壊れた領主館
第二章 灰境
第15話 壊れた領主館
前書き
家は、
屋根と壁だけでできているわけではありません。
雨を防ぎ、
風を防ぎ、
疲れた人が帰ってくる。
そんな場所になって初めて、
建物は家になります。
たとえ今は、
壊れかけていたとしても。
⸻
翌朝。
アルフレッドが目を覚ますと、窓の外はまだ薄暗かった。
灰境の朝は、王都よりも静かだった。
馬車の音もない。
遠くで鳴る鐘もない。
聞こえてくるのは、風に揺れる木々の音と、どこかの家で薪を割る乾いた音だけ。
アルフレッドは床へ敷いた毛布の上で身体を起こした。
少しだけ頭が重い。
けれど、昨日のような目眩はなかった。
すぐ横の寝台では、セルマが眠っている。
夜のうちに熱は少し下がったらしい。
頬にはまだ苦しそうな色が残っているが、呼吸は昨日よりも深く、規則正しくなっていた。
左手は毛布の外へ出ている。
アルフレッドはその手へ触れようとして、途中で止めた。
眠っているなら、起こさない方がいい。
「起きたなら、まず水を飲みな」
奥の部屋からマルタの声がした。
「はい」
机の上には、昨夜のうちに用意されていた木の杯がある。
アルフレッドが水を飲んでいると、薬草の束を抱えたマルタが出てきた。
「頭は?」
「少し重いです」
「吐き気は?」
「ないです」
「手足は動く?」
アルフレッドは両手を握り、足の指を動かした。
「動きます」
「なら、昨日よりはましだね」
マルタはセルマの額へ手を当てる。
「この娘も、熱は下がり始めてる」
「助かりますか?」
「昨日も言っただろう」
「セルマが生きることを諦めなければ、ですよね」
「覚えてたのかい」
「大事なことなので」
マルタは小さく息を吐いた。
「今のところ、すぐに命がどうこうという状態ではないよ。ただし、傷が多い。身体も弱り切ってる」
「どれくらい休めばいいですか?」
「最低でも数日は寝かせる」
「数日で動けるんですか?」
「動けるのと、動いていいのは別の話だよ」
「分かりました」
「あんたも同じだからね」
「僕も?」
「昨日倒れたことを、もう忘れたのかい?」
「忘れてません」
「なら今日は、力を使わない」
「少しなら――」
「使わない」
「見るだけなら?」
「何をだい」
「領主館です」
マルタの手が止まった。
「……あれを見に行くのかい?」
「僕の家になる場所なので」
「昨日見ただろう。壊れてたじゃないか」
「遠くからしか見てません」
「近くで見ても壊れてるよ」
「どこが壊れているか、分からないと直せません」
マルタはしばらくアルフレッドを見つめた。
やがて諦めたように肩を落とす。
「一人では行かない」
「はい」
「ガルドかバルドを連れていく」
「はい」
「勝手に《修繕》を使わない」
「……はい」
「今、間があったね」
「使う前に相談します」
「最初からそう言いな」
⸻
マルタの家を出ると、村はすでに動き始めていた。
男たちは昨日壊れた柵を調べ、女性たちは井戸から水を汲んでいる。
修繕された滑車は今朝も滑らかに回り、桶を軽々と引き上げていた。
「領主様!」
井戸のそばにいたリーナが、アルフレッドを見つけて駆けてくる。
「もう起きていいの?」
「少しだけなら」
「頭、痛くない?」
「ちょっとだけ」
「じゃあ、走っちゃ駄目だよ」
「うん」
「転んじゃ駄目だよ」
「気をつけるね」
「また倒れちゃ駄目だよ」
「それは頑張る」
そこまで言うと、後ろからエッダがやって来た。
「こら、リーナ。領主様に偉そうに言わないの」
「でも昨日倒れたよ?」
「それはそうだけど……」
エッダは困ったようにアルフレッドへ頭を下げる。
「申し訳ありません」
「大丈夫です。全部そのとおりだから」
アルフレッドが答えると、リーナは得意そうに胸を張った。
「ほら!」
「ほら、じゃないよ」
エッダは娘の肩をつかみ、井戸の方へ連れ戻す。
その様子を見ながら歩いていると、村の入口からガルドが戻ってきた。
腰には剣。
肩には外套。
朝早くから周囲を見回っていたらしい。
「起きたのか、アル坊」
「はい」
「身体は?」
「大丈夫です」
「それはマルタが決める」
「少しなら歩いていいと言われました」
「少し、だぞ」
「領主館を見に行きます」
ガルドの眉が動いた。
「今からか?」
「はい」
「休む気はねえのか」
「歩くだけです」
「お前の歩くだけは信用ならねえ」
「力を使う前に相談します」
「使わねえとは言わないんだな」
「直せるところがあったら、直したいので」
ガルドは大きく息を吐いた。
「俺も行く」
「ありがとうございます」
「礼を言うところじゃねえ。監視だ」
⸻
領主館は、村の北東にある小高い丘の上へ建っていた。
村の広場から見れば、それほど遠くない。
だが、丘へ続く道は草と蔦に覆われていた。
かつては石を敷いた道だったらしい。
地面のところどころから、苔に覆われた平たい石が顔を出している。
「最後に人が住んでいたのは、いつですか?」
アルフレッドが尋ねる。
一緒に来たバルドが、杖で蔦を払いながら答えた。
「十年以上前じゃ」
「前の領主様?」
「前の前じゃな」
「前の人は?」
「村の空き家へ入った」
「どうして領主館を使わなかったんですか?」
「屋根が落ちとったからじゃ」
「その人は直さなかったんですか?」
「三日で帰った」
「三日……」
「魔物の声が聞こえたと言ってな」
「村に住んでいる人は、毎日聞いているのに?」
「ああ」
バルドは感情のない声で答えた。
「その前の領主は十二日。その前は一か月ほどおった」
「一番長くいた人は?」
「二年じゃ」
「その人はどうなりました?」
「冬に病で死んだ」
アルフレッドは足を止めた。
「ここで?」
「ああ」
「家族は?」
「王都へ帰った」
「お墓はありますか?」
「村の西にある」
「あとで、お参りしたいです」
バルドは一瞬だけアルフレッドを見た。
「知り合いでもないじゃろう」
「僕より前に、ここで領主をしていた人ですから」
「……そうか」
それ以上、バルドは何も言わなかった。
⸻
丘の上へ着くと、領主館の全体が見えた。
「わあ……」
アルフレッドは思わず声を漏らす。
「遠くから見るより壊れてるね」
「だから言っただろうが」
ガルドが呆れたように答えた。
もともとは二階建ての石造りだったらしい。
正面には幅の広い階段。
その上には、半分外れた木製の扉。
左右へ伸びる建物のうち、西側は比較的形を保っている。
しかし東側は屋根が完全に落ち、二階の壁も一部崩れていた。
窓には硝子がない。
枠から蔦が伸び、建物の内側へ入り込んでいる。
庭だった場所には背の高い草が生え、倒れた石像が半分埋まっていた。
「ここに住む気か?」
ガルドが尋ねる。
「僕の領主館なんでしょう?」
「形だけはな」
「なら住みます」
「簡単に言うな。崩れるかもしれねえぞ」
「だから調べます」
アルフレッドは正面階段へ足を掛けた。
石の一部がぐらりと揺れる。
「止まれ」
ガルドが襟をつかみ、後ろへ引き戻した。
「今、踏んだところが沈んだぞ」
「少しだけです」
「少し沈む階段は危ねえんだよ」
ガルドは剣の鞘で石段を何度か叩いた。
表面は残っているが、その下の土が流れ、空洞になっている。
「横から入るぞ」
「入口があるんですか?」
「壁に大きな穴が開いてる」
「それは入口って言うのかな……」
⸻
西側の壁には、人が一人通れるほどの穴が開いていた。
崩れた石が地面へ積み重なっている。
ガルドが先に入り、天井と床を確認する。
「足元に気をつけろ」
「はい」
「上も見るんだ」
「はい」
「何か音がしたら、すぐ外へ出ろ」
「はい」
「返事だけはいいな」
建物の中は薄暗かった。
割れた窓から差し込む朝日が、舞い上がる埃を照らしている。
床には枯れ葉。
動物の足跡。
鳥の羽。
壁際には、壊れた棚や椅子が積み上がっていた。
「ここは何の部屋だったんですか?」
「客間だったはずじゃ」
バルドが答える。
「昔は村の相談事も、ここで聞いとった」
アルフレッドは室内を見回した。
天井の一部は黒く変色している。
雨漏りの跡。
壁には緑色の苔。
床板の隙間から、小さな草まで生えていた。
「《清掃》なら――」
「待て」
ガルドが即座に止める。
「何を見る」
「まず、この部屋に何が残っているかです」
「埃を取るだけか?」
「はい」
「壁や天井へは使うな」
「どうして?」
「腐った梁まできれいにしたつもりで、支えを消したらどうする」
アルフレッドは目を瞬いた。
「そんなことになるかな?」
「ならねえ保証があるか?」
「……ありません」
「なら、小さな範囲からだ」
「分かりました」
アルフレッドは入口近くの床へ手をかざした。
「《清掃》」
淡い光が、足元から円を描くように広がる。
ただし昨日のように、部屋全体を一気に包もうとはしない。
自分の周囲。
手が届く程度の範囲だけ。
床に積もった埃が薄くなっていく。
枯れ葉や動物の糞が一か所へ集まり、黒ずんだ汚れが剥がれた。
その下から、本来の床板が姿を現す。
「止めろ」
ガルドが言った。
アルフレッドはすぐに力を止めた。
「身体は?」
「大丈夫です」
「頭は?」
「痛くないです」
「なら、少し休め」
「まだこれだけですよ?」
「これだけで休む癖をつけろ」
「……はい」
バルドが清掃された床へ杖を置き、軽く押した。
「ここは生きとるな」
「使えますか?」
「床板はな。じゃが、その先は駄目じゃ」
少し奥。
汚れの下から現れた床板には、大きな腐食が広がっている。
アルフレッドが近づこうとすると、ガルドが肩をつかんだ。
「踏むな」
「分かってます」
「今、踏もうとしただろ」
「少し見たかっただけです」
「目は足より前についてる。そこから見ろ」
⸻
客間を出て、建物の内部を順番に調べていく。
厨房。
食堂。
倉庫。
使用人の部屋。
どこも荒れていた。
それでも、西側の一階部分は完全に崩れてはいない。
「ここなら使えそうです」
アルフレッドが足を止めたのは、食堂だった。
客間より広い。
長い卓は壊れているが、壁と天井は残っている。
窓枠も半分ほど無事だった。
「どう使うつもりだ?」
「皆さんが集まれる部屋にします」
「領主の食堂だぞ」
「二十二人なら入れるでしょう?」
「入れるかどうかの話じゃねえ」
「村の相談とか、開拓の話をする場所が必要です」
アルフレッドは部屋の中央へ立った。
「昨日は外でご飯を食べました。でも雨が降ったら、皆で集まれません」
「集会所がある」
バルドが言った。
「子どもと老人を避難させた石蔵じゃ」
「狭くないですか?」
「狭い」
「冬は?」
「寒い」
「なら、ここを直した方がいいです」
ガルドがアルフレッドを見る。
「自分の部屋より先にか?」
「僕はマルタさんの家の床でも寝られます」
「マルタ婆さんが迷惑する」
「誰が婆さんだい」
来ていないはずのマルタの声が聞こえた気がして、三人は一瞬黙った。
「……とにかく」
アルフレッドは続ける。
「一人で使う部屋より、皆さんが使う部屋の方が先です」
「また格好いいことを言って倒れるんじゃねえぞ」
「今回は一人で直しません」
「どうする」
「皆さんに手伝ってもらいます」
アルフレッドは床へ転がっていた壊れた椅子を持ち上げる。
片脚が外れている。
背もたれには亀裂が入り、座面は埃だらけだった。
「まず、使えるものと使えないものを分けます」
「ほう」
「汚れは僕が《清掃》します。でも全部を一度にはしません」
「それから?」
「木材や石を運ぶのは、皆さんにお願いします」
「修繕は?」
「大きく壊れた場所には、先に新しい材料を入れてもらいます」
アルフレッドは椅子の外れた脚を元の位置へ合わせる。
「僕の《修繕》だけで、何もないところから全部作るのは無理です」
試すように、椅子へ意識を向ける。
欠けた木片。
外れた脚。
緩んだ接合部。
残っているもの同士を、元の形へ戻す。
「《修繕》」
淡い光が椅子を包む。
外れていた脚が座面へ引き寄せられた。
亀裂が少しずつ閉じる。
表面の細かな欠けまでは戻らない。
失われた部分が多すぎるからだ。
それでも椅子は、再び四本の脚で立った。
アルフレッドは手を離す。
「完成ではないです」
椅子を軽く揺らす。
少し軋む。
「でも、補強すれば使えます」
バルドが椅子を確かめた。
「壊れたものを直すのではなく、直せる状態へ戻すのか」
「たぶん、そういうこともできます」
「たぶんか」
「まだ分からないことが多いので」
ガルドは椅子を見ながら頷いた。
「その考えなら悪くねえ」
「本当?」
「何でも自分一人でやろうとしないならな」
「昨日、教えてもらったので」
「昨日一日で忘れなかったのは褒めてやる」
「ありがとうございます」
「だが今日は、もうスキルを使うな」
「椅子一つだけですよ?」
「一つ使ったから終わりだ」
「少なすぎませんか?」
「昨日使いすぎた分だ」
「……分かりました」
⸻
三人が館の外へ出ると、丘の下から数人の村人が上がってきた。
先頭にいるのはエッダだった。
肩に斧。
腰には縄と小さな金槌。
その後ろにはグレゴールと、何人かの若者が続いている。
「エッダさん?」
「領主館を見ると聞きました」
エッダは建物を見上げる。
「中へ入ったんですか?」
「はい」
「天井が落ちるかもしれないのに?」
「ガルドさんが先に確認してくれました」
「全部は確認できてねえ」
ガルドが言う。
「西側一階も、使えるのは一部だ」
「そうでしょうね」
エッダは壁へ近づき、石の隙間へ指を入れた。
土がぼろぼろと落ちる。
「目地が抜けています」
「直せますか?」
「材料があれば」
「何が必要ですか?」
「石灰。砂。水。それと木材」
「村にありますか?」
「少しなら」
「足りない分は?」
「石は川辺。砂も取れます。木材は森ですが……」
エッダは灰の森の方角を見る。
「奥へは入れません」
「村の近くの木だけで足りますか?」
「すぐには無理です。倒木を集めて、使えるものを選びます」
「お願いします」
「……わたしに?」
エッダが目を見開く。
「家の修理や木工ができるって、昨日聞きました」
「少しだけです」
「僕より詳しいですよね?」
「それは、まあ……」
「だったら、どこから直すか教えてください」
エッダは答えなかった。
領主から命令されることは想像していた。
木を切れ。
屋根を直せ。
部屋を用意しろ。
そう言われると思っていた。
だが、目の前の少年は。
教えてほしいと言った。
「まず」
エッダは建物の西側を指さした。
「屋根です」
「はい」
「雨が入る状態では、床や壁を直してもまた腐ります」
「なるほど」
「ただ、屋根へ上がる前に柱と梁を調べます。支えが弱ければ、人が乗っただけで落ちます」
「はい」
「東側は近づかないでください。もう直すより、崩した方がいいかもしれません」
「崩す?」
「一度解体して、使える石を西側の補修へ回します」
アルフレッドは崩れた東棟を見た。
壊れたものを元へ戻す。
それが《修繕》だと思っていた。
けれど。
全部を元通りにすることだけが、直すことではない。
「分かりました」
「よろしいのですか?」
「危ないまま残す方が困ります」
「領主館が小さくなりますよ」
「今は、大きくなくていいです」
アルフレッドは村の方を振り返った。
二十二人が暮らす、小さな村。
「雨を防げて、皆さんが集まれる場所があれば十分です」
エッダの表情がわずかに変わった。
それから袖をまくる。
「では、今日は調査だけです」
「はい」
「領主様は中へ入りません」
「え?」
「ガルドさんから聞きました。昨日倒れたそうですね」
「もう大丈夫です」
「リーナにも、走るなと言われていましたよね」
「聞いてたんですか?」
「村は狭いですから」
「……分かりました」
ガルドが満足そうに腕を組んだ。
「よし。監督役が増えたな」
「僕が領主なのに……」
「だから止める奴が必要なんだ」
⸻
その日の午前。
村人たちは領主館の周囲から草を刈り始めた。
ただし建物の内部へ入るのは、エッダと数人だけ。
ガルドが危険な場所を確かめ、バルドが過去の館の構造を思い出しながら説明する。
アルフレッドは少し離れた石の上へ座り、ノエルと一緒に必要なものを書き出していた。
「屋根材」
ノエルが帳面へ記す。
「木材」
「はい」
「石灰、砂、縄、釘」
「釘は村で作れますか?」
「鍛冶設備が使えれば」
「鍛冶場も壊れているんですよね」
「炉は残っているそうです。ただし、ふいごが壊れていると」
「それも直さないと」
「優先順位を決めましょう」
「優先順位?」
「全部を同時にはできません」
ノエルは新しい頁を開いた。
「現在、最も必要なものから並べます」
アルフレッドは村を見下ろした。
昨日直した井戸。
壊れかけた柵。
草に埋もれた畑。
煙の少ない家々。
「一番は、柵です」
「理由は?」
「村を守れないと、ほかを直しても壊されます」
「分かりました。次は?」
「水」
「井戸は直しましたが」
「井戸は一つだけです。壊れたら困ります」
「予備の水源を調べる、と」
「はい」
「次は?」
「食べ物」
「畑ですね」
「それと、冬までどれくらいあるか知りたいです」
「三か月ほどです」
「三か月……」
短い。
王都の屋敷では、冬の食料を心配したことなどなかった。
倉庫にはいつでも小麦があり、厨房には肉や野菜が届いていた。
けれど、ここでは違う。
「領主館より、畑が先かもしれません」
アルフレッドが言った。
ノエルは少し驚いた顔をした。
「本当に、自分の住居を後回しにするのですか?」
「雨が降る前に、一部屋だけ使えるようにできれば大丈夫です」
「ですが領主としての体裁が――」
「体裁って、お腹いっぱいになりますか?」
「なりません」
「魔物を止められますか?」
「止められません」
「じゃあ、あとです」
ノエルは帳面へ何かを書き加えた。
「何を書いたの?」
「アルフレッド様の発言です」
「書かなくていいですよ」
「王国開拓局への報告に使えるかもしれません」
「使わないでください」
「検討します」
⸻
昼近く。
丘の下からマルタが上がってきた。
「アルフレッド!」
呼び捨てだった。
その声だけで、何かあったのだと分かる。
アルフレッドは石から立ち上がった。
「セルマが?」
「目を覚ました」
「本当ですか!」
「走るんじゃない!」
言われるより早く、アルフレッドは丘を駆け下りようとした。
しかしガルドに襟をつかまれる。
「歩け」
「でもセルマが!」
「逃げねえよ」
「また寝ちゃうかもしれない」
「なら起きるまで待て」
「ガルドさん!」
「歩け!」
結局。
アルフレッドはガルドに襟をつかまれたまま、早足で村へ戻ることになった。
⸻
マルタの家へ入ると、セルマは寝台の上で身体を起こしていた。
背中には丸めた毛布が置かれている。
左手で木の杯を持っているが、指先はまだ震えていた。
「セルマ!」
アルフレッドが近づく。
「アルフレッド様……」
「起きて大丈夫なの?」
「はい」
「傷は?」
「大丈夫です」
「それはマルタさんが決めるんだよ」
「お前も昨日まで同じことを言ってたじゃないか」
マルタが呆れた声を出す。
「僕は少し違います」
「どこがだい」
アルフレッドは答えず、セルマの隣へ座った。
「水、飲めた?」
「はい」
「ご飯は?」
「まだです」
「お腹は?」
「空いていません」
「食べないと駄目だよ」
「……はい」
「歩いちゃ駄目だよ」
「はい」
「スキルも――」
「セルマはスキルを使ってないだろう」
ガルドが後ろから口を挟む。
「そうでした」
セルマは二人のやり取りをぼんやりと見ていた。
やがて、窓の外へ視線を向ける。
「ここが……灰境ですか」
「うん」
「アルフレッド様の領地」
「僕たちの家になる場所だよ」
その言葉に、セルマは少しだけ目を伏せた。
「私も……ここにいて、よろしいのですか」
「もちろん」
「ですが、私はヨーレリヒト家の奴隷です」
「違うよ」
アルフレッドは即座に答えた。
「首輪があります」
「それは外す」
「所有権は、奥様に――」
「そんなの関係ない」
「関係はあります」
セルマの声は弱い。
けれど、はっきりしていた。
「私がここにいれば、追手が来ます」
部屋の空気が静かになる。
「アルフレッド様へ、迷惑が掛かります」
「もう来るかもしれねえ」
ガルドが言った。
「首輪が場所を知らせている」
セルマの顔が強張った。
左手が無意識に首輪へ触れようとする。
「触るな」
ガルドが止めた。
「術式が動くかもしれん」
「申し訳、ありません」
「謝る必要はねえ」
「ですが……」
「セルマ」
アルフレッドが少女を見る。
「君は、ここまで来たんだよ」
「……はい」
「僕と約束したから?」
「はい」
「だったら、今度は僕が約束を守る番だ」
「何を……」
「君を追い返さない」
セルマの右目が揺れた。
「ここにいていい」
「でも」
「迷惑が掛かるからって、一人で森へ戻ったら怒るよ」
「私は――」
「本気で怒るからね」
十二歳の少年にしては、珍しく強い声だった。
セルマは言葉を失う。
「僕はもう、君がどこにいるか分からなくなるのは嫌だ」
その言葉だけは、少し震えていた。
「だから」
アルフレッドはセルマの左手を取る。
「ここにいて」
セルマはしばらく俯いていた。
やがて。
ほんのわずかに、頷いた。
「……はい」
⸻
その頃。
灰境へ続く古い街道。
倒れかけた境界石の前に、二頭の馬が止まっていた。
黒い外套を着た男が馬から降り、地面へ膝をつく。
古い車輪の跡。
複数の馬の蹄。
そして、街道脇の草に残った血。
「ここを通ったな」
もう一人の男が、手の中にある小さな金属盤を見る。
盤の中央では、赤い針が北東を指している。
「間違いない」
「距離は?」
「近い」
男は灰色の山々を見上げた。
その先には、村の煙がかすかに見えている。
「逃亡奴隷だけでいいのか」
「奥方からの命令は二つだ」
金属盤を持つ男が答える。
「奴隷を連れ戻すこと」
「もう一つは?」
赤い針が、細かく震える。
「アルフレッド様が、本当に灰境へ到着したか確かめること」
「確認したあとは?」
「次の命令を待つ」
二人は再び馬へ乗った。
「村へ入るのか?」
「日中は避ける」
「では」
「夜まで待つ」
馬たちは街道を外れ、深い森の中へ入っていく。
その姿は、木々の影へ静かに溶けた。
灰境の村では。
壊れた領主館を直すための、最初の相談が始まっている。
しかし。
村を囲む森の中にはすでに、別の目的を持つ者たちが入り込んでいた。
⸻
第15話 壊れた領主館 了




