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男爵家四男の辺境開拓記 ~不遇スキル《修繕》と《清掃》で、みんなの帰る場所を作ります~  作者: 和泉發仙
第二章 灰境

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村を守る柵

第二章 灰境


第12話 村を守る柵






前書き


壊れたものは、


いつでも直せるとは限りません。


壊れてからでは、


間に合わないこともあります。


だから人は、


まだ壊れていないものを守り、


壊れかけているものに気づき、


その手を伸ばすのです。


⸻


「森狼だ!!」


 見張り台から響いた声に、村の空気が一変した。


 先ほどまで遠巻きにアルフレッドを眺めていた村人たちが、一斉に動き始める。


「子どもを集会所へ!」


「鍬じゃ駄目だ! 槍を持ってこい!」


「西の柵を閉めろ!」


 年老いた者も、足を引きずる者も、迷ってはいなかった。


 何度も同じ危険を経験してきた者の動きだった。


「リーナ!」


 娘を抱き寄せた女性が、井戸のそばから駆け出す。


「お母さん、あの犬は?」


「犬じゃないの! 早く!」


 女性――エッダは、裸足の娘を抱えたまま、広場の奥にある石造りの建物へ向かった。


 痩せた村犬も、尻尾を丸めてその後を追う。


「領主様もこちらへ!」


 バルドが叫んだ。


「石蔵へお入りくだされ!」


「でも、皆さんは?」


「わしらは柵を守る!」


「だったら僕も――」


「坊主!」


 ガルドの太い腕が、アルフレッドの肩をつかんだ。


「今のお前にできることは、邪魔にならねえ場所へ下がることだ!」


「でも!」


「戦えねえ奴を守りながらじゃ、こっちも剣を振れねえ!」


 厳しい言葉だった。


 だが、街道でセルマを探そうとしたときにも、同じことを言われている。


 助けたいという気持ちだけで動けば、かえって人を危険へ巻き込む。


 アルフレッドは唇を引き結んだ。


「……分かりました」


「井戸の陰へ行け。ノエル、お前もだ!」


「私は書記官ですが、大人です!」


「なら坊主を絶対に出すな!」


「私がですか!?」


「お前が一番剣を使えねえ!」


「否定できませんが、言い方があるでしょう!」


 ノエルは書類筒を胸へ抱えたまま、アルフレッドとともに井戸の後ろへ下がった。


 その間にも、開拓隊の護衛たちは素早く陣形を整えていく。


 ガルドが西側。


 エリックと二人の護衛が北側。


 マルクは武器を持ちながらも、負傷者へすぐ駆け寄れる位置へ立つ。


 ベンとヘルマンは荷馬車を動かし、村の入口を塞ごうとしていた。


「馬を内側へ!」


「二号車を横にしろ!」


「そんなに急に曲げたら軸がいかれるわい!」


「狼に食われるよりましだ!」


「馬車を壊したら灰境から帰れんぞ!」


「帰る話は生き残ってからしろ!」


 怒鳴り合いながらも、二人の手は止まらない。


 村人たちも武器を取っていた。


 長い槍。


 錆びた剣。


 柄の欠けた斧。


 農具を打ち直したらしい、不揃いの武器ばかりだった。


 その先頭へ出たのは、片脚を引きずった中年の男だった。


 日に焼けた顔。


 伸びた顎髭。


 背には古びた猟弓を負っている。


「グレゴール」


 バルドが低く呼ぶ。


「無理をするな」


「無理をせにゃ、柵の内側まで入られる」


「脚が――」


「狼は、こっちの都合を待ってくれん」


 グレゴールは短く答え、矢をつがえた。


 その隣には、古びた革鎧を着た男が立つ。


 年齢は三十代後半。


 ほかの村人よりも槍の構えが整っている。


「ベルン。北を頼む」


「分かった」


 男はそう答えたが、声はわずかに震えていた。


 かつて兵士だった者の構え。


 しかし長く実戦を離れていた者の目だった。


 アルフレッドは井戸の陰から、森の方向を見た。


 灰色の影が、木々の間を動いている。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 さらに、その奥にも。


「七頭……」


 ノエルが眼鏡の位置を直した。


「いえ、八頭います」


「森狼って、こんなに大きいんですか?」


「通常の狼より一回り大きく、群れで人や家畜を襲います。ただ……」


「ただ?」


「村の近くまで、これほど堂々と出てくるのは妙です」


 森狼たちは、すぐには飛びかかってこなかった。


 低い姿勢でゆっくりと散開し、村の柵を囲むように動いている。


 痩せていた。


 灰色の毛皮は泥で固まり、肋骨の形が浮き出ている。


 けれど、飢えて弱っているようには見えない。


 目だけが異様にぎらついていた。


「来るぞ!」


 ガルドが叫ぶ。


 群れの一頭が走り出した。


 それに続き、左右から二頭。


「射て!」


 グレゴールの矢が放たれる。


 一本目は先頭の森狼の肩へ突き刺さった。


 獣が悲鳴を上げ、地面へ転がる。


 しかし、すぐに起き上がった。


「浅い!」


 グレゴールは次の矢へ手を伸ばす。


 その間に、別の一頭が柵へ飛びついた。


 どんっ!


 朽ちた木柵が大きく揺れる。


 村人たちが槍を突き出した。


 狼は空中で身体をひねり、刃先をかわして地面へ降りる。


 すぐにもう一度。


 どんっ!


 柵の横木へ亀裂が走った。


「そこは駄目だ!」


 バルドが叫ぶ。


「西の柵は、もう持たん!」


 三頭目が加わった。


 腐った支柱が根元から傾く。


 横木を縛っていた縄が弾け、柵の一部が内側へ倒れた。


「破られた!」


 一頭の森狼が、できた隙間へ身体をねじ込む。


 ベルンが槍を突き出した。


 刃先は狼の脇腹をかすめる。


 しかし、仕留められない。


 狼が槍の柄へ噛みつき、激しく頭を振った。


「くっ……!」


 ベルンの手から槍が奪われる。


 獣は村の中へ飛び込んだ。


 その先にいたのは、足を引きずるグレゴールだった。


 次の矢をつがえようとしている。


 だが近すぎる。


「グレゴール!」


 バルドの叫び。


 森狼が地面を蹴った。


 グレゴールは弓を捨て、腰の短剣を抜こうとする。


 間に合わない。


「《修繕》!」


 アルフレッドの声が響いた。


 淡い光が、崩れた柵を包む。


 地面へ落ちていた横木が跳ね上がった。


 折れた支柱の断面が引き寄せられ、元の位置へ戻っていく。


 弾けた縄が、まるで逆向きに時間を進むように絡み合った。


 森狼の身体が隙間を通り抜けた直後。


 柵が閉じる。


 後続の二頭が、復元された横木へ激突した。


 鈍い音が響き、村の外側へ転がる。


 同時に、村へ入った一頭の退路が断たれた。


「今だ!」


 ガルドが走った。


 老人とは思えない速さだった。


 森狼がグレゴールへ牙を届かせる寸前。


 幅広の剣が、横から獣の胴を打つ。


 斬るのではない。


 剣の平で、力任せに殴り飛ばした。


 森狼の身体が地面を転がり、井戸の石積みへ衝突する。


「エリック!」


「はい!」


 駆けつけた若い護衛士の槍が、獣の前脚を地面へ縫い留めた。


 森狼は激しく暴れたが、ガルドが首元へ剣を突きつける。


「動くな」


 獣に言葉が通じるはずはない。


 それでも、ガルドの殺気を感じたのか、森狼は一瞬だけ動きを止めた。


「アル坊!」


 ガルドが怒鳴る。


「下がってろと言っただろうが!」


 アルフレッドは井戸の陰から、柵へ向かって片手を伸ばしていた。


 顔は青ざめ、呼吸が乱れている。


「ご、ごめんなさい……」


 修繕したのは、柵の一部分だけ。


 それなのに、銀の鍵や小さな錠前を直したときとは比べものにならないほど身体が重い。


 額から汗が流れた。


 足元が揺れる。


「アルフレッド様!」


 ノエルが少年の身体を支える。


「大丈夫ですか!?」


「少し、頭が……」


「魔力の使いすぎです!」


 マルクが駆け寄り、アルフレッドの瞼と脈を確認する。


「意識は?」


「あります」


「吐き気は?」


「少しだけ」


「座れ。今すぐだ」


「でも、狼が――」


「今のお前が立っていても、狼は倒せん!」


 マルクに肩を押され、アルフレッドは井戸の根元へ座らされた。


「水を少しずつ飲め。一気に飲むな」


「はい……」


 一方、村の外では残る森狼たちが柵へ飛びかかっていた。


 修繕された部分は持ちこたえている。


 だが別の場所は、どこも腐りかけていた。


「南へ二頭!」


 エリックが叫ぶ。


 ガルドは村へ入り込んだ狼を護衛へ任せ、自ら柵の外へ跳び出した。


「隊長!」


「追うな! 柵を守れ!」


 一頭が牙を剥く。


 ガルドは半歩だけ身体をずらし、飛びかかってきた獣の首筋へ剣を振り下ろした。


 今度は刃だった。


 一撃。


 森狼は声を上げる間もなく崩れ落ちる。


 残る群れが左右から迫る。


 グレゴールの矢が、二頭目の脚を射抜いた。


 ベルンが拾い直した槍で、その進路を塞ぐ。


 開拓隊の護衛たちは互いの死角を補い、柵へ近づく狼を一頭ずつ追い払っていった。


 統制された戦いだった。


 誰か一人が突出しない。


 敵を深追いしない。


 負傷した者が出れば、すぐに別の者が前へ入る。


「一頭、森へ戻ります!」


「追うな!」


 ガルドが叫ぶ。


「群れの動きを見ろ!」


 狼たちは、仲間が倒れたことでようやく怯み始めた。


 低く唸りながら、少しずつ後退する。


 普通なら、ここで逃げる。


 だが群れの奥にいた一頭だけは違った。


 ほかよりも大きい。


 顔の右半分が、灰色の硬い塊に覆われている。


 毛皮へ泥がついているのではない。


 苔とも、瘡蓋とも違う何か。


 その周囲から、薄い黒煙のようなものが揺らめいていた。


「ガルドさん」


 アルフレッドが、息を整えながら声を上げる。


「あの狼……汚れてます」


「森を走ってりゃ、狼は汚れる!」


「違います」


 アルフレッドには分かった。


 川辺でセルマの鎖へ触れたときと、よく似た感覚。


 本来、そこにあるべきではないもの。


 森狼の身体へまとわりつき、内側まで入り込もうとしている異物。


「顔についてるものです!」


 大きな森狼が、突然吠えた。


 その声に反応し、後退しかけていた狼たちが再び向きを変える。


「群れを操ってやがるのか?」


 ガルドが剣を構え直す。


 大狼は仲間の間を抜け、柵へ向かって突進した。


 傷つくことも、死ぬことも恐れていない。


 真正面からガルドへ飛びかかる。


 ガルドが剣を振り上げた。


「待って!」


 アルフレッドが叫ぶ。


「《清掃》!」


 井戸の陰から、大狼へ向かって淡い光が伸びた。


 距離がある。


 これまで、触れずにスキルを使ったことはない。


 光は途中で薄れ、消えかける。


 アルフレッドは歯を食いしばった。


「取れて……!」


 胸の奥から、何かが引き抜かれるような感覚。


 強い目眩。


 それでも、光は大狼の顔へ届いた。


 灰色の塊が脈打つ。


 次の瞬間。


 ぼろぼろと崩れ始めた。


 乾いた泥ではない。


 細い根のようなもの。


 灰色の菌糸。


 小さな黒い虫。


 それらが獣の毛皮から剥がれ落ち、地面へ散った。


 大狼は空中で身体をよじった。


 ガルドの目前へ落下する。


 剣は振り下ろされなかった。


 大狼は地面へ倒れ、苦しそうに何度も頭を振る。


「隊長!」


「待て!」


 ガルドは周囲の護衛を止めた。


 狼の目から、先ほどまでの異様な光が消えている。


 牙を剥いてはいる。


 だが、混乱しているだけだった。


 群れのほかの狼たちも動きを止めた。


 大狼が立ち上がる。


 よろめきながらガルドを見る。


 そして、アルフレッドを見た。


 ほんの一瞬。


 獣と少年の視線が交わる。


 大狼は低く一声だけ鳴いた。


 仲間へ向けた合図のようだった。


 森狼たちは、次々と身体の向きを変える。


 一頭。


 また一頭。


 負傷した仲間をかばうようにしながら、深い森へ戻っていく。


「逃げた……?」


 ベルンが呟いた。


「追わないんですか?」


「追うな」


 ガルドは剣を下ろさないまま答えた。


「村から離れたなら、それでいい」


 最後に大狼が森の手前で振り返る。


 それから、灰色の木々の間へ姿を消した。


 あとに残されたのは、倒れた一頭の森狼と、地面へ落ちた奇妙な灰色の塊だけだった。


⸻


「アル坊!」


 ガルドが村の中へ戻る。


 アルフレッドは井戸の根元で、ノエルに身体を支えられていた。


「はい……」


「何をした?」


「汚れてたから、きれいに……」


「そういうことを聞いてるんじゃねえ!」


「今日、それをよく言われます……」


 力なく笑った直後、アルフレッドの身体が傾いた。


「アルフレッド様!」


 ノエルが慌てて受け止める。


 マルクがすぐに駆け寄った。


「意識を失っただけだ! 寝かせろ!」


「だけ、なのですか!?」


「今のところはな! 毛布を持ってこい!」


 アルフレッドは薄く目を開けた。


「柵……」


「直ってる」


 ガルドが答える。


「グレゴールさんは?」


「怪我はねえ」


「狼は?」


「森へ帰った」


「よかった……」


 それだけ確認すると、アルフレッドは今度こそ目を閉じた。


 寝息が聞こえ始める。


「まったく……」


 ガルドは深い息を吐いた。


「自分の限界を知れと、何度言わせるつもりだ」


「ですが」


 ノエルが、修繕された西側の柵を見る。


「アルフレッド様が柵を直さなければ、グレゴール殿は襲われていました」


「分かってる」


「大狼の異常も取り除きました」


「それも見てた」


「では、褒めて差し上げても――」


「起きてから説教だ」


「説教なのですね」


「先に説教だ。その後で少しだけ褒める」


 ガルドは剣を鞘へ戻した。


 その顔は険しいままだった。


 地面へ落ちた灰色の塊を、ヘルマンが長い火箸でつついている。


「触るなよ」


「分かっとる」


「何だ、そいつは」


「菌か、虫の巣か……儂にも分からん」


 ヘルマンは眉を寄せた。


「じゃが、自然についたもんには見えん」


「森狼が村を襲うようになったのは、いつからだ」


 ガルドがバルドへ尋ねる。


「今年の春頃からじゃ」


 老人は修繕された柵へ手を置きながら答えた。


「それまでも家畜を狙うことはあった。だが村へ正面から来るような真似はせなんだ」


「ほかの魔物は?」


「増えとる」


「どこから」


 バルドは村の北側を見た。


 その先には、灰色の霧に覆われた深い森が広がっている。


「灰の森じゃ」


 風が吹いた。


 木々が遠くで、ざわざわと揺れる。


「森が、おかしくなり始めとる」


⸻


 戦いが終わると、村人たちは少しずつ広場へ戻ってきた。


 石蔵から出てきた子どもたち。


 武器を置く男たち。


 怯えた顔で森を確認する女たち。


 その視線が、一か所へ集まる。


 井戸のそば。


 旅の毛布へ寝かされた、小さな新領主。


 まだ村へ着いて、わずかな時間しか経っていない。


 名前を知ったばかり。


 どんな人物かも分からない。


 それでも、その少年は壊れた柵を直した。


 村人を守るために。


 自分が倒れるまで力を使った。


「本当に……領主様なのかい?」


 エッダが小さく呟く。


「貴族様が、わしらの柵を直した」


 別の老人が答える。


「しかも、あんなに簡単に……」


 グレゴールは、修繕された柵の前へ立っていた。


 自分へ飛びかかろうとした狼。


 目の前で閉じた柵。


 あと一瞬遅ければ、喉を食い破られていたかもしれない。


「助けられたな」


 ベルンが隣へ立つ。


「ああ」


 グレゴールは短く答えた。


 嬉しそうではなかった。


 むしろ苦しそうに、眠るアルフレッドを見つめている。


「十二の子どもに、助けられちまった」


「領主だ」


「だから余計に情けねえ」


「次は、こっちが守ればいい」


 ベルンの言葉に、グレゴールはしばらく黙った。


 やがて、小さく頷いた。


⸻


 リーナが母親の手を離れ、アルフレッドのそばへ近づいた。


「おにいちゃん、寝てるの?」


「こら、リーナ」


 エッダが止めようとする。


 だがマルクは、静かに指を口元へ当てただけだった。


「魔力を使いすぎたんだ。少し眠れば起きる」


「死なない?」


「死なせねえよ」


「ほんと?」


「衛生兵の約束だ」


 リーナは安心したように頷いた。


 そして、アルフレッドの毛布から出ていた手へ、小さな白い花を置く。


 村の外れに咲いていた野花だった。


「井戸、直してくれたから」


 誰に聞かせるでもなく、少女は言った。


「ありがとう」


 その声に応えるように。


 眠るアルフレッドの指先が、ほんの少しだけ動いた。


⸻


 灰境へ到着した初日。


 アルフレッドは領主館へ入ることもなく、村の井戸端で眠ることになった。


 最初に直したのは、自分の家ではなかった。


 皆が使う井戸。


 そして、村人を守るための柵。


 灰境の領民たちはまだ、少年を信じたわけではない。


 ただ――。


 少なくとも、今まで来た領主とは違う。


 そのことだけは、誰もが認め始めていた。


 そして村の北。


 灰の森の奥深くでは。


 森狼の顔から剥がれ落ちたものと同じ灰色の菌糸が、古い木々の根を静かに覆い始めていた。


⸻


第12話 村を守る柵 了

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