水の味
第二章 灰境
第20話 水の味
前書き
水は、
何も語りません。
澄んでいても、
安全とは限らず。
濁っていても、
ただちに毒とは限りません。
人は昔から、
水の色を見て、
匂いを確かめ、
口へ含み、
その土地で生きられるかを判断してきました。
けれど。
見えないものまで混ざり始めたとき。
いつもの一杯は、
暮らしを支える恵みから、
村全体を脅かすものへ変わるのです。
⸻
灰境の空が、白み始めていた。
夜通し焚かれた松明は短くなり、火の勢いを失っている。
石蔵の北側。
掘り返された土の前には、交代の見張りが二人残っていた。
排水路の隙間は、石と土と鉄板で塞がれている。
周囲へ置かれた炭は赤い熱を残し、ときおり小さく弾けていた。
今のところ。
灰色の菌糸が再び表へ現れた様子はない。
「動きは?」
ガルドが尋ねる。
見張りをしていたベルンが、眠そうな目を擦りながら首を横へ振った。
「ありません」
「音は?」
「地面の下で、何か聞こえた気もしますが……」
「何の音だ」
「水です」
「水?」
「流れているような音です。ただ、排水路なら普通かと」
ガルドは塞いだ石の前へ膝をついた。
耳を近づける。
微かな音。
確かに。
地面の下で水が流れている。
さらさらと清らかな音ではない。
何か粘り気のあるものが、狭い石の隙間を通っているような。
低く。
湿った音だった。
「朝になったら周囲をもう一度掘る」
「石を外すんですか?」
「外さねえ」
ガルドは立ち上がる。
「外側から、どこへ伸びているかを見るだけだ」
「中は?」
「入らん」
「ですが、排水路の出口を調べるのでは?」
「そっちは別だ」
灰の森へ向かう排水路の出口。
村の地下へ入り込んだ菌糸の経路。
どちらも調べる必要はある。
だが。
夜明け直後に、人員も準備もない状態で地下へ入るつもりはなかった。
「まず井戸だ」
ガルドは広場を見る。
縄で囲われた井戸。
昨夜から、誰も使っていない。
「水が駄目なら、排水路どころじゃねえ」
⸻
マルタの家。
アルフレッドは床へ敷いた毛布の中で、眠れずにいた。
何度も目を閉じた。
けれど。
石蔵の地下。
排水路。
灰色の菌糸。
人間の目のようなもの。
実際には見ていないはずの景色が、頭の中へ浮かんでくる。
「起きていますね」
寝台からセルマの声がした。
アルフレッドは、毛布から顔を出した。
「起きてないよ」
「返事をなさいました」
「あ……」
「眠れないのですか?」
「少しだけ」
セルマも眠っていなかったらしい。
窓から入る薄い朝の光が、右目と白い髪を淡く照らしている。
「首は?」
「今のところ、変化はありません」
「痛くない?」
「少し熱い程度です」
「それ、大丈夫じゃないよね」
「昨日よりは大丈夫です」
「比べる場所が違う気がする」
アルフレッドは身体を起こした。
頭痛はない。
昨日、捕虜の腕から菌糸を取り除いたあとも、力を使わずに休んだ。
自分の限界へ近づく前に止める。
少しずつではあるが。
できるようになってきたと思う。
「今度は、何を考えているのですか?」
セルマが尋ねる。
「井戸」
「水のことですか」
「うん」
灰境の村には井戸が一つしかない。
開拓隊が持ってきた水樽はある。
けれど、二十二人の村人。
開拓隊の護衛たち。
捕虜二人。
セルマやアルフレッド自身。
全員が何日も使える量ではない。
「もし井戸が使えなかったら」
「別の水源が必要になります」
「川は?」
「灰の森から流れているのでしょう」
「そうなんだよね……」
排水路の先も灰の森。
川の上流も灰の森。
森で起きている異変が、水へまで広がっているなら。
井戸だけの問題では済まない。
「雨水を集める?」
「すぐに雨が降るとは限りません」
「朝露は?」
「二十二人分には足りません」
「地面を掘って、別の井戸を――」
「今日明日で完成するものではありません」
「そうだよね」
アルフレッドは膝を抱えた。
「僕の《清掃》で、水をきれいにできないかな」
セルマの表情が強張った。
「すぐには使わないよ」
「……本当ですか?」
「先に調べる」
「ガルド様たちへ相談する」
「少しずつ試す」
セルマはしばらくアルフレッドの顔を見た。
無茶をする顔ではないか。
言葉だけではないか。
確かめているのだろう。
「何?」
「以前よりは、信じられそうです」
「以前は信じてなかったの?」
「無茶をしないという点では」
「ガルドさんと同じこと言ってる……」
「村の皆様も同じ考えだと思います」
「そんなに?」
「はい」
即答だった。
アルフレッドは肩を落とした。
けれど。
少しだけ笑ってもいた。
心配してもらえる。
止めてもらえる。
屋敷にいた頃には、ほとんどなかったことだからだ。
⸻
朝。
村の広場へ、大きな鍋と木桶が並べられた。
井戸の周囲には、昨夜の縄が張られたまま。
水を汲もうとする者はいない。
村人たちは不安そうに井戸を見ている。
「水樽の残量は?」
ノエルが尋ねる。
開拓隊の兵士が、樽の蓋を確認した。
「満量が二つ」
「半分ほど残ったものが一つです」
「人数は?」
「村人二十二名」
「開拓隊十二名」
「捕虜二名」
「セルマ殿を含め、合計三十七名です」
「家畜は?」
エッダが尋ねる。
「馬が六頭」
「山羊が三頭」
「鶏は水をあまり使いませんが、それでも必要です」
ノエルは帳面へ書き込む。
「節約した場合、何日持ちますか?」
「人間だけなら三日」
「馬へ与えれば二日です」
「二日……」
村人たちの間に、小さなざわめきが広がった。
水がなくなる。
それは魔物の襲撃よりも、ずっと静かな危機だった。
剣で倒すことも。
柵で防ぐこともできない。
「井戸を調べる」
ガルドが言った。
「誰が入る?」
グレゴールが井戸を覗き込む。
「入らねえ」
「なら、どうやって底を見る」
「桶を下ろす」
「水を汲むだけじゃ、変化は分からんぞ」
「だから試す」
ガルドは井戸の周囲へ集まった者たちを見る。
「まず、誰も口をつけるな」
「手にも触るな」
「汲んだ水は別の桶へ移す」
「異常があれば、すぐ井戸から離れろ」
「火も用意しておく」
ヘルマンが炭の入った火鉢を運んでくる。
「菌糸が出たら焼くのか」
「効くかどうかは分からん」
「ないよりましだ」
昨日アルフレッドが修繕した滑車へ、長い縄が掛けられる。
ただし。
以前使っていた桶ではない。
開拓隊が持ってきた新しい金属桶だった。
「木の桶では、菌糸が入り込んでいても分からない」
ノエルが説明する。
「金属なら、付着物を確認しやすいでしょう」
「重くない?」
アルフレッドが尋ねる。
「だから滑車が直ってて助かった」
グレゴールが縄を握る。
「領主様の最初の仕事が、ここで役に立ったな」
アルフレッドは少しだけ嬉しくなる。
だが。
今は笑っている場合ではない。
「下ろすぞ」
桶がゆっくりと井戸の中へ降りていく。
からから。
滑車は滑らかに回った。
縄が闇へ吸い込まれる。
やがて。
ちゃぷん。
水へ触れる音がした。
「水位は?」
「以前と変わらん」
バルドが答える。
「少なくとも、枯れてはいない」
桶が沈む。
水を満たし。
引き上げられる。
縄が少しずつ戻ってきた。
全員が、井戸の縁を見つめている。
最初に桶の上端。
次に水面。
朝の光を反射する水は。
見たところ、透明だった。
「濁ってない」
誰かが呟く。
「待て」
ガルドが止める。
桶を地面へ直接置かず。
平たい石の上へ下ろす。
ノエルが白い布を用意した。
水を少量。
布の上へ垂らす。
黒い粒。
灰色の糸。
目に見える異物はない。
「匂いは?」
マルタが鼻を近づける。
触れない距離で。
何度か空気を手で仰ぐ。
「いつもの井戸水と変わらないように思える」
「味を見るか?」
グレゴールが言う。
「駄目だ」
アルフレッドとガルドが同時に答えた。
二人は顔を見合わせる。
「どうして僕を見るの?」
「お前が真っ先に飲むと言いそうだったからだ」
「言わないよ」
「本当に?」
「少し考えたけど」
「考えたんじゃねえか!」
「でも言ってない!」
「領主が毒見をするな!」
ガルドの声に。
不安で強張っていた村人たちから、少しだけ笑いが起きた。
「動物へ飲ませるのは?」
ベルンが尋ねる。
「山羊なら――」
「駄目だよ」
マルタが遮った。
「命の重さを選ぶ話じゃない」
「でも、確かめるには」
「水が毒なら、山羊を失う」
「村の乳も減る」
「それに」
アルフレッドが桶の水を見る。
「すぐ症状が出るとは限らない」
灰色の菌糸。
森狼へ取りついていたものは。
すぐに狼を殺さなかった。
むしろ。
長い時間を掛けて身体へ入り込み、行動を変えていたように見える。
「飲んですぐ平気でも、安全とは言えません」
ノエルが頷く。
「そのとおりです」
「では、どう調べる」
バルドが尋ねる。
誰もすぐには答えられなかった。
王都なら。
魔術師。
錬金術師。
水質を調べる専門家がいるかもしれない。
だが、ここは灰境。
手元にあるのは。
薬師の知識。
開拓隊の道具。
アルフレッドのスキル。
そして。
村人たちが長年培ってきた経験だけだった。
「昔の水と比べます」
アルフレッドが言った。
「どうやって?」
「昨日まで使っていた水が残っていませんか?」
女たちが顔を見合わせる。
「家の瓶に少し」
エッダが答えた。
「昨日の朝に汲んだものです」
「ほかには?」
「うちにもあるよ」
マルタが言う。
「薬湯を作るため、煮沸した水が残ってる」
「煮た水じゃなく、井戸から汲んだままのものは?」
「小瓶に入れてある」
「薬草を洗うための分だ」
「それと今日の水を比べます」
色。
匂い。
沈殿物。
乾かしたあとに残るもの。
できることは限られている。
それでも。
何もしないよりはいい。
「ノエルさん」
「はい」
「同じ大きさの瓶を何本か用意できますか?」
「開拓隊の薬瓶があります」
「一つは昨日の水」
「一つは今日の井戸水」
「一つは川の水」
「川へ行くのか?」
ガルドが尋ねる。
「僕は行かない」
先に答えた。
ガルドの眉が少し上がる。
「グレゴールさんたちにお願いしたいです」
「南の川なら、倒木の場所に近い」
グレゴールが言う。
「今日、木を運びに行く予定だったからな」
「川の上流と下流」
「取れるなら両方お願いします」
「灰の森へ近づく側は?」
「無理はしないでください」
アルフレッドは真っ直ぐグレゴールを見る。
「水より、戻ってくることを優先してください」
「分かった」
返事は短かった。
けれど。
以前よりも、少し柔らかい声だった。
⸻
水の比較は。
マルタの家の前で行われることになった。
同じ形の透明な薬瓶が、板の上へ並べられる。
一本目。
昨日の朝に井戸から汲んだ水。
二本目。
今朝汲んだ水。
三本目は空。
川の水を待つ。
アルフレッドは、光へ瓶を透かした。
「同じに見える」
「今のところはね」
マルタが答える。
瓶の底へ白い布を置く。
細かな沈殿がないかを見る。
昨日の水には。
少しだけ砂が沈んでいる。
井戸の古い石壁から入ったものだろう。
今日の水も。
同じように見えた。
「匂いも変わらない」
「温度は?」
「今日の方が少し冷たい」
「朝だからじゃない?」
「そうだね」
「これでは分からない」
ノエルが記録をつけながら言う。
「乾かしてみますか?」
「水を?」
「布へ染み込ませて、天日で乾燥させます」
「何か混ざっていれば、跡が残るかもしれません」
白い布が三枚用意される。
昨日の水。
今日の水。
比較用として、開拓隊が持ってきた水。
それぞれを同じ量だけ染み込ませる。
「これで乾くまで待つの?」
「はい」
「時間が掛かりますね」
「調べるとは、そういうものです」
ノエルの言葉に。
アルフレッドは見張り台の作業を思い出した。
一日働いても、完成しない。
けれど。
使えるものと。
使えないものが分かる。
水も同じなのだろう。
すぐ答えが出るとは限らない。
「《清掃》で、水の中に変なものがあるか感じられないかな」
アルフレッドが呟く。
セルマが寝台から、じっと見ている。
ガルドも腕を組んでいる。
マルタは何も言わない。
全員の視線を感じた。
「すぐ使わないよ」
「誰も何も言ってねえ」
「顔に書いてある」
「お前に言われたくねえ」
「でも」
アルフレッドは今日の井戸水が入った瓶を見る。
「触らずに、小さな瓶一つだけなら」
「何をするつもりだ」
ガルドが尋ねる。
「《清掃》を使うんじゃなくて」
「使う前の感覚だけ」
「昨日、捕虜の腕を見たときみたいに」
「異物があるか確かめたい」
「身体は?」
「頭痛なし」
「吐き気なし」
「手足も動く」
「昨日は一度使ってる」
「ちゃんと寝た」
「眠れてないだろう」
セルマが静かに言った。
「どうして分かったの?」
「何度も寝返りを打っていました」
「起きてたの?」
「はい」
「ならセルマも寝てない」
「私は眠っていました」
「嘘」
「少しは眠りました」
「僕も少しは――」
「二人とも黙りな」
マルタが机を叩く。
「寝不足自慢をするんじゃないよ」
「すみません」
「申し訳ありません」
二人が同時に謝った。
マルタは瓶を見る。
「触れずに見るだけなら、やってみてもいい」
「本当?」
「ただし、何も感じなくても安全だとは決めつけない」
「はい」
「何か感じても、一人で清掃しない」
「はい」
「一度だけ」
「はい」
アルフレッドは瓶の前へ座った。
水へ触れない。
瓶にも触れない。
目を閉じる。
昨日。
菌糸を取り除く前。
傷の中にあるものを感じ取った。
あの感覚を思い出す。
水。
瓶。
小さな砂。
空気。
その中に。
あるべきではないものが混じっていないか。
最初は何も分からなかった。
ただの水。
冷たく。
透明で。
手を伸ばせば飲めそうな水。
けれど。
意識を深く向けると。
瓶の底。
砂の間に。
ほんの小さな違和感があった。
糸ではない。
菌でもない。
点。
灰色の。
目では見えないほど小さな点が。
水の中に散っている。
「……ある」
アルフレッドが呟く。
「何が?」
ガルドが尋ねる。
「灰色のもの」
周囲の空気が変わった。
「見えるのかい?」
マルタが身を乗り出す。
「見えるんじゃなくて」
「感じるだけ」
「昨日の水は?」
アルフレッドは、隣の瓶へ意識を移した。
こちらにも砂。
水。
小さな汚れ。
だが。
「ない」
「開拓隊の水は?」
「ないです」
「今日の井戸水だけ?」
「うん」
アルフレッドは目を開いた。
少しだけ頭が重い。
「もう止めろ」
ガルドが即座に言う。
「使ってないよ」
「見ただけでも疲れてる」
「少しだけ」
「少しで止めるんだろ」
「……はい」
アルフレッドは瓶から離れた。
触れない。
清掃もしない。
その約束を守った。
「井戸は使用禁止を続ける」
ガルドが宣言する。
「でも、水樽は二日分です」
ノエルが言う。
「川の水を待つ」
「川も駄目なら?」
「別の水源を探す」
「間に合わなければ?」
皆が黙る。
そのとき。
セルマが寝台から声を出した。
「雨水を集める準備をしてください」
「雨は降らないかもしれないよ」
アルフレッドが言う。
「それでもです」
「降ってから用意していては遅れます」
セルマは窓の外を見る。
「灰境は、午後になると山から雲が下りるのでしょう?」
バルドが振り返った。
「なぜ知っとる」
「昨日、雲の動きを見ました」
「夕方には、北の山へ雲が集まっていました」
「雨が降る兆しなの?」
「確実ではありません」
「ですが、準備する価値はあります」
エッダが頷く。
「屋根から流れる水を桶へ集めます」
「壊れた樋を使える家もあります」
「布で最初の雨を避ければ、屋根の汚れも少し減らせる」
マルタが言う。
「煮沸も必要だね」
「薪を使います」
「水がなくなるよりはいい」
アルフレッドはセルマを見る。
「すごいね」
「何がですか」
「寝台から、ちゃんと村のことを見てた」
「何もできませんので」
「できてるよ」
セルマは少しだけ視線を逸らした。
「では」
ノエルが帳面を開く。
「雨水を集めるための準備を、今日の仕事へ追加します」
「見張り台は?」
エッダが尋ねる。
「作業を減らします」
アルフレッドが答えた。
「倒木を運ぶ人は、そのまま川の水も取ってきてもらう」
「村に残る人は、桶と布を集めます」
「屋根の樋を使える家をエッダさんに見てもらう」
「マルタさんは、水を煮る準備」
「ヘルマンさんは?」
「大きな鍋の底に穴がないか確認してください」
「穴があったら?」
「僕の《修繕》――」
言いかけて。
ガルドを見る。
「相談してから使います」
「よし」
その一言に。
アルフレッドは少しだけ胸を張った。
⸻
午前中。
村中から桶と甕が集められた。
形の揃ったものは一つもない。
大きな木桶。
小さな洗い桶。
酒を入れていた樽。
取っ手の欠けた甕。
底へひびの入った器。
「これは使える?」
リーナが、小さな壺を持ってくる。
エッダが内側を見る。
「ひびがあるね」
「捨てる?」
「少しなら水を入れられる」
「領主様に直してもらう?」
「今日は水の調査で疲れてる」
アルフレッドが答える前に。
リーナがそう言った。
「だから、これは最後」
アルフレッドは目を瞬いた。
「リーナちゃんまで」
「何?」
「僕を止める側になったの?」
「みんな言ってるよ」
「何を?」
「領主様に何でも直させたら、また倒れるって」
周囲の村人たちが、気まずそうに視線を逸らした。
「村中に広まってる……」
「いいことじゃないか」
マルタが言う。
「皆、あんたの使い方を覚えてきた」
「僕は道具じゃないよ」
アルフレッドの言葉に。
セルマが窓からこちらを見た。
「その言葉を、忘れないでください」
静かな声だった。
セルマ自身が。
長い間、道具として扱われてきたからこその言葉。
アルフレッドは少しだけ表情を引き締める。
「うん」
「スキルがあるからって、僕が全部やる必要はない」
「そういうこと?」
「はい」
壊れた壺は。
樹脂と布を使い。
エッダが一時的にひびを塞ぐことになった。
完全には直らない。
けれど。
雨水を受ける程度なら使える。
アルフレッドの力を使わなくても。
村には、できることがある。
⸻
昼を過ぎた頃。
南へ向かった一行が戻ってきた。
荷車には。
見張り台へ使う倒木が一本。
切り分けた木材。
そして。
蓋をした水桶が三つ載せられている。
「戻りました!」
護衛の声に。
村人たちが集まる。
「怪我は?」
アルフレッドが最初に尋ねる。
「ありません」
グレゴールが答える。
「魔物は?」
「遠くで鳴き声を聞いたが、姿は見てない」
「倒木は?」
「エッダに見てもらえ」
木材は大きく。
見張り台の柱として十分な太さがありそうだった。
だが。
今は水の方が優先だった。
「どこで汲みました?」
ノエルが尋ねる。
「一つは倒木近くの川」
「一つは、そこから少し下流」
「もう一つは、南の岩場から湧いていた水だ」
「湧き水?」
バルドが驚いた。
「昔使っていた場所か?」
「違う」
「鹿の足跡を追って見つけた」
「水量は?」
「多くない」
「桶一つ汲むのに、かなり時間が掛かった」
それでも。
灰の森から流れる川とは別の水源である可能性がある。
「場所を地図に記録します」
ノエルが言う。
「あとで道も作れますか?」
アルフレッドが尋ねる。
「安全が確認できれば」
「まず水を調べる」
ガルドが桶へ近づく。
朝と同じように。
三種類の水を、別々の瓶へ入れる。
色。
匂い。
沈殿物。
川の水には。
細かな砂。
小さな植物片。
目に見える汚れが多い。
下流の水も同じ。
湧き水は。
驚くほど透明だった。
「飲めそうだな」
ベルンが言う。
「見た目だけで決めない」
今度はリーナが答えた。
「皆、よく覚えてるね……」
アルフレッドが呟く。
「それで、どうする」
ガルドが尋ねる。
全員が。
アルフレッドを見る。
「僕?」
「水の中に灰色のものがあるか、分かるんだろ」
「今朝、一回見ました」
「疲れてるなら、今日はやらん」
「少し休みました」
「本当か?」
「昼ご飯も食べた」
「全部?」
「半分」
「全部食え」
「もうお腹いっぱいです」
「なら今日は――」
「僕が診るよ」
マルタがアルフレッドの手首を取る。
脈。
瞳。
顔色。
「今朝よりは落ち着いてる」
「一つだけなら、いい」
「一つ?」
「全部を一度には見ない」
「まず湧き水」
「そこで違和感があれば、今日は終わり」
「なければ、少し休んでから川の水を一つ」
「下流は明日に回す」
「はい」
アルフレッドは湧き水の瓶の前へ座る。
目を閉じる。
触れない。
《清掃》も使わない。
ただ。
水の中にあるものを感じる。
砂。
岩の成分。
ごく小さな土。
冷たさ。
それ以外に。
灰色の点は――。
「ない」
アルフレッドは目を開いた。
「本当か?」
「今朝の井戸水にあったものは、感じない」
村人たちの間から。
小さく息を吐く音が広がった。
「飲める?」
リーナが尋ねる。
「まだだよ」
アルフレッドは答える。
「煮て」
「少しずつ試して」
「何日か様子を見る」
「領主様なのに、慎重になったね」
「最初から慎重だったよ」
周囲の大人たちが、誰も同意しなかった。
「なぜ皆、黙るの?」
「自分の胸へ聞け」
ガルドが言った。
⸻
湧き水は。
大鍋で煮沸された。
火へ掛け。
しばらく沸騰させ。
清潔な布で濾す。
最初に口をつけたのは。
誰でもなかった。
煮た水を小皿へ取り。
草へ掛ける。
しばらく待つ。
変化はない。
次に。
鶏へ与えるのではなく。
木の枝を水へ浸し。
色や臭いが変わらないかを見る。
それでも。
安全だという証明にはならない。
「結局、誰かが飲まないと分からない」
グレゴールが言った。
「俺が飲む」
「駄目です」
アルフレッドが止める。
「なら誰が飲む」
「僕が――」
「もっと駄目だ!」
今度は村人たち全員から声が飛んだ。
「領主様が最初に飲むな!」
「倒れたらどうする!」
「昨日まで寝てたでしょう!」
「毒見は兵士の仕事だ!」
「毒見の仕事などありません!」
ノエルが訂正する。
広場が騒がしくなる。
その中で。
バルドが杖を上げた。
「少量を、何人かで分ける」
声が静まる。
「一人へ全部飲ませる必要はない」
「わし」
「ガルド」
「グレゴール」
「マルタ」
「四人で一口ずつ」
「村長!」
「年寄りを優先するなよ」
マルタが睨む。
「なら、お前さんも外れるか?」
「わたしは薬師だ」
「身体の変化を見られる」
「だから入る」
ガルドが腕を組む。
「俺は護衛だ」
「異変が出ても、ほかの兵へ指示を残せる」
「グレゴールは外れろ」
「なぜだ」
「脚が悪い」
「水とは関係ない」
「子どもはいないのか?」
ガルドが尋ねる。
「いない」
グレゴールは短く答えた。
「なら俺も飲む」
アルフレッドは納得できない顔をした。
「誰かが犠牲になるみたいで嫌です」
「犠牲になると決まったわけじゃない」
バルドが言う。
「暮らすために、確かめるだけじゃ」
「でも」
「領主様」
グレゴールがアルフレッドを見る。
「昨日、俺たちに仕事を任せたでしょう」
「うん」
「これも仕事です」
「一人ではなく」
「皆で危険を分ける」
「領主様が全部引き受けるより、ずっとましだ」
アルフレッドは黙った。
できないことは。
誰かへ頼る。
危険も。
仕事も。
分ける。
「……分かりました」
「でも、本当に一口だけ」
「何かあったら、すぐマルタさんが診てください」
「自分も飲むんだけどね」
「じゃあマルクさんも近くに」
「分かったよ」
煮沸した湧き水が。
四つの小さな杯へ分けられる。
ほんの一口。
バルド。
ガルド。
グレゴール。
マルタ。
互いに顔を見合わせ。
同時に飲んだ。
アルフレッドは。
四人の顔を順番に見る。
「どう?」
「水だ」
ガルドが答える。
「味は?」
「少し硬い」
マルタが言う。
「岩場の水だからだろうね」
「苦くない?」
「苦くない」
「変な臭いは?」
「ない」
「頭は?」
「飲んだ瞬間に症状は出ないと言ったのは、お前だろう」
「そうだけど……」
「今日は四人を休ませるの?」
「働く」
全員が答えた。
「でも、一人にしない」
アルフレッドが言う。
「四人とも、必ず誰かと一緒にいてください」
「変化があったら、すぐ知らせる」
「分かった」
ガルドが頷いた。
それが。
今できる最善だった。
⸻
午後。
空に雲が集まり始めた。
北の山から。
灰色の雲が、ゆっくりと谷へ下りてくる。
「雨が来るぞ!」
見張り台跡から、村人が叫ぶ。
まだ完成していない。
それでも。
残った支柱へ梯子を掛け。
以前より高い場所から空を見ることはできた。
「桶を出して!」
エッダが指示を出す。
「最初の雨は流す!」
「屋根の泥が落ちてから、樋を桶へつなぐよ!」
村中が動き始めた。
壺。
桶。
樽。
甕。
あらゆる容器が、屋根の下へ並べられる。
壊れた樋には布を巻き。
木の板で水の流れを変える。
「ここから漏れてる!」
「壺を置いて!」
「この桶は穴がある!」
「樹脂を詰めろ!」
アルフレッドも手伝おうとする。
「領主様は、そっちの布を持って!」
リーナに指示された。
「これ?」
「違う! 白い方!」
「こっち?」
「それ!」
アルフレッドは白い布を持って走る。
またガルドに見つかれば、走るなと言われる。
けれど今は。
村中が走っていた。
ぽつ。
最初の雨粒が落ちる。
土へ。
屋根へ。
アルフレッドの頬へ。
ぽつ。
ぽつ。
やがて。
ざあっ。
一気に雨が降り始めた。
屋根に積もった埃が流れる。
黒い水。
枯れ葉。
鳥の糞。
最初の汚れた雨水は。
桶へ入れず、地面へ流す。
「まだ!」
エッダが屋根を見上げる。
「もう少し流して!」
雨脚が強くなる。
古い樋が軋む。
壊れた部分から、水が噴き出す。
「こっちへ板を!」
村人たちが板を当てる。
アルフレッドは、手を伸ばしかけた。
《修繕》なら。
樋の割れ目を直せる。
今すぐ水を無駄にせずに済む。
けれど。
今朝から、何度も水の中を見た。
まだ強い頭痛はない。
それでも。
ここで力を使えば。
また皆を心配させる。
「アルフレッド様!」
セルマの声が、窓から聞こえた。
見られていた。
手を伸ばしたままの姿を。
「使ってないよ!」
「まだ、でしょう」
「……うん」
アルフレッドは手を下ろす。
「エッダさん!」
「はい!」
「樋を直す以外に方法は?」
「板を斜めに当てます!」
「縄を!」
「こっちにある!」
人の手で。
板と縄を使い。
水の流れを変える。
完璧ではない。
漏れる水もある。
それでも。
桶へ。
樽へ。
雨水が少しずつ溜まり始めた。
「今!」
エッダの合図。
樋の先が、空の容器へつながれる。
透明な雨水が。
木桶の底を叩いた。
ぱたぱた。
音が変わる。
少しずつ。
水が溜まっていく音。
村人たちの顔に。
ようやく小さな安堵が浮かんだ。
「降ってくれた……」
マルタが空を見る。
「セルマの言ったとおりだね」
窓の中。
セルマは静かに雨を見つめていた。
予想が当たったことを喜んでいるわけではない。
ただ。
自分の言葉が。
この村の役に立った。
その事実を。
まだ、どう受け止めればいいか分からない顔だった。
アルフレッドは雨の中。
窓へ向かって笑った。
「セルマ!」
「はい」
「仕事したね!」
「私は、雲を見ただけです」
「それが仕事だよ!」
雨音に負けないよう。
大きな声で言う。
「ありがとう!」
セルマは答えなかった。
けれど。
残された右目を。
ほんの少しだけ細めた。
⸻
雨は。
一刻ほどで弱くなった。
大雨ではなかった。
それでも。
村中の桶や樽には。
何日かをつなぐだけの水が溜まった。
すぐには飲めない。
煮沸。
布での濾過。
アルフレッドによる確認。
必要な作業は多い。
だが。
井戸だけに頼らなくてもいい。
その事実だけで。
村人たちの表情は変わっていた。
「これで湧き水の安全を確かめる時間ができる」
ノエルが言う。
「新しい水源への道も作れます」
「井戸も調べられる」
アルフレッドが答える。
「排水路も」
「一つずつです」
「うん」
水に濡れた髪が。
額へ張りついている。
ガルドが外套をアルフレッドの頭へ掛けた。
「着替えろ」
「まだ片づけが」
「風邪を引いたら、また寝込むぞ」
「少しくらいなら」
「お前の少しは信用ならねえ」
「今日はスキル使ってないよ」
「見るのに使っただろ」
「あれも使ったことになるの?」
「疲れるなら同じだ」
「……分かりました」
アルフレッドは、マルタの家へ向かう。
その途中。
縄で囲われた井戸の前で足を止めた。
雨に打たれた石積み。
昨日。
皆が使っていた水。
今は。
灰色の何かが混ざっている。
「待ってて」
誰へ言ったわけでもない。
井戸へ。
水へ。
村へ。
「ちゃんと、きれいにするから」
けれど。
すぐには触れない。
力任せにも使わない。
何が混ざっているのか。
どこから来ているのか。
それを確かめてから。
皆と一緒に。
直す。
アルフレッドは。
井戸から離れた。
⸻
その夜。
四人の身体に、異常は出なかった。
湧き水を一口飲んだ。
バルド。
ガルド。
グレゴール。
マルタ。
熱。
吐き気。
目眩。
灰色の筋。
何もない。
翌朝までは。
まだ安全とは言い切れない。
それでも。
一つの希望にはなった。
湧き水。
雨水。
二つの水源。
灰境は。
井戸を失っただけでは、終わらなかった。
⸻
同じ頃。
村の地下。
古い排水路。
井戸の東側を通る石の水路で。
灰色の菌糸が。
水へ細い先端を沈めていた。
無数の黒い粒が。
菌糸の表面から離れ。
水の流れへ溶けていく。
その奥。
人間の目に似た灰色の瞳が。
ゆっくりと閉じる。
近くで。
掠れた声が響いた。
「……きれい、に……」
それは。
アルフレッドが口にした言葉を。
真似ているようにも聞こえた。
そして。
地面のさらに深い場所で。
古い石の扉に刻まれた紋様が。
ほんの一瞬だけ。
淡い光を放った。
⸻
第20話 水の味 了




