってねえ」
「だから見に行くんでしょう?」
「そういう返しだけ上手くなってきたな、お前」
「褒めてる?」
「褒めてねえ」
ガルドはため息をついた。
それから周囲を見る。
A―07。
ノエル。
グレゴール。
ベルン。
ヘルマン。
そしてアルフレッド。
「全員では行かん」
ガルドが言った。
「アル坊、俺、ノエル、A―07」
「グレゴールは?」
「残る」
「なぜだ」
グレゴールが眉を寄せる。
「上との連絡が必要だ」
「ベルンとヘルマンもここに残れ」
「隊長」
「何だ」
「嫌な予感がします」
ベルンが真顔で言った。
「奇遇だな」
ガルドが答える。
「俺もだ」
⸻
第三区画。
隔壁の向こうには、細い通路が続いていた。
これまでの地下施設とは雰囲気が違う。
壁には等間隔で細い溝。
天井には、金属製の管。
床の中央には水路。
だが。
水は流れていない。
「A―07」
アルフレッドが尋ねる。
「ここは何の場所?」
『第三区画』
『保守観測領域』
「保守……?」
『水質』
『流量』
『浄化率』
『侵食率』
『各項目を監視』
「侵食率」
ノエルが反応した。
「それは何を意味しますか?」
『照会』
『……』
『記録破損』
「またか」
ガルドが舌打ちする。
A―07の記録は完全ではない。
長い年月。
そして菌糸による侵食。
失われた情報があまりにも多かった。
「直せないの?」
アルフレッドが尋ねる。
『記録領域』
『欠損』
『復元不能』
「《修繕》でも?」
『質問内容――理解不能』
「アル坊」
ガルドが少年の肩を掴む。
「試すなよ」
「まだ何も言ってない」
「顔が言ってる」
「そんなに分かりやすいかな……」
「最近は特にな」
アルフレッドは少し不満そうだった。
⸻
通路を進む。
五十歩。
百歩。
やがて。
右側の壁に、小さな扉が現れた。
『第一観測室』
A―07が告げる。
扉は開いている。
中には机。
椅子。
壁一面の計器。
その多くは壊れていた。
しかし。
「待って」
アルフレッドが立ち止まった。
「どうした」
「これ」
床。
埃が積もっている。
その上に。
跡。
「足跡?」
ノエルがしゃがみ込む。
「人間のものです」
古くない。
何百年前のものでもない。
埃の上へ残った。
比較的新しい足跡。
「一人?」
アルフレッドが尋ねる。
「いえ」
ノエルは灯りを近づける。
「複数です」
「何人?」
「……少なくとも四人」
ガルドの表情が変わった。
「十一日前の連中か」
「可能性があります」
足跡は。
さらに奥へ続いていた。
⸻
観測室の奥。
そこには縦穴があった。
直径三メートルほど。
底は見えない。
壁面に沿って、螺旋状の階段が下へ続いている。
「深いな」
ガルドが小石を落とす。
ころ。
ころころ。
音が遠ざかる。
数秒後。
ぽちゃん。
「水があります」
ノエルが言った。
『保守観測井』
A―07が告げる。
『地下水路』
『第二補給管』
『非常排水路』
『接続』
「つまり?」
アルフレッドが首を傾げる。
「地下施設のさらに下だ」
ガルドが答える。
「まだ下があるの?」
「あるみてえだな」
アルフレッドが穴を覗く。
「降りてみよう」
「お前は何でそうなる」
「だって足跡が――」
「止まれ」
ガルドの声が変わった。
アルフレッドも黙る。
静寂。
水の音。
そして。
かすかに。
――こん。
「……?」
アルフレッドが顔を上げた。
「今」
「静かに」
ガルドが手を上げる。
全員が息を止める。
数秒。
何もない。
さらに数秒。
――こん。
――こん。
「音?」
ノエルが呟く。
偶然ではない。
一定の間隔。
金属か石を。
何かで叩いている。
「下からだ」
ガルドが穴を覗き込む。
「誰かいる!」
アルフレッドが叫ぼうとする。
「待て!」
口を塞がれた。
「むぐっ」
「敵かもしれん」
ガルドが耳元で囁く。
アルフレッドは何度も頷いた。
手が離れる。
「A―07」
ノエルが尋ねる。
「生命反応を確認できますか?」
『検索』
青い瞳が明滅する。
『……』
『観測井内部』
『生体反応――』
全員が息を呑む。
『一』
アルフレッドの目が見開かれた。
「人?」
『種別』
『人類種』
「生きてる!」
「待てアル坊!」
しかし少年はもう穴の縁へ寄っていた。
「聞こえますか!」
声が縦穴へ響く。
「誰かいるんですか!」
返事はない。
「僕たちは村から来ました!」
「助けに――」
その瞬間。
下から。
こん!
こん!
こん!
三回。
はっきりと。
返事があった。
⸻
「降りる」
ガルドが即座に決めた。
「さっき止めたじゃん」
「状況が変わった」
「僕も」
「駄目だ」
「どうして!」
「十二歳だからだ!」
「さっきまで一緒に――」
「地下井戸を降りるのと廊下歩くのは違う!」
「A―07が――」
『同行可能』
「お前は黙ってろ!」
『命令――受諾』
「A―07!」
アルフレッドが驚く。
「何でガルドさんの命令は聞くの!」
『暫定管理者護衛行動において、危険回避命令と判断』
「正論言われた……」
ノエルが眼鏡を押し上げる。
「A―07の判断を支持します」
「ノエルさんまで」
「十二歳ですので」
「皆そればっかり……」
「十二歳であることは事実です」
結局。
最初にガルド。
その後ろをA―07。
アルフレッドとノエルは、上で待つことになった。
⸻
螺旋階段。
ガルドは慎重に下りていった。
ところどころ崩れている。
壁には灰色の菌糸。
だが。
以前見たものほど活発ではない。
「A―07」
『はい』
「こいつら動いてるか?」
『活動率――低』
「理由は?」
『不明』
「便利そうで肝心なところが分からんな、お前」
『謝罪』
「いや、責めてねえよ」
さらに下る。
やがて。
小さな踊り場。
そこから横へ伸びる通路が見えた。
通路の奥。
「……いた」
人影。
壁にもたれかかっている。
男。
四十代ほど。
髭は伸び放題。
服は泥と血で汚れている。
右脚には。
布が何重にも巻かれていた。
「おい」
ガルドが声を掛ける。
男の身体が動く。
手には。
錆びた短剣。
「来るな……!」
「人間だ」
「……証拠は」
「証拠?」
「そいつは……人間じゃないだろ」
男がA―07を見る。
「ああ」
ガルドは少し考えた。
「まあ、そこは説明すると長い」
「……。」
「とりあえず俺は人間だ」
「名前は」
「ガルド」
「どこの者だ」
「王国開拓局護衛隊」
男の目が見開かれる。
「開拓……局?」
「ああ」
「じゃあ……」
短剣が。
男の手から落ちた。
「村は……」
「ある」
「まだ……あるのか」
「ある」
男は目を閉じた。
肩が震える。
「……そうか」
「良かった……」
その声は。
泣いていた。
⸻
「名前は?」
「ダリオ」
男は答えた。
「灰境の村の者か?」
「違う」
「なら何でここにいる」
「俺たちは……」
ダリオが咳き込む。
ガルドが水筒を差し出す。
「少しずつ飲め」
「……すまない」
水を一口。
二口。
それだけで。
男の顔に少し生気が戻った。
「俺たちは北の集落から来た」
「北?」
「山を二つ越えた先だ」
ガルドの眉が寄る。
「灰境に、他の集落があるのか?」
「……ある」
「何人だ」
「分からん」
「三十……いや」
「今はもっと少ない」
ガルドは黙った。
灰境には二十二人。
そう思っていた。
だが。
違った。
この広大な土地には。
王国の記録から消えた人々が。
まだいる。
「ここへ来た理由は」
「水だ」
「水?」
「集落の井戸が濁り始めた」
ダリオは壁を見る。
「灰色に」
ガルドの表情が変わる。
「菌糸か?」
「知ってるのか?」
「少しな」
「森の獣もおかしくなった」
「だから水源を探した」
「昔から言い伝えがあった」
「灰境の地下には」
「水を清める神殿があるって」
第一浄化施設。
ガルドはA―07を見る。
「神殿じゃねえ」
「……?」
「いや、こっちの話だ」
⸻
「何人で来た」
「七人」
「七?」
「ああ」
「俺と」
ダリオが指を折る。
「ラウル」
「フィン」
「クララ」
「ルゥ」
「マルコ」
「ベネット」
七人。
「他の六人は」
ダリオは答えなかった。
「おい」
「……分かれた」
「何があった」
「あいつだ」
ダリオがA―07を見る。
「銀色の奴」
「こいつ?」
「違う」
ダリオの声が震えた。
「別の奴だ」
ガルドとA―07が同時に動きを止めた。
「腕が二本あった」
「目が赤かった」
「俺たちを見つけて」
「いきなり襲ってきた」
「番号は見たか?」
「番号?」
「身体に文字がなかったか」
ダリオは考える。
「……B」
「B?」
「たしか」
「B―03」
A―07の青い瞳が。
強く光った。
『識別情報――照合』
『B―03』
『第二保守戦闘個体』
『状態――』
音声が途切れる。
『不明』
「仲間か?」
ガルドが尋ねる。
『同一施設所属個体』
「それを仲間って言うんじゃねえのか?」
『概念照合――困難』
「ややこしいな」
しかし。
ダリオは笑わなかった。
「あいつに脚をやられた」
右脚を見る。
「俺が囮になった」
「残りは逃げた」
「どこへ」
「分からない」
「でも」
男が指を差す。
さらに奥。
「非常排水路」
「そっちへ四人が走った」
「四人?」
「クララとルゥは?」
ダリオは少しだけ笑った。
「あいつらは先に戻した」
「水源の場所を見つけた時点でな」
「つまり」
「無事だ」
ガルドが息を吐いた。
「残り四人」
「ああ」
「ラウル」
「フィン」
「マルコ」
「ベネット」
「そうだ」
「生きてると思うか?」
ダリオは答えなかった。
⸻
その頃。
観測井の上。
アルフレッドは落ち着きなく歩き回っていた。
「遅い」
「まだ十分ほどです」
ノエルが言う。
「十分も?」
「十分しか、です」
「何かあったのかな」
「待つのも領主の仕事です」
「領主って待ってばかりだね」
「判断を急がないことは重要です」
「でも」
アルフレッドは穴を覗く。
「怪我してたら」
「ガルド隊長が対応します」
「お腹空いてたら」
「携帯食があります」
「水は」
「持っています」
「寒かったら」
「毛布も」
「……全部持ってる」
「だから護衛隊長なのです」
アルフレッドは少しだけ感心した。
「ガルドさん、すごいんだね」
「本人の前でも言ってあげてください」
「調子に乗りそう」
「非常に正しい分析です」
⸻
やがて。
「アル坊!」
下から声。
「ガルドさん!」
「人がいる!」
「生きてる!?」
「ああ!」
アルフレッドの顔が明るくなる。
「怪我してる!」
「やっぱり!」
「何で嬉しそうなんだ!」
「生きてるから!」
一瞬。
下から返事が止まった。
「……そうだな!」
ガルドの声が返ってくる。
「生きてる!」
「でも自力じゃ上がれねえ!」
「担架!」
ノエルがすぐに動く。
「上へ連絡します」
「僕も!」
「アルフレッド様は?」
「配給孔を探す!」
「はい?」
ノエルが止まった。
「A―07が言ってたでしょう」
「第二補給管につながってるって」
「……なるほど」
階段から運び上げるには時間がかかる。
だが。
水や食料だけなら。
「A―07!」
アルフレッドが穴へ叫ぶ。
「聞こえる!?」
『受信』
「補給管って、ここから使える!?」
『可能』
「入口どこ!?」
『第一観測室』
『北壁』
「ノエルさん!」
「探しましょう」
⸻
二人は観測室へ戻った。
北壁。
古い棚。
壊れた計器。
「どこ?」
「見当たりません」
「A―07!」
『北壁』
「それしか言わない!」
アルフレッドが壁へ手を当てる。
埃。
泥。
錆。
そして。
「……あ」
分かった。
「《清掃》」
淡い光。
壁を覆っていた汚れが落ちていく。
その下。
細い四角形の線。
「扉!」
ノエルが声を上げる。
小さな金属扉。
取っ手を引く。
開かない。
「錆びています」
「じゃあ」
「待ってください」
「?」
「今日はすでに《清掃》を使っています」
「一回だけだよ」
「一回でも使用は使用です」
「でも人が」
「分かっています」
ノエルは少し考える。
「最小限で」
「はい!」
「異常を感じたら即座に中止」
「はい!」
「あとでガルド隊長へ報告」
「はい!」
「私も怒られますね……」
「一緒に怒られよう」
「嬉しくありません」
アルフレッドが扉へ触れる。
「《修繕》」
ほんの少し。
錆びた蝶番。
歪んだ留め金。
必要な部分だけ。
かち。
扉が開いた。
「できた!」
「体調は?」
「大丈夫」
「本当に?」
「うん」
その奥。
金属製の筒が下へ伸びている。
『第二補給管』
遠くからA―07の声。
「これだ!」
⸻
乾パン。
干し肉。
水。
包帯。
傷薬。
それらを布袋へ詰める。
「落としたら怪我しない?」
「内部に搬送機構が残っていれば」
ノエルが壁の取っ手を動かす。
ごとん。
内部で何かが動いた。
「生きています」
「すごい」
「袋を入れてください」
アルフレッドが布袋を置く。
扉を閉める。
ノエルが取っ手を回す。
がら。
がらがら。
袋がゆっくりと下へ運ばれていく。
「届いて!」
⸻
地下。
ダリオの近く。
壁から突然。
がこん。
音がした。
「何だ!」
ガルドが剣を抜く。
『第二補給管』
A―07が説明する。
小さな扉が開く。
中から。
布袋。
「……。」
ガルドが中を見る。
乾パン。
干し肉。
水。
包帯。
傷薬。
そして。
紙切れ。
『ダリオさんへ。
村まで連れて帰ります。
少し待っていてください。
アルフレッド』
ガルドは。
額へ手を当てた。
「……あいつ」
「何だ?」
ダリオが尋ねる。
「いや」
ガルドは紙を渡す。
「うちの領主からだ」
「領主?」
「ああ」
「灰境に領主なんていたのか?」
「最近来た」
ダリオは紙を見る。
「アルフレッド……」
「十二歳だ」
「……十二?」
「言うな」
「いや」
「俺も毎日そう思ってる」
ダリオは。
少し笑った。
十一日ぶりだった。
⸻
その日の探索は。
そこで打ち切られた。
まずダリオを地上へ運ぶ。
それが最優先。
残り四人の捜索は。
準備を整えてから。
非常排水路へ入る。
そう決めた。
だが。
彼らはまだ知らなかった。
観測井のさらに奥。
非常排水路。
水の流れる暗闇。
そこに。
一人の男が座っていた。
背中を石壁へ預け。
手には。
折れた鉄棒。
目の前には。
動かなくなった灰色の獣。
「……フィン」
男が呟く。
「聞こえるか」
返事はない。
「マルコ……」
返事はない。
「ベネット……」
やはり。
返事はなかった。
男は目を閉じる。
それでも。
鉄棒を握った。
そして。
石壁を叩く。
こん。
こん。
こん。
三回。
少し待つ。
もう一度。
こん。
こん。
こん。
誰かが聞いているとは思っていない。
ただ。
生きている間は。
続けると決めていた。
その音を。
遠く離れた場所で。
A―07の青い瞳が拾った。
『……信号検知』
アルフレッドが振り返る。
「え?」
『非常排水路方面』
『反復音』
『三回』
ガルドの表情が変わる。
「まさか」
A―07の瞳が明滅する。
『追加生命反応――確認』
アルフレッドは。
暗い観測井を見下ろした。
地下には。
まだ。
誰かがいる。
⸻
第35話 観測井の向こう 了




