二十二人の村
第二章 灰境
第13話 二十二人の村
前書き
数字だけでは、
人の暮らしは分かりません。
二十二人。
それだけを聞けば、
小さな数字に見えるでしょう。
けれど、その一人ひとりに、
名前があり、
仕事があり、
守りたいものがあります。
領地とは、
地図に引かれた線ではありません。
そこに暮らす人たちのことなのです。
⸻
アルフレッドが目を覚ましたとき、見知らぬ天井があった。
黒ずんだ太い梁。
隙間を埋めるように何度も塗り直された土壁。
窓には薄い布が掛けられ、夕暮れの赤い光がぼんやりと差し込んでいる。
「……ここは?」
身体を起こそうとした途端、頭の奥がずきりと痛んだ。
「起きるんじゃないよ」
すぐそばから、低い女性の声が飛んできた。
アルフレッドは驚いて顔を向ける。
椅子に座っていたのは、白髪交じりの髪を後ろで束ねた女性だった。
年齢は五十を越えているだろう。
日に焼けた手で薬草をすり潰しながら、厳しい目をアルフレッドへ向けている。
「まだ横になってな」
「でも……」
「でもじゃないよ。あれだけ力を使って倒れたんだ。身体が休めと言ってるんだから、言うことを聞きな」
「はい……」
アルフレッドは大人しく毛布へ戻った。
女性はそれを確認すると、木の器へ薬草と水を入れる。
「飲めるかい?」
「飲めます」
「苦いよ」
「大丈夫です」
器を受け取り、一口飲む。
「……苦いです」
「だから言っただろう」
女性は少しだけ笑った。
「わたしはマルタ。薬師と産婆をやってる」
「アルフレッドです」
「知ってるよ。新しい領主様だろう?」
「はい」
「領主様が着いた日のうちに倒れるとは、なかなか景気の悪い始まりだね」
「ごめんなさい」
「謝る相手が違う」
マルタは薬草を包んでいた布を畳んだ。
「心配を掛けた連中に謝りな」
「皆さんに?」
「そうだよ」
窓の外へ視線を向ける。
家の外から、人の話し声が聞こえていた。
鍋を動かす音。
薪を割る音。
子どもたちが走る足音。
「村の者が何度も様子を見に来た」
「僕を?」
「柵を直して倒れた新領主が、死んじゃいないかってね」
「……死んでません」
「見れば分かるよ」
マルタは呆れたように肩をすくめる。
「けれど、次も同じように無茶をすれば分からない」
「気をつけます」
「本当に分かってるのかね」
「たぶん……」
「たぶんじゃ困るよ」
そのとき、家の扉が勢いよく開いた。
「起きたか、アル坊!」
ガルドが大股で入ってくる。
その後ろにはノエルとバルドもいた。
「声が大きいよ!」
マルタが怒鳴る。
「病人のいる家だ!」
「病人じゃねえ。寝不足の馬鹿だ」
「その馬鹿を寝かせてるんだよ!」
「僕、病人じゃないみたいです」
「お前は黙って寝てろ!」
二人から同時に叱られ、アルフレッドは毛布へ首まで潜った。
ノエルが眼鏡の奥で苦笑している。
「ずいぶん元気そうですね」
「もう大丈夫です」
「起き上がれない者は、普通は大丈夫とは言いません」
「そうなの?」
「そうです」
ガルドは寝台の横へ置かれた椅子を引き寄せ、どっかりと腰を下ろした。
「さて」
腕を組み、アルフレッドを見下ろす。
「説教の時間だ」
「やっぱりするんですね……」
「当然だ」
「柵を直さなければ、グレゴールさんが危なかったです」
「分かってる」
「あの狼も、何かおかしくて――」
「それも分かってる」
「じゃあ……」
「だからって、自分がぶっ倒れるまで力を使っていい理由にはならねえ」
ガルドの声は、いつもの豪快さよりも低かった。
「お前が倒れたあと、誰が困ったと思う?」
アルフレッドは答えられなかった。
「ノエルが抱えた」
「はい」
「マルクが診た」
「はい」
「マルタ婆さんが寝床を用意した」
「誰が婆さんだい」
「村の連中は、魔物が戻ってくるかもしれねえ中で、お前のことまで心配した」
「……はい」
「領主はな、自分一人の身体じゃねえ」
ガルドは太い指でアルフレッドの額を軽く小突いた。
「お前が倒れれば、それだけ村の手が減る。助けたつもりで、別の負担を増やすこともある」
「ごめんなさい」
「謝るだけじゃなく覚えろ」
「はい」
「次からは、できることと、できないことを考えろ」
「はい」
「俺たちを使え」
「はい」
「村の大人も使え」
「はい」
「一人で全部やろうとするな」
「はい」
「よし」
ガルドは大きく頷いた。
「説教は終わりだ」
アルフレッドは恐る恐る毛布から顔を出す。
「褒めるのは?」
「……誰から聞いた」
「さっきノエルさんが話してるのが聞こえました」
「起きてたのか、お前」
「少しだけ」
ガルドはノエルを睨んだ。
ノエルは何も聞こえないふりをして、手元の帳面を開く。
「まあ」
ガルドは咳払いした。
「柵を直した判断は悪くなかった」
「はい」
「狼についていた妙なものを落としたのも、助かった」
「はい!」
「調子に乗るな」
「はい……」
「ただし」
ガルドは少しだけ笑った。
「よくやった」
アルフレッドも嬉しそうに笑った。
⸻
「それで、あの狼についていたものは?」
アルフレッドが尋ねると、ガルドの表情が引き締まった。
「焼いた」
「燃えましたか?」
「それが妙なんだ」
バルドが答える。
「薪と一緒に火へ入れたが、なかなか燃えなんだ」
「燃えない?」
「最後には灰になった。だが、臭いがひどかった」
腐った木と濡れた獣皮を同時に焼いたような、鼻を刺す臭いだったという。
燃やしている間、灰色の煙が地面を這い、火の周囲に生えていた草が黒く枯れた。
「やっぱり、普通の汚れじゃないです」
「お前の《清掃》には、何に見えた?」
ガルドに尋ねられ、アルフレッドは少し考えた。
「言葉にするのは難しいです」
「何でもいい」
「あの狼のものじゃない、って感じました」
「狼のものではない?」
「はい。泥や傷は、その狼についていても変じゃないです。でも、あれは……」
胸元へ手を当てる。
「無理やり入ってきたものみたいでした」
バルドとガルドが顔を見合わせた。
「灰の森か」
ガルドが呟く。
バルドは静かに頷いた。
「森がおかしくなってから、獣の様子も変わった」
「いつ頃からです?」
ノエルが帳面へ筆を走らせながら尋ねる。
「はっきりとは分からん。最初は、木の葉が落ちるのが早くなった」
「去年の秋頃?」
「いや。その前の年じゃ」
バルドは記憶を辿るように目を閉じる。
「その次に、森の北側で獲物が減った。鹿も野兎も、南へ下りてくるようになった」
「それで森狼も?」
「おそらくな」
「魔物の数が増えたという話もありましたね」
「増えた。じゃが、増えたというより――」
バルドは言葉を選んだ。
「追い出されているようにも見える」
「森の奥から?」
「ああ」
部屋の中が静かになった。
窓の外では、夕暮れの風が古い板壁を鳴らしている。
アルフレッドは灰の森の方角を思い浮かべた。
村を襲った狼たち。
顔を覆っていた灰色の菌糸。
森の奥に、何があるのだろう。
「行こうとしても駄目だぞ」
考えを見透かしたように、ガルドが言った。
「まだ何も言ってません」
「顔に書いてある」
「見るだけなら……」
「駄目だ」
「森の入口まで……」
「駄目だ」
「遠くから……」
「駄目だと言ってるだろうが!」
マルタが薬草の束を机へ叩きつけた。
「まず寝台から一人で立てるようになってから言いな!」
「はい……」
⸻
しばらくすると、家の外から香ばしい匂いが流れてきた。
肉の匂いではない。
豆と根菜を煮込んだ、素朴なスープの香りだった。
「食事の時間だね」
マルタが立ち上がる。
「起きられるかい?」
「はい」
アルフレッドはゆっくり身体を起こした。
頭痛は残っている。
けれど先ほどよりは軽い。
床へ足を下ろすと、少しだけ目眩がした。
すぐにガルドが腕を差し出す。
「つかまれ」
「一人で歩けます」
「倒れたら今度は縛るぞ」
「つかまります」
家の外へ出ると、夕暮れの村が見えた。
中央の広場には長い板が並べられ、即席の食卓が作られている。
欠けた椀。
形の違う椅子。
丸太を切っただけの腰掛け。
村人たちは食事の準備をしながら、アルフレッドの姿に気づくと次々に手を止めた。
「領主様だ」
「目を覚ましたぞ」
「もう歩いて大丈夫なのか?」
小さな声が広がっていく。
アルフレッドはガルドの腕から手を離し、村人たちへ頭を下げた。
「ご心配をお掛けしました」
誰も返事をしなかった。
どう反応すればいいのか分からないのだ。
やがてグレゴールが人垣の中から前へ出た。
片脚を引きずりながら、アルフレッドの前に立つ。
「頭を上げてくだせえ」
「でも」
「謝るのは、こっちの方です」
「どうしてですか?」
「領主様に柵を直させて、倒れさせちまった」
「僕が勝手にしたことです」
「それでもです」
グレゴールは不器用に頭を下げた。
「あのとき、助けてもらいました」
「怪我がなくてよかったです」
「……ありがとうございます」
短い言葉だった。
けれど、その声には確かな重さがあった。
グレゴールが下がると、今度はリーナが走ってくる。
「おにいちゃん!」
「リーナちゃん」
「起きた!」
「起きたよ」
「お花、見た?」
「うん。ありがとう」
「もう元気?」
「少しだけ」
リーナはアルフレッドの顔をじっと見る。
そして突然、母親のエッダを振り返った。
「お母さん! 領主様、少しだけ元気だって!」
「聞こえてるよ!」
広場に小さな笑い声が起きた。
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
⸻
食事が始まった。
アルフレッドの前にも、豆と芋のスープが置かれる。
パンは硬く、薄かった。
それでも温かい。
「いただきます」
アルフレッドが手を合わせると、隣に座ったバルドが怪訝そうに見る。
「何をした?」
「食事への挨拶です」
「貴族の作法か?」
「僕の……昔からの癖です」
前世の記憶だとは説明できない。
アルフレッドは少し曖昧に笑い、木の匙を取った。
スープを口へ運ぶ。
塩気は薄い。
具も少ない。
けれど、長い旅のあとに飲む温かなスープは、驚くほど美味しかった。
「おいしいです」
鍋を管理していた女性が、目を丸くする。
「本当かい?」
「はい」
「肉も入ってないよ」
「豆が柔らかくておいしいです」
「……そうかい」
女性は照れたように顔を背けた。
食事の途中、ノエルが帳面を広げた。
「食事中に申し訳ありませんが、確認したいことがあります」
「なんじゃ」
バルドが答える。
「王国の古い記録では、この開拓地の住民は六十八名となっています」
村人たちの手が止まった。
「ですが、今日確認できた人数は――」
ノエルは帳面へ視線を落とす。
「二十二名です」
夕暮れの広場へ、重い沈黙が落ちた。
アルフレッドは匙を置く。
「ほかの人たちは?」
誰もすぐには答えなかった。
やがてバルドが、低い声で言った。
「死んだ者もいる」
「……はい」
「村を出た者も」
「はい」
「魔物に襲われた者。冬を越せなかった者。病で亡くなった者」
バルドは広場にいる人々を見回した。
「二十七年前、ここには確かに六十八人いた」
「二十七年……」
「開拓局の記録が更新されとらんだけじゃ」
ノエルは唇を噛んだ。
記録を管理する側の人間として、思うところがあるのだろう。
「申し訳ありません」
「お前さんが謝ることではない」
「ですが、王国は――」
「王国は、ここを忘れた」
バルドの言葉に、誰も反論できなかった。
「だから、二十二人になった」
アルフレッドは食卓を見渡した。
二十二人。
数字として聞けば、少ない。
けれど、今は違って見える。
リーナがいる。
エッダがいる。
バルド。
マルタ。
グレゴール。
今日、柵を守っていた者たち。
食事を作った者。
子どもを抱えて逃げた者。
家の陰からこちらを見ていた者。
その一人ひとりが、ここで生きている。
「名前を教えてもらえますか?」
アルフレッドが言った。
バルドが眉を上げる。
「名前?」
「二十二人、全員の名前です」
「何のために」
「覚えたいからです」
村人たちの視線が集まった。
「領主様が、わしらの名前を?」
「はい」
「そんなもの、覚えなくても――」
「覚えます」
アルフレッドは真っ直ぐに答えた。
「ここが僕の領地なら、皆さんは僕の領民です」
少し考えてから、言葉を言い直す。
「でも、それだけじゃなくて」
村の家々を見る。
傾いた屋根。
草に埋もれた畑。
煙の上がる竈。
「これから一緒に暮らす人たちですから」
バルドはしばらく黙っていた。
やがて、食卓の端に座る人々へ顔を向ける。
「聞いたな」
誰かが、小さく頷いた。
「なら、端から名乗れ」
最初に立ち上がったのは、マルタだった。
「マルタ。薬師と産婆」
次はグレゴール。
「グレゴール。昔は猟師をしてました」
エッダが娘の肩へ手を置く。
「エッダです。家の修理と木工を少し。こちらは娘のリーナ」
「リーナです!」
名乗るたび、ノエルが帳面へ記録していく。
一人。
また一人。
鍛冶仕事をする者。
畑を耕す者。
森で薬草を集める者。
まだ仕事を持たない子ども。
身体を悪くし、以前のようには働けなくなった者。
それぞれが、自分の名前を口にした。
アルフレッドは何度も聞き返した。
間違えれば謝り、もう一度名前を呼んだ。
最後にバルドが名乗る。
「バルド。この村のまとめ役じゃ」
「はい」
アルフレッドは全員の顔を見渡した。
「二十二人」
「ああ」
「全員、覚えます」
「一晩では無理じゃろう」
「じゃあ、明日も聞きます」
バルドは呆れたように息を吐いた。
けれど、その口元にはわずかな笑みがあった。
⸻
食事が終わる頃には、空はすっかり暗くなっていた。
雲の隙間から細い月が見える。
村には灯りが少ない。
広場の焚き火が消えれば、辺りは森と同じ暗闇へ沈んでしまう。
「それで」
ガルドが立ち上がる。
「アル坊をどこへ寝かせる?」
「今夜はこのまま、わたしの家でいい」
マルタが答えた。
「今夜は、ということは?」
ノエルが尋ねる。
村人たちが互いの顔を見た。
「領主館があるんじゃないんですか?」
アルフレッドの問いに、バルドは村の北東を指さした。
暗闇の中。
小高い丘の上に、建物らしき影が見える。
屋根の半分が落ちている。
壁には大きな穴。
片側は蔦に覆われ、まるで長い間森へ飲み込まれ続けているようだった。
「あれじゃ」
「……あれが?」
「灰境の領主館」
「住めますか?」
「雨の降らん夜なら、場所を選べば」
「それは住めると言わねえ」
ガルドが即座に否定した。
アルフレッドは丘の上の廃屋をじっと見つめた。
壊れている。
あちこちが崩れ、窓もない。
普通なら、絶望する光景なのだろう。
けれど。
「明日、見に行きます」
「今日は寝ろ」
「見るだけです」
「明日だ」
「少しだけ――」
「今から行ったら、今度こそ担いで縛るぞ」
「分かりました」
アルフレッドは大人しく頷いた。
それでも視線は、壊れた領主館から離れなかった。
(あれが、僕の家)
帰る場所。
まだ屋根も壁もない。
人が暮らせる状態ではない。
だからこそ。
(直せるところが、たくさんある)
アルフレッドは少しだけ笑った。
⸻
同じ頃。
村から離れた古い街道。
一人の少女が、木々の間をよろめきながら歩いていた。
黒い肌。
汚れた白髪。
左目を覆う布。
空になった右袖。
足元は傷だらけで、靴には血と泥が染み込んでいる。
セルマは木の幹へ手をつき、荒い呼吸を繰り返した。
もう何日まともに眠っていないのか、分からなかった。
食べ物も尽きた。
追手の気配は消えたが、安心する力さえ残っていない。
それでも、森の向こうを見つめる。
夜空へ、細い煙が昇っていた。
村の火。
人がいる。
「……アルフレッド、様」
声は掠れ、ほとんど音にならなかった。
あと少し。
あと少し歩けば。
約束した場所へ着く。
セルマは再び足を前へ出した。
一歩。
もう一歩。
しかし、三歩目は続かなかった。
身体から力が抜ける。
少女は街道脇の草むらへ倒れ込んだ。
遠くで、村犬が吠えた。
セルマの意識は、そこで途切れた。
⸻
第13話 二十二人の村 了




