帰らなかった男
第二章 灰境
第17話 帰らなかった男
前書き
人が消えたとき、
残されるのは、
足跡だけではありません。
途切れた言葉。
届かなかった知らせ。
そして、
そこにいたはずの者が、
突然いなくなったという事実。
森は何も語りません。
けれど時には、
沈黙そのものが、
何よりも恐ろしい答えになるのです。
⸻
夜が明ける少し前。
灰境の村は、まだ眠りに戻れていなかった。
見張り台には松明が残り、村の入口には槍を持った男たちが立っている。
石蔵へ閉じ込められた二人の侵入者は、何度か縄を解こうとしたものの、そのたびに護衛兵へ押さえ込まれていた。
逃げた三人目は戻ってこない。
助けを呼ぶ声も。
森の奥を駆ける馬の音も。
何一つ聞こえなかった。
「静かすぎるな」
村の北側を見張っていたグレゴールが呟く。
隣では、ベルンが槍を地面へ立てている。
「逃げ切ったんじゃないか」
「なら、街道の方で何か音がする」
「森を抜けたのかもしれない」
「あの暗さでか?」
グレゴールは灰の森へ視線を向けた。
月の光さえ届かない木々の奥。
幼い頃から森へ入ってきた彼でさえ、夜には近づこうと思わない場所だった。
「俺なら、村から逃げても街道を選ぶ」
「追われると思ったんだろう」
「追ってない」
「相手には分からない」
ベルンはそう答えたが、声に確信はなかった。
逃げた男は森へ入った。
その後、何も聞こえなくなった。
それだけである。
だが、昨日の森狼を見たあとでは。
ただ逃げたのだと、簡単に考えることはできなかった。
⸻
空が白み始める頃。
マルタの家では、セルマが浅い眠りから目を覚ました。
最初に感じたのは、首元の鈍い熱だった。
首輪は残っている。
赤い文字も消えていない。
けれど、昨夜のように身体を無理やり動かそうとする力はなかった。
次に気づいたのは、寝台の横で眠る少年だった。
アルフレッドは椅子へ座ったまま、両腕を寝台の端へ置き、そこへ顔を伏せている。
床には毛布が敷かれていた。
本来なら、そこで眠るつもりだったのだろう。
しかし途中で起き、セルマの様子を見ているうちに、そのまま眠ってしまったらしい。
銀灰色の髪が乱れている。
頬には寝台の布地の跡がついていた。
「……アルフレッド様」
小さく呼ぶ。
返事はない。
セルマは左手を動かそうとした。
だが、アルフレッドの指が、その手を軽く握っていた。
強くはない。
眠っている間に、離れないよう触れていただけなのだろう。
セルマはその手を見つめる。
昨夜。
村人たちは、自分を渡さないと言った。
アルフレッドも、ここにいていいと言った。
けれど、胸の奥に残る不安は消えていない。
あの男たちが来たのは、自分のせいだ。
一人が逃げた。
次は、もっと多くの人間が来るかもしれない。
今度は村人が傷つくかもしれない。
そうなったときも。
皆は同じことを言ってくれるのだろうか。
「また難しい顔をしてるね」
奥の部屋からマルタの声がした。
セルマが顔を上げる。
マルタは湯気の立つ小さな鍋を持ち、寝台のそばへ来た。
「起きていたのですか」
「年を取ると朝が早いんだよ」
「ガルド様は、婆さんと呼んでいました」
「今度言ったら、苦い薬を一瓶飲ませる」
マルタは鍋を机へ置く。
薄く煮た麦粥だった。
「食べられそうかい?」
「空腹ではありません」
「食べられるかと聞いたんだ」
「……少しなら」
「なら少し食べな」
セルマが身体を起こそうとすると、脇腹へ痛みが走った。
「っ……」
「急に動くんじゃないよ」
マルタが背中を支え、丸めた毛布を入れる。
その動きに気づいたのか。
アルフレッドが、小さく身じろぎした。
「セルマ……?」
顔を上げる。
目は半分しか開いていない。
「いる?」
「おります」
「よかった……」
それだけ確認すると、再び目を閉じそうになる。
マルタが少年の額を指で弾いた。
「痛っ!」
「起きるなら起きる。寝るなら床へ戻る」
「セルマが起きたから」
「セルマは逃げないよ」
その言葉に。
セルマの視線が、ほんの少し揺れた。
アルフレッドは椅子から身体を起こし、目を擦る。
「首は?」
「今は大丈夫です」
「赤く光ってない?」
「弱く光っていますが、命令は感じません」
「じゃあ、昨日の《清掃》が効いてるのかな」
「使うなと言われていたのに」
セルマが言う。
「命に関わるときは自分で判断していいって、ガルドさんが言ってた」
「それは昨夜のあとです」
「……そうだった」
「約束してすぐ無茶をしましたね」
「セルマを止めるためだったから」
「私は、アルフレッド様に倒れてほしくありません」
「倒れてないよ」
「顔色が悪いです」
「それは寝起きだから」
アルフレッドは、自分の頬へ手を当てた。
「たぶん」
「たぶんでは困ります」
どこかで聞いた言葉だった。
マルタが麦粥を器へ入れながら、鼻で笑う。
「二人とも、言うことだけは一人前になってきたね」
⸻
朝日が山の端から昇る頃。
村の中央へ、主だった者たちが集まった。
石蔵の前。
アルフレッド。
ガルド。
ノエル。
バルド。
グレゴール。
ベルン。
そして開拓隊の護衛たち。
セルマは身体を起こせる状態ではないため、マルタの家に残っている。
「まず確認する」
ガルドが言った。
「逃げた一人を見た者は?」
誰も手を上げなかった。
「森へ入ったところまでは見ています」
エリックが答える。
「どちらへ?」
「北西です。街道とは逆方向でした」
「追跡はしていないな」
「隊長の命令どおりです」
「それでいい」
ガルドは村人たちを見回す。
「夜の森へ入ってたら、こっちにも怪我人が出ていた」
グレゴールが腕を組んだ。
「だが、あの男が王都へ報告すれば、次が来る」
「ああ」
「なら探すべきじゃないか」
「夜が明けた。今から痕跡だけ確認する」
ガルドは即座に答えた。
「ただし深くは入らねえ」
「何人で?」
「俺、エリック、グレゴール」
「三人だけか」
「大人数で入れば、村の守りが薄くなる」
ガルドはアルフレッドを見る。
「アル坊は村に残れ」
「僕も行きます」
「駄目だ」
「まだ何も言ってないのに」
「一緒に行くと言う顔だった」
「皆、僕の顔を読みすぎじゃないですか?」
「分かりやすいんだよ」
ガルドはアルフレッドの前へしゃがんだ。
「森狼に取りついていた妙なものがある」
「はい」
「逃げた男が、そいつに出くわした可能性もある」
「だから見たいです」
「だから連れていかねえ」
「でも、《清掃》なら――」
「今日は使用禁止だ」
「見るだけです」
「昨日も同じことを言ってたな」
「昨日は領主館でした」
「場所が違うだけだ!」
ガルドの声が広場へ響く。
村人たちが小さく笑った。
アルフレッドは不満そうに口を閉じる。
「お前には別の仕事がある」
ノエルが帳面を差し出した。
「仕事?」
「捕虜二名の所持品確認です」
「僕が?」
「領主として、押収物の記録へ立ち会っていただきます」
「でも僕、そういう道具は分かりません」
「分からないものは、分からないと記録します」
「それでいいの?」
「推測で書くより、ずっとよろしいです」
アルフレッドは帳面を受け取った。
「分かりました」
「それと、捕虜から事情を聞きます」
「僕も話すんですか?」
「聞いているだけで構いません」
ガルドが立ち上がる。
「絶対に石蔵へ一人で入るな」
「入りません」
「捕虜の縄へ触るな」
「触りません」
「変な道具を勝手に直すな」
「修繕禁止ですよね」
「清掃もだ」
「分かってます」
「本当に?」
「たぶん」
「そこは言い切れ!」
⸻
石蔵の中は薄暗かった。
窓はなく、壁の上部に小さな通風口があるだけ。
中央の柱へ、二人の捕虜が背中合わせに縛られている。
長身の男は、グレゴールの矢を受けた右腕へ包帯を巻かれていた。
顔には殴られたような痕がある。
捕らえられたときのものではない。
逃げようとして護衛へ取り押さえられた際についた傷だった。
小柄な男は無傷に見える。
だが、落ち着きなく周囲へ視線を動かしていた。
「朝飯だ」
ベルンが木の器を二つ、床へ置く。
「縄を解け」
長身の男が言った。
「食わなくてもいいなら、そのままでいろ」
「この状態でどう食えと言う」
「俺が匙を持ってやろうか?」
「ふざけるな」
「なら口をつけて飲め」
器の中身は薄い麦粥だった。
毒は入っていない。
だが、捕虜たちはすぐには口をつけなかった。
ガルドが石蔵へ入る。
その後ろにはノエルとアルフレッド。
さらに護衛が二人。
「眠れたか?」
ガルドが尋ねる。
「おかげさまでな」
長身の男が皮肉を返す。
「なら話せるな」
「何をだ」
「名前」
「断る」
「所属」
「断る」
「命令を出した者」
「断る」
「三人目の名前」
「断る」
「よし」
ガルドは頷いた。
「質問は終わりだ」
アルフレッドが瞬きをする。
「もう?」
「答える気がねえ奴へ同じことを聞いても時間の無駄だ」
「それでいいんですか?」
「持ち物を調べる」
ガルドは、木箱へ入れられた押収品を床へ並べ始めた。
細身の剣。
短剣。
袖へ隠されていた針。
小瓶に入った透明な液体。
細い鋼線。
金属盤。
黒い鳥の徽章。
銀貨。
薬包。
小さな鍵。
そして。
一通の折り畳まれた紙。
「手紙?」
アルフレッドが尋ねる。
「暗号だ」
ノエルが紙を開く。
文字らしきものが並んでいる。
だが通常の王国文字ではない。
数字。
記号。
同じ形の文字が、不規則に繰り返されている。
「読めますか?」
「すぐには難しいですね」
「開拓局には、暗号を読む人もいるの?」
「専門の部署があります」
「何でもあるんですね」
「王国は広いですから」
ノエルは紙を光へ透かした。
「ただし、正式な文書ではありません」
「どうして分かるの?」
「印も署名もないからです」
長身の男が鼻で笑う。
「そんな紙切れに何の意味がある」
アルフレッドは男を見る。
「じゃあ、捨ててもいいんですか?」
長身の男の視線が、一瞬だけ紙へ向いた。
ほんのわずか。
だが、ガルドは見逃さなかった。
「捨てられたくはねえらしいな」
「勝手に決めるな」
「アル坊」
「はい?」
「今のは悪くなかった」
「何がです?」
「お前は分からなくていい」
ガルドは紙をノエルへ返した。
「なくすなよ」
「承知しました」
次に、金属盤を手に取る。
中央の赤い針は、今も一定の方向を指している。
マルタの家。
セルマがいる場所だった。
「この道具が、首輪の位置を示しているんですね」
アルフレッドが言う。
「おそらくな」
「壊せますか?」
「待て」
ガルドが金属盤を遠ざける。
「修繕は禁止ですが、壊すことは禁止されてません」
「屁理屈を覚えるな」
「でも、このままだとセルマの場所が分かります」
「だから調べてから壊す」
「調べてる間に、ほかの人へ場所が伝わったら?」
「こいつ自体が情報を送ってるかどうかも分からねえ」
「首輪が送って、これが受け取るだけかもしれません」
ノエルが言った。
「あるいは、これを通して命令を送っている可能性もあります」
「なら、なおさら止めないと」
アルフレッドは金属盤を見つめる。
針。
赤い光。
細かな溝。
セルマの首輪に刻まれていた文字と、よく似た形がある。
「《清掃》で、つながりだけを――」
「今日は駄目だ」
ガルドが即座に止める。
「命に関わるときだけだ」
「でも」
「今、セルマは苦しんでるか?」
「……分かりません」
「なら、まず確認だ」
ガルドは護衛へ金属盤を渡す。
「布で包んで、村の外れへ持っていけ」
「壊さないのですか?」
「セルマから距離を取る」
「針が動くか確認するんですね」
ノエルが言う。
「それと、首輪に変化が出るかも見る」
「連絡は?」
「鳥笛を一回。何かあれば二回」
護衛は金属盤を持ち、石蔵を出ていった。
捕虜の小柄な男が、初めて大きく表情を変えた。
「やめろ」
全員の視線が集まる。
「何をだ?」
ガルドが尋ねる。
「それを村の外へ持ち出すな」
「なぜだ」
「故障する」
「故障するだけか?」
「そうだ」
「なら困らねえな」
「戻せ!」
小柄な男が縄を引きちぎろうと身体を動かす。
柱が軋んだ。
ベルンが槍の柄を床へ打ちつける。
「動くな」
「分かっていない!」
男の額へ汗が浮かぶ。
「あれは首輪の位置を探すだけの道具ではない!」
長身の男が低く怒鳴った。
「黙れ!」
だが、遅かった。
「ほかに何ができるんですか?」
アルフレッドが尋ねる。
小柄な男は唇を噛んだ。
「答えろ」
ガルドの声が低くなる。
「村から一定以上離せば、どうなる」
「……」
「昨夜の命令と関係があるのか」
「……首輪が」
男が掠れた声を出す。
「装着者の逃亡と判断する」
アルフレッドの表情が変わった。
「逃亡と判断したら?」
男は答えない。
「殺すの?」
少年の問い。
小柄な男は目を逸らした。
それが答えだった。
⸻
「止めろ!」
ガルドが石蔵を飛び出す。
「鳥笛を鳴らせ!」
ベルンが外へ向かって笛を吹く。
ひゅう。
ひゅう。
二回。
異常を知らせる音が、朝の村へ響いた。
アルフレッドも走り出そうとする。
「待て!」
ノエルが腕をつかんだ。
「セルマのところへ行きます!」
「私も行きます!」
二人はマルタの家へ駆けた。
扉を開ける。
「セルマ!」
寝台の上で。
セルマは首輪を押さえ、苦しそうに身体を丸めていた。
赤い文字が、昨夜ほどではないものの、強く明滅している。
「急に……熱が……」
マルタが冷たい布を用意しながら叫ぶ。
「また命令なのかい!」
「違います……」
セルマは息を詰まらせる。
「首輪が、私を……逃亡したと……」
「道具を村の外へ持っていったからだ」
ノエルが言う。
「戻させています!」
「間に合う?」
アルフレッドが尋ねる。
「分かりません!」
セルマの首輪から、小さな火花が散る。
赤い線が首筋へ浮かぶ。
アルフレッドは手を伸ばした。
「《清掃》を――」
「待ちな!」
マルタが止める。
「昨日と同じことをすれば、あんたが倒れる!」
「でもセルマが!」
「道具を戻してるんだろう!」
「間に合わなかったら!」
セルマがアルフレッドの手首をつかんだ。
力は弱い。
それでも、はっきりと止めていた。
「使わないで……ください」
「セルマ?」
「約束、しました」
「これは命に関わる場合だよ!」
「まだ……耐えられます」
「耐えなくていい!」
「アルフレッド様が、倒れる方が……嫌です」
アルフレッドは動けなかった。
助けたい。
今すぐ力を使えば、昨夜と同じように命令を消せるかもしれない。
けれど。
一人で決めない。
無茶をしない。
できないときは誰かへ頼る。
昨夜、二人で約束した。
「マルタさん」
「なんだい」
「セルマは、あとどれくらい耐えられますか?」
「そんなもの、正確には分からない」
「今すぐ死にますか?」
「今の光だけなら、すぐに命を取るほどじゃない」
「本当?」
「少なくとも昨夜よりは弱い」
アルフレッドは歯を食いしばった。
「じゃあ、待ちます」
セルマのそばへ座る。
左手を握る。
「でも、もっと強くなったら使うからね」
「……はい」
「セルマが止めても使う」
「それでは約束が」
「命に関わるときは、無茶じゃないってガルドさんが言った」
「そのようには言っていません」
ノエルが訂正する。
「今は細かいことはいいです!」
家の外から、馬の足音が近づいてくる。
金属盤を運んだ護衛が戻ってきた。
「持ってきました!」
扉が開く。
布に包まれた金属盤が、床へ置かれた。
赤い針が大きく揺れる。
セルマの首輪の光も、少しずつ弱まり始めた。
「戻った……」
セルマが息を吐く。
身体から力が抜ける。
アルフレッドが慌てて支えた。
「セルマ!」
「大丈夫……です」
「それはマルタさんが決める」
「そのとおりだよ!」
マルタが首元を確かめる。
皮膚には新しい火傷ができていた。
だが、光は消えつつある。
命に関わるほどの傷ではなかった。
「戻ってきたから、止まった」
ノエルが金属盤を見る。
「つまりこの道具は、首輪の位置を受け取るだけではありません」
「首輪に、道具の位置も知らせてるんだ」
アルフレッドが言う。
「おそらく、互いにつながっています」
「じゃあ壊せないの?」
「単純に壊せば、装着者の死亡か逃亡と判断される可能性があります」
「どうすればいいんですか」
ノエルは答えられなかった。
アルフレッドは金属盤を見つめる。
壊してはいけない。
遠ざけてもいけない。
けれど、残しておけば首輪を通してセルマを支配される。
「つながってるところだけを消せたら」
昨夜。
命令だけは消せた。
首輪そのものは残った。
なら、この金属盤と首輪を結ぶものだけを取り除くこともできるかもしれない。
しかし今は、力を使わない約束の日。
それ以前に。
失敗すれば、セルマを傷つける可能性がある。
「今日はやらない」
アルフレッドが、自分へ言い聞かせるように呟く。
マルタとノエルが、少し驚いた顔をした。
「調べます」
「何をですか?」
「首輪と、この道具」
アルフレッドは金属盤を指さす。
「分からないまま触ったら、またセルマを苦しめるから」
「アルフレッド様……」
「一人で直さないって、ガルドさんにも言った」
セルマの手を握ったまま、続ける。
「皆で方法を探します」
それは小さな決断だった。
だが。
力があるから、すぐ使うのではない。
使わないことを選ぶ。
十二歳のアルフレッドにとっては、何かを修繕することよりも難しい判断だった。
⸻
ガルドが石蔵へ戻ったとき。
捕虜の小柄な男は、俯いたまま黙っていた。
長身の男は、怒りを押し殺した目で相棒を睨んでいる。
「お前のせいで、余計なことまで知られた」
「首輪が作動すれば、奴隷が死ぬ」
「それが命令だ」
「回収しろと言われた!」
「回収できなければ処分しろとも言われただろう!」
石蔵の中が静まり返った。
ガルドが足を止める。
アルフレッドも、少し遅れて入口へ戻ってきた。
「今、何て言いました?」
長身の男が口を閉じる。
「セルマを連れ戻せなかったら」
アルフレッドは男を見る。
「殺せって、言われてたんですか?」
「……」
「アーデルハイト様に?」
男は答えない。
けれど、小柄な男の顔が歪んでいた。
沈黙は、否定ではなかった。
「どうして?」
アルフレッドの声が震える。
「セルマは、何もしてない」
「逃げた」
長身の男が答えた。
「所有者へ逆らった」
「それだけで?」
「奴隷とはそういうものだ」
アルフレッドは拳を握った。
怒鳴りたい。
殴りたい。
そんな衝動が胸の奥へ湧き上がる。
けれど。
この男を殴っても、首輪は外れない。
セルマが自由になるわけでもない。
「ノエルさん」
「はい」
「今の言葉も、報告書に書けますか?」
「書けます」
「命令書がなくても?」
「捕虜本人の発言として記録します」
「二人とも聞きましたね」
「はい」
ノエルは静かに筆を取る。
「ガルドさんも」
「ああ」
「ベルンさんも」
「聞いた」
アルフレッドは捕虜を見る。
「僕は法を知りません」
「昨日、そう言ったな」
「だから勉強します」
少年の青い瞳が、まっすぐ男へ向けられる。
「セルマを物だという法律があるなら」
「その法律に、どうやったら逆らえるのかを勉強します」
「子どもの戯言だ」
「そうかもしれません」
「領主になっただけの十二歳に、何ができる」
「今は、あまりできません」
アルフレッドは正直に答えた。
「でも、セルマを渡さないことはできます」
「あなたたちが言ったことを、記録に残すこともできます」
「首輪を外す方法も、これから探します」
「いつか、ヨーレリヒト家に逆らうつもりか」
「分かりません」
アルフレッドは少しだけ考える。
「でも」
「セルマを殺そうとする人の言うことは、もう聞きません」
長身の男の顔が強張る。
子どもの言葉。
それでも男には分かった。
目の前の少年は今。
ヨーレリヒト家から、初めて自分の意志で離れようとしている。
⸻
捕虜への聞き取りが終わった頃。
森へ入っていたガルドたちが戻ってきた。
三人とも無傷。
しかし、グレゴールの表情は険しかった。
「見つかりましたか?」
アルフレッドが駆け寄る。
「逃げた人」
「本人は見つからん」
グレゴールが答える。
「足跡は?」
「途中まではあった」
泥に残った靴跡。
折れた枝。
血ではないが、何度か転んだ痕跡。
男は森の奥へ向かって走っていた。
「だが、途中で消えた」
「消えた?」
「広い岩場でも、川でもない」
ガルドが続ける。
「落ち葉の上にあった足跡が、急になくなってた」
「木へ登った可能性は?」
ノエルが尋ねる。
「近くの幹も見た。痕はねえ」
「魔術で?」
「その可能性はある」
「でも、一つだけ落ちていました」
エリックが布に包んだものを取り出す。
小さな黒い筒。
その表面へ、灰色の糸が絡みついていた。
「これは……」
アルフレッドが顔を近づける。
「触るな」
ガルドがすぐに遠ざけた。
「昨日の狼についてたものと同じだ」
灰色の菌糸。
ところどころに、小さな黒い粒が埋まっている。
生き物のように動いてはいない。
けれど、完全に枯れてもいなかった。
「この筒は何です?」
「伝書鳥を呼ぶ笛らしい」
ノエルが布越しに確認する。
「特殊な音を出す道具でしょう」
「王都へ報告するための?」
「おそらく」
「使われていましたか?」
「いや」
ガルドが答える。
「筒の蓋は閉じたままだった」
つまり。
逃げた男は、王都へ知らせる前に何かへ襲われた。
あるいは。
何かに連れ去られた。
「ほかには?」
「短剣が落ちていた」
「血は?」
「ない」
「争った跡は?」
「ある」
落ち葉が大きく乱れ。
何本もの細い溝が、地面に残っていた。
蔦か。
縄か。
何かが地面を這い回ったような痕だった。
「森狼じゃない」
グレゴールが言う。
「狼なら足跡が残る」
「ほかの魔物は?」
「少なくとも、俺の知ってる獣じゃない」
ガルドは灰色の菌糸がついた筒を見る。
「男が消えた場所から先へは、行かなかった」
「どうして?」
「木が変だった」
「変?」
「灰色に染まってた」
一本や二本ではない。
逃げた男の足跡が消えた周囲だけ。
木の根。
幹。
低い草。
落ち葉。
すべての表面へ、薄い灰色の膜が広がっていた。
まるで森の一部だけが。
白い灰を被ったように。
「近づいたら、音が消えた」
エリックが言う。
「音?」
「鳥も、虫もです」
「風は吹いてるのに、葉の音もしなかった」
グレゴールが自分の腕を擦った。
「森が息を止めてるみたいだった」
アルフレッドは灰の森を見る。
村のすぐ北。
昨日まで、ただ暗く深いと思っていた場所。
今は。
その奥から、何かがこちらを見ているように感じられた。
「逃げた人は、生きてると思いますか?」
誰もすぐには答えなかった。
やがてガルドが、低い声で言う。
「分からん」
「探しに行かないの?」
「行かねえ」
「でも」
「敵だったからじゃない」
ガルドはアルフレッドを見た。
「今の俺たちが入って、全員戻れる保証がねえからだ」
「……はい」
「一人を探すために、三人、四人と消えたら意味がない」
「分かってます」
「本当に?」
「行きたいけど、行きません」
アルフレッドは森から目を離さないまま答えた。
「今は」
ガルドは、ほんの少しだけ目を細める。
「それでいい」
⸻
その日の午後。
村の北側へ、一本の杭が打たれた。
灰の森へ続く古い獣道の入口。
杭には、ノエルが書いた板が取り付けられた。
――立入禁止。
王国文字を読めない者のために、赤い線で大きな印も描かれている。
「子どもたちにも言っておきます」
エッダが言った。
「森へは絶対に入らせません」
「薬草採りはどうする」
マルタが尋ねる。
「南側だけにする」
バルドが答えた。
「北の森へは入らん」
「薪は?」
「村の近くの倒木を使うしかない」
「冬まで持ちません」
「なら、別の場所を探す」
森へ入れなければ。
薪も。
木材も。
薬草も。
獲物も。
これまで得ていた多くの物が手に入らなくなる。
灰境の暮らしは、さらに厳しくなる。
「領主館の修理も止まりますね」
エッダが呟く。
「木材がないから?」
アルフレッドが尋ねる。
「はい。東棟から回収できる分だけでは、屋根まで直せません」
「村の柵も」
「すべて補強するには足りません」
「畑を広げる道具も、柄の木が必要じゃ」
バルドが言う。
一つが足りなければ。
別のものも直せない。
領地は、多くのものがつながっている。
「優先順位を変えます」
アルフレッドが言った。
ノエルが帳面を開く。
「どのように?」
「領主館は、西側の一部だけ雨を防げるようにします」
「食堂の修繕は?」
「あとです」
「柵は?」
「危険な場所だけ、東棟の木材を使います」
「残りは?」
「見張りを増やします」
「人手が足りません」
「じゃあ、見張り台を直して、少ない人数でも遠くを見られるようにします」
ノエルの筆が動く。
「次は?」
「食料です」
「畑の整備ですね」
「はい。それと、冬までに薪を取れる場所を探す」
「森以外で?」
「川の下流や、古い街道の周りに倒木がないか調べます」
「護衛が必要になります」
「ガルドさんたちへ相談します」
アルフレッドは一人で決めなかった。
エッダへ木材の量を尋ね。
グレゴールへ森以外の道を尋ね。
バルドへ昔使われていた採取場所を尋ねる。
ノエルが一つずつ記録していく。
問題は増えた。
領主館。
食料。
柵。
首輪。
捕虜。
王都への報告。
灰の森。
どれも、すぐには解決できない。
けれど。
アルフレッドの前には、相談できる人がいた。
一人ではない。
「ねえ、ノエルさん」
「はい」
「領主って、もっと一人で決めるものだと思ってました」
「決断するのは領主です」
「やっぱり僕が?」
「ですが、何も聞かずに決める必要はありません」
ノエルは帳面から顔を上げる。
「正しく決めるために人の話を聞くことも、領主の役目です」
「僕、ちゃんとできてますか?」
「まだ到着して三日目です」
「つまり?」
「判断するには早すぎます」
「厳しいですね」
「ただ」
ノエルは眼鏡を押し上げた。
「少なくとも、前任者よりは長くいられそうです」
「三日で帰った人?」
「はい」
「それは褒められてるのかな……」
隣で聞いていたバルドが、低く笑った。
⸻
夕暮れ。
マルタの家へ戻ったアルフレッドは、セルマの寝台の横へ座った。
セルマの首元には、新しい薬草布が巻かれている。
金属盤は、家の隅に置かれた木箱の中。
近すぎず。
遠すぎず。
首輪が反応しない距離で管理されていた。
「逃げた人は?」
セルマが尋ねる。
「見つからなかった」
「王都へ戻ったのでしょうか」
「たぶん、違う」
アルフレッドは少し迷った。
心配させたくない。
けれど、隠すのも違うと思った。
「森で、足跡が消えたんだって」
「消えた?」
「灰色の菌みたいなものが、周りにあった」
セルマの右目が細くなる。
「昨日の森狼と同じものですか」
「うん」
「では、あの男は」
「分からない」
アルフレッドは正直に答えた。
「探しには行かないことにした」
「それがよろしいと思います」
「助けなくていいのかな」
「私を殺しに来た者です」
「うん」
「それでも助けたいのですか」
「分からない」
アルフレッドは膝の上で手を組む。
「好きじゃない」
「怖かったし、セルマを連れていこうとした」
「でも、森の中で何かに襲われてるなら……」
言葉が続かない。
敵なら、助けなくてもいい。
そう言い切ることはできなかった。
けれど、村人を危険へ晒してまで助けに行くとも言えない。
「僕、冷たいのかな」
「違います」
セルマは即座に答えた。
「でも、見捨てたかもしれない」
「アルフレッド様は、村の者を守るために森へ入らないと決めました」
「うん」
「それは、見捨てたのではありません」
「どう違うの?」
セルマは少し考えた。
「すべてを救えないと、認めたのだと思います」
「……難しいね」
「はい」
「セルマは、そういうことを知ってるの?」
「私は、何度も誰かを置いて逃げました」
アルフレッドが顔を上げる。
セルマは窓の外を見ていた。
「奴隷商の馬車が魔物に襲われたとき」
「採掘場で崩落が起きたとき」
「歩けない者を、置いていきました」
「それはセルマが決めたの?」
「いいえ」
「なら――」
「それでも、私は生きています」
セルマの声は静かだった。
「助けられなかった者の顔を覚えたまま」
「セルマ……」
「だから、忘れなければいいのだと思います」
「忘れない?」
「助けられなかったことを」
「次は同じことにならないよう、考えるために」
アルフレッドは、しばらく何も言わなかった。
逃げた男。
森狼。
菌糸。
灰の森。
今は行けない。
けれど。
「いつか、調べる」
「はい」
「村を守れるようになって」
「皆で準備して」
「必ず、灰の森で何が起きてるのか調べる」
「はい」
「そのときは、セルマも一緒に――」
「私は歩けません」
「治ってからだよ」
「右腕もありません」
「それは関係ない」
「あります」
「じゃあ、そのとき考えよう」
「簡単に言いますね」
「まだ先のことだから」
アルフレッドが笑う。
セルマも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
今はまだ。
二人とも知らなかった。
いつかセルマが。
この灰の森を、誰よりも速く駆け抜けるようになることを。
片腕を失った少女が。
剣を握り。
アルフレッドの前へ立ち。
あらゆる敵から領地を守る者になることを。
今のセルマにできるのは。
寝台の上で、麦粥を少しずつ口へ運ぶことだけだった。
そしてアルフレッドにできるのは。
その隣で。
空になった器を見て、安心することだけだった。
⸻
夜。
灰の森の奥。
人の足跡が消えた場所で。
灰色の菌糸が、ゆっくりと盛り上がっていた。
その中心には。
黒い外套の切れ端。
折れた短剣。
そして。
人間の指のようなものが、半分だけ土から出ていた。
指先が。
わずかに動く。
土の下から。
掠れた声が漏れた。
「……アーデル……ハイト、様……」
けれど。
その声は、すでに人のものとは違っていた。
森のさらに奥で。
何かが。
それに応えるように、低く鳴いた。
⸻
第17話 帰らなかった男 了




