約束の場所
第二章 灰境
第14話 約束の場所
前書き
約束とは、
必ず守れると分かっているから、
交わすものではありません。
遠く離れても。
道を見失っても。
もう歩けないと思っても。
それでも、そこへ行くと決めること。
待つ者と、
歩き続ける者。
その二人が再び出会ったとき、
約束は帰る場所になるのです。
⸻
村の灯りが、一つずつ消えていく。
夕食を終えた村人たちは、それぞれの家へ戻っていた。
見張りを任された者だけが、松明を手に村の周囲を巡回している。
昼間に修繕された西側の柵は、夜の闇の中でも不自然なほど真っ直ぐに立っていた。
そのほかの柵は傾き、風が吹くたびに頼りない音を立てている。
静かな夜だった。
森狼が襲ってきたことなど、まるで夢だったかのように。
だが、村人たちは安心していなかった。
灰境の夜は、静かだからこそ恐ろしい。
枝が折れる音。
草を踏む音。
遠くで鳴く獣の声。
その一つひとつが、魔物の接近を告げているかもしれないからだ。
「今日は寝ない方がいいかもしれんな」
村の入口に立ったグレゴールが、暗い街道を見ながら呟いた。
片手には猟弓。
腰には短剣。
狼との戦いで傷ついた矢を、使えるものと使えないものへ分けている。
「眠らなければ、明日動けんぞ」
隣に立つバルドが答えた。
「交代までは休め」
「分かってる」
そう言いながらも、グレゴールの視線は森から離れない。
狼たちを操っていた、灰色の異物。
森の奥から魔物たちが追い出されているという話。
これまでとは違う何かが始まっている。
長く灰境で暮らしてきた二人には、それが分かっていた。
そのとき。
村の中から、犬の吠える声が響いた。
「ワンッ!」
一度。
「ワンッ、ワンッ!」
二度。
普段よりも高く、落ち着きのない声だった。
グレゴールが弓を持ち直す。
「また狼か?」
「いや」
バルドは耳を澄ませた。
「村の外じゃ」
痩せた村犬が、柵の隙間を抜けて街道の方角へ走っていく。
「おい!」
グレゴールが呼び止めても、犬は戻らなかった。
何度か振り返りながら吠え、二人を呼ぶように再び闇の中へ進んでいく。
「何か見つけたようじゃな」
「待ってろ。松明を取ってくる」
「開拓隊にも声を掛けろ」
数分後。
グレゴールとバルドは、ガルドたちとともに村の外へ出た。
先頭を歩くのは、村犬だった。
犬は街道の脇へ近づくと、草むらへ鼻先を突っ込み、しきりに鳴き始める。
「何かいるぞ」
護衛のエリックが槍を構えた。
ガルドが片手を上げ、全員の足を止める。
「人か、獣か」
「分かりません」
「囲め。飛び出してきても慌てるな」
松明が掲げられる。
赤い光が、街道脇の草を照らした。
最初に見えたのは、泥に汚れた足だった。
破れた靴。
傷だらけの脚。
その先に、人が倒れている。
「人だ!」
グレゴールが草を掻き分ける。
そこに横たわっていたのは、一人の少女だった。
黒い肌。
泥と汗で固まった白髪。
左目を覆う、汚れた布。
力なく地面へ投げ出された左腕。
そして。
右肩から先には、何もなかった。
「ダークエルフ……」
エリックが息を呑む。
少女の首には、黒い金属の輪が嵌められている。
飾りではない。
それが何を意味するのか、誰の目にも明らかだった。
「奴隷か」
バルドが低く呟く。
ガルドは少女のそばへ膝をついた。
首筋へ指を当てる。
「脈はある」
「息もしています」
衛生兵のマルクが少女の瞼を確認し、頬へ触れた。
「熱が高い。ひどい脱水です」
「傷は?」
「足に複数。古いものと新しいものが混じっています。左脇腹にも……」
マルクが破れた外套を少し持ち上げる。
その下には、血の滲んだ布が巻かれていた。
「獣にやられた傷ではありません」
「刃物か?」
「おそらく」
ガルドの目が細くなる。
少女の外見。
欠けた右腕。
覆われた左目。
奴隷の首輪。
そして、王都を出る前に渡された一枚の手配書。
そこに記されていた特徴と、あまりにもよく似ている。
「……セルマ」
ガルドが名前を口にした。
ノエルが驚いて顔を上げる。
「まさか」
「あの坊主が探していた娘だ」
「ヨーレリヒト家から逃亡したという?」
「ああ」
「では、王都へ報告を――」
「今は運ぶ」
ガルドは即座に言った。
ノエルは口を閉じる。
「ですが」
「このまま置けば、夜を越せねえ」
「……承知しました」
「話は生かしてからだ」
ガルドは少女の身体を持ち上げようとした。
その瞬間。
セルマの首輪が、かすかに赤く光った。
「ぐっ……」
意識を失っているはずの少女が、苦しそうに身を震わせる。
首輪から伸びた赤い線が、黒い肌の上へ浮かび上がった。
「触るな!」
ガルドが手を離す。
セルマの身体が地面へ落ちそうになるのを、マルクが支えた。
「何が起きた?」
「首輪の術式です」
ノエルが松明を近づけ、金属輪へ目を凝らす。
「所有者から一定以上離れた場合や、命令へ逆らった場合に罰を与える型でしょう」
「外せるか」
「ここでは無理です。鍵だけでなく、魔術的な解除が必要です」
「このまま運べば?」
「動かすたびに反応する可能性があります」
全員が黙り込んだ。
村までの距離は遠くない。
だが、この少女が耐えられるかどうかは分からない。
セルマは荒い息を繰り返している。
額から汗が流れ、唇は乾ききっていた。
「置いてはいけん」
バルドが言った。
「じゃが、動かすこともできんのか」
「板を持ってきます」
グレゴールが村の方を振り返る。
「戸板へ寝かせて、揺らさずに運べば」
「やるしかねえな」
ガルドは頷いた。
「急げ」
⸻
村の中。
マルタの家では、アルフレッドが寝台へ横になっていた。
眠らなければならない。
頭では分かっていた。
それでも、なかなか眠れない。
窓の外から聞こえる森の音が気になる。
灰色の菌糸。
おかしくなった森狼。
壊れた領主館。
二十二人の領民。
考えることが多すぎた。
それに。
(セルマ……)
灰境へ来ると言った少女。
街道で見つけた布の切れ端。
途中まで追ってきていた足跡。
彼女は今、どこにいるのだろう。
無事だろうか。
街道を間違えていないだろうか。
「早く寝な」
薬草を整理していたマルタが、振り返らずに言った。
「目を閉じています」
「目を閉じてるだけで眠ってないだろう」
「どうして分かるの?」
「呼吸で分かる」
「薬師ってすごいですね」
「感心してないで寝な」
「はい」
アルフレッドは毛布を引き上げる。
そのとき。
外から、慌ただしい足音が聞こえてきた。
「マルタ!」
扉が強く叩かれる。
「起きてるか!」
「そんな音を立てたら、起きてなくても起きるよ!」
マルタが扉を開ける。
そこに立っていたのは、戸板を運ぶグレゴールと護衛たちだった。
「怪我人だ!」
「中へ!」
アルフレッドは寝台から身体を起こした。
「怪我人?」
「寝てな!」
マルタが振り返って怒鳴る。
だが、運び込まれた少女の姿が見えた瞬間。
アルフレッドの動きが止まった。
汚れた白髪。
失われた右腕。
左目を覆う布。
何度も見た、細い横顔。
「……セルマ?」
声が震えた。
少女は答えない。
「セルマ!」
アルフレッドは寝台から降りた。
足元がふらつく。
それでも壁へ手をつき、少女のそばへ歩いていく。
「どうして……」
「街道脇で倒れてた」
ガルドが答えた。
「村の犬が見つけた」
「生きてる?」
「生きてる。だが弱ってる」
「セルマ」
アルフレッドは、戸板の横へ膝をついた。
触れることをためらう。
頬も。
手も。
あまりにも傷つき、少し触れただけでも壊れてしまいそうに見えた。
「本当に来たんだ」
約束どおり。
遠い灰境まで。
一人で。
追われながら。
傷つきながら。
アルフレッドは唇を噛んだ。
「馬鹿だよ……」
声が掠れる。
「こんなになるまで来なくても……」
「約束したんだろ」
ガルドが静かに言った。
「え?」
「この娘と、ここで会うって」
「うん」
「だったら、来るだろうよ」
アルフレッドは目元を袖で擦った。
「マルタさん」
「今から診る。あんたは邪魔だから下がってな」
「僕の《修繕》で――」
「駄目だ」
ガルドが肩をつかむ。
「でも、傷がたくさんあります」
「お前は今日一度倒れてる」
「少しくらいなら」
「少しで済む傷に見えるか?」
アルフレッドは答えられなかった。
セルマの身体には、目に見えるだけでも無数の傷がある。
擦り傷。
切り傷。
靴擦れ。
首輪の周囲には赤黒い火傷。
脇腹の布からは、今も血が滲んでいた。
どれを直し、どこまでなら自分の力が届くのか。
分からない。
「まず、わたしたちに任せな」
マルタが言った。
「血を止める」
「身体を温める」
「水を飲ませる」
「それでも足りないところがあれば、そのとき力を借りる」
「……分かりました」
「本当に?」
「はい」
アルフレッドは戸板から少し離れた。
だが、部屋の外へは出なかった。
隅の椅子へ座り、治療されるセルマを見つめ続ける。
⸻
マルタが傷へ巻かれた古い布を外す。
布の下から現れた傷を見て、顔をしかめた。
「矢かい?」
「短弓でしょう」
マルクが答える。
「鏃は抜けていますが、傷口が塞がっていません」
「自分で抜いたのかね」
「おそらく」
「無茶をする娘だよ」
傷口を湯で洗う。
セルマの身体がびくりと震えた。
「押さえて」
マルタの指示で、マルクとグレゴールが少女の身体を支える。
薬を塗り、新しい布を巻く。
次は足。
靴を脱がせると、血と皮膚が布へ貼りついていた。
「これは……」
マルタが小さく息を呑む。
足の裏が裂けている。
爪の一部は剥がれ、石や枝が傷へ入り込んでいた。
それでも歩き続けた。
灰境まで。
「何日歩いたんだ、この娘は」
グレゴールが呟く。
誰も答えられなかった。
「水を」
マルタが指示する。
セルマの頭をわずかに起こし、濡らした布を唇へ当てる。
一度に飲ませれば、吐いてしまう。
少しずつ。
一滴ずつ。
乾いた唇へ水を含ませる。
「首輪はどうする」
ガルドが尋ねた。
「邪魔だが、触ると術式が動く」
「このままじゃ火傷が広がるよ」
マルタは首輪の周囲を確認した。
「何とか外せないのかい?」
「術式そのものを解除する必要があります」
ノエルが答える。
「王都の魔術師なら可能でしょうが……」
「王都へ連れて行ったら、この娘は捕まる」
「はい」
「ほかに方法は」
「所有者が解除するか、術式を破壊するか」
「壊した場合は?」
「首輪に蓄えられた魔力が、装着者へ流れ込む可能性があります」
「つまり死ぬかもしれねえ」
「否定できません」
アルフレッドは椅子から立ち上がった。
「僕が見ます」
「アル坊」
「使いません」
ガルドを見る。
「見るだけです」
少し迷ったあと、ガルドは肩から手を離した。
「絶対に勝手に使うな」
「はい」
アルフレッドはセルマの首元へ近づいた。
首輪へ手を触れないようにしながら、意識を集中させる。
《清掃》。
まだ発動はしない。
ただ、そこに何があるのかを感じ取ろうとする。
黒い金属。
その内側を流れる魔力。
絡み合った細い糸。
セルマの首へ食い込み、身体の奥へ伸びている。
あの鎖へ掛けられていた固定の魔術より、ずっと複雑だった。
「どうだ」
「いろいろ、くっついてます」
「詳しく言え」
「セルマに必要のないものが、首輪から身体へ入ろうとしてる」
「取り除けるか?」
アルフレッドはすぐには答えなかった。
自分の力を使えば。
もしかすると、術式の一部を消せるかもしれない。
けれど。
どこまでが首輪で、どこからがセルマの身体なのか。
今のアルフレッドには、はっきりと区別できない。
「今は、できません」
悔しさを飲み込み、そう答えた。
「やろうとしたら、セルマまで傷つけるかもしれない」
「それでいい」
ガルドが頷いた。
「できねえと言えるのも、大事なことだ」
「……はい」
「ただ」
アルフレッドは首輪の一部を指さす。
「ここだけ、すごくおかしいです」
「どこだ?」
「この赤く光ったところ」
金属の輪に刻まれた、小さな文字。
暗い赤色の光が、一定の間隔で明滅している。
「罰を与える術式ではありません」
ノエルが目を凝らす。
「では何だ」
「おそらく……位置を知らせています」
部屋の空気が冷えた。
「誰に」
「この首輪の所有者へ」
ガルドは窓の外を見た。
深い夜。
王都へ続く古い街道。
「追手は、この娘が灰境へ着いたことを知ったかもしれねえな」
⸻
治療は夜遅くまで続いた。
傷を洗い。
薬を塗り。
包帯を巻き。
少量の水と、薄い薬湯を飲ませる。
セルマの熱は、まだ高い。
呼吸も浅かった。
それでも、治療を始めた頃よりは苦しそうな表情が和らいでいる。
「今夜が山だね」
マルタが言った。
「目を覚ませば、少し安心できる」
「僕、ここにいます」
アルフレッドが即答する。
「あんたも休まなきゃならないんだよ」
「寝ます」
「どこで」
「椅子で」
「それは寝るとは言わない」
「じゃあ床で」
「そういう問題じゃないよ」
マルタが呆れたように息を吐く。
寝台はセルマへ譲られた。
アルフレッドは隣の床へ毛布を敷き、そこへ横になる。
「本当に、ここで寝るのか」
ガルドが尋ねた。
「うん」
「首輪の件もある。俺たちは見張りに出るぞ」
「分かりました」
「何かあったら、すぐ呼べ」
「はい」
「勝手にスキルを使うな」
「使いません」
「絶対だぞ」
「分かってます」
「さっきから返事が軽い」
「本当に使いません!」
「ならいい」
ガルドたちが部屋を出ていく。
マルタはしばらくセルマの様子を見ていたが、薬の準備をするため奥の部屋へ移った。
室内が静かになる。
小さな蝋燭の炎。
外から聞こえる虫の声。
セルマの浅い呼吸。
アルフレッドは床へ横になったまま、寝台の少女を見上げた。
「来てくれたんだね」
返事はない。
「ちゃんと待ってたよ」
街道へ向けていた視線。
落ちていた白い布。
煙を見上げながら、何度も考えた。
もしかすると、もう会えないのではないかと。
「でも、少し遅いよ」
アルフレッドは小さく笑った。
「僕の方が先に着いちゃった」
セルマの指が、わずかに動いた。
アルフレッドは身体を起こす。
「セルマ?」
少女の唇が震える。
声にはならない。
アルフレッドは寝台のそばへ近づいた。
「水?」
セルマの右目が、ゆっくりと開く。
焦点が合っていない。
ぼんやりと天井を見つめ、次にアルフレッドの姿を捉えた。
「……アル……フレッド、様」
「うん」
「ここは……」
「灰境だよ」
セルマの目が、わずかに見開かれる。
「着いたんだ」
「……はい」
「約束、守ってくれたんだね」
少女の目尻から、一筋の涙が流れた。
「遅く……なりました」
「本当だよ」
アルフレッドは笑おうとした。
けれど、うまくできなかった。
「でも、もう大丈夫」
セルマの左手へ、そっと自分の手を重ねる。
「ここが僕たちの家になるんだ」
「家……」
「うん」
セルマの唇が、ほんの少しだけ緩んだ。
「アルフレッド様……」
「なに?」
「お待たせ……しました」
その言葉を最後に、少女は再び目を閉じた。
「セルマ?」
「眠っただけだよ」
いつの間にか戻っていたマルタが、背後から答えた。
「さっきより呼吸も落ち着いてる」
「助かりますか?」
「この娘自身が、生きることを諦めなければね」
アルフレッドは重ねた手を離さなかった。
「大丈夫です」
「どうして分かるんだい」
「ここまで来たから」
誰にも頼れず。
一人で歩き続け。
傷だらけになっても。
約束した場所まで辿り着いた。
「セルマは、すごく強い人です」
マルタは寝台の少女を見つめた。
しばらくして、小さく頷く。
「そうかもしれないね」
⸻
家の外。
ガルドは暗い街道を見つめていた。
隣ではノエルが、セルマの首輪について帳面へ書き込んでいる。
「位置を知らせる術式は、いつ発動した」
「おそらく、逃走した時点からです」
「なら追手は、ずっとこの娘を追えていたはずだ」
「はい」
「それなのに、十一日も捕まらなかった」
「セルマ殿が街道を避け、森を進んだからでは」
「それだけじゃねえ」
ガルドは西の暗闇へ目を向ける。
「追手は急いでいなかったのかもしれん」
「どういう意味です?」
「逃げた奴隷を捕まえるだけなら、もっと早く動く」
「では」
「あの娘を追っている連中の目的が、ほかにある可能性がある」
ノエルの表情が強張る。
「アルフレッド様?」
「灰境まで逃げさせて、居場所を探らせた」
「まさか」
「考えすぎなら、それでいい」
ガルドは腰の剣へ手を置いた。
「だが、明日から見張りを増やす」
「開拓隊は、物資を引き渡せば帰還する予定です」
「予定は変わることもある」
「王国開拓局へは、何と報告を?」
「新領主が到着直後に倒れ、魔物の群れが村を襲い、逃亡奴隷が転がり込んできた」
ガルドは鼻を鳴らした。
「正直に書けば、調査だけで三日は掛かるだろ」
「それは報告書を遅らせる理由になりません」
「じゃあ、丁寧に書け」
「何枚になりますかね……」
「百枚でも書いてろ」
ガルドは街道の先へ目を凝らした。
闇の向こうに、人影はない。
馬の音も聞こえない。
だが。
誰かが来る。
そんな予感だけが、消えずに残っていた。
村の家の中では。
ようやく約束の場所へ辿り着いた二人が、互いの手を重ねたまま眠っている。
そして、セルマの首輪に刻まれた赤い文字は。
夜の中で。
今も静かに明滅を続けていた。
⸻
第14話 約束の場所 了




