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男爵家四男の辺境開拓記 ~不遇スキル《修繕》と《清掃》で、みんなの帰る場所を作ります~  作者: 和泉發仙
第二章 灰境

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15/53

壊れた領主館

第二章 灰境


第15話 壊れた領主館







前書き


家は、


屋根と壁だけでできているわけではありません。


雨を防ぎ、


風を防ぎ、


疲れた人が帰ってくる。


そんな場所になって初めて、


建物は家になります。


たとえ今は、


壊れかけていたとしても。


⸻


 翌朝。


 アルフレッドが目を覚ますと、窓の外はまだ薄暗かった。


 灰境の朝は、王都よりも静かだった。


 馬車の音もない。


 遠くで鳴る鐘もない。


 聞こえてくるのは、風に揺れる木々の音と、どこかの家で薪を割る乾いた音だけ。


 アルフレッドは床へ敷いた毛布の上で身体を起こした。


 少しだけ頭が重い。


 けれど、昨日のような目眩はなかった。


 すぐ横の寝台では、セルマが眠っている。


 夜のうちに熱は少し下がったらしい。


 頬にはまだ苦しそうな色が残っているが、呼吸は昨日よりも深く、規則正しくなっていた。


 左手は毛布の外へ出ている。


 アルフレッドはその手へ触れようとして、途中で止めた。


 眠っているなら、起こさない方がいい。


「起きたなら、まず水を飲みな」


 奥の部屋からマルタの声がした。


「はい」


 机の上には、昨夜のうちに用意されていた木の杯がある。


 アルフレッドが水を飲んでいると、薬草の束を抱えたマルタが出てきた。


「頭は?」


「少し重いです」


「吐き気は?」


「ないです」


「手足は動く?」


 アルフレッドは両手を握り、足の指を動かした。


「動きます」


「なら、昨日よりはましだね」


 マルタはセルマの額へ手を当てる。


「この娘も、熱は下がり始めてる」


「助かりますか?」


「昨日も言っただろう」


「セルマが生きることを諦めなければ、ですよね」


「覚えてたのかい」


「大事なことなので」


 マルタは小さく息を吐いた。


「今のところ、すぐに命がどうこうという状態ではないよ。ただし、傷が多い。身体も弱り切ってる」


「どれくらい休めばいいですか?」


「最低でも数日は寝かせる」


「数日で動けるんですか?」


「動けるのと、動いていいのは別の話だよ」


「分かりました」


「あんたも同じだからね」


「僕も?」


「昨日倒れたことを、もう忘れたのかい?」


「忘れてません」


「なら今日は、力を使わない」


「少しなら――」


「使わない」


「見るだけなら?」


「何をだい」


「領主館です」


 マルタの手が止まった。


「……あれを見に行くのかい?」


「僕の家になる場所なので」


「昨日見ただろう。壊れてたじゃないか」


「遠くからしか見てません」


「近くで見ても壊れてるよ」


「どこが壊れているか、分からないと直せません」


 マルタはしばらくアルフレッドを見つめた。


 やがて諦めたように肩を落とす。


「一人では行かない」


「はい」


「ガルドかバルドを連れていく」


「はい」


「勝手に《修繕》を使わない」


「……はい」


「今、間があったね」


「使う前に相談します」


「最初からそう言いな」


⸻


 マルタの家を出ると、村はすでに動き始めていた。


 男たちは昨日壊れた柵を調べ、女性たちは井戸から水を汲んでいる。


 修繕された滑車は今朝も滑らかに回り、桶を軽々と引き上げていた。


「領主様!」


 井戸のそばにいたリーナが、アルフレッドを見つけて駆けてくる。


「もう起きていいの?」


「少しだけなら」


「頭、痛くない?」


「ちょっとだけ」


「じゃあ、走っちゃ駄目だよ」


「うん」


「転んじゃ駄目だよ」


「気をつけるね」


「また倒れちゃ駄目だよ」


「それは頑張る」


 そこまで言うと、後ろからエッダがやって来た。


「こら、リーナ。領主様に偉そうに言わないの」


「でも昨日倒れたよ?」


「それはそうだけど……」


 エッダは困ったようにアルフレッドへ頭を下げる。


「申し訳ありません」


「大丈夫です。全部そのとおりだから」


 アルフレッドが答えると、リーナは得意そうに胸を張った。


「ほら!」


「ほら、じゃないよ」


 エッダは娘の肩をつかみ、井戸の方へ連れ戻す。


 その様子を見ながら歩いていると、村の入口からガルドが戻ってきた。


 腰には剣。


 肩には外套。


 朝早くから周囲を見回っていたらしい。


「起きたのか、アル坊」


「はい」


「身体は?」


「大丈夫です」


「それはマルタが決める」


「少しなら歩いていいと言われました」


「少し、だぞ」


「領主館を見に行きます」


 ガルドの眉が動いた。


「今からか?」


「はい」


「休む気はねえのか」


「歩くだけです」


「お前の歩くだけは信用ならねえ」


「力を使う前に相談します」


「使わねえとは言わないんだな」


「直せるところがあったら、直したいので」


 ガルドは大きく息を吐いた。


「俺も行く」


「ありがとうございます」


「礼を言うところじゃねえ。監視だ」


⸻


 領主館は、村の北東にある小高い丘の上へ建っていた。


 村の広場から見れば、それほど遠くない。


 だが、丘へ続く道は草と蔦に覆われていた。


 かつては石を敷いた道だったらしい。


 地面のところどころから、苔に覆われた平たい石が顔を出している。


「最後に人が住んでいたのは、いつですか?」


 アルフレッドが尋ねる。


 一緒に来たバルドが、杖で蔦を払いながら答えた。


「十年以上前じゃ」


「前の領主様?」


「前の前じゃな」


「前の人は?」


「村の空き家へ入った」


「どうして領主館を使わなかったんですか?」


「屋根が落ちとったからじゃ」


「その人は直さなかったんですか?」


「三日で帰った」


「三日……」


「魔物の声が聞こえたと言ってな」


「村に住んでいる人は、毎日聞いているのに?」


「ああ」


 バルドは感情のない声で答えた。


「その前の領主は十二日。その前は一か月ほどおった」


「一番長くいた人は?」


「二年じゃ」


「その人はどうなりました?」


「冬に病で死んだ」


 アルフレッドは足を止めた。


「ここで?」


「ああ」


「家族は?」


「王都へ帰った」


「お墓はありますか?」


「村の西にある」


「あとで、お参りしたいです」


 バルドは一瞬だけアルフレッドを見た。


「知り合いでもないじゃろう」


「僕より前に、ここで領主をしていた人ですから」


「……そうか」


 それ以上、バルドは何も言わなかった。


⸻


 丘の上へ着くと、領主館の全体が見えた。


「わあ……」


 アルフレッドは思わず声を漏らす。


「遠くから見るより壊れてるね」


「だから言っただろうが」


 ガルドが呆れたように答えた。


 もともとは二階建ての石造りだったらしい。


 正面には幅の広い階段。


 その上には、半分外れた木製の扉。


 左右へ伸びる建物のうち、西側は比較的形を保っている。


 しかし東側は屋根が完全に落ち、二階の壁も一部崩れていた。


 窓には硝子がない。


 枠から蔦が伸び、建物の内側へ入り込んでいる。


 庭だった場所には背の高い草が生え、倒れた石像が半分埋まっていた。


「ここに住む気か?」


 ガルドが尋ねる。


「僕の領主館なんでしょう?」


「形だけはな」


「なら住みます」


「簡単に言うな。崩れるかもしれねえぞ」


「だから調べます」


 アルフレッドは正面階段へ足を掛けた。


 石の一部がぐらりと揺れる。


「止まれ」


 ガルドが襟をつかみ、後ろへ引き戻した。


「今、踏んだところが沈んだぞ」


「少しだけです」


「少し沈む階段は危ねえんだよ」


 ガルドは剣の鞘で石段を何度か叩いた。


 表面は残っているが、その下の土が流れ、空洞になっている。


「横から入るぞ」


「入口があるんですか?」


「壁に大きな穴が開いてる」


「それは入口って言うのかな……」


⸻


 西側の壁には、人が一人通れるほどの穴が開いていた。


 崩れた石が地面へ積み重なっている。


 ガルドが先に入り、天井と床を確認する。


「足元に気をつけろ」


「はい」


「上も見るんだ」


「はい」


「何か音がしたら、すぐ外へ出ろ」


「はい」


「返事だけはいいな」


 建物の中は薄暗かった。


 割れた窓から差し込む朝日が、舞い上がる埃を照らしている。


 床には枯れ葉。


 動物の足跡。


 鳥の羽。


 壁際には、壊れた棚や椅子が積み上がっていた。


「ここは何の部屋だったんですか?」


「客間だったはずじゃ」


 バルドが答える。


「昔は村の相談事も、ここで聞いとった」


 アルフレッドは室内を見回した。


 天井の一部は黒く変色している。


 雨漏りの跡。


 壁には緑色の苔。


 床板の隙間から、小さな草まで生えていた。


「《清掃》なら――」


「待て」


 ガルドが即座に止める。


「何を見る」


「まず、この部屋に何が残っているかです」


「埃を取るだけか?」


「はい」


「壁や天井へは使うな」


「どうして?」


「腐った梁まできれいにしたつもりで、支えを消したらどうする」


 アルフレッドは目を瞬いた。


「そんなことになるかな?」


「ならねえ保証があるか?」


「……ありません」


「なら、小さな範囲からだ」


「分かりました」


 アルフレッドは入口近くの床へ手をかざした。


「《清掃》」


 淡い光が、足元から円を描くように広がる。


 ただし昨日のように、部屋全体を一気に包もうとはしない。


 自分の周囲。


 手が届く程度の範囲だけ。


 床に積もった埃が薄くなっていく。


 枯れ葉や動物の糞が一か所へ集まり、黒ずんだ汚れが剥がれた。


 その下から、本来の床板が姿を現す。


「止めろ」


 ガルドが言った。


 アルフレッドはすぐに力を止めた。


「身体は?」


「大丈夫です」


「頭は?」


「痛くないです」


「なら、少し休め」


「まだこれだけですよ?」


「これだけで休む癖をつけろ」


「……はい」


 バルドが清掃された床へ杖を置き、軽く押した。


「ここは生きとるな」


「使えますか?」


「床板はな。じゃが、その先は駄目じゃ」


 少し奥。


 汚れの下から現れた床板には、大きな腐食が広がっている。


 アルフレッドが近づこうとすると、ガルドが肩をつかんだ。


「踏むな」


「分かってます」


「今、踏もうとしただろ」


「少し見たかっただけです」


「目は足より前についてる。そこから見ろ」


⸻


 客間を出て、建物の内部を順番に調べていく。


 厨房。


 食堂。


 倉庫。


 使用人の部屋。


 どこも荒れていた。


 それでも、西側の一階部分は完全に崩れてはいない。


「ここなら使えそうです」


 アルフレッドが足を止めたのは、食堂だった。


 客間より広い。


 長い卓は壊れているが、壁と天井は残っている。


 窓枠も半分ほど無事だった。


「どう使うつもりだ?」


「皆さんが集まれる部屋にします」


「領主の食堂だぞ」


「二十二人なら入れるでしょう?」


「入れるかどうかの話じゃねえ」


「村の相談とか、開拓の話をする場所が必要です」


 アルフレッドは部屋の中央へ立った。


「昨日は外でご飯を食べました。でも雨が降ったら、皆で集まれません」


「集会所がある」


 バルドが言った。


「子どもと老人を避難させた石蔵じゃ」


「狭くないですか?」


「狭い」


「冬は?」


「寒い」


「なら、ここを直した方がいいです」


 ガルドがアルフレッドを見る。


「自分の部屋より先にか?」


「僕はマルタさんの家の床でも寝られます」


「マルタ婆さんが迷惑する」


「誰が婆さんだい」


 来ていないはずのマルタの声が聞こえた気がして、三人は一瞬黙った。


「……とにかく」


 アルフレッドは続ける。


「一人で使う部屋より、皆さんが使う部屋の方が先です」


「また格好いいことを言って倒れるんじゃねえぞ」


「今回は一人で直しません」


「どうする」


「皆さんに手伝ってもらいます」


 アルフレッドは床へ転がっていた壊れた椅子を持ち上げる。


 片脚が外れている。


 背もたれには亀裂が入り、座面は埃だらけだった。


「まず、使えるものと使えないものを分けます」


「ほう」


「汚れは僕が《清掃》します。でも全部を一度にはしません」


「それから?」


「木材や石を運ぶのは、皆さんにお願いします」


「修繕は?」


「大きく壊れた場所には、先に新しい材料を入れてもらいます」


 アルフレッドは椅子の外れた脚を元の位置へ合わせる。


「僕の《修繕》だけで、何もないところから全部作るのは無理です」


 試すように、椅子へ意識を向ける。


 欠けた木片。


 外れた脚。


 緩んだ接合部。


 残っているもの同士を、元の形へ戻す。


「《修繕》」


 淡い光が椅子を包む。


 外れていた脚が座面へ引き寄せられた。


 亀裂が少しずつ閉じる。


 表面の細かな欠けまでは戻らない。


 失われた部分が多すぎるからだ。


 それでも椅子は、再び四本の脚で立った。


 アルフレッドは手を離す。


「完成ではないです」


 椅子を軽く揺らす。


 少し軋む。


「でも、補強すれば使えます」


 バルドが椅子を確かめた。


「壊れたものを直すのではなく、直せる状態へ戻すのか」


「たぶん、そういうこともできます」


「たぶんか」


「まだ分からないことが多いので」


 ガルドは椅子を見ながら頷いた。


「その考えなら悪くねえ」


「本当?」


「何でも自分一人でやろうとしないならな」


「昨日、教えてもらったので」


「昨日一日で忘れなかったのは褒めてやる」


「ありがとうございます」


「だが今日は、もうスキルを使うな」


「椅子一つだけですよ?」


「一つ使ったから終わりだ」


「少なすぎませんか?」


「昨日使いすぎた分だ」


「……分かりました」


⸻


 三人が館の外へ出ると、丘の下から数人の村人が上がってきた。


 先頭にいるのはエッダだった。


 肩に斧。


 腰には縄と小さな金槌。


 その後ろにはグレゴールと、何人かの若者が続いている。


「エッダさん?」


「領主館を見ると聞きました」


 エッダは建物を見上げる。


「中へ入ったんですか?」


「はい」


「天井が落ちるかもしれないのに?」


「ガルドさんが先に確認してくれました」


「全部は確認できてねえ」


 ガルドが言う。


「西側一階も、使えるのは一部だ」


「そうでしょうね」


 エッダは壁へ近づき、石の隙間へ指を入れた。


 土がぼろぼろと落ちる。


「目地が抜けています」


「直せますか?」


「材料があれば」


「何が必要ですか?」


「石灰。砂。水。それと木材」


「村にありますか?」


「少しなら」


「足りない分は?」


「石は川辺。砂も取れます。木材は森ですが……」


 エッダは灰の森の方角を見る。


「奥へは入れません」


「村の近くの木だけで足りますか?」


「すぐには無理です。倒木を集めて、使えるものを選びます」


「お願いします」


「……わたしに?」


 エッダが目を見開く。


「家の修理や木工ができるって、昨日聞きました」


「少しだけです」


「僕より詳しいですよね?」


「それは、まあ……」


「だったら、どこから直すか教えてください」


 エッダは答えなかった。


 領主から命令されることは想像していた。


 木を切れ。


 屋根を直せ。


 部屋を用意しろ。


 そう言われると思っていた。


 だが、目の前の少年は。


 教えてほしいと言った。


「まず」


 エッダは建物の西側を指さした。


「屋根です」


「はい」


「雨が入る状態では、床や壁を直してもまた腐ります」


「なるほど」


「ただ、屋根へ上がる前に柱と梁を調べます。支えが弱ければ、人が乗っただけで落ちます」


「はい」


「東側は近づかないでください。もう直すより、崩した方がいいかもしれません」


「崩す?」


「一度解体して、使える石を西側の補修へ回します」


 アルフレッドは崩れた東棟を見た。


 壊れたものを元へ戻す。


 それが《修繕》だと思っていた。


 けれど。


 全部を元通りにすることだけが、直すことではない。


「分かりました」


「よろしいのですか?」


「危ないまま残す方が困ります」


「領主館が小さくなりますよ」


「今は、大きくなくていいです」


 アルフレッドは村の方を振り返った。


 二十二人が暮らす、小さな村。


「雨を防げて、皆さんが集まれる場所があれば十分です」


 エッダの表情がわずかに変わった。


 それから袖をまくる。


「では、今日は調査だけです」


「はい」


「領主様は中へ入りません」


「え?」


「ガルドさんから聞きました。昨日倒れたそうですね」


「もう大丈夫です」


「リーナにも、走るなと言われていましたよね」


「聞いてたんですか?」


「村は狭いですから」


「……分かりました」


 ガルドが満足そうに腕を組んだ。


「よし。監督役が増えたな」


「僕が領主なのに……」


「だから止める奴が必要なんだ」


⸻


 その日の午前。


 村人たちは領主館の周囲から草を刈り始めた。


 ただし建物の内部へ入るのは、エッダと数人だけ。


 ガルドが危険な場所を確かめ、バルドが過去の館の構造を思い出しながら説明する。


 アルフレッドは少し離れた石の上へ座り、ノエルと一緒に必要なものを書き出していた。


「屋根材」


 ノエルが帳面へ記す。


「木材」


「はい」


「石灰、砂、縄、釘」


「釘は村で作れますか?」


「鍛冶設備が使えれば」


「鍛冶場も壊れているんですよね」


「炉は残っているそうです。ただし、ふいごが壊れていると」


「それも直さないと」


「優先順位を決めましょう」


「優先順位?」


「全部を同時にはできません」


 ノエルは新しい頁を開いた。


「現在、最も必要なものから並べます」


 アルフレッドは村を見下ろした。


 昨日直した井戸。


 壊れかけた柵。


 草に埋もれた畑。


 煙の少ない家々。


「一番は、柵です」


「理由は?」


「村を守れないと、ほかを直しても壊されます」


「分かりました。次は?」


「水」


「井戸は直しましたが」


「井戸は一つだけです。壊れたら困ります」


「予備の水源を調べる、と」


「はい」


「次は?」


「食べ物」


「畑ですね」


「それと、冬までどれくらいあるか知りたいです」


「三か月ほどです」


「三か月……」


 短い。


 王都の屋敷では、冬の食料を心配したことなどなかった。


 倉庫にはいつでも小麦があり、厨房には肉や野菜が届いていた。


 けれど、ここでは違う。


「領主館より、畑が先かもしれません」


 アルフレッドが言った。


 ノエルは少し驚いた顔をした。


「本当に、自分の住居を後回しにするのですか?」


「雨が降る前に、一部屋だけ使えるようにできれば大丈夫です」


「ですが領主としての体裁が――」


「体裁って、お腹いっぱいになりますか?」


「なりません」


「魔物を止められますか?」


「止められません」


「じゃあ、あとです」


 ノエルは帳面へ何かを書き加えた。


「何を書いたの?」


「アルフレッド様の発言です」


「書かなくていいですよ」


「王国開拓局への報告に使えるかもしれません」


「使わないでください」


「検討します」


⸻


 昼近く。


 丘の下からマルタが上がってきた。


「アルフレッド!」


 呼び捨てだった。


 その声だけで、何かあったのだと分かる。


 アルフレッドは石から立ち上がった。


「セルマが?」


「目を覚ました」


「本当ですか!」


「走るんじゃない!」


 言われるより早く、アルフレッドは丘を駆け下りようとした。


 しかしガルドに襟をつかまれる。


「歩け」


「でもセルマが!」


「逃げねえよ」


「また寝ちゃうかもしれない」


「なら起きるまで待て」


「ガルドさん!」


「歩け!」


 結局。


 アルフレッドはガルドに襟をつかまれたまま、早足で村へ戻ることになった。


⸻


 マルタの家へ入ると、セルマは寝台の上で身体を起こしていた。


 背中には丸めた毛布が置かれている。


 左手で木の杯を持っているが、指先はまだ震えていた。


「セルマ!」


 アルフレッドが近づく。


「アルフレッド様……」


「起きて大丈夫なの?」


「はい」


「傷は?」


「大丈夫です」


「それはマルタさんが決めるんだよ」


「お前も昨日まで同じことを言ってたじゃないか」


 マルタが呆れた声を出す。


「僕は少し違います」


「どこがだい」


 アルフレッドは答えず、セルマの隣へ座った。


「水、飲めた?」


「はい」


「ご飯は?」


「まだです」


「お腹は?」


「空いていません」


「食べないと駄目だよ」


「……はい」


「歩いちゃ駄目だよ」


「はい」


「スキルも――」


「セルマはスキルを使ってないだろう」


 ガルドが後ろから口を挟む。


「そうでした」


 セルマは二人のやり取りをぼんやりと見ていた。


 やがて、窓の外へ視線を向ける。


「ここが……灰境ですか」


「うん」


「アルフレッド様の領地」


「僕たちの家になる場所だよ」


 その言葉に、セルマは少しだけ目を伏せた。


「私も……ここにいて、よろしいのですか」


「もちろん」


「ですが、私はヨーレリヒト家の奴隷です」


「違うよ」


 アルフレッドは即座に答えた。


「首輪があります」


「それは外す」


「所有権は、奥様に――」


「そんなの関係ない」


「関係はあります」


 セルマの声は弱い。


 けれど、はっきりしていた。


「私がここにいれば、追手が来ます」


 部屋の空気が静かになる。


「アルフレッド様へ、迷惑が掛かります」


「もう来るかもしれねえ」


 ガルドが言った。


「首輪が場所を知らせている」


 セルマの顔が強張った。


 左手が無意識に首輪へ触れようとする。


「触るな」


 ガルドが止めた。


「術式が動くかもしれん」


「申し訳、ありません」


「謝る必要はねえ」


「ですが……」


「セルマ」


 アルフレッドが少女を見る。


「君は、ここまで来たんだよ」


「……はい」


「僕と約束したから?」


「はい」


「だったら、今度は僕が約束を守る番だ」


「何を……」


「君を追い返さない」


 セルマの右目が揺れた。


「ここにいていい」


「でも」


「迷惑が掛かるからって、一人で森へ戻ったら怒るよ」


「私は――」


「本気で怒るからね」


 十二歳の少年にしては、珍しく強い声だった。


 セルマは言葉を失う。


「僕はもう、君がどこにいるか分からなくなるのは嫌だ」


 その言葉だけは、少し震えていた。


「だから」


 アルフレッドはセルマの左手を取る。


「ここにいて」


 セルマはしばらく俯いていた。


 やがて。


 ほんのわずかに、頷いた。


「……はい」


⸻


 その頃。


 灰境へ続く古い街道。


 倒れかけた境界石の前に、二頭の馬が止まっていた。


 黒い外套を着た男が馬から降り、地面へ膝をつく。


 古い車輪の跡。


 複数の馬の蹄。


 そして、街道脇の草に残った血。


「ここを通ったな」


 もう一人の男が、手の中にある小さな金属盤を見る。


 盤の中央では、赤い針が北東を指している。


「間違いない」


「距離は?」


「近い」


 男は灰色の山々を見上げた。


 その先には、村の煙がかすかに見えている。


「逃亡奴隷だけでいいのか」


「奥方からの命令は二つだ」


 金属盤を持つ男が答える。


「奴隷を連れ戻すこと」


「もう一つは?」


 赤い針が、細かく震える。


「アルフレッド様が、本当に灰境へ到着したか確かめること」


「確認したあとは?」


「次の命令を待つ」


 二人は再び馬へ乗った。


「村へ入るのか?」


「日中は避ける」


「では」


「夜まで待つ」


 馬たちは街道を外れ、深い森の中へ入っていく。


 その姿は、木々の影へ静かに溶けた。


 灰境の村では。


 壊れた領主館を直すための、最初の相談が始まっている。


 しかし。


 村を囲む森の中にはすでに、別の目的を持つ者たちが入り込んでいた。


⸻


第15話 壊れた領主館 了

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