第7話 声を届ける勇気
真理子が看護部長室に呼ばれたのは、看護管理室での出来事が収束した直後だった。森山の声にはいつもの柔らかさがあったが、同時に緊張感が漂っていた。
ドアノブに指をかけたとき、真理子はわずかにその手が震えているのに気づいた。心臓の鼓動は耳まで響き、喉は乾ききっている。
深く息を吸い込み、静かに扉を押し開けた。
「伊藤さん、少しお話を伺ってもよろしいでしょうか」
落ち着いた声に促され、部屋の中央の椅子に腰を下ろす。
森山の視線は穏やかでありながらも、真理子の心の奥を見透かすような鋭さを帯びていた。
「今日の看護管理室でのやり取りについて、詳しく聞かせてください」
真理子は机の端に視線を落とし、呼吸を整える。
「はい……少し感情的になってしまい、申し訳ありません」
そう口にすると、胸の奥には重たい靄がかかった。
だが――この機会を逃せば、もう二度と声は届かない。
その思いが、彼女の心を突き動かした。
「実は……山本副看護部長に実家に、帰りたいと相談したとき、とても冷たい言葉を受けました」
喉の奥で乾いた息を押し出す。
「“お金を送ればいい、顔を見せることに意味はない”、と……。その言葉が私の家族や地元の人々を侮辱しているように感じました」
森山はまぶたを伏せ、小さく頷いた。その静けさに支えられるように、真理子の言葉に耳を傾けていた。
「さらに」
真理子は少し躊躇した後、思い切って続けた。
「日頃からも、山本副看護部長には厳しい言葉や理不尽な指示を受けることが多く……。正直、何度も心が押し潰されそうになりました」
声は震えていたが、もう後戻りはできなかった。
「特に会議録の提出について。森山看護部長は『来週でいい』と仰ってくださったのに、山本副看護部長からは『翌日朝一で出せ』と命じられて……。私は、自分の力が足りないからだとずっと思い込んでいました」
その言葉には真理子がこれまで耐えてきた苦しみが込められていた。
森山はしばし目を閉じ、指先を組んだまま沈黙した。
重苦しい静けさに胸が締めつけられ、真理子は呼吸を忘れそうになる。
やがて、低く静かな声が返ってきた。
「伊藤さん……山本さんに、そうした一面があることは、私も感じていました」
真理子は驚きに目を見開いた。
「ただ、山本さんから私に届いていた報告は……全く逆でした」
「逆……ですか?」
「ええ。伊藤さんは要領が悪く、指示を理解できていない――そう報告を受けていました。正直、最初は信じがたい気持ちでした。でも、今のお話を伺って、私が受け取っていた印象は偏っていたのだと気づかされました」
その言葉に、真理子は胸の奥で何かが震えるのを感じた。自分の状況が森山に正しく伝わっていなかった――その事実を突きつけられ、怒りが鋭く胸を刺す。けれど、ようやく声が届いたのだという実感が、静かな安堵となって胸を満たしていった。
森山は真っ直ぐに見つめながら、言葉を重ねた。
「あなたがこれまで、どれほど辛い思いをしてきたか……痛いほど伝わりました。この件については、私の責任でもあります。山本さんには必ず改めて話をします」
森山の誠実な態度に、真理子は深く頭を下げた。
その瞬間、心の奥で渦巻いていた殻に亀裂が入り、剥がれ落ちたような気がした。
――ようやく、『誰かに声が届いた』そう、心の底から思えた。
その夜。真理子は窓辺に腰掛け、星空を見つめていた。震災の夜に見上げた暗闇の空と重なる。
あの時は、ただ祈ることしかできなかった。けれど今は——自分の声を差し出すことができる。
深く息を吸い込み、目を閉じる。
ようやく自分自身を肯定できた気がした。
――少しずつでも、前に進めるかもしれない。
真理子は心の中でそっと呟き、また深く息を吸い込んだ。
「私ができることを、これからも貫いていこう」
呟いた言葉を夜空が受け止めるように、星は静かに瞬いていた。




