夜の来訪者
第二章 灰境
第16話 夜の来訪者
前書き
家を作るとは、
壁を立てることだけではありません。
扉を閉じ、
火を灯し、
中にいる者を守ること。
そして時には、
外から来た者へ、
ここから先へは入れないと告げること。
それもまた、
帰る場所を作るために必要なのです。
⸻
その日の夕方。
灰境の村では、いつもより早く夕食の支度が始まっていた。
日が山の向こうへ沈み始めると、気温が急に下がる。
昼間は穏やかだった風も、夜が近づくにつれて灰の森から冷たい空気を運んでくる。
村の中央では、大きな鍋から白い湯気が上がっていた。
豆。
芋。
少量の干し肉。
昨日よりも具の多いスープだった。
開拓局が運んできた食料の一部を、ガルドが村へ提供したのである。
「これは領主様のために運んできた物資です」
ノエルは最初こそ反対した。
「開拓局の規定上、引き渡し前の配給は――」
「領主本人が食わせろと言ってる」
ガルドが答えた。
「まだ正式な引き渡し書類へ署名をいただいていません」
「なら今すぐ書かせろ」
「アルフレッド様は療養中です」
「さっき領主館まで登ってたぞ」
「それと書類仕事は別です」
結局。
アルフレッドが震える手で簡単な受領証へ署名し、その日の食事へ使う分だけを正式に村へ渡す形で落ち着いた。
「これでいいですか?」
「形式上は問題ありません」
「じゃあ、皆で食べられますね」
「ただし今後の備蓄計画については、明日詳しくお話しします」
「明日ですか?」
「逃げないでくださいね」
「ここが僕の家だから、逃げませんよ」
アルフレッドが笑うと、ノエルは眼鏡を押し上げながら小さく息を吐いた。
「そういう意味ではありません」
⸻
広場の端。
アルフレッドは丸太へ腰掛け、領主館の修繕について書かれた帳面を眺めていた。
その隣にはエッダがいる。
帳面の上には、必要な物が何行にもわたって並んでいた。
屋根を支える梁。
垂木。
屋根板。
石灰。
砂。
縄。
釘。
窓枠へ使う木材。
割れた床板の代わりとなる板材。
「やっぱり、たくさん必要ですね」
アルフレッドが言う。
「建物を一軒直すんですから」
エッダは当然のように答えた。
「むしろ、これでも西棟だけです」
「東側は?」
「危険な箇所を崩して、石と木材を回収します」
「使える物は多そうですか?」
「まだ分かりません。腐っている部分も多いので」
「僕の《修繕》で、腐っているところを――」
「今日は使わない約束ですよね」
エッダが視線を向けた。
「使うとは言ってません」
「顔に書いてあります」
「最近、皆に同じことを言われます」
「分かりやすいのでしょうね」
「そんなに?」
「リーナより少し分かりにくいくらいです」
「九歳のリーナちゃんと比べられてる……」
アルフレッドは少し肩を落とした。
だが、エッダの口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。
昨日までなら、領主を相手にこんな言葉は口にしなかっただろう。
まだ親しみと呼べるほどではない。
しかし、恐怖だけでもなくなり始めている。
その変化に、アルフレッド自身は気づいていなかった。
⸻
マルタの家では、セルマが寝台の上から窓の外を眺めていた。
身体を起こしていられる時間は、まだ短い。
脇腹の傷が痛み、足へ少し力を入れるだけで、裂けた傷口が熱を持つ。
それでも、横になっているよりは外を見たかった。
灰境の村。
アルフレッドが領主となった場所。
自分が、ようやく辿り着いた場所。
窓から見える景色は、決して美しいものではなかった。
傾いた家。
壊れかけた柵。
草に覆われた道。
遠くには、灰色の森。
王都の屋敷と比べれば、あまりにも貧しく、何もない。
けれど。
窓の外からは、子どもたちの声が聞こえる。
井戸では女たちが話しながら水を汲んでいる。
男たちは倒れかけた柵へ新しい支柱を当てていた。
誰かが誰かへ命令しているのではない。
皆が、自分たちの村を守るために働いている。
「……家」
セルマは、小さく呟いた。
その言葉を口にした途端。
首輪がわずかに熱を持った。
「っ……」
セルマの左手が首元へ向かう。
触れる寸前で止める。
昨夜、ガルドに言われたことを思い出した。
術式を刺激するかもしれない。
赤い文字は今も消えていない。
目で見えるほど強くはないが、首輪の奥から一定の間隔で熱が伝わってくる。
誰かへ。
自分の居場所を知らせ続けている。
「セルマ?」
薬草を整理していたマルタが振り返る。
「首が痛むのかい?」
「少しだけです」
「見せな」
「大丈夫です」
「大丈夫かどうかは、わたしが決める」
アルフレッドと同じ言葉を使った少女に、マルタは呆れたような顔をした。
首輪の周囲には、昨日より濃い赤みが広がっている。
「熱を持ってるね」
「よくあることです」
「よくあっていいもんじゃないよ」
マルタは水で冷やした布を首輪の下へ挟もうとする。
だが布が金属へ触れた瞬間。
ぱちり。
小さな火花が散った。
「危ない!」
セルマが身体を引く。
布の端が黒く焦げていた。
マルタは眉を寄せる。
「随分と性格の悪い首輪だね」
「逃げないようにするための物ですから」
「逃げた奴を殺したら、連れ戻せないだろうに」
「所有者が望めば、殺すこともできます」
マルタの手が止まる。
「……そんな物を、ずっと着けていたのかい?」
セルマは答えなかった。
答える必要がないと思っていた。
奴隷なら当然のこと。
命を握られることも。
痛みを与えられることも。
命令に従わなければ、捨てられることも。
それを不思議に思う方がおかしい。
けれどマルタの顔には、当然だという色はなかった。
怒っていた。
セルマを責めるのではなく。
首輪を作り、使った者に対して。
「外す方法は見つけるよ」
「無理です」
「どうして言い切れる」
「何人も、外そうとした奴隷を見ました」
「その者たちは?」
セルマは目を伏せた。
マルタは、それ以上聞かなかった。
「それでもだ」
静かに言う。
「ここでは、諦める理由にはならない」
セルマは窓の外を見た。
広場の端で、アルフレッドがエッダと話している。
何かを説明され、慌てて帳面へ書き込んでいる。
領主らしくは見えない。
けれど、あの少年は確かに言った。
ここにいていい、と。
自分を追い返さない、と。
「アルフレッド様へ、危険が及びます」
「なら皆で考える」
「私一人のために?」
「一人だから捨てていいなんて、誰が決めたんだい」
マルタは立ち上がる。
「少なくとも、この家ではわたしが決める」
「……はい」
「だから今は寝な」
「はい」
「返事はいいね」
「アルフレッド様も、よく言われています」
「似た者同士だよ、まったく」
⸻
日が完全に沈む前。
ガルドは村の男たちを集めた。
場所は、西側の柵の前だった。
昨日、アルフレッドが修繕した場所だけが、新品のような形を保っている。
その左右には、補強のための杭が打たれ、縄が巻かれていた。
「今夜は見張りを増やす」
ガルドが言う。
「森狼がまた来るからか?」
ベルンが尋ねる。
「それもある」
「ほかにも?」
「人が来るかもしれん」
村人たちの表情が変わった。
「誰だ」
グレゴールが弓を抱え直す。
「セルマを追ってる連中だ」
「奴隷の娘を?」
「ああ」
「村へ入れるのか?」
誰かが尋ねた。
ガルドは即答しなかった。
代わりに、バルドを見る。
ここはアルフレッドの領地。
だが同時に、長年この場所で暮らしてきた者たちの村でもある。
「正面から来て、事情を話すなら話は聞く」
バルドは杖を地面へついた。
「夜中に忍び込むなら、賊と同じじゃ」
「相手が貴族の使いでもか?」
「貴族の使いなら、なおさら名乗ればよい」
老人の声は静かだった。
「武器を持って隠れて来る者を、客とは呼ばん」
グレゴールが頷く。
「東の柵は俺が見る」
「脚は大丈夫か?」
「昨日よりましだ」
「無理をするな」
「領主様に言ってやれ」
それを聞いた男たちの間から、低い笑いが漏れた。
「俺が北へ行く」
ベルンが言う。
「西は開拓隊の護衛が見る。南は村の若い連中で二人一組だ」
ガルドは村人たちの顔を見回した。
「一人で動くな」
「相手を見つけても、すぐ近づくな」
「合図は鳥笛を三回」
「相手が何者でも、まず村の中へ入れない」
そして最後に。
「アル坊には言うな」
そう付け加えた。
「なぜだ?」
「外へ出てくるからだ」
誰も反論しなかった。
⸻
夜。
アルフレッドはマルタの家で、ノエルがまとめた村の名簿を見ていた。
昨日聞いた二十二人の名前。
年齢。
仕事。
家族関係。
体調。
できること。
できなくなったこと。
一人ひとりの情報が、簡潔に書き込まれている。
「バルドさん。六十三歳。村のまとめ役」
アルフレッドは声に出す。
「マルタさん。五十七歳。薬師と産婆」
「グレゴールさん。四十五歳。元猟師。左脚に古傷」
「エッダさん。三十四歳。木工と家の修理。リーナちゃんのお母さん」
「リーナちゃん。九歳」
机の向こうで、マルタが薬草を刻んでいる。
「覚えてどうするんだい」
「名前を間違えないようにします」
「別に一度くらい間違えても、誰も怒りゃしないよ」
「でも、覚えるって言いました」
「本当に変なところで頑固だね」
「そうですか?」
「そうだよ」
寝台のセルマは、目を閉じていた。
眠っているように見える。
だが、アルフレッドには分かっていた。
起きている。
呼吸が少しだけ浅いからだ。
「セルマ」
「……はい」
「やっぱり起きてた」
「申し訳ありません」
「謝らなくていいよ」
アルフレッドは帳面を閉じた。
「首は痛い?」
「大丈夫です」
「それはマルタさんが決めるんだよ」
「お前が言うんじゃないよ」
すぐにマルタから注意される。
セルマの口元が、ほんのわずかに動いた。
笑ったのかもしれない。
そのときだった。
村の外で。
ひゅう。
短い鳥の鳴き声がした。
続けて。
ひゅう。
ひゅう。
三回。
マルタの手が止まった。
セルマの右目が大きく開く。
「何の音?」
アルフレッドが尋ねる。
「夜鳥だよ」
マルタは何でもないように答えた。
「同じ声が三回?」
「そういう鳥もいる」
「嘘です」
「なぜ分かるんだい」
「マルタさん、包丁を持ち直したから」
薬草を刻んでいたはずの小刀が、いつの間にか逆手へ持ち替えられている。
マルタは黙った。
「誰か来たんですね」
アルフレッドが立ち上がる。
「座ってな」
「でも」
「外はガルドたちに任せる」
「誰が来たんですか?」
「分からない」
「セルマの追手です」
寝台から、セルマが言った。
「セルマ?」
「この首輪が……」
赤い光が強くなっている。
昨夜まで静かに明滅していた文字が、今は鼓動のように速く光っていた。
「近くにいます」
セルマの声が震える。
「所有者の命令を伝える道具が」
首輪から。
低い音が鳴った。
きぃん。
金属を細く擦るような音。
セルマの身体が強張る。
「セルマ?」
「来ます……!」
次の瞬間。
首輪の赤い文字が、一斉に光った。
「ああっ……!」
セルマが喉を押さえ、寝台の上で身体を折る。
「セルマ!」
アルフレッドが駆け寄る。
「触っちゃ駄目だよ!」
マルタが止める。
だがセルマの首元から、薄い煙が上がり始めた。
皮膚へ焼けた線が浮かび、赤い光が胸の奥へ伸びていく。
「命令です……」
苦しみながら、セルマが声を絞り出す。
「外へ……出ろと……」
「出なくていい!」
「身体が……勝手に……」
少女の左脚が寝台から下りる。
立てる状態ではない。
それでも首輪の術式が、身体へ無理やり命令を送っていた。
セルマの左手が床へつく。
傷ついた足で立ち上がろうとする。
「セルマ!」
「来ないで……ください」
「そんなの無理だよ!」
アルフレッドは少女の肩を支えた。
首輪から火花が飛ぶ。
腕へ焼けるような痛みが走った。
「アルフレッド!」
マルタが叫ぶ。
「離れな!」
「嫌です!」
セルマの身体は震えている。
右腕がないため、身体を支えることもできない。
左目を覆う布の下から汗が流れ、床へ落ちた。
「《修繕》では……」
壊れているのは何だ。
セルマの身体。
首輪の術式。
命令へ逆らおうとする意志。
何を直せばいい。
分からない。
それなら。
アルフレッドは首輪を見る。
セルマのものではない命令。
外から入り込んでいる力。
身体を支配しようとする異物。
「あれと同じだ」
森狼の顔へ絡みついていた、灰色の菌糸。
本来、そこにあるべきではないもの。
「《清掃》」
アルフレッドの手から、淡い光が広がる。
「駄目だ!」
家の外から、ガルドの声が聞こえた。
しかし、もう止められない。
光は首輪そのものではなく。
赤く明滅する文字へ集まった。
「消えて……!」
首輪を消すのではない。
セルマの身体を壊すのでもない。
今、この瞬間。
外から送り込まれている命令だけを。
「セルマから、出ていけ!」
赤い光と白い光がぶつかった。
ぱんっ!
乾いた音が響く。
部屋の蝋燭がすべて消えた。
暗闇。
セルマの身体から力が抜ける。
「セルマ!」
アルフレッドが受け止める。
二人はそのまま床へ倒れ込んだ。
「何が起きた!」
扉が開き、ガルドが飛び込んでくる。
その後ろにはマルク。
灯りを持ったグレゴール。
「命令が……」
セルマが荒い息をつく。
「消えました」
「首輪は?」
ガルドが灯りを近づける。
黒い金属輪は残っている。
赤い文字も消えていない。
だが、先ほどまで激しく明滅していた光は弱まり、細い煙も止まっていた。
「アル坊」
ガルドが低い声で呼ぶ。
アルフレッドは床へ座り込んだまま、セルマの身体を支えている。
「勝手に使ったな」
「ごめんなさい」
「今度は何をした」
「外から来てた命令だけ、きれいにしました」
「そんなことができるのか?」
「分かりません」
「今やっただろうが!」
「できると思ってやったんじゃなくて、やらないとセルマが連れていかれそうだったから……」
ガルドは額へ手を当てた。
「頭は痛むか」
「少し」
「吐き気」
「ないです」
「手足は」
「動きます」
「なら説教はあとだ」
「やっぱりするんですね」
「当然だ!」
⸻
村の北側。
二つの人影が、柵の陰を進んでいた。
一人は長身の男。
短く刈った黒髪。
革鎧の上から黒い外套を羽織り、腰には細身の剣を下げている。
もう一人は小柄で、片手に金属盤を持っていた。
盤の赤い針は、村の中心を指している。
「命令が切れた」
小柄な男が呟く。
「何?」
「首輪との接続が、一瞬消えた」
「破壊されたのか?」
「いや。位置はまだ分かる」
金属盤の針は動いている。
だが先ほどまで光っていた術式の一部が、黒く焦げていた。
「奴隷本人に、そんな力はない」
「なら、四男坊か」
「報告以上だな」
長身の男が剣の柄へ手を掛ける。
「連れ戻す」
「奥方の命令は確認だけだ」
「奴隷は回収しろとも言われている」
「村には開拓局の護衛がいる」
「二人もいれば足りる」
「油断するな。昨日、森狼の死骸があった」
長身の男は低く笑った。
「灰境の農民に何ができる」
その言葉が終わる前に。
男の足元で、縄が跳ね上がった。
「なっ――」
足首へ絡みつく。
強く引かれ、長身の男の身体が地面へ倒れた。
同時に。
「動くな」
暗闇の中から、グレゴールの声がした。
弓につがえた矢が、小柄な男の胸を狙っている。
「伏兵だと?」
小柄な男が金属盤を外套へ隠そうとする。
「手を上げろ」
今度はベルンの声。
柵の内側と外側。
左右の物陰。
複数の松明が、一斉に灯された。
ガルドの護衛たち。
村の男たち。
合わせて十人近い者が、二人を囲んでいる。
「灰境の農民を舐めたな」
グレゴールは弓を引き絞った。
「村に入る前から見えてたぞ」
「貴様ら」
長身の男が縄を切ろうとする。
その腕へ。
矢が突き刺さった。
「ぐっ!」
「次は喉だ」
グレゴールの声は冷たかった。
「剣から手を離せ」
男は舌打ちしながら、ゆっくりと手を上げる。
小柄な男も金属盤を地面へ置いた。
そのとき。
村の南側で、木の板が激しく鳴った。
がたんっ!
「もう一人いる!」
ベルンが振り返る。
暗闇の中。
三つ目の影が柵を越え、森へ走っていく。
「聞いていた人数と違うぞ!」
エリックが追おうとする。
「深追いするな!」
ガルドの声が飛ぶ。
「森の中へ誘い込まれる!」
逃げた人影は、すぐに木々の闇へ消えた。
残された二人の男が、わずかに笑う。
「一人逃げれば十分だ」
長身の男が言った。
「何がだ」
ガルドが近づく。
「アルフレッド様が生きて灰境へ着いた」
「逃亡奴隷も、ここにいる」
「それが伝われば、俺たちの役目は半分終わりだ」
ガルドは男を見下ろす。
「誰の命令だ」
「答えると思うか?」
「答えなくても分かる」
男の外套を開く。
内側には、黒い鳥をかたどった小さな金属章が縫い付けられていた。
ヨーレリヒト家の正式な紋章ではない。
だがガルドには見覚えがあった。
貴族が表では使えない仕事を任せる、裏の者たち。
「アーデルハイト夫人か」
男は何も答えなかった。
その沈黙だけで十分だった。
「縛れ」
ガルドが命じる。
「武器も道具も全部取り上げろ」
「俺たちを捕らえれば、どうなるか分かっているのか」
「さあな」
「貴族家の命令に逆らったと、王都へ報告されるぞ」
その言葉に、村人たちの表情が強張った。
相手はただの賊ではない。
王都の貴族家から送られた者。
逆らえば、この小さな村が責任を問われるかもしれない。
グレゴールの弓が、わずかに下がる。
ベルンもバルドを見た。
長身の男は、その動揺を見逃さなかった。
「今なら見逃してやる」
「奴隷を渡せ」
「そうすれば、この村へ危害は加えない」
誰もすぐには答えなかった。
夜風が吹く。
松明の炎が揺れる。
「その娘は、もともとヨーレリヒト家の所有物だ」
男は続ける。
「お前たちには関係がない」
「関係あるよ」
村の中から、少年の声がした。
ガルドが勢いよく振り返る。
「アル坊!」
「外へ出てくるなと言っただろうが!」
「聞いてません」
「言わなかったからな!」
「じゃあ、約束を破ってません」
「そういう話じゃねえ!」
アルフレッドはマルタの家から歩いてきた。
顔色は少し悪い。
その後ろにはマルタとノエル。
セルマは家の中へ残されている。
「お前がアルフレッドか」
長身の男が言う。
敬称はなかった。
「はい」
「奴隷を渡せ」
「嫌です」
アルフレッドは即答した。
「お前に決める権利はない」
「ここは僕の領地です」
「奴隷の所有権とは別だ」
「セルマは物じゃありません」
「王国法では財産として――」
「知りません」
男の眉が動く。
「法を知らずに領主を名乗るか」
「知らないことは勉強します」
アルフレッドは真っ直ぐに男を見る。
「でも、人を物みたいに渡すことはしません」
「そのせいで、この村が危険に晒されてもか?」
アルフレッドの表情が揺れた。
男はそこを突いた。
「お前一人の我儘で、二十二人の命を巻き込むつもりか」
「奴隷一人を渡せば済む」
「それで村は守られる」
「本当にそうですか?」
アルフレッドが尋ねる。
男は一瞬、言葉を止めた。
「セルマを連れ戻すだけなら、どうして僕が灰境へ着いたか確かめるんですか?」
男の目が細くなる。
「どうして、夜まで待ったんですか?」
「どうして名乗らず、柵を越えようとしたんですか?」
「それは――」
「僕たちへ危害を加えない人は、隠れて村へ入りません」
十二歳の少年の言葉。
けれど、その場にいた大人たちは何も言えなかった。
アルフレッドは村人たちを見る。
「僕は、まだ何も分かりません」
「領主として、どうすれば正しいのかも」
「セルマを守ったせいで、皆さんが危なくなるかもしれない」
そこで言葉を止める。
逃げずに、村人たちの顔を見た。
「だから、僕一人では決めません」
長身の男が笑った。
「領主が領民に判断を委ねるのか?」
「皆さんの命に関わることだからです」
アルフレッドはバルドへ向き直る。
「バルドさん」
「なんじゃ」
「セルマを渡した方がいいと思いますか?」
村人たちが老人を見る。
バルドは長く黙っていた。
自分たちは王国に忘れられた。
領主は何人も逃げた。
貴族へ逆らえば、今度こそ何もかも奪われるかもしれない。
それでも。
老人は捕らえられた男を見る。
「わしらは、灰境で暮らしてきた」
「はい」
「魔物にも、冬にも耐えた」
「はい」
「王国の助けなど、ほとんど来なんだ」
杖を強く地面へつく。
「それが今さら、夜中に柵を越えて娘を連れ去る者を寄越した」
バルドの声に、静かな怒りが混じる。
「そんな者の言葉を信じて、村が守られると思うほど、わしらは愚かではない」
長身の男の顔から、笑みが消えた。
「バルドさん」
「その娘がどこの誰であろうと」
老人は続ける。
「今は村の中で傷を治しておる」
「傷ついた者を、夜中に来た武装した男へ渡すほど」
「灰境の者は落ちぶれておらん」
「そういうことだ」
グレゴールが弓を上げ直した。
「次は外すなよ」
ベルンが隣で言う。
「最初から外してねえ」
男たちが笑う。
大きな笑いではない。
恐怖が消えたわけでもない。
それでも。
誰一人として、セルマを渡せとは言わなかった。
アルフレッドは胸の奥が熱くなるのを感じた。
「ありがとうございます」
深く頭を下げる。
「頭を下げるのは後じゃ」
バルドが言った。
「まず、こいつらをどうするか決めよ」
「はい」
「それと」
老人の目が、アルフレッドの青白い顔へ向く。
「また力を使ったな?」
「どうして分かったんですか?」
「顔を見れば分かる」
「皆それを言う……」
「今度は村全員から説教じゃな」
アルフレッドの顔が引きつった。
⸻
二人の追手は、村の石蔵へ入れられた。
武器。
暗器。
毒。
金属盤。
すべて取り上げられる。
手足は縄で縛られ、開拓隊の護衛と村人が交代で見張ることになった。
逃げた一人については、追わなかった。
夜の灰の森へ入る危険の方が大きいからだ。
「王都へ報告は必要です」
ノエルが言う。
場所は、マルタの家。
アルフレッド。
ガルド。
バルド。
ノエル。
マルタ。
そして寝台のセルマ。
狭い部屋へ、全員が集まっていた。
「開拓局の職員が同行している以上、隠すことはできません」
「隠せとは言わねえ」
ガルドが答える。
「侵入者を捕らえたと書け」
「ヨーレリヒト家の関係者である可能性も?」
「可能性じゃなく、ほぼ確定だ」
「では、そのように」
ノエルは帳面へ記していく。
「捕虜の扱いはどうしますか?」
「明日、話を聞く」
「拷問は認められません」
「誰もするとは言ってねえ」
「隊長は、昔そういう仕事もしていたと聞いております」
「誰から聞いた」
「開拓局の資料です」
「あいつら、余計なことまで書きやがって」
ガルドは不機嫌そうに腕を組んだ。
「まずは持ち物を調べる」
「それから、逃げた一人が戻る可能性に備える」
「村の警戒は続ける」
「開拓隊の帰還は?」
「延期だ」
ノエルの筆が止まった。
「正式な許可なく?」
「新領主の安全が確認できねえ」
「帰還期限を越えれば、責任問題になります」
「俺が取る」
「隊長だけの問題ではありません」
「分かってる」
ガルドはアルフレッドを見る。
「少なくとも、あの連中の目的が分かるまでは残る」
「でも、ガルドさんたちにも仕事が――」
「今のお前を置いて帰ったら、それこそ仕事をしてねえ」
「……ありがとうございます」
「礼はいい」
「代わりに明日は一日、スキル使用禁止だ」
「一日?」
「不満か」
「せめて半日」
「一日だ」
「領主館の椅子だけでも」
「禁止」
「柵は?」
「禁止」
「首輪がまた――」
アルフレッドの言葉に、ガルドは少しだけ黙った。
「セルマの命に関わる場合だけ、相談して使え」
「相談している間に間に合わなかったら?」
「……そのときは、自分で判断しろ」
「はい」
「ただし倒れる前に止めろ」
「分かりました」
「その返事は信用できねえ」
「では、どう答えれば?」
「行動で示せ」
「難しいですね……」
⸻
話し合いが終わると、皆が少しずつ部屋を出ていった。
マルタは捕虜の腕へ刺さった矢を抜くため、石蔵へ向かう。
バルドは村の見張りを確認する。
ガルドとノエルは、取り上げた道具を調べるため別の家へ移った。
部屋に残ったのは。
アルフレッドとセルマだけだった。
蝋燭の炎が、静かに揺れている。
「ごめんなさい」
セルマが言った。
「どうして?」
「私が来たから、追手が」
「セルマが来なくても、あの人たちは僕を確認しに来たよ」
「ですが」
「それに」
アルフレッドは寝台の横へ座る。
「皆さんが、セルマを渡さないって言ってくれた」
「……はい」
「僕、嬉しかった」
「私は、この村の者ではありません」
「これからなればいいよ」
セルマは目を伏せる。
「簡単に言わないでください」
「簡単じゃない?」
「私は奴隷です」
「首輪があるだけだよ」
「右腕もありません」
「うん」
「左目も」
「うん」
「満足に働けません」
「今は怪我を治すのが仕事だよ」
「仕事とは呼びません」
「マルタさんは、患者が休むのも治療だって言ってた」
「それは……」
「それに、僕も昨日から何度も休めって言われてる」
「アルフレッド様は、働きすぎです」
「セルマも歩きすぎだよ」
互いに言い合い。
二人は同時に黙った。
それからアルフレッドが笑う。
「やっぱり似てるのかな」
「何がですか?」
「マルタさんに、似た者同士だって言われた」
「私は、アルフレッド様のように無茶はしません」
「灰境まで一人で歩いて来た人が言う?」
セルマは答えられなかった。
「だから」
アルフレッドは続ける。
「一緒に、無茶しないようにしよう」
「……はい」
「約束」
小指を差し出す。
セルマは、その指を不思議そうに見た。
「これは?」
「約束するときにするんだよ」
「貴族の作法ですか?」
「違うと思う」
前世の記憶。
どこで覚えたのかは曖昧だった。
セルマは少し迷いながら、左手の小指を絡める。
「無茶をしない」
アルフレッドが言う。
「できないときは、誰かに頼る」
「はい」
「一人でいなくならない」
セルマの指が、わずかに震えた。
「……はい」
「僕も勝手に一人で動かない」
「それは必ず守ってください」
「そこだけ強いね」
「一番心配だからです」
二人は小指を離す。
首輪はまだ残っている。
追手も一人逃げた。
明日から何が起きるのか、分からない。
それでも。
セルマが帰る場所は、少しずつ形になり始めていた。
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村から離れた灰の森。
逃げた男は、木々の間を走り続けていた。
枝が外套へ引っ掛かる。
泥に足を取られる。
それでも止まらない。
仲間が捕まった。
予想外だった。
開拓局の護衛だけではない。
村人まで武器を持っていた。
何より。
十二歳のアルフレッドが、首輪から送った命令を消した。
「アーデルハイト様へ……」
報告しなければならない。
少年は生きている。
灰境へ到着した。
逃亡奴隷も合流した。
そして、不遇と笑われた《清掃》は。
ただ汚れを落とすだけの力ではない。
男は懐から、小さな黒い筒を取り出した。
王都へ伝書鳥を飛ばすための呼び笛。
口元へ運ぼうとした、そのとき。
森の奥で。
何かが動いた。
「誰だ」
男は立ち止まり、短剣を抜く。
返事はない。
木々の隙間。
暗闇の中に、二つの光が浮かんでいた。
獣の目。
森狼か。
そう思った瞬間。
右。
左。
さらに奥。
いくつもの光が、一斉に灯る。
「くそっ」
男は背を向けて走り出した。
だが。
木の根元から、灰色の菌糸が伸びる。
足首へ絡みついた。
「なっ――」
身体が地面へ倒れる。
黒い筒が手から離れ、落ち葉の中へ転がった。
男は短剣を振り回す。
「離せ!」
菌糸を切る。
一本。
二本。
しかし切られた先から、さらに細い糸が伸びてくる。
腕へ。
首へ。
口元へ。
「やめろ……!」
男の悲鳴が、灰の森へ響く。
けれど。
村まで届くことはなかった。
やがて森は、再び静かになった。
落ち葉の上には。
赤い印のついた伝書筒だけが残されていた。
その周囲を。
灰色の菌糸が、ゆっくりと覆い始めていた。
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第16話 夜の来訪者 了




