↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
男爵家四男の辺境開拓記 ~不遇スキル《修繕》と《清掃》で、みんなの帰る場所を作ります~  作者: 和泉發仙
第二章 灰境

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
19/53

石蔵を這う灰

第二章 灰境


第19話 石蔵を這う灰




前書き


扉を閉めれば、


中にいる者を守れる。


壁を厚くすれば、


外の危険を防げる。


人は、そう考えます。


けれど危険は、


いつも正面から来るとは限りません。


壁の隙間。


床の下。


誰も使わなくなった古い道。


忘れられた場所ほど、


何かが入り込むには都合がよいのです。


⸻


 かり。


 かり。


 石を、硬い爪で引っ掻くような音が続いていた。


 石蔵の中。


 壁の下に開いた細い隙間から、灰色の糸が一本ずつ姿を現す。


 糸は床へ落ちることなく、石の表面へ張りついた。


 細く。


 頼りなく。


 蜘蛛の糸にも見える。


 しかし風もないのに、その先端はゆっくりと左右へ揺れていた。


 何かを探すように。


「見張りを呼べ」


 小柄な男が言った。


 柱の反対側。


 背中合わせに縛られた長身の男は、低い声で答える。


「黙れ」


「壁から入ってきている」


「ただの黴だ」


「黴が動くか!」


 灰色の糸が増える。


 二本。


 三本。


 細い糸同士が床の上で絡まり、一本の太い筋になった。


 それは床の凹凸を確かめるように進み。


 ゆっくりと。


 二人の捕虜へ近づいてくる。


「見張り!」


 小柄な男が叫んだ。


「おい!」


 石蔵の外から返事はない。


 見張りが眠っているわけではなかった。


 厚い石壁。


 重い木の扉。


 声が外へ届きにくいのだ。


「足で器を蹴れ」


 小柄な男が言う。


「騒げば、俺たちが逃げようとしていると思われる」


「このまま黙っていれば、あれが何をするか分からない!」


「情けない奴だ」


 長身の男は鼻で笑った。


 けれど。


 その視線は、灰色の糸から離れていない。


 糸は二人へ向かっている。


 正確には。


 長身の男の右腕へ。


 グレゴールの矢を受け、包帯を巻かれた場所。


 そこからは、まだわずかに血の臭いが残っていた。


 灰色の糸が持ち上がる。


 先端が、空気の中で揺れた。


 そして。


 急に速くなった。


「っ!」


 長身の男が身体を捻る。


 だが両手も足も縛られている。


 逃げられない。


 灰色の糸が包帯へ触れた。


 乾いた布へ張りつき。


 縫い目の間へ潜り込む。


「何を――」


 男が腕を振ろうとする。


 その瞬間。


 包帯の下で。


 何かが蠢いた。


「ぐっ……!」


「どうした!」


「中へ……!」


 長身の男の顔が歪む。


 傷口を直接、細い針で探られているような痛み。


 包帯の表面へ、灰色の染みが広がっていく。


 小柄な男は床へ置かれた器へ足を伸ばした。


 麦粥が入っていた木の器。


 爪先を引っ掛け。


 力いっぱい蹴る。


 がんっ!


 器が木の扉へぶつかった。


「見張り!」


 もう一度。


 がんっ!


「誰か来い!」


⸻


 石蔵の外。


 見張りをしていたエリックが、扉の音に気づいた。


「中で何をしている!」


 返事の代わりに。


「灰だ!」


 掠れた声が聞こえた。


「灰色のものが入ってきた!」


 エリックの表情が変わる。


 昨日。


 森狼の顔へ取りついていた灰色の菌糸。


 逃げた男の足跡が消えた場所で見つかったもの。


「ガルド隊長!」


 エリックは扉を開けず、鳥笛を取り出した。


 ひゅう。


 ひゅう。


 二回。


 異常を知らせる音が、夜の村へ響いた。


 近くの見張り台跡で焚き火を囲んでいたガルドが、すぐに立ち上がる。


「どこだ!」


「石蔵です!」


「扉は?」


「開けていません!」


「それでいい!」


 ガルドは剣をつかみ、石蔵へ走った。


 ベルンとグレゴールも続く。


「中の様子は!」


「灰色の何かが入ったと!」


「捕虜は?」


「生きています!」


 扉の向こうから。


「腕に入った!」


 長身の男の叫びが聞こえた。


「早く開けろ!」


「さっきまで余裕だったくせに!」


 小柄な男の声も続く。


「黙れ!」


「二人とも黙れ!」


 ガルドが扉越しに怒鳴った。


「今から開ける!」


「エリック、松明を二本!」


「ベルンは扉の右!」


「グレゴールは左だ!」


「中から何か飛び出しても、すぐ触るな!」


 全員が位置につく。


 エリックが松明を掲げる。


 ガルドは扉へ掛けられた横木を外した。


「開けるぞ!」


 重い扉が。


 ゆっくりと開く。


 最初に見えたのは、床だった。


 月明かりの届かない石蔵の中。


 灰色の糸が、何本も床を這っている。


 壁際から。


 柱へ。


 そして捕虜たちへ。


「昨日の奴だ」


 グレゴールが低く呟いた。


「火を近づける!」


 エリックが松明を前へ出す。


 炎が近づくと。


 灰色の糸は、一斉に縮んだ。


 しゅる。


 石の表面を滑り。


 壁の隙間へ戻ろうとする。


「火を嫌がってるぞ!」


「燃やせるか?」


 松明の先端が菌糸へ触れる。


 じゅっ。


 湿った音がした。


 灰色の糸は黒く縮れたが、すぐには燃え上がらない。


 代わりに。


 腐った木と濡れた獣皮を焼いたような臭いが広がった。


「昨日と同じ臭いだ!」


「吸い込むな!」


 ガルドが外套で口元を覆う。


「捕虜を外へ出す!」


「縄は?」


「切るな! 柱へ結んだ縄だけ外せ!」


 エリックとベルンが松明を前へ出し、菌糸を後退させる。


 その隙に、ガルドが捕虜たちの背後へ回った。


 柱へ巻かれていた縄を剣で断つ。


「立て!」


「腕が……!」


 長身の男は右腕を押さえていた。


 包帯の表面が灰色に染まっている。


 糸は布の下へ入り込んだままだ。


「歩けるか!」


「足は動く!」


「なら外へ出ろ!」


 二人の縄をまとめてつかみ、石蔵の外へ引き出す。


 小柄な男は自分で歩いた。


 長身の男も、歯を食いしばりながら外へ出る。


 しかし。


 男の腕についた灰色の糸が。


 床の菌糸とつながっていた。


 細い糸が伸びる。


 引っ張られ。


 ぴん、と張った。


「切れ!」


 ガルドの剣が振り下ろされる。


 糸が断たれた。


 床側の菌糸は壁の隙間へ逃げる。


 だが。


 包帯の下へ潜ったものは、残った。


「腕が熱い……!」


 長身の男が膝をつく。


 包帯の端から。


 灰色の筋が皮膚の上へ伸びていた。


 傷口から。


 肘へ向かって。


 血管をなぞるように、ゆっくりと。


「マルクを呼べ!」


「それとマルタだ!」


 ガルドが叫ぶ。


 グレゴールが村の中へ走る。


「アルフレッドも呼ぶか?」


 ベルンが尋ねる。


 ガルドは一瞬だけ迷った。


 本来なら、呼びたくない。


 昨日も。


 その前の日も。


 力を使って倒れかけている。


 けれど。


 森狼から灰色の異物を取り除いたのは、アルフレッドだった。


「……呼べ」


 ガルドは答えた。


「ただし、一人で来させるな」


⸻


 マルタの家。


 鳥笛の音で、アルフレッドも目を覚ましていた。


「何かあった」


 床へ敷いた毛布から身体を起こす。


「外へ出るんじゃないよ」


 マルタはすでに上着を羽織り、薬箱を用意していた。


「でも」


「呼ばれるまでは待つ」


「石蔵の方からです」


「分かってる」


 寝台の上では、セルマも目を覚ましていた。


 首輪へ変化はない。


 赤い文字は弱く明滅しているだけだった。


「追手の仲間でしょうか」


「分からない」


 アルフレッドは窓へ近づこうとする。


「待ちな」


 マルタが肩をつかむ。


「約束しただろう」


「勝手に一人で動かない」


「そうだ」


「でも、誰かが――」


 外から足音が近づく。


 扉が開いた。


「マルタ!」


 グレゴールだった。


「石蔵に灰色の糸が出た!」


「怪我人は?」


「捕虜の腕に入り込んだ!」


「分かった」


 マルタは薬箱をつかむ。


「アルフレッドも来てくれ」


 グレゴールが続けた。


「僕も?」


「ガルドが呼んでる」


 アルフレッドはマルタを見る。


「呼ばれました」


「聞こえてるよ」


「行ってもいい?」


「わたしのそばを離れないならね」


「はい」


 寝台のセルマが、身体を起こそうとする。


「私も――」


「寝てな」


 マルタが即座に止める。


「ですが」


「今のあんたが来ても、怪我人が一人増えるだけだ」


「セルマ」


 アルフレッドが言う。


「僕、勝手に力を使わないから」


「本当ですか?」


「先にマルタさんとガルドさんへ聞く」


「……必ずです」


「うん」


「無理だと思ったら、止めてください」


「約束する」


 アルフレッドは今度こそ。


 セルマの目を見て答えた。


⸻


 石蔵の前には、すでに村人たちが集まり始めていた。


「近づくな!」


 ガルドが声を張る。


「灰色の糸には絶対触るな!」


 石蔵の扉は開けられたまま。


 入口の左右には松明が置かれている。


 炎の光を嫌うように、菌糸は奥の壁際へ集まっていた。


 完全に逃げたわけではない。


 石の隙間から、細い先端が何度も伸びようとしている。


「怪我人は?」


 マルタが尋ねる。


「こいつだ」


 長身の捕虜は、地面へ座らされていた。


 両足は縛られたまま。


 左手も腰の縄へ固定されている。


 右腕だけが自由になっていた。


 マルクが包帯を切ろうとしている。


「触るな!」


 男が腕を引いた。


「このままにしたら、もっと中へ入るぞ!」


「切り落とせ!」


 男が叫ぶ。


「腕ごと切れ!」


「簡単に言うんじゃないよ!」


 マルタが男の前へしゃがむ。


「黙って腕を出しな!」


「身体へ入った!」


「見れば分かる!」


 マルタは包帯の結び目を小刀で切る。


 布を一枚ずつ外していく。


 最後の一枚は、傷口へ貼りついていた。


 灰色の菌糸が。


 血を吸った布と、皮膚の間へ潜り込んでいる。


 細い根のようなものが、傷の中へ伸びていた。


「これは……」


 マルクが息を呑む。


「引き抜けますか?」


「無理に引けば、傷口を広げる」


「なら焼くか」


 ガルドが言う。


「皮膚ごと焼けるよ」


 マルタは男の腕を押さえた。


「灰色の筋はどこまで?」


 肘の少し手前。


 皮膚の下に、細い灰色の線が見える。


「アルフレッド」


 マルタが呼んだ。


「はい」


「近くで見な」


 アルフレッドは男の前へ膝をつく。


 長身の男が睨みつける。


「何をする気だ」


「何が入っているか見ます」


「触るな」


「触りません」


「貴様のせいで――」


「今は黙ってください」


 アルフレッドの声は、普段より少しだけ低かった。


「僕も、あなたのことは好きじゃありません」


 男が言葉を止める。


「セルマを殺そうとしたことも、許してません」


「なら放っておけ」


「でも」


 アルフレッドは灰色の筋を見る。


「村の中で、勝手に灰色のものへ変わられると困ります」


「……何?」


「助けられるかは、まだ分かりません」


「助けたいから助ける、とは言いません」


 正直な言葉だった。


 長身の男も。


 周囲にいる者たちも。


 一瞬、何も言えなくなった。


「だけど」


 アルフレッドは続ける。


「ここで何が起きているのか、知らないまま死なれるのは困ります」


「それに」


 少しだけ目を細める。


「あなたがしたことを聞く前に、森の何かに持っていかれるのも嫌です」


 ガルドの口元が、わずかに動いた。


「言うようになったじゃねえか」


「今は褒めなくていいです」


「褒めてねえ」


 アルフレッドは男の腕へ手を近づける。


 触れない距離。


 《清掃》を発動する前。


 そこに何があるのかを探る。


 昨日までなら。


 すぐに力を使っていただろう。


 今は違う。


「灰色のものは、傷から入ってます」


「分かるのか?」


 マルタが尋ねる。


「少しだけ」


「どこまで?」


「筋が見えるところより、少し先」


 肘の内側。


 そこまで細い異物の感覚があった。


 けれど肩までは届いていない。


「取り除けそうかい?」


「全部は分かりません」


 アルフレッドは正直に答えた。


「傷口の近くなら、たぶん」


「失敗すれば?」


「灰色のものと一緒に、血や傷口まで消してしまうかもしれません」


 マルタは男の腕を見る。


 次にアルフレッドの顔を見る。


「どれくらいの範囲なら、自信がある?」


「指二本分くらい」


「そこから先は?」


「まだ分かりません」


「なら、一度に全部やろうとするんじゃない」


「はい」


「まず傷口の外へ出ているものだけ」


「はい」


「少しでも頭が痛んだら止める」


「はい」


「止めろと言ったら、必ず止める」


 アルフレッドは頷いた。


 それからガルドを見る。


「使っていいですか?」


「俺に聞くのか」


「勝手に使わないと約束しました」


 ガルドは長身の男を見る。


「お前はどうする」


「何?」


「こいつの力を受けるか」


「断れば?」


「このまま菌糸がお前の腕を上る」


「焼くか切るかは、そのあとだ」


 男は奥歯を噛み締めた。


「……やれ」


「聞こえねえ」


「やれ!」


「アル坊」


 ガルドが頷く。


「一度だけだ」


「はい」


 アルフレッドは男の腕の下へ布を敷いてもらった。


 菌糸へ意識を集中する。


 人の身体。


 血。


 傷。


 その中へ入り込んだ、あるべきではないもの。


 森狼のときよりも慎重に。


 首輪から命令だけを除いたときよりも、小さく。


「《清掃》」


 淡い白い光が。


 男の傷口だけを包んだ。


「ぐっ……!」


 長身の男の身体が強張る。


「動くな!」


 マルクとガルドが肩を押さえる。


 傷口の中で。


 灰色の菌糸が激しく蠢いた。


 肉の中へ逃げ込もうとする。


「逃げる……」


 アルフレッドが呟く。


「どこへ!」


「腕の上へ!」


「止められるか!」


「やってみます!」


「無理なら止めろ!」


 白い光の範囲を広げない。


 代わりに。


 傷口から外へ向かう流れだけを作る。


「ここから、出ていって」


 灰色の糸が。


 少しずつ。


 傷口から引き出される。


 細い。


 濡れた髪のようなもの。


 一本。


 二本。


 何本も絡まりながら、皮膚の外へ姿を現す。


「気持ち悪いね……」


 マルタが顔をしかめる。


「アルフレッド、まだいけるかい!」


「はい……」


 額へ汗が浮かぶ。


 頭の奥が、わずかに重くなる。


 だが昨日のような強い目眩ではない。


「もう少し……」


 最後の一本が傷口から抜けた。


 灰色の菌糸は布の上へ落ちる。


 それでも生きているかのように動こうとした。


「火!」


 マルタが叫ぶ。


 マルクが火箸で布をつかみ、焚き火の中へ放り込む。


 じゅう。


 灰色の煙が上がる。


「アルフレッド、止めな!」


「はい!」


 アルフレッドはすぐに《清掃》を解除した。


 膝へ手をつく。


 呼吸は少し速い。


 だが倒れなかった。


「頭は?」


 ガルドが尋ねる。


「少し重いです」


「吐き気」


「ないです」


「手足」


 アルフレッドは指を動かす。


「動きます」


「よし。下がれ」


「でも、筋がまだ――」


「今は下がれ」


 ガルドの声に逆らわず。


 アルフレッドは一歩後ろへ移動した。


 マルタが男の腕を確認する。


 皮膚の下へ伸びていた灰色の線。


 それが、少しずつ薄くなっていく。


「残ってる?」


 アルフレッドが尋ねる。


「見える範囲では消えた」


「本当?」


「傷口は残ってるけどね」


「よかった……」


 長身の男は自分の腕を見ていた。


 灰色の筋はない。


 焼けるような熱も、薄れている。


「なぜだ」


 男が呟く。


「何がですか?」


「なぜ俺を助けた」


 アルフレッドは少し考えた。


「さっき言いました」


「村の中で死なれると困るから?」


「はい」


「それだけか」


「それだけで十分です」


 アルフレッドの声は冷たくはなかった。


 けれど、優しく許したわけでもない。


「助けたからって、セルマへしたことがなくなるわけじゃありません」


「あなたたちを解放するわけでもありません」


「話も、ちゃんと聞きます」


 男は何も答えなかった。


 ただ。


 これまでのように、少年を嘲ることもしなかった。


⸻


「石蔵をどうする」


 ベルンが尋ねた。


 菌糸は今も、壁の隙間から出ようとしている。


 松明を近づければ引っ込む。


 離せば、また細い先端を伸ばす。


「中へ入るのは危険だ」


 ガルドが答える。


「捕虜は別の場所へ移す」


「どこへ?」


「開拓隊の荷車を一台空ける」


「馬車の中へ縛るのですか?」


 ノエルが尋ねる。


「見張りを二人つける」


「雨は?」


「覆いがある」


「逃走の危険は?」


「車輪を外して、荷台を柵の内側へ置く」


 長身の男が鼻を鳴らした。


「随分と丁寧な扱いだ」


「森の化け物に食わせるより、王都へ生きたまま渡す方が役に立つ」


 ガルドの答えに。


 男は黙った。


「問題は石蔵だね」


 マルタが入口を見る。


「食料の一部も置いてあった」


「中へ入れねえなら回収できん」


「火で追い払えないの?」


 アルフレッドが尋ねる。


「縮みはする」


 グレゴールが答える。


「だが、燃えにくい」


「昨日と同じです」


「熱を当て続ければ、枯れるかもしれません」


 ノエルが言う。


「ですが石蔵ごと燃やすわけにはいきません」


「石は燃えないよ?」


「中の棚や梁は木です」


「それに、煙が村へ流れたら危ない」


 ガルドが付け加える。


 アルフレッドは石蔵を見る。


 壁の隙間。


 床の下。


 灰色の菌糸が出てきた場所。


「外から入ったのかな」


「確かめる」


 ガルドは松明を持ち、石蔵の外側へ回る。


 北側の壁。


 地面に近い場所。


 草を剣の鞘で払い。


 石積みの根元を確認する。


「ここだ」


 細い亀裂があった。


 石と石の間。


 土が流れ出したように、小さな穴が開いている。


 その周囲の草は。


 根元だけが灰色に変わっていた。


「村の外から来てる?」


 アルフレッドが近づこうとする。


「止まれ」


 ガルドが腕を出す。


「そこから見ろ」


「はい」


「土を掘るぞ」


「今?」


「今、入口だけ塞いでも別の隙間から出てくる」


 ガルドは村の男たちへ声を掛ける。


「鍬と鋤を持ってこい!」


「石蔵の周囲を掘る!」


「菌糸へ触れた土は、別に分けろ!」


⸻


 夜中だというのに。


 石蔵の周囲で、急な作業が始まった。


 松明が何本も立てられる。


 鍬が土へ入る。


 一度に深くは掘らない。


 薄く。


 少しずつ。


 灰色に変わった場所がないか確かめながら。


「ここは普通だ」


「南側も何もない!」


「北の角に灰色の根がある!」


 グレゴールの声に、全員が動きを止める。


 石蔵の北東。


 土をわずかに掘った場所から。


 細い灰色の筋が出ていた。


 植物の根ではない。


 何本もの菌糸が束になり。


 地面の中へ続いている。


「どちらへ伸びている?」


 ガルドが尋ねる。


「北だ」


 グレゴールは土へ枝を差し込み、流れを確かめる。


「いや……少し東へ曲がってる」


「灰の森?」


「方角はそうだが」


 土をもう少し掘る。


 鍬の先が。


 硬いものへ当たった。


 かんっ。


「石だ」


「大きい?」


「平たい」


 土を払うと。


 長方形の石板が姿を現した。


 一枚だけではない。


 同じ形の石が。


 細く連なるように埋められている。


「道?」


 アルフレッドが尋ねる。


 バルドが松明を近づけた。


 その顔が、わずかに曇る。


「違う」


「知ってるんですか?」


「古い排水路じゃ」


「排水路?」


「昔、この村に六十八人がおった頃」


 バルドは石蔵の北側を指さす。


「丘から流れてくる雨水を、北の谷へ逃がしておった」


「村の下を通ってるの?」


「ああ」


「どこまで?」


「今は分からん」


「地図は?」


「昔の領主館になら、残っとるかもしれん」


 灰色の菌糸は。


 石板の隙間から伸びていた。


 森の地表を這ってきたのではない。


 忘れられた排水路。


 地面の下に残された古い道を通り。


 石蔵の壁際まで入り込んだのだ。


「石蔵だけじゃない」


 アルフレッドが呟く。


 排水路が村の下を通っているなら。


 別の場所にも。


 同じような隙間があるかもしれない。


「家の下にも?」


 エッダが顔を強張らせる。


「可能性はある」


 ガルドが答える。


「井戸は?」


 誰かが言った。


 その一言で。


 全員の表情が変わった。


「井戸までつながってたら、水が……」


「慌てるな!」


 ガルドが声を上げる。


「今すぐ井戸を調べる!」


「水は飲むな!」


「朝まで使う分は、開拓隊の樽を出せ!」


 村人たちが一斉に動き始めた。


 アルフレッドも井戸へ向かおうとする。


 だが。


 自分で足を止めた。


 ガルドを見る。


「僕は、何をすればいい?」


 その問いに。


 ガルドは一瞬だけ目を見開いた。


 以前なら。


 何も聞かず、井戸へ走っていただろう。


 排水路へ手を伸ばし。


 《清掃》を使おうとしたはずだ。


「ノエルと領主館へ行け」


 ガルドが答える。


「古い地図を探す」


「建物の中へ入っていいの?」


「西側の安全を確認した部屋だけだ」


「《清掃》は?」


「使うな」


「でも地図が汚れてたら」


「読める状態か確かめてからだ」


「分かりました」


「エッダも連れていけ」


「暗いから足元に気をつけろ」


「はい」


 アルフレッドは頷いた。


 今できること。


 今、任されたこと。


 それだけをする。


 排水路の菌糸は気になる。


 井戸も心配だった。


 けれど。


 一人で全部を見ることはできない。


⸻


 夜の領主館。


 丘へ続く道を。


 アルフレッド。


 ノエル。


 エッダ。


 護衛のエリック。


 四人が松明を持って上がっていく。


「古い地図は、どこにありますか?」


 アルフレッドが尋ねる。


「前の領主が使っていた執務室でしょう」


 ノエルが答える。


「西棟ですか?」


「おそらく」


「床は大丈夫?」


「昨日確認した部屋の隣です」


 エッダが言う。


「入口から様子を見ます」


 壁の穴から館へ入る。


 夜の建物は。


 昼間よりも、さらに壊れて見えた。


 風が窓のない枠を抜け。


 どこかで板が軋んでいる。


「鼠かな」


 アルフレッドが小さく言う。


「鼠ならよいのですが」


 ノエルの返事に。


 アルフレッドは少しだけエリックへ近づいた。


「怖いのか?」


 護衛が尋ねる。


「少しだけ」


「知らない場所は、わくわくするんじゃなかったのか」


「夜は別です」


「正直だな」


 確認済みの廊下を進む。


 執務室の扉は、半分外れていた。


 エッダが床を棒で叩き。


 一歩ずつ確かめる。


「入口近くは大丈夫です」


 部屋の中。


 壁際には、倒れた書棚があった。


 紙の多くは湿気で崩れている。


 机は片脚が折れ。


 引き出しが床へ落ちていた。


「地図……」


 アルフレッドは松明の光を動かす。


「床へ落ちている紙へは触らないでください」


 ノエルが言う。


「崩れます」


「じゃあ、どうやって探すの?」


「文字が読めるものだけ、端から確認します」


 ノエルは手袋をはめた。


 一枚ずつ。


 紙を持ち上げず。


 表面だけを見る。


 税の記録。


 作物の収穫量。


 村人の名前。


 古い開拓計画。


 どれも、二十年以上前のものだった。


「これは?」


 アルフレッドが、机の下を指さす。


 丸められた厚い紙。


 革紐で縛られている。


 湿気で黒ずんでいるが。


 形は残っていた。


「引き出しの奥に入っていたようですね」


 ノエルが慎重に拾う。


 革紐は硬くなり。


 結び目が固まっていた。


「切りますか?」


「中の紙まで傷つけるかもしれません」


「僕の《修繕》で紐を――」


「修繕したら、さらに固く結ばれるのでは?」


「そうかも」


「《清掃》で汚れだけ取る?」


 エッダがアルフレッドを見る。


「今夜は、もう一度使っていますよね」


「捕虜の腕に」


「頭は?」


「少し重いままです」


「なら使わないでください」


「はい」


 アルフレッドは素直に下がった。


 ノエルは細い針を使い。


 結び目へ少しずつ隙間を作る。


「書記官は、こんなこともできるんですね」


「書類を壊さず開くのも仕事です」


 時間を掛け。


 革紐がほどかれた。


 厚い紙を机の上へ広げる。


 灰境の村。


 領主館。


 井戸。


 畑。


 石蔵。


 見張り台。


 今は崩れている建物まで、細かく描かれている。


 そして。


 村の地下には。


 青い線が何本も伸びていた。


「排水路だ」


 アルフレッドが息を呑む。


 一本ではない。


 丘の上から。


 領主館の下。


 村の広場。


 石蔵。


 畑の端。


 そして北側へ。


 いくつもの細い水路がつながっている。


「井戸は?」


 エッダが地図へ顔を近づける。


「直接はつながっていません」


「本当?」


「井戸の東を通っています」


 ノエルが指で線を追う。


「ですが、距離は近い」


「水路が崩れてたら?」


「地下で水が混じっている可能性はあります」


「早く知らせないと」


「待ってください」


 ノエルが地図の北端を見る。


 青い線は、村を出たあと。


 一つへ集まっていた。


 そこから。


 灰の森の手前にある谷へ続いている。


 しかし。


 その途中。


 古い王国文字で。


 小さな書き込みが残されていた。


「何て書いてあるの?」


 アルフレッドが尋ねる。


 ノエルは松明を近づける。


「封鎖」


「封鎖?」


「その下に日付があります」


「いつ?」


「二十六年前」


 王国の記録が更新されなくなった時期と、ほぼ同じだった。


 さらに。


 書き込みの横には。


 赤い印が描かれている。


 丸の中に。


 三本の縦線。


「これは何?」


「開拓局の記号ではありません」


 ノエルが答える。


「村の印?」


 エッダも首を横へ振る。


「見たことがありません」


 アルフレッドは地図を見つめる。


 排水路。


 封鎖。


 二十六年前。


 そして、意味の分からない赤い印。


「バルドさんなら知ってるかな」


「戻って聞きましょう」


 ノエルは地図を丁寧に巻き直す。


「今夜は、これ以上館を調べません」


「まだほかの書類が――」


「足元が危険です」


「はい」


「すぐ戻ります」


 アルフレッドは壊れた執務室を振り返った。


 灰境には。


 今の村人たちも知らないものが、まだ残されている。


 領主館だけではない。


 村の下にも。


 森の中にも。


 忘れられた何かがある。


⸻


 村へ戻ると。


 井戸の周囲には縄が張られていた。


 今夜は使用禁止。


 開拓隊の水樽が広場へ運ばれている。


 石蔵の周囲には、浅い溝が掘られ。


 灰色の菌糸が見つかった場所へ、火のついた炭が置かれていた。


「地図がありました!」


 アルフレッドが声を上げる。


 バルド。


 ガルド。


 グレゴール。


 マルタ。


 皆が集まる。


 ノエルが地図を板の上へ広げた。


「地下の排水路です」


「まだ残っとったか」


 バルドが呟く。


「知ってたんですか?」


「水路があることはな」


「封鎖って書いてあります」


 ノエルが赤い印を指す。


「二十六年前です」


 バルドの表情が変わった。


「その印……」


「知っているの?」


 アルフレッドが尋ねる。


 老人は、すぐには答えなかった。


 長い間。


 忘れようとしていたものを。


 突然、目の前へ出されたような顔だった。


「二十六年前」


 バルドが低い声で言う。


「村の北で、地面が陥没した」


「陥没?」


「ああ」


「排水路の一部が崩れたのですか?」


 ノエルが尋ねる。


「そう聞かされた」


「聞かされた?」


 バルドは地図の赤い印へ指を置く。


「中へ入った者が、三人おった」


「水路を直すためですか?」


「一人も戻らなんだ」


 周囲が静かになる。


「それで封鎖したんですか?」


「当時の領主が命じた」


「何があったか、調べなかったの?」


「調べようとした者はおった」


 バルドの声が、わずかに掠れる。


「じゃが、その夜」


「排水口の近くで」


「灰色になった獣が見つかった」


 アルフレッドは息を止めた。


 森狼。


 灰色の菌糸。


 逃げた男。


 すべてが最近始まったことではなかった。


「昔からあったの?」


「分からん」


 バルドは首を横へ振る。


「その後、何年も何も起きなんだ」


「だから、皆忘れた」


「いや」


 老人は地図を見つめる。


「忘れたかったのじゃ」


 風が吹いた。


 板の上の地図が揺れる。


 ガルドが地図の端を押さえた。


「排水路は今夜、封鎖する」


「どうやって?」


 アルフレッドが尋ねる。


「石蔵の近くで見つけた隙間を、石と土で塞ぐ」


「それで止まる?」


「止まる保証はねえ」


「だが、開けたままよりはましだ」


「明日、排水路の出口を探す」


「森へ入るの?」


「谷の手前までだ」


「僕も――」


 言いかけて。


 アルフレッドは止まった。


 皆の顔を見る。


「僕は、村で地図を調べます」


 自分から言い直す。


 ガルドが少しだけ笑った。


「そうしろ」


「一緒に行きたいけど」


「知ってる」


「でも今は、僕が行っても守ってもらう人が増えるだけだから」


「ああ」


「だから、お願いします」


「任せろ」


 アルフレッドは頷いた。


 目の前には。


 壊れた見張り台。


 使えない石蔵。


 止められた井戸。


 新しく増えた問題ばかり。


 けれど。


 何も分からなかった昨日とは違う。


 地下に道がある。


 昔、封鎖された場所がある。


 灰色の異変は、そこから来ているかもしれない。


 一つずつ。


 確かめるべきことが見えてきた。


⸻


 夜明け前。


 石蔵の北側。


 村人たちは石を積み。


 土を入れ。


 排水路の隙間を塞いでいた。


 最後に。


 ヘルマンが鉄の板を当て。


 周囲へ熱した炭を置く。


「これで朝までは持つ」


「朝まで?」


 アルフレッドが尋ねる。


「菌糸が別の隙間を探せば、分からん」


「見張りは残す」


 ガルドが答える。


「二人ずつ交代だ」


「僕も――」


「寝ろ」


「聞くだけ聞いてください」


「聞いた。却下だ」


「まだ言ってないのに」


「見張りをすると言う顔だった」


「本当に紙を貼った方がいいのかな……」


 周囲から、小さな笑いが起きた。


 疲れている。


 眠い。


 怖くない者などいない。


 それでも。


 少しだけ笑えた。


 作業を終え。


 村人たちが一人ずつ家へ戻っていく。


 空は、わずかに明るくなり始めていた。


 アルフレッドはマルタの家へ向かう前に。


 もう一度、石蔵を振り返った。


 封じた石の向こう。


 地面の下。


 誰にも見えない古い排水路で。


 何かが。


 ゆっくりと動いているような気がした。


 けれど今は。


 近づかない。


 触らない。


 一人で確かめようとしない。


 それもまた。


 村を守るために必要な選択だった。


⸻


 石と土で塞がれた水路のさらに奥。


 暗い地下。


 灰色の菌糸が、封鎖された場所の手前で集まっていた。


 一本。


 十本。


 百本。


 互いに絡まり。


 小さな塊を作っていく。


 やがて。


 その塊の中心で。


 人間の目に似たものが。


 ゆっくりと開いた。


 灰色の瞳が。


 石の向こう側。


 村の方角を見つめる。


 そして。


 誰にも聞こえないほど小さな声で。


 何かが呟いた。


「……きれい、に……」


⸻


第19話 石蔵を這う灰 了

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。