水路の入口
第二章 灰境
第21話 水路の入口
前書き
入口とは、
新しい場所へ入るためだけに、
存在するものではありません。
何かを閉じ込めるため。
誰かを近づけないため。
二度と開かないよう、
忘れるために作られた入口もあります。
けれど。
長い年月を経て、
封じた理由さえ忘れられたとき。
扉の向こうに残されたものは、
静かに出口を探し始めるのです。
⸻
翌朝。
灰境の村に、体調を崩した者はいなかった。
湧き水を口にした四人。
バルド。
ガルド。
グレゴール。
マルタ。
全員が、いつもどおり朝を迎えた。
「熱なし」
マルタがガルドの額へ手を当てる。
「腹痛は?」
「ねえ」
「吐き気」
「ない」
「目眩」
「寝起きには少し」
「それは年だね」
「誰が年寄りだ」
「六十を越えてるだろう」
「まだ動ける」
「動ける年寄りだよ」
「婆さんに言われたくねえ」
マルタの目が細くなる。
「苦い薬を飲みたいらしいね」
「今のは聞かなかったことにしろ」
ガルドが視線を逸らす。
そのやり取りを見ていたアルフレッドは、少し安心したように笑った。
昨夜から何度も考えていた。
もし朝になって、誰かの身体へ灰色の筋が浮かんでいたら。
もし四人が同時に倒れたら。
自分はどうすればよいのか。
結局、答えは出なかった。
だからこそ。
誰も倒れていないという事実が、何より嬉しかった。
「もう湧き水を使っていいの?」
リーナが尋ねる。
「まだだよ」
アルフレッドが答える。
「どうして?」
「一日平気でも、明日は分からないから」
「明日も平気だったら?」
「少し使う」
「その次の日も平気だったら?」
「もう少し使う」
「いつから、いっぱい飲めるの?」
「……いつだろう」
アルフレッドはノエルを見る。
「私へ振らないでください」
「でも、記録する人でしょう?」
「決定するのは領主です」
「全部僕へ戻ってくる……」
ノエルは帳面を開いた。
「本日は、湧き水を煮沸したうえで、健康な成人八名へ少量ずつ配ります」
「八人?」
「昨日の四名を含め、合計十二名です」
「全員じゃないんだ」
「異常が出た場合、村全員が動けなくなる事態を防ぐためです」
「なるほど」
「子ども、高齢者、病人、負傷者には、まだ開拓隊の水を使います」
アルフレッドは頷く。
「セルマも?」
「もちろんです」
「私は、湧き水でも構いません」
マルタの家の窓辺から、セルマが言った。
身体を起こせる時間は、昨日より長くなっている。
しかし、まだ歩くことは許されていない。
「駄目だよ」
アルフレッドが即答した。
「なぜですか」
「怪我人だから」
「もう熱はありません」
「傷はあるでしょう?」
「ございます」
「じゃあ駄目」
「ですが、開拓隊の水には限りが」
「だからってセルマから変えるのは違うよ」
「私は奴隷ですので――」
「それは理由にならない」
アルフレッドの声が、少しだけ強くなる。
セルマは口を閉じた。
村人たちの何人かが、二人を見ている。
奴隷。
その言葉を聞くたび。
まだ、どう反応すればいいのか分からない者も多かった。
王国では。
奴隷を財産として扱うことが、決して珍しくない。
ましてセルマの首には。
今も黒い首輪が残っている。
けれど。
少なくとも、この村で。
彼女を水より後回しにする理由として。
その身分を口にする者はいなかった。
「怪我人は休む」
マルタが言った。
「奴隷だろうが、領主だろうが同じだよ」
「領主も?」
アルフレッドが尋ねる。
「あんたは特にだ」
「どうして僕だけ強く言うの?」
「一番言うことを聞かないからだよ」
リーナが大きく頷いた。
「領主様、すぐ走るもんね」
「今日はまだ走ってないよ」
「昨日は走った」
「雨が降ったから」
「その前の日も走った」
「セルマが起きたから」
「その前も」
「もういいです……」
アルフレッドは肩を落とした。
その様子を見て。
窓辺のセルマが、かすかに笑った。
今度は。
アルフレッドも見逃さなかった。
「やっぱり笑った」
「笑っておりません」
「今は絶対に笑ったよ」
「気のせいです」
「右の口元が上がった」
「よく見ていますね」
「ずっと見てるから」
何気なく答えたあと。
セルマが黙った。
アルフレッドも。
少し遅れて、自分の言葉に気づく。
「えっと」
「……水の話を続けましょう」
「うん」
今度は。
村人たちの方から、小さな笑いが起きた。
⸻
朝食のあと。
村の中央に、昨夜見つかった古い地図が広げられた。
湿気を吸った厚い紙。
青い線で描かれた地下水路。
村の北で一つに集まり。
灰の森の手前にある谷へ伸びている。
その途中には。
二十六年前の日付と。
赤い封鎖の印。
「今日、確認するのはここだ」
ガルドが指を置く。
村の外。
灰の森へ入る少し手前。
排水路の出口があると思われる場所。
「森の中じゃないの?」
アルフレッドが尋ねる。
「地図が正しければ、谷の斜面だ」
グレゴールが答える。
「森へ入る必要はない」
「近い?」
「森の縁から百歩ほど離れてる」
「灰色のものは?」
「行ってみなければ分からん」
「誰が行くの?」
「俺」
ガルド。
「俺もだ」
グレゴール。
「地図を読む人間が必要です」
ノエル。
「ノエルさんも?」
「書記官は、机へ座っているだけではありません」
「剣は?」
「使えません」
「弓は?」
「使えません」
「走るのは?」
「皆様より少し遅いです」
ガルドが顔をしかめる。
「お前、本当に来る気か?」
「地図を正確に記録できる者が必要でしょう」
「護衛される奴が増える」
「アルフレッド様よりは、指示に従います」
「比較する相手が悪い」
「僕、そこにいるよ」
アルフレッドが言う。
「知ってる」
「聞こえるように言ってる」
ノエルは眼鏡を押し上げた。
「ガルド隊長、私も同行します」
「危険を感じたら、すぐ戻るぞ」
「承知しています」
「勝手に紙を拾うな」
「それはアルフレッド様への注意では?」
「お前もだ」
「……承知しました」
護衛にはエリックとマルク。
さらにベルンが加わる。
合計六人。
「多くない?」
アルフレッドが尋ねる。
「未知の場所へ行くには少ないくらいだ」
「僕も――」
言葉を止める。
昨日。
自分から村へ残ると決めた。
今日も同じだ。
排水路の出口を見たい。
灰色の菌糸がどこから来ているのか。
自分の目で確かめたい。
けれど。
行けば、守られる側になる。
「僕は村に残ります」
「よく言えたな」
ガルドが頷く。
「でも、何をすればいい?」
「村の地下水路を調べる」
ガルドは地図の中央を指した。
「入るの?」
「入らねえ」
「地上から、水路に沿って異常がないか見る」
「地面が沈んでいる場所」
「草が枯れている場所」
「灰色に変わっている場所」
「一人では行くなよ」
「エッダさんと一緒なら?」
「それならいい」
「ヘルマンさんにも、石蔵の封鎖を見てもらう」
「井戸は?」
「縄の外から確認するだけ」
「水へ触るな」
「《清掃》も使うな」
「はい」
「素直だと逆に不安になるな」
「どう答えても心配される……」
⸻
調査隊が村を出たあと。
アルフレッドたちは、地図へ描かれた地下水路をたどり始めた。
同行するのは。
エッダ。
ヘルマン。
バルド。
そして、子どもたちが近づかないよう見張るための若い村人二人。
「地図では、この下です」
アルフレッドが足元を指す。
村の北東。
領主館の丘から下りてくる斜面。
地上から見れば。
何の変哲もない土の道だった。
草。
小石。
昨夜の雨で湿った地面。
水路が埋まっているとは思えない。
「棒を差してみます」
エッダが細い鉄棒を地面へ入れる。
最初は硬い。
少し位置を変える。
今度は。
途中で急に抵抗がなくなった。
「空洞があります」
「水路?」
「おそらく」
「深さは?」
エッダは棒についた土を確かめる。
「人の腰より少し深いくらいです」
「意外と近い」
「上の土が薄くなっています」
「歩いて大丈夫?」
「一人ずつ、端を通りましょう」
バルドが杖で地面を叩く。
こん。
こん。
音が違う。
土の厚い場所では、鈍い。
水路の上では。
少しだけ空洞の響きがあった。
「昔は、石板の上にもっと土があった」
バルドが言う。
「長い年月で流れたのじゃろう」
「ここも崩れる?」
「可能性はある」
アルフレッドは地図へ印をつけた。
――危険。
その隣へ。
ノエルほど綺麗ではない文字で。
――一人で歩かない。
「自分への注意か?」
ヘルマンが尋ねる。
「皆への注意です」
「一番守らん奴が書いとる」
「今は守ってます」
「今は、な」
ヘルマンは鼻で笑った。
⸻
水路の上をたどっていく。
村の広場。
井戸の東。
石蔵。
そして北側の畑。
いくつか、地面の不自然な場所が見つかった。
草が円形に枯れている場所。
昨夜の雨が、いつまでも吸い込まれず残っている場所。
逆に。
周囲よりも不自然に乾いている場所。
「ここ」
エッダが足を止めた。
畑の端。
土へ浅い亀裂が伸びている。
亀裂の中には。
白っぽいものが見えた。
「灰色の菌?」
アルフレッドが近づこうとする。
エッダが手を出す。
「縄の内側へ入らないでください」
「まだ縄を張ってないよ」
「今から張ります」
「早い……」
若者が杭を打ち。
亀裂の周囲へ縄を巡らせる。
ヘルマンが長い火箸を使い。
亀裂の中から、白っぽいものを取り出した。
乾いた木の根だった。
「菌糸じゃない?」
「違うな」
「よかった」
アルフレッドが息を吐く。
けれど。
エッダは亀裂を見たまま、安心していなかった。
「この下で、石板がずれています」
「どうして分かるの?」
「亀裂の向きです」
水路の線に沿って。
まっすぐ伸びている。
昨夜の雨が入り込み。
地下の土を少しずつ流しているのだろう。
「塞げますか?」
「地上から土を入れるだけでは駄目です」
「下の石を直さないと、また沈みます」
「水路へ入る必要がある?」
「いずれは」
「今は?」
「上を板で覆って、誰も近づかないようにします」
アルフレッドは亀裂を見る。
《修繕》を使えば。
地下の石板へ届くだろうか。
触れていないもの。
直接見えていないもの。
鍵穴の中は修繕できた。
なら。
地面の下の水路も。
「考えてる顔だ」
ヘルマンが言う。
「何を?」
「《修繕》を使えんかと」
「……少しだけ」
「駄目だ」
「まだ何もしてないよ」
「見えん場所を直して、何が起きるか分からん」
エッダも頷く。
「石板だけ戻ったとしても、流れた土は戻らないかもしれません」
「空洞が残ったら?」
「上から重みが掛かり、急に崩れる可能性があります」
「じゃあ、材料を入れてから修繕?」
「それが安全でしょう」
また。
スキルだけでは直せない。
先に。
人の手で準備する必要がある。
「分かりました」
アルフレッドは地図へ書き込む。
――石板のずれ。
――土を入れてから修繕。
「本当に使わないんだな」
ヘルマンが言った。
「約束したから」
「成長したのう」
バルドが笑う。
「昨日も似たこと言われました」
「毎日言われるうちは、まだ信用されとらん」
「いつになったら?」
「止められる前に止めるのが、当たり前になってからじゃ」
「遠そう……」
⸻
水路は。
村の北にある古い畑の下を通り。
さらに外へ伸びていた。
そこから先は。
昨夜打った立入禁止の杭に近い。
灰の森へ続く獣道。
アルフレッドたちは、それ以上進まない。
「地図では、ここから一本になります」
アルフレッドが言った。
複数の水路が合流する場所。
地上には。
小さなくぼ地があった。
雨水が溜まり。
泥になっている。
その中心へ。
丸い石が半分埋まっていた。
「何だろう」
表面へ。
何か文字のようなものが刻まれている。
泥と苔でほとんど見えない。
「触るなよ」
ヘルマンが先に言った。
「分かってます」
「《清掃》もだ」
「分かってます!」
バルドが杖の先で。
石の周囲の泥を少しだけ払う。
円形の石。
直径は、人が両腕を広げたほど。
地面へ蓋のように嵌め込まれている。
「水路の点検口じゃ」
「中へ入るための?」
「ああ」
「これが開けば、地下を調べられる?」
「開けばな」
石の縁は。
土と根に覆われている。
長い間。
開けられた形跡はない。
中央には。
三本の縦線。
古い地図へ描かれていた赤い印と、同じ形が刻まれていた。
「封鎖の印」
アルフレッドが呟く。
「違う」
バルドが答えた。
「これは、封鎖する前からあった」
「知ってるの?」
「子どもの頃に見た」
「何の印ですか?」
「分からん」
「昔の領主に尋ねた者もおった」
「何て?」
「この水路を作った者の印だろう、と」
「王国が作ったんじゃないの?」
「村ができるより前から、水路の一部はあったらしい」
アルフレッドは円い石を見つめる。
古い。
領主館よりも。
村よりも。
もしかすると。
ソデリヤ王国の支配が届くより前から。
ここにあったもの。
「開けない方がいいです」
エッダが言った。
「今はね」
アルフレッドも頷く。
「ガルドさんたちが戻ってから相談する」
「それまで、誰も近づかないようにします」
新しい杭が打たれ。
円形の石の周囲へ、縄が張られる。
――立入禁止。
同じ板が増えた。
「禁止ばかり増えるね」
アルフレッドが呟く。
「安全な道が分かるまでは仕方ない」
エッダが答える。
「でも、これじゃ何もできない」
「何もできないのではありません」
「危険な場所が分かったんです」
エッダは地図を見る。
昨日まで。
誰も知らなかった地下水路。
今は。
崩れた場所。
危険な場所。
点検口。
少しずつ印が増えている。
「知らずに踏み抜くより、ずっとよいです」
「……うん」
完成したものはない。
水路も直っていない。
井戸も使えない。
それでも。
昨日より。
村の下に何があるのか、少しだけ分かった。
見張り台と同じだ。
直し始めた姿は。
壊れたままに見えることもある。
⸻
昼前。
灰の谷へ向かった調査隊は。
地図に描かれた出口へ近づいていた。
村から北西。
灰の森の外縁と、岩場の間にある浅い谷。
以前は。
雨季になると水が流れていたらしい。
今は。
川底の半分が乾いている。
「この先だ」
グレゴールが言った。
「地図では、あの岩壁の下です」
ノエルが紙を確認する。
前方。
灰色の岩が重なった斜面。
低い木と藪に覆われ。
遠くからでは、穴など見えない。
「止まれ」
ガルドが手を上げる。
全員が足を止めた。
「臭う」
エリックも顔をしかめる。
「昨日の菌糸を焼いたときと同じです」
腐った木。
濡れた獣皮。
それに。
甘い花のような臭いが混ざっている。
「風は?」
グレゴールが草を千切り。
空中へ落とす。
草は。
村とは反対側へ流れた。
「臭いは岩場からだ」
「松明を用意しろ」
まだ昼間。
けれど。
火が菌糸を退けることは分かっている。
マルクとベルンが松明へ火をつける。
ガルドを先頭に。
一歩ずつ進む。
藪を避け。
岩を回り込む。
やがて。
斜面の下に。
黒い穴が現れた。
「排水口だ」
石で組まれた。
人が屈めば入れるほどの穴。
入口には。
鉄格子が嵌められている。
だが。
格子の半分は。
外側へ大きく歪んでいた。
「内側から押された?」
ノエルが呟く。
「そう見えるな」
ガルドが答える。
鉄格子には。
灰色の菌糸がびっしりと絡みついていた。
地面へ。
岩壁へ。
周囲の草へ。
石蔵で見つかったものより。
ずっと太い。
無数の糸が。
一つの塊を作り。
排水口の奥へ続いている。
「近づくな」
ガルドが止める。
「これ以上は危険です」
マルクが言う。
「帰りますか?」
ノエルが尋ねる。
「入口だけ記録する」
「距離を測れ」
「菌糸の広がりもだ」
ノエルは震える手で帳面を開く。
剣は使えない。
走るのも遅い。
それでも。
仕事をするため、目を逸らさなかった。
「入口の幅、約四尺」
「高さ、三尺半」
「鉄格子は中央から外側へ変形」
「菌糸は周囲へ約十五歩――」
そのとき。
排水口の奥で。
水音が止まった。
全員が動きを止める。
先ほどまで。
ぬるり。
ぬるりと流れていた水の音。
それが。
突然消えた。
「何か来る」
グレゴールが弓を構える。
「下がれ」
ガルドが低く命じる。
一歩。
また一歩。
全員が松明を前へ向けたまま後退する。
排水口の奥。
暗闇の中で。
何かが擦れる音がした。
石へ。
爪を立て。
ゆっくりと這う音。
かり。
かり。
石蔵で聞こえたものと同じ。
やがて。
暗闇の中に。
二つの灰色の光が浮かんだ。
「目……?」
ノエルの声が震える。
低い位置。
人間の腰ほど。
二つの目が。
松明を見ている。
次に。
片手が鉄格子の隙間から伸びた。
人間の手。
けれど。
皮膚は灰色。
指は不自然に長く。
爪の間から菌糸が生えている。
「……アー、デ……ル……」
掠れた声。
ガルドの表情が変わる。
逃げた男。
アーデルハイトの名を呼んでいた追手。
「生きてるのか」
エリックが呟く。
人のようなものは。
鉄格子へ指を掛けた。
「……アル……フレ……」
今度は。
別の名前を口にする。
誰のものか。
全員が理解した。
「なぜ、アル坊の名前を」
ガルドの声が低くなる。
逃げた男は。
村でアルフレッドの名を聞いている。
だから。
覚えていても不思議ではない。
けれど。
声は。
言葉の意味を理解している者のものではなかった。
聞いた音を。
ただ繰り返している。
「……きれい……に……」
その一言に。
ガルドの背筋へ、冷たいものが走った。
それは。
アルフレッドが何度も口にしてきた言葉だった。
「下がれ!」
人のようなものが。
鉄格子へ身体をぶつけた。
がんっ!
歪んだ格子が大きく揺れる。
灰色の菌糸が。
一斉に持ち上がった。
「走れ!」
ガルドの叫び。
全員が谷を離れる。
背後で。
がんっ!
もう一度。
鉄が軋む音。
菌糸が地面を這う。
ノエルの足が岩へ引っかかった。
「っ!」
身体が前へ倒れる。
「ノエル!」
エリックが腕をつかみ、引き上げる。
「走れます!」
「なら走れ!」
誰も振り返らない。
谷を抜け。
岩場を越え。
菌糸の広がっていない草地まで走り続ける。
ガルドが最後に後退しながら。
排水口へ松明を投げた。
炎が菌糸の上へ落ちる。
じゅう。
灰色の煙。
腐った臭い。
そして。
人間とも獣ともつかない悲鳴が。
谷の奥から響いた。
⸻
村へ戻った調査隊の顔を見て。
アルフレッドは、すぐに何かあったと気づいた。
「怪我は?」
最初に尋ねる。
「ない」
ガルドが答える。
「全員?」
「ああ」
「よかった……」
アルフレッドは胸を撫で下ろす。
「何があったの?」
「皆を集めろ」
ガルドの声には。
いつもの余裕がなかった。
村の中央。
地図の周囲へ。
主だった者たちが集まる。
ガルドは。
排水口で見たものを、一つずつ話した。
灰色の菌糸。
内側から歪んだ鉄格子。
逃げた追手らしき人影。
そして。
アルフレッドの名と。
「きれいに」という言葉を口にしたこと。
「僕の言葉を?」
アルフレッドが呟く。
「聞いた言葉を真似てるだけかもしれん」
「でも、逃げた人はどうして地下に?」
「森で菌糸に捕まった」
ガルドは地図の上へ指を置く。
「それから、地下水路へ引き込まれたと考えるのが自然だ」
「まだ生きてる?」
「分からん」
「話せたんでしょう?」
「話したとは言えねえ」
ガルドは首を横へ振る。
「人の形はしていた」
「だが、人間の目じゃなかった」
「助けられますか?」
ガルドは答えなかった。
アルフレッドは拳を握る。
やはり。
行きたいと思った。
《清掃》なら。
森狼のように。
捕虜の腕のように。
灰色のものを取り除けるかもしれない。
「アル坊」
ガルドが先に呼ぶ。
「はい」
「今すぐ行くとは言うなよ」
「……言わない」
「本当か」
「行っても、今の僕じゃ近づけないから」
火を持った大人たちが。
逃げるしかなかった場所。
十二歳のアルフレッドが入れば。
守る者を増やすだけだ。
「でも」
「助ける方法は考えたい」
「ああ」
「見捨てるんじゃなくて」
「準備します」
「それでいい」
ガルドは頷いた。
「まず、村へ入らせない」
「地下水路を全部塞ぐ?」
「全部は無理だ」
エッダが言う。
「排水路が使えなくなれば、次の大雨で村が浸水します」
「じゃあ、どうする?」
「逆止めの格子を入れる」
ヘルマンが口を開いた。
「逆止め?」
「水は通す」
「大きなものは通さない」
「細い菌糸は?」
「布と炭を重ねる」
マルタが続ける。
「濾過するの?」
アルフレッドが尋ねる。
「完全には止められない」
「でも、灰色の粒が井戸へ流れ込む量は減らせるかもしれない」
「水路のどこへ入れる?」
「村へ入る手前」
エッダが地図を指す。
「点検口があります」
午前中に見つけた。
三本の縦線が刻まれた円形の石。
「開けるの?」
「上から石を外すだけでは危険です」
「まず周囲を掘り」
「水路の壁を支えます」
「開けた瞬間、菌糸が出てくる可能性もある」
ガルドが言う。
「火を用意する」
「見張りも」
「アルフレッド様は?」
セルマが窓辺から尋ねた。
全員が、アルフレッドを見る。
「……離れた場所で待つ」
アルフレッドが答えた。
「力が必要になったら、呼んでもらう」
「自分から近づかない」
「本当ですか?」
「約束する」
セルマは。
それでも不安そうだった。
「僕も、何か役に立ちたい」
アルフレッドは続ける。
「でも、勝手に近づいて皆を困らせるのは」
「役に立つことじゃないから」
セルマの右目が。
わずかに柔らかくなる。
「はい」
「それでよろしいと思います」
⸻
午後。
灰境の村では。
地下水路の点検口を開くための準備が始まった。
木材。
縄。
鉄の棒。
松明。
炭。
濡らした布。
菌糸を入れるための金属箱。
見張り台の修繕は、再び止まった。
領主館も。
鍛冶場も。
畑の拡張も。
予定どおりには進まない。
けれど。
今、村の水を守ることの方が大切だった。
「予定が、どんどん変わるね」
アルフレッドが言う。
「領地では、予定どおり進む日の方が少ないですよ」
ノエルが答えた。
谷から走って戻ったため。
眼鏡の片側が少し曲がっている。
「直そうか?」
「今日は結構です」
「少し曲がってるよ」
「見えます」
「見づらくない?」
「見づらいですが、使えます」
「僕の《修繕》ならすぐ――」
「必要なときまで力を残してください」
「……うん」
アルフレッドは手を下ろした。
「でも、あとで直させてね」
「水路の問題が落ち着いたらお願いします」
「約束」
「はい」
ノエルは帳面へ。
新しい項目を書き加えた。
――地下水路・点検口開放準備。
その下へ。
――排水口内部に、人型の灰色個体を確認。
さらに。
少し迷ってから。
こう記した。
――発話あり。
発した言葉。
アーデルハイト。
アルフレッド。
きれいに。
ノエルは筆を止めた。
「どうしたの?」
「この存在は」
紙の上の文字を見る。
「アルフレッド様の力を、認識しているのでしょうか」
「僕の力を?」
「森狼へ《清掃》を使った」
「首輪の命令を消した」
「捕虜の腕から菌糸を取り除いた」
「いずれも、灰色のものへ干渉しています」
「見られてたのかな」
「可能性はあります」
「どこから?」
ノエルは地面を見る。
村の下。
張り巡らされた古い水路。
「ずっと、下から」
二人は。
しばらく足元を見つめた。
何も見えない。
ただの土。
村人たちが毎日歩く道。
その下で。
灰色の何かが。
アルフレッドの言葉を聞き。
力を感じ。
少しずつ近づいている。
「怖い?」
ノエルが尋ねる。
「うん」
アルフレッドは正直に答えた。
「でも」
点検口の周囲で働く村人たちを見る。
一人ではない。
だから。
「逃げるほどじゃない」
ノエルは。
ほんの少しだけ笑った。
「それなら、よい領主になれるかもしれません」
「本当?」
「まだ、かもしれませんです」
「やっぱり厳しい……」
⸻
夕暮れ前。
円形の点検口の周囲から。
土が取り除かれた。
石の全体が姿を現す。
中央には。
三本の縦線。
円の周囲には。
これまで泥で隠れていた、古い文字が刻まれていた。
「読めますか?」
アルフレッドが尋ねる。
ノエルが膝をつく。
汚れへ直接触れず。
松明の光を近づける。
「王国文字ではありません」
「古代文字?」
「分かりません」
「一部だけ、形の近いものがあります」
「何て?」
ノエルは。
刻まれた文字を、一つずつ目で追う。
「正確ではありませんが」
「おそらく」
声が少し掠れた。
「浄化区画」
アルフレッドの表情が変わる。
「浄化?」
「はい」
「きれいにする場所ってこと?」
「その可能性があります」
「じゃあ、灰色のものは」
「汚れをきれいにするためのものだった?」
誰も答えられなかった。
今、村を脅かしている菌糸。
獣へ取りつき。
人間の身体へ入り。
井戸の水へ粒を流したもの。
もしそれが。
もともとは。
何かを浄化するために作られた存在だったなら。
「壊れたのかな」
アルフレッドが呟く。
壊れたもの。
本来の役割を失い。
別の動きを始めたもの。
それなら。
《修繕》で戻せるのだろうか。
あるいは。
《清掃》で取り除くべきなのだろうか。
「今日は開けない」
ガルドが宣言した。
「もう日が沈む」
「夜に触るものじゃねえ」
「明日の朝」
「全員が動ける時間に開ける」
アルフレッドも頷いた。
「うん」
「待てるか?」
「待ちます」
「本当に?」
「皆がいるときに開ける」
円形の石へ。
新しい縄が張られる。
見張りが二人置かれる。
誰も近づかない。
誰も触れない。
今夜は。
ただ待つ。
⸻
その夜。
マルタの家。
セルマは。
アルフレッドから、点検口の文字について聞いていた。
「浄化区画……ですか」
「うん」
「灰色のものは、昔から悪いものではなかったのかもしれない」
「だから直したいのですか?」
「分からない」
アルフレッドは寝台の横で膝を抱える。
「直せるなら直したい」
「でも」
「もう人や動物を傷つけてる」
「清掃した方がいいのかもしれない」
「直すのと、取り除くの」
「どっちが正しいのかな」
セルマは少し考えた。
「明日、見てから決めればよいと思います」
「見ただけで分かるかな」
「分からなければ」
セルマはアルフレッドを見る。
「分からないと、おっしゃればよいのです」
以前。
首輪を調べたとき。
アルフレッドは。
今はできない、と言った。
それをガルドに褒められた。
「領主なのに、分からないって言っていいのかな」
「分からないことを隠して」
「村の皆様を危険へ晒すよりは、よろしいかと」
「うん」
「それに」
セルマの口元が少し動く。
「アルフレッド様が分からないことは」
「今に始まったことではございません」
「それ、ひどくない?」
「事実です」
「セルマまで、村の人みたいになってきた」
「私は以前から、同じことを申し上げています」
「そうだった……」
アルフレッドは苦笑した。
少しだけ。
肩の力が抜ける。
「明日」
セルマが言う。
「必ず、皆様の指示に従ってください」
「うん」
「呼ばれるまでは近づかない」
「うん」
「力を使う前に相談する」
「うん」
「一人で中へ入らない」
「それは絶対にしないよ」
「本当ですか?」
「僕、そんなに信用ない?」
「水路へ入ることについては、まったく」
「……気をつけます」
「気をつける、ではなく」
「入りません」
「はい」
満足したように。
セルマは目を閉じた。
アルフレッドも。
床の毛布へ横になる。
明日。
村の下へ続く入口が開く。
何が出てくるか。
何が見つかるか。
誰にも分からない。
それでも。
今夜は眠る。
明日。
判断を誤らないために。
⸻
村の北。
縄で囲われた点検口。
二人の見張りが。
少し離れた場所で、火を焚いていた。
円形の石は。
動かない。
何の音もしない。
けれど。
その真下。
暗い水路の中で。
無数の灰色の菌糸が。
石の裏側へ集まっていた。
一本ずつ。
文字の溝へ入り込み。
三本の縦線を。
内側からなぞっていく。
そして。
石に刻まれた古い文字が。
誰にも気づかれないほど弱く。
淡い光を放ち始めた。
浄化区画。
長い眠りを終えるように。
地下のどこかで。
重い機構が。
ひとつ。
動いた。
ごとん。
見張りの一人が顔を上げる。
「今、何か聞こえたか?」
「石が鳴っただけだろう」
二人は。
もう一度、焚き火へ目を戻す。
点検口の下では。
灰色の瞳が開いていた。
「……ある、ふれっど……」
今度の声は。
以前よりも。
少しだけ正確だった。
⸻
第21話 水路の入口 了




