第5話 戻れぬ距離と揺れる想い
家族の無事を知らされた真理子は、「よかった」と何度も呟き、涙をこぼした。
安堵が胸を満たす。
長く抱えていた不安が、少しずつほどけていくように感じた。
それでも、心はまだ晴れやかとは言えなかった。報道は落ち着きを取り戻しつつあったが、胸の内には拭いきれない心配が残っていた。
奈々によれば、家族は一時的に避難所で生活していたという。電話の向こうで、彼女は淡々と日々の様子を語った。
「トイレはいつも混んでて……お父さんは、回数を減らそうとして水分も控えてるみたいで……ちょっと心配だったよ」
固い床に雑魚寝で眠った夜、余震のたびに胸をざわつかせたアラーム。
救援物資のパンばかりの食事。熱気と生活臭に包まれ、息が詰まるような空間だった。
電気は比較的早く復旧したものの、冷房や扇風機では真夏の暑さをしのげず、車内で涼を取る人々。
その語りは真理子の胸を締めつけ、胃の奥にズキンと痛みを走らせた。
明るく振る舞う奈々の声の裏には、抑え込んだ疲れと張り詰めた緊張が、痛々しいほどににじみ出ていた。
「それでも、大丈夫だから」
そう繰り返す奈々に、真理子は何度もうなずいた。
――本当に、大丈夫なの? 無理していない?
だが、その問いは口にできなかった。
懸命に生きる家族に、軽々しい気遣いの言葉をかけることは、どこか違う気がした。
やがて、家族が避難所を出て自宅に戻ったという知らせが届いた。『家に帰れた』という、母の声には確かな安堵があった。
しかし、崩れた壁、余震に怯える夜――その光景が脳裏に浮かび、真理子は思わず指先を握りしめた。
もう以前の「日常」ではない。
だからこそ、その先を聞くのが怖かった。
息を呑み、言葉を飲み込む。声の向こうの現実を、まだ受け止めきれずにいた。
――1カ月後。
真理子は意を決して実家に電話をかけた。
受話器の向こうから聞こえる母の声は、変わらず穏やかで懐かしかった。だが、その言葉の端々にはどこか疲れと切なさが影を落としていた。
「家は半壊してて……高価な食器も全部割れてしまったわ」
「窓ガラスも何枚か割れて、水道からはまだ泥水が出るの。屋根の修理はあと一か月以上かかるって」
淡々と連なる事実が、心をいっぱいにする。
「雨の日は大変よ。ブルーシートで応急処置しているけど、隙間から雨が漏れて、天井にはシミができて……このままだとカビも生えそう」
ため息が漏れた。
「お父さんも、この震災で少し弱ってしまって……身体だけじゃなく心も。真理子、無理にとは言わないけど……ほんの少しでもいいから、元気な顔を見せてくれたら、きっとみんな安心すると思うの」
その願いが心を震わす。
弱った父のことも心配だが、それ以上に母の「元気な様子を見せてほしい」と頼む声には、家族の絆や期待が込められているように感じられた。
「……うん」
即答できなかった。
すぐに「帰る」と言いたいのに、その言葉を口にするにはまだ戸惑いがあった。
電話を切ると、真理子は窓辺に立ち、夕暮れの街をぼんやりと見つめた。同じはずの景色が、今日はひどく遠い。
――屋根に上る職人。雨音に耳を澄ます母。
疲れきった表情で椅子に腰を下ろす父の背中。
それらが胸の奥に色を帯びて浮かぶ。
――私はここで、何をしているのだろう。
職場では、山本の視線が相変わらず冷たい。
「伊藤さん、この資料、もっと丁寧にまとめて」
冷たく突き放す口調に、真理子は何も言えず、頭を下げるだけだった。家族への思いと職場の圧力。その狭間で、仕事への情熱が少しずつ削られていく。
――その夜。
書類をめくる手を止め、ふと立ち上がる。夜空を見上げると、小さな星が震えるように瞬いていた。
「どうして私は……すぐに帰ると言えなかったんだろう」
電話越しに聞いた母の声や父の姿を想像すると、言いようのない後悔と切なさが胸を覆いつくす。
真理子はこみ上げる涙を抑えられなかった。
真理子は涙を拭い、ゆっくり深呼吸をして、心を落ち着かせた。
そして思った――
「家族は私の姿を見ることで安心できる。私が帰ることで少しでも元気になれる。私がそばにいることで、ほんの少しでも癒せるなら——」
――私にできることを、精一杯やろう。
祈るような気持ちが、自信に変わっていくとき、肩の力がゆっくり抜けた。
心に宿った思いは、小さくも確かな決意だった。




