石蔵を這う灰
第二章 灰境
第19話 石蔵を這う灰
前書き
扉を閉めれば、
中にいる者を守れる。
壁を厚くすれば、
外の危険を防げる。
人は、そう考えます。
けれど危険は、
いつも正面から来るとは限りません。
壁の隙間。
床の下。
誰も使わなくなった古い道。
忘れられた場所ほど、
何かが入り込むには都合がよいのです。
⸻
かり。
かり。
石を、硬い爪で引っ掻くような音が続いていた。
石蔵の中。
壁の下に開いた細い隙間から、灰色の糸が一本ずつ姿を現す。
糸は床へ落ちることなく、石の表面へ張りついた。
細く。
頼りなく。
蜘蛛の糸にも見える。
しかし風もないのに、その先端はゆっくりと左右へ揺れていた。
何かを探すように。
「見張りを呼べ」
小柄な男が言った。
柱の反対側。
背中合わせに縛られた長身の男は、低い声で答える。
「黙れ」
「壁から入ってきている」
「ただの黴だ」
「黴が動くか!」
灰色の糸が増える。
二本。
三本。
細い糸同士が床の上で絡まり、一本の太い筋になった。
それは床の凹凸を確かめるように進み。
ゆっくりと。
二人の捕虜へ近づいてくる。
「見張り!」
小柄な男が叫んだ。
「おい!」
石蔵の外から返事はない。
見張りが眠っているわけではなかった。
厚い石壁。
重い木の扉。
声が外へ届きにくいのだ。
「足で器を蹴れ」
小柄な男が言う。
「騒げば、俺たちが逃げようとしていると思われる」
「このまま黙っていれば、あれが何をするか分からない!」
「情けない奴だ」
長身の男は鼻で笑った。
けれど。
その視線は、灰色の糸から離れていない。
糸は二人へ向かっている。
正確には。
長身の男の右腕へ。
グレゴールの矢を受け、包帯を巻かれた場所。
そこからは、まだわずかに血の臭いが残っていた。
灰色の糸が持ち上がる。
先端が、空気の中で揺れた。
そして。
急に速くなった。
「っ!」
長身の男が身体を捻る。
だが両手も足も縛られている。
逃げられない。
灰色の糸が包帯へ触れた。
乾いた布へ張りつき。
縫い目の間へ潜り込む。
「何を――」
男が腕を振ろうとする。
その瞬間。
包帯の下で。
何かが蠢いた。
「ぐっ……!」
「どうした!」
「中へ……!」
長身の男の顔が歪む。
傷口を直接、細い針で探られているような痛み。
包帯の表面へ、灰色の染みが広がっていく。
小柄な男は床へ置かれた器へ足を伸ばした。
麦粥が入っていた木の器。
爪先を引っ掛け。
力いっぱい蹴る。
がんっ!
器が木の扉へぶつかった。
「見張り!」
もう一度。
がんっ!
「誰か来い!」
⸻
石蔵の外。
見張りをしていたエリックが、扉の音に気づいた。
「中で何をしている!」
返事の代わりに。
「灰だ!」
掠れた声が聞こえた。
「灰色のものが入ってきた!」
エリックの表情が変わる。
昨日。
森狼の顔へ取りついていた灰色の菌糸。
逃げた男の足跡が消えた場所で見つかったもの。
「ガルド隊長!」
エリックは扉を開けず、鳥笛を取り出した。
ひゅう。
ひゅう。
二回。
異常を知らせる音が、夜の村へ響いた。
近くの見張り台跡で焚き火を囲んでいたガルドが、すぐに立ち上がる。
「どこだ!」
「石蔵です!」
「扉は?」
「開けていません!」
「それでいい!」
ガルドは剣をつかみ、石蔵へ走った。
ベルンとグレゴールも続く。
「中の様子は!」
「灰色の何かが入ったと!」
「捕虜は?」
「生きています!」
扉の向こうから。
「腕に入った!」
長身の男の叫びが聞こえた。
「早く開けろ!」
「さっきまで余裕だったくせに!」
小柄な男の声も続く。
「黙れ!」
「二人とも黙れ!」
ガルドが扉越しに怒鳴った。
「今から開ける!」
「エリック、松明を二本!」
「ベルンは扉の右!」
「グレゴールは左だ!」
「中から何か飛び出しても、すぐ触るな!」
全員が位置につく。
エリックが松明を掲げる。
ガルドは扉へ掛けられた横木を外した。
「開けるぞ!」
重い扉が。
ゆっくりと開く。
最初に見えたのは、床だった。
月明かりの届かない石蔵の中。
灰色の糸が、何本も床を這っている。
壁際から。
柱へ。
そして捕虜たちへ。
「昨日の奴だ」
グレゴールが低く呟いた。
「火を近づける!」
エリックが松明を前へ出す。
炎が近づくと。
灰色の糸は、一斉に縮んだ。
しゅる。
石の表面を滑り。
壁の隙間へ戻ろうとする。
「火を嫌がってるぞ!」
「燃やせるか?」
松明の先端が菌糸へ触れる。
じゅっ。
湿った音がした。
灰色の糸は黒く縮れたが、すぐには燃え上がらない。
代わりに。
腐った木と濡れた獣皮を焼いたような臭いが広がった。
「昨日と同じ臭いだ!」
「吸い込むな!」
ガルドが外套で口元を覆う。
「捕虜を外へ出す!」
「縄は?」
「切るな! 柱へ結んだ縄だけ外せ!」
エリックとベルンが松明を前へ出し、菌糸を後退させる。
その隙に、ガルドが捕虜たちの背後へ回った。
柱へ巻かれていた縄を剣で断つ。
「立て!」
「腕が……!」
長身の男は右腕を押さえていた。
包帯の表面が灰色に染まっている。
糸は布の下へ入り込んだままだ。
「歩けるか!」
「足は動く!」
「なら外へ出ろ!」
二人の縄をまとめてつかみ、石蔵の外へ引き出す。
小柄な男は自分で歩いた。
長身の男も、歯を食いしばりながら外へ出る。
しかし。
男の腕についた灰色の糸が。
床の菌糸とつながっていた。
細い糸が伸びる。
引っ張られ。
ぴん、と張った。
「切れ!」
ガルドの剣が振り下ろされる。
糸が断たれた。
床側の菌糸は壁の隙間へ逃げる。
だが。
包帯の下へ潜ったものは、残った。
「腕が熱い……!」
長身の男が膝をつく。
包帯の端から。
灰色の筋が皮膚の上へ伸びていた。
傷口から。
肘へ向かって。
血管をなぞるように、ゆっくりと。
「マルクを呼べ!」
「それとマルタだ!」
ガルドが叫ぶ。
グレゴールが村の中へ走る。
「アルフレッドも呼ぶか?」
ベルンが尋ねる。
ガルドは一瞬だけ迷った。
本来なら、呼びたくない。
昨日も。
その前の日も。
力を使って倒れかけている。
けれど。
森狼から灰色の異物を取り除いたのは、アルフレッドだった。
「……呼べ」
ガルドは答えた。
「ただし、一人で来させるな」
⸻
マルタの家。
鳥笛の音で、アルフレッドも目を覚ましていた。
「何かあった」
床へ敷いた毛布から身体を起こす。
「外へ出るんじゃないよ」
マルタはすでに上着を羽織り、薬箱を用意していた。
「でも」
「呼ばれるまでは待つ」
「石蔵の方からです」
「分かってる」
寝台の上では、セルマも目を覚ましていた。
首輪へ変化はない。
赤い文字は弱く明滅しているだけだった。
「追手の仲間でしょうか」
「分からない」
アルフレッドは窓へ近づこうとする。
「待ちな」
マルタが肩をつかむ。
「約束しただろう」
「勝手に一人で動かない」
「そうだ」
「でも、誰かが――」
外から足音が近づく。
扉が開いた。
「マルタ!」
グレゴールだった。
「石蔵に灰色の糸が出た!」
「怪我人は?」
「捕虜の腕に入り込んだ!」
「分かった」
マルタは薬箱をつかむ。
「アルフレッドも来てくれ」
グレゴールが続けた。
「僕も?」
「ガルドが呼んでる」
アルフレッドはマルタを見る。
「呼ばれました」
「聞こえてるよ」
「行ってもいい?」
「わたしのそばを離れないならね」
「はい」
寝台のセルマが、身体を起こそうとする。
「私も――」
「寝てな」
マルタが即座に止める。
「ですが」
「今のあんたが来ても、怪我人が一人増えるだけだ」
「セルマ」
アルフレッドが言う。
「僕、勝手に力を使わないから」
「本当ですか?」
「先にマルタさんとガルドさんへ聞く」
「……必ずです」
「うん」
「無理だと思ったら、止めてください」
「約束する」
アルフレッドは今度こそ。
セルマの目を見て答えた。
⸻
石蔵の前には、すでに村人たちが集まり始めていた。
「近づくな!」
ガルドが声を張る。
「灰色の糸には絶対触るな!」
石蔵の扉は開けられたまま。
入口の左右には松明が置かれている。
炎の光を嫌うように、菌糸は奥の壁際へ集まっていた。
完全に逃げたわけではない。
石の隙間から、細い先端が何度も伸びようとしている。
「怪我人は?」
マルタが尋ねる。
「こいつだ」
長身の捕虜は、地面へ座らされていた。
両足は縛られたまま。
左手も腰の縄へ固定されている。
右腕だけが自由になっていた。
マルクが包帯を切ろうとしている。
「触るな!」
男が腕を引いた。
「このままにしたら、もっと中へ入るぞ!」
「切り落とせ!」
男が叫ぶ。
「腕ごと切れ!」
「簡単に言うんじゃないよ!」
マルタが男の前へしゃがむ。
「黙って腕を出しな!」
「身体へ入った!」
「見れば分かる!」
マルタは包帯の結び目を小刀で切る。
布を一枚ずつ外していく。
最後の一枚は、傷口へ貼りついていた。
灰色の菌糸が。
血を吸った布と、皮膚の間へ潜り込んでいる。
細い根のようなものが、傷の中へ伸びていた。
「これは……」
マルクが息を呑む。
「引き抜けますか?」
「無理に引けば、傷口を広げる」
「なら焼くか」
ガルドが言う。
「皮膚ごと焼けるよ」
マルタは男の腕を押さえた。
「灰色の筋はどこまで?」
肘の少し手前。
皮膚の下に、細い灰色の線が見える。
「アルフレッド」
マルタが呼んだ。
「はい」
「近くで見な」
アルフレッドは男の前へ膝をつく。
長身の男が睨みつける。
「何をする気だ」
「何が入っているか見ます」
「触るな」
「触りません」
「貴様のせいで――」
「今は黙ってください」
アルフレッドの声は、普段より少しだけ低かった。
「僕も、あなたのことは好きじゃありません」
男が言葉を止める。
「セルマを殺そうとしたことも、許してません」
「なら放っておけ」
「でも」
アルフレッドは灰色の筋を見る。
「村の中で、勝手に灰色のものへ変わられると困ります」
「……何?」
「助けられるかは、まだ分かりません」
「助けたいから助ける、とは言いません」
正直な言葉だった。
長身の男も。
周囲にいる者たちも。
一瞬、何も言えなくなった。
「だけど」
アルフレッドは続ける。
「ここで何が起きているのか、知らないまま死なれるのは困ります」
「それに」
少しだけ目を細める。
「あなたがしたことを聞く前に、森の何かに持っていかれるのも嫌です」
ガルドの口元が、わずかに動いた。
「言うようになったじゃねえか」
「今は褒めなくていいです」
「褒めてねえ」
アルフレッドは男の腕へ手を近づける。
触れない距離。
《清掃》を発動する前。
そこに何があるのかを探る。
昨日までなら。
すぐに力を使っていただろう。
今は違う。
「灰色のものは、傷から入ってます」
「分かるのか?」
マルタが尋ねる。
「少しだけ」
「どこまで?」
「筋が見えるところより、少し先」
肘の内側。
そこまで細い異物の感覚があった。
けれど肩までは届いていない。
「取り除けそうかい?」
「全部は分かりません」
アルフレッドは正直に答えた。
「傷口の近くなら、たぶん」
「失敗すれば?」
「灰色のものと一緒に、血や傷口まで消してしまうかもしれません」
マルタは男の腕を見る。
次にアルフレッドの顔を見る。
「どれくらいの範囲なら、自信がある?」
「指二本分くらい」
「そこから先は?」
「まだ分かりません」
「なら、一度に全部やろうとするんじゃない」
「はい」
「まず傷口の外へ出ているものだけ」
「はい」
「少しでも頭が痛んだら止める」
「はい」
「止めろと言ったら、必ず止める」
アルフレッドは頷いた。
それからガルドを見る。
「使っていいですか?」
「俺に聞くのか」
「勝手に使わないと約束しました」
ガルドは長身の男を見る。
「お前はどうする」
「何?」
「こいつの力を受けるか」
「断れば?」
「このまま菌糸がお前の腕を上る」
「焼くか切るかは、そのあとだ」
男は奥歯を噛み締めた。
「……やれ」
「聞こえねえ」
「やれ!」
「アル坊」
ガルドが頷く。
「一度だけだ」
「はい」
アルフレッドは男の腕の下へ布を敷いてもらった。
菌糸へ意識を集中する。
人の身体。
血。
傷。
その中へ入り込んだ、あるべきではないもの。
森狼のときよりも慎重に。
首輪から命令だけを除いたときよりも、小さく。
「《清掃》」
淡い白い光が。
男の傷口だけを包んだ。
「ぐっ……!」
長身の男の身体が強張る。
「動くな!」
マルクとガルドが肩を押さえる。
傷口の中で。
灰色の菌糸が激しく蠢いた。
肉の中へ逃げ込もうとする。
「逃げる……」
アルフレッドが呟く。
「どこへ!」
「腕の上へ!」
「止められるか!」
「やってみます!」
「無理なら止めろ!」
白い光の範囲を広げない。
代わりに。
傷口から外へ向かう流れだけを作る。
「ここから、出ていって」
灰色の糸が。
少しずつ。
傷口から引き出される。
細い。
濡れた髪のようなもの。
一本。
二本。
何本も絡まりながら、皮膚の外へ姿を現す。
「気持ち悪いね……」
マルタが顔をしかめる。
「アルフレッド、まだいけるかい!」
「はい……」
額へ汗が浮かぶ。
頭の奥が、わずかに重くなる。
だが昨日のような強い目眩ではない。
「もう少し……」
最後の一本が傷口から抜けた。
灰色の菌糸は布の上へ落ちる。
それでも生きているかのように動こうとした。
「火!」
マルタが叫ぶ。
マルクが火箸で布をつかみ、焚き火の中へ放り込む。
じゅう。
灰色の煙が上がる。
「アルフレッド、止めな!」
「はい!」
アルフレッドはすぐに《清掃》を解除した。
膝へ手をつく。
呼吸は少し速い。
だが倒れなかった。
「頭は?」
ガルドが尋ねる。
「少し重いです」
「吐き気」
「ないです」
「手足」
アルフレッドは指を動かす。
「動きます」
「よし。下がれ」
「でも、筋がまだ――」
「今は下がれ」
ガルドの声に逆らわず。
アルフレッドは一歩後ろへ移動した。
マルタが男の腕を確認する。
皮膚の下へ伸びていた灰色の線。
それが、少しずつ薄くなっていく。
「残ってる?」
アルフレッドが尋ねる。
「見える範囲では消えた」
「本当?」
「傷口は残ってるけどね」
「よかった……」
長身の男は自分の腕を見ていた。
灰色の筋はない。
焼けるような熱も、薄れている。
「なぜだ」
男が呟く。
「何がですか?」
「なぜ俺を助けた」
アルフレッドは少し考えた。
「さっき言いました」
「村の中で死なれると困るから?」
「はい」
「それだけか」
「それだけで十分です」
アルフレッドの声は冷たくはなかった。
けれど、優しく許したわけでもない。
「助けたからって、セルマへしたことがなくなるわけじゃありません」
「あなたたちを解放するわけでもありません」
「話も、ちゃんと聞きます」
男は何も答えなかった。
ただ。
これまでのように、少年を嘲ることもしなかった。
⸻
「石蔵をどうする」
ベルンが尋ねた。
菌糸は今も、壁の隙間から出ようとしている。
松明を近づければ引っ込む。
離せば、また細い先端を伸ばす。
「中へ入るのは危険だ」
ガルドが答える。
「捕虜は別の場所へ移す」
「どこへ?」
「開拓隊の荷車を一台空ける」
「馬車の中へ縛るのですか?」
ノエルが尋ねる。
「見張りを二人つける」
「雨は?」
「覆いがある」
「逃走の危険は?」
「車輪を外して、荷台を柵の内側へ置く」
長身の男が鼻を鳴らした。
「随分と丁寧な扱いだ」
「森の化け物に食わせるより、王都へ生きたまま渡す方が役に立つ」
ガルドの答えに。
男は黙った。
「問題は石蔵だね」
マルタが入口を見る。
「食料の一部も置いてあった」
「中へ入れねえなら回収できん」
「火で追い払えないの?」
アルフレッドが尋ねる。
「縮みはする」
グレゴールが答える。
「だが、燃えにくい」
「昨日と同じです」
「熱を当て続ければ、枯れるかもしれません」
ノエルが言う。
「ですが石蔵ごと燃やすわけにはいきません」
「石は燃えないよ?」
「中の棚や梁は木です」
「それに、煙が村へ流れたら危ない」
ガルドが付け加える。
アルフレッドは石蔵を見る。
壁の隙間。
床の下。
灰色の菌糸が出てきた場所。
「外から入ったのかな」
「確かめる」
ガルドは松明を持ち、石蔵の外側へ回る。
北側の壁。
地面に近い場所。
草を剣の鞘で払い。
石積みの根元を確認する。
「ここだ」
細い亀裂があった。
石と石の間。
土が流れ出したように、小さな穴が開いている。
その周囲の草は。
根元だけが灰色に変わっていた。
「村の外から来てる?」
アルフレッドが近づこうとする。
「止まれ」
ガルドが腕を出す。
「そこから見ろ」
「はい」
「土を掘るぞ」
「今?」
「今、入口だけ塞いでも別の隙間から出てくる」
ガルドは村の男たちへ声を掛ける。
「鍬と鋤を持ってこい!」
「石蔵の周囲を掘る!」
「菌糸へ触れた土は、別に分けろ!」
⸻
夜中だというのに。
石蔵の周囲で、急な作業が始まった。
松明が何本も立てられる。
鍬が土へ入る。
一度に深くは掘らない。
薄く。
少しずつ。
灰色に変わった場所がないか確かめながら。
「ここは普通だ」
「南側も何もない!」
「北の角に灰色の根がある!」
グレゴールの声に、全員が動きを止める。
石蔵の北東。
土をわずかに掘った場所から。
細い灰色の筋が出ていた。
植物の根ではない。
何本もの菌糸が束になり。
地面の中へ続いている。
「どちらへ伸びている?」
ガルドが尋ねる。
「北だ」
グレゴールは土へ枝を差し込み、流れを確かめる。
「いや……少し東へ曲がってる」
「灰の森?」
「方角はそうだが」
土をもう少し掘る。
鍬の先が。
硬いものへ当たった。
かんっ。
「石だ」
「大きい?」
「平たい」
土を払うと。
長方形の石板が姿を現した。
一枚だけではない。
同じ形の石が。
細く連なるように埋められている。
「道?」
アルフレッドが尋ねる。
バルドが松明を近づけた。
その顔が、わずかに曇る。
「違う」
「知ってるんですか?」
「古い排水路じゃ」
「排水路?」
「昔、この村に六十八人がおった頃」
バルドは石蔵の北側を指さす。
「丘から流れてくる雨水を、北の谷へ逃がしておった」
「村の下を通ってるの?」
「ああ」
「どこまで?」
「今は分からん」
「地図は?」
「昔の領主館になら、残っとるかもしれん」
灰色の菌糸は。
石板の隙間から伸びていた。
森の地表を這ってきたのではない。
忘れられた排水路。
地面の下に残された古い道を通り。
石蔵の壁際まで入り込んだのだ。
「石蔵だけじゃない」
アルフレッドが呟く。
排水路が村の下を通っているなら。
別の場所にも。
同じような隙間があるかもしれない。
「家の下にも?」
エッダが顔を強張らせる。
「可能性はある」
ガルドが答える。
「井戸は?」
誰かが言った。
その一言で。
全員の表情が変わった。
「井戸までつながってたら、水が……」
「慌てるな!」
ガルドが声を上げる。
「今すぐ井戸を調べる!」
「水は飲むな!」
「朝まで使う分は、開拓隊の樽を出せ!」
村人たちが一斉に動き始めた。
アルフレッドも井戸へ向かおうとする。
だが。
自分で足を止めた。
ガルドを見る。
「僕は、何をすればいい?」
その問いに。
ガルドは一瞬だけ目を見開いた。
以前なら。
何も聞かず、井戸へ走っていただろう。
排水路へ手を伸ばし。
《清掃》を使おうとしたはずだ。
「ノエルと領主館へ行け」
ガルドが答える。
「古い地図を探す」
「建物の中へ入っていいの?」
「西側の安全を確認した部屋だけだ」
「《清掃》は?」
「使うな」
「でも地図が汚れてたら」
「読める状態か確かめてからだ」
「分かりました」
「エッダも連れていけ」
「暗いから足元に気をつけろ」
「はい」
アルフレッドは頷いた。
今できること。
今、任されたこと。
それだけをする。
排水路の菌糸は気になる。
井戸も心配だった。
けれど。
一人で全部を見ることはできない。
⸻
夜の領主館。
丘へ続く道を。
アルフレッド。
ノエル。
エッダ。
護衛のエリック。
四人が松明を持って上がっていく。
「古い地図は、どこにありますか?」
アルフレッドが尋ねる。
「前の領主が使っていた執務室でしょう」
ノエルが答える。
「西棟ですか?」
「おそらく」
「床は大丈夫?」
「昨日確認した部屋の隣です」
エッダが言う。
「入口から様子を見ます」
壁の穴から館へ入る。
夜の建物は。
昼間よりも、さらに壊れて見えた。
風が窓のない枠を抜け。
どこかで板が軋んでいる。
「鼠かな」
アルフレッドが小さく言う。
「鼠ならよいのですが」
ノエルの返事に。
アルフレッドは少しだけエリックへ近づいた。
「怖いのか?」
護衛が尋ねる。
「少しだけ」
「知らない場所は、わくわくするんじゃなかったのか」
「夜は別です」
「正直だな」
確認済みの廊下を進む。
執務室の扉は、半分外れていた。
エッダが床を棒で叩き。
一歩ずつ確かめる。
「入口近くは大丈夫です」
部屋の中。
壁際には、倒れた書棚があった。
紙の多くは湿気で崩れている。
机は片脚が折れ。
引き出しが床へ落ちていた。
「地図……」
アルフレッドは松明の光を動かす。
「床へ落ちている紙へは触らないでください」
ノエルが言う。
「崩れます」
「じゃあ、どうやって探すの?」
「文字が読めるものだけ、端から確認します」
ノエルは手袋をはめた。
一枚ずつ。
紙を持ち上げず。
表面だけを見る。
税の記録。
作物の収穫量。
村人の名前。
古い開拓計画。
どれも、二十年以上前のものだった。
「これは?」
アルフレッドが、机の下を指さす。
丸められた厚い紙。
革紐で縛られている。
湿気で黒ずんでいるが。
形は残っていた。
「引き出しの奥に入っていたようですね」
ノエルが慎重に拾う。
革紐は硬くなり。
結び目が固まっていた。
「切りますか?」
「中の紙まで傷つけるかもしれません」
「僕の《修繕》で紐を――」
「修繕したら、さらに固く結ばれるのでは?」
「そうかも」
「《清掃》で汚れだけ取る?」
エッダがアルフレッドを見る。
「今夜は、もう一度使っていますよね」
「捕虜の腕に」
「頭は?」
「少し重いままです」
「なら使わないでください」
「はい」
アルフレッドは素直に下がった。
ノエルは細い針を使い。
結び目へ少しずつ隙間を作る。
「書記官は、こんなこともできるんですね」
「書類を壊さず開くのも仕事です」
時間を掛け。
革紐がほどかれた。
厚い紙を机の上へ広げる。
灰境の村。
領主館。
井戸。
畑。
石蔵。
見張り台。
今は崩れている建物まで、細かく描かれている。
そして。
村の地下には。
青い線が何本も伸びていた。
「排水路だ」
アルフレッドが息を呑む。
一本ではない。
丘の上から。
領主館の下。
村の広場。
石蔵。
畑の端。
そして北側へ。
いくつもの細い水路がつながっている。
「井戸は?」
エッダが地図へ顔を近づける。
「直接はつながっていません」
「本当?」
「井戸の東を通っています」
ノエルが指で線を追う。
「ですが、距離は近い」
「水路が崩れてたら?」
「地下で水が混じっている可能性はあります」
「早く知らせないと」
「待ってください」
ノエルが地図の北端を見る。
青い線は、村を出たあと。
一つへ集まっていた。
そこから。
灰の森の手前にある谷へ続いている。
しかし。
その途中。
古い王国文字で。
小さな書き込みが残されていた。
「何て書いてあるの?」
アルフレッドが尋ねる。
ノエルは松明を近づける。
「封鎖」
「封鎖?」
「その下に日付があります」
「いつ?」
「二十六年前」
王国の記録が更新されなくなった時期と、ほぼ同じだった。
さらに。
書き込みの横には。
赤い印が描かれている。
丸の中に。
三本の縦線。
「これは何?」
「開拓局の記号ではありません」
ノエルが答える。
「村の印?」
エッダも首を横へ振る。
「見たことがありません」
アルフレッドは地図を見つめる。
排水路。
封鎖。
二十六年前。
そして、意味の分からない赤い印。
「バルドさんなら知ってるかな」
「戻って聞きましょう」
ノエルは地図を丁寧に巻き直す。
「今夜は、これ以上館を調べません」
「まだほかの書類が――」
「足元が危険です」
「はい」
「すぐ戻ります」
アルフレッドは壊れた執務室を振り返った。
灰境には。
今の村人たちも知らないものが、まだ残されている。
領主館だけではない。
村の下にも。
森の中にも。
忘れられた何かがある。
⸻
村へ戻ると。
井戸の周囲には縄が張られていた。
今夜は使用禁止。
開拓隊の水樽が広場へ運ばれている。
石蔵の周囲には、浅い溝が掘られ。
灰色の菌糸が見つかった場所へ、火のついた炭が置かれていた。
「地図がありました!」
アルフレッドが声を上げる。
バルド。
ガルド。
グレゴール。
マルタ。
皆が集まる。
ノエルが地図を板の上へ広げた。
「地下の排水路です」
「まだ残っとったか」
バルドが呟く。
「知ってたんですか?」
「水路があることはな」
「封鎖って書いてあります」
ノエルが赤い印を指す。
「二十六年前です」
バルドの表情が変わった。
「その印……」
「知っているの?」
アルフレッドが尋ねる。
老人は、すぐには答えなかった。
長い間。
忘れようとしていたものを。
突然、目の前へ出されたような顔だった。
「二十六年前」
バルドが低い声で言う。
「村の北で、地面が陥没した」
「陥没?」
「ああ」
「排水路の一部が崩れたのですか?」
ノエルが尋ねる。
「そう聞かされた」
「聞かされた?」
バルドは地図の赤い印へ指を置く。
「中へ入った者が、三人おった」
「水路を直すためですか?」
「一人も戻らなんだ」
周囲が静かになる。
「それで封鎖したんですか?」
「当時の領主が命じた」
「何があったか、調べなかったの?」
「調べようとした者はおった」
バルドの声が、わずかに掠れる。
「じゃが、その夜」
「排水口の近くで」
「灰色になった獣が見つかった」
アルフレッドは息を止めた。
森狼。
灰色の菌糸。
逃げた男。
すべてが最近始まったことではなかった。
「昔からあったの?」
「分からん」
バルドは首を横へ振る。
「その後、何年も何も起きなんだ」
「だから、皆忘れた」
「いや」
老人は地図を見つめる。
「忘れたかったのじゃ」
風が吹いた。
板の上の地図が揺れる。
ガルドが地図の端を押さえた。
「排水路は今夜、封鎖する」
「どうやって?」
アルフレッドが尋ねる。
「石蔵の近くで見つけた隙間を、石と土で塞ぐ」
「それで止まる?」
「止まる保証はねえ」
「だが、開けたままよりはましだ」
「明日、排水路の出口を探す」
「森へ入るの?」
「谷の手前までだ」
「僕も――」
言いかけて。
アルフレッドは止まった。
皆の顔を見る。
「僕は、村で地図を調べます」
自分から言い直す。
ガルドが少しだけ笑った。
「そうしろ」
「一緒に行きたいけど」
「知ってる」
「でも今は、僕が行っても守ってもらう人が増えるだけだから」
「ああ」
「だから、お願いします」
「任せろ」
アルフレッドは頷いた。
目の前には。
壊れた見張り台。
使えない石蔵。
止められた井戸。
新しく増えた問題ばかり。
けれど。
何も分からなかった昨日とは違う。
地下に道がある。
昔、封鎖された場所がある。
灰色の異変は、そこから来ているかもしれない。
一つずつ。
確かめるべきことが見えてきた。
⸻
夜明け前。
石蔵の北側。
村人たちは石を積み。
土を入れ。
排水路の隙間を塞いでいた。
最後に。
ヘルマンが鉄の板を当て。
周囲へ熱した炭を置く。
「これで朝までは持つ」
「朝まで?」
アルフレッドが尋ねる。
「菌糸が別の隙間を探せば、分からん」
「見張りは残す」
ガルドが答える。
「二人ずつ交代だ」
「僕も――」
「寝ろ」
「聞くだけ聞いてください」
「聞いた。却下だ」
「まだ言ってないのに」
「見張りをすると言う顔だった」
「本当に紙を貼った方がいいのかな……」
周囲から、小さな笑いが起きた。
疲れている。
眠い。
怖くない者などいない。
それでも。
少しだけ笑えた。
作業を終え。
村人たちが一人ずつ家へ戻っていく。
空は、わずかに明るくなり始めていた。
アルフレッドはマルタの家へ向かう前に。
もう一度、石蔵を振り返った。
封じた石の向こう。
地面の下。
誰にも見えない古い排水路で。
何かが。
ゆっくりと動いているような気がした。
けれど今は。
近づかない。
触らない。
一人で確かめようとしない。
それもまた。
村を守るために必要な選択だった。
⸻
石と土で塞がれた水路のさらに奥。
暗い地下。
灰色の菌糸が、封鎖された場所の手前で集まっていた。
一本。
十本。
百本。
互いに絡まり。
小さな塊を作っていく。
やがて。
その塊の中心で。
人間の目に似たものが。
ゆっくりと開いた。
灰色の瞳が。
石の向こう側。
村の方角を見つめる。
そして。
誰にも聞こえないほど小さな声で。
何かが呟いた。
「……きれい、に……」
⸻
第19話 石蔵を這う灰 了




