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男爵家四男の辺境開拓記 ~不遇スキル《修繕》と《清掃》で、みんなの帰る場所を作ります~  作者: 和泉發仙
第二章 灰境

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18/53

領主の最初の仕事

第二章 灰境


第18話 領主の最初の仕事


前書き


一人で働くことと、


皆を働かせることは違います。


けれど、


一人ではできない仕事を、


皆で少しずつ進めていくこと。


誰に何ができるのかを知り、


できないことを補い合うこと。


それもまた、


土地を治める者の仕事なのです。


⸻


 翌朝。


 灰境の村の中央には、一本の長い板が置かれていた。


 昨日まで、領主館の食堂に転がっていた壊れた卓の一部である。


 脚はない。


 表面には深い傷があり、端も欠けている。


 それでも地面へ置けば、帳面や地図を広げることはできた。


 板の周囲には、村の主だった者たちが集まっている。


 アルフレッド。


 ガルド。


 ノエル。


 バルド。


 グレゴール。


 エッダ。


 ヘルマン。


 マルタ。


 そのほかにも、村人が何人か。


 セルマは、まだ寝台から長く離れられないため、マルタの家に残っていた。


「では」


 ノエルが帳面を開く。


「本日の相談を始めます」


「相談?」


 アルフレッドが尋ねる。


「会議と言っても構いません」


「会議……」


 その言葉を聞き、アルフレッドは少しだけ姿勢を正した。


「何をすればいいの?」


「アルフレッド様が進行してください」


「僕が?」


「領主ですから」


 当然のように答えられた。


 アルフレッドは周囲を見る。


 集まっているのは、皆、自分よりずっと年上の大人たちだ。


 王都の屋敷なら、十二歳の子どもが大人を前に意見を求められることなどなかった。


「何から話せばいいですか?」


「それを考えるのも領主の仕事です」


「ノエルさん、少し厳しくないですか?」


「私が全部決めると、開拓局の村になってしまいます」


「それは困るね」


「なら、お願いします」


 アルフレッドは板の上へ広げられた紙を見る。


 ノエルが昨日までに整理した、灰境の問題が書かれている。


 北の灰の森。


 魔物。


 冬の食料。


 薪。


 壊れた柵。


 領主館。


 井戸。


 鍛冶場。


 捕虜。


 セルマの首輪。


 並んでいる文字を見るだけで、頭が重くなりそうだった。


「全部、今日やるの?」


「無理じゃ」


 バルドが即座に答える。


「では、何から始めるかを決めます」


 ノエルが言った。


 アルフレッドは紙を見つめる。


 どれも大切だった。


 食べ物がなければ、冬を越せない。


 薪がなければ、寒さを防げない。


 柵がなければ、魔物に襲われる。


 首輪を放置すれば、セルマはまた苦しむかもしれない。


「一番危ないものから」


 アルフレッドが呟く。


「昨日も、そう言っていましたね」


 バルドが答えた。


「はい」


「今、最も危ないものは何だと思う?」


「灰の森です」


 アルフレッドは北を見た。


 朝日が昇っているというのに、森の奥は暗い。


 逃げた男の足跡が消えた場所。


 灰色の菌糸に覆われた木々。


 今も、そこに何がいるのか分からない。


「でも、今すぐ森へ入ることはできません」


「そのとおりじゃ」


「だったら」


 アルフレッドは村の北側にある古い見張り台を見る。


 太い丸太を組み上げた塔。


 高さは、二階建ての家より少し高い。


 だが、支柱の一本は大きく傾き、上にある足場も半分ほど崩れていた。


 今は誰も登っていない。


「見張り台を直したいです」


「ほう」


 バルドが目を細める。


「なぜです?」


 ノエルが尋ねる。


「森に近づかなくても、遠くを見られるから」


「それだけ?」


「高い場所から見れば、森狼が来るのも早く分かります」


「人が少なくても、広い範囲を見張れます」


「それに」


 アルフレッドは村を見回した。


「灰の森だけじゃなく、街道から来る人も見えると思います」


 捕らえた男たち。


 逃げた一人。


 次の追手が来る可能性も残っている。


「悪くない」


 ガルドが頷く。


「見張り台が使えりゃ、夜の番を減らせる」


「今は何人ですか?」


「村人と俺たちを合わせて、一度に四人だ」


「直したら?」


「二人で済む時間も増える」


「その二人が交代で休める」


 アルフレッドは頷いた。


「じゃあ、最初は見張り台です」


「待て」


 エッダが声を上げる。


「直すと言っても、材料がありません」


「領主館の東側から取れない?」


「柱へ使えるほど長い木は、ほとんど腐っています」


「森へも入れない」


「はい」


 最初から行き詰まった。


 アルフレッドは見張り台と領主館を交互に見る。


「今ある柱を直すのは?」


「領主様の《修繕》なら、できるかもしれません」


 エッダは答えた。


「ですが、昨日確認した限りでは、根元がかなり腐っています」


「どれくらい?」


「表面だけではありません。中までです」


「《清掃》で腐っている部分を取って、《修繕》で――」


「何も残らなくなるかもしれません」


 エッダの言葉に、アルフレッドは口を閉じた。


 腐った部分を取り除く。


 それだけなら《清掃》でできる。


 けれど、柱の大半が腐っているなら。


 汚れを取り除いたあとに、細い木しか残らないかもしれない。


「新しい木が必要ですね」


「少なくとも一本は」


「森以外に、大きな木はないの?」


 グレゴールが腕を組んだ。


「南の古い街道沿いなら、何本か倒木がある」


「灰の森とは別?」


「ああ。灰の森から流れてくる川を越えた先だ」


「危なくないですか?」


「北よりはましだ」


「魔物は?」


「出る」


 迷いのない返事だった。


「出るんですね……」


「灰境だからな」


 ガルドが鼻を鳴らす。


「何も出ねえ場所を探してたら、村から一歩も出られん」


「倒木まで、どれくらい?」


「歩いて半刻ほど」


「荷車は通れますか?」


「道を少し切り開けばな」


「なら、取りに行きましょう」


 アルフレッドが言う。


「お前は行かねえぞ」


 ガルドが即座に続けた。


「まだ何も――」


「一緒に行く顔だった」


「僕の顔、そんなに何でも書いてありますか?」


「今度、額へ紙でも貼ってやろうか」


「何て書くの?」


「勝手に動くな」


 周囲から笑いが起きた。


 アルフレッドは納得できない顔をしたものの、反論はしなかった。


「じゃあ、誰が行くんですか?」


 グレゴールが手を挙げる。


「道なら俺が知ってる」


「脚は?」


「荷車に乗ればいい」


「無理をするなと言われていましたよね」


「領主様には言われたくない」


「それ、昨日も言ってました」


「事実だからな」


 次にベルンが名乗り出た。


「俺も行く。荷車を引く人手が要る」


「護衛は俺が二人出す」


 ガルドが言う。


「倒木を確認して、使えそうなら目印を付けて戻れ。今日は切り出すな」


「持って帰らないの?」


 アルフレッドが尋ねる。


「まず道と周囲を確かめる」


「一度で持って帰れば早いのに」


「早く済ませようとして、魔物の巣へ突っ込む方が遅くなる」


「……はい」


 少し前なら。


 アルフレッドは、自分も行くと言い続けただろう。


 しかし今は、黙って頷いた。


 すべてを自分で見なければならないわけではない。


 任せることも必要だ。


「では、倒木の確認はグレゴールさんたちへお願いします」


「任された」


「その間、僕たちは何をする?」


「見張り台を調べます」


 エッダが答える。


「新しい柱を入れるまで、何もできないわけではありません」


「どこまでなら直せますか?」


「足場を解体します」


「壊すの?」


「安全に直すためです」


 領主館でも、同じ話を聞いた。


 壊れたものを、すべてそのまま残すことが修繕ではない。


 一度外し。


 使える部分を選び。


 必要なら作り直す。


「分かりました」


 アルフレッドは皆を見回した。


「今日の仕事は」


 少し緊張しながら言う。


「倒木を探す人」


「見張り台を調べる人」


「捕虜を見張る人」


「村の仕事を続ける人」


 言葉を止める。


「それぞれ、お願いします」


 領主らしい命令には聞こえなかった。


 頼み事に近い。


 それでも、誰かが小さく返事をした。


「ああ」


 続いて。


「分かった」


「任せてください」


「やってみよう」


 声が重なる。


 灰境へ来てから初めて。


 アルフレッドが決めた一つの仕事を中心に、村全体が動き始めた。


⸻


 見張り台の周囲には、すぐに縄が張られた。


「この中へ入らないでください!」


 エッダが子どもたちへ言う。


「崩れるかもしれないからね!」


「見るだけなら?」


 リーナが尋ねる。


「縄の外から」


「手伝える?」


「小さな木片を集めてくれる?」


「できる!」


 リーナは、すぐにほかの子どもたちを呼びに走った。


 その後ろから、七歳ほどの男の子と、少し年上の少女がついてくる。


 大人たちは、見張り台の足場へ掛かっていた古い縄を切り始めた。


 エッダが下から指示を出す。


「一度に外さないで!」


「西側から少しずつ!」


「足場の板を踏まないでください!」


「分かってる!」


 ベルンの弟らしい若者が、塔へ掛けた梯子を上る。


 腰には新しい縄。


 足場へ直接体重を掛けず、柱へ身体を固定しながら作業する。


 ぎし。


 古い見張り台が、不安になる音を立てた。


 アルフレッドは縄の外から、その様子を見上げている。


「落ちそう……」


「だから下がれ」


 ガルドが襟をつかみ、さらに一歩後ろへ引く。


「縄の外にいるよ」


「縄ぎりぎりだ」


「近い方がよく見えます」


「崩れたら木材は縄で止まらねえ」


「なるほど」


「感心してる場合か」


 アルフレッドは、もう一歩後ろへ下がった。


 塔の足場から、一枚目の板が外される。


 縄でゆっくり地面へ下ろされた。


 表面は黒ずみ、端は腐っている。


 エッダが金槌で軽く叩く。


 ぼろっ。


 板の端が崩れた。


「これは使えません」


「全部?」


「三分の一ほど切れば、残りは別の場所に使えるかもしれません」


「見張り台には?」


「危険です」


 エッダは次の板を調べる。


「これは大丈夫」


「汚れてるよ」


「汚れと腐りは違います」


「僕の《清掃》で見分けられるかな?」


「小さな板だけなら、試してみてもよいかもしれません」


 エッダがガルドを見る。


 ガルドは腕を組んだまま、アルフレッドの顔色を確認した。


「今日は何回使った」


「まだ一度も」


「頭痛は」


「ないです」


「昨日は休んだな」


「はい」


「なら、一枚だけだ」


「三枚くらい――」


「一枚だ」


「二枚」


「交渉するな」


「一枚だけですね」


 アルフレッドは地面へ膝をつき、降ろされた板へ手をかざした。


 広い範囲を一度にきれいにしようとはしない。


 板一枚。


 それだけを意識する。


「《清掃》」


 淡い光が木材を包む。


 表面へ積もっていた土。


 鳥の糞。


 苔。


 黒い汚れ。


 それらが、さらさらと剥がれ落ちていく。


 隠れていた木目が現れた。


 中央部分は、まだ硬い。


 しかし端の一部には、細かな穴が無数に開いていた。


「虫?」


 アルフレッドが顔を近づける。


「木食い虫ですね」


 エッダが答える。


「中へ入っています」


「虫も清掃できる?」


「試さないでください」


「どうして?」


「いきなり穴から虫が全部出てきたら、リーナたちが泣きます」


 縄の向こうで聞いていたリーナが、大きく首を振った。


「泣かない!」


「では、持ってみる?」


「やだ!」


「ほら」


 エッダの言葉に、周囲から笑いが漏れる。


「この板はどうするの?」


「虫の入った部分を切ります」


「それから《修繕》?」


「いいえ」


 エッダは板へ線を引いた。


「失われた部分が多いので、無理に元へ戻すより、小さな板として使った方が安全です」


「直さない方がいいんですね」


「直せない、ではありません」


 エッダは線の上へ鋸を当てる。


「別の使い方をするんです」


 ぎこ。


 ぎこ。


 木を引く音が響く。


 腐った端が切り落とされ、板は短くなった。


「これは見張り台の足場には使えません」


「でも、薪にするにはもったいない」


「棚板なら使えます」


「マルタさんの薬草棚?」


「よいと思います」


 アルフレッドは、短くなった板を見た。


 元の形へは戻らなかった。


 それでも、使い道は残った。


「修繕って、元どおりにするだけじゃないんだね」


「領主様のスキルの話ですか?」


「それも」


 アルフレッドは村を見回した。


「領地も、昔と同じに戻す必要はないのかもしれません」


 バルドが、少し離れた場所でその言葉を聞いていた。


 かつて六十八人が暮らした灰境。


 今は二十二人しかいない。


 昔の姿へ戻すことだけを考えれば。


 足りないものばかりが目につく。


 けれど。


 今いる者たちで、新しい形を作ることはできる。


「その考えを忘れんことじゃ」


 バルドが言った。


「はい」


「昔と同じに戻そうとして、無理をした領主もおった」


「その人は?」


「村人へ重い税を掛けた」


「どうして?」


「人を呼ぶために、王都の商人へ金を払った」


「来たんですか?」


「誰も来なんだ」


「……そうなんだ」


「灰境は、王都の真似をしても王都にはならん」


 バルドは崩れた見張り台を見上げる。


「ここに合う形を探すしかない」


 アルフレッドは、その言葉を胸の中で繰り返した。


 灰境に合う形。


 それがどんなものなのか。


 まだ分からない。


 だからこそ。


 皆へ聞かなければならないのだ。


⸻


 昼前。


 見張り台の足場は、半分ほど解体された。


 使える板。


 切れば使える板。


 薪にしかならない板。


 三つの山へ分けられている。


 子どもたちは、小さな木片だけを薪の山へ運んでいた。


「これも?」


 リーナが、手のひらほどの木片を持ってくる。


 エッダが端を確認する。


「それは薪」


「こっちは?」


「虫に食われてるね。薪」


「これは?」


「釘があるから、そこへ置いて」


 リーナは忙しそうに走り回っている。


 その隣では、少年たちが抜いた釘を集めていた。


 曲がった釘。


 錆びた釘。


 頭の潰れた釘。


「捨てるの?」


 アルフレッドが尋ねる。


「溶かせば使える」


 答えたのは、鍛冶師のヘルマンだった。


 太い腕。


 煤で黒くなった前掛け。


 右の眉から頬へ、古い火傷の跡が伸びている。


「でも、鍛冶場は壊れてるんですよね」


「炉は生きてる」


「ふいごが駄目なんでしたっけ」


「ああ」


「どこが壊れてますか?」


「革が裂けた。木枠も歪んどる」


「僕の《修繕》で直せないかな」


 ヘルマンは少し考えた。


「革が足りん」


「破れた部分は残ってないの?」


「半分はある」


「残りは?」


「鼠に食われた」


「鼠も革を食べるんだ……」


「何でも食うぞ」


「新しい革があれば?」


「直せる」


「村にありますか?」


 ヘルマンは答えなかった。


 代わりに、グレゴールが森狼を倒した場所を見る。


 昨日の戦いで、一頭だけ死骸が残っていた。


 毛皮は剥がされ、肉の一部も処理されている。


「あれを使うの?」


「森狼の革は硬すぎる」


 ヘルマンが言った。


「だが、薄く削れば使えんこともない」


「誰ができますか?」


「俺がやる」


「じゃあ、ふいごが直れば、釘を作れる?」


「作れる」


「道具も?」


「鉄があればな」


「鉄は?」


「少しだけ残っとる」


「その少しで、見張り台に必要な釘は作れますか?」


 ヘルマンは、積み上げられた古い釘を見る。


「こいつらを混ぜれば足りる」


「だったら」


 アルフレッドは顔を明るくした。


「次は鍛冶場です」


「まだ見張り台も直っとらんぞ」


「でも鍛冶場を直さないと、見張り台の釘が作れません」


「そのとおりだ」


「じゃあ、先にふいごを直す」


「領主館は?」


「そのあと」


「柵は?」


「見張り台のあと」


「畑は?」


「……その前?」


「薪は?」


「倒木を見てから」


「食料は?」


「ノエルさんと相談」


 言葉へ詰まっていく。


 ヘルマンが低く笑った。


「一つ直すと、次が出る」


「はい」


「次を直すには、別のものがいる」


「はい……」


「それが村だ」


 鍛冶場だけでは何も作れない。


 鉄。


 炭。


 革。


 水。


 道具。


 それらを運ぶ人。


 食事を作る人。


 働く人を治療する人。


 全部がつながっている。


「大変ですね」


 アルフレッドが言う。


「今さら気づいたか」


「少しだけ」


「逃げるか?」


 ヘルマンの問い。


 からかう声ではなかった。


 アルフレッドは見張り台を見る。


 解体された足場。


 働く村人たち。


 釘を集める子どもたち。


「逃げません」


「そうか」


「でも、一人では無理です」


「それも今さらじゃな」


「だから、ヘルマンさん」


「なんだ」


「鍛冶場をお願いします」


 ヘルマンは、アルフレッドをしばらく見た。


 命令ではない。


 けれど、仕事を任せようとしている。


「分かった」


 短く答える。


「ふいごをばらす。使える部品を見てくれ」


「僕が?」


「《修繕》を使う前に、何を直すか知るんだろう」


「はい!」


「ただし、今日は見るだけだ」


「まだ一回しか使ってません」


「ガルドから、勝手に使わせるなと言われとる」


 アルフレッドが振り返る。


 少し離れた場所で、ガルドが腕を組んでいた。


「皆に言って回ってるんですか?」


「村中にな」


「僕、そんなに信用されてない?」


「無茶をしないという点では、誰にも信用されてねえ」


「セルマにも言われました……」


⸻


 昼を過ぎた頃。


 南へ向かった一行が戻ってきた。


 荷車には何も載っていない。


 だが、グレゴールの表情は明るかった。


「使える木があった」


「本当ですか?」


 アルフレッドが駆け寄る。


 すぐ後ろから、ガルドが襟をつかんだ。


「走るな」


「もう元気です」


「転ぶ」


「子どもじゃないです」


「十二は子どもだ」


「領主です」


「領主でも転ぶ」


 そのまま襟をつかまれた状態で、グレゴールの前へ連れていかれる。


「どれくらいありました?」


「大きいのが二本」


「見張り台に使える?」


「エッダが見ないと分からん」


「場所は安全ですか?」


「今のところはな」


 道には、野兎や鹿の痕跡があった。


 大型の魔物の足跡はない。


 ただし。


「川へ近い場所に、妙な痕があった」


「灰色の菌?」


「いや」


 グレゴールが地面へ枝で形を描く。


 三本の長い爪。


 人の手より大きい。


「獣の足跡だ」


「何の魔物?」


「分からん」


「知らない足跡?」


「ああ」


 グレゴールは猟師だった。


 灰境周辺にいる獣の足跡なら、ほとんど見分けられる。


 その彼が知らないと言う。


「森の方から来てた?」


「反対だ」


「反対?」


「南から北へ向かってた」


「灰の森へ?」


「ああ」


 魔物たちが森から逃げている。


 そう聞いていた。


 だが今回の足跡は、森へ向かっていた。


「その魔物は、森へ戻ってるのかな」


「戻ったのか」


 グレゴールは言う。


「それとも呼ばれたのか」


 誰も答えられなかった。


 ガルドが話を打ち切る。


「倒木は明日運ぶ」


「今日じゃなくていいの?」


「道を広げる人手と、護衛を増やす」


「僕も――」


「行かねえ」


「言う前に……」


「顔だ」


「はい……」


⸻


 午後。


 村の仕事は続いた。


 見張り台の足場を外す者。


 鍛冶場のふいごを分解する者。


 古い釘を選別する者。


 畑へ出る者。


 食事を作る者。


 捕虜を見張る者。


 誰もが、それぞれの場所で動いている。


 アルフレッドは、ノエルと一緒に村の中を歩いていた。


「何を見ているんですか?」


 ノエルが尋ねる。


「皆さんの仕事」


「なぜ?」


「誰が何をしてるか、覚えたいから」


「名簿に書いてあります」


「名前と仕事だけじゃ分からないです」


「例えば?」


「ヘルマンさんは鍛冶師だけど、革も削れる」


「エッダさんは木工ができるけど、建物の石壁も見られる」


「グレゴールさんは脚が悪いけど、森の道を知ってる」


「リーナちゃんたちは、小さい木なら運べる」


 ノエルは帳面へ書き始めた。


「また書いてる」


「重要です」


「何が?」


「できないことではなく、できることを調べている」


「普通じゃないの?」


「領主によっては、できない者を切り捨てます」


 アルフレッドは足を止めた。


「どうして?」


「働けない者へ食料を与える余裕がないからです」


「でも」


 マルタの家を見る。


 セルマが休んでいる。


 村には、高齢の者も。


 病気の者も。


 小さな子どももいる。


「今できない人も、ずっとできないとは限りません」


「そうですね」


「できることが少ない人でも、何か一つはあると思う」


「ない場合は?」


「探します」


「見つからなければ?」


「そのとき考えます」


 ノエルは眼鏡越しに、アルフレッドを見た。


「簡単ではありませんよ」


「分かってます」


「全員を守ろうとすれば、全員が苦しくなることもあります」


「うん」


「それでも?」


 アルフレッドは、すぐには答えなかった。


 守ると言うだけなら簡単だ。


 食料が足りなければ。


 薬がなくなれば。


 誰かを優先しなければならない日が来るかもしれない。


「今は」


 少し考え、答える。


「できることを増やしたいです」


「食料を増やす」


「薪を増やす」


「安全な場所を増やす」


「誰かを捨てるか決める前に、捨てなくていい方法を探します」


 ノエルは筆を止めた。


「それも報告書へ書く?」


 アルフレッドが尋ねる。


「いいえ」


「珍しいですね」


「これは、私が覚えておきます」


 ノエルは帳面を閉じた。


⸻


 夕方。


 見張り台の足場は、ほぼすべて取り外されていた。


 残ったのは、四本の太い支柱と、上部をつなぐ横木。


 傾いた一本を除けば、ほかの三本はまだ使える。


 エッダが柱を調べる。


「新しい柱が届けば、明日から組み直せます」


「明日で直る?」


「無理です」


「何日?」


「三日。順調なら」


「三日も?」


「建物は、椅子とは違います」


「そうだよね……」


「ですが」


 エッダは、残った横木を指さす。


「この接合部を先に整えられれば、一日短くできるかもしれません」


「《修繕》?」


「はい」


 ガルドを見る。


 アルフレッドも見る。


 二人の視線を受け、ガルドは嫌そうな顔をした。


「小さい範囲だけだぞ」


「やっていいの?」


「一回だけ」


「今日は《清掃》を一回使いました」


「だから《修繕》も一回だ」


「二回ずつじゃないの?」


「誰が決めた」


「今、僕が――」


「却下だ」


「早い……」


 アルフレッドは支柱の根元へ近づいた。


 ただし、傾いた柱には触れない。


 まだ倒れる危険があるからだ。


 地面へ外された横木。


 その端にある接合部。


 木の突起は欠け。


 差し込む穴の縁も割れている。


「元の形、分かりますか?」


 エッダが、別の横木を見せる。


「こちらと同じです」


「比べながらなら、できると思います」


「失われた木片は、ここにあります」


 子どもたちが集めた木片の中から。


 割れた接合部に合うものが、いくつか見つかっていた。


 エッダが一つずつ位置を合わせる。


「これでどうです?」


「少し違う」


「こちらは?」


「合ってます」


 アルフレッドは木片へ触れた。


 欠けた場所。


 残った部分。


 元は一つだったもの。


 それらを意識する。


「《修繕》」


 淡い光が、横木の端を包んだ。


 木片がゆっくりと引き寄せられる。


 割れた面が重なり合う。


 細い亀裂が閉じ。


 欠けていた突起が、元の形へ戻っていく。


 完全な新品ではない。


 色の違いも残っている。


 しかし。


 木槌で叩いても、崩れなかった。


「直りました」


 アルフレッドが嬉しそうに言う。


 エッダは接合部を何度も確かめる。


「使えます」


「本当?」


「はい」


「もう一つも――」


「今日は終わりだ」


 ガルドが首根っこをつかむ。


「でも同じ場所です!」


「一回は一回だ」


「まだ頭も痛くない」


「痛くなってから止めても遅い」


「明日なら?」


「明日の身体を見てからだ」


 アルフレッドは不満そうだった。


 それでも。


 無理に手を伸ばさなかった。


「じゃあ、今日は終わりにします」


 自分から言った。


 ガルドが少し驚いた顔をする。


「何?」


「いや」


「褒めてもいいですよ」


「調子に乗るからやめとく」


「少しくらい――」


「よく止めた」


 短い言葉だった。


 アルフレッドは一瞬だけ目を丸くし。


 すぐに笑った。


「はい!」


⸻


 日が沈む前。


 村人たちは、使える木材へ布を掛けた。


 釘は鍛冶場へ。


 腐った板は薪置き場へ。


 短く切った板は、マルタの家へ運ばれる。


 一日働いても。


 見張り台は、まだ直っていない。


 鍛冶場のふいごも、分解しただけ。


 領主館も、壊れたまま。


 畑も広がっていない。


 目に見える大きな成果は、ほとんどなかった。


 それでも。


 使えるものと。


 使えないものが分かった。


 必要なものも。


 誰に何を任せるかも。


 昨日より少しだけ、明日することが見えるようになっていた。


「今日は何も完成しなかったね」


 アルフレッドが呟く。


 隣を歩くバルドが、杖を地面へつく。


「仕事とは、そんな日もある」


「でも、領主になったなら、もっと早く何かを――」


「早く結果を出そうとして、何度も失敗した者を見た」


「前の領主様?」


「領主だけではない」


 バルドは夕暮れの村を見る。


「畑も、家も、人も」


「急に育てようとすれば壊れる」


「少しずつでよい」


 アルフレッドも村を見る。


 見張り台は骨組みだけになった。


 けれど以前のように、いつ崩れるか分からない状態ではない。


 危険な板は外された。


 使える木は残った。


「壊れたままに見えるけど」


「直し始めた姿じゃ」


 バルドの言葉に。


 アルフレッドは、もう一度見張り台を見上げた。


 確かに。


 朝と同じではなかった。


⸻


 夕食のあと。


 アルフレッドはマルタの家へ戻った。


 セルマは寝台の上で、短くなった板を眺めている。


 壁際には、簡単な棚が一つ増えていた。


「これ、今日の板?」


「エッダさんが取り付けてくれたよ」


 マルタが答える。


「見張り台には使えなかったけど、薬草を置くには十分だ」


 棚には、乾燥させた薬草の束が並べられている。


「本当に別のものになったんだ」


 アルフレッドが触れようとすると。


「まだ接着が乾いてないよ」


 マルタに手を叩かれた。


「痛っ」


「触るなと書いてあるだろう」


「どこに?」


「そこ」


 棚の下に、小さな板が掛かっている。


 ノエルの字で。


 ――乾燥中。触るべからず。


「べからずって、少し怖いですね」


「お前さんには、それくらいでちょうどいい」


 セルマの口元が、わずかに緩んだ。


「笑った?」


「いいえ」


「今、笑ったよね?」


「笑っておりません」


「見たよ」


「左目は見えませんが、右目は見えています」


「そういう意味じゃなくて――」


「騒ぐんじゃないよ」


 マルタが二人を叱る。


 アルフレッドは寝台の横へ椅子を置いた。


「今日は、見張り台を直し始めたよ」


「完成したのですか?」


「まだ」


「領主館は?」


「まだ」


「柵は?」


「まだ」


「鍛冶場は?」


「まだ……」


 セルマは少し不思議そうな顔をする。


「何をしていたのですか?」


「それを説明するの、少し難しいね」


 アルフレッドは今日の出来事を話した。


 見張り台を解体したこと。


 倒木を見つけたこと。


 釘を集めたこと。


 ふいごを分解したこと。


 一枚の板が、薬草棚になったこと。


 話していくうちに。


 何も完成しなかったと思っていた一日が。


 意外と多くのことを進めていたのだと気づく。


「だから、明日は倒木を運ぶんだ」


「アルフレッド様も行くのですか?」


「行かない」


 セルマが目を瞬いた。


「ご自分から?」


「ガルドさんに止められた」


「やはり」


「でも、今日は《修繕》を一回で止めたよ」


「本当ですか?」


「本当」


「無理に二回目を使っていませんか?」


「使ってないよ」


 セルマは、アルフレッドの顔色をじっと見る。


「疑ってる?」


「確認しています」


「皆、僕の顔を見るようになったね……」


「分かりやすいので」


「エッダさんにも同じことを言われた」


「そうでしょうね」


 即答だった。


「でも」


 セルマは少しだけ声を柔らかくする。


「約束を守ってくださったのですね」


「うん」


「ありがとうございます」


「お礼を言われること?」


「私が、安心します」


 アルフレッドは少しだけ照れたように頬を掻いた。


「じゃあ、明日も気をつける」


「必ずです」


「セルマも、勝手に歩いちゃ駄目だよ」


「歩けません」


「歩けるようになっても」


「分かりました」


「約束ね」


「はい」


 今度は小指を出さなかった。


 言葉だけで。


 二人には十分だった。


⸻


 同じ頃。


 村の石蔵。


 捕らえられた小柄な男が、壁へ背を預けていた。


 見張りの護衛は、入口の外にいる。


 長身の男は、向かい側で目を閉じている。


「なぜ話した」


 低い声が響く。


 小柄な男は答えない。


「金属盤の仕組みを」


「話さなければ、奴隷が死んだ」


「それが何だ」


「回収が命令だった」


「処分も命令だ」


「お前は最初から、回収する気などなかっただろう」


 長身の男が目を開く。


 暗闇の中。


 鋭い目だけが浮かんでいる。


「四男坊も」


「奴隷も」


「ここで死ねば、奥方にとって都合がいい」


「正式な命令ではない」


「命令書がなければ、命令ではないとでも?」


「……」


「次は余計なことを話すな」


「次?」


 小柄な男が顔を上げる。


「逃げた奴が報告する」


「次の者が来る」


 長身の男は笑った。


「今度は、こんな少人数ではない」


「逃げた男は戻っていない」


「森を抜けるのに時間が掛かっているだけだ」


「本当にそう思うのか」


 小柄な男は。


 昼間、村人たちが話していた内容を思い出す。


 足跡が消えた。


 灰色の菌糸。


 音の消えた森。


「奴は、もう戻らないかもしれない」


「なら別の方法で伝わる」


「金属盤はここにある」


「首輪も」


「伝書筒も奴が持っていた」


「それでもだ」


 長身の男は、暗闇の天井を見る。


「奥方は、必ず気づく」


 小柄な男は何も答えなかった。


 しばらく沈黙が続く。


 やがて。


 石蔵の壁の向こうから。


 かり。


 小さな音がした。


 二人が同時に顔を向ける。


 かり。


 かり。


 石を。


 硬い爪で引っ掻くような音。


「鼠か?」


 長身の男が呟く。


 音は止まらない。


 かり。


 かり。


 かり。


 次第に。


 壁の下。


 地面に近い場所から。


 薄い灰色の糸が、石の隙間を抜けて現れた。


 一本。


 また一本。


 小柄な男の顔から、血の気が引く。


「見張りを呼べ」


「黙れ」


「呼べ!」


 男が叫ぼうとした瞬間。


 石の隙間から伸びた灰色の糸が。


 まるで生き物のように。


 音もなく、石蔵の床を這い始めた。


⸻


第18話 領主の最初の仕事 了

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