第6話 存在の価値
街は金木犀の香りに満ちていた。その甘やかさに、優しさと懐かしさが重なり、秋風が枝を揺らすたびに、ふわりと広がっていく。
震災から3カ月が経ち、ようやく街の喧騒に耳を傾ける余裕も戻ってきた。
真理子の心には、いまだに消えない影が差していた。あの地震の日、窓から見上げた静かな星空と、遠くの実家の暗闇が頭の中で何度も交錯する。電話もつながらず、ただ祈るしかなかったあの日々。
胸の奥に巣食った罪悪感のような重苦しさは、時間とともに深まっていった。実家のことを気にしつつも、真理子は忙しさを言い訳に足を向けないでいた。父親の様態が芳しくないと聞くたびに胸が締めつけられ、母の言葉の裏に隠された期待を感じるたびに息苦しさを覚える。それでも、山積みの仕事に追われながら、今日も看護管理室の一角に身を置き続けていた。
その日、看護管理室の窓から差し込む光がわずかに温かさを感じさせる午後のことだった。真理子は意を決して山本に声をかけた。
「山本副看護部長、少しお時間をいただけますでしょうか」
山本は机の書類に目を落としたまま無言でうなずいた。その態度に気後れしつつも、真理子は言葉を紡ぐ。
「地震から3カ月以上が経ち、実家も少しずつですが落ち着きを取り戻してきました。都会に出る私をいつも心配してくれていた父の様態も芳しくありません。昔から、私のことを一番気にかけてくれていた人です。母からも、できれば一度顔を見せてほしいとも言われています。実家にはもう数年も帰っていません……。もしよければ、1日だけでもお暇をいただけないでしょうか」
静かな声だったが、言葉の奥には説得力があった。
山本はしばらく書類から顔を上げず、机の端を軽く指で弾く音だけが響く。沈黙の後、ゆっくりと顔を上げ、薄く唇を歪めた。
「伊藤さん」
低く静かな声。抑え込んだ冷徹さが、空気を凍らせる。
「あなたが言っていること……聞こえはいいですね」
その声には微笑すら混じっていたが、そこに温かさはひと欠けらもなかった。
「……あなたが帰って、何かできると思っているの? 半壊の家で、あなたが役立つことなんて何もないでしょ。むしろ、ただの負担にしかならないと思いますが」
静かで冷ややかな言葉が、鋭利に真理子の胸を貫いた。さらに間を置かず、山本は続ける。
「お金でも送ってあげたらどうです? その方が、よほど現実的で、喜ばれるんじゃないですか。家族にとって必要なのは、元気な顔なんていう抽象的なものではなく、修理費や生活費でしょう。周りの人も、みんなそう思っていますよ」
その言葉が放たれるたび、真理子は全身を掻きむしられるような感覚に襲われた。「みんな」という漠然とした言葉が、彼女を孤立無援の立場へと追いやる。
山本の言葉は、薄い刃のように胸を深く切り裂き、冷静を装いながら投げかけられた一言一言が、彼女の内側を怒りと悲しみで燃え上がらせる。
「お金を送るだけでいい?」
それは、家族の苦しみも、被災地の状況も、すべてを軽んじる無神経な一言だった。
真理子はしばらく言葉を失った。目を伏せたまま、喉の奥で重く鈍い塊が押し上がるのを感じる。だが、それを飲み込むことはできなかった――山本の言葉は、あまりにも彼女の心を激しく揺さぶった。
真理子は拳を握りしめ、視線を山本に向けた。
「お金を送れば、みんなが喜ぶとでも思うんですか?」
真理子は、いつの間にか声に出していた。その声は震えていたが、止めることはできなかった。
「お金を送れば、地震で亡くなった家族が救われるとでも言うんですか?」
山本は目をそらし、小さく鼻を鳴らした。
その態度に、真理子の胸の奥にあった何かが一気に弾けた。
「馬鹿にしないでください!!」
声にならない叫びが理性を突き破り、机を叩きつけた。
真理子の目には涙が堰を切ったようにあふれたが、それを拭うこともせず、ただ前を見据え続けた。
「あの地震でどれだけの人が苦しんでいるか、山本副看護部長には想像もつかないでしょう。私の家族も、私の地元の人たちも、家を失い、大切な人も喪った。それでも必死に前を向こうとしているんです! そんな人たちに向かって『お金を送ればいい』なんて、あなたはどの立場で言えるんですか! どれだけの人が大切なものを失ったか、少しでも考えたことがありますか!」
山本は無表情を保とうとしたが、真理子の剣幕に押され、思わず言葉を失った。その場の空気が一瞬熱につつまれる。
真理子は少し息を整えたが、さらに言葉を続けた。
「人の痛みをわかったような顔をして、お金だけで済むなんて……そんな考え方で、人の上に立つ資格なんてないと思います。山本副看護部長こそ、自分の言葉がどれだけ人を傷つけているか、少しは考えて下さい」
山本は黙り込む。その沈黙が、真理子の言葉の重さを物語っていた。
真理子は息を吸い込み、肩の力を抜いた。そして、静かに言葉を締めくくった。
「家族のために顔を見せることが何になるかなんて、分からないかもしれません。でも、彼らが求めているのは、そんな簡単な計算で片付けられるものじゃないんです。大切なのは、私が『そこにいる』ということなんです」
山本は再び何かを言おうとしたが、結局、口を閉じた。彼女の手は机の上で動かず、目だけがわずかに揺れていた。
――その瞬間。
看護管理室のドアが開いた。
「どうしたんですか?」
森山看護部長の声は低く冷静だが、明らかな緊張感を含んでいた。
真理子はハッとし、視線を部長に向けた。山本も顔を上げ、わずかに硬直する表情を見せた。
「少し、意見の食い違いがありまして……」
山本が先に口を開いたが、その声はいつもの冷たさを取り繕うように平坦だった。
「ずいぶん大きな声が聞こえましたが、伊藤さん、何か問題でも?」
森山は真理子に視線を向け、まだ収まらぬ怒りを見逃さなかった。
真理子は深呼吸をし、落ち着きを取り戻すよう努めた。
「申し訳ありません。家族のことで……少し感情的になってしまいました」
森山はしばらく聞き、静かに首を縦に振る。
「家族のことなら、なおさら大事なことです。山本さん、どうかもう少し柔軟に対応してあげてください。伊藤さんの抱えている思いを理解することも、看護管理室の一員として重要です」
その声はどこか穏やかでありながら、明確な指示を含んでいた。
山本は無言でうなずく。目の奥には苛立ちが漂うが、それ以上は口にしなかった。
森山は真理子に視線を向け、静かに言葉を続ける。
「伊藤さん、この件については、後で私の部長室に来てください。詳しく話を伺います」
その言葉には厳しさと同時に、どこか配慮が感じられた。真理子は少し驚きながらも、深く頭を下げ、静かに答えた。
「承知しました」
自分がそこにいること。
それだけで誰かの力になれる――その確信が、今の真理子の支えだった。




