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男爵家四男の辺境開拓記 ~不遇スキル《修繕》と《清掃》で、みんなの帰る場所を作ります~  作者: 和泉發仙
第二章 灰境

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20/53

水の味

第二章 灰境


第20話 水の味


前書き


水は、


何も語りません。


澄んでいても、


安全とは限らず。


濁っていても、


ただちに毒とは限りません。


人は昔から、


水の色を見て、


匂いを確かめ、


口へ含み、


その土地で生きられるかを判断してきました。


けれど。


見えないものまで混ざり始めたとき。


いつもの一杯は、


暮らしを支える恵みから、


村全体を脅かすものへ変わるのです。


⸻


 灰境の空が、白み始めていた。


 夜通し焚かれた松明は短くなり、火の勢いを失っている。


 石蔵の北側。


 掘り返された土の前には、交代の見張りが二人残っていた。


 排水路の隙間は、石と土と鉄板で塞がれている。


 周囲へ置かれた炭は赤い熱を残し、ときおり小さく弾けていた。


 今のところ。


 灰色の菌糸が再び表へ現れた様子はない。


「動きは?」


 ガルドが尋ねる。


 見張りをしていたベルンが、眠そうな目を擦りながら首を横へ振った。


「ありません」


「音は?」


「地面の下で、何か聞こえた気もしますが……」


「何の音だ」


「水です」


「水?」


「流れているような音です。ただ、排水路なら普通かと」


 ガルドは塞いだ石の前へ膝をついた。


 耳を近づける。


 微かな音。


 確かに。


 地面の下で水が流れている。


 さらさらと清らかな音ではない。


 何か粘り気のあるものが、狭い石の隙間を通っているような。


 低く。


 湿った音だった。


「朝になったら周囲をもう一度掘る」


「石を外すんですか?」


「外さねえ」


 ガルドは立ち上がる。


「外側から、どこへ伸びているかを見るだけだ」


「中は?」


「入らん」


「ですが、排水路の出口を調べるのでは?」


「そっちは別だ」


 灰の森へ向かう排水路の出口。


 村の地下へ入り込んだ菌糸の経路。


 どちらも調べる必要はある。


 だが。


 夜明け直後に、人員も準備もない状態で地下へ入るつもりはなかった。


「まず井戸だ」


 ガルドは広場を見る。


 縄で囲われた井戸。


 昨夜から、誰も使っていない。


「水が駄目なら、排水路どころじゃねえ」


⸻


 マルタの家。


 アルフレッドは床へ敷いた毛布の中で、眠れずにいた。


 何度も目を閉じた。


 けれど。


 石蔵の地下。


 排水路。


 灰色の菌糸。


 人間の目のようなもの。


 実際には見ていないはずの景色が、頭の中へ浮かんでくる。


「起きていますね」


 寝台からセルマの声がした。


 アルフレッドは、毛布から顔を出した。


「起きてないよ」


「返事をなさいました」


「あ……」


「眠れないのですか?」


「少しだけ」


 セルマも眠っていなかったらしい。


 窓から入る薄い朝の光が、右目と白い髪を淡く照らしている。


「首は?」


「今のところ、変化はありません」


「痛くない?」


「少し熱い程度です」


「それ、大丈夫じゃないよね」


「昨日よりは大丈夫です」


「比べる場所が違う気がする」


 アルフレッドは身体を起こした。


 頭痛はない。


 昨日、捕虜の腕から菌糸を取り除いたあとも、力を使わずに休んだ。


 自分の限界へ近づく前に止める。


 少しずつではあるが。


 できるようになってきたと思う。


「今度は、何を考えているのですか?」


 セルマが尋ねる。


「井戸」


「水のことですか」


「うん」


 灰境の村には井戸が一つしかない。


 開拓隊が持ってきた水樽はある。


 けれど、二十二人の村人。


 開拓隊の護衛たち。


 捕虜二人。


 セルマやアルフレッド自身。


 全員が何日も使える量ではない。


「もし井戸が使えなかったら」


「別の水源が必要になります」


「川は?」


「灰の森から流れているのでしょう」


「そうなんだよね……」


 排水路の先も灰の森。


 川の上流も灰の森。


 森で起きている異変が、水へまで広がっているなら。


 井戸だけの問題では済まない。


「雨水を集める?」


「すぐに雨が降るとは限りません」


「朝露は?」


「二十二人分には足りません」


「地面を掘って、別の井戸を――」


「今日明日で完成するものではありません」


「そうだよね」


 アルフレッドは膝を抱えた。


「僕の《清掃》で、水をきれいにできないかな」


 セルマの表情が強張った。


「すぐには使わないよ」


「……本当ですか?」


「先に調べる」


「ガルド様たちへ相談する」


「少しずつ試す」


 セルマはしばらくアルフレッドの顔を見た。


 無茶をする顔ではないか。


 言葉だけではないか。


 確かめているのだろう。


「何?」


「以前よりは、信じられそうです」


「以前は信じてなかったの?」


「無茶をしないという点では」


「ガルドさんと同じこと言ってる……」


「村の皆様も同じ考えだと思います」


「そんなに?」


「はい」


 即答だった。


 アルフレッドは肩を落とした。


 けれど。


 少しだけ笑ってもいた。


 心配してもらえる。


 止めてもらえる。


 屋敷にいた頃には、ほとんどなかったことだからだ。


⸻


 朝。


 村の広場へ、大きな鍋と木桶が並べられた。


 井戸の周囲には、昨夜の縄が張られたまま。


 水を汲もうとする者はいない。


 村人たちは不安そうに井戸を見ている。


「水樽の残量は?」


 ノエルが尋ねる。


 開拓隊の兵士が、樽の蓋を確認した。


「満量が二つ」


「半分ほど残ったものが一つです」


「人数は?」


「村人二十二名」


「開拓隊十二名」


「捕虜二名」


「セルマ殿を含め、合計三十七名です」


「家畜は?」


 エッダが尋ねる。


「馬が六頭」


「山羊が三頭」


「鶏は水をあまり使いませんが、それでも必要です」


 ノエルは帳面へ書き込む。


「節約した場合、何日持ちますか?」


「人間だけなら三日」


「馬へ与えれば二日です」


「二日……」


 村人たちの間に、小さなざわめきが広がった。


 水がなくなる。


 それは魔物の襲撃よりも、ずっと静かな危機だった。


 剣で倒すことも。


 柵で防ぐこともできない。


「井戸を調べる」


 ガルドが言った。


「誰が入る?」


 グレゴールが井戸を覗き込む。


「入らねえ」


「なら、どうやって底を見る」


「桶を下ろす」


「水を汲むだけじゃ、変化は分からんぞ」


「だから試す」


 ガルドは井戸の周囲へ集まった者たちを見る。


「まず、誰も口をつけるな」


「手にも触るな」


「汲んだ水は別の桶へ移す」


「異常があれば、すぐ井戸から離れろ」


「火も用意しておく」


 ヘルマンが炭の入った火鉢を運んでくる。


「菌糸が出たら焼くのか」


「効くかどうかは分からん」


「ないよりましだ」


 昨日アルフレッドが修繕した滑車へ、長い縄が掛けられる。


 ただし。


 以前使っていた桶ではない。


 開拓隊が持ってきた新しい金属桶だった。


「木の桶では、菌糸が入り込んでいても分からない」


 ノエルが説明する。


「金属なら、付着物を確認しやすいでしょう」


「重くない?」


 アルフレッドが尋ねる。


「だから滑車が直ってて助かった」


 グレゴールが縄を握る。


「領主様の最初の仕事が、ここで役に立ったな」


 アルフレッドは少しだけ嬉しくなる。


 だが。


 今は笑っている場合ではない。


「下ろすぞ」


 桶がゆっくりと井戸の中へ降りていく。


 からから。


 滑車は滑らかに回った。


 縄が闇へ吸い込まれる。


 やがて。


 ちゃぷん。


 水へ触れる音がした。


「水位は?」


「以前と変わらん」


 バルドが答える。


「少なくとも、枯れてはいない」


 桶が沈む。


 水を満たし。


 引き上げられる。


 縄が少しずつ戻ってきた。


 全員が、井戸の縁を見つめている。


 最初に桶の上端。


 次に水面。


 朝の光を反射する水は。


 見たところ、透明だった。


「濁ってない」


 誰かが呟く。


「待て」


 ガルドが止める。


 桶を地面へ直接置かず。


 平たい石の上へ下ろす。


 ノエルが白い布を用意した。


 水を少量。


 布の上へ垂らす。


 黒い粒。


 灰色の糸。


 目に見える異物はない。


「匂いは?」


 マルタが鼻を近づける。


 触れない距離で。


 何度か空気を手で仰ぐ。


「いつもの井戸水と変わらないように思える」


「味を見るか?」


 グレゴールが言う。


「駄目だ」


 アルフレッドとガルドが同時に答えた。


 二人は顔を見合わせる。


「どうして僕を見るの?」


「お前が真っ先に飲むと言いそうだったからだ」


「言わないよ」


「本当に?」


「少し考えたけど」


「考えたんじゃねえか!」


「でも言ってない!」


「領主が毒見をするな!」


 ガルドの声に。


 不安で強張っていた村人たちから、少しだけ笑いが起きた。


「動物へ飲ませるのは?」


 ベルンが尋ねる。


「山羊なら――」


「駄目だよ」


 マルタが遮った。


「命の重さを選ぶ話じゃない」


「でも、確かめるには」


「水が毒なら、山羊を失う」


「村の乳も減る」


「それに」


 アルフレッドが桶の水を見る。


「すぐ症状が出るとは限らない」


 灰色の菌糸。


 森狼へ取りついていたものは。


 すぐに狼を殺さなかった。


 むしろ。


 長い時間を掛けて身体へ入り込み、行動を変えていたように見える。


「飲んですぐ平気でも、安全とは言えません」


 ノエルが頷く。


「そのとおりです」


「では、どう調べる」


 バルドが尋ねる。


 誰もすぐには答えられなかった。


 王都なら。


 魔術師。


 錬金術師。


 水質を調べる専門家がいるかもしれない。


 だが、ここは灰境。


 手元にあるのは。


 薬師の知識。


 開拓隊の道具。


 アルフレッドのスキル。


 そして。


 村人たちが長年培ってきた経験だけだった。


「昔の水と比べます」


 アルフレッドが言った。


「どうやって?」


「昨日まで使っていた水が残っていませんか?」


 女たちが顔を見合わせる。


「家の瓶に少し」


 エッダが答えた。


「昨日の朝に汲んだものです」


「ほかには?」


「うちにもあるよ」


 マルタが言う。


「薬湯を作るため、煮沸した水が残ってる」


「煮た水じゃなく、井戸から汲んだままのものは?」


「小瓶に入れてある」


「薬草を洗うための分だ」


「それと今日の水を比べます」


 色。


 匂い。


 沈殿物。


 乾かしたあとに残るもの。


 できることは限られている。


 それでも。


 何もしないよりはいい。


「ノエルさん」


「はい」


「同じ大きさの瓶を何本か用意できますか?」


「開拓隊の薬瓶があります」


「一つは昨日の水」


「一つは今日の井戸水」


「一つは川の水」


「川へ行くのか?」


 ガルドが尋ねる。


「僕は行かない」


 先に答えた。


 ガルドの眉が少し上がる。


「グレゴールさんたちにお願いしたいです」


「南の川なら、倒木の場所に近い」


 グレゴールが言う。


「今日、木を運びに行く予定だったからな」


「川の上流と下流」


「取れるなら両方お願いします」


「灰の森へ近づく側は?」


「無理はしないでください」


 アルフレッドは真っ直ぐグレゴールを見る。


「水より、戻ってくることを優先してください」


「分かった」


 返事は短かった。


 けれど。


 以前よりも、少し柔らかい声だった。


⸻


 水の比較は。


 マルタの家の前で行われることになった。


 同じ形の透明な薬瓶が、板の上へ並べられる。


 一本目。


 昨日の朝に井戸から汲んだ水。


 二本目。


 今朝汲んだ水。


 三本目は空。


 川の水を待つ。


 アルフレッドは、光へ瓶を透かした。


「同じに見える」


「今のところはね」


 マルタが答える。


 瓶の底へ白い布を置く。


 細かな沈殿がないかを見る。


 昨日の水には。


 少しだけ砂が沈んでいる。


 井戸の古い石壁から入ったものだろう。


 今日の水も。


 同じように見えた。


「匂いも変わらない」


「温度は?」


「今日の方が少し冷たい」


「朝だからじゃない?」


「そうだね」


「これでは分からない」


 ノエルが記録をつけながら言う。


「乾かしてみますか?」


「水を?」


「布へ染み込ませて、天日で乾燥させます」


「何か混ざっていれば、跡が残るかもしれません」


 白い布が三枚用意される。


 昨日の水。


 今日の水。


 比較用として、開拓隊が持ってきた水。


 それぞれを同じ量だけ染み込ませる。


「これで乾くまで待つの?」


「はい」


「時間が掛かりますね」


「調べるとは、そういうものです」


 ノエルの言葉に。


 アルフレッドは見張り台の作業を思い出した。


 一日働いても、完成しない。


 けれど。


 使えるものと。


 使えないものが分かる。


 水も同じなのだろう。


 すぐ答えが出るとは限らない。


「《清掃》で、水の中に変なものがあるか感じられないかな」


 アルフレッドが呟く。


 セルマが寝台から、じっと見ている。


 ガルドも腕を組んでいる。


 マルタは何も言わない。


 全員の視線を感じた。


「すぐ使わないよ」


「誰も何も言ってねえ」


「顔に書いてある」


「お前に言われたくねえ」


「でも」


 アルフレッドは今日の井戸水が入った瓶を見る。


「触らずに、小さな瓶一つだけなら」


「何をするつもりだ」


 ガルドが尋ねる。


「《清掃》を使うんじゃなくて」


「使う前の感覚だけ」


「昨日、捕虜の腕を見たときみたいに」


「異物があるか確かめたい」


「身体は?」


「頭痛なし」


「吐き気なし」


「手足も動く」


「昨日は一度使ってる」


「ちゃんと寝た」


「眠れてないだろう」


 セルマが静かに言った。


「どうして分かったの?」


「何度も寝返りを打っていました」


「起きてたの?」


「はい」


「ならセルマも寝てない」


「私は眠っていました」


「嘘」


「少しは眠りました」


「僕も少しは――」


「二人とも黙りな」


 マルタが机を叩く。


「寝不足自慢をするんじゃないよ」


「すみません」


「申し訳ありません」


 二人が同時に謝った。


 マルタは瓶を見る。


「触れずに見るだけなら、やってみてもいい」


「本当?」


「ただし、何も感じなくても安全だとは決めつけない」


「はい」


「何か感じても、一人で清掃しない」


「はい」


「一度だけ」


「はい」


 アルフレッドは瓶の前へ座った。


 水へ触れない。


 瓶にも触れない。


 目を閉じる。


 昨日。


 菌糸を取り除く前。


 傷の中にあるものを感じ取った。


 あの感覚を思い出す。


 水。


 瓶。


 小さな砂。


 空気。


 その中に。


 あるべきではないものが混じっていないか。


 最初は何も分からなかった。


 ただの水。


 冷たく。


 透明で。


 手を伸ばせば飲めそうな水。


 けれど。


 意識を深く向けると。


 瓶の底。


 砂の間に。


 ほんの小さな違和感があった。


 糸ではない。


 菌でもない。


 点。


 灰色の。


 目では見えないほど小さな点が。


 水の中に散っている。


「……ある」


 アルフレッドが呟く。


「何が?」


 ガルドが尋ねる。


「灰色のもの」


 周囲の空気が変わった。


「見えるのかい?」


 マルタが身を乗り出す。


「見えるんじゃなくて」


「感じるだけ」


「昨日の水は?」


 アルフレッドは、隣の瓶へ意識を移した。


 こちらにも砂。


 水。


 小さな汚れ。


 だが。


「ない」


「開拓隊の水は?」


「ないです」


「今日の井戸水だけ?」


「うん」


 アルフレッドは目を開いた。


 少しだけ頭が重い。


「もう止めろ」


 ガルドが即座に言う。


「使ってないよ」


「見ただけでも疲れてる」


「少しだけ」


「少しで止めるんだろ」


「……はい」


 アルフレッドは瓶から離れた。


 触れない。


 清掃もしない。


 その約束を守った。


「井戸は使用禁止を続ける」


 ガルドが宣言する。


「でも、水樽は二日分です」


 ノエルが言う。


「川の水を待つ」


「川も駄目なら?」


「別の水源を探す」


「間に合わなければ?」


 皆が黙る。


 そのとき。


 セルマが寝台から声を出した。


「雨水を集める準備をしてください」


「雨は降らないかもしれないよ」


 アルフレッドが言う。


「それでもです」


「降ってから用意していては遅れます」


 セルマは窓の外を見る。


「灰境は、午後になると山から雲が下りるのでしょう?」


 バルドが振り返った。


「なぜ知っとる」


「昨日、雲の動きを見ました」


「夕方には、北の山へ雲が集まっていました」


「雨が降る兆しなの?」


「確実ではありません」


「ですが、準備する価値はあります」


 エッダが頷く。


「屋根から流れる水を桶へ集めます」


「壊れた樋を使える家もあります」


「布で最初の雨を避ければ、屋根の汚れも少し減らせる」


 マルタが言う。


「煮沸も必要だね」


「薪を使います」


「水がなくなるよりはいい」


 アルフレッドはセルマを見る。


「すごいね」


「何がですか」


「寝台から、ちゃんと村のことを見てた」


「何もできませんので」


「できてるよ」


 セルマは少しだけ視線を逸らした。


「では」


 ノエルが帳面を開く。


「雨水を集めるための準備を、今日の仕事へ追加します」


「見張り台は?」


 エッダが尋ねる。


「作業を減らします」


 アルフレッドが答えた。


「倒木を運ぶ人は、そのまま川の水も取ってきてもらう」


「村に残る人は、桶と布を集めます」


「屋根の樋を使える家をエッダさんに見てもらう」


「マルタさんは、水を煮る準備」


「ヘルマンさんは?」


「大きな鍋の底に穴がないか確認してください」


「穴があったら?」


「僕の《修繕》――」


 言いかけて。


 ガルドを見る。


「相談してから使います」


「よし」


 その一言に。


 アルフレッドは少しだけ胸を張った。


⸻


 午前中。


 村中から桶と甕が集められた。


 形の揃ったものは一つもない。


 大きな木桶。


 小さな洗い桶。


 酒を入れていた樽。


 取っ手の欠けた甕。


 底へひびの入った器。


「これは使える?」


 リーナが、小さな壺を持ってくる。


 エッダが内側を見る。


「ひびがあるね」


「捨てる?」


「少しなら水を入れられる」


「領主様に直してもらう?」


「今日は水の調査で疲れてる」


 アルフレッドが答える前に。


 リーナがそう言った。


「だから、これは最後」


 アルフレッドは目を瞬いた。


「リーナちゃんまで」


「何?」


「僕を止める側になったの?」


「みんな言ってるよ」


「何を?」


「領主様に何でも直させたら、また倒れるって」


 周囲の村人たちが、気まずそうに視線を逸らした。


「村中に広まってる……」


「いいことじゃないか」


 マルタが言う。


「皆、あんたの使い方を覚えてきた」


「僕は道具じゃないよ」


 アルフレッドの言葉に。


 セルマが窓からこちらを見た。


「その言葉を、忘れないでください」


 静かな声だった。


 セルマ自身が。


 長い間、道具として扱われてきたからこその言葉。


 アルフレッドは少しだけ表情を引き締める。


「うん」


「スキルがあるからって、僕が全部やる必要はない」


「そういうこと?」


「はい」


 壊れた壺は。


 樹脂と布を使い。


 エッダが一時的にひびを塞ぐことになった。


 完全には直らない。


 けれど。


 雨水を受ける程度なら使える。


 アルフレッドの力を使わなくても。


 村には、できることがある。


⸻


 昼を過ぎた頃。


 南へ向かった一行が戻ってきた。


 荷車には。


 見張り台へ使う倒木が一本。


 切り分けた木材。


 そして。


 蓋をした水桶が三つ載せられている。


「戻りました!」


 護衛の声に。


 村人たちが集まる。


「怪我は?」


 アルフレッドが最初に尋ねる。


「ありません」


 グレゴールが答える。


「魔物は?」


「遠くで鳴き声を聞いたが、姿は見てない」


「倒木は?」


「エッダに見てもらえ」


 木材は大きく。


 見張り台の柱として十分な太さがありそうだった。


 だが。


 今は水の方が優先だった。


「どこで汲みました?」


 ノエルが尋ねる。


「一つは倒木近くの川」


「一つは、そこから少し下流」


「もう一つは、南の岩場から湧いていた水だ」


「湧き水?」


 バルドが驚いた。


「昔使っていた場所か?」


「違う」


「鹿の足跡を追って見つけた」


「水量は?」


「多くない」


「桶一つ汲むのに、かなり時間が掛かった」


 それでも。


 灰の森から流れる川とは別の水源である可能性がある。


「場所を地図に記録します」


 ノエルが言う。


「あとで道も作れますか?」


 アルフレッドが尋ねる。


「安全が確認できれば」


「まず水を調べる」


 ガルドが桶へ近づく。


 朝と同じように。


 三種類の水を、別々の瓶へ入れる。


 色。


 匂い。


 沈殿物。


 川の水には。


 細かな砂。


 小さな植物片。


 目に見える汚れが多い。


 下流の水も同じ。


 湧き水は。


 驚くほど透明だった。


「飲めそうだな」


 ベルンが言う。


「見た目だけで決めない」


 今度はリーナが答えた。


「皆、よく覚えてるね……」


 アルフレッドが呟く。


「それで、どうする」


 ガルドが尋ねる。


 全員が。


 アルフレッドを見る。


「僕?」


「水の中に灰色のものがあるか、分かるんだろ」


「今朝、一回見ました」


「疲れてるなら、今日はやらん」


「少し休みました」


「本当か?」


「昼ご飯も食べた」


「全部?」


「半分」


「全部食え」


「もうお腹いっぱいです」


「なら今日は――」


「僕が診るよ」


 マルタがアルフレッドの手首を取る。


 脈。


 瞳。


 顔色。


「今朝よりは落ち着いてる」


「一つだけなら、いい」


「一つ?」


「全部を一度には見ない」


「まず湧き水」


「そこで違和感があれば、今日は終わり」


「なければ、少し休んでから川の水を一つ」


「下流は明日に回す」


「はい」


 アルフレッドは湧き水の瓶の前へ座る。


 目を閉じる。


 触れない。


 《清掃》も使わない。


 ただ。


 水の中にあるものを感じる。


 砂。


 岩の成分。


 ごく小さな土。


 冷たさ。


 それ以外に。


 灰色の点は――。


「ない」


 アルフレッドは目を開いた。


「本当か?」


「今朝の井戸水にあったものは、感じない」


 村人たちの間から。


 小さく息を吐く音が広がった。


「飲める?」


 リーナが尋ねる。


「まだだよ」


 アルフレッドは答える。


「煮て」


「少しずつ試して」


「何日か様子を見る」


「領主様なのに、慎重になったね」


「最初から慎重だったよ」


 周囲の大人たちが、誰も同意しなかった。


「なぜ皆、黙るの?」


「自分の胸へ聞け」


 ガルドが言った。


⸻


 湧き水は。


 大鍋で煮沸された。


 火へ掛け。


 しばらく沸騰させ。


 清潔な布で濾す。


 最初に口をつけたのは。


 誰でもなかった。


 煮た水を小皿へ取り。


 草へ掛ける。


 しばらく待つ。


 変化はない。


 次に。


 鶏へ与えるのではなく。


 木の枝を水へ浸し。


 色や臭いが変わらないかを見る。


 それでも。


 安全だという証明にはならない。


「結局、誰かが飲まないと分からない」


 グレゴールが言った。


「俺が飲む」


「駄目です」


 アルフレッドが止める。


「なら誰が飲む」


「僕が――」


「もっと駄目だ!」


 今度は村人たち全員から声が飛んだ。


「領主様が最初に飲むな!」


「倒れたらどうする!」


「昨日まで寝てたでしょう!」


「毒見は兵士の仕事だ!」


「毒見の仕事などありません!」


 ノエルが訂正する。


 広場が騒がしくなる。


 その中で。


 バルドが杖を上げた。


「少量を、何人かで分ける」


 声が静まる。


「一人へ全部飲ませる必要はない」


「わし」


「ガルド」


「グレゴール」


「マルタ」


「四人で一口ずつ」


「村長!」


「年寄りを優先するなよ」


 マルタが睨む。


「なら、お前さんも外れるか?」


「わたしは薬師だ」


「身体の変化を見られる」


「だから入る」


 ガルドが腕を組む。


「俺は護衛だ」


「異変が出ても、ほかの兵へ指示を残せる」


「グレゴールは外れろ」


「なぜだ」


「脚が悪い」


「水とは関係ない」


「子どもはいないのか?」


 ガルドが尋ねる。


「いない」


 グレゴールは短く答えた。


「なら俺も飲む」


 アルフレッドは納得できない顔をした。


「誰かが犠牲になるみたいで嫌です」


「犠牲になると決まったわけじゃない」


 バルドが言う。


「暮らすために、確かめるだけじゃ」


「でも」


「領主様」


 グレゴールがアルフレッドを見る。


「昨日、俺たちに仕事を任せたでしょう」


「うん」


「これも仕事です」


「一人ではなく」


「皆で危険を分ける」


「領主様が全部引き受けるより、ずっとましだ」


 アルフレッドは黙った。


 できないことは。


 誰かへ頼る。


 危険も。


 仕事も。


 分ける。


「……分かりました」


「でも、本当に一口だけ」


「何かあったら、すぐマルタさんが診てください」


「自分も飲むんだけどね」


「じゃあマルクさんも近くに」


「分かったよ」


 煮沸した湧き水が。


 四つの小さな杯へ分けられる。


 ほんの一口。


 バルド。


 ガルド。


 グレゴール。


 マルタ。


 互いに顔を見合わせ。


 同時に飲んだ。


 アルフレッドは。


 四人の顔を順番に見る。


「どう?」


「水だ」


 ガルドが答える。


「味は?」


「少し硬い」


 マルタが言う。


「岩場の水だからだろうね」


「苦くない?」


「苦くない」


「変な臭いは?」


「ない」


「頭は?」


「飲んだ瞬間に症状は出ないと言ったのは、お前だろう」


「そうだけど……」


「今日は四人を休ませるの?」


「働く」


 全員が答えた。


「でも、一人にしない」


 アルフレッドが言う。


「四人とも、必ず誰かと一緒にいてください」


「変化があったら、すぐ知らせる」


「分かった」


 ガルドが頷いた。


 それが。


 今できる最善だった。


⸻


 午後。


 空に雲が集まり始めた。


 北の山から。


 灰色の雲が、ゆっくりと谷へ下りてくる。


「雨が来るぞ!」


 見張り台跡から、村人が叫ぶ。


 まだ完成していない。


 それでも。


 残った支柱へ梯子を掛け。


 以前より高い場所から空を見ることはできた。


「桶を出して!」


 エッダが指示を出す。


「最初の雨は流す!」


「屋根の泥が落ちてから、樋を桶へつなぐよ!」


 村中が動き始めた。


 壺。


 桶。


 樽。


 甕。


 あらゆる容器が、屋根の下へ並べられる。


 壊れた樋には布を巻き。


 木の板で水の流れを変える。


「ここから漏れてる!」


「壺を置いて!」


「この桶は穴がある!」


「樹脂を詰めろ!」


 アルフレッドも手伝おうとする。


「領主様は、そっちの布を持って!」


 リーナに指示された。


「これ?」


「違う! 白い方!」


「こっち?」


「それ!」


 アルフレッドは白い布を持って走る。


 またガルドに見つかれば、走るなと言われる。


 けれど今は。


 村中が走っていた。


 ぽつ。


 最初の雨粒が落ちる。


 土へ。


 屋根へ。


 アルフレッドの頬へ。


 ぽつ。


 ぽつ。


 やがて。


 ざあっ。


 一気に雨が降り始めた。


 屋根に積もった埃が流れる。


 黒い水。


 枯れ葉。


 鳥の糞。


 最初の汚れた雨水は。


 桶へ入れず、地面へ流す。


「まだ!」


 エッダが屋根を見上げる。


「もう少し流して!」


 雨脚が強くなる。


 古い樋が軋む。


 壊れた部分から、水が噴き出す。


「こっちへ板を!」


 村人たちが板を当てる。


 アルフレッドは、手を伸ばしかけた。


 《修繕》なら。


 樋の割れ目を直せる。


 今すぐ水を無駄にせずに済む。


 けれど。


 今朝から、何度も水の中を見た。


 まだ強い頭痛はない。


 それでも。


 ここで力を使えば。


 また皆を心配させる。


「アルフレッド様!」


 セルマの声が、窓から聞こえた。


 見られていた。


 手を伸ばしたままの姿を。


「使ってないよ!」


「まだ、でしょう」


「……うん」


 アルフレッドは手を下ろす。


「エッダさん!」


「はい!」


「樋を直す以外に方法は?」


「板を斜めに当てます!」


「縄を!」


「こっちにある!」


 人の手で。


 板と縄を使い。


 水の流れを変える。


 完璧ではない。


 漏れる水もある。


 それでも。


 桶へ。


 樽へ。


 雨水が少しずつ溜まり始めた。


「今!」


 エッダの合図。


 樋の先が、空の容器へつながれる。


 透明な雨水が。


 木桶の底を叩いた。


 ぱたぱた。


 音が変わる。


 少しずつ。


 水が溜まっていく音。


 村人たちの顔に。


 ようやく小さな安堵が浮かんだ。


「降ってくれた……」


 マルタが空を見る。


「セルマの言ったとおりだね」


 窓の中。


 セルマは静かに雨を見つめていた。


 予想が当たったことを喜んでいるわけではない。


 ただ。


 自分の言葉が。


 この村の役に立った。


 その事実を。


 まだ、どう受け止めればいいか分からない顔だった。


 アルフレッドは雨の中。


 窓へ向かって笑った。


「セルマ!」


「はい」


「仕事したね!」


「私は、雲を見ただけです」


「それが仕事だよ!」


 雨音に負けないよう。


 大きな声で言う。


「ありがとう!」


 セルマは答えなかった。


 けれど。


 残された右目を。


 ほんの少しだけ細めた。


⸻


 雨は。


 一刻ほどで弱くなった。


 大雨ではなかった。


 それでも。


 村中の桶や樽には。


 何日かをつなぐだけの水が溜まった。


 すぐには飲めない。


 煮沸。


 布での濾過。


 アルフレッドによる確認。


 必要な作業は多い。


 だが。


 井戸だけに頼らなくてもいい。


 その事実だけで。


 村人たちの表情は変わっていた。


「これで湧き水の安全を確かめる時間ができる」


 ノエルが言う。


「新しい水源への道も作れます」


「井戸も調べられる」


 アルフレッドが答える。


「排水路も」


「一つずつです」


「うん」


 水に濡れた髪が。


 額へ張りついている。


 ガルドが外套をアルフレッドの頭へ掛けた。


「着替えろ」


「まだ片づけが」


「風邪を引いたら、また寝込むぞ」


「少しくらいなら」


「お前の少しは信用ならねえ」


「今日はスキル使ってないよ」


「見るのに使っただろ」


「あれも使ったことになるの?」


「疲れるなら同じだ」


「……分かりました」


 アルフレッドは、マルタの家へ向かう。


 その途中。


 縄で囲われた井戸の前で足を止めた。


 雨に打たれた石積み。


 昨日。


 皆が使っていた水。


 今は。


 灰色の何かが混ざっている。


「待ってて」


 誰へ言ったわけでもない。


 井戸へ。


 水へ。


 村へ。


「ちゃんと、きれいにするから」


 けれど。


 すぐには触れない。


 力任せにも使わない。


 何が混ざっているのか。


 どこから来ているのか。


 それを確かめてから。


 皆と一緒に。


 直す。


 アルフレッドは。


 井戸から離れた。


⸻


 その夜。


 四人の身体に、異常は出なかった。


 湧き水を一口飲んだ。


 バルド。


 ガルド。


 グレゴール。


 マルタ。


 熱。


 吐き気。


 目眩。


 灰色の筋。


 何もない。


 翌朝までは。


 まだ安全とは言い切れない。


 それでも。


 一つの希望にはなった。


 湧き水。


 雨水。


 二つの水源。


 灰境は。


 井戸を失っただけでは、終わらなかった。


⸻


 同じ頃。


 村の地下。


 古い排水路。


 井戸の東側を通る石の水路で。


 灰色の菌糸が。


 水へ細い先端を沈めていた。


 無数の黒い粒が。


 菌糸の表面から離れ。


 水の流れへ溶けていく。


 その奥。


 人間の目に似た灰色の瞳が。


 ゆっくりと閉じる。


 近くで。


 掠れた声が響いた。


「……きれい、に……」


 それは。


 アルフレッドが口にした言葉を。


 真似ているようにも聞こえた。


 そして。


 地面のさらに深い場所で。


 古い石の扉に刻まれた紋様が。


 ほんの一瞬だけ。


 淡い光を放った。


⸻


第20話 水の味 了

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